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時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

カブールに光の射す日

2007年05月05日 | グローバル化の断面

  10数年前、ある小さな個人的体験からイスラームの家族や社会のあり方について、かなり強い関心を持つようになった。イギリスに住む考古学者、家族との交友がきっかけだった。サダム・フセイン存命中、湾岸戦争たけなわの頃である。彼らが日本にある信頼を寄せてくれていることが伝わってきた。しかし、今、彼らが同じ思いでいてくれるかはまったく分からない。お互い、母国語でない言葉を介してのメールでは、心のひだなどとても読めない。

  その後、国と場所は変わっても戦争だけは絶えなかった。連日のように報じられる自爆テロと死傷者の記事には心が痛む。「殺戮の日常化」は、人々の感受性を著しく劣化させている。

  BS1のドキュメンタリー「アフガニスタン国軍203部隊」は、アフガニスタン、パクティア州ガルベス市に置かれたアフガニスタン国軍基地における軍隊訓練風景を主として伝えていた。この国が抱える荒涼、殺伐たる現実とその未来は、同じ地球に生きる人間として、さまざまなことを考えさせる。タリバンが支配していた時代と比較して、事態は良い方向へ進んでいるといえるのだろうか。あの『カイトランナー』、『カブールの燕たち』が描いた情景を思い起こす。すでにヤスミナ・カドラによる次の作品、その名も『テロル』が翻訳、刊行されている。

  ボン会議で決定された國際治安部隊の活動の心臓部として、この国軍203部隊は大きな意味を持っている。パクティア州、ガルベス市の基地には、陸軍、空軍を含む国軍全体の半数以上の3500人が駐屯している。その数は急速に増加した。しかし、戦う組織、軍隊としての「質」は高いとはいえないようだ。2005年5月以来、基地内には国軍の訓練を指導する米軍の兵舎が置かれている。しかし、言語、文化の違いを含めて、国軍と米軍の間に緊密な信頼関係が築かれているとはみえない。傍目にもかなり不安定な状況であることが伝わってくる。

  この地域は反米感情も強く、長老の力が強い部族社会である。パシュトン、ハダラなど20近い部族が混在して住む国でもあり、部族間の愛憎入り混じる複雑な感情などは、駐屯する米軍にはほとんど理解できず、介入もできない。関係者は相互に不信感を秘めながら恐る恐る事態に対応していることが画面から伝わってくる。

  ガルベスは、タリバンが侵入してくる道があるパキスタン国境に近い、防衛上の拠点である。しかし、4月になっても日中、氷点下10度という厳しい環境風土である。荒涼とした状況で、地元住民とタリバンを見分けることは、地元の人でも難しい。

  国軍に入隊してくる兵士は経済的な理由で志願する者が多く、愛国心や郷土愛が働いているとも見えない。兵士の給与も月5千アフガニー(12000円)と、他の職業と比較しても安すぎ、脱走を図る兵士も多い。

  兵士たちと離れて、家族が暮らすカブール周辺も荒廃が進み、冬季には零下20度にもなる。小さな泥づくりの家に10人近い人々が住む厳しい貧困が支配する。国際的な援助や政府補助も、一部の旧軍閥や政治家に流れてしまうという。その実態は分からない。それでもカブールの人口は、最も少なくなった時の8倍近くまで増えた。見かけは復興の途上にあるとはいえ、40%にもおよぶという失業率を前にして、軍隊もひとつの働き場所、それも危険で低賃金な仕事にすぎない。

  国軍と米軍だけでは治安維持もままならず、ついに地域警察までを組み込む体制が作られつつある。しかし、3者の関係は木で竹を継いだようにしかみえない。タリバン掃討作戦の見通しはつかず、米軍から国軍への引継ぎも先が見えていない。2008年という目標も空虚に見える。人々は不安をいつもどこかに抱きながら生きている。



* 
BS1 ドキュメンタリー「アフガニスタン国軍203部隊」2007年4月28日
‘ Iraq: A row over a wall’ The Economist April 28th 2007

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新たな「階級」論争:日本・ドイツ

2007年01月23日 | グローバル化の断面

 出所:Eurostat
「貧困率」 at-risku-of-poverty 以下の人々の比率(%) 。社会的給付移転後の可処分所得(メディアン)の60%。 人口構成調整、2003年



  「格差社会論」は、いまや日本やアメリカにとどまらず、ドイツでも盛んになりつつあるようだ。新年に送られてきたいくつかの文献を見ていたら、「ドイツよ、お前もか」という感じになってしまった。

  日本には、バブル期にみられたような「一億総中流」というおめでたいイメージはとうにない。ドイツでも健全な中産階級の国というイメージはいつの間にか消えてしまったようだ。ドイツは日本とよく比較されるが、格差論議についても似ている部分が非常に多い。資料を眺めながら感想めいたことを少し記してみたい。

  最近の日本では「格差社会」を肯定し、「ニューリッチ」の生成を誇らしげに語り、彼らを社会の活力の担い手と持ち上げる動きも高まっている。他方で、「ワーキングプア」に始まり、親子心中、高齢者の独居死など、いたましいニュースも多くなった。日本版「アンダークラス」(最下層階級)の顕在化といえるかもしれない。

  ドイツでは、グローバル化に伴う不平等の拡大は、同様に二つの議論を呼び起こした。ひとつはブルジョアの存在やその社会的評価について、もうひとつは「アンダークラス」の問題である。前者はかなり以前からくすぶってきた、後者は2005年頃に外国からの投資増加に伴う社会階層の盛衰をめぐって盛んになったようだ。

  「新ブルジョア」Neue Bűrgerlichkeit をめぐる議論は、新聞文芸欄などにみられる、やや行過ぎた知的遊戯のような様相を呈しているという。このまさにブルジョア的再生の風潮として、上等な衣服への嗜好、ラテン語の勉強、個人教授などが復活してきたことがあげられている。他方、新たなブルジョア時代の到来と積極的に評価する向きもあるようだ。

