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時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

世界を見る目を養う

2009年01月08日 | グローバル化の断面
 
 昨年末のクリスマスカード、そして年賀状の多くが、暗転した世界の状況を憂い、新年に大きな期待をかけていた。とりわけ、まもなくホワイトハウス入りするバラック・オバマへの期待は明らかに過剰になっている。大不況から世界を救い出す救世主が現れたような、手放しの期待である。

 昨年の今頃は「オバマって誰?」という状況だった。しかし、大統領選のさなか、9月にはグローバル金融危機が表面化し、株式市場の急落、雇用悪化などが、中国、インド、ロシアなどを含め、世界のいたるところへ拡大した。それとともに、オバマ候補への支持は絶大なものとなり、いまや世界で知らない人はほとんどいないという大変化だ。

 あっという間にグローバル不況は、回復の姿が見えない状況へ入ってしまった。ノーベル賞を受賞した経済学者ポール・クルーグマンは、大不況下の経済とは、通常の景気対策が機能しない状態だと述べ、「30年代のアメリカ、90年代の日本、そして現在のアメリカ経済だ」という。そして30年代のアメリカとの比較でいえば、(当時のような銀行取り付け騒ぎはないようだがとの問いに)「銀行への取り付けは起きている」として、「それは目には見えないが、銀行の建物の周りに並ぶ代わりに、人々はマウスをクリックしている」と形容した*

 他国よりも底堅いと豪語?していた日本の経済界も、いまやほとんど白旗を掲げている。自動車産業など、国際競争力があると思われた産業、輸出型産業が大きな打撃を受けている。  

 とりわけ雇用問題は急迫している。派遣労働などの制度に問題があることはいうまでもないが、セフティ・ネットが十分張られていなかったことが、短期間に事態を深刻化させた要因のひとつだ。仕事を失ったとたん、ネットに救われることなく、一挙に路頭に迷うことになってしまった。労働市場の流動化促進を金科玉条とした政策の付けが回ってきた。市場経済の奥にひそむ闇を見通せなかったのだ。セフティ・ネットの充実に及び腰だった経営側も、製造業の派遣取り消しの話が出ると、急に態度を変えたり、うろたえ気味だ。

 この寒空に住む家もなく放り出される人々へは、できる限りの支援が提供されるべきだろう。ネットが張りなおされるまで人道的観点が優先されるべきだ。そして張りなおされるネットは、今度こそ、その名に値するものであってほしい。
 
 目前の変化の多様さに目を奪われ、付け焼刃的対応を繰り返すことを止め、明瞭なセフティ・ネットの存在を示すことが必要だ。年金制度にせよ、最低賃金制にせよ、日本の制度は複雑すぎて、分かりにくい。年金記録の被害者の一人としてみると、誤記録発生の原因、そして修正のあり方はきわめて分かりにくい(そして、被害者の側から問題のありかを見いだし、解明するにはとてつもない時間がいる)。混迷した時代、国民に未来への希望を抱かせるような明確なメッセージを持ったビジョンの提示がどうしても必要だ。

 さらに重要と思うのは、自分で考える力を蓄えることではないか。情報過多の時代、多くの誤った情報も流通している。しかし、その正誤は誰も教えてくれない。

 ひとつの例を挙げよう。わずか1年半ほど前、経済やビジネスの世界では、しばしば世界経済は「黄金の10年代」へと手放しの楽観見通しが語られていた。なかには、ほとんどさしたる留保もなく、先行き3年の経済拡大すら予想されていた。それも経済分析のプロを自認する人が語っている。人間の予測能力は限られていることが忘れられている。過去に幾度となく繰り返された誤りである。  

 困ったことに、こうしたプロ?は、TVその他メディアにもよく登場する人が多いだけに、影響力は大きい。今回の大不況に伴う株価大暴落で、老後の資金を失ってしまった人も多いのではないか。現代の呪術の束縛から自らを解き放ち、自分で考え生きていく方向を目指す以外に道はない。世界を見る目を養う。これは自戒をこめて若い世代の人に、伝えたいことだ。



* Newsweek 2008.12.24 (日本版)

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恐慌前夜に考える(4):FDRの一齣

2008年10月27日 | グローバル化の断面

FDRへの関心の高まり
 アメリカ大統領選も大詰め近く、行き着く先がかなり見えてきた。しかし、最後まで予断は禁物。なにが起こるかわからない時代だ。世界中で株価は暴落。日本でも東証日経平均株価は28日、26年ぶりの安値を記録した。

 ところで、アメリカの歴代大統領の中で最も人気がある上位3人とは、誰でしょう。答を先に言ってしまうと、世論調査などの結果をみるかぎり、ジョージ・ワシントン(George Washington 初代)、アブラハム・リンカーン (Abraham Lincoln、第16代) そして、フランクリン・デレノ・ローズヴェルト(Franklin Deleno Roosevelt (FDR)、第32代)ではないかといわれている。

 最初の二人はともかく、FDRも少なくとも上位5人の中には入るとされる(こうした世論調査?の妥当さや詳細については、ここでは取り上げない。FDRの表記についても、日本ではルーズヴェルトが多いが、アメリカ英語ではローズヴェルトに近い。ちなみに第26代大統領のセオドア・ローズヴェルトは従兄弟に当たる)。

 FDRのイニシャルは、昨今の金融危機との関係で、アメリカのメディアに頻繁に登場している。あの大恐慌の時代、「ニューディール」政策を展開した大統領であり、第二次大戦の終結に向けたヤルタ会談の3人、チャーチル、ローズヴェルト、そしてスターリンと、世界史を書き換えた立役者の一人だ。世界史の教科書には必ず出てくるおなじみの顔である。

伝記コーナーから
 ところで、欧米の書店にあって日本ではほとんど見かけないのは、伝記 biography のコーナーだ。あまり好みのジャンルではないので、立ち寄る機会はそれほど多くはないが、何人かご贔屓の人物がいないわけではない。そのひとりがFDRだった。特に際だって好みというわけではなかったが、強く印象に残った。かつてこの時代の労働・社会保障政策の立案過程について多少調べごとをした時に、興味を惹かれて関連文献を読んだ。その折りに当然とはいえ、最も耳目にした人物であった。加えて、指導教授の中にニューディール実施にかかわった人たちが何人かいたので、FDRにまつわる興味深い話をいくつか聞いた。

「私の知るローズヴェルト」
 FDRについての伝記のたぐいは、かなりの数が出版されているが、個人的にはFDR政権下、女性として初めて労働長官を務めたフランシス・パーキンス女史の回想録「私の知るローズヴェルト」 The Roosevelt I Knew* が残した印象が最も強い。

 ひとりの親しい友人として、そして後年閣僚の一人として、FDRを近くで見知っていた女性の回想録だ。伝記ではないこと、そしてFDRびいきであることも彼女自身認めている。

 パーキンス女史は、FDRがニューヨーク州知事の頃に見出され、FDRが大統領に当選後、労働長官として登用され、FDRの任期のほぼすべて12年間にわたり同ポストを務めた。ちなみに、当時の労働長官は、彼女が記しているように、閣僚の中では最も低いポストだった。ワシントンDCの労働省ビル本館は、彼女を記念した名前がつけられている。

評価が分かれた大統領
 FDRは歴代アメリカ大統領の中で、ただ一人四選された人物である。それだけ国民的人気があったといえよう。しかし、ニューディールという、政府が大きくかかわり、しばしば問題を含む政策を次々と実施したこと、ソ連への寛容な対応などもあって、支援者も多いが、批判者や政敵も多かった。アメリカ現代史におけるFDRの評価は複雑だが、比較的人気が高いのは、大恐慌の中からアメリカをなんとか救出した功績によるのだろうか。もっとも、それは第二次世界大戦勃発による軍需景気によるところが大きかったのだが。

 さて、FDRは、四選されてまだ日が浅い1945年4月12日、保養先のジョージア州ウオーム・スプリングスで脳出血を起こし、急死してしまった。大恐慌、第二次世界大戦という未曾有の危機に、アメリカの大統領として絶大な国民的信頼を得ていただけに、国民の衝撃は大きかった。しかし、幸い大戦は間もなく終結に向かう。

 パーキンスは、FDRが急死する二週間ほど前に会った時に、「ヨーロッパの戦争は5月末までに終わるよ」と内緒の話を告げられたと記している。その言葉通り、同年4月30日、ヒットラーはドイツの防空壕で自殺し、5月8日にはドイツ軍無条件降伏の報せが伝わった。そして8月には日本が降伏した。(ちなみに、FDRは戦争が終わり次第、エリノア夫人とともに、イギリスを訪れる予定をもっていたらしい)。

FDR晩年の健康
 FDRの生涯とその時代については、大変興味深い話が多いのだが、ここではパーキンス女史が見た晩年のFDRの健康状態について記してみたい。あまり、他の伝記には出ていない話である。ご存じの通り、FDRの容貌は、ヤルタ会談のチャーチルと並べてみると明らかなように、かなり印象に残るものだ。

