母の葬儀もようやく終え、ちょっと落ち着きを取り戻しました。
ブログをしばらくお休みしていたのですが、母の亡くなった時のことをしばらく記録代わりに綴っていきます。
忘れないためにも。。。
![](https://kyoto.cool.ne.jp/pekineseboo/27_4200_546.gif)
11月13日。
前日の日曜の夜、たまたま旦那が出張で大阪に来ていたこともあり、月曜日はお休みを取って一緒に過ごすことになっていました。
もしかしたら、母のお見舞いも最期になるかもしれないからと、月曜日は病院へ行く予定をふたりでたてていました。
偶然にも、3人の叔母(母は4姉妹)も京都観光のついでにお見舞いしてくれるということだったので、私と父、旦那、叔母と揃って病院へ朝から見舞いに行きました。
午前中はまだ意識もあり、私が「おばちゃんが来てくれたで~」というと
こくんとうなずいたり、「うん」と小さな声で反応していた母。
ただ、呼吸が安定しないので酸素マスクを装着したままでしたが。。。
昼ご飯を実家で済ませ、叔母と父が再度病院へ見舞いに行くと、今度は肩で息をするほど呼吸が乱れていたそうです。
父からメールをもらい私と旦那も急いで病院へ。
この時にはもうすでに意識がなくなり、肩でハァハァと息をしている状態でした。
子供たちが帰宅する時間だったので、私はそのまま病室に残り、旦那が子供を迎えに行き、再び子供たちを連れて病室へ。
病室へ来たお医者さんが「今夜が山でしょう」と。。。。
とりあえず、今はまだ大丈夫とのことだったので、子供たちを旦那がプール(プールの習い事)へ行かせて、しばらく叔母たちと様子を見ていました。
父が「今夜は病室へ泊まることになりそうやし、いったん家に帰るわ」と病室を後にしてしばらくしたころ、
何だか、母の呼吸が変わってきました。
肩で息をしていたのが、急に静かになり、呼吸の間隔も長くなってきました。
顔色がだんだん失われ、まるで蝋人形のように白くなっていく母。
半開きの目も瞳孔が次第に大きくなっていきます。
あぶないんとちゃうか???
何だか嫌な予感がして、すぐ父の携帯と旦那の携帯へ電話。
父は駅に向かうバスにすでに乗っていて、バスも発車寸前だったそうです。
「降りる、降りる!!」とバスを止めて、急いで病室へ戻ってきた父。
父が来て、数分後、それまで規則的に動いていた心電図が急にピーッという電子音とともに、反応しなくなり、
ドラマで見るようにまっすぐの線だけが表示されました。
お医者さんが来て、心音と脈、そして瞳孔を確認し、
「残念ですが、11月13日、午後4時2分ご臨終です」と。
そして、その瞬間、病室へ駆け込んできた旦那と子供たち。。。。
とてもとても静かな死でした。
あまりにも静か過ぎるので、私は本当に母が死んだとは思えないほどでした。。。
そして、
偶然にも、叔母たち、私、父、旦那、子供…と恐らく母が看取って欲しいであろう人々全員に見守られて息を引き取った母。
母の想いが私たちを引き寄せたような不思議な力を感じました。
まだ、ぬくもりのある母の顔をなでながら
父が「なんでしんだんや。なんでワシを残して逝ってしもたんや…」とボロボロ涙をこぼすと、
叔母たちも「ねえさん、ねえさん」と呼び続けます。
私は「お母さん…」と呼ぶだけで精一杯でした。
息子はイマイチ母の死を受け入れられない様子でしたが、
娘は「おばあちゃん、死んじゃったの?」と少しはわかってくれたようです。
私は母の死を悲しんでいる自分がいる一方で、どこか認められない自分もいて、
なんだか自分が二つに分裂してしまったような感覚でした。。。
そうこうしているうちに、病院の方が葬儀についていろいろと説明をし始め、
その段取りなどで静かな雰囲気は一変し、バタバタとあわただしくなりました。
まず、しなくてはならないこと。
葬儀社に連絡。
母の遺体を一旦、家へ運ぶため、布団を用意しなければならないこと。
父は病室へ残り葬儀社の方と打ち合わせ後、母と一緒に帰宅するというので、
私は急いで実家へ戻ることに。
子供の面倒は旦那がみることになり、叔母たちは自分たちの家へ帰ることにしました。
実家へ戻って、布団を探すのですが、どんな布団がいいのか、シーツはどうするのか、かけ布団はいるのか…???