  第二次大戦後、「ブルジョア」 Bűrugerlichkeit は、ドイツ社会では居場所がなくなったとの評価が有力だった。この概念は急速に時代遅れのものとされ、1990年代初めでもブルジョアという言葉は侮辱の響きを持ったという。しかし、今日若いドイツ人はあまり抵抗感がないようだ。日本でも「ブルジョア」はいつの頃からか急速に語感が希薄になり、死語になりかけている。70年代くらいまでは頻繁に登場していた「プチ・ブル」 petit-bourgeois という言葉も、若い人にはなじみがないようだ。代わって、「ニューリッチ」が台頭してきた。対する「ニュー・プア」という言葉も目につくようになった。「階級」といういやな言葉も復活するのだろうか。

  ドイツではブルジョア論争よりは、新たなアンダークラス論の方が盛んになりそうだ。ドイツ人の8パーセント近くが、熟練度が低く、仕事もみつからず、改善の見込みがほとんどないグループだとの報告もある。グローバル化は経済的・社会的格差の収斂よりは拡大を引き起こすようだ。グローバル資本主義は人を幸福にもするが、不幸にもする。それでも「停滞」よりは良いのだろうか。

  多くの豊かな国のように、ドイツでも貧困は増大している。所得再配分後の全国メディアン(中位数)で、60%以下の可処分所得しかない人たちという尺度でみて、2004年にはドイツ人のおよそ16%は貧困者のグループに分類された。この比率は2000年と比較すると、大きな増加となる。数値自体はヨーロッパの平均くらいだが(図表参照)、ドイツの貧困率は、かつてはヨーロッパの平均を大きく下回っていた。いうまでもなく、東西ドイツ統合の影響が現れている。旧東ドイツの貧困率はイギリス型に近く、若年者と移民の間で高い。

  「アンダークラス」という言葉自体が差別的と思う人もいるが、新たな「アンダークラス」が生まれていることは事実のようだ。物質面での欠乏という問題も相変わらず深刻だが、文化的格差が拡大していることの方がいまや重要だと考える人もいる。ベルリン自由大学の歴史家ポール・ノルト Paul Norte は、今日のプロレタリアートはかつてのような上昇志向がないという。そればかりか、社会の主流から自らを隔てる生活スタイルとなっているらしい。

  こうした新階級社会論ともいうべき議論を見ていると、論点も実に多様化しており、とてもここで概括などはできない。その中で気になるのは、新しいアンダークラスの問題は、貧困それ自体でもあるが、それ以上に社会的移動、モビリティの不足にあると言う指摘である。その背景には、ドイツの教育システムが特定階層について選別的な作用を持ち、階級格差を拡大・固定化するという。

  日本の教育改革論議にもつながる論点だが、最近の日本の状況と対応は、労働改革と同様にあまりに拙速だ。教育改革案といわれる内容をみると、これまで長い間無為無策であった状況を、急に思いつきに近いような施策で修正できるのかという印象が強い。

  さて、ドイツの連立政権的状況は政党間の競争効果でプラスに働き、政党指導者を大胆な改革者に駆り立てる可能性があるとも予想されている。そうすれば、経済活性化、失業減少につながる良い結果が生まれるかもしれない。日本は連立効果も働かないとなると、どうなるのだろう。


Reference
'Class concerns,' The Economist November 11th 2006.
熊谷徹『ドイツ病に学べ』新潮社、2006年

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大学冬の時代:中国版

2007年01月23日 | グローバル化の断面

  センター入試が終わった。全入時代となっても、学生にとってはそれぞれに大きな試練の時だ。 

  中国の大学で10年以上にわたり教鞭をとられている日本人のF先生から、新春恒例のご挨拶を兼ねた「中国事情」が送られてきた。長い中国での経験に裏打ちされての観察は大変鋭く厳しいが、中国への愛も深い。現地の社会へ溶け込んで信頼を得て、はじめて知りうる情報も多く、いつも楽しみである。

  多くの話題の中から、特に大学問題についての情報は興味深い。中国の大学の数、規模はともに拡大に次ぐ拡大を続けてきて、進学率は10年前の約5%から今は20%以上になったとのこと。新卒者の数も10年前は100万人を切っていたが、今年は415万人。2007年は450万人に達する見通しで、10年間で4-5倍になるという驚くべき拡大ぶりである。

  中国の大卒者は文字通り将来が約束される「精英」(エリート)だったが、状況は一転して日本語学科や電子学科など一部を除くと、就職難時代に移行している。2001年には、85%以上だった就職率が、2005年には70%近くまで低下した。

  13億人の大人口を抱える広大な国なので、大学にしても実態を掌握することは大変難しい。しかし、清華大学を頂点に大学とは言いがたいような学校まで厳然たるピラミッド構造が出来上がっている。

  しかし、日本と同様に大学の乱造で、大卒者の初任給も低下傾向をみせ、東北地方では平均1000元。低いのは800元と、工員並みのところまで落ちている。短期間の間に大学数が爆発的に増えた裏には、国営企業の民営化に伴う失業対策としてのねらいもあったとのうがった見方も聞いたことがある。

  美国(アメリカ)留学、外資企業就職などに有利と、これまで人気の高かった英語科はどこも拡大しすぎて飽和状態となっている。それでも、地方の中学の先生なら口はあるが、目線の高い学生は敬遠して行かないらしい。

  中国教育部は、もはや精英(エリート)教育ではなく普及教育の時代に入ったとして、大学側に市場のニーズに対応した学部編成やカリキュラム改革を要請しているが、大学の対応が進んでいない。中国経済が将来成長鈍化すれば、大学生は失業予備軍化することは必至との見通しである。

  同じ話は中国人の友人からも聞かされた。このところ、中国の大学は政治問題もからみ内情はなかなか大変なようだ。大学という民主制が最も機能すべき場が、中央政府の影響力行使もあって複雑な状況に置かれているらしい。社会の動く方向を定めるについて、大学の社会的影響力が大きいからだろう。

  中国の大学市場の影響は日本にも響く。日本の大学の中には以前から日本人学生の応募が少なくなり、中国人留学生に頼っているところもかなりある。この小さな島国に1,000近い大学を乱立させてしまった日本は、今そのつけを払いつつある。アカデミアのイメージとは程遠い。日中両国ともに、大学の冬は長く続く。

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幸せとはなにか(2)