 晩年のFDRのについて、パーキンスは次のように語っている:

「大統領の時代、ローズヴェルトは齢を重ねた。皆それは知っていた。われわれも皆年を取った。彼の髪は薄くなり、白くなった。顔の皺も増えた。1933年(大統領就任時)の写真と1940年の写真は驚くほどの違いだ。容貌もふっくらとして、デラノ家の家系に特有の顔つきになって、彼の叔父や母親に似てきた。33-34年の頃は大変似合っていた、あの細身の若者の面影はなくなった。これは座っている仕事が多くなったこと、加齢、働きすぎ、よく食べたためなどの要因が重なったからだ。」(Perkins 388)

 「ローズヴェルトは食欲旺盛だった。何を食べたか気づかないほど、なんでも食べた。好き嫌いなく食べ、食べ過ぎることをあまり心配しなかった。医師たちはいつも少しでも減量させるように努めていた。というのも、体重が多くなり、松葉杖を使うのが難しくなっていた。少しでも体重が減れば、良いと思われた。
 彼は風邪を引きやすかった。加えて、ワシントンは気候がよくない。しかし、閣僚の誰もが風邪を引いたし、時にはかなり寝ついてしまう人も多かった。大統領のちょっとした冗談のひとつは、私は”かよわい女性で”というものだったが、彼自身は風邪で寝つくようなことはなかった
。」(389)
 
 パーキンス女史が見たかぎり、FDRは昨今話題のメタボ状態がかなりひどかったようだ。さらに1944年の冬頃から少しずつ体力を失っていたらしい。実はFDRは大統領に選ばれる前、1921年、小児麻痺に罹病し下肢の自由を失い、松葉杖や車いすの補助なしでは歩行できなくなっていた。座った写真が多いのはそのためだが、FDRはメディアにできるかぎりその事実を隠していた。大きなハンディキャップを負いながらも、長年にわたる激務をこなしていたのは、彼が強靭な精神力の持ち主であったことを示している。それでもヤルタ会談から帰国後の写真を見ると、憔悴の色がありありと感じられる。

危機の時代の政治家
 FDRの大統領としての仕事ぶりについて印象に残るのは、決定と実施の迅速なことだ。とりわけ危機の時代には、政策実行の逡巡や遅滞は、不安や憶測を呼び、予期せぬ結果につながりかねない。

 流行語となった「最初の100日間」の成果が、FDRの政権前半の国民的人気を支えた。未曾有の経済危機の下、図らずも政権交代期を迎えた日米両国。いま、「最初の100日間」になにをなすべきかが問われている。



* 

Frances Perkins. The Rosevelt I Knew. New York: Harper & Row, 1946

FDRに関する数多い伝記や回想の中で、比較的バランスがとれていると思われるのは、ベストセラーともなった下掲の「FDR」かもしれない。最近もPB版が刊行されている。
Jean Edward Smith. FDR. New York: Harper & Row, 1952.

その他関連資料:
William E. Leuchtenburg. Franklin D Roosevelt And The New Deal, 1963.

Robert H. Jackson, William E. Leuchtenburg, and John Q. Barrett That Man: An Insider's Portrait of Franklin D. Roosevelt, 2004

Alan Winkler. Franklin D. Roosevelt and the Making of Modern America, 2006.

Richard D. Polenberg. The Era of Franklin D. Roosevelt, 1933-1945: A Brief History with Documents, 2000.

Joseph P. Lash, Jr Arthur M. Schlesinger, and Franklin D. Roosevelt Jr. Eleanor and Franklin: The Story of Their Relationship, based on Eleanor Roosevelt's Private Papers, 1971.


Frances Perkins を記念するウエッブサイト:
Frances Perkins Center

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恐慌前夜に考える(3)

2008年10月22日 | グローバル化の断面

1930年代大不況の光景から
ブレッドライン(給食)に並ぶ人々

 アメリカ発の金融危機は、瞬く間に中国にも達した。北京五輪の華やかさはどこへやらの光景がいたるところで展開している。
ブログで予想した通りでもある。世界の状況を俯瞰すると、事態はすでに「恐慌」といってもよいのかもしれない。1930年代の大恐慌と今回の「グローバル危機」の類似点、相違点はさまざまに指摘できるが、とりわけ印象的なことは、その浸透・拡大の速さだ。危機は驚くほどの速度で、ヨーロッパ、アジアなど地球全域へ伝わった。背後に、IT技術の発達による情報の伝播の早さがあることはいうまでもない。

 1930年代大恐慌当時、フランクリン・ローズヴェルトが大統領に選出されたのは、1932年11月であった。実際に大統領就任式に臨んだのは翌年の3月である。ローズヴェルトの前の大統領は、アメリカから貧困が消える日が近いことをスローガンに掲げたフーヴァーであったが、皮肉なことに就任1年後に未曾有の恐慌に見舞われることになった。フーヴァ政権の対恐慌政策は実効が上がらなかった。なんとなく、ブッシュ政権と似たところがある。今回の金融危機も、図らずも大統領選と重なっている。

 フーヴァーの後を次いだフランクリン・D・ロースヴェルトは、1932年の大統領候補指名受託の演説で、アメリカ国民の「ニューディール」(新たな再出発)という表現を使い、これが彼の恐慌に対する政策スローガンとなった。選挙戦中にも使われたが、それがいかなるものであるかについては、明瞭な説明はされていなかった。その後、周囲の政策顧問、経済学者などの考えを通して、次第に輪郭が浮かんできた。

 注目すべきことは、1932年11月の大統領選出から翌年3月の就任式までの間、ほとんど経済政策面ではなにもなされることなく推移できたことである。恐慌はこの間も進行していた。この点に関連して、今回の危機で、ポウルソン財務長官は「金融システムは2009年まで持たない」と緊迫した発言をしている。今回の危機の進行速度がいかに速いかを示している。(実際、1929年のウオール街株式暴落後、アメリカ政府が一連の施策を導入するまで、3年近くを要している。)


 1933年3月4日の大統領就任演説で、ローズヴェルトは恐慌が悪化し、銀行倒産が相次ぎ、取り付け騒ぎが起きている状況を前に、「私たちが恐れねばならないことはただひとつ、恐れること自体です」と述べ、国民の不安を取り除こうとした。さらに2日後には議会が特別会期を開催するまでの4日間、全国の銀行を閉店とすることを決めた。「バンク・ホリデー」という名で、彼は国民の不安を和らげたのだ。後にアメリカで過ごした時に、大恐慌を経験した世代の人が、「明日はバンク・ホリデーだから」という時には、特別の意味が込められていることを知った。ローズヴェルトは特別議会が開かれるや、「銀行特別救済法」案を提出、たちまち可決させてしまった。国民の大統領への信頼は急速に高まった。

 さて、今回、中国へも波及した金融危機は、アメリカ市場向けの製品を生産する企業などを中心に、急速に浸透している。労働集約型産業が多い広東省東莞市などに波及、多数の工場閉鎖を引き起こしている。最近の原材料高、人民元高、賃金上昇などが重なり、経営が成り立たなくなったのだ。友人の企業の工場もあるが、対応に大わらわであることは間違いない。近々工場を見せてもらうことになっていたのだが。株も不動産も下降し、消費者心理も急速に冷え込んでいる。中国経済は想定外の成長率の減速ともいわれるが、大不況の経験を考えれば、当然ありうる事態だった。日本経済へもその影響は及ぶ。

 金融危機といっても、金融界の範囲だけで終息するわけではない。信用収縮の過程を通して、実体経済へと不況は波及する。いくら政策的対応がなされても、それが危機拡大に抑止的に働くまでには、かなり長い時間を必要とする。重篤な病状が投薬などの措置によって改善の時を迎えるまでに、一定時間が必要なように。

 実体経済がひとたび不況過程に入り、最終需要の減退、在庫調整、生産調整などのプロセスを経ながら、派生需要である雇用調整の次元にまで及ぶと、元の正常な水準に復元するまでには、それなりの時間が必要だ。今回のようなグローバルな危機となると、もはやV字型回復は予想しがたい。
世界の株式市場が不安定な動きを続けているのは、治療の様子を見極めようとしているのだが、どうも即効性はないらしいと見ているようだ。 フランクリン・ローズヴェルト大統領が就任式、そして離任の時の言葉が思い出される。

「われわれが恐れるべき唯一のことは恐れそれ自体だ」 
"The only thing we have to fear is fear itself."

「強く、活発な信念を持って前へ進もう」
"Move forward with a strong and active faith."

