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誰かがやっている・続

2019年12月20日 | 批評
 誰かがやっている・続


 初めてこの長編詩『記号の森の伝説歌』に出会った時には、ほとんどこの詩の世界に入り込めなかった。すなわち、わけがわからなかったが、何度か読むうちに少しは入口が見えてきたような気がする。

 長編詩『記号の森の伝説歌』を何度か読んだ上で、目次を眺めている。この長編詩は、「舟歌」「戯歌」「唱歌」「俚歌」「叙景歌」「比喩歌」「演歌」のパートからなっている。おそらく、作者は、深い歴史の流れの中の現在(現代)を生きてきた〈わたし〉に、それらの多様な歌を通してこの世界の有り様に立ち会わせている。詩句にもあるが、「概念がエロスだった」というように、言葉が行使されている。あるいは、言葉が流露している。ちなみに、長編詩『記号の森の伝説歌』のもとになった連作詩篇を『遠い自註(連作詩篇)』(猫々堂)に編集した松岡祥男さんの「編集ノート」によると、『記号の森の伝説歌』について、作者は次のように語ったとのこと。


 私はそのモチーフについて質問したことがあります。吉本氏は「じぶんたちの世代は、歌といえば、唱歌か軍歌しかないから、歌を作りたいとおもっているんです」と語りました。


 現代詩は一般に、流行歌謡のようにやさしい言葉でなめらかにというわけにはいかない。長編詩『記号の森の伝説歌』では、十分に内容がたどれないとしても言葉のエロスが十分に放出・表現されている、その感触は、読者に伝わると思う。そうして、吉本さんは、『固有時との対話』以来、詩の批評性というものを意識的に携えて来ているように見える。批評性とは、思想性や内省ととってもよい。したがって、この詩集を十分により深く味わい尽くすには、吉本さんの全思想を踏まえることが大切だと思う。

 せっかくだから、長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」の部分とそのもとになった詩のひとつ、「連作詩篇」の「メッセージ」とを対照してみたい。


1.
 メッセージ

読者は森に集って
車輪で圧しつぶされた文字の
残骸を悼んでいる ちらばった
扁を指して嘆くのなら 文字の
起源について泣くべきだ

「妹」 その「声符(せいふ)は未(び)」
未だ愛恋を販らなかったのに
「姿」 その「声符は次(し)」
「それは『立ちしなふ』形であろう」
「立ち歎(なげ)く女の姿は 美しいものであった」

ひとりひとり
イメージの鳥になって
月の輪に影をついばんでいる やがて
うなだれた塑像みたいに
こわれたキイ・ワードを
組み立てはじめる

その一語のために色づいた
村の妹たちに触れてきた 乳房は
森のうしろ 双(ならび)が丘になった
風に揺られ 神話のなかでは
概念がエロスだった
永遠という旅の途次の字画よ

そのままで どうかそのままで
こわれた村の妹たちは 都会で
「新見附」という文字に抱かれている

いつか明け方
陸橋のしたの路を
森に入りそこねた活字を束ね
新聞配達が通りすぎる
 (『遠い自註(連作詩篇)』、『吉本隆明資料集57』所収 猫々堂)


2.
 長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」
 詩「メッセージ」との対照で言えば、L1の「集って」が「あつまって」に、L7の「未だ」が「まだ」に変更され、新たにルビが付けられている語がある。もとになる詩「メッセージ」全体が長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」の一部に取り込まれていて、以下のようになっている。両者の異同については、ルビを除く異同がある箇所はその行の最後に「★」記号で示す。


         *****
         * (引用者註.この記号は、「Ⅶ 演歌」の「6」の意味のようだ)

読者は森にあつまって ★
車輪で圧(お)しつぶされた文字の
残骸(ざんがい)を悼(いた)んでいる ちらばった
扁(へん)を指して嘆(なげ)くのなら 文字の
起源(きげん)について泣(な)くべきだ

「妹」 その「声符(せいふ)は未(び)」
まだ愛恋(あいれん)を販(う)らなかったのに ★
「姿(すがた)」 その「声符は次(し)」
「それは『立ちしなふ』形であろう」
「立ち歎(なげ)く女の姿は 美しいものであった」

ひと画ひと画が ★★
イメージの鳥になって
月の輪に影(かげ)をついばんでいる やがて
うなだれた塑像(そぞう)みたいに
こわれたキイ・ワードを
組み立てはじめる

つくられた一語に色づいた ★
村の妹たちに触れてきた 乳房(ちぶさ)は
森のうしろ 双(ならび)が丘(おか)になった
風に揺(ゆ)られた神話のなかでは ★
概念(がいねん)がエロスだった
永遠という旅の途次(とじ)の字画よ

