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「茶だし」の問題―作者の生活世界の慣習に対する位置

2016年09月14日 | 批評

 町田康の『リフォームの爆発』という作品を読みながら、わたしがふと立ち止まったところを引用して、考えてみる。


 そしてそう、四日目くらいからリフォームをする際、その本質とはまったく関係がないのにもかかわらず、私を深刻に悩ませる事態が起きた。なにか。茶出し、の問題である。 職人だちは十時と三時に短い休息をとる。そして、十二時から一時までは長い休息をとる。この間に茶菓を出すのは依頼者の義務ではない、義務ではないが、出さないと、「なんだ。ここの家は」みたいな、まるで非常識で頭おかしい、男なのに平日はブラジャーをつけ休日はキャミソールを着ている変態、みたいに思われる可能性が大なのである。
 もちろん、そんなものは都市伝説であり気にする必要はない、と断言する人もある。けれどもそう断言するためには、心付けの習慣のある国に行って心付けを渡さないで恬としている程度の胆力が必要であり、私にはそんな胆力はないので、茶菓はこれをお出しする、と工事前から決めていた。
 そこで朝、うぇっす、と不分明な挨拶をして職人だちが現れるや、素早くその人数を確認、素早く茶菓を用意し、十時になるやいなや、これを盆に載せ、玄関脇の元アトリエ・現駐車場のところで胡座をかいて喫煙したり、混凝土の上に寝そべっている職人のところへ行き、「あのう、よかったらこれを召し上がってください」と言挙げし、そっと置く、ということをした。
 (『リフォームの爆発』P172-P173 町田康 2016年)



 まず、作品世界は、作者が語り手や登場人物たちを物語の世界に派遣して、織り上げていく。この場合、作品世界の全てが作者のものではない。もちろん、登場人物を選んだりその語る言葉を書き留めるのは作者に間違いないけれども、よく作家たちが語るように登場人物たちが作者にこうしろああしろと要求する。つまり、これは物語の場面が現実性(真実味)を持つように作者の意図を超えて要請してくる、作者にそのように書き留めるように強いてくるものであるようだ。言いかえれば、作品世界は、作者の方に照明を当てれば作者が主体となって人物やその言動や場面を選択したり構成したりしているように見えるかもしれないが、実情としては、作者によって幻想の物語世界に派遣された語り手や登場人物たちが、流行や風俗や人間同士の関わり合い方など現在のあらゆる「マスイメージ」を呼吸しながら自立的に登場し、行動する。作者はその舞台の後景にいて、しかし一応の主体として物語世界を物質的に織り上げていく、すなわち、物語世界を書き記していく。一方で、作者は、語り手や登場人物たちに対する異和や親和や中性の意識や感情を通して、つまり、作品世界そのものを表現として差し出すことによって、現実社会の織り上げるイメージや秩序意識への批評性を込める。さらに、それがどんなに見つけにくいものだとしても、作品には作者の無意識も刻まれているはずである。作品世界そのものに対しては後景にいる作者であるが、作者の作品世界への意識的な関与と無意識的な関与とが織り成されることによって、作者によって作られたものという作品の固有性というものが表現されるのだと思う。

 こうした事情によって、作品とは、作者(たち)とわたしたちが生きている現在との合作と見た方が正確で実情に即していると言えるかもしれない。これは、物語作品に限らず、あらゆる芸術作品について言えることである。

 ところで、この引用の場面では、語り手である「私」は「茶出し」という生活世界での慣習の問題に触れている。これは作者の自宅のリフォーム体験という素材を実際に物語の場面として構成していく過程が、作者に要請したものである。もちろん、職人さんと依頼主との間の関わり方として生き残ってきている「茶出し」という慣習に、作者として絶対に触れなくてはならないということはない。語り手の「私」を通して語られているが、これは作者がその慣習を選択し、それを受け入れようとしたと見てまちがいないと思う。つまり、ここには作者の日常の生活世界に対する関わり方の意識の有り様が込められていることになる。

