興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

網干公民館 歴史ウォーク通信 (番外編その1) 篭屋

2009年02月18日 | 大覚寺

 2月6日に掲載した「網干公民館 歴史ウォーク通信」で紹介した「大覚寺発祥の地」という昭和52年建立の石碑の裏に書かれた当時の大覚寺の檀徒惣代の中で篭屋という屋号を持つ加納利一・児島博の名前があると書いたが、大覚寺の放生池の玉垣に利一の祖父である利太郎と博の父である武一郎の玉垣が石橋の両側に並んでいる。

 

 
 場所を移して金刀比羅神社の北側の玉垣群にこれも並ぶように利一の父である福太郎と博の祖父である繁作の玉垣がある。

   

 どの玉垣もひとまわり大きなものである。篭屋という同じ屋号の為なのか、仲が良かった事が想像される。

 加納氏と児島氏の屋号は共に篭屋で児島家の破風の部分には○にカの字の屋号が書き記されている。
         

 加納家は現在利一の次男である利昭があとを継いでいる。
聴き取りは新在家に住む長男の佳朗氏からで、利一→福太郎→利太郎→宗兵衛まではわかる。
 利太郎は嘉永6年生まれの次男で5歳年上に長男の多助(たのすけ)が居り大覚寺の放生池に玉垣がある。

 児島家は現在の当主である三千男氏からの聴き取りをした。
博→武一郎→繁作→新治郎→新右ヱ門→市兵衛→弥八郎
 
過去帳は延宝8年(1680)から記されており、万治元年(1658)に京極家が龍野から丸亀に移された時に、丸亀から興浜に来て廻船問屋を営んだ。

 加納家と児島家の屋号は共に「篭屋」であるが、加納家は「篭た」児島家「篭しん」と呼ばれていたようなので、金刀比羅神社の玉垣に答えがあると調べると篭屋さんがたくさんある。

      
 左から篭屋宗兵衛、新五郎、忠九郎、孫七、利右エ門、真治郎、太七

 篭屋宗兵衛・・・・加納宗兵衛の事のように思える。
 篭屋新五郎・・・・篭新(かごしん)という事で児島家か?
 篭屋忠九郎・・・・?
 篭屋孫七・・・・・?
 篭屋利右エ門・・・加納家は利の字を世襲した形跡があるので加納家か?
 篭屋真治郎・・・・篭真(かごしん)という事で児島家か?
 篭屋太七・・・・・篭太(かごた)という事で加納家か?

   

 金刀比羅神社にある燈籠は西側が今から185年前の文政7年で東側が166年前の天保14年のものである。
 この東側の燈籠に籠屋多助の名前がある。これはもちろん加納家だろう。

 さて、この調査で問題が発生した。
 加納家 利一→福太郎→利太郎
 児島家 博→武一郎→繁作
 この系図からすれば利一と博、福太郎と武一郎、利太郎と繁作の組合せが妥当だと思われるのだが、なぜだ。

 生年月日、没年などもう少し詳しく調べてからの投稿の予定であったが、タイミングがよかったので調査中であるが記事にした次第である。

 このような調査が進めば、金刀比羅神社の歴史が明らかにされていく。