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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

吉本さんのおくりもの 21. 生活世界で自分はどう振る舞うか

2025年05月31日 | 吉本さんのおくりもの
 マルクスはあらゆる人間的なことに興味関心があると述べていたと、吉本さんの言葉によって知ったと思う。吉本さんについてもそのことは言えるように思う。吉本さんの場合、さらに付け加えると、誰かがこの生活世界で出会うことがある問題、一見小さな問題に見えることに吉本さんは大きな問題として思想的にあるいは生活思想的に取り上げ考えあるいは対処した。例として、5つだけ取り上げてみる。それらがどこに書いてあったか簡単に参照できないから、詳細は取り上げない。

1.他者がいたり公共空間であったりでの喫煙の問題について、重要な問題として取り上げていた。

2.家族で旅行の帰りに電車に乗る場合(これは例年夏に家族で土肥に出かけた体験からのものか)、自分は電車の席取り競争には参加しない。ただし、自分の子どもなどがくたびれていた場合はその限りではない。

3.娘(長女、ハルノ宵子)が京都での大学生時代、喫茶店だったかのアルバイトをしたいと言ったら、吉本さんが反対したとのこと。このことに関しては、吉本さんの言葉と娘、ハルノ宵子の言葉が残されている。娘に水商売の仕事は勧めないからそのアルバイトはしないようにという吉本さんの言葉はわたしにもちょっとそうかな?と思わせるものだった。水商売は、本質として別の水商売へのエスカレーションの危険をはらんでいるから問題だというような理由だったと思う。

4.自分の家が原発の近くにあるとすれば、どうするか。

5.当時オーム真理教の人々が生活している建物がある地域では、地域から出て行けという運動が起こったりしていたが、もしオーム真理教の信者たちが自分(吉本さん)の家の近くに住んでいたら自分はどうするか。

 若い吉本さんは、詩人や思想者として登場した。はじめは、戦時下で自分が見聞きし体験し感じていたことをもとに、いわば自己批評を重ねながら戦争中の負の課題を、当時の文学や思想を具体的に批判・批評することで明らかにしていった。そうした中から、状況の本質的な課題に答える本質論の世界に入り込んでいった。言語論や幻想論である。しかし、一方で、生活者として生活世界ででくわす諸問題にもくり返し考えを巡らせていた。

 わたしが記憶しているだけで、どこに書いてあったかはもうよく覚えていない。いずれも誰もが経験するとは限らないが、誰かが経験することがある問題である。吉本さんは、生活世界で人が経験するであろうことを、小さなこと、ささいなことと見なすことなく、十分に考えるに値する重要な問題だと考え、くり返し自己対話を行っていたと思う。

 もちろん、生活世界で出会う諸問題をどう考えるかということと、どう対処するかということは同列ではない。自分はこう考えると思ってもそれを押し通すことなく妥協してしまう場合もあり得るからである。ただ、その両者の間に自己倫理の問題はある。

 それと少し関わると思うが、晩年の言葉だったと思う。今思い出したから付け加えれば、もし大衆が先の戦争中のような選択をしてしまったら、自分はそれを受け入れついて行くだろうとも述べられていた。これは、生活者として、かつ思想者として、〈大衆の原像〉に関わる問題だろうと思われる。

 こうした生活世界の具体性の数々にまともに答えようとする思想者、表現者は、吉本さんによって初めて切り開かれたとわたしは思っている。ここで、メモ風に取り上げたゆえんである。

「吉本さんのおくりもの」・更新の情報

2024年03月17日 | 吉本さんのおくりもの
「吉本さんのおくりもの」・更新の情報・
http://dbyoshimoto.web.fc2.com  


「言葉の吉本隆明 ②」に、
 2024.3.16 新規項目750「吉本さんのこと 50 ― 自己評価ということ」を新たに追加。


この「吉本さんのおくりもの」は、ずいぶん項目が降り積もってきたが、これはわたしの吉本隆明論でもある。

ぜひこれだけは ―吉本さんの語った言葉から

2022年02月07日 | 吉本さんのおくりもの
 吉本さんのおくりもの 20

 
 ぜひこれだけは ―吉本さんの語った言葉から
 
 
 吉本さんの語った言葉で、わたしの中でこれだけは外せないなという言葉がある。それを3つだけ上げてみる。1つ目は、主にこの人間世界で人はそうせざるを得ないようにできているという人間の存在的な不可避性。これはこの世界で人間の生きる意味とも関わっているような気がする。2つ目は、人間が生み出し積み重ねてきた知識の世界に深入りする人々がいる。そんな知識世界に思想家(表現者)の存在する意味。3つ目は、『最後の親鸞』で語られた思想者(表現者)と生活者の二重性の始末のつけ方のイメージ。
 