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恐慌前夜に考える(2):深呼吸の時

2008年10月07日 | グローバル化の断面

1930年代大不況の光景から


  この問題に「特効薬はない」 There is no panacea. という表現は、
英語ではよく使われる。今回の金融危機についても、そのまま当てはまりそうだ。そして、高まる不安を前に、「次はなにか」 Whats next? も流行語になりつつある。
 
 アメリカ議会下院が金融安定化法をなんとか可決したことで、暗雲はかなり取り払われるかに見えた。しかし、ニューヨーク株式市場は、1万ドルを割る4年ぶりの低水準でこれに応えた。日本の日経平均株価も10月7日にはついに1万円を割り込んだ。先行きへの不安が急速に拡大している。

 新法は当面の対処にすぎず、危機の解決には不十分だという受け取り方が一般化している。どれだけの実効性があるか、関係者の間でも、かなりの見解の違いがある。市場を覆う大きな不安は払拭されていない。誰にも今回の危機の行き着く先は見えないからだ。

 IT時代、情報流通が迅速化したといっても、世界が見通しやすくなったわけではない。むしろ世界は見えにくくなっている。さまざまな情報が行き交い、多くのプレイヤーがそれぞれに行動する。錯綜した動きが生まれ、予想外の方向へも展開する。サブプライム問題について、1年前、このような展開になることを予想した人は、ほとんどいなかった。
 
 現状が恐慌といわれる状況に当てはまるか否かは、議論があろう。頻繁に起きる現象ではないこともある。しかし、1930年代の世界大恐慌がウオール街の株価大暴落から瞬く間に世界へ拡大したように、今回の金融危機の拡大速度も驚くほど早い。もっとも、危機の潜伏期間はかなりあったのだが、理由なき楽観と対応の遅れが今日を招いた。危機は当面二つの領域で深刻の度を深めている。

 金融不安は震源地のアメリカから大西洋を渡り、ヨーロッパに激震を与えている。ドイツ、フランス、オランダなどで次々と銀行が破綻している。ヨーロッパの金融システムは、多分に脆弱性を残している。預金保護をめぐるアイルランドの対応は、たちまちにしてドイツ、デンマーク、イギリスなどに波及している。しかし、EUとしての統一的対応はまだ生まれていない。

 もうひとつ、経済活動の後退は、金融経済の次元から実体経済へと浸透しつつある。9月のアメリカの自動車販売は前月比マイナス26%、農業以外の雇用もマイナス15万9千人と、大きな減少だった。経済不振は先進国から新興国へも拡大し、すでに香港、ロシア、インドなどへ浸透しつつある。危機感を深めた各国政府はそれぞれに対応しているが、個別の問題への対応はあっても、真の問題がどこにあるかは見えていない。症状は緩和できても、危機から逃避はできない。

 今回の金融危機がいかなる帰結をもたらすかは、現時点では誰もわからない。しかし、少なくも2-3年は予断を許さない危機的状況が継続すると考える論者が多い。
現在の段階では、金融危機の進行途上で、いわば病状は昂進の過程にある。いくつか注目すべき点がある。

 
グローバル化に伴い、国家の制御機能が低下し、アメリカなどが掲げていた金融立国戦略も行き詰まった。カジノ資本主義の発信地、ウオール街は決定的にその信頼を失った。
 

 アメリカの影響力低下は拭いがたいが、「ポスト・アメリカ」の担い手も見えていない。多極化時代の到来ともいわれているが、まだ具体像は描きがたい。北京五輪を踏み台に、「昇竜のごとく」発展するといわれた中国も、環境・食品問題など思わぬことでつまづいている。態勢立て直しに躍起となっているが、かなりの時間がかかることは間違いない。世界金融危機の影響はほどなく、この国へも及ぶだろう。「神船7号」のニュースが、メディアを飾っているが、まもなく画面は大きく変わるはずだ。

 あの失われた10年からなんとか立ち直った日本だが、グローバルな危機から逃れることはできない。株式市場はすでに激震を経験している。あの公的資金の投入でかろうじて救われた銀行は、無理な資金繰りをしなかったことでが幸いし、ダメージが少なかった。この間資金力を蓄えた銀行が、今回のグローバル危機の救済に寄与することは望ましいが、ここにたどり着いた経緯を忘れることはできない。

 見えにくくなかった世界、最も考えねばならないことは、疑心暗鬼が増幅し、不安の連鎖を生むことだ。これだけは避けねばならない。

 グローバルな金融危機の中、個々の人間は嵐に翻弄されるままだ。英誌 The Economist が興味深い比喩を提示している。金融システムは正常に機能している時は、あたかも健康な人が呼吸していることを意識していないように、そこに流れる信用の存在を人々は意識しない。しかし、ひとたび機能不全が起きると、呼吸の重要性に気づくことになる。今は、深呼吸をして、その重要性を十分認識する時だという*。いたずらに不安を増長させることなく、落ち着いて来るべきシステム、カジノ資本主義の後に生まれる世界へ思いを馳せるべき時なのだ。


*  'World on the edge.' The Economist. October 4th 2008.

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恐慌前夜に考える

2008年10月02日 | グローバル化の断面

Ben S. Bernanke Essays on the Great Depression Princeton: Princeton University Pres 2004 (バーナンキFRB議長の大恐慌に関する書籍)


  どうやら「1世紀に1回くらいの危機」とグリーンスパン前FRB議長が述べたといわれる大恐慌の時代に突入してしまったようだ。しかし、大恐慌の研究で経済学者としての地位を確立したバーナンキ議長の存在感が薄いのは、なにを意味するのだろうか。公的発言が少なく、無力感のようなものが伝わってくる。FRBばかりでなく、ワシントンの指導力が著しく後退しているようだ。    

    今年3月、ベア・スターンズがJPモルガン・チェースに合併されて以来、経営破綻する金融機関が続き、金融危機の進行が止まらない。ブッシュ大統領の一時の強気発言はすっかり影を潜め、「戦後最大」、「大恐慌」以来の危機の到来を、臆面なく口にするようになっていた。政権末期レームダック化の色濃いブッシュ政権は、金融機関からの不良資産買い取り制度を盛り込んだ緊急経済安定化(金融安定化)法案成立に最後の期待をかけていたようだ。しかし、9月29日、アメリカ議会下院は、法案を否決してしまった。TV記者会見に現れたブッシュ大統領の顔は一見して疲労、落胆の色が濃かった。もはや、なすすべがないという感じだった。与党の共和党員に造反者が多かったことで、愕然としたのだろう。  

  法案不成立に終わった今、アメリカ議会が冷静に事態を直視、再考し、再度の法案成立に最大限の努力を期待する以外にない。さすがに上院はすでにその方向へ動き、修正案を可決するようだ。そうこうする間に衝撃はアメリカ国内にとどまらず、グローバルな次元へと拡大して世界的に景気後退の色が濃くなっている。ヨーロッパの銀行などは、準備期間が少なかったこともあって、かなり揺れているようだ。

  偶然に過ぎないが、最近このブログで言及したカルヴァン・クーリッジは、1930年代大恐慌直前にアメリカの大統領となった人物であった。マサチュセッツ州知事の時代に、あのボストン市警ストを迅速に収拾し、一躍人気を得て、合衆国第30代大統領に就任した。前大統領時代からの閣僚のスキャンダルを解決し、繁栄の時代を率いる好運に恵まれた。この時代、産業界もそれまでの粗野で横暴な資本家、経営者のイメージから脱却しようと、「高賃金経営」、「社会的責任」、「産業民主主義」、「福祉資本主義」などの新語が頻繁に使われていた。   

  1920年代、アメリカは空前の繁栄を享受していた。ベーブルースのホームランに熱狂し、ヘビー級ボクサー、デンプシーの強打に沸いた。リンドバーグの単葉機「セントルイスの魂」のニューヨーク・パリ飛行に全国民が熱狂した。「ジャズの時代」、「もぐり酒場の時代」、「咆哮する20年代」、そして「グレート・ギャツビーの時代」でもあった。   

  大統領クーリッジは、自由放任主義を奉じ、ビジネスのための政府を標榜した。その目指すところは、政府はできるだけなにもしない小さな政府だった。実際、彼に与えられた賛辞は、「時間を浪費せず、無駄な言葉を使わず、公的資金を使わない」"never wasted any time, never wasted any words, and never wasted any public money."というものだった。幸い、活発な産業の発展などに支えられ、経済的には「クーリッジの繁栄」と呼ばれる時代を迎えた。国民の生活水準も上昇を続け、社会的にも活気に満ちた1920年代であった。   

  だが、クーリッジは決して存在感のある大統領ではなかったが、時代の風に恵まれたのだろう。自分の限界に気づいたのか、1928年になると、第3期への出馬について意欲を示さず、ハーバート・フーバーが共和党大統領候補としてバトンを受け継ぎ、大統領選で大勝を収めた。フーバーは。貧しい農民の子から鉱山技師、億万長者、大戦中の「偉大な人道主義者」、商務長官、政府高官、大統領と文字通りアメリカン・ドリームを体現した人物だった。大恐慌に際して、その回避になすこともなく過ごした大統領として名前が残っているが、その生涯はなかなか興味深い。                             

