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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

画像・詩シリーズ #16 梅に会う

2025年03月05日 | 画像・詩シリーズ
画像・詩シリーズ

#16

 梅に会う


スイカ畑の下の方の隅に
梅の花が今年も咲いている
(もう春か)

梅の花が少し揺れている
(風が少しあるからだろう)

梅の花たちが
何やら
(言葉とは言えないが)
交わし合っているように見える

そんな風に見える
のはことばの人の
人間だけか?

取りあえずわからない
わからなくても
そんな感じの中に浸かっている

今まで
何度梅に出会ったことか
童話的でもなく
過剰な思い入れもなく
中性的に
ただ景色の一部として
出会ってきたような気がする

思えば
無雑作に引かれた線にも
人は生命(いのち)の足跡や足取りを
感じてしまう
今年の梅には
少しそんな風に出会った気がする



 

画像・詩シリーズ #15 田んぼの現在から

2024年09月07日 | 画像・詩シリーズ
画像・詩シリーズ

#15

 田んぼの現在から

植えられた稲の苗が
静かに風に吹かれている

上の田んぼから流れ込む水
と下の田んぼへ流れ下る水
考え出された長年のシステム
ぴいんと張られた水の中
稲も日々育っていく

見てはいないけど
この稲は
手植えではなく
田植え機械によるものだろう
なぜなら現在は
ほとんど機械による田植えになってしまったからだ

数年前のニュースでは
人工衛星を通してコントロールし
無人で田植えなどができるそうだ
そういう動向は止まることはないだろう
あるいは
稲作に土は要らなくなる
もあり得るかもしれない
そうして
種蒔きから収穫まで
現在と違ってどんなに高度化していっても
生産する人と それを眺める人と
単なる仕事 単なる収入
を超えて
(いい風が吹いてるな)
(ああ よく実が入っているぞ)
柳田国男が発掘した
農の感動のようなもの
の中に人がしばらく立ち尽くす
それは止むことがないだろう 






画像・詩シリーズ  #14 はじまりの映像から

2024年07月30日 | 画像・詩シリーズ
#14

 はじまりの映像から

ことばの人が
言葉の小さな火を点しながら
とぼとぼ歩いて来た
ゆらゆらの水鏡みたいなものではなく
もっとクリアーな映像が手に入れば
言葉は不安がなくなるのに?
(ほんとうに そうか?)

そんな思いを抱きながら
ことばの人は歩いて来た
言葉よりも映像の方が
全体を一挙に指示してしまう
物語の波瀾万丈も
映像なら易しい
はじまりは 薄ぼんやりに見えて
一挙に全体が伝わって来た
(遙か 母と自分の間の クリアーな察知?)

言葉が音楽にあこがれる
情感を音とリズムに乗せて
一挙に放つ
一挙にからだで感じ取る
(遙か 母と自分の間の クリアーな察知?)

はじまりの映像が終わり
はじまりの音楽が終わり
言葉がはじまった
何かが終わり
何かが始まった

(もう終わってしまったのだ)

曲がりくねった道を歩いてきた
今や言葉は当然のように
自然な顔をして歩いている

(大きな断層)

それでも
はじまりの映像や
はじまりの音楽や
気になってしまうことがある

言葉の中のぼんやりした映像
言葉の中の不確かな音楽
(よくつかめないな)
言葉の不安が響いてくる 






画像・詩シリーズ #13

2024年06月13日 | 画像・詩シリーズ
#13
 
 時間が埋もれている
 
例えばひとりの人の写真があり
眺めていると
その人に埋もれている時間から
匂い立つものがある
 
誰もが
赤ちゃんや少年や青年の時間を
潜り抜けてくる
それぞれの時代は
古びて
消失してしまい
現在(いま)があるように見える
けれど
それぞれの時間は
現在(いま)のどこかに埋もれている
あるいは 現在に溶け合っている
そうして現在は 人に古いものを浮上させる力能を与えている
そうでないと
それぞれの時代の光景を
現在に選択・構成されて
いくらかでも現前させることはできない
ように思われる
 
ひとりの人に限らず
生きものも物も風景も
見分けにくいけど
現在(いま)の中に
いくつもの
踏みしめられたり
飛躍したり
断絶したり
の古い時間が埋もれている
あるいは 現在にいくつもの時間が溶け合っている
ちょうど ほら
その石垣の現在の姿にも