もう、半分パニックになりながら、何とか布団を用意したころ、葬儀社の方とともに父が帰宅。
布団へ母を寝かし、周辺にドライアイスをおいていきます。。。
ひんやりとした空気に包まれるようです。。。
さて、葬儀社の方ですが、これが、とっても人相の悪いというか横柄というか、愛想のないというか、なんともいえない強引な人でした。
日取りを考慮し、通夜は翌日、葬儀は翌々日に決まると、
母の死を悲しむ間もなく、葬儀のスタイルや列席者の人数などを考えていかなくてはなりません。。
葬儀社の人が言うままに進めてしまうと高い葬儀になってしまうから注意しなさい、と叔母が言っていた言葉を思い出し、
ひとつひとつを吟味するのですが、時間がないのと動揺しているのとで、なかなか話が進みません。。。。
例えば、葬儀の宗派、祭壇のランク、花の数、来ていただいた方に渡す品、写真…。
気が狂いそうなほどたくさんのことを決めなくてはならなくて、しかも値段も考慮しながら考えなくてはならないので必死です。。
ただ、母が生前から「私の葬儀は無宗教で」と言っていたのが助かり、
無宗教スタイルで行うことにしました。
これが、仏式だと宗派、寺への連絡、戒名、お布施…さまざまな問題が絡み、あれもこれもと油断していると葬儀は●百万とあるいは●千万にもなってしまうそうです。。。。
私たちもお経だけが流れる葬儀よりも、来ていただいた人に母のことを偲んで欲しいとの想いが強かったので、
まず祭壇を花で飾り、母の書いた著書を祭壇脇にならべ、母の経歴を綴った紙を列席の方に配ることにしました。
そして、父をはじめ、母の教え子や母と縁のあった人から母との思い出をスピーチしてもらうスタイルをとり、音楽は母が大好きな「別れの曲」を流すことにしました。
これを決めるのに約4時間。
あまりにもあわただしく時間が過ぎてしまいました。。。
続く…
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前日の日曜の夜、たまたま旦那が出張で大阪に来ていたこともあり、月曜日はお休みを取って一緒に過ごすことになっていました。
もしかしたら、母のお見舞いも最期になるかもしれないからと、月曜日は病院へ行く予定をふたりでたてていました。
偶然にも、3人の叔母(母は4姉妹)も京都観光のついでにお見舞いしてくれるということだったので、私と父、旦那、叔母と揃って病院へ朝から見舞いに行きました。
午前中はまだ意識もあり、私が「おばちゃんが来てくれたで~」というと
こくんとうなずいたり、「うん」と小さな声で反応していた母。
ただ、呼吸が安定しないので酸素マスクを装着したままでしたが。。。
昼ご飯を実家で済ませ、叔母と父が再度病院へ見舞いに行くと、今度は肩で息をするほど呼吸が乱れていたそうです。
父からメールをもらい私と旦那も急いで病院へ。
この時にはもうすでに意識がなくなり、肩でハァハァと息をしている状態でした。
子供たちが帰宅する時間だったので、私はそのまま病室に残り、旦那が子供を迎えに行き、再び子供たちを連れて病室へ。
病室へ来たお医者さんが「今夜が山でしょう」と。。。。
とりあえず、今はまだ大丈夫とのことだったので、子供たちを旦那がプール(プールの習い事)へ行かせて、しばらく叔母たちと様子を見ていました。
父が「今夜は病室へ泊まることになりそうやし、いったん家に帰るわ」と病室を後にしてしばらくしたころ、
何だか、母の呼吸が変わってきました。
肩で息をしていたのが、急に静かになり、呼吸の間隔も長くなってきました。
顔色がだんだん失われ、まるで蝋人形のように白くなっていく母。
半開きの目も瞳孔が次第に大きくなっていきます。
あぶないんとちゃうか???
