[短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ・続
271
こぼれ出るちっちゃい子の
ふだん着の
「ぽんぽんいくね」に乗り込んでみる
[短歌味体な Ⅱ] 速度論シリーズ
272
タンタンタタタタンタン
タンタタタ
タンタンタタタタタタタタン はやっ!
[短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ・続
269
まぼろしの梅干し赤く
しゅみていく
ぽたりぽったり舌を励起(れいき)す
270
一言(ひとこと)に多言味(たごんあじ)あり
多言にも
ひそやかな一言うずくまり居る
[短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ・続
266
三時とは例えば時計
針の位置
暑い日差しを苦しげに動く
267
デジタルはただその時を
生きている
顔立ちして生ひ育ちゆく
268
せせらぎの水音聴こゆる
画像超え
みどり滴り流れが速い
註.テレビに映るせせらぎの場面や水音から。
[短歌味体な Ⅱ] ささいなことだけどシリーズ
265
今日の風呂場 入れ替わって
並んでいた
いつもと違うリンスとシャンプー
ぐらり つまづくこころ
覚書2
「ソーセキは本名ではなく漱石自らが中国の故事「漱石枕流」からとったペンネームである。」(「ソーセキ君」、『漱石の長襦袢』半藤末利子) 著者は、漱石の長女筆子の娘に当たる。そのペンネームは漱石の友人の正岡子規が名付けてくれたものとわたしは思っていた。
『こころ』の高校教師用解説書にそう書いてあったように記憶する。著者は漱石の名の由来を断定調で書いている。しかし、漱石に近い者だからといってその事実を保証することにはならない。この場合の事実はささいなことではあるけれど、不確かさと共に事実は漂流する。
おそらく作家、思想家など調べていく過程では、こんな風にはっきりしない〈事実〉は、いくらでも存在するのだと思う。人は誰もが不明となっていく足跡の現在を記していく。それがささいな問題であれば別に大したことではないけれど、本人の考え方などに関わる場合は大きい。
覚書3
「昭和十九年十一月に私は父の郷里である越後長岡の在の寒村に疎開」した。そこでの著者の体験。(「六十年前」、『漱石の長襦袢』半藤末利子)
「時には空から蛇が降ってくることもあった。」
「裏庭には高い高い杉の巨木が林立していて、天辺にたくさんのふくろうが棲みつき、夜になるとホーホーと物哀しげに鳴いた。そのふくろうが餌として嘴(くちばし)にくわえたものの蛇に抵抗されて飛び去りながら堕とすのでる。」
空から蛇が降ってくると聞いて、普通は驚き疑い本当のことだとは思わない。しかし、空から魚などが降ってくるというのは何年か前テレビでやっていた。また、わたしが小さい頃、寝ているときにおそらく天井からムカデが降ってきて首を刺され大きく腫れて大変な目に遭ったことがある。
現在の密閉的な建築では、天井からムカデなどが降ることは考えられなくなってきていていっそう信じがたくなってきている。また、たとえば、熊が道路を渡ってきたので遅刻しました、のような言葉に子どもがウソついているのではないかと思ったことがある。
しかしあり得ないようなふしぎなこともたまにはあるのである。さらに遠く飛躍して、イエスが病人に手を当てるとたちどころに直ったというような記述が聖書にある。これも気功などを考慮すればあり得るということになるのかもしれない。科学は時とともにその深度を深めゆく
[短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続
264
塀塀塀門という門
鍵がかけ
られ塀塀塀知る由もない
註.「現在は樹木亭々として景観豊かな庭も古邸も高い塀に囲まれたまま放置されていて、門という門の鍵がかけられているので、内部を窺い知る由もない。」(「是公さんのこと」、『漱石の長襦袢』半藤末利子 文春文庫)
わたしの家のネット回線・接続は、ADSL→光と十五年余りにわたってNTT・ぷららだった。ここ数年か、こちらがしつこいなあと感じるほど他の業者から時々電話セールスがあった。「もっと安くなりますよ」ということで、では勝手に安くして良いですよと応じると、お宅に伺いますとくる。つまり、契約変更が必要で書類手続きが要るとのことであった。こういうやりとりを何度もくり返していた中で、最近、契約変更に伺うことはありません、という電話が来た。疑問に思いつついろいろ尋ねていたら、NTTと回線をシェアするのが前より自由化された云々。今までにないことでいろいろ不審に思いつつも、そのことに感動したわけではないけど、ついいいですよといってしまった。結局、振り返ってみると今までしつこく電話セールスのあった「契約変更」と同じことであった。我ながら愚かにも、光回線供給元とプロバイダーが二つとも変わってしまうことに最初は頭が回らなかった。少し夢見のような気分であったが、替えてみるのも、まあ、いいかとキャンセルはしなかった。
それからが大変だった。ホームページは、引っ越ししなくてはならないし、今までのメールアドレスは、マイクロソフトアカウントや筆まめなどなどいくつものアカウントのために登録していたから、これをメールアドレス変更しなくてはならなかった。20件ほどもあった。また、これからはauひかりで、回線速度が最大1Gpbs (1000Mbps)対応になるので、それを生かすにはギガ対応ではない有線lanのスイッチングハブやlanケーブルを交換しなくてはならなくなった。