 
1.
ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。それは説きたいとか、教育したいとかというのとはちょっとちがうんですよ。しかし死ぬまでは、できるならばちょっとでも先へ行きたいよ、先へ行ったからってどうするのと云われたって、どうするって何もないですよ。死ねば死に切りですよ。死ねば終わりということで、終わりというと怒られちゃうけれど、ぼくは終わりだ、死ねば死に切り、何にもないよ、ということになるわけです。それじゃ何のために、人間はそうしなくちゃならんのと云われたら、人間とは、そういうものなんだよ、そういういわば逆説的な存在なんだよ。つまり役に立たんことを、あるいは本当の意味で誰が聞いてくれるわけでもないし、誰がそれを信じてくれるわけでもないし、どこに同志がいるわけでもないし、だけど死ぬまでは一歩でも先へすすんでという、・・・・・・ものすごく人間は悲しいねえーという感じがぼくはしますね。人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。そういう存在じゃないんだろうかということが、親鸞に「唯信鈔文意」とか「自力他力事」とかを書き写しちゃ弟子たちに送るみたいなことをさせたモチーフじゃないでしょうか。それがぼくの理解です。いわゆる教育ではありません。誰ひとり、じぶんの考えを本当に理解してくれる人なんていなくたって、それはそうせざるをえないんですよ。つまりそうせざるをえないというのは、何の促しかわからないけれども、そうせざるをえない存在なんですよ。だから親鸞もそうしたんでしょうというのがぼくの理解の仕方ですね。あなたのおっしゃったことに対するぼくの答え方はそうですね。で、ぼくは五十いくつだから、もう幾年生きるのかわかりませんけれど、しかしやっぱり死ぬまではやるでしょう。じぶんの考えを理解してくれる人が一人だっていなくても、やっぱりそうせざるをえないでしょう。人間とはそういう存在ですよ。ある意味じゃひじょうに悲しい存在であるし、逆説的な存在であるし、人間のなしうることといったら、無駄だと思ったら全部無駄なんだよ、でもそうせざるをえないからそうするんだよ、それが人間の存在なんだよ、というのはぼくなんかのいつでもある考え方ですね。
 (「『最後の親鸞』以後 」、『〈信〉の構造』)
 ※ ほぼ日の「吉本隆明の183講演」、A040「『最後の親鸞』以後 」の講演後の「質疑応答」部分より
 
 
2.
 ひとりの思想家が、いずれにしろ、生涯においてなしることは大したことはありません。しかし、何がためにひとりの思想家は、ある時代に存在し続けるかとかんがえてみますと、いわば、じぶんが一刻もそのことを頭から去らないほど労苦してかんがえにかんがえぬいてやっと掴(つか)まえたものが、後の世代の人たちにとって、何となく独りでに、自然に身につけてる、その地点に出遭うためです。それが、ひとりの思想家が生涯にわたって存在し続けることの意味だとおもいます。
 (「竹内好の生涯」、『超西欧的まで』弓立社)
 ※ ほぼ日の「吉本隆明の183講演」、A040「竹内好の生涯」という講演より。
 
 
3.
最後の親鸞は、そこ(引用者註.『教行信証』のこと)にはいないようにおもわれる。〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま(引用者註.「そのまま」に傍点)寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。橫超(横ざまに超える)などという概念を釈義している親鸞が、「そのまま」〈非知〉に向うじぶんの思想を、『教行信証』のような知識によって〈知〉に語りかける著書にこめたとは信じられない。
 「どんな自力の計(はから)いをもすてよ、〈知〉よりも〈愚〉の方が、〈善〉よりも〈悪〉の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく〈愚〉に近づくことは願いであった。愚者にとって〈愚〉はそれ自体であるが、知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。
 (吉本隆明『最後の親鸞』「最後の親鸞」春秋社 1976年10月)

 
 
 これらの言葉は、わたしにとってなんども汲み尽くし、味わい、考え、何事かあればそれを付け加えるべきものとしてある。


吉本さんのおくりもの 18.吉本さんの坊主頭の写真から (追記2021.12.22)

2021年12月22日 | 吉本さんのおくりもの
吉本さんのおくりもの 18.
 吉本さんの坊主頭の写真から 2019.09.13
 (追記2021.12.22)・・・一番下にあります。


 吉本さんの坊主頭の二枚の写真(註.1)にネットで出会った。二つは同時期のものだろうと思うが断定はできない。
 作家という表現者とってその日常の生活での振る舞いや表情は問題にならない。『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 』によると、村上春樹も作家の時と生活者の時をはっきりと区別していた。しかし、思想者としての表現者には日常の立ち居振る舞いが問題となることがある。言葉ではそういう思想を述べているが、家族の中でもほんとうにその考えを貫こうとしているかなど、読者に指摘されなくても自分の思想から問われているはずである。吉本さんの場合は、本人が書物の中で書いたり語ったりした中の端々からはそのような原則を貫いていた様子がうかがえる。(娘の就職について吉本さんが語られていた話を今思い出した。)

 ところで、この一枚の写真の件は、何も取り上げて論じるには値しない個人生活的なものかもしれない。読者は作家や表現者の作品や思想以外のなんにでも興味を持つということからではなくて、そこを敢えて取り上げてみるとどうなるだろうか。