  フーバーは大統領の執務に没頭し、アメリカのために誠心誠意、寝食を忘れて働くという人物であったが、過酷な運命が彼を待っていた。就任後7ヶ月経過した1929年10月、ウオール街株式大暴落が起きる。その後の経緯はよく知られたとおりである。実体経済は大打撃を受け、経済活動は極度に停滞、失業者が累増した。ニューディールの時代を経て、世界は第二次大戦へと急速に突入していった。   

  「大恐慌」当時と比較すると、今日では金融政策についての経験、理論も十分に蓄積されている。最近の相次ぐ金融機関の破綻についても、1929年「大恐慌」当時のように、銀行淘汰の過程と拱手傍観することなく、衝撃をなんとか最小限に吸収しようと応急措置がとられてきた。しかし、9月25日住宅金融大手ワシントン・ミューチュアルまで破綻し、JPモルガン・チェースが買収するところで、もはや業界内部で問題を吸収しようとする対応は限界だということが素人目にも分かるようになった。金融安定化法案は残された唯一の有力な政策手段となった*。   

  ブッシュ政権もここまで来ると公的資金注入以外に、救済手段はないことも認識したのだろう。しかし、それが思わぬ形で頓挫した今、もはや残された力をふるって、予定した路線への
復元努力を期待するしかない。世界が大きな危機から脱却する道は、当面他にはないのだから。   

  恐慌期には政治的空白は禁物だ。無為に過ごす空白期間が長引くほど、不安がさらに新たな不安を増幅する。「大恐慌」の研究を経済学者としての出発点としたバーナンキFRB議長にとっては、まさか自分が当事者となるとは考えもしなかったろう。1930年代の大恐慌と今回の恐慌前夜との異同は、十分認識しているはずだ。    

  経済活動には、自然現象と異なり、当事者自身がプレーヤーとなって先を読み動くという特徴がある。財政・金融当事者もすべての可能性を読みきれない。サブプライム問題も、ここまで現実が複雑化し、泥沼状態になっているとは、金融・保険の当事者でさえ読みきれなかった。ましてや個人の家計は、自らに責任のない暴風雨にさらされようとしている。かつて公的資金の投入で生き返った日本の金融機関が、この好機?を逃すまいと活動しているのも、国民の側からみると複雑な思いだ。政府は、景気後退の衝撃を極力防ぐとともに、山積する課題へしっかりとした路線を示してほしい。政争に明け暮れ、日本のあるべき方向と政策を示しえず、朝令暮改の日々を国民に押し付けるのはお断りだ。   

  図らずも大恐慌の中に生きた人々のイメージが浮かんでくる。恐慌は過去の映像だけの記憶であってほしい。


* この記事の後、10月3日アメリカ議会下院は上院に続き、修正した金融救済法案を賛成263、反対171で可決した。

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患者も国境を越えて

2008年08月23日 | グローバル化の断面
    グローバル化の進展は、当然ながら医療、健康の分野の人材移動にまで及んでいる。その一端はこのブログでも折に触れて、紹介、分析を加えてきた。国境を越えてインターネット上で情報の授受が可能なカルテの事務処理・解析、X線画像読影などは、すでにかなり前から大きなビジネス分野になっている。IT上での診断、手術指導なども行われている。

  そして、これも以前からかなり注目を集めてきたのは、医師、看護師、介護士など、医療・看護スタッフの開発途上国からのリクルートである。 さらに、近年顕在化してきたのは、患者自身の国際移動である。この動き、メディアは「メディカル・トゥーリズム」medical turism と称している。治療を受けるために患者が国境を越えて、他国での治療を受けることがその内容である。

  特に最近増えているのは、アメリカ人で医療保険に加入していない人(約4500万人との推定もある)あるいは保険金が低額しか期待できない人の海外治療であるようだ。他方、富裕層が海外で休暇を過ごす傍ら、美容クリニック、整形治療などを受けることも多いらしい。彼らが目指すのはシンガポール、バンコク、クアラルンプールなどのアジア、あるいはメキシコ、ハイチ、ドミニカなど、ラテン・アメリカの病院である。この頃は在外インド人などで、本国へ戻って治療を受ける者も多いという。インド国内の医療水準が顕著に向上したことも、ひとつの理由らしい。EU諸国は総じて国内の医療システムに依存しているようだが、NHS改革後も問題の多いイギリスからは、トルコ、インド、ハンガリーなどの病院で治療を求める患者の移動増加が指摘されている。 

  シンガポール、バンコクなどでの動きについては、以前にも記したが、最近注目される動きとしては、タイ、バンコクのブムルングラッド病院 Bumrungrad hospital が、6000人の外国人患者を受け入れる世界最大を誇示するアネックスを開設した。アメリカ、中東諸国などからの患者増加を期待しているようだ。

  こうした海外の病院で受ける治療の安全性、医療の質的内容などでは問題点が指摘されているが、経済的問題を抱えた当事者にとっては残された唯一の選択肢となっていることも多い。

  さまざまな形での差別化が同時進行しており、シンガポールの病院などでは、医療設備、スタッフともに世界最高水準とPRしているところもある。国際的な医療サービスの認定機関から、「お墨付き」を得て、医療につきものの治療の安全性、質的保証への不安解消に努めている。最寄り空港からの送迎サービスに始まり、高級ホテル並みの滞在サービス、そして最高の医療サービスをうたっている。最近、東南アジアに居住の場を移した友人から、現地病院で前立腺がんの治療を受けた話を聞いたが、インフォームド・コンセントの問題を含めて、医療の内容には大変満足していた。

  現在の段階では、こうしたメディカル・ツーリズムを生んでいる最大の動機は、富裕層の場合は別として、おおかたは患者として医療コストの大幅軽減が見込めることにあるようだ。医療費高騰が激しいアメリカでは、同じ治療を海外で受ければ、本国の15%程度ですむとの試算すらある。企業によっては、医療費削減のために従業員の海外での治療を支援・促進する方策を導入しているところさえ出ている。

  アメリカでは、2012年までに1千万人の患者が海外で治療を受けるために旅するのではないかと推定されている。それによって、アメリカ国内の病院収入は減少し、年間1600億ドルの減収が生じるとの推定もある。

  開発途上国で危惧されていることは、自国の希少な医療・看護スタッフが、高い報酬が保証される外国人の患者や一部富裕層対象の病院へと移動し、自国民に対する医療システムが劣化することだ。しかし、海外へ希少な医療・看護スタッフが流出することを、こうした変化が多少なりとも抑制できるならば、頭脳流出を防ぎ、国内に高い技術を維持する医療基盤が根付くことに貢献するかもしれない。実際、中南米諸国の一部では、民間病院ではあるが、医療水準の改善に伴い、海外へ流出した医療人材がUターンしてくる事例も増えているとの変化も生まれている。

  こうした一連の医療関係者、患者の国境を越える移動が、開発途上国にとって、全体として「頭脳流出」 brain drain となるのか、外国人患者増加による病院収入増などによる「ネットゲイン」 net gain となるのか、現段階では情報が不足しており、あまり明らかではない。しかし、将来を見越して、アメリカのメイヨ・クリニック、ジョンズ・ホプキンス大学などのように、中東やアジアへ拠点を築こうと動いているところもある。

  開発途上国に置かれた拠点的病院から高い技術があふれ出る「スピルオーバー」効果を生めば、地域の医療水準向上という点で長期的には望ましい結果につながることも考えられる。バンコクやシンガポールの一部の病院のように、世界最先端のIT技術を導入し、加えての医療人材コストの優位性(ある推定では、病院医療コストに占める比率でみて、アメリカの55%に対して18%くらい)で、グローバル市場での優位を誇示するところも現れている。

  医療の世界においてもグローバル化が、多様化とともに、さまざまな格差を拡大することは避けがたい。問題は人間として最低限必要な医療サービスを受けられない層をいかに救済するかということにある。 

  現状では、こうした「メディカル・ツーリズム」は、問題を抱えた国の医療システム改善に大きく寄与するとは考えられていない。医療という分野は、言語や移動に伴う問題に加えて、治療の安全性、サービスの質の保証、さらには倫理性などの点で、他の分野とはかなり異なる問題を内在しているからだ。

  しかし、こうした変化の推進者たちは、彼らの試みが競争要因を世界の医療市場へ導入することになり、システム改善への促進要因となると考えているようだ。とりわけ、これまで市場要因が最も働きにくいとされ分野のひとつとされてきた医療領域での新たな動きは、グローバルな医療の世界にかなり顕著な変化を生み出すだろう。看護師・介護士問題を除くと、日本ではあまり注目を集めていないトピックスだが、不可避的に進行するグローバル化の多面的な動向からは目を離せない。



References
'Importing competition' The Economist August 16th 2008
'Operating profit' The Economist August 16th 2008
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アイルランドのような田舎?

