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イメージの層の現在から

2019年09月07日 | 批評
イメージの層の現在から
 
 
 今年初めての彼岸花が咲いていた。
 彼岸花が救荒食物で、飢饉の時には球根のデンプンを水にさらして毒抜きして食用としたということをわたしがネットで知ったのはそんなに昔のことではない。
 今では単なる植物の一つになっている。その鮮やかすぎる赤の色合いと彼岸の頃に咲く花で曼珠沙華という仏教的なイメージの別称を持っているのが何かふつうの植物とは違うなという感じを起こすのかもしれない。しかし、それだけではないような気がする。
 
 この彼岸花という言葉が指示する意味は、江戸期の人々と現在のわたしたちでは同一であっても、その言葉が放つイメージの層とその情感のようなもの(自己表出)は違っている。江戸期の人々は、たとえ飢饉に見舞われない年でも救荒食物であるという飢えのイメージや危機のイメージを喚起するのを振り払うことはできなかっただろうからである。この言葉のこのような江戸期のイメージにつきまとう情感のようなもの(自己表出)の残存が、現在のわたしたちに(何かふつうの植物とは違うな)という感じを与えているのだと思う。
 
 例えば、親から子に彼岸花という言葉が語られたとして、それにまつわることをいろいろと説明されなくても、何度か耳にするうちに子は「ひがんばな」という音に込められた親のイメージの情感のようなもの(自己表出)を受け取り共有していくのだろうと思われる。
 
 同様に、家族の中の「夫」や「妻」という家族関係を示す指示性としての意味は江戸期でも現在でも同一だが、それらのイメージの情感のようなもの(自己表出)は違っているはずである。
 
 江戸時代の武家社会の相続法―農民の相続法は違うらしいが―を継承したと言われる明治民法の長子相続は、家長や長男を家族の中で法的に重要視したことになる。それ以前のことはよく知らないが少なくとも江戸期から昭和の敗戦までは、わかりやすい言葉で言えば法的あるいは社会の表面的には「男中心社会」だったのだろう。しかし、吉本さんも触れたことがあるが、学者の研究による江戸期の「三下り半」問題で明らかになったように、そんな簡単に夫が妻に「三下り半」を突きつけることができるものではなかったということ、そこにも母系性社会(わかりやすい言葉言えば「女中心社会」)の名残が残っていたということ。
 
 また、柳田国男は、「妹の力」で女性が社会的に持っていた力について触れている。家における「主婦」の座の重要性とその掌握力にも触れていた。
 
 現在の家族中でも、そのような女性の「主婦」としての力能は保存され発揮されているように思われる。吉本さんがどこかで触れていた覚えがある。女性が家族の中で子を生み育てていくと、いつの間にかいろいろと控えめ無く大胆に振る舞うようになっていくと。たぶん、そこには横着さなどの否定的な意味合いも含まれていたような気がする。若いわたしはそのときはふうんとよくわからなかったが、後に実感できるようになった。これは、子どもを産み育ててきたとか家族内のことを中心的に取り仕切ってきたという個人的な経験によるばかりではなく、女というもののイメージにつきまとう情感のようなものの歴史性(自己表出)をいろんな場面を通して受け取ってきたからではないかと思われる。
 
 昭和の敗戦後、明治近代以来二度目の欧米思想の流入によって、民主主義や自由・平等(男女平等)の考え方が社会に次第に普及・滲透してしてきた。例えば、わたしはそれに触れたことはないが、現在の「フェミニズム」などの考え方もその源流は欧米思想にあるのだろう。
 
 内田樹が離婚した妻について、触れている。
 
 
 しなければならないことは「苦役」だと思わない。これは思えば、結婚生活を送っていたときに身につけた知恵でした。
 妻はフェミニストでしたので、男女の公平な家事の分担にこだわる人でした。
 でも、家事は公平に分割できるものではありません。やるべきこと、やっておいたほうがいいことは家の中にはいくらでもあるからです。
 それをリストアップして100%公平に分担しようとすると、リストアップして、分担を決める話し合いだけで途方もない手間がかかってしまう。
 あらゆる仕事には、「誰の分担でもないけれど、誰かがしなければいけない仕事」というものが必ず発生します。誰の分担でもないのだから、やらずに済ますことはできます。でも、誰もそれを引き受けないと、いずれ取り返しのつかないことになる。そういう場合は、「これは本当は誰がやるべき仕事なんだ」ということについて厳密な議論をするよりは、誰かが、「あ、オレがやっときます」と言って、さっさと済ませてしまえば、何も面倒なことは起こらない。
 家事もそうです。どう公平に分担すべきかについて長く気鬱なネゴシエーションをする暇があったら、「あ、オレがやっときます」で済ませたほうが話が早い。
 ですから、最初から「家事は全部オレの担当」と内心決めていたほうがメンタル面では気楽なのです。
 相手に期待せず、押しつけず、全部自分でやる。だから、相手がしてくれたら「ああ、ありがたい」と感謝する気持ちになれる。
 もちろん、結婚しているときは、それほど達観できませんでした。
 でも、離婚して、家事労働は全部僕一人でやらなければならなくなったときに、「家事労働のフェアな分担」のために結婚している間、どれほど不毛な言い争いをしてきたのかが痛感されたのは本当です。
 (『そのうちなんとかなるだろう』P153-P155 内田樹 マガジンハウス 2019年7月)