何だか嫌な予感がして、すぐ父の携帯と旦那の携帯へ電話。
父は駅に向かうバスにすでに乗っていて、バスも発車寸前だったそうです。
「降りる、降りる!!」とバスを止めて、急いで病室へ戻ってきた父。
父が来て、数分後、それまで規則的に動いていた心電図が急にピーッという電子音とともに、反応しなくなり、
ドラマで見るようにまっすぐの線だけが表示されました。
お医者さんが来て、心音と脈、そして瞳孔を確認し、
「残念ですが、11月13日、午後4時2分ご臨終です」と。
そして、その瞬間、病室へ駆け込んできた旦那と子供たち。。。。
とてもとても静かな死でした。
あまりにも静か過ぎるので、私は本当に母が死んだとは思えないほどでした。。。
そして、
偶然にも、叔母たち、私、父、旦那、子供…と恐らく母が看取って欲しいであろう人々全員に見守られて息を引き取った母。
母の想いが私たちを引き寄せたような不思議な力を感じました。
まだ、ぬくもりのある母の顔をなでながら
父が「なんでしんだんや。なんでワシを残して逝ってしもたんや…」とボロボロ涙をこぼすと、
叔母たちも「ねえさん、ねえさん」と呼び続けます。
私は「お母さん…」と呼ぶだけで精一杯でした。
息子はイマイチ母の死を受け入れられない様子でしたが、
娘は「おばあちゃん、死んじゃったの?」と少しはわかってくれたようです。
私は母の死を悲しんでいる自分がいる一方で、どこか認められない自分もいて、
なんだか自分が二つに分裂してしまったような感覚でした。。。
そうこうしているうちに、病院の方が葬儀についていろいろと説明をし始め、
その段取りなどで静かな雰囲気は一変し、バタバタとあわただしくなりました。
まず、しなくてはならないこと。
葬儀社に連絡。
母の遺体を一旦、家へ運ぶため、布団を用意しなければならないこと。
父は病室へ残り葬儀社の方と打ち合わせ後、母と一緒に帰宅するというので、
私は急いで実家へ戻ることに。
子供の面倒は旦那がみることになり、叔母たちは自分たちの家へ帰ることにしました。
実家へ戻って、布団を探すのですが、どんな布団がいいのか、シーツはどうするのか、かけ布団はいるのか…???
もう、半分パニックになりながら、何とか布団を用意したころ、葬儀社の方とともに父が帰宅。
布団へ母を寝かし、周辺にドライアイスをおいていきます。。。
ひんやりとした空気に包まれるようです。。。
さて、葬儀社の方ですが、これが、とっても人相の悪いというか横柄というか、愛想のないというか、なんともいえない強引な人でした。
日取りを考慮し、通夜は翌日、葬儀は翌々日に決まると、
母の死を悲しむ間もなく、葬儀のスタイルや列席者の人数などを考えていかなくてはなりません。。
葬儀社の人が言うままに進めてしまうと高い葬儀になってしまうから注意しなさい、と叔母が言っていた言葉を思い出し、
ひとつひとつを吟味するのですが、時間がないのと動揺しているのとで、なかなか話が進みません。。。。
例えば、葬儀の宗派、祭壇のランク、花の数、来ていただいた方に渡す品、写真…。
気が狂いそうなほどたくさんのことを決めなくてはならなくて、しかも値段も考慮しながら考えなくてはならないので必死です。。
ただ、母が生前から「私の葬儀は無宗教で」と言っていたのが助かり、
無宗教スタイルで行うことにしました。
これが、仏式だと宗派、寺への連絡、戒名、お布施…さまざまな問題が絡み、あれもこれもと油断していると葬儀は●百万とあるいは●千万にもなってしまうそうです。。。。
私たちもお経だけが流れる葬儀よりも、来ていただいた人に母のことを偲んで欲しいとの想いが強かったので、
まず祭壇を花で飾り、母の書いた著書を祭壇脇にならべ、母の経歴を綴った紙を列席の方に配ることにしました。
そして、父をはじめ、母の教え子や母と縁のあった人から母との思い出をスピーチしてもらうスタイルをとり、音楽は母が大好きな「別れの曲」を流すことにしました。
これを決めるのに約4時間。
あまりにもあわただしく時間が過ぎてしまいました。。。
続く…
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