 このような坊主頭の吉本さんの写真をいつかどこかで見たような気がするが思い出せない。吉田純写真集『吉本隆明』(2013年2月 河出書房新社)にも載っていない。

 写真家は、言葉ではなくて像で言葉以前のイメージを表現する。人物を撮る場合、撮る角度や陰影や距離や背景など感覚的に判断しながら一枚の写真を撮るのだろうか。人物が言葉ではなく顔かたちや佇まい自体で表出したり語りかけたりしてくるのを受けとめ画像に構成する。だから、このようにいつもと違った髪かたちをしていたら、わたしたち普通人以上に写真家は敏感になりそうな気がする。かといって、娘の吉本ばななが写真にコメントしているように「母とけんかして、頭を丸めたら許すと言われたとき」という事情が背景にあるということまではわからないだろう。

 坊主頭、丸刈りは、もちろんいろんな歴史を背負って現在に至っている。明治近代以前は、名前の通りお坊さんの髪型であったろう。お坊さんも武士も近代の軍隊や学校も、実用的な事情や自然な流れも含め普通の生活世界とは違った新たな規律に基づく世界を築く一環として坊主頭(剃髪)やちょんまげや丸刈りが捉えられたのだろうと思う。現在でも見かける丸刈りは、これらの歴史の流れを受け継いでいるはずであるが、さらにさかのぼって古代の〈清祓〉までつながっているように感じられる。現在でも、わたしたちが急に丸刈り(坊主頭)にしてきた者に対して持つイメージは、何かよくないことをやらかして、その謹慎や祓い清めとしてそうしたんだなということである。

 吉本さんの『共同幻想論』の「規範論」に〈清祓〉(はらいきよめ)のことが触れられている。


 はじめに確かにいえることは、〈法〉的な共同規範は、共同体の〈共同幻想〉が血縁的な社会集団の水準をいささかでも離脱したときに成立したということだけである。
 未開な社会ではどんなところでも、この問題はそれほど簡単にあらわれない。またはっきりと把握できる形ももっていない。そこでは〈法〉はまだ、犯罪をおかした人を罰するのか、犯罪行為を罰することで〈人〉そのものを救済しているのか明瞭ではない。そのためにおそらく〈清祓〉(はらいきよめ)の儀式と罰則の行為とが、未開の段階で〈法〉的な共同規範として並んで成立するのである。〈清祓〉の儀式では行為そのものが〈法〉的な対象であり、ハライキヨメによって犯罪行為にたいする罰は代行され〈人〉そのものは罰を負わないとかんがえられる。だが罰則では〈法〉的な対象は〈人〉そのものであり、かれは追放されたり代償を支払わされたり、体罰をこうむったりする。
 しかし未開的な社会での〈法〉的な共同規範では、個々の〈人(格)〉はまだそれほど問題にはなっていない。また行為そのものもあまり問題とならない。ただ部族の〈共同幻想〉になにが〈異変〉をもたらすかが問われるだけである。〈神話〉のなかにあらわれる共同的な規範が〈法〉的な形をとるときは、そこに登場する〈人(格)〉はいつも、ある〈共同幻想〉の象徴でだということができる。
 (『共同幻想論』規範論 P426 『吉本隆明全集10』晶文社)


 『古事記』のなかで最初に〈罪〉と〈罰〉の問題が〈法〉的にあらわれるのは、いわゆる〈天の岩戸〉の挿話のなかである。そして犯罪をおかし罰をうけるのは、農耕民の始祖で同時に種族の〈姉〉神アマテラスの〈弟〉に擬定されているスサノオである。
 ・・・(古事記からの引用略)・・・
 そこで部神たちが合議して、天の岩戸のまえで共同祭儀をいとなんで常態にもどしてから、スサノオは合議のうえ物件を弁償として負荷され、鬚と手足の爪とをきって〈清祓〉させられ、共同体を追放されるのである。
 ここでスサノオが犯した罪は、たとえば『祝詞』の「六月の晦日の大祓」にでてくる〈天つ罪〉にあたっている。すなわち「畔放ち、溝埋み、頻蒔き、串刺し、生け剥ぎ、逆剥ぎ、屎戸」等々の〈罪〉にあたっている。
 これらの〈罪〉にたいしてスサノオに課せられる〈罰〉は、物件の弁償、部落からの追放、鬚や手足の爪を切る刑である。この刑は、南アジアの未開の社会(たとえば台湾の原住族)などで慣行となっているものとおなじで、かくべつの問題はないと考えられる。
 (同上 P426-P428)


 スサノオが犯した罪に対する〈清祓〉には、髪を切ることは載っていないが、身体の一部を切り取る意味で同類のものと見なせるだろう。血縁的な社会集団から国家の下の社会へと変位していくとともに、〈清祓〉は〈法〉的な共同規範(法律)へと移行していくことが述べられている。そして、「ハライキヨメによって犯罪行為にたいする罰は代行され〈人〉そのものは罰を負わないとかんがえられる。だが罰則では〈法〉的な対象は〈人〉そのものであり、かれは追放されたり代償を支払わされたり、体罰をこうむったりする。」と血縁的な社会集団の中の未開的な〈清祓〉の慣習(A)と国家の下の社会の中の法と処罰(B)との違いが語られている。

