今年も魚吹八幡神社の秋季大祭が始まった。
今回は10月21日、22日にしか見られない魚吹八幡神社の提灯を紹介しよう。
まずは楼門に吊るされた三張の大提灯は、正面にはすべて「八幡宮」の文字がある。左から、茶屋町と中之町、西の町、東の町とある。全て敷村である宮内地区の町名だ。年号は「享保四歳□八月」とある。
ここで興ちゃん困りました。上から5番目の字がどうしても読めない。
享保4年は1719年徳川八代将軍吉宗の時代と判明。この年は干支では己亥(つちのとのい)年である。亥己と書けば答えが出てきた。もちろん一文字の漢字では無い。己亥を右から書いただけである。
年を歳と書く事についてはわからないが、暦に詳しい方に後日聞くという事で楼門の提灯は終了。
拝殿に上がると三張の箱提灯が左右対になって吊るされている。
写真左から田井村・長松村・天満村とある。
この三ケ村に共通する事は、この網干地方は寛永年代より京極家の所領であった。万治元年京極家が丸亀に移ってからも揖保郡之内二十八ケ村の所領は引き続き領有した。と『網干町史』にあるが、その二十八ケ村の内現在の魚吹八幡神社の氏子である村は、興浜・余子浜・大江島・長松・天満・田井・宮内・津市場である。途中余子浜と大江島は天領になったが、田井村・長松村・天満村が丸亀藩であった事は間違い無い。
年代は安永八年 亥八月十五日とある。
8月15日について少し書いておくと、『近世魚吹八幡神社関係資料』によると、「現在行われている津之宮秋祭は、江戸時代には「放生会」と呼ばれていた。放生会は本来、殺生を禁ずる思想からでた仏教の儀式で、陰歴八月十五日に全国の神社や仏寺で行われたもので、津之宮でも「往古より放生会として毎年八月十五日神式仕来り」とあるように例外ではなかった。」とある。明治中頃までは毎年八月十五日にお祭りがあったようだ。
拝殿の左側と右側に三張の箱提灯が吊るされているが、これはすべて個人名が入っている。この提灯に年代は入っていないが興ちゃんは明治時代寄進の提灯であると推測する。
左側真ん中の提灯は興浜 山本昭とある。右側左の提灯は平松 土井勘次郎とある。この土井勘次郎氏は平成20年9月15日に投稿した金刀比羅神社その16手水舎の記事の中で興浜金刀比羅神社において明治中期から後期に手水舎を寄進した方の一人である。興浜の山本昭氏の祖父である山本真蔵氏と深くかかわっていた可能性がある人物の為、山本真蔵氏寄進の提灯が古くなり傷んだ為、孫である山本昭氏がやりかえた時に自分の名前を入れたのではないだろうか。
幣殿の御神燈の箱提灯は坂上
本殿前の提灯は左右両側に三張ずつ箱提灯が吊るされており、糸井・當所・糸井とある。
年代は糸井村の提灯が、明暦二年八月(1656)徳川4代将軍家綱の時代のもがひとつと、明和五年八月(1768)徳川10代将軍家治の時代のものがひとつである。
當所の提灯は正徳二年八月吉日(1712)徳川7代将軍家継の時代である。
共に8月の文字が意味するように8月15日に行われていた放生会の提灯であろう。それにしても明暦2年は古い。京極家が龍野に入封したのが寛永十四年(1637)である。