2006年12月31日 | グローバル化の断面

  前回に引き続いて、もう少し「幸せの計り方」について書いてみたい:

  この時期に送られてくるカードの中で、昨年に続き、今年も印象に残った一枚は、カナダに住む友人夫妻と家族の消息であった。夫妻は現役を退き、世俗の意味では引退の過程に入っているが、地域のNPOその他で活発な活動を続けている。

  長女はアフリカのボツワナで物資の輸送システムの充実のためにすでに3年働いてきた。次男はあの2005年のアジア太平洋の大津波の1ヶ月後から、ずっとバンダ・アチェで復興事業にに従事した後、レバノンで災害復旧に働いてる。そして、3男はアフリカのHIV減少のためにアフリカで1年の3分の1を過ごしている。

    両親は子供がそろいもそろって発展途上国のために、奉仕活動のような仕事をするようになるとは思ってもいなかったというが、むしろ子供たちがそうした人生を選んだことを誇りに思っているようだ。

  父親は今は歩行に困難な身体でありながら、地域の庭園の仕事に生きがいを見出し、つつじやしゃくなげの栽培、品種改良では専門家として知られるほどになっている。母親は病院の看護部長、教育部長の仕事を辞めて、91歳になった自分の母親の世話と介護に週3回片道40分の距離を通っている。それでも庭園整備を手伝い、今年はチューリップなど300株を植えたという。

  感心するのは、家族の一人一人が独立心を持ち、自分の仕事に大きな誇りを持っていることである。長いつき合いだが、愚痴めいたことを聞いたことがない。まだ学生の頃からモントリオールを訪ねると、ホテルに泊まるのはつまらないからと、2室しかないアパートに泊めてくれた。現代の日本人の多くが感じているような不安の影もなく、積極的に人生を送ってきた。
 
  最近は誰もやりたがらない仕事も、需給が逼迫すれば見直され、光が当たることがあるように、市場メカニズム(経済)と幸福(感)の関係を見直す動きもあるが*、人間の幸不幸を定める要因は複雑であり、そう簡単には見いだせない。「幸せ」の計り方は相変わらず難しい。

  新年が良い年でありますように



*    
イギリスの歴史家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle 1795-1881)が、経済学は「楽しい科学ではない」(not  a 'gay' science)と評したことから、しばしば「陰鬱な学問」と受け取られることもあるが、カーライルの真意は、経済学者が経済学を幸福という概念に結びつけすぎたことにあるようだ。19世紀半ばの経済学者は「最大多数の最大幸福」の実現を説いたジェレミー・ベンサム(Jeremy Benthan)に代表されるように、しばしば幸福、効用を計算できるものとした。人間をあたかも苦痛と快楽の差し引きとしての心理・物理的な機械のように考えたところがあった。

Reference
*
"Economics discover its feelings." The Economist December 23rd 2006.

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幸せとはなにか(1)

2006年12月29日 | グローバル化の断面

    例年のことだが、年の暮れになると一年間の出来事などについて、多少の感慨にふける時間がある。この数年、そのひとつの契機は、ある雑誌の巻頭記事が材料となっている。この雑誌は、一昨年、昨年と続けて「貧しさについて」というテーマを掲げていたが、今年は「幸せ(そしてそれをいかに計るか)」*という記事であった。

  ふだんはこうした哲学めいたことを考えることはあまりないのだが、年末にふと見かけた光景に衝撃を受けて、考えてしまった。

  数日前、養護ホームに住居を移した知人を見舞いに出かけた。といっても、この知人は今まで住んでいた住居を処分して便宜のよい施設に移住しただけで、看護・介護の必要はまったくない。将来を考えて、マンション住まいのつもりで移ったらしい。他方、この施設は、完全看護・介護を掲げて高級ホテル並みの設備とサービスを売りものにしており、入居者に高齢者が多い。入居費もきわめて高く、私など逆立ちしても入れないし、実は(仮にそうした状況に恵まれても)絶対入りたくないと思っている。

  この施設では見舞いなどの訪問者は受付で所定の手続きをすれば、問題なく入ることができる。しかし、高齢者が多いということで、風邪などの予防のために、手洗いとうがいを要請される。他方、入館者は原則、付き添いや許可がないかぎり外へ出られない仕組みである。日常生活で必要なものは、すべて館内で調達できることになっている。スタッフも多く、隣接して診療所まで設置され、諸事万端整っている。

  受付から連絡してもらい、豪華なロビーで待っている間、片隅のソファーに入館者と分かる老人が座っているのに気づいた。不安そうな表情で肩にかけた小さな鞄を両手で抱え込むようにしている。きっと銀行通帳など貴重品が入っているのだろう。今の日本では、これ以上安全な場所はそうないだろうと思われる環境にもかかわらず、不安に満ちた面持ちで深い寂寥感が漂っている。

  物質的には世界有数の経済水準を達成した日本だが、国民の不安は高まるばかりである。巻頭の雑誌記事は内容が濃密で、ここに要約することはできないが、ひとつの含意は経済学に幸せの実現をあまり強く結びつけること自体、無理な注文ということらしい。

  所得や資産など社会的格差が広がるほど不安は増し、なにも心配のないような億万長者も、胸の内は澄み切って幸せ一杯というわけではないようだ。しばしば社会階層が上になるほど、問題も増える。ブログで取り上げた『天使の堕ちる時』でも、中流下層の主人公の方が上層の主人公よりも幸せ度は大きいのではないか。経済格差の多くは相対的なものであり、他人との比較で発生・拡大する。先進国ほど格差についての意識も高まる。幸いをもたらすか、不幸にするかに、市場やその成長は深く関わってもいるという。この意味で経済がまったく関係ないわけではない。

  しかし、一般に世の中では自分のしていることに没頭できる人は大きな充実感を得て、悩み少なく幸せで充たされるようだ。雑念に悩まされず、没入できることをもっている人が幸せを享受できるらしい。一年もここまでくると、煩悩の多い人間の一人としては、除夜の鐘に期待するしかないか。

      
*
"Happiness (and how to measure it)" . The Economist December 23rd 2006.   


