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詩『言葉の街から』 マイ世界論シリーズ 序詩

2024年08月20日 | 詩『言葉の街から』
※ 詩『言葉の街から』 対話シリーズ は休止します。


詩『言葉の街から』 マイ世界論シリーズ


 序詩


砂利道だった時には目立たなかったひとつの小石が
舗装された地面の上のひとつふたつの小石なら
目立ち気になることがある
(いや いずれの場合も
気にならないことがあり
気にかかることがあるさ)
 
(風が出て来た)
 
(し、しっ、し 詩が)
と密かに荘厳なひみつを共有するような
ことはもはや詩にはない
ただ公然と
はっきりするところははっきりと
語ればいい
よくわからないことはわからないままに
語ればいい
 
(風が吹いている)
 
木の葉が散る
つい二昔前までは
そこに(どこに?) 何か神を感じていた
家の中にもいくつもの神が座していた
当たり前のこととして
水神さん 火の神さん
人は小さな信の日差しを浴びていた
 
それがもう 今では
人には無縁に
風は吹いている
人と風の間は 乾いて
まったくの無に近くなってしまった
あるいは ぎこちなくなってしまった
(まあ それでもいいんだけどさ
人は人間の本質に促され貫かれ
変貌し 歩いて行くだろうから)
 
 ********* 
 
この地に産まれ育ち
あちこち移り住み
またこの地に戻り
今までにいろんな所に入り込み
割と閉ざされた小さな世界で
自分の心の手もことばの手も汚しながら
たくさんのことを見聞きしてきた
そんな実感が自分のことばのからだの今を流れている
 
はじめに
幼子も
幼い人類も
気づきはなく
言葉はなかった
世界は暗闇でもなかった
ただ人も動植物みたいに世界に溶けて
自然に動き回っていた
(と 微かに見える)
 
いつの頃からか
どうして生まれたものか
〈あ〉 〈お〉 〈う〉 〈え〉 〈い〉
母音が森に流れ 響き
森を揺さぶり出した
途方もない
時間の反復を経て
半ばうれしげに
半ばさびしげに
母音の森にことばの人が姿を現す
 
ことばの人は森を越え 川を渡り 山に上る
もっと日の当たるところ
きれいな水が湧き出すところ
心地よい風の渡るところ
ことばの人は旅をする
〈ああい〉 〈おおう〉 〈いえい〉
言葉たちも動き出す
(と 微かに見える)
 
山上の大岩が
触れ触れられ
名付けられて
揺れている
日差しを浴びていた
 
ある時
山上の大岩は
ころころと
幻の道を転がされて
麓の神社なるものに納まった
不思議な神々も鎮座した
幼児の言葉が少年の言葉になってきた
(びくん と 飛躍が見える)
 
人見知りの少年が
世のかけひきにも通じ
しぶとさの鎧もまとうように
ことばの人も
言葉たちも
変貌してきた
(と 視線が流れて行く)
 
 ********* 
 
(近代以前の人についてだったか
文章の流れの中で
柳田国男が何度か触れている
人々は今以上に純朴だったと)
十分に大人になった人類は
もうかけひきにも慣れ
近代になってからか
暗いことを見つめ描写するのが
〈カッコいい〉
という時代があり
青白い純文学が
われもわれもと苦吟し詩や物語が積み重ねられた
 
けれど
時代は暗転し
戦争期の
文学の病は振り捨てられ押し込められ
健康的な
古き良き日本!
純日本人!
鬼畜米英!
撃ちてし止まん! 撃ちてし止まん!
先祖返りの
力強い明るい言葉たちが表通りを行進する
そんな大通りの大声と裏通りの小声の二重構造は平和な現在にも現存する
(と さまざまな音色で聞こえてくる)
 
敗戦による急な切断
硝煙の終わり
帰還する帰還する
ひとりひとりの場所へ
右往左往する荒地から芽ばえる
言葉たち
立ち直る社会と共に成長していく言葉たち
ガンバリガンバルガンバルンバ
飢餓からだいたい抜け出して
〈ほんとうに 昔は貧しかった・・・〉
戦後も十分に熟した頃
〈明るくてもいいんじゃない〉
〈楽しいこともいいじゃん〉
とサブカルチャー辺りから
小声でも大声でもなく
何遠慮するでもなく
平常心からか流れ出した
フツーの言葉たち
 
インターネットが張り巡らされ
増殖する 増殖する
SNSの扉も開かれ
どっと入り込む
まぼろしの人 人 人
〈わたし〉と〈他者〉
〈わたし〉と〈事象〉
つまり〈わたし〉と〈世界〉との距離が
幻想の扉を潜ると
ぐーんと縮まり
何でもできる
自在感を手にする
フツーの言葉たちが
シン次元に入り込んでいる
 
ところで
いつの時代も
実感としては
ひとりの人の生涯の各時期のように
それなりに感じ考え
生きてきたのだろう
 
たぶんひとりひとりの言葉の深みには
この社会の重力がかかっており
時代とともに重力も変位する
さて現在の重力下の言葉は
〈暗いなあ〉 〈明るいね〉
二つの言葉の相から離脱して
どのような舟旅を促されているのだろうか
 
人間の幅や深さに促されて
言葉はどんな姿や表情や振る舞いもできる
ただ言葉たちの主流は
現在の重力下に引き寄せられて流れて行く
(〈マイ世界論〉が必要だな)


(マイ・世界論
欧米由来・アジア中国由来
貧しい(?)この列島に引き寄せ押し寄せた
外からのものの接合の
それは仕方がない(?)
それでも
それらに慣れてしまったぼくの言葉の生身と
それらの言葉との差異は
確かにある)