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回覧板

ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

(わたしがネット上で呼びかけを開始した「消費を控える活動」のしめくくり)

2017年12月14日 | 回覧板

 (わたしがネット上で呼びかけを開始した「消費を控える活動」のしめくくり)
  


 吉本さんのこの現在の社会の段階と現状の分析から提案された「おくりもの」を、わたし(たち)が生かさなくってなんの思想ぞ、なんの行動ぞ、とふと湧き上がった思いから、わたしが今までにない危機感を感じていたこの復古カビカビ政権に対するリコール運動としての「消費を控える活動」を主にネットという舞台で開始しました。
 
 実際の活動に入り込んだのは、「普通の人」がものを書き始めるとき「作家」に変身して作品世界を築いていくように、私の場合は、「余計なことを考える人」としてのわたしから「普通の生活者」としてのわたしに変身して具体的な提案の行動に入っていきました。もちろん、少し前に公人ー私人問題がありましたが、同一人物なのに「公人」や「私人」の名札をその都度付け替えるとかいうことはありませんから、なかなか明確に区別しにくい場面もあるように思われます。わたしの場合も、その区別が揺らいだ場面もあったかもしれません。しかし、心づもりや原則としては、ふだんのゆったりやのんびりやいい加減なところもあるわたしの生活からちょっとはみ出た、少し意識的な「普通の生活者」に変身しようとしたつもりです。つまり、少し生真面目に他の生活者に手を差し出したということになります。
 
 「消費を控える活動」の開始は、2014年8月でした。途中少し休止もしました。また、考え続けるということは持続していましたが、ここ一年くらいは何ら目に見える活動はしていませんでした。その最初あたりから薄々は感じ取っていました。つまり、我が国が先進中国や先進欧米の大波を被ってきてはいても、この列島の数千年に及ぶわたしたち住民の心性や行動の遺伝的なものは、アフリカや西アジアの「民主化運動」を促した心性とは異なっていて、良くも悪くも温暖気候型だということ、この根強い遺伝的なものがそうやすやすと変わることはないだろうということ。それに、わたしは経験していないけど、一度安保闘争や大学闘争などのラジカルな社会運動の正と負とを経験した以後の、高度消費社会へと変質した社会に現在はあるということ。そんな思いはありました。
 
 しかし、このSNSを通した「消費を控える活動」の呼びかけは、ある指揮系統を持ってデモや署名活動や集会などの形式をとる旧来的な社会運動に比べて、より自由度を持つ未来性のある興味深い運動だという思いは、今でも変わりません。これは太古の小さな集落で「その件はどうしようかね?」というような集落の寄り合いや集会の状況をネットやSNSが仮想的に用意してくれています。つまり、わたしたち住民が、仮想的な世界を仲立ちとして社会や政治に意識的な眼差しを向けある意思を集約することができるのではないかということが可能性として浮上してきていますが、わたしたち生活者はまだそのことを十分に自覚できていないように見えます。したがって、その具体的な道筋も未知だと思います。もちろん、ネットやSNSを利用する人々も多くなってきているだろうとは思いますが、どれくらいの人々がこの仮想世界に出入りしているかも押さえる必要があります。
 
 たぶん、この社会のいろんな小社会や集団の中で、いろんな分野で未来性を持った新たな芽が出ているのかもしれません。現在は、大きな声でかつ空疎な言葉が依然としてこの社会に瀰漫(びまん)してはいても、大きな声の言葉ではなく、個の身の丈に合った小さな言葉こそが、つまり吉本さんの言う「三人以上いれば」(註1)の世界の言葉が、未来性につながっていく芽を持ちうるのだと思います。そしてそのような身の丈のものはまた、わたしたち大多数の生活者が無意識のうちに願っている心や意識のベクトルでもあると思われます。
 
 この現在の政権がずるずる居座り続けているから、個人的には継続しているわたしの「消費を控える活動」のしめくくりも、自然とのびのびになってしまいました。何ら歯が立たなかったようなわたしの活動からこの「三人以上いれば」の世界へのわたしの撤収は、たいしたことはできなかった「消費を控える活動」のしめくくりです。
 
 大多数の生活者が、自分や自分の家族のための生活防衛として取っている消費の引き締めの行動は、悪政や将来の不安から来る無意識的な防衛反応と見なせると思います。わたしは、ただその無意識的な行動を意識的なものに転位させたかっただけです。そしてその気持ちの中には、わたしたちの現在まで数千年に及ぶこの列島民の負の遺伝子(思っていることをきちんと筋道立てて言わないとか他に対して余計な遠慮をするとか政治がいい加減でもなかなか声を上げないなど)を当然ながら意識していました。つまり、そうとう大変なものであるということは自覚していました。
 