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佳節愉快

2006年12月26日 | グローバル化の断面

  この数年、クリスマスカードの数がめっきり減った。一時期、机の上に山積みになったカードに、一枚ずつ署名と短い挨拶を記していたことがあった。年中行事で負担ではあったが、楽しみでもあった。しかし、いつのまにか年末の仕事に追われたりして、発送するカード数が減っていた。送られてくるカードも同様に減っていた。電子メールの発達も影響している。しかし、メールで受け取るクリスマスや年始の挨拶はどうも味気ない。

  こうした変化の中でも、必ずカードを送ってくれる友人たちがいる。家族の消息を知らせるノートが付いていることが多い。交通通信の手段が格段に進歩したからといって、遠隔地の友人・知人とそう簡単に会えるものでもない。中には、何十年と会っていない友人もいる。

  日野原重明先生が、クリスマスカードについてのエッセイを新聞に寄せられていた。最近のカードの減少と併せて、カードに印刷された文言についての興味深い観察が記されていた。かつてのように「メリー・クリスマス」Merry Christmas というフレーズが少なくなり、Season's Greetings というような宗教色がない表現が多くなったという変化についてである。グローバル化が進み、世界にはキリスト教以外の宗教を信じる人々も多いことに気づいたからであろうという大変鋭いご指摘である。

  これまであまり深く考えることなく、カードを送っていたことを反省する。サインをしたり、短い挨拶を書く折に、ふとそのことが頭をかすめたこともあったが、1年1回の近況報告と思って送っていた。日本のクリスマスが宗教色が薄い商業的行事となっていることも、影響しただろう。

  クリスマスの挨拶ばかりではない。新年の挨拶も、うっかり日本の習慣で年賀状を中国や台湾の友人に送ってしまう。そして先方からは春節の時にカードが送られてきて、喜びと同時に軽いカルチャーショックを受ける。

  面白いことに、このごろは海外と関係のある中国や台湾の会社や弁護士事務所からは、「新年快楽(樂) 順利成功」、Season's Grettings for someone so special というような挨拶が記されたカードがこの時期に届く。「聖誕恭賀」というような文字はない。小さなことだが世界の変化が、カード一枚の文言にも微妙に反映していることに驚かされる。

  

 

  

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海外送金と経済発展

2006年12月06日 | グローバル化の断面

  グラフは移民による本国送金の受け入れ額(2006年時点、10億ドル)を示しており、右側□内の数値(予測)は、2005年GDPに占める外貨送金の比率である。原資料 World Bank 

    このブログのグローバル・ウオッチの対象である移民政策問題の焦点は、海外で働く自国民による母国への送金額である。それが母国の発展のために有効に使われているか否かの評価が海外出稼ぎの成否を判定するポイントである。最新の本国送金統計が公表されたので、少し検討してみよう。

  World Bankによると、世界の移民からの本国送金は、2006年には2680億ドルに到達した。この額は、2000年の2倍に相当する。開発途上国出身の移民たちが本国へ送金する額が大部分を占める。その総計額は6年前の850億ドルと比較して1990億ドルと大きく伸びている。

  外貨送金の受取額ランキングでみると、メキシコが第一位を占めている。ほとんどアメリカで働くメキシコ人からの送金である。250億ドル近くに達しており、GDP(2005年時点)に占める比率では3.3%になる。その額はインド、中国が受け取る外貨送金額より大きい。

  しかし、メキシコを例にとると、それが母国発展に効率的に結びついているかという観点から見ると、第4位にランクされるフィリピンと同様に、非生産的消費などに飲み込まれてしまい、生産的な投資の分野で十分有効に活用されているようには見えない。もちろん、一部は町工場や小商店など雇用を創出するような用途に投資もされていると思われるが、送金額の大きさと比較していかにも効率が悪い。いつになっても海外出稼ぎが減少に向う形をとるにいたっていない。

  フィリピンの場合は、海外からの外貨送金がすでにGDPの15.2%にまでなっている。しかし、フィリピンからの移民の流れは絶えない。そればかりか、海外出稼ぎは常態となってしまい、国内に安定的な雇用の機会が生まれがたくなってしまった。フィリピンやメキシコのような風土では、良い仕事は国内にないという感覚がかなり浸透している。

  本来、自国の経済発展に活用されるべき海外出稼ぎの苦労の結果が、直接的な家族の生活改善などには役立つとしても、国としての発展に結びつかない問題は、従来からも指摘されてはきたが、再検討されるべき大きな課題である。


Reference
"Migrants' Remittances." The Economist November 2006. 
 

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破綻した外国人研修・実習制度(3)

2006年11月29日 | グローバル化の断面

  外国人労働者研修・実習制度の違反が、また問題になっている(NHK「クローズアップ現代」20061129日)*このブログでも再三取り上げてきたが、事業所の違反事例、研修生の失踪などの弊害が、年々悪化していることが指摘されている。この5年間に失踪者は1万人を越え、時給300円、時間外労働でも350円という最低賃金以下で働かせられている研修生もいることが発覚している。なぜ、これまでになるほど放置されてきたのか。

  番組は研修制度が悪用されていると指摘しているが、この制度(1993年に導入)は、すでに制度設計の段階から使用者による悪用の可能性が予知されていた。低賃金での労働者を求める使用者側の圧力に押されて、「単純労働者」受け入れ禁止の条件下で導入された妥協の産物であったからである。制度がそのための「隠れ蓑」とされる可能性は当初から予想されていた。「研修」による国際貢献という名目は、その目的を糊塗するものであったとさえいえる。本来ならば、「研修」と「就労」は、別のカテゴリーで独立の制度として透明度を維持して構想されるべきものである。それを承知の上で、無理やりひとつの制度として折衷した妥協の産物である。しかし、こうした制度は決して長続きしない。

  程なく制度の問題点は露呈する。妥協で歪んだ制度は、機能しないのだ。他方、安い賃金で働く労働者を求める使用者も多く、この制度で受け入れられる外国人研修生の数は、
最近は8万人にまで拡大している。