 現在のわたしたちが、急に丸刈り(坊主頭)してきた者に対して持つイメージは、(B)を模倣する意識とも考えらることができるが、むしろわたしたちの意識の古層に保存されている、まだ法が関わらない(A)の問題から来ているような感じがする。この写真の場合、吉本ばななの証言を踏まえると、夫婦げんかをして吉本さんに分が悪かったのか、吉本さんが奥さんからのけんかの収束提案を受け入れたということになる。吉本さんが丸刈りになって奥さんの鬱憤は祓い清められ収束に向かったということだろう。こうしたことは、どこの夫婦にも無縁ではない。


 (註.1)
 二枚の写真

1.文化科学高等研究院(E.H.E.S.C)出版局の出版本の紹介ページの
「山本哲士のページ」 3.吉本隆明さんとの交通『戦後55年を語る』
に掲載されている吉本さんの写真
http://ehescbook.com/yoshimoto/y_worldtext/y_world03.html

 ( 写真に付されているコメント)
『戦後50年を語る』のとき、めずらしい坊主頭の吉本さん。
これで、親鸞を語られたのだから。
(EHESCにて、1995年)


2.吉本ばななオフィシャルブログ「よしばな 日々だもん」「若い頃の写真」2019-07-01
https://ameblo.jp/yoshimotobanana/entry-12489013956.html

 ( 写真に付されているコメント)
「お父さん、なぜムショ帰りみたいな
母とけんかして、頭を丸めたら許すと言われたとき。ちなみに浮気ではありません」
 
 
 
 
(追記2021.12.22)



 上の(註.1)の1.より引用 1995年


 『吉本隆明全集12』の栞を読んでいたら、娘ハルノ宵子の「ヘールボップ彗星の日々」に次のような言葉があった。


 一九九七年にやって来た「ヘールボップ彗星」 (註.2)は、今のところ私の人生で最大の彗星だ。
・・・中略・・・
 その頃、我家は最大の家庭崩壊の危機に陥っていた(それまでも何度もあったが)。ヘタをすると今回は、もっと最悪なことが起きる予感すらあった。
 とある父の著書――正確に言うと対談本の内容が、母を激怒させていたのだ。私は母より先に読んでいたのだが、「あちゃ~! また調子に乗ってベラベラと・・・こりゃ~修羅場必至だな」。位にしか感じなかった。私や妹だって、父の著作には何度も傷付けられた。事実誤認はもちろん、やはり家族のことに触れると、どうしたって父親目線・夫目線という"バイアス"がかかるのだ。きっと芸人の家族なんて、もっと面白おかしく脚色されたネタとして披露され、こんなもんじゃ済まないんだろうな――とは思うが、我家の場合腹立たしいのは『吉本の言葉は真実である』と、熱心な読者に信じられてしまうところだ。
 その本を読んだ母の怒りと絶望は、私の予想をはるかに越えていた。内容のある部分が琴線に触れたのだ。母は自分の人生を全否定されたように受け取ったのだと思う。お定まりの「出ていく!」「イヤ、オレの方が出てくから!」もあったが、父は前年に西伊豆の海で溺れ死にしかけ、それをきっかけに眼も脚も急激に悪くなっていた。母にしたって身体が弱く病気がちで、お互いそんな体力なんてあるわけが無い。そして母は、父への最大の復讐として"自死"を決意していた。
・・・中略・・・
 一方父は、心配して電話をかけてきた妹に、「オレたち今度は本当にダメみたいだ」。と打ち明けていた。妹は父に「やっぱ女は宝石だよ!ダイヤの一つもプレゼントして、頭丸めてあやまってみれば?」と、実に無責任な家庭外目線にして最強の最終手段をアドバイスしていた。
 果たして父は、折りしも四月一日、本当にそれをやってのけた。「プッ! バカね」と母は小さく吹き出し、プレゼントを受け取った。小さな小さなダイヤモンドのペンダントだった。丸坊主になった父は、祖父にそっくりだった。まぁ・・・根本的な解決にはなっていないので、その後も"家庭内離婚"は続いていたが、父の渾身のパフォーマンスによって、母の感情は動き出した。



 この栞の全文を読めば、ヘールボップ彗星が吉本家の人々と関わっているのだが、ここでは必要な部分だけ引用した。

 ところで、「父は前年に西伊豆の海で溺れ死にしかけ」とあり、それは1996年8月のこととわかっている。だから、吉本さんが丸坊主になったのは、上の文章からは1997年4月1日のこととなる。ということは、「山本哲士のページ」の一番下に吉本さんの上の丸坊主の写真があり、コメントともに(EHESCにて、1995年) と記されているのは、山本哲士の勘違いか、でなければ1995年にも吉本さんが丸坊主になったということになる。わたしには、いずれとも断定できない。しかし少なくとも、吉本ばなながブログにUPしていた吉本さんの丸坊主の写真は1997年4月1日以降、その頃のものであると言える。