 ほんとうに素人のわたしが主にネット上で始めた「消費を控える活動」は、なんかよく見えないような打ち上げ花火に終わりましたが、わたしにとってはいろいろと考えさせられるものがありました。SNSなどを通じた仮想的なものであったとしても割と抽象的な〈社会〉の場に出て自分の存在をその大気や風圧にさらしている感じがありました。それは今も続いていますが、それまで特に文学以外のことはいろいろいいかげんにスルーしてきたことどもを今までになくまじめに考えることを強いられてきたと思います。そして、そのような「余計なことを考える人」としてのわたしがいろいろ考えたことを、少し意識的な「普通の生活者」としてのわたしにつなげて、もっと具体的な行動をいろいろと練る必要があったと思いますが、そのことはあまりできなかったように思います。ひとつ考えたのは、もっと簡潔なわかりやすい言葉にして「消費を控える活動」の提案の文章を書き換えようと考えましたが、難しいなと感じてそこまではいけませんでした。(我が国の知識も言葉も、遙か太古から知識層や政治世界の知識や言葉と生活世界の知識や言葉との間に大きな断層を持っていますから、わたしたちはこういう配慮を強いられています。)
 
 という次第で、個人的には意識的な「消費を控える活動」はこれからも継続していきますが、他の人々に呼びかける「消費を控える活動」は、休止します。そして、「三人以上いれば」の世界へ帰って行きたいと思います。
 
 依然として、根の浅い「右や左」「リベラルや保守」などの不毛な概念が社会に飛び交っていますが、それらはわたしたちの生活世界の諸課題を隠蔽するものでしかない、不毛な死んだ概念だと思います。この列島社会では、その生活世界自体から出立し、そこをよりどころに思想を構成し、また生活世界に帰って行くというような、漱石に習えば〈生活者本位〉の生活思想や政治が生み出されたことは未だかつてほとんどありません。わたしたちは、依然として外来のイデオロギーや思想、あるいは敗戦で一度死んだ復古思想やイデオロギーを接ぎ木して政治や思想や教育などを得意げに語る者たちが大きな声を出しているという不毛の風景に立ち会わされています。また元「民進党の右派」のような「安全保障」や「軍事」ばかりを語る者は、政治経済の構想もなく国内政治の諸課題からの逃げや隠蔽でしかないように見えます。大体、現政権の北朝鮮への煽り行動や自治体のミサイル避難訓練(?)という茶番は、国内向けのものでわたしたちの意識を一つの方向に統合しようとするもの以外ではありません。こんな風にして政治や行政は、普通の人々が抗い難い形で社会にくさびを打っていくんだということをわたしたちは目の当たりにしています。政治がどのように作為や成果の誇大宣伝をしようとも、わたしたち大多数の生活者の意識や生活こそが主流なのだという認識と対応を持たないならば、家計消費がGNPの過半を占める現状では特に、そのような政治は必ずしっぺ返しを食らうはずです。
 
 「消費を控える活動」は、それらを蹴散らすことをも意味しましたが、今度は、それらに私の内心で密かに対峙し続けることになると思います。
 
 少数の賛同していただいた方々、ありがとうございました。

(最近、パソコンが急に壊れてしまって、わたしが一部記憶している以外は、誰がツイッターでRTや賛同をしてくださったかなどがよくわかりません。したがって、一般的な挨拶とします。)
    西村 2017.12.14



(註1) 「三人以上いれば」については、

http://dbyoshimoto.web.fc2.com/DBYOSIMO/INDEX02.htm

(「データベース・吉本隆明を読む」の項目469と473)参照。


覚書2017.4.18 生活者住民としてのわたしの原則

2017年04月18日 | 回覧板

 覚書2017.4.18 生活者住民としてのわたしの原則
   (少しずつ、考えを深めていくつもりです)


 はじめに

 過去わたしは、わが国の政府がPKOや米軍への給油活動などずるずると自衛隊を海外に派遣しているアメリカ従属の行動を苦々しく思ってはいたが、それ以上考えを進めることなく、いいかげんに政治は動いているが、まあたいしたことは起こらないだろうとのんきに構えていた。選挙にも行ったことはなかった。選挙に行き始めたのは、3.11以降である。3.11の大震災と原発の大事故はこの列島社会の上に立って牛耳る者、牛耳る層がいるムラ社会やムラ政治を大衆的な規模で可視化した。つまり、大多数の者がこの国の政治や社会の仕組みがなんとなく変だなと感じ始めたということである。