遅れた改善措置
  
  最大の問題は、かなり前から欠陥が判明したにもかかわらず、改善が行われなかったことにある。「研修」の名の下に安い手当で、厳しい労働条件で働かされる外国人研修生の問題は、何年にもわたり指摘されてきた。それにもかかわらず、ほころびを繕う程度で抜本的改革が後回しにされてきた。制度への不信感は高まるばかりで改善されることがなかった。

  最低賃金以下で働かされている外国人も多い。これまで何度か記したこともあるが、この最低賃金制度自体も根本的な欠陥を露呈してから多くの年月が経過している。グローバル化の時代に、「木を見て森を見ない」不毛な議論や分析が続けられている。研修生受け入れの任に当たる共同組合が、最低賃金違反を認識していない。

欠陥の原因
  労働市場にかかわる制度、政策の分野では他にも、重大な欠陥を含んだものがかなり目につく。その原因については、
1)制度設計時から検討が不十分で欠陥が存在した、
2)利害関係者の圧力で制度、政策が歪んで作られた、
3)導入後の現実の変化に制度が対応できなくなった、
4)導入後の政策をフォローするシステムが役割を果たしていない、
5)制度が複雑で分かりがたく、透明性が低い、
6)制度設計、検討の視野が狭く、「木を見て森を見ず」の弊に陥っている、
7)現行制度自体が、改革のための障害、桎梏となっている、
など多くの要因が考えられる。

  ここまでくると、制度改革の方向は明らかである。改革は遅れるほど痛みを伴う。基点に立ち戻り、制度の根本的再設計を期待したい。

教訓

1)設計の動機が不純な、透明度のない制度は破綻する。
2)過ちを改めるにためらうことなかれ。

「NHKクローズアップ現代:歪められた外国人研修制度の裏側」2006年9月29日

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いぶり出される煙突掃除人

2006年10月25日 | グローバル化の断面


  雑誌を拾い読みしていて見つけた面白い?記事*をひとつ。

  「煙突掃除人」 chimney sweeps という職業については、イギリスの労働史、そしてなによりもディケンズの小説『オリヴァー・ツイスト』で知って以来、かなり関心を持ってきた。『オリヴァー・ツイスト』には、19世紀ロンドンでの悪党の煙突掃除人ガムフィールドによって酷使されていた子供たちの状況が克明に描写されている。

    暖炉のある古い家で煙突があると、煤がたまるので時々掃除をしなければならない。そこで煙突掃除人という仕事が生まれたのだが、煤が詰まり、狭く危険な煙突内の仕事には、身体の小さな子供たちが使われた。最も過酷な仕事をさせられる児童労働者の象徴であった。当然、死亡率も高かった。

  ところが、ドイツでは黒い帽子をかぶり、ぐるぐると巻いたワイヤーブラッシを肩にかけた煙突掃除人 Schornsteinfeger は幸運を持ってくる人として美化されている。これに対して、域内市場に関するヨーロッパ委員会の指令が、競争から煙突掃除人を保護する古めかしいドイツの法律を問題にしている。

  ドイツのおよそ8000近い地域では、二人以上の掃除人を抱える親方掃除人たちが、ほとんど完全な地域独占をしているとの指摘である。煙突掃除は民間の仕事ではあるが、メンテナンスと検査は強制的であり、価格は地域自治体が定めている。

  そして、掃除人は該当地域外では仕事はできず、家庭側も掃除人が嫌いでも変えることができない仕組みである。仕事をしたくない顧客もいると掃除人の側にも不満がある。

  こういう関係が生まれたのは、ドイツでは煙突掃除および関連するガス・暖房メンテナンスは公共安全の問題とされてきたからである。1年あるいは半年に1回の巡回が義務付けられていて、掃除人は一年中忙しい。

  ヨーロッパでは煙突掃除は遍歴職人の仕事とされてきたが、ドイツでは1937年に当時の内務大臣ハインリッヒ・ヒムラーによって煙突掃除法が改正され、当時は掃除人を地域に束縛し、地域のスパイとして利用するために彼らはドイツ人であることが布告された。

  法律は1969年に改正され、地域的独占はそのままに、職業機会は開放され、理屈の上ではドイツ人でなくとも就業できることになった。しかし、実際には外国人が就くことはほとんどない。4年前にカイザースラウテルンで1人の勇敢なポーランド人がマイスターとしての資格を取得し、今年はイタリア人がラインランドのパラティネートで掃除人となった。しかし、他のドイツ人のマイスターと同様に、自分の地域を割り当てられて仕事をするまでには、空き待ちリスト上で何年か待たねばならないという。

  ヨーロッパ委員会は、工務店や鉛管工のように、ユーザーが自由に掃除人を選べるような競争的市場を要請している。委員会は2003年に従来の仕組みを改めるよう求め、ドイツ政府も法律改正を約したがうまく行かなかった。

  その後も、ブラッセルとの間でやり取りがあったが、ドイツ政府は安全上の理由でこの時代がかったシステムを廃止することを渋っている。フランクフルトの掃除人は炭素化合物による中毒死もフランスやベルギーの十分の一くらいだと主張している。結果はどういうことに落ち着くのだろうか。グローバル化に抗するローカリズムのひとつの表れとしても興味深く、行方を見守りたい。



Reference
‘Chimney sweeps under fire.’ The Economist October 21st 2006.

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医療不安はなぜ拡大しているのか

2006年10月17日 | グローバル化の断面

  日本では今は医師も看護師も人手不足だが、10数年すれば、需給が一致したり、余ってくるという厚生労働省関係の予測は、どの程度信頼しうるものだろうか*医師についての予測では供給側で、1)医師数を増加させるとともに、2)医師および医療システムの生産性を向上させるとしている。他方、需要側で1)予防の強化、2)外来需要の適正化、3)入院需要の削減を上げている。

  これらは、基本設定としては誤りではないが、具体的な次元に立ち入ると、数多くの問題がある。そのひとつの例は、このブログでも指摘したように、國際的視野がほとんど欠如している。

  医師や看護師の需給を規定している条件は、供給側が非弾力的で、簡単に増減は期待できない。なかでも医師については、不足地域の国公立大学医学部の定員を多少増やすことを認めたところで、その効果が見えてくるのは早くても10年くらい先のことになる。これが緊急の問題に対する実効ある政策とは、多くの医療関係者は考えていない。何もしないよりはまし程度の受け取り方が多い。医学部定員については最大限規制を緩める努力をすべきではないかと思う。もちろん、医師国家試験は厳正に維持、実行されるべきことはいうまでもない。