 「私や妹だって、父の著作には何度も傷付けられた」とある。そんな記憶は読者のわたしにはほとんどないが、ひとつだけ言えば、詩の中で、娘達が道端で何か物売りをしていた、というような表現に出会った覚えはある。もちろん、詩は幻想の表現だから「娘達」とあっても、実際の吉本さんの娘達と直接につながるわけではない。

 娘ハルノ宵子の描写によると、吉本さんの奥さんの衝撃はとても大きいものだったと書かれている。その「対談本」―たぶん、その当時出たものであろうか―の表現には興味がひかれるが、ここでは詮索しないことにする。

 時々、当人達の不倫などの恋愛事情を、その一方がマスコミなどの外に、社会にばらまく人がいる。対幻想(家族)の問題を共同幻想(社会)の力によって解決しようとする傾向だ。普通の家族では、そういうことは可能ではないが、芸人などのいわゆる有名人ではそういうことが可能のようである。吉本さんの場合は、娘達も表現者として文章を書くようになったから、家族内の内情がこのようにしてわたしたちの前に漏れ出てくることになった。


(註.2)
ヘール‐ボップ彗星

1995年7月22日に、アメリカの天文学者ヘールとアマチュア天文家ボップによって発見された彗星。ニューメキシコ州に住むヘールは熱心な彗星観測者で、既知の彗星の観測中にこの彗星を発見している。アリゾナ州に住むボップは、仲間6人と星雲・星団の観望中に発見している。発見時の彗星は太陽から7天文単位、木星軌道と土星軌道の中間ぐらいのところであったが、その位置にしては11等級と明るく、巨大な彗星であることが推測された。
彗星の明るさを予想するのは大変難しく、往々にして期待はずれになることが多いが、1年半後の近日点通過(1997年4月1日)前後の数ヵ月間には、地球にはそれほど近づかなかったにもかかわらず、最大でー1等級前後の雄大な姿を見せ、多くのアマチュア天文家、天文ファンを楽しませた。太陽から遠い位置で発見されたため観測期間も非常に長く、1年以上肉眼で見えたのは記録が残る中では最長と考えられている。
彗星核は直径50km程度と見積もられており、過去に観測された彗星の中でも最大級と推定されている。核からのジェット、ナトリウムの尾、重水素の量、有機化学物質など、非常に多くの発見があり、彗星研究においては画期的な発展となった。公転周期は約2530年。
(ネットの「天文学辞典」より 公益社団法人 日本天文学会)


吉本さんのおくりもの 19 ―実感ということ

2020年08月22日 | 吉本さんのおくりもの
 吉本さんのおくりもの 19


 実感ということ


 吉本さんの文章をよく読んでいる人ならわかると思うが、吉本さんは「実感」という言葉をよく使っている。吉本さんのインタビューや対談でよく「実感」という言葉に出会う。吉本さんは、自分の論理や考えの支えとして「実感」を大事にしているように見える。このことは、『 データベース 吉本隆明を読む』の中の「言葉の吉本隆明②」の項目628「実感に基づく思考」で一度取り上げたことがある。そこで引用した二つの文章を再度取り上げる。


1.
― 今回は、中国とか韓国から文句をつけられた「新しい歴史教科書をつくる会」の『新しい歴史教科書』(扶桑社)についてお話をお願いしようかと思っているんです

吉本 『新しい歴史教科書』については、とにかく一等最初、どうしても僕が前提として言いたいことは、要するに『新しい歴史教科書』の内容がどう中国と韓国に対して見解が違うかとか、認定が違うかっていうこと以前に――日本の場合には歴史教科書の内容を変えて学校で使うっていうこと、それから中国と韓国についていえば、そのことに文句をつけてるわけですね。それは内容以前の問題として、僕なんかはもう気に食わない(笑)。気に食わないっておかしいけど、前提として否定的だっていうことを言いたいわけですよ。どうしてかっていうと、それはリアリズムじゃないっていうか、学校教育制度なり教育制度の現実的な状態なりにいずれも反するからです。どう反するかっていえば、日本がそういう教科書を作った、その記述が勝手に日本にとって有利にしてあるかどうかっていうことを抜きにしても、それ以前に教科書を作り替えれば学校の制度として、生徒っていうのはそれを勉強して「なるほど」というふうに思う、と考えてること自体がおかしい。それが僕の前提にあります。これは経験上よくわかるわけだけど――自分がわかるっていうことは大部分の生徒がそうだと思ってるわけですけど――大部分の中高生にとっては歴史の教科書を―― 一般に教科書っつってもいいんですけど、歴史だったら特にそうだけど――読んだ揚げ句の認識に永続性があるとかね、長く認められるような見解とか考え方を形作るっていう考え方自体が僕は違う、と思っています。つまり、歴史の教科書なんていうのは自分の実感で言うと、試験の前日ぐらいに読んで年号とか主な事件のことを暗記したりして、試験が終わればそれはぺろっと忘れてしまうというのが実情だと思います。それがリアルな認識だと思うんですよ。だから教科書をこういうふうに記述すれば、教育的に、生徒の認識とか考え方が変わるだろうという考え自体がおかしいと思ってるわけです。だから、もちろんそれに文句つける奴もおかしい(笑)。つまり中国とか韓国とか、いやしくも現代の一国の政府が、他人の国で作ったそういうものに、ちょっと記述が現実と違うっていう考え方で、政府として抗議するとか直してくれっていうふうに言うこと自体が、また輪をかけておかしいと思います。だから全部そういうのはナンセンスであるっていうことは、僕は前提だと思いますね。エリート主義者どうしの空中戦になってしまう。