 3.11の原発の大事故とともに、いくら現在の社会が大規模などん詰まりに見舞われているといっても、未だかつてなかったような異例ずくめのアブノーマルな(危のうおまんなあ)政権(イデオロギー化した排外主義者の「ネトウヨ」を親衛隊とし、少し分別のある亜「ネトウヨ」が取り巻きながらの、日本会議等-安倍政権)が誕生するとは想像だにできなかった。残念なことに、おちおちのんびりもしてられないなという心の状態に現在のわたしはある。

 しかし、この最悪の政権、最悪の政治は、わたし(たち)に考えるということを強いている。憲法九条の問題や外交の問題や生活者としてどう考え振る舞うかなど、わたしはそんなことは具体的に考える必要なんかないだろうと思っていたことが、あれよあれよと具体的に考えざるを得ない状況が生起してきている。

 ほんとうはわたし含めた国民(生活者)は、過去の選挙で「決められない政治」に持ち込むべきだったと今もわたしは強く考えている。つまり、わたし含めた国民(生活者)はこの最悪の政権を自分たちがなんとかコントロールできるさと過信したか、日本会議等-安倍政権の正体を見誤ったかのどちらかだと思う。「決められない政治」どころか、口先だけで、すべての立法や政策がわたしたち生活者住民の方を向いてはいない、最悪の政治を行っているからである。

 現状の最悪さが、わたしたちに深く考えることを強いている。もちろん、日常生活の圏内での、私的なのんびりさや心地よさやいいかげんさは大切だ。しかし、そこから生活者としてあるいは表現者として出立していく場面では、今までにない表現する言葉の緊張と重みということを感じている。


 1.自分の居住地域に関することがら

 地域の行政は本来は生活者住民の生活環境の利便性をはかったり諸サービスを提供するのが存在理由のはずであるが、現実にはそうでもない場合もあり得るから、生活者住民としての消極性としては、自分の居住地域に関することがらは、わたしたち住民に不便や害などをもたらさないかという地域住民本位として考える。

 また、居住地域に関わる問題はその地域の市や県の関わりで終わる場合と、大規模な公共事業などでは国-県-市がつながり合っている場合とがある。この後者の場合は、全国に渡る国の行政の方針などと関わってくる。しかし、一般には、自分の居住地域に関することがらはこの後者が関わってこない限り、そんなに異論を唱えようと思うような場面にはほとんど出会わない。

 しかし、もしその地域に関わる具体的な問題について論議したり何らかの行動せざるを得ない場合は、ひとりの生活者住民として考え行動する。他人がどんなイデオロギーや政治や宗教の信条をもっていようが、そこから下ってくるものがあろうが、イデオロギーや政治や宗教の信条は鞘に収めてあくまで生活に関わる具体的な問題として町内会的な話し合いと行動になるだろうし、なるべきだと考える。このことは、次の自分の居住地域に国の行政や方針が関わってくる場合においても原則としては同一である。

 なぜこういうことを言うかといえば、世界には依然として住民を巻きこんで背後に特殊利害を貼り付けた宗教対立やイデオロギー対立があり、武力によって血が流され続けているからである。生活世界の具体的な課題に対しては、原則、町内会的な話し合いと行動になるほかないからである。

 自分の居住地域に関することがら以外のこと、例えば、現在の東京が抱えている築地市場移転問題・豊洲問題は、わたしの関心の外にある。しかし、その件で直接の利害・影響を受ける住民、それから都民に対して、なんとかうまく行けばいいなと思うことはある。わたしたちは、この列島という社会の同じ住民であるからである。


 2.自分の居住地域に国の行政や方針が関わってくる場合

 自分の居住地域に国の行政や方針が関わってくる場合がやっかいである。現在的な問題で言えば、沖縄の基地移転等の問題や原発の再稼働や稼働の問題がある。この場合、従来的には国-県-市のつながりは同じような考えを持つもので占められていた。基地問題がもたらす様々な事件等に住民が長らく苦しめられてきたという事情もあってか、沖縄の場合は、現在は国-県-市のつながりは切断・対立している。こういう状況にあっても、市や県レベルでその地域住民の多数の意志が示されても国の行政のやり方をひっくり返せないという問題がある。この件でいえば、他国(アメリカ)との安保条約関連の外交関係も絡んでいる問題であり、しかも政権や官僚が積極的なアメリカ従属という方針と行動を取っているという問題がある。