  他方、医療や看護への需要はきわめて強く、結果として下方硬直的である。短い期間に横ばいあるいは純減へと向かう可能性は少ない。かなり良く考えられた施策を強力に導入したとしても、やや伸びを抑えることができる程度だろう。高齢化の一層の進行などを前提とすれば、医療・看護・介護への需要はきわめて強いとみるべきだろう。

  今後の医療・看護の労働市場を判断するひとつの重要な材料として、近年のアメリカ経済における病院などのヘルスケア分野の雇用機会拡大がきわめて顕著なことに着目したい。2001年以降、170万人の新たな仕事がヘルスケア分野で創出されてきた。この中には製薬や医療保険の分野も含まれている。

  特に注目すべきは、5年前と比較してヘルスケア以外の民間部門の仕事の数は、ほとんど増えていないことである。例外は住宅関連(94万人)と(病院を除く)公務分野(90万人)だけである。しかし、住宅産業の雇用増加も民間分野の雇用減で相殺されてしまった。結果として、雇用の純増部分はヘルスケア分野が生み出していることになる。高齢化の進む日本では、アメリカ以上に、この分野の需要が拡大することはほぼ間違いない。アメリカの医療・看護分野の方向が良いとは思わないが、変化の基調として留意すべき点である。

  医療・看護サービスは、人間の健康、生命にかかわるだけに市場メカニズムに委ねて、報酬水準などの労働条件などに誘引されて、病院からクリニック開業などへ一方的に流出してしまうのも問題である。地域によっては、病院の医療水準の高さや地域貢献などを基準にして、拠点病院へ助成をすることなども考える必要があろう。病院と診療所の関係にみられるように、どちらかが減れば、他方が増えるという代替関係も発生する。中期的には診療所間での淘汰も進むだろう。
 
  医療・看護・介護の分野は、基本的に人間のサービス供与が欠かせない点で、製造現場のようにロボットで代替するというわけには行かない。人材養成には多くの時間と投資が必要である。起こるべき連鎖反応を十分考え、かなり弾力度を持った政策を準備していないと、変化に対応できない。医師ばかりでなく看護・介護分野などでの劣悪な労働条件改善のための措置も必要である。地域の拠点病院の労働条件の改善は、かなり切迫した課題である。

  現在の日本をみるかぎり、これから国民のヘルス・ニーズにいかなる体制をもって応えようとするのか、ヴィジョンが見えてこない。むしろ、ヴィジョン自体がほとんど描けていないというべきだろう。最近の医師不足をめぐる議論*をみても、しっかりとした構想が提示されていないことが、多くの不安を生んでいることが分かる。

  高齢化の一層の進展、より質の高い医療・看護・介護を求める日本の実態を見る限り、医療費負担の増加などが、早期に顕著な需要抑止効果をもたらすとは思えない。もちろん、医療費の無駄を抑止する政策は必要だが、質の高い医療需要への欲求というポジティブな面にも適切な配慮をすべきだろう。国民が求める医療・看護の質的改善への欲求はきわめて強い。この段階にいたって国民皆保険のPRを聞かされても、空虚な思いがするばかりである。

  市場機構に委ねるばかりでなく、十分検討されたルールに基づく誘導システムの導入が欠かせない分野である。政策間の整合性を高め、実効性ある政策を導入し、単なる需給の数合わせの次元を越えることが求められている。



Reference
"What's Really Propping Up the Economy." Business Week, September 25,2006.

* 10月13-14日にはNHKで「医師不足の実態」について特別番組が放映されたが、構想なき日本の縮図を見る思いがした。

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ベルリンに光は戻るか

2006年10月10日 | グローバル化の断面

  東京のような人口が多く、活気のある都市からベルリンへ行くと、フリードリッヒ・パッサーゲンのようなショッピング地域でも混雑しているという感じは受けない。未来の都市を思わせるようなポツダム広場のあたりも静かに落ち着いた感じである。博物館島も次第に新たな姿を見せており、完成が楽しみな段階に入っている。統合ドイツの首都としての新たな姿を整えつつある。少なくも行きずりの旅行者にはそう見える。

  しかし、この都市の実態はかなり憂慮すべきものであるらしい。最近のThe Economist *が伝えているところでは、失業率は17%以上、市の抱える負債は630億ユーロ(800億ドル)に達している。少し、立ち入ってみよう。クラウス・ヴォーヴェライト 市長は社会民主党だが、就任以来、公務員の報酬カットなどを実施し、財政建て直しに懸命である。他方、市民の政治への関心はあまり高くない。投票率も58%と低迷し、13.7%は少数党への投票者だった。 政治的にも難しい状況である。

  1990年の東西ベルリン統合後、ベルリンは各種産業のハブとなり、中欧への幹線路の中心となるはずだった。ところが実際にはベルリンは製造業の3分の2近くを失った。競争力がなく他の地域へ移転してしまった工業も多い。製造業に雇用されているのは、人口340万人のうち10万人以下にすぎない。

  統一後、市の資金は枯渇し、官庁街のブランデンブルグ門近辺やフリドッリヒ・シュトラッセなど一部を除くと、貧困の色が濃い。目抜き通りには世界のブランド・有名店が並び、一見繁栄しているかに見えるのだが、実態は裏付ける産業のないショッピングモールのような状態だといわれる。確かに冷戦時代はベルリンは、西側陣営の最先端ファッションを誇示するショッピング・ウインドウであった。

  しかし、統一後も実態はあまり変わりないらしい。競争力のない企業が多く、巨大な官僚機構、福祉依存風土などが支配的といわれる。早急に産業基盤の充実が必要とされており、実際にある程度進行はしている。ソフトウエア、メディア、広告分野などでは雇用は拡大している。しかし、雇用創出が追いつかず貧困は徐々に拡大・浸透している。夜は表通り以外は歩くなと友人から言われたが、危険な所も増えているらしい。