画像・詩シリーズ  #12 お茶を摘む

2024年04月30日 | 画像・詩シリーズ
#12


 お茶を摘む
 
畑の際にお茶の木がある
現在からの視線では
ふしぎに見えるかもしれない
内からの 降り積もった時間の視線では
それは自然なこと
 
それぞれの家の敷地には
柿の木などがあり
山林があれば
杉や檜が植えてあり
家の修理や小屋作りなど
万一に備えた配慮の光景だった
 
高度経済成長が波及する以前には
子どもを連れて近くの川で洗濯したり
自給自足経済が
まだみどりの表情で生きていた
それから
消費経済が増殖し
波及し 波及して
変貌してしまった
現在の表情がある
 
(これらは
善悪を超えた
にんげんの
時間の泳法であるか
・・・
そうなのかもしれない)
 
畑の際に今も残っている
お茶の木
お茶の葉を摘んでいる
わずかばかりだけど
お茶に煎(い)って
飲んでいる
 
昔を懐かしんでいる
わけではない
畑の際にあるから
なぜかここ数年
茶を摘みお茶を作っている
(ああ あの熱い茶葉を揉(も)む
いい匂いがするんだよなあ)






画像・詩シリーズ  #11

2024年02月20日 | 画像・詩シリーズ
11.

 ふくらむ
 
寒い季節なのに
椿のつぼみが膨らんでいる
膨らむは
膨張する
力がみなぎっている
たぶんつぼみだけではなく
大地に刺さった椿の木
全体が膨らみの力を支えている
そうして
椿の花ひらく
花ひらいたら
実を結ぶため
甘い蜜もふるまう
 
だから
つぼみだけではなく
椿の木全体が
ふくらんでいる
 
人もまた
ふくらむ
からだとこころが
張り詰め緩みをくり返し
長い日々の
ふくらみの丘を越えて
新しい命が生まれ出てくる
 
ふくらむ
ふくらみを見ていると
ことばの人もまたふくらむ
ふくらみに震えて
温(あった)かいふくらみの言葉を放ったりもする
 
#画像・詩シリーズ



画像・詩シリーズ #10 木の剪定をする

2023年12月01日 | 画像・詩シリーズ
 木の剪定をする
 
今は亡き父が畑に植えていた
真木の木が伸び過ぎている
放っていてもいいだろうけど・・・
(現在と将来のこと いろいろ思い考えて)
ともかく剪定することにした
 
真木の木を剪定する
下の方には枝葉がほとんどない木も
頭頂部を伐る
(枯れてしまうことはないだろうか・・・)
脚立と自分の高さと木の切断部
うまくやらないと危うい
ノコギリで切り進めて
頭頂部が離れるあたり
(うっ と集中する)
ぼくの体の横をずずずっと滑り落ちていく
 
いくつもやっていると
要領がわかってくる
昔の人みたいに
木を伐る時
木につぶやくことはない
けれど単なる〈もの〉とも思えない
ただ 木を剪定して
幹や枝を切り落とし
適当なところに積み重ねる
(どこか 人の散髪みたいかな)
(木々の間の木は 少しすっきりするのだろうか わからない)
 
そこには他にもいろんな木がある
名前は知らない
〈その木〉〈この木〉〈あの木〉
と思う
遙か 〈木〉と名付けられる以前
のことばの人を思う
〈お おお いおい・・・〉
(途方もない時が流れ 流れる)
色んな名の木が生まれる
そうして次には
時間の川から抽出されて
〈木〉がそびえ立つ
それから〈その木〉〈この木〉〈あの木〉が動き出す
 
・・・不明の時を経て
時間の川原 今ここに
木があり ぼくがいる



画像詩 #9 昔は・・・

2023年10月25日 | 画像・詩シリーズ
 昔は・・・

時間を下ってゆく
もういろんなものが
霞(かす)んでいる
それでも
ふとしたことで
記憶が立ち上がることがある

行政用語の正式名称は知らないが
老人ホームらしきものが
前方にある
ずっと昔 社会党の市議会議員をしていた人が
建てたという話を聞いたことがある
どういう事情で
どういう理念を持ち
始めたものか知らない
中の利用者が
快適なのか 問題ありなのか
まったく知らない
建物が三つ四つと増えてきたのは知っている

よく知らない距離感で
建物たちが見える
逆に
畑にいるぼくも
向こうの中の人たちから
色んな視線で見られているのかもしれない

時間をさらに下ってゆくと
そこは小山だった
小さいぼくらは
夏には小山の手前の川を渡って
小山の中にある赤いヤマモモの実を取って食べていた
もうその木の場所も忘れてしまった