― なるほど。
 (『吉本隆明が最後に遺した三十万字 下巻 「吉本隆明、時代と向き合う」』P103-P105 ロツキング・オン 2012年12月) インタビュアー 渋谷陽一


2.
 ほとんどのひきこもりの人は、気質的に人と交わるのが嫌いで、家の中でも必要なこと以外あまり話したくないから、一人でゲームをやったり本を読んだりしていたい、というようなタイプです。医者の治療が必要な人たちとは違うのです。
 ぼくは、子どもの時から「気質的ひきこもり」だったから、そういうことが実感上とてもよくわかります。人の中に出るのが苦痛で、ただおとなしくその時に興味のあることをやっていれば、一日が過ぎてしまうのです。
 (『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ』P54 吉本隆明 大和書房 2002年12月)


 1.の「歴史の教科書なんていうのは自分の実感で言うと、試験の前日ぐらいに読んで年号とか主な事件のことを暗記したりして、試験が終わればそれはぺろっと忘れてしまうというのが実情だと思います。それがリアルな認識だと思うんですよ。」という吉本さんの実感は、わたしたちにも思い当たる実感だろうと思う。ただし、きまじめに教科書に書かれていることを受け取る優等生も少しはいるだろうから、優等生の実感はそれとは違っているかもしれない。しかし、大半の子どもたちは吉本さんの実感と同じだろうと感じる。それは人間の実感の主流と言うことができる。

 2.は、吉本さんが子どもの時から「気質的ひきこもり」だったから、「ひきこもり」の内側の世界を体験してきていて、実感としてひきこもりの人の心の内がわかると語られている。1.も2.も、吉本さんがそれらの「内」にいて、「内」にいる他の多数の者と共有できるある感じのことが語られている。

 実感を「内」にいる他の多数の者と共有できるある感じとはいっても、それは良いか悪いかは意味しない。そういう現実であるということを意味している。それに関することを言葉にしたり語ったりする時には、その実感としての現実性から出立しないと、論理や考えが局所的なもの、恣意的なものになってしまい、普遍性を獲得することはできない。

 この言葉の論理や考えと実感の問題は、吉本さんの思想の根幹に関わるとても重要なことでもある。この実感というのは論理や思想の肉体性に相当するもので、論理の正しさや普遍性を獲得するためには必須のものである。この言葉の論理や考えと実感の問題は、知識や思想における「大衆の原像」やその繰り込みの問題と同型であり、また、理論物理は実験物理を参照するという問題とも同じである。

 「実感」といっても、ある事柄に対してひとりひとりは違ったイメージや感じの実感を持つ。そんな中でも、大多数に共通する実感の共通性というものがありうる。ひとりひとりの心や意識の底の方ではひとりひとりいろんな違いがあっても、心や意識の上の方ではひとつの共通性を持っているイメージとして想定できると思う。こういう実感の共通性の現実を踏まえ、繰り込まずに、無視する言葉や論理や考えが、現在でも相変わらず知識の世界やマスコミや政治の世界であたかもそれが主流であるかのように流通しているが、それらは空無の言葉というほかない。それらはまた、大衆は遅れている存在であるから指導されなくてはならないという過去の前衛-大衆の考え方と同じであり、さらに大昔からの流れでもあるように思う。知や知識層や政治の病ともいうべきものである。

吉本さんのおくりもの 18

2019年09月13日 | 吉本さんのおくりもの
 吉本さんの坊主頭の写真から


 吉本さんの坊主頭の二枚の写真(註.1)にネットで出会った。二つは同時期のものだろうと思うが断定はできない。
 作家という表現者とってその日常の生活での振る舞いや表情は問題にならない。『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 』によると、村上春樹も作家の時と生活者の時をはっきりと区別していた。しかし、思想者としての表現者には日常の立ち居振る舞いが問題となることがある。言葉ではそういう思想を述べているが、家族の中でもほんとうにその考えを貫こうとしているかなど、読者に指摘されなくても自分の思想から問われているはずである。吉本さんの場合は、本人が書物の中で書いたり語ったりした中の端々からはそのような原則を貫いていた様子がうかがえる。(娘の就職について吉本さんが語られていた話を今思い出した。)