  戦前はベルリンは世界をリードした都市だった。なぜ首都の繁栄が取り戻せないのだろうか。これについては、活性化の源となる企業家精神が不足していて、ベルリン市民の半分近くに、福祉依存で生活するメンタリティが広がっているのが原因といわれる。

  新市長は政治的なプレゼンスの意味もあるが、こうした都市体質の改善にこれからの5年をかけると、意気軒昂らしい。今でも「貧しくとも魅力あるセクシーな」都市だという。

  ベルリンは高いスキルのある人材を引き寄せるのにうまくいっていない。熟練・専門スタッフについても、ドイツ人ど同等条件ではなかなか受け入れられない。語学学校でも2ヶ国語ができるスタッフを維持するのが難しい状況らしい。イギリス人だったイシャウッドが英語教師に出向いたあの1930年代を思い出してしまう。創造的な産業は生まれてはいるが、失業者を吸収するには程遠い。

  しかし、夜の繁華街は歓楽・飲食を中心にかなり賑わっているらしい。1930年代にイシャウッドが描いたように、これはどうもベルリンの特殊性のようだ。ベルリンの闇は今も深い。

References
* 'Berlin: Poor but sexy’ The Economist September 23rd 2006.

熊谷徹『ドイツ病に学べ』新潮社、2006年
本書は、短い旅路の途中で読んだドイツ在住のジャーナリストによるドイツ経済・社会の現状に関するかなり厳しい分析・論評である。

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創られる市場:インド現代アートの人気

2006年10月04日 | グローバル化の断面

    インドの人口が近い将来中国を抜き、世界第一の人口大国となることが予測されている。それを見越したわけではないだろうが、このところ現代インド美術のブームが起きているといわれる。今の段階では、主たる顧客は裕福なインド人、とりわけインド国外に住んでいるインド人だが、客層は急速に拡大しているらしい。

  現代インド絵画を扱う世界中の画廊、オークション・サイトが活気を呈しているといわれる。とりわけ、大きな賞を獲得したメータやスーザ(Tyeb Mehta and F.N. Souza)などの作品は、2000年以降、価格も実に20倍近くになった。

  このブログで、中国アート市場の拡大について記したことがあったが、比較的注目されていなかったインド美術へもグローバル化の流れがまわってきたらしい。

  インターネットの力を借りて、現代インド絵画の取引額は2004年には2億ドル近くに達した。世界のアート市場の規模は300億ドルといわれるから、まだその比率は小さい。しかし、伸び率と将来性は莫大である。そのため、インド絵画は早くも大きな投資対象になっている。昨年9月オークションの対象となったメータの作品は、158万ドルで落札されたが、4年前は10万ドルにすぎなかった。現代インド美術はいくつか見てみたが、インド美術の鑑賞基準を持っていない私にはお手上げの領域である。

  1990年代末では、現代インドアートにはほとんど関心が払われなかった。しかし、今ではインドのディーラーばかりでなく、サザビー、クリスティなどの名うてのオークショナーが参加している。最近のクリムト、キルヒナーなどの競売取引もこうしたオークショナーが仕組んで作り上げた産物である。
  
  1980年代のバブル期に、金にまかせて美術品を買い込み、自分が死んだらコレクションも一緒に燃やしてくれといった御仁もいたらしい。パリの画廊で図らずも、そうした狂気にかられた人々の行動の一端を目にしたこともある。素晴らしい作品を自分のものにしていつも見ていたい。人が持っていないものを所有して誇示したい。そうした所有欲はある程度は理解できる。しかし、度が過ぎると、結果は私蔵される作品が増え、素晴らしい作品を人々の目から遠ざけてしまう。絵画の盗難事件が絶えないのは、背後にこうした異常な所有欲が働いていることもひとつの原因である。どうすれば、防ぐことができるだろうか。

  一人の画家の作品が世の中で一定の認知を獲得するまでには、さまざまなパトロンの存在も欠かせない。他方で、アートマーケットの仕組みは、次第に複雑怪奇なものになってきた。画家は「創る存在」でもあるが「創られる存在」でもある。


Reference
"A pretty picture", The economist September 16th 2006

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ロボットは仕立て屋に代わりうるか

2006年10月03日 | グローバル化の断面
  紡績、織布、縫製という工程を経る繊維産業は、産業革命以来の長い歴史を持っている。しかし、依然として人手を要する部分が多い。とりわけ、ビスボーク、オーダー・メイドといわれる特注高級品ほど人間の目や手、そして経験をベースとする微妙な作業に頼る部分が多い。テーラーメード Tailor-made とは、もともと主に紳士服や婦人用コート類を注文で作る専門の仕立屋、洋裁師によって作られた注文服のことを意味していた。

労働コストで勝負が決まる  
  既製品といわれる分野についても、縫製・加工の点で、ミシンかけ、ボタン付け、アイロンかけなど手作業を要する部分があるが、世界には機械加工よりも労働のコストが安い地域が多数ある。中国、インド、ヴェトナム、スリランカ、トルコなどの開発途上国がこうした仕事を引き受けている。

  インドだけでも80万ドル近い輸出規模で、1千万人近い雇用の機会を生み出している。雇用数という点では、繊維産業は農業に次ぐ大産業である。もし、衣服縫製産業がなくなったらその衝撃ははかりしれない。

窮地に立つ先進国  
  他方、後がないところまで追い込まれた先進国側も衣服縫製に大きな期待をかけている。もし人手をかけることなくロボットで衣服に仕立てることができれば、先進国に衣服産業を復活させることできる。このブログでも触れたように、日本そしてイタリアやアメリカの繊維・衣服産業が追いつけないのは、この人手のかかる工程であった。1980年代、「第3イタリア」論が注目を集めた頃、中世以来の繊維の町プラトーを訪ねた。当時は、経営者も自身を持って将来を話してくれたが、時代の変化は激しい。いまやプラトーも追い込まれている。省力化を極限まで追求し自動化できれば、先進国の衣服産業も再生が期待できる。
  
  中国上海郊外の縫製工場を見学したことがある。日本から送られた型紙に沿って裁断、加工などを最新の機械設備でこなし、商品コードから値札までつけて箱に入れ、日本のデパートに送るという作業である。生産ラインには若い女子工員がはりついていた。設備がきわめて新しく、しかも労働者数が少ないのに驚かされた。
  