現在は、パソコンでもネット回線でも、モデルチェンジが早い。前のシステムから余り面倒もなくスムーズに移行できる場合はいいが、いろんなものが新たな環境になるのはつらい。わたしの面倒くさがり屋のせいもあるが、今までにいろんな設定の困難な場合に遭遇しているから、新しく替えるのには抵抗がある。今回もネットワーク上にのせていた方のプリンターが動かなくなり、二日くらい格闘したけど、認識してくれずに失敗している。
このことで、思い出すのは、この件とは直接関わらないけれど、ネットにおけるパスワードの件である。最近ではパソコン(windows8.1)がいくらかはパスワードを記憶してくれて楽になっているが、それでもちゃんと控えて置かなくてはならない。パスワードの数も増え、その管理も面倒だ。パスワード認証はもう飽和点に達していて、指紋認証かなんかよく知らないが、何か別の形を考えないといけないと思っている開発側もあるのかもしれない。ぜひもっと楽にしてもらいたいものだ。
さらに関連して、こちらもゴミの分別はあるけれども、東京辺りよりは大雑把かもしれない。社会の高度化や複雑化に対応していろんな分野の対策も複雑化してきているが、人間はそんな複雑化に日常的に耐えうる存在ではないと思う。しかし、何でも飽和点に近づかないと対策は本格化しない。
もちろん、考え方さえしっかりしていれば、解決できる複雑化の問題もある。例えば現在の学校の先生の忙しすぎの問題である。成績評価の管理や処理を複雑化させたから、生徒に向き合う時間も減ってそんな雑務に疲弊させられているようだ。先日は、激務のため教頭になる希望者が激減したというニュース記事もあった。わたしから見れば、そんな複雑化させ緻密を装った成績評価は無意味である。その幻想的な価値は、現場を知らないで制度をいじる学者たちや官僚たちの頭の中にしか存在しない。無意味さのために先生たちが翻弄されているとしか思えない。
わたしが教員の時は、テストや提出物を当然参考にするが、いわば直感的に適当に成績を付けていた。それで何の問題もない。つまり、しょうがないから成績付けていただけで、そこには大切な本質的な問題はないからである。したがって、複雑化させた成績評価の管理や処理を取っ払えば、新たに加わってきた無意味な疲弊の問題は、一挙に解決する。ほんとは、こんな場合が、現在の社会には他にもいろいろありそうな気がする。
[短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ・続
263
人界の巨きな年輪
分け入って
〈本願他力〉とイメージす すすっと
註.おそらく、自己責任や自力中心のこの人間界と自力を超出した宇宙という次元(つまり、無に近い人の存在)とが、言葉によってある深みにおいて相互に出会う場から、親鸞の〈本願他力〉のイメージが浮上してくるという思いから、そのイメージ場に向けて。付け加えれば、親鸞のその〈本願他力〉という概念は、当時の仏教の言葉や概念に囲まれながら、一方で、大多数の人々の現世での苛酷な有り様への眼差しを突き抜けるようにして、繰り出されている。しかも、その言葉は現在に生きる思想性を持っている。
[短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ・続
260
くり返すくり返しゆくと
おぼろげに
深く イメージ場に言葉の飛び跳ねる
261
ぼんやりとそこに力入(い)り
イメージの
流れ逆巻き言葉の追いすがる
262
夕暮れの降り来る階段
イメージの
火照る終点(おわり)から花火の上がる
作物を育て始めて四、五年、サツマイモの苗やショウガの種はずっと購入していた。昨年末、ショウガは土は落として洗わずに濡れた新聞紙に包んで発泡スチロールの箱に入れて室内で保存した。今年の4月上旬に箱を開けたら腐れることなくいい状態で保存されていた(写真)。したがって、今年は種ショウガは購入することなくそれらを畑に植えた。
同じく昨年末、サツマイモは畑の隅に小さな穴を掘って(写真)ワラや米殻とともに種サツマイモを埋(い)け、最後に土をかぶせた。一番上に覆いをするのかどうかは説明に書いてなくよくわからなかったが、下まで水が染みこむのじゃないかと思って中途半端な覆いをした。今年の4月上旬に掘り出したら、穴の下まで水が染みこんでいて埋けていた三分の一が腐ったり腐りかけていた。後は、大丈夫そうで少し食べて、種芋を同じ畑の隅に作っている小さい温室に20個程度植え込んだ。
サツマイモの保存用の穴は、深さ80㎝ほどと説明にはあったが、穴の縦横が狭くて、底も固く、身動きが取れずに、70㎝以上は掘れなかった。また、一番上にかぶせる土の厚さが説明より少なくしていたと思う。水が染み込んだ理由は、一番上にかぶせた土の厚さか、一番上に覆いをしなかったからであろう。ちなみに、サツマイモの呼吸用には説明通り中に穴を開けた竹を一本差し入れていた。今度は、別の畑の土手に横穴を掘って(もう掘っている)、試してみようと考えている。ところで、ショウガやサツマイモの保存法は、ネットで調べたものである。わたしの農事は、この無償の〈ネット知〉の助けをずいぶんと受けている。
ところで、サツマイモの種芋を小さい温室に20個程度植え込んだものは、なかなか芽が出てこなかった。見た目は、腐ってなくても良くなかったのかと思いつつ、何度か見回りをしている内に、一個だけ芽が出て葉を付けていた。昨年そこにも植えていたスイカからのものか、スイカも一苗芽を出していた。(写真) サツマイモが1個だけ芽を出していたのを見つけたときのわたしの感動のようなものは説明しがたい。いろいろ失敗することもあるが、農事の「いい感じ」は、そんな特別の場合に限らず、作物が育っていくのを目の当たりにすることにも存在している。しかもうまくいけばわたしたちに収穫という恵みをももたらしてくれる。
ことしのスイカ(昨年より減らして9株)も育っている。(写真) 6月上旬にはカラスよけのテグスを張る予定。