2008年07月16日 | グローバル化の断面

  アイルランドが、EUのリスボン条約に「ノー(否)」を突きつけて、「小国の反乱」として大きな話題となっている。チェコ、ポーランドなどの中規模国も同調するかもしれないと、フランス、ドイツなど大国首脳は苦い顔らしい。2005年のオランダのEU憲法条約否決が頭をよぎるのだろう。

  アイルランドと聞くとすぐに思い浮かぶ詩がある。
丸山薫
「汽車に乗って」という詩だ。

汽車に乗って     
あいるらんどのような田舎へ行こう     
ひとびとが祭りの日傘をくるくるまわし     
日が照りながら雨のふる     
あいるらんどのような田舎へゆこう (後略)

  この詩をどこで読んだかは定かではない。小学校の教科書かもしれない。しかし、不思議と全文、脳細胞に残っていた。「日が照りながら雨のふる・・・」という一節が大変印象的で、これは日本でいう「狐の嫁入り」という現象だということまで覚えていた。多分、先生の説明だったのだろう。しかし、なぜ、こうした現象が起きるのかまでは知らない。どこかの地方の言い伝えだったのかもしれないと思い、辞書を引いてみると、いくつか違った説明が出ている。

    これも子供の頃、日本人以上の日本語の達人といわれ、エッセイが国語教科書にも載っていたCandou神父のお話をうかがった折、バスクにも同じ現象がありますよといわれて、不思議に思ったこともあった。なにがきっかけでこの話になったかはまったく覚えていないのだが、多分その時、晴天なのに雨が降ったのだろう。Candou神父は、
フランスとスペインの国境にまたがるバスクから来られたのだった。バスク人と日本人は似ているところが多いというお話もあったような気がする。いつか調べてみようと思いながら、果たすことなく今日に至っている。

  ニューヨーク滞在の折に、今では日本でもかなり知られるようになったアイルランド系の人々の祭日、
セント・パトリックス・デー(3月17日)のパレードがあり、フィフス・アヴェニューを緑色の衣装や飾り物が覆い尽くす光景を見たことも、移民で形成された多民族国家アメリカへの興味を誘った。こんなことが重なって、アイルランドについて、少しずつ知識も増え、イギリス滞在の折に短期間ながら訪れるまでになった。気づいてみたら、かつて一時期、仕事でよく泊まったパリのホテルまでCELTICになっていた。



  アイルランドは移民史の上では、長年にわたりアメリカなどへの移民送り出し国として知られてきた。日本では人気はいまひとつだったが、フランク・マコートの
『アンジェラの灰』がその厳しかった移民事情を興味深く伝えている。それが、いまや受け入れ国になり、先端技術の導入などもあって大変活性化し、世界の注目の的になっている。ブログでも話題にしたことがあるが、 「アイルランド・モデル」の可能性まで語られている。一見地味だが、堅実で、国民性の際だっている国だ。この小国の反乱、どんなことになるのか、見守ってゆきたい。

     
ケルト語[族]の意味。ケルト Celtic 民族は、今日ではアイルランド、スコットランド、ウエールズ、ブルターニュなどに散在。あの中村俊輔が所属するスコットランドのサッカーティームもCELTIC
だ。

コメント (8)
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郊外へ移り住む人々:中国中間層の行方

2008年02月25日 | グローバル化の断面

  過去半世紀近く、さまざまなことで中国を訪れる機会があった。色々と思い浮かぶことが多い。最近の雑誌TIMEの記事*に関連して思い起こしたことを記してみたい。

  30年くらい前だったろうか。上海を訪れた時、道路わきに雑多な空き瓶が20本くらい置いてあった。そして、傍らに人が所在なげに座り込んでいる。同様な光景を何度か見かけた。不思議に思って、友人に聞いてみると、瓶を売って生計を立てているのだという。当時の日本では道端に捨てられていたような空き瓶である。およそ商品とは思えない代物だった。しかし、ここでは売る人もいれば、買う人もいるのだ。

  その頃、今では巨大なコンテナー埠頭や金融、IT関連企業の高層ビルが林立する浦東新区は、葦が群生する広大な原野のようだった。しかし、上海の中心近い地域で、こうした光景とはかなり違和感を覚えるような場所ヘも案内された。そこには外見は欧米風の高級住宅を思わせる大きな家が数十戸並んでいた。それぞれの家の庭は芝が植えられ、こぎれいなプールがある家もあった。日本でもあまり見ないような豪華な邸宅もあった。3階建て、5寝室もある大きな家である。

  他方、江蘇省、浙江省などの豊かな地域の農村部へ行くと、当時万元戸といわれた3階建て、4階建ての大きな家も建てられていた。今、考えると、中国における格差拡大の始まりだったのかと思う。小平の南巡講話から始まった「豊かになれるところから豊かになる」という改革・開放路線、そして格差容認の象徴的光景だった。

  最近のTIME誌*が、 「短征」 (The Short March)と題して、上海など大都市の郊外に多数の中産階級が移動し、豪華な住宅を購入して、定着しつつあると伝えている。上海は人口が2千万に達し、今後20年間で倍増すると推定されている。中国で最も人口密度が高く、一人当たり8平方メートルしかない。高層ビルが林立し、その数はすでに10年くらい前に東京を追い抜いたといわれていた。大気などの環境汚染もひどい。そのためもあって、少しでもきれいな空気を求めて、郊外に今後10年間に5百万人が移住すると推測されている。ひところのアメリカでの「郊外化」現象を思い起こさせる。


  
    彼ら中間層
が競って求めるのが、一戸建ての豪壮な邸宅である。こうした豪邸が立ち並ぶ地域は、特に高い壁などがあるわけではないが、他の地域とは歴然と区分されている。格差は生活水準ばかりでなく、あらゆる面に及んでいる。ここに住む富裕層の子弟は地元の公立学校へは行かず、「貴族学校」といわれる私立学校へ通学している。周辺との落差は隔絶ともいうべき大きさだ。蛇足ながら、TIMEの表紙を飾る人々が手にしているのは「毛沢東語録」ではない。高級住宅の鍵であり、豊かな中間層への入り口を開ける鍵でもある。  

  格差という点で、とりわけ目立つのが、こうした豪華な住宅の建設工事に当たる労働者だ。彼らは中国各地の農村部からの出稼ぎ労働者である。建設現場近くの粗末なアパートに住み、一日12時間近く煉瓦を積み上げるようなきつい仕事をしている。上海は、夏は蒸し暑く、冬も寒さが厳しい。苛酷な労働環境だ。労働の対価は月1500人民元(約200ドル)にすぎない。結婚していれば、妻もクリーニング店などで働き、故郷に残してきた両親や子供へ仕送りをする。彼らは自分たちが建てているような家に住める可能性はほとんどありえない。

  中国には8-9億人の貧困層が農村地帯に住んでいる。グローバル化の進展に伴って、1億1800万人近くが仕事を求めて国内を「漂流」している。彼らは「郊外族」とは違った意味で、各地をさまよう移動労働者である。  

  中国政府も格差の拡大は、最大の関心事だと認めている。中国に富裕な階層が増えていることは明らかだが、それが中間階層といわれる安定的な多数になるかは分からない。「長征」**はその後、さまざまな波乱を経て、中国の大発展へとつながった。しかし、大都市郊外へ向かう中間層の「短い行進」がいかなる結果を生むか。到着点はまったく見えていない。

  折りしも、日本の経済力は急速に低下を見せ、「2流国」へと移行しつつある。かつては「一億中流」と誇らしげに語られていた国だが、急激な「格差」拡大が進行している。グローバル化の下での中国と日本。格差の現実も異なっているが、似ているところもある。その行方をもう少し見つめたい。



*
”China’s Short March.” TIME, February 25, 2008.

**
「長征」Long March :1934年10月、中国共産党は、国民党軍の包囲攻撃下、江西省瑞金の根拠地を放棄し、翌年峡西省北部まで約15200キロメートルの大行軍をした。

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見たくない白昼夢?

