興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

放生池

2007年12月29日 | 魚吹八幡神社

魚吹八幡神社 放生池 

 12月23日の【魚吹八幡神社壮青年会第4回大掃除】で春麗さんから放生池についてコメントが入ったので、魚吹八幡神社澤宮司に放生池について聞いたところ、魚吹八幡神社は京都石清水八幡宮の別宮であり、その石清水八幡宮の『石清水祭』が放生池の原点と聞き、放生池について調べてみました。

 石清水八幡宮の9月15日に行なわれる『石清水祭』は、生きとし生けるものの平安と、国家の安泰を祈る大祭です。幕末までは、『石清水放生会』と呼んでいたようです。仏教の不殺生の教えにもとづき、生き物を放ち、祖先の霊を追善供養する宇佐神宮の放生会にならい、石清水八幡宮では、863年にはじまったようだ。
 祭り当日の朝8時、頓宮東側の放生川で、魚鳥を放つ放生行事があり、胡蝶の舞が奉納される。放生池は頓宮の北側にあるようです。

 石清水八幡宮は僧侶によって勧請されたので、仏教とは切っても切れない関係にあるようです。かつては『八幡宮寺』ともよばれ、護国寺という神宮寺により総括された、寺院と一体の宮寺であったようです。

 


池の中央部分に放生池の石碑がある
裏側に発起人の名前と明治19年修繕の文字がある
発起人の中に興浜惣代として石田忠次郎・茨木宗治の名前がある

 魚吹八幡神社の放生池は明治19年頃に古い社務所の建築と同じ時期に修繕されたようだ。ただ、上の写真のように玉垣に囲まれた現在の形になったのは、平成の始めである。防火用水設備も兼用した構造になっている。宮司さんの話によれば、新しい放生池になってから2回防火用水として役目を果たしたようです。一度目は平成8年2月に魚吹八幡神社西側の家屋火災の時、二度目は5年ほど前の拝殿でのボヤの時です。二度目がボヤでおさまった影の功労者は、現大江島惣代の前田茂さんと聞いております。

 

 去年完成した、魚吹八幡神社平成の新社務所の中に坂上の旧屋台が展示されている。宮司さんの説明を聞いてわかった事ですが、狭間の彫刻は4面あるのだが、正面が神祗物(放生会)、他の面が武者物(本能寺織田信長)、女物(巴御前)等決まっていたようです。正面には昔、役人が新任されて村に初めて来た時、鶴を放ちめでたいと喜んでいる様子を表しているようです。まさしく放生会です。
 ※( )は、坂上屋台の狭間彫刻

 

 


興浜にある大覚寺にも放生池がある