 
 
 家族の中で、江戸期から昭和の敗戦までの「男中心社会」の感性を背に夫(男)が威張る場合もあれば、あるいは逆に母系制社会の古層からの名残に促されて妻(女)が威張る場合もあるのかもしれない。さらに、敗戦後の「男女平等」の流れに乗っかって、昔の内田樹の家族の中のような波風立つ場合もあるのかもしれない。
 
 いずれにしても、家族の中の夫や妻を左右する女や男のメージにつきまとう情感のようなもの(自己表出)の古層を、すなわち歴史性を引きずりながらの解体的な現在の風景があり、社会の速度のすばやい流れの圧を受けつつも、主流としては家族は夫婦も親子もフラットな関係になっているように見える。この平等化の傾向は、家族の存立基盤を揺さぶりながら将来的にも止むことはないだろう。そうした主流の流れに浸かりながら、誰もがいろんな折り合いをつけながら家族の渦中にいる。
 
 
(註) ここで私が使った「自己表出」について
 
吉本さんが生み出した「指示表出」や「自己表出」という概念は、ものを考える世界で残念ながら未だ十分ふつうの概念として流通していないので、言語に内在する二重性である「指示表出」や「自己表出」という概念について少し註釈としてメモしておく。
 
 三浦つとむは、『日本語はどういう言語か』で時枝誠記や言葉の現実的な振る舞いを踏まえて、言語には客体的表現と主体的表現があると述べている。何人か次のことを指摘しているのを目にしたが、吉本さんの「指示表出」や「自己表出」という概念は、吉本さんが語っているようにマルクスの使用価値や交換価値から着想されたのかもしれないが、この三浦つとむの概念も踏まえているとわたしも思う。特にこの「自己表出」という概念は、三浦つとむのいわば無時間的な「主体的表現」に歴史性という時間を導入して動態化されている。
 
 
 この人間が何ごとかをいわねばならないまでになった現実の条件と、その条件にうながされて自発的に言語を表出することのあいだにある千里の距たりを、言語の自己表出として想定できる。自己表出は現実的な条件にうながされた現実的な意識の体験がつみ重なって、意識のうちに幻想の可能性としてかんがえられるようになったもので、これが人間の言語が現実を離脱してゆく水準をきめている。それとともに、ある時代の言語の水準をしめす尺度になっている。言語はこのように、対象にたいする指示(引用者註.「指示表出」)と、対象にたいする意識の自動的水準の表出(引用者註.「自己表出」)という二重性として言語本質をつくっている。
 (『定本 言語にとって美とはなにか』P29吉本隆明 角川選書)
 
 
 言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりをふくむようになり、それが発達して自己表出として指示機能をもつようになったとき、はじめて言語とよばれる条件をもった。この状態は、「生存のために自分に必要な手段を生産」する段階におおざっぱに対応している。言語が現実的な反射であったとき、人類はどんな人間的意識ももつことがなかった。やや高度になった段階でこの現実的な反射において、人間はさわりのようなものを感じ、やがて意識的にこの現実的な反射が自己表出されるようになって、はじめて言語はそれを発した人間のためにあり、また他のためにあるようになった。
 (『同上』P30-P31 吉本隆明 角川選書)
 
 
このように言語は、ふつうのとりかわされるコトバであるとともに、人間が対象にする世界と関係しようとする意識の本質だといえる。この関係の仕方のなかに言語の現在と歴史の結び目があらわれる。
 この関係から、時代または社会には、言語の自己表出と指示表出とがあるひとつの水準を、おびのようにひろげているさまが想定される。そしてこの水準は、たとえばその時代の表現、具体的にいえば詩や小説や散文のなかに、また、社会のいろいろな階層のあいだにかわされる生活語のなかにひろがっている。
 (『同上』P44 吉本隆明 角川選書)
 
 
わたしがここで想定したいのは、・・・中略・・・言語が発生のときから各時代をへて転移する水準の変化ともいうべきもののことだ。
 言語は社会の発展とともに自己表出と指示表出をゆるやかにつよくし、それといっしょに現実の対象の類概念のはんいはしだいにひろがってゆく。ここで、現実の対象ということばは、まったく便宜的なもので、実在の事物にかぎらず行動、事件、感情など、言語にとって対象になるすべてをさしている。こういう想定からは、いくつかのもんだいがひきだされてくる。
 ある時代の言語は、どんな言語でも発生のはじめからつみかさねられたものだ。これが言語を保守的にしている要素だといっていい。こういうつみかさねは、ある時代の人間の意識が、意識発生のときからつみかさねられた強度をもつことに対応している。
 (『同上』P46 吉本隆明 角川選書)





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