  その前に、愛知県三河で古い工業用ミシンを使って、高齢者と中国人研修生に頼っての旧態以前たる縫製工場を見た後だったので、勝負は一目瞭然だった。一瞬日本と中国の位置関係を逆にしそうな錯覚に陥った。

逆転はなるか 
  ヨーロッパの繊維企業と国際機関が最後の挑戦を行っている。「馬跳びプロジェクト」Leapfrog projectの名の下で、縫製加工の完全自動化を目指している。プロジェクトには3つの重点目標がある。衣服縫製の完全自動化、新繊維の開発そしてデザインである。
  
  来年にはパイロット生産が可能かともいわれている「馬跳びプロジェクト」の最も重要な工程は、生地を損なうことなく取り扱う作業にある。この大役は、イタリア・ジェノア大学の「デザイン・測定・自動化・ロボット化研究所」にゆだねられた。生地の扱いが解決されると、次の課題はいかに縫うことかである。Molfino はドイツの縫製メーカーPhilipp Moll、イタリアの技術研究企業STAMと協力して、体型の変化するマネキンに対応して製作する。コンピューター・グラフィックス、アニメーション、ナノテクノロジーの成果を使い切って対抗しようとの構想である。
  
  こうした計画が中国、ヴェトナムなど労働コストの安い地域への対抗手段となりうるか、今の段階ではまだ先がみえない。EUの11カ国は、このために16mユーロ(30Mドル)を拠出した。Hugo BossやLa Redounteなども出資している。タイムアップ寸前までに追い込まれたEU繊維産業が土壇場にかける大勝負といわれる。ゴールはなるだろうか。


Reference
”Closing the circle”. The Economist July 15th 2006
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国際競争力の源泉

2006年10月01日 | グローバル化の断面
  

    多くの人が注目するようになった World Economic Forum 國際競争力 competitiveness 評価(2006年)が公表された。10位までの順位をみると、1)スイス、2)フィンランド、3)スエーデン、4)シンガポール、5)アメリカ、6)日本、7)ドイツ、8)イギリス、9)香港、10)台湾となっている。

  スイスという小国に次いで、高福祉・高負担のスカンディナヴィア諸国が上位を占めていること、アメリカが前年の第1位から5位にランクを落としていることが目立つ。代わって日本が浮上し、ドイツと肩を並べるまでになった。日本の復活はご同慶のいたりだが、内容は問題山積である。

  注目すべき点のひとつは、スイス、シンガポール、香港、台湾などの地理学上の小国が継続して、大きな存在感を発揮していることである。いずれも、それぞれが得意とする産業分野での技術革新を成長力の源として重視している。

  天然資源などに恵まれた国ではないが、長期的視野の下で、常にグローバルな市場を意識していることが、強い競争力を維持・活性化させている最大の原因だろう。その背景には高い教育水準と技術力重視の立国方針がはっきり見て取れる。イノベーションを掲げる日本の安倍内閣だが、その政策方向は読み取りがたい。「美しい国日本」の骨格はなにによって作られるのか。10年後の2016年、そして2050年に日本はどんな国になっているだろうか。


Reference
"International Competitiveness." The Economist September 30th 2006.
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テンペルホフ空港の記憶

2006年09月13日 | グローバル化の断面

  ベルリンのテンペルホフ空港についての新聞記事を読む。1941年に完成してから今日まで、文字通り現代史の大激動を見つめてきた、世界でも希有な空港である。

  このごろはベルリンへ行くにも、テーゲル空港へ降りることがほとんどで、しばらく利用したことはない。しかし、「壁」の崩壊前にも、この空港から発着したことがあり、名前を聞くとさまざまな感慨が頭をよぎる。「壁」崩壊前は日本からはアエロフロートで行くか、フランクフルトなどで乗り換えてベルリン入りしていた。テンペルホフ空港はよく使われていた。フランクフルトからは、確かパンナムが乗り入れていたと思う。

  はからずもアエロフロートのイメージまでよみがえってきた。軍用機を改造したイリューシンやツボレフは機体の後尾の座席に割り当てられると、座席数が減り、結露した水が天井から落ちてきた。赤軍将校などが搭乗してくると、一般客が下ろされたりしていた。

  冷戦下の時は、どこからテンペルホフに入るにしてもかなり緊張していた記憶がある。冷戦の雰囲気に加えて、この空港にはナチス時代を伝える雰囲気がいたるところに浸透していたからである。ヒトラーの時代、お抱え建築家アルベルト・シュペーアのゲルマニア構想の一環として、ナチス時代の設計思想をそのままに残していた。

  以前にも記したが、冷戦の時代、空港守備隊の形容しがたい色の制服とブーツ、戦車にはどぎもを抜かれる思いをした。いかに世界で初の都市型空港であり、歴史的重みを持っているとはいえ、思わず踏みとどまるほど衝撃的であった。

  この空港は、ベルリン市内に位置し、外部からみても内側に空港があるとは思われないほど、コンパクトである。今では大型機は離着陸できないが、当時は世界の最先端を誇ったのだろう。それでも、当時の空港需要の10倍が想定されていたといわれる。ヒトラーの妄想がその裏にあったとはいえ、その後の航空業界の発展がいか瞠目すべきものであるかを思わせる。

  1948年、ベルリン封鎖の時は、フランクフルトなどからほとんど1分間に1機の割合で物資輸送が行われたという。ベルリンという都市が経験した数奇な歴史を改めて思い起こす。

 10月11日、メディアはヒトラーの伝記作家であったヨアヒム・フェスト Joachim Fest 氏の死去を報じていた。都市騒音、機能などで存否が議論されてきたテンペルホフ空港も一応来年末には閉鎖が予定されている。急速にセピア色の世界に入って行くこの時代をなんとか記憶にとどめたい。


References

テンペルホフ空港の保存を求める協会HP
http://www.jedelsky.de/flughafen_tempelhof/

「奇想遺産テンペルホフ空港」『朝日新聞』日曜版、2006年10月10日
http://www.be.asahi.com/be_s/20060910/20060901TBUK0022A.html

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