 こうした高度の複雑さを内包した地域の問題の場合、現在のところの近道はない。今まで少しは地域住民の方に行政は開かれてきたということは役所との対応などで肌感覚で感じることはできる。しかし、沖縄の基地移転等の問題や原発の再稼働の問題に見られるように住民の意志に対して地域や国の行政は依然として開かれてはいない。これはもちろん、地域や国の行政が地域住民の意志に対して開かれていくべきなのだ。それとともに、それらへの根本的な解決は、国家や行政がわたしたち生活者住民に仕えるのが本来の仕事だ目覚めてアメリカ従属からの自立をはかっていくこと、わたしたち生活者住民においては、そうした他の地域の人々に降りかかった問題に対しこの国の良い慣習である「相互扶助」の考えのような配慮を磨くことと国家や行政のアメリカ従属というヘタレの国家から自立して自分たちの生活世界を考えていくことだと思う。この生活者住民としての独り立ちは、私たちの祖先が国家に囲い込まれてきたという数千年の悪しき遺伝子を振り払うことでもあるのだから長い道のりを要するのかもしれない。


 3.政権を直接的にリコールするを代替する「消費を控える活動」

 現在のところ、わたしたち生活者住民にはこの最悪の政権を直接的にリコールするリコール権がない。政治の言葉を決定的に空洞化してどんなことをやっても責任を取らない、この最悪の政権を目にしていると、その政権をリコールできるリコール権の必要性がひしひしと感じられる。しかし、悲観的になる必要はないと思う。

 未だ社会的に十分に気づかれていないように見えることがある。灯台もと暮らしのように特に学者さんたちは思いもしないことだろう。GNPの六割を占めるという家計消費の意味である。わたしたちは、知らない間に「六割」の経済的な力(権力)を手にしてしまった。この力をわたしたちが行使すれば、―それが多ければ多いほどダメージは増大する―いかなる政権をも倒せるという、経済的な力をわたしたち生活者住民が潜在的なものとして手にしてしまっている。このことは今は亡き吉本隆明さんがこの消費資本主義社会の現状をていねいに分析されたものであり、わたしたちへの無償の〈おくりもの〉であると思う。

 吉本さんは、食費などの必需消費は控えないでわたしたちの生活を落とすことなく、娯楽費や趣味関係などの選択消費を控えればいいと述べられていたけど、わたしは選択消費以外の食費などの必需消費もずいぶん抑えている。それほど最悪の政権、最悪の社会状況だと思うからだ。「森友問題」等々ようやくその政治・社会への汚染状況が表面化してきている。わたしたち生活者住民の意識や力が試されているのだと思う。

 安倍政権の親衛隊である「ネトウヨ」や政権支持者や現在の日銀政策で投資や株で潤っているだろう人々は、この「消費を控える」という活動に何ということをするのだと妄想的になって対立するのかもしれない。かれらは自分の経済生活が第一で―そのこと自体は誰もがそうだからいいが―また、自分の排外的なイデオロギーが第一で、現在の派遣社員の増大と所得の減少など我関せずなんだろう。この列島の伝統的な感性である他者を思うという相互扶助やもやいの考えは全くない。自己利害と経済全体が短絡的につながっているだけなのだろう。まあ、彼らは自転車2台とか1日牛乳2パックとかステーキ一日に3枚とかタバコ1日100本とか消費増大活動をやればいいさ。生活実感のない観念的な妄想を呼吸するイデオロギストの「ネトウヨ」は別にして(イデオロギーの羽衣を脱げばただの生活者になるはず)、こうした、生活者住民間の対立は、大小含めてこの社会には現在においてもたくさんあり得るだろう。あの「大阪都構想」問題の対立もそうである。ただ、この列島社会の現在では戦国時代のような武力対立にはならない。それが救いではある。

 この最悪政権は、わたしたち多数の生活者住民の方を向いてはいない。つまり、株価操作にも関わる円安誘導であれわたしたち多数の生活者住民の生活とはほとんど関係ないことである。つまり、わたしたちの利害を食いつぶしわたしたちの利害と対立しているのである。わたしが「消費を控える」活動を開始し、訴えている所以(ゆえん)である。もちろん、消費を控えることは少しは我が身を締めることではあるが、それ以前に現政権の諸政策によってわたしたちは首を絞め続けられているのである。