2008年01月17日 | グローバル化の断面

  ITや映像技術の進歩もあって、思考にかかわる時間が圧縮されるのだろうか。時々白昼夢のようなことを考えてしまう。 
  
  1月13日、台湾立法院の選挙結果を見る。予想以上の国民党の大勝である。前日、選挙前夜の熱狂ぶりをTVが伝えていた。この国の選挙時の盛り上がりはすごい。かつて、その現場に居合わせたことがあったが、台湾全土が燃えているような感じがした。一見、過熱しているのではないかと思わせる光景の裏側で、この国の人々の脳裏を常に離れることのない関心事は、なんといっても中国との関係のあり方だ。人々は日々の営みの中で、ふと我に返る時があれば、いつか来るかもしれない、その日のことを考えている。ある友人は台北の空が真っ赤になった夢を見るという。そして子供たちを勉学の機会にと海外へ送り出し、もう何年も遠く離れて住んでいる。

龍の国が抱える問題
  台湾は大国中国に呑み込まれてしまうのか、それとも政治経済上の独立性を維持できるのだろうか。中、台両国に知人・友人がいることもあって、 他人事には思えなかった。最近会った中国人の友人は、台湾はもはや中国にとって大きな政治経済上の問題ではなくなったという。そういえば、中国側のメディアへの台湾問題の登場度は低いようだ。とりわけ、政治家は行き着く先がみえてきたと考えているらしい。台湾から本土への産業移転が進んで、経済面でも一体化が進み、脅威ではなくなったとの見方なのだろう。柿が熟するのを待つのだろうか。他方、中国には台湾問題をはるかに超える大問題が頭上に覆いかぶさっているという。そうかもしれない。

  しかし、台湾の人々にとっては、今回の立法院選挙、そして3月に行われる総統選挙は、今後の台湾のあり方を大きく定める。しばらく目を離せない。とにかく、台湾海峡が平和な海であるよう祈るばかり。 

  他方、本土側へ目を移すと、今年8月の北京オリンピックを目前にして、中国は活力に溢れている。だが、沸騰する圧力を十分に制御できないようだ。北京空港と市内を結ぶ高速道路が完成した当時は、その改善ぶりに目を見張ったが、日ならずして渋滞の道路になってしまった。大気汚染はひどく、呼吸器の弱い私などは敬遠気味である。オリンピックという国家的行事が、分裂しそうな民心をかろうじて支えているようなところもある。しかし、その後を考えるとかなり怖い。一層の発展への踊り場となるか、反転下降への峠となるか。

  すさまじい環境汚染、格差の拡大、安全性の低い輸出品など、憂慮すべき問題が山積している。上海にいる知人は、北京オリンピックのことはあまり伝わってこないし、大きな関心事ではないという。オリンピックは北京の事業だと考えているようだ。13億という人口の生み出すエネルギーはすさまじい。

走り出した象の国
  そして、アジアではもうひとつ人口大国インドの発展が急速に注目を集めている。最近、30万円(10万ルピー)を切る超低廉、小型自動車「ナノ」を同国の財閥タタ社が発売することを発表し、大きな話題となった。先進国企業は価格が安すぎるというが、この価格で国民が満足できる車ができるのならば、文句のつけようがない。文字通り国民車となる。環境対策でもユーロIII基準を満たし、努力すればユーロIVも不可能ではないというが、アジアの開発途上国の10億人が、この車に乗っている光景は想像するに恐ろしい。

  中国、インドの人口は併せると24億人、地球の全人口の3分に達する。最近、中印両国の近接が目立つが、そのエネルギーはすさまじい。「ひよわな花」といわれた戦後日本の発展の比ではない。したたかな力を最初から保持している。すでに、日本以外のアジアの富裕層(資産1億円以上)は120万人ともいわれ、日本の百貨店なども重要な顧客とみなし始めた。日本人が買えなくなった高価な商品をこともなげに買ってゆく人々。百貨店や秋葉原で、現金払いで一人100万円の買い物をするなど珍しくないらしい。いつか、どこかで見たような風景でもある。

文化の香りのする国
  龍にたとえられる中国、象のインド、その二つの大勢力を前に、なんといっても気になるのは急速に矮小化してゆくこの国、日本の姿である。「年金崩壊」、「医療崩壊」、「教育崩壊」、「家庭崩壊」・・・、など惨憺たる文字がメディアを覆っている。絆創膏を貼るような対応ばかりで、前途に光が見えない。

  人口の規模も国力そのものではないが、国力を構成する柱のひとつである。少子化対策もさしたる効果は見られない。一時はアジアの東で燦然と輝いたこともあったが、今その光は急速に薄れている。内政、外政、目を覆うばかりの迷走で、国力の低下は避けがたい。このままではアジア大陸の縁辺に張り付いたような存在感のない国になって行きそうだ。せめて中規模国になっても、文化の香りのする、誇り高い存在感のある国であってほしい。自分が確実に存在しない先のことなのに、その行方が気になるのはなぜだろう。

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祈りたい「連帯経済」の未来に

2007年12月10日 | グローバル化の断面

  グローバリゼーションの展開は、厳しい優勝劣敗、淘汰の過程を伴う。競争に敗れた企業には再生、回復の道はないのだろうか。倒産企業の従業員やその家族にとっては、悲惨な生活しか選択の可能性は残っていないのか。日本の実態を考えながら、少し元気づけられるTV番組を見た。*

  「“回復工場”の挑戦」と題したアルゼンチン、ブエノスアイレスの倒産企業の“回復”の努力の姿である。 2007年2月、同市でも有数なクリーニング工場が競争に敗れ、倒産する。経営者は失踪し、日本円で4000万円近い負債と30人の労働者が残される。最盛期には150人近い従業員を擁していた。路頭に迷った従業員たちは、最後の救いの手がかりを従業員による自主再建に求める。企業倒産で貧困に追われ、家も失い、工場内に住み込んで働く家族もいる。  

  2001年のアルゼンチン経済危機の苦い経験が、“回復工場”という道を構想するきっかけになる。当時、このプランを考えつき、100以上の具体的経験を持つルイス・カーロ弁護士の力を借りて、従業員が連帯組合を組織する。一人一人は経営のなんたるかも知らない労働者だが、弁護士の指導を受け、自主経営の計画を立てて公的認可の申請をする。工場再建計画を裁判所へ提出し、認可が得られれば、自治体の管理の下で倒産企業経営の経営権を公開入札するプロセスをたどる。通常は連帯組合が落札する。その後、工場が所在する自治体が負債を立て替えて、長期に組合が返済する仕組みである。  

  ”回復工場”の経営は、再建プランに参加する旧従業員が平等な権利を持って行う。利益が出れば、賃金も労働時間だけの差だけですべて平等に支払われる。これまでは、協同組合方式による倒産企業の再建の仕組みであり、日本にも労働者自主管理企業を含めていくつかの例があり、とりたてて珍しいというわけではない。  

  注目させられたのは、こうした“回復工場”がお互いに「連帯」して相互に助け合い、「連帯経済」ともいうべきユニークなシステムを作り上げていることだ。これまでは自主管理企業は、多くの場合孤立無援であり、資本主義的、効率重視の企業と真っ向から競争を迫られていた。そのため、再建を図っても経営効率の劣る自主管理企業が再び苦杯をなめるという例が多かった。

  この新たなシステムでは、たとえば同じグループで再建途上にある病院の従業員組合が、仲間の“回復企業”へ医療サービスの無償提供を行う。足りない人材を相互に融通しあう、などの連帯が進められている。連帯グループの企業が毎月集まって、相互になにができるかを話し合う。素人集団のような“回復工場”の真摯な努力の姿を見て、顧客が製品価格の値上げに応じて、救済の手を差し伸べるなど、人間味のある情景が映し出される。「連帯経済」の環の外にも市場は次第に広がって行く。文脈は異なるが、フォルカー・ブラウンが期待した「人民所有と民主主義」のアイディアの具体化につながっているようなところもある。   

  倒産閉鎖してしまったガソリンスタンドが“回復工場”システムで再建しようとするが、壊れた設備を修理する技術者がいない。すると、連帯経済グループの電気屋さんが手助けにかけつけ、再建裁定の時間切れ寸前のところで修理に成功する。復元し始めた企業を見て、失踪したもとの経営者の息子が戻ってきて、会社は自分たちのものだと主張する動きにも、従業員は懸命に対抗する。  

  倒産した企業は、どれも設備も老朽化し、労働条件も悪く、経営ノウハウもなく、見るからに再建は難しそうである。”回復企業”のそれぞれの実態はいかにも頼りなく、グローバル化の荒涼たる強風の前には、吹き飛ばされそうなはかなげな存在に見える。それでも、利益追求だけが企業としての目標ではないという人間の相互愛のようなものがひしひしと伝わってくる。「会社は資本家のもの」という近年の流行に、厳しいながらも別の道もありうるのだということを示してくれた。冷酷なグローバル経済に翻弄される南半球の小さな”回復工場”、”連帯経済”の成功を祈りたい気持ちになった。

Reference
2007年12月8日、BS1ドキュメンタリー「“回復工場”の挑戦」

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「引き上げた」ではすまない最低賃金

2007年09月11日 | グローバル化の断面

 

 中国に工場を持って、カメラやデジタル機器などのケースを生産する経営者の話を聞く。1960年代頃までは日本国内に設備を持っていたが、労務費の上昇とともに経営難となり、国内工場を閉鎖し、台湾へ全面移転した。その後、台湾の賃金水準も上昇し、フィリピンへ移転、さらに今は中国南西部で生産している。中国国内の賃金格差も大きく、労働力の質と併せて中国国内での立地動向からも目が離せないという。彼の視野からは、日本国内での立地選択はとうの昔に消えている。髪の毛もすっかり白くなったが、現地経営に支障ないほどに中国語(上海語)も上達し、経営者としての苦労と努力のほどがひしひしと伝わってくる。

