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表現の現在―ささいに見える問題から ⑩

2015年12月31日 | 批評

 ただ今でテストの結果分る声
      (「万能川柳」2015年12月25日 毎日新聞)



 作者名から作者は女性であるから、おそらく母親の位置に立って学校から帰宅する子どもの様子を捉えた作品であろう。子どもは、「ただ今」と言っているだけであるのに、母親は、今日テストがあって(これは事前に知っていたのかもしれない)その結果が良かったか悪かったかがまるで占い師のようにわかるということが表現されている。

 しかし、このようなことはわたしたちの日常では普通のことである。個人差があるとしても、一般に人のうれしい悲しいつらいなどの内臓感覚的な感情は、顔の表情や言葉の微妙な力強さやか細さなどのしゃべり方として表に現れてくる。そして、自分が何か気がかりみたいなものを抱えていて、それに気付けない場合があり得るとしても、こういう言葉そのものに拠らないコミュニケーションは、現在なお生きて活動している。これはおそらく人間の歴史としてもより古い層に属するものと言える。一人の生涯で言えば、生まれて言葉を覚え始めるまでに形成され、表現として使われる初源の言葉ということができる。吉本さんは、このような言葉の古い層でのコミュニケーションを「内的コミュニケーション」あるいは「内コミュニケーション」と呼び、胎児から乳児に至る時期に形成される母子関係に発祥すると見なすほかないと考えていたと思う。まだ、子どもが言葉を覚える以前の互いに察知するコミュニケーションのことである。その察知力を普通以上に鋭く研ぎ澄ませ統御できる力を偶然に持たされた者が占い師や霊能者と呼ばれる人々だろう。


  その思い込みの元というのは察知能力です。つまり、相手の表情をみたとか、相手をみたら何を考えているかをだいたいわかるような気がする。特に親しい人や恋愛関係の人となると、その人の精神状態がすぐわかっちゃうというのは、元をただせば、正常な能力なわけです。言葉ではないんですが、それを内コミュニケーションといえば、すでに胎児の5~6ヶ月の段階から成り立つということがいえることになります。
 では、内コミュニケーションの段階の範囲というのはどこまでかというと、それもみなさんご存知のように、1歳未満で初めて人間は言葉を覚えますから。受胎して10ヶ月して出産されて、乳児ということになるわけですけど、1年未満の段階の乳児までの間に、この内コミュニケーションの原型ができてしまうというふうに理解すればいいと思います。つまり、言葉ではないんだけど、言葉に似た、言葉以前の段階でそれができてしまう。どう考えても、胎児5~6ヶ月から1歳未満までの間以外にできる過程があり得ないわけですから、その段階までに内コミュニケーション、つまり言葉なき言葉といいますか、言葉以前の言葉みたいなものでわかってしまうという能力というのは、そこで形成されるというふうに考えるのがいちばんよろしいだろうと僕は思います。
(A124『言葉以前のこと─内的コミュニケーション』、「2察知能力・思い込みと内的コミュニケーションの異常」より 吉本隆明の183講演)(註.有り難いことにこの講演も書き起こされたテキストもネットにある。それを借りた。)



 このように、わたしたちが日頃意識的、無意識的に使って表現している言葉というものには、曖昧さを含みつつ察知することから明確に何ものかを指示するということに渡るひとつの層成す構造がある。この構造の下限には言わなくても分かるなどに対応する言葉の世界があり、上限には刺戟→反応のようなクリアーなコミュニケーションやその理論の世界がある。そして、遙か太古から現在までの人類の歩み(歴史)を包み込んだようなものとして、その下限から上限までが複合されて言葉は発動しているものと考えられる。また、わたしたちが作品を読むときにも、下限から上限に渡って言葉を発動しながら読んでいることになると思われる。

 最後に、ひとつ付け加えておきたいことがある。ウィキペディアにもある「ブーバ/キキ効果」についてである。


。「ブーバ」という言語音は曲線的な図形を,「キキ」という言語音は鋭利な図形を連想させるようです。この効果は,音声がある特定のイメージを喚起する(音象徴性)というものであり,ゲシュタルト心理学で知られたW.ケーラーが見出し,V.S.ラマチャンドランが広く紹介したものです。音と形は無関係ではないことを示す格好の材料であり,音声に伴うイメージに対して,比較的それに合う図形があることを容易に示すことができます。(木藤恒夫 「音と形の心理学」 http://www.psych.or.jp/publication/world_pdf/63/63-30-31.pdf)


 この「ブーバ」と「キキ」という言葉、あるいは初源的な言葉が、地域や文化や人種を超えて、高い割合でまるっこい画像ととんがった画像とにそれぞれ対応するらしい。たぶん多くの者がうなずきそうな気がする。これも上の「内的コミュニケーション」と同様の、人類の普遍的な古い層としての初源的な言葉の有り様を示唆するものかもしれない。言葉とその語音とは、遙かな不明の靄の中、恣意的なつながりと見なされているのかもしれないが、一考の余地があるかもしれない。柳田国男は、わが国の地名はその土地の形状から来ていると述べている。この場合に、その「ブーバ/キキ効果」があるのかどうか分からないし、また、わたしにはそれを確認する力量はないけれども、土地の形状と言葉としての地名の対応からさらに何か明らかにできることがあるのかもしれない。


註.「ブーバ」と「キキ」の画像


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