 ところで、この一枚の写真の件は、何も取り上げて論じるには値しない個人生活的なものかもしれない。読者は作家や表現者の作品や思想以外のなんにでも興味を持つということからではなくて、そこを敢えて取り上げてみるとどうなるだろうか。

 このような坊主頭の吉本さんの写真をいつかどこかで見たような気がするが思い出せない。吉田純写真集『吉本隆明』(2013年2月 河出書房新社)にも載っていない。

 写真家は、言葉ではなくて像で言葉以前のイメージを表現する。人物を撮る場合、撮る角度や陰影や距離や背景など感覚的に判断しながら一枚の写真を撮るのだろうか。人物が言葉ではなく顔かたちや佇まい自体で表出したり語りかけたりしてくるのを受けとめ画像に構成する。だから、このようにいつもと違った髪かたちをしていたら、わたしたち普通人以上に写真家は敏感になりそうな気がする。かといって、娘の吉本ばななが写真にコメントしているように「母とけんかして、頭を丸めたら許すと言われたとき」という事情が背景にあるということまではわからないだろう。

 坊主頭、丸刈りは、もちろんいろんな歴史を背負って現在に至っている。明治近代以前は、名前の通りお坊さんの髪型であったろう。お坊さんも武士も近代の軍隊や学校も、実用的な事情や自然な流れも含め普通の生活世界とは違った新たな規律に基づく世界を築く一環として坊主頭(剃髪)やちょんまげや丸刈りが捉えられたのだろうと思う。現在でも見かける丸刈りは、これらの歴史の流れを受け継いでいるはずであるが、さらにさかのぼって古代の〈清祓〉までつながっているように感じられる。現在でも、わたしたちが急に丸刈り(坊主頭)にしてきた者に対して持つイメージは、何かよくないことをやらかして、その謹慎や祓い清めとしてそうしたんだなということである。

 吉本さんの『共同幻想論』の「規範論」に〈清祓〉(はらいきよめ)のことが触れられている。


 はじめに確かにいえることは、〈法〉的な共同規範は、共同体の〈共同幻想〉が血縁的な社会集団の水準をいささかでも離脱したときに成立したということだけである。
 未開な社会ではどんなところでも、この問題はそれほど簡単にあらわれない。またはっきりと把握できる形ももっていない。そこでは〈法〉はまだ、犯罪をおかした人を罰するのか、犯罪行為を罰することで〈人〉そのものを救済しているのか明瞭ではない。そのためにおそらく〈清祓〉(はらいきよめ)の儀式と罰則の行為とが、未開の段階で〈法〉的な共同規範として並んで成立するのである。〈清祓〉の儀式では行為そのものが〈法〉的な対象であり、ハライキヨメによって犯罪行為にたいする罰は代行され〈人〉そのものは罰を負わないとかんがえられる。だが罰則では〈法〉的な対象は〈人〉そのものであり、かれは追放されたり代償を支払わされたり、体罰をこうむったりする。
 しかし未開的な社会での〈法〉的な共同規範では、個々の〈人(格)〉はまだそれほど問題にはなっていない。また行為そのものもあまり問題とならない。ただ部族の〈共同幻想〉になにが〈異変〉をもたらすかが問われるだけである。〈神話〉のなかにあらわれる共同的な規範が〈法〉的な形をとるときは、そこに登場する〈人(格)〉はいつも、ある〈共同幻想〉の象徴でだということができる。
 (『共同幻想論』規範論 P426 『吉本隆明全集10』晶文社)


 『古事記』のなかで最初に〈罪〉と〈罰〉の問題が〈法〉的にあらわれるのは、いわゆる〈天の岩戸〉の挿話のなかである。そして犯罪をおかし罰をうけるのは、農耕民の始祖で同時に種族の〈姉〉神アマテラスの〈弟〉に擬定されているスサノオである。
 ・・・(古事記からの引用略)・・・
 そこで部神たちが合議して、天の岩戸のまえで共同祭儀をいとなんで常態にもどしてから、スサノオは合議のうえ物件を弁償として負荷され、鬚と手足の爪とをきって〈清祓〉させられ、共同体を追放されるのである。
 ここでスサノオが犯した罪は、たとえば『祝詞』の「六月の晦日の大祓」にでてくる〈天つ罪〉にあたっている。すなわち「畔放ち、溝埋み、頻蒔き、串刺し、生け剥ぎ、逆剥ぎ、屎戸」等々の〈罪〉にあたっている。
 これらの〈罪〉にたいしてスサノオに課せられる〈罰〉は、物件の弁償、からの追放、鬚や手足の爪を切る刑である。この刑は、南アジアの未開の社会(たとえば台湾の原住族)などで慣行となっているものとおなじで、かくべつの問題はないと考えられる。
 (同上 P426-P428)