 9月7日、都道府県別の最低賃金の決定状況が発表された。形の上では労使が参加する中央最低賃金審議会の提示した引き上げ幅の目安に沿った形にはなった。改めて記すまでもないが、地域最低賃金は中央最低賃金審議会が目安を定め、これを手がかりに各都道府県の審議会が地域別の最低賃金額を決める仕組みになっている。

  最近、最低賃金制度についての関心がようやく高まってきたことは大変望ましいことだと思う。この
ブログでも記したことがある。しかし、議論のほとんどは、現在の制度を前提にしての議論に終始している。言い換えると、中央最低賃金審議会の提示する目安を前提に、都道府県の地方最低賃金審議会が地域最低賃金を設定するという、ほとんど儀式化し、マンネリ化してしまった現行制度の仕組みに、メディアを含めほとんど誰も疑問を呈していない。しかし、現行制度は「制度疲労」があまりにひどく、最低賃金制度という重要な政策の目的、実施、効果測定という面について、客観的評価がほとんどできなくなっている。

  最低賃金制度の政策効果の測定は、欧米諸国におけるかなり膨大な研究成果の蓄積にもかかわらず、その結論は必ずしも十分に収斂していない。若年者などの雇用にはマイナスという結果もある反面、雇用の増加に寄与しているとの相反する効果が提示されている。実証研究の成果が必ずしも一貫した結果をもたらさないのは、研究に使われる仮説の設定、標本データの質、変動要因のコントロールなどがきわめて困難であり、反復テストが難しい、別の標本データでは相反する効果が計測されるなどの難しさが介在しているためである。抽象的次元で議論される理論と複雑な現実の間が十分埋められていない。

 日本でも実証研究が行われているが、同じような問題が生まれている。研究者は利用できる標本データと現実とのギャップに十分眼が行き届いていない。そして、理論をモデル化し、計測結果が出ると、それで満足してしまい、その結果に支配されやすい。労使や行政の関係者は逆に目前の現実にとらわれすぎて、ともすれば全体像を見失い、個別の利害に左右されがちである。

 ひとつの例を挙げてみよう。今回の引き上げで東北地方諸県では、青森(619円)、岩手(619円)、宮城(639円)、秋田(618円)、山形(620円)、福島(629円)というように7-11円程度の時給の引き上げが行われた。他方、東京(739円)、神奈川(736円)、千葉(706円)、埼玉(702円)など15-20円の引き上げが行われ、700円台の都府県もある*

 都道府県別に一見「きめ細かい」決定が行われているような印象を与える。しかし、本当にそうだろうか。都道府県という行政区分が現実の労働市場の代替指標としてはきわめて不十分であることは、前に記したこともある。最低賃金における地域差とは突き詰めると、なにを意味するのか。水準が大幅に上がった県と小幅な県とでは、現実になにが異なり、どう変化するのか。

  そればかりではない。これだけ中央と地方の格差が問題になっているのに、地方最低賃金審議会の決定結果は、格差を追認あるいは拡大・固定化する一因になってしまっている。

  グローバル化で進む労働市場の流動化に伴い、労働者も高い賃金水準の地域、産業へと移動する。活性化している都市部などでは、深刻な人手不足が経営者の頭痛の種となっている。当然、賃金水準も上がる。他方、多くの地域で地元に働く場所がなく、東京、大阪、東海など都市圏や工業地帯へ労働力は流出する。北海道などでは、若い世代が学ぶはずの高校が次々と閉鎖されていく。

  国内で相対的に賃金水準が低い地域へ企業が立地を求めてくる例(たとえば、東京から北海道へ)もないわけではないが、グローバル化が急速に進展している今日では、国内の賃金水準の格差よりも、数倍あるいは数十倍も低コストな中国、ヴェトナムなどへ移ってしまうことも増えている。仕事の海外へのアウトソーシングが急速に進んでいる。といってすべての企業が海外移転できるわけでもない。

 こうして最低賃金引き上げでなにが変わるのかという疑問は深まることこそあれ、解消することはない。別に、直ちに全国一律最低賃金制度にせよとか、上げ幅をもっと大きくせよとか言っているのではない。そうした制度の透明性を増やす必要は、もちろん早急・必須な課題だが、ここで考えるべき問題はそれ以前のところにある。制度がその目指す最大の目的である国民の文化的生活を最低限保障するための政策として真に設定され、機能しているかが基本的に問われるべきことだ。

 各都道府県毎に多大な行政コストをかけて、この制度を維持している必要性がどれだけあるのだろうか。単に最低賃金を改定する作業をワンラウンド終わりましたといって、評価もあいまいなままに先送りするいう話ではない。[現状では妥当な水準」、「仕方がない」といった「評価」が毎年繰り返されてきた。

  最低賃金制度は国民にとって重要なセフティ・ネットの一部たりうる政策手段であるだけに、透明性があり納得できる制度と運用の姿を提示すべきだろう。憲法が定める「文化的な最低生活」を保障するためにあるべきセフティネットの構想の中に正しく位置づけ、組み立て直すことが行われねばならない。時代は大きく変化している。その変化に対応しうる制度改革が議論されるべきではないか。

 
* 新最低賃金額は全国平均で時間賃率687円、引き上げ額14円。

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最低賃金引き上げの効果は?

2007年08月13日 | グローバル化の断面

 最初からこの程度にしかならないだろうと思っていたので、いまさらどうということはないのだが、やはり少しだけ書いておこう。全国最低賃金の引き上げ率である。中央最低賃金審議会の「目安に関する小委員会」が、引き上げ率を全国平均で時給にして14円とすることを決めたとメディアは伝えている*。けれども、これでいったいなにがどう改善されるのか。

 日本の最低賃金率は依然として、先進国中最低に近い水準にとどまっている。憲法で定める「文化的な最低限度の生活」を保障することが最低賃金法成立の精神であることは改めていうまでもない。

 そして、いまや未組織、非正規労働者が圧倒的な時代なのにもかかわらず、組合の「連合」が「セフティネットとしての最低賃金の機能を考えるときわめて不十分」といい、経営側も大企業と中小企業では見解が異なるが、「環境の厳しい地方の中小企業に一定の配慮がなされた」(日本経団連)と評価しているらしい。 

 しかし、この引き上げでなにがどう改善されるのか、まったく分からないというのが少し離れてみている評者の感想だ。最低賃金制度が、現代の労働市場でセフティネットの重要な一部を構成していることはいうまでもない。財政支出を伴わないですむ政策でもあり、適切に制度設計され運用されれば、その重要性はきわめて高い。

 従来、最低賃金率を引き上げると、雇用が減少するという面だけが強調されがちであった。その論理は単純化していえば、引き上げで企業の人件費が上昇し、価格転嫁ができない場合は利益が圧迫され、経営不振になって、新規採用を抑制したり、雇用の削減につながるという脈絡である。しかし、こうした筋書きは「他の条件が一定として」というお定まりの経済理論の抽象の世界の話である。現実には業態や企業の経営力などさまざまな要件で、動態的で多様な展開が進む。賃上げに対応できない企業がある傍ら、賃率上昇が刺激となって、経営効率化の推進や見直しなどが行われることも多い。「高賃金・高生産性」がうたわれた時代もあった。 

 他方、最低賃金の議論の過程で、しばしばことさらに軽視される面がある。最低賃金引き上げで収入増加となった労働者の消費購買力が拡大し、地元企業を中心に活性化へのひとつの刺激要因となり、売り上げ増加、そしてさらには雇用増加へとつながる道である。

 この側面に関連して、マクロ的には賃率の低い地域からは高い地域へと労働力は流出してしまう。地域停滞に拍車をかけることになりかねない。これは国内外の出稼ぎ労働者のインセンティブを考えれば明らかなことだ。

 最低賃金引き上げの影響評価は、これまでも内外で行われてきたが、雇用についてはプラス・マイナスの効果があり、どちらか一方が歴然としている分析結果は少ない。たとえば、同一地域・産業でも小規模個人経営のレストランと大型ファミリーレストランへの影響は、人件費比率も異なり、当然違ったものとなる。業態が異なればさらに違った状況となる。 

 最低賃金引き上げの対象となった地域の企業や産業は、どこの地域の企業・産業と現実に競争しているのか。現行の最低賃金制度の改定単位となっている都道府県別区分は行政上の区分であり、現実の労働市場の代理指標としてもかなり問題がある。 

 今回の最低賃金引き上げをめぐる議論で、この制度へのメディアや国民の関心が少し高まったのは大変望ましいことではある。しかし、現行制度の内在する欠陥をそのままに上げ幅の大小を議論してみても、ほとんど得るものはない。ましてや今回程度の改定幅では雇用にいかなる影響が生まれるか、信頼できる評価測定ができるとは思えない(全国一律で時給1000円水準程度に引き上げられれば、多少有意な影響が計測され、効果判定ができるかもしれないが)。 