 「茶出し」の話題が、町田康作品の読者にはおそらく親しく馴染みのある文体で織り上げられている。今では表現世界での社会的な破壊力は余りないかもしれないが、パンクロック調の文体で語られている。これは、人と人とが関わり合う日常の生活圏への作者の近づき方や入り方の文体である。ただ、パンクロック調の文体と言っても、「私」すなわち作者もそうであるが、生活世界から一歩退いた場所にいる。したがって、少し低姿勢で恥じらいがちなのを紛らわすような文体になっていて、そのことが文章の無意識的な柔らかな流れにつながっているように思われる。

 ここでは、深入りする余裕はないけれども、この「茶出し」の問題は、おそらくわが国で貨幣経済に組み込まれる以前の労働の有り様から来ている慣習と思う。しかもそれは、農村の外からある技術を携えて訪れて来る人々との関わり合いから生まれた慣習ではなく、農村の集落内での共同労働(協同労働)から来たものだと想像する。私が小さい頃だった今から半世紀くらい前は、ワラ屋根がまだ多く、私の家もワラ屋根だった。そのワラの吹き替えの現場を目撃したことがある。わたしは小さいから下から何人もの人々が吹き替え仕事をするのを見ているだけだったと思う。この仕事に関わっている人々が、どういう人の構成だったかはよくわからないが、こういう場面では家の当事者(女性)はこれもまた他からの協力を得て、親戚から手伝いに来た人々や加わっている職人的な人や近隣の人々に食事などの「もてなし」をしなくてはならなかったろう。したがって、家には何セットかの各人用のお膳や食器類があった。都会は分からないが、たぶんどこの家庭にも一般的にはあったのだろう。

 今から半世紀くらい前は、まだ結婚式も葬式も法事も家から外に出てしまっていなかった。今ではそれぞれの業者の手に移ってしまっていて、例えば、葬式は町内の班などが担当したりする大忙しの共同行事ではなくなっている。地域社会のそうしたつながりは、そうした行事の受け皿となる冠婚葬祭の産業が生まれて結びをほどかれていき、次第に関わり合いの少ない近隣関係や親戚関係になってきた。この変貌は、一方では、一日や二日かかったりするきつい共同の仕事からの解放であり、核家族中心の生活時間の獲得であるが、もう一方では、割とのんびりした生活時間の流れから、経済社会のあくせくした生活時間への変貌でもあった。たぶん、高度経済成長の時期がそんな変貌を促した。

 しかし、この引用した場面で「私」が少し戸惑っているように、現在でも「茶出し」の慣習が曖昧な形で残っている。わたしも家を建てる時の「茶出し」を経験したことがある。この「茶出し」の慣習が曖昧な形で残っているということは、この経済社会が合理性や効率中心の欧米化を完全に遂げていないことの象徴だと思われる。そして、この日常の生活世界で誰でも、この列島に生まれ受け継がれ消えかけているが残っている「茶出し」の慣習のようなものに、どう受けとめどう関わるかということをしているはずである。先に挙げたように、冠婚葬祭業の登場などの産業の構成の変貌がわたしたちの生活世界を大きく変貌させるということがあるが、他方で、消えかけているが残っている「茶出し」などをどう扱っていくのかという、わたしたち生活者の大多数の意志のようなものが、今後の社会の変貌のもう一つの要因ともなれるような気がする。

 このようなおそらく実体験に基づいたエッセイとも物語ともとれるような作品でも、町田康の作品の愛読者なら、そんな形式に構うことなくその独特の語りの流れに乗り心地よい体験をするだろう。つまり、この独特の語りの中にすでに虚構性が込められていると見ることができる。現実の具体性から素材を得ているとしても、作者は語り手や登場人物たちを物語の世界に派遣して、物語という虚構の世界を造型していく。そしてその際、この引用部分のように作者独特の対象選択や物の見方や感受や生活世界への関わり合いの意識などという作者の固有性もまた作品にパンクロック調の文体としてではあるが織り込まれている。


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