 スサノオが犯した罪に対する〈清祓〉には、髪を切ることは載っていないが、身体の一部を切り取る意味で同類のものと見なせるだろう。血縁的な社会集団から国家の下の社会へと変位していくとともに、〈清祓〉は〈法〉的な共同規範(法律)へと移行していくことが述べられている。そして、「ハライキヨメによって犯罪行為にたいする罰は代行され〈人〉そのものは罰を負わないとかんがえられる。だが罰則では〈法〉的な対象は〈人〉そのものであり、かれは追放されたり代償を支払わされたり、体罰をこうむったりする。」と血縁的な社会集団の中の未開的な〈清祓〉の慣習(A)と国家の下の社会の中の法と処罰(B)との違いが語られている。

 現在のわたしたちが、急に丸刈り(坊主頭)してきた者に対して持つイメージは、(B)を模倣する意識とも考えらることができるが、むしろわたしたちの意識の古層に保存されている、まだ法が関わらない(A)の問題から来ているような感じがする。この写真の場合、吉本ばななの証言を踏まえると、夫婦げんかをして吉本さんに分が悪かったのか、吉本さんが奥さんからのけんかの収束提案を受け入れたということになる。吉本さんが丸刈りになって奥さんの鬱憤は祓い清められ収束に向かったということだろう。こうしたことは、どこの夫婦にも無縁ではない。


 (註.1)
 二枚の写真

1.文化科学高等研究院(E.H.E.S.C)出版局の出版本の紹介ページの
「山本哲士のページ」 3.吉本隆明さんとの交通『戦後55年を語る』
に掲載されている吉本さんの写真
http://ehescbook.com/yoshimoto/y_worldtext/y_world03.html

 ( 写真に付されているコメント)
『戦後50年を語る』のとき、めずらしい坊主頭の吉本さん。
これで、親鸞を語られたのだから。
(EHESCにて、1995年)


2.吉本ばななオフィシャルブログ「よしばな 日々だもん」「若い頃の写真」2019-07-01
https://ameblo.jp/yoshimotobanana/entry-12489013956.html

 ( 写真に付されているコメント)
「お父さん、なぜムショ帰りみたいな
母とけんかして、頭を丸めたら許すと言われたとき。ちなみに浮気ではありません」

吉本さんのおくりもの17  ひと言に凝縮するのは難しい

2018年10月15日 | 吉本さんのおくりもの

 NHKのテレビ番組で知った「Sputniko!(スプツニ子!)」さんのツイッターのプロフィールには「Just an Artist ただのアーティスト」とある。「ただの」と付す意識には、否定的かどうかに関わりなく「ただじゃないもの」がどこかで意識されている。「ただじゃないもの」とは分離したものとして自分の表現の場所や表現そのものを位置づけている。「ただじゃないもの」を敬っているのか、どうでもいいものと思っているのかはわからない。にもかかわらず、「ただのアーティスト」にも、自分の表現や表現の場所に対するこだわりや自負があることは確かだろう。

 もしわたしが「ただのアーティスト」をまねて言えば、「偶然に、何の因果か、表現者です。」となろうか。ついでに言えば、わたしは若い頃、何百万言も費やして考えを述べている書物たちを尻目に、この世界の根幹を簡単な短い言葉で言い表せないかという強い欲求を持ったことがある。

 吉本さんが芸人の藤田まことのファンだということは、吉本さんが藤田まことから色紙をもらったということを知るまで知らなかった。わたしが藤田まことを知ったのは、まだ少年の頃で白黒テレビの番組「てなもんや三度笠」でだったろうか。その頃は喜劇俳優のイメージだったが、ずっと後にテレビなどで見かけたときには、シリアスなドラマや映画に登場する存在感のある俳優として登場していた。「必殺仕事人シリーズ」がわたしには印象深い。その藤田まことから吉本さんがもらった色紙(註.1)には、「恥ずかしながら 一生 芸人です   藤田まこと  吉本隆明さま ‘98.2.5」とある。この藤田まことの色紙に書かれた言葉は、たぶん藤田まことの芸人としての人生をひと言に振り絞った言葉であろう。これもなかなかいいと思う。「恥ずかしながら」がこの言葉の重心だろう。


 ここ数年来、「何かコトバ」を書けと読者に言われると宮沢賢治の言葉を自分なりにアレンジして好きな文句を書いてきました。次のようなものです。

 ほんとうの考えと
 嘘の考えを
 分けることができれば
 その実験の方法さえ
 決まれば―
   宮沢賢治より
       吉本隆明記

 わたしの特に好きな宮沢賢治の言葉は「その実験の方法さえ決まれば」のなかの「実験」というコトバの使い方です。
 そこからなかなか離れられないで居ります。
 (「受賞のひとこと」P53-P54『吉本隆明資料集175』猫々堂、初出『第十九回宮沢賢治賞イーハトーブ賞』パンフレット 全文 2009年9月22日 )



 吉本さんが宮沢賢治の作品から取り出した言葉は、以下のものである。


けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。
(『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治 青空文庫 角川文庫版)



 吉本さんは、色紙などに書くような短い言葉を人から乞われるようになって、まず自分の言葉を探さなかったとは思えない。吉本さんが今まで書いたり語ったりした言葉から見れば、吉本さんは自分から積極的に何かに立ち向かうと言うよりも、押し寄せてくる世界