 最低賃金制については、国民の総合的セフティネットの一翼を構成するものとして、旧態依然たる枠組みから脱し、新しい視点が要求されていることは間違いない。投薬の効果測定と同様に、正確な効果測定ができない政策は、政策自体に問題があるのだという認識が必要ではないか。


*「最低賃金14円引き上げ:全国平均政府審議会小委が目安」『日本経済新聞』夕刊2007年8月8日

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ベルリンの陰翳

2007年08月10日 | グローバル化の断面

ベルリン植物園温室: Photo Y.Kuwahara 

  ベルリンという都市は大変美しいが、ある種の陰翳を感じると記したことがあった。それがなにに由来するものかはよく分からない。人口340万人の大都市なのだが、パリ、ロンドン、ローマといった都市にあるざわめき、喧騒といったものがあまり感じられない。全体に人気のない道が多く、見ようによってはなんとなく沈んだような感じもする。

  それでもベルリンを訪れる人は、昨年700万人に達し、その数はヨーロッパではロンドン、パリに次ぐ。この点について、たまたま小さな記事*を読んだ。そして、8日のTVは、1920年代のノスタルジックな歌曲を静かに歌う人気歌手マックス・ラーベ Max Raabeを映していた。

  社会民主党の現市長クラウス・ヴォーヴェライト Klaus Wowereitは人気のある政治家だが、今のベルリンが持つ「貧しいがセクシーな都市」というイメージを変えたいらしい。そして目指すのは、あの1920年代の輝いていた日のベルリンのようだ。

  そのために、市長は議会からの1000万ユーロの予算を確保して、2年計画で「ベルリン改革」計画に乗り出した。ベルリンは素晴らしい美術館群の整備もほとんど終え、加えて多くの劇場、クラブなど文化的基盤は厚く整っている。現代アートのギャラリーだけでも400はあるという。美術好きにはとても魅力的な都市だ。美術館も適度な数の人で静かな環境で見ることができた。

  なにが足りないのだろう。パリやロンドンと比較すると、富裕層が少ないらしい。市民の二人に一人は、年金か雇用給付に頼って生活している。仕事がある人でも年間平均収入は32,600ユーロである。ドイツ人はベルリンへ旅行はするが、住むのは豊かな感じがするミュンヘンやハンブルグを選んでしまうという。さらにベルリンは都市としても610億ドルの負債を抱えてもいる。

  第二次大戦では、戦火による破滅的な破壊を経験し、さらに東西ベルリンの統合という世界史的課題を克服して今日まできた。しかし、かつてこの都市を支えていた競争力を持った製造業もほとんど他へ移転して、サービス産業に依存する都市となっている。20億ユーロを投じるシェーネフェルド空港の拡張計画も遅れている。2011年には完成の予定らしい。

  市長としては、輝き、さんざめいていたあの1920年代、ベルリンの日々を取り戻したいようだ。静かで芸術性に富んだベルリンでいいような気もするのだが。昔と同じような繁栄を追わなくともと思ってしまう。この都市はそれでなくとも、すでにかなり過去に規定されているのだから。

  「それもまたよいのでは」 
Und das ist auch gut so!
                   (Klaus Wowereit **)


*
‘In search of the 1920s.’ The Economist July 23rd 2007


**ヴォーヴェライト氏は、自らがゲイであることを認めた時の発言。その後、流行語となった。

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たそがれのクライスラー

2007年05月16日 | グローバル化の断面

  2003年、ベルリンのダイムラークライスラーのアトリウムで開催されたある国際会議に出席したことがある。目を見張るばかりの吹き抜けが自慢のビルだった。ベルリンが誇る現代建築のショーウインドウのひとつである。それから 約5年後の今日、ダイムラークライスラーは、業績不振に陥った北米クライスラー部門を米投資ファンドのサーベラス・キャピタル・マネジメントに売却することで合意したと発表した。

  合併が成立した1998年当時は、自動車産業の名門企業同士、「世紀の合併」といわれたが、約9年間で破綻した。当時、喧伝されたシナジー効果は生まれなかった。合併時はクライスラーもダイムラーも、中期的には業績のピーク時を迎えていた。お互いに売り時だったのだろう。

  さて、このクライスラーのサーベラス売却は両社を救うのだろうか。ダイムラー側は今回の売却でもクライスラーの負債削減などで12億ドルを超えるリストラ費用が発生し、結果的には持ち出しとなる。それでも、技術力があり高級車志向のダイムラーは、合併前のような労組・従業員との協力関係の復活も期待でき、なんとか立ち直れるだろう。

  しかし、クライスラーの側はきわめて厳しい。北米市場は日本企業などによる市場席巻などで様変わりしてしまった。かつて繁栄をきわめたビッグスリーの面影はどこにもない。

  1960年代、クライスラー社のメインバンク、マニュファクチャラーズ・ハノーヴァートラストに父親が勤務していた友人に案内されて、クライスラー本社を見学・インタビューさせてもらったことがあった。日本車はサンフランシスコの坂を上れないなどといわれ、ビッグスリーの大型車が席巻していた時代であった。当時はあのアールデコ風のクライスラー・ビルに、本社、関連バンクなどが入っており、日本の自動車会社と比較して、その壮大さに驚かされた。とりわけ、オフィスの立派なこと、社員のゆったりとした勤務ぶりなど、同じ会社でも日米これほどまで違うのかと思わされた。

  しかし、石油危機後、自動車産業の舞台はめまぐるしく変わった。ハイウエーはあっという間に日本や欧州からの中・小型車で埋まった。自動車産業アナリストが予想もできないといったほどの変わり方だった。

  サーベランスというファンドによって、クライスラーの回復はできるのだろうか。クライスラーは今回のサーベランスによる買収で今後は非公開会社となる。膨大な医療費と年金コストを抱えたクライスラーについて、アナリストたちは誰もが、成否は雇用削減次第と言っている。ファンドは情け容赦なく人減らしをするだろう。全米自動車労組であるUAWとクライスラーとの労働協約は今年改定時を迎えており、交渉上の立場も弱い。サーベランス側は、雇用削減を受け入れなければクライスラーは倒産すると迫るだろう。UAWは仕方がない選択と言っているが、組合にかつての力強さはない。

  自動車企業の経営改革が成功するか否かは、4-5年はかかるとみられ、サーベランスがそれだけの期間待っているか、疑問が持たれている。記者会見ではいちおう5年は株式保有するつもりといってはいるが、ファンドが製造企業の経営回復の目処がつくまで長期的にコミットするか疑わしい。少しでも有利な兆候が見られるようになれば、簡単に切り売り、売却、処分の対象とするだろう。サーベランスの語源は地獄の入り口に立つ犬とのこと。名門クライスラーの命運やいかに。

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傭兵化進む米軍:「グリーンカード」兵の増加

2007年05月15日 | グローバル化の断面


  イラク派兵もついに5年目に入り、国論が2分化し、レームダック状態が強まるブッシュ政権。国民の反戦・厭戦気分もかなり拡大しているようだ。かつてヴェトナム戦争末期に徴兵忌避、カナダへの逃亡などが注目を集めたが、今回は別の深刻な問題も生まれている。

  多数の海外派兵で兵力が不足し、必要兵員数を充足できなくなっている。新規応募も少なくなり、1年の海外派兵上限も15ヶ月に延長された。その中で、アメリカ国籍を持たない外国人を兵員として採用する動きが進んでいる。アメリカではメキシコ人など外国人でも「グリーンカード」といわれる就労(定住)認可を得れば、アメリカに住み、働くことができる。除隊後の市民権獲得にも有利となる。かくして、グリーンカードの保持者から兵員を募る動きが進行している。

  アメリカに来たものの、良い仕事の機会にありつけない若い外国人労働者などが、応募している。兵役は厳しく、決して良い雇用の機会ではない。しかし、衣食住に心配なく、給料までもらえるとあっては、失業しているよりはましと考える若者もいる。

  ヒスパニック系のメキシコ人などが応募、入隊し、メキシコ国籍のままイラクなど前線へ送られるケースが増えているという。「グリーンカード」兵の出現である。その数はすでに4万人に上るといわれる。在外米軍の数は20万人近いといわれるから、無視できない数である。イラクの前線に派遣され、メキシコ国籍のままクラスター爆弾によって戦死するという例が報じられていた。遺体が帰国後、アメリカ国籍が付与される。ついにここまできたかという思いがする。いわば現代の傭兵である。祖国のためという大義もなく、出口も見えない戦いをいつまで続けるのだろうか。

Reference
BS1 2007年5月8日 「もうひとつの標的 グリーンカード兵」


5月15日、日本の衆議院は「イラク復興支援特別措置法」改正により、自衛隊の派遣を2年間延長することを可決した。

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