もっと時間を下ってゆく
と 人も少なくなり
風景が変わるのだろう

もっともっと 遙かに時間を下ってゆく
まだ人類が現れる前
それは自然に
火山の噴火の溶岩流が
多良山系を下って行ったのだろう
たぶんその小山もそうしてできた


 

画像・詩シリーズ #8 思わぬことがあり

2023年09月07日 | 画像・詩シリーズ
画像・詩シリーズ  #8

 思わぬことがあり
 
どのくらい草が伸びているかなと
畑の見回りに出た
その日もとても暑い日だった
 
下の畑の人と話し込んでいて
ふと自分の畑に目をやると
ひどく低いところを電線が新たに通っていた
(後日測ったら一番低いところで地上180㎝だった)
電線にしてはストレートではなく
なんかヘンな飾りのようなものが巻き付いていた
ふしぎに思ったが
そこから引き返して電線に落ち着ついてしまった
 
わたしの畑に電線が新しく通っていた
(普通なら他人の敷地を通す時は必ず承諾を求めに来る
しかしそれはなかった)
何か変ですねと下の畑の人と話した
 
土日明けの次の週初めに
電力会社の営業所に電話した
いくつかの電話の音声案内の分かれ道を通って
やっと人の声に到着した
メモして帰った電柱の番号などを告げても
何か反応が鈍い
結局それは「電柱」ではなく「電信柱」だった
電力会社ではなくNTTだった
 
そういえば
落ち着いて見上げてみると
上部の付属物やケーブルから見て
「電柱」ではなく「電信柱」だ
(何という思い込み
けどコンクリート製の柱だけほんやり眺めていたら
よくわからない)
 
ところで
今では電気は「電柱」で通信は「電信柱」と呼んでいるらしいが
まだ黒電話が普及していなかった
わたしの小さい頃は
今言う「電柱」のことは「電信柱」と呼んでいた
ような気がする
 
石川啄木の歌によると
「かぞえたる子なし一列驀地(ましぐら)に北に走れる電柱の数」
宮沢賢治の「月夜のでんしんばしら」( 1921.9.14)という短編では
その「電信柱」は
電気とも通信とも関わっているようなのだ
当時の「電柱」と「電信柱」の姿は
調べてみるとわかるだろう
しかしもうこれ以上は下って行く気はない
ただわたしの言葉の耳は
電気を通す「でんしんばしら」をたしかに保存している
 
たわいもない
ことかもしれないが
(でんしんばしら)
忘れていた
遙かな耳の記憶に出会ってしまった
 
その畑はイノシシが出入りするから
木立ダリアを際に植えたり
フキノトウを取ったり
草刈りしたり
するくらいしか利用していない
畑の上の低すぎる電話線のケーブルは
きちんと対処してもらうことになった
それはいい
問題は
(誰にも判断の誤りはあるにしても)
わたしが電話の通信ケーブルと電気の電線を間違ったこと
よくあるささいなことかもしれないが
軽いショックを受けた


註.
道を隔てた畑の反対側に家が何軒か新築中で、電柱も通っている。その電柱と共用していた電話線とケーブルテレビのケーブルが、それらの新築の家の邪魔になって移設してくれと言う依頼があって、しかも相手業者の遅い申請と締め切りの切迫とで今回のような事態になったらしい。
 


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画像・詩シリーズ  #7 どういう事情があったものか

2023年08月06日 | 画像・詩シリーズ
画像・詩シリーズ  #7
   
どういう事情があったものか
 
十年ぶりくらいの東京
といっても
いつも避けられない用事で来るばかり
 
夕方、高円寺駅横のJRのホテルから
高円寺商店街に出てみた
「高円寺商店街」といえば
あの、えーと、あの詩人がいたなと
思い出せない
後で調べたら
「ねじめ正一」だった
 
高円寺商店街を二人で歩いていたら
先の方に高い大きな木が見えた
二人で(なんだろう )
とそこを目指してみた
 
表札はあったが
家屋に竹や木が密集して
廃屋のようだった
(何があったのだろう )
と周囲を巡ったが
よくわからない
ただ敷地としては広い方だと思えた
 
見上げると
大木や竹がそびえていた
ここでどんな物語が展開してどんな終末があったのか
誰かが亡くなり誰かが相続したものか
わからない
ただ長く放って置かれてこんなになってしまった
のはわかる
柳田国男の「清光館哀史」を思い浮かべてしまった
 
大都市の中心部であろうが周辺部であろうが
こんな小さな物語の終末と
受け継ぎの物語がある
たぶん 人は
右往左往しながら
なんとかやりくりしていくのだろう
 



#画像・詩シリーズ