そのままで どうかそのままで
こわれた村の妹たちは 都会にでて 夜ごと ★
「新見附(しんみつけ)」という文字に抱(だ)かれている

いつか明け方 窓(まど)から見おろすと ★
陸橋のしたの舗装路(ほそうろ)を ★★
森に帰りそこねた活字たちを束(たば)ね ★★
新聞配達が通りすぎる

         *****
         **

 (長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」P144-P147 角川書店 1986年12月)
 ※この長編詩の組み方は各行が上下しているが、「吉本隆明インタヴュー」(「而シテ」1989年)でそれは自分の意向ではないと吉本さんは語っている。読みづらいので各行頭揃えにしている。


 まず、もとになった連作詩篇「メッセージ」と長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」では、「連作」と「長編詩」というなんらかのモチーフを持つという点では共通していても、そのモチーフの固有性は違っていると思われる。もしモチーフが同じとするならば、あえて長編詩『記号の森の伝説歌』としてまとめ上げるのではなく、『遠い自註(連作詩篇)』という詩集としてまとめ上げればよかったはずである。この件についても、上記の松岡祥男さんの「編集ノート」によると、『吉本隆明全集撰』第一巻(1986年9月刊)の川上春雄氏の「解題」(1986年8月16日付け)にその事情が記されているという。これに当たったみた。


 近刊が予定される吉本隆明詩集『記号の森の伝説歌』の成立は、もともと角川書店『野性時代』に連載された作品を発端としている。すなわち、一九七六年五月号に発表された「雲へ約束した」を連作詩篇1,六月号に発表された「夢の手」を連作詩篇2というタイトルで以後断続的に六十五回ほど連載された詩と、その前年一九七五年の『野性時代』十月臨時増刊号に発表された詩「幻と鳥」とをあわせたものが詩集の本体と考えられる。
 本体とも原型ともいうべきこの作品群に加筆訂正のうえ、やがて『遠い自註』を詩集名として角川書店から刊行されると知らされていたが、今春になると、さらに連作詩篇から長詩へという発想に発展したことを著者から聞いたのであった。
 こんどの『全集撰』において「祖母」への愛惜、追想を含む「演歌」の部分が、著者の意志によって最後の総括部に収録されるのである。



以上をまとめてみると、
1.「連作詩篇」の掲載は、『野性時代』1975年10月の臨時増刊号~1984年3月号まで。
2.「連作詩篇」に手を入れて、『遠い自註』を詩集名として角川書店から刊行予定と川上氏は聞いていた。
3.1986年の春に、連作詩篇から長詩へという発想に発展したことを川上氏は聞いた。
4.1986年9月刊の『吉本隆明全集撰』第一巻に長詩の「演歌」の部分が掲載された。
5.「解題」(1986年8月16日付けの時点で、「近刊が予定される吉本隆明詩集『記号の森の伝説歌』」とあり、それは1986年12月に刊行された。

 ということは、吉本さんは、連作詩篇を書き上げた頃から出版社との話がついてひとたびは連作詩篇を集めた詩集『遠い自註』を刊行する心づもりであったが、それらを総合した新しい詩的作品世界を長詩として構想したということだろう。4.5.を考慮すると、1986年の春に川上春雄氏が吉本さんから長詩の構想を聞かされた時には、すでにその長詩にとりかかっていたものと思われる。

 作者は、「演歌」のこのパートでは、ここではその詳細には触れないが前のパートのつながりから、連作詩篇の「メッセージ」を全部このパートに生かすことにした。連作詩篇と長編詩『記号の森の伝説歌』を少し対照させて調べた限りでは、連作詩篇の詩を一部取り入れた部分もあり、このようにほとんど全部取り入れた部分もある。連作詩篇から新たな固有のモチーフ(ここではそれにはあまり触れないが)の舟に乗り、言葉と言葉のぶつかり・連結などから、とてもいい感じの形に切り整えたり、変更したりしていく。上に印を付けた★はそうした軽い切り整えであり、★★は、固有のモチーフの流れからの変更であると思う。


 長編詩『記号の森の伝説歌』の固有のモチーフ関わることをこの場面について少し触れておく。詩「ある抒情」(1973年9月)と「五月の空に」(1974年8月)は、いずれも『吉本隆明新詩集』(1975年11月)に収められているわたしの好きな詩であるが、そのような「世界のない世界へ/微風のない微風へ/岸辺のない岸辺へ/知の岸辺へ」から言葉の森へ深く入り込んだ、あるいは迷い込んだ、「み籠よ 口ごもる」「恋うる生存」の〈わたし〉が、概念がそのままエロスのような世界の流露に出会っているように感じられる。遙か太古に始まる大きな人間の歴史の流れの中で、自らが生きてきた時代(歴史)の変貌は、概念(エロス)の変貌であり、同時にそれはその概念(エロス)を背負った具体性を持つ人や自然の変貌でもあった。その両者が、作品世界で二重に重ね合わされているように見える。だから、この作品の詩語は概念と同時にエロスを意識的に担わされている。これは詩語しても詩としても新たな詩の表現世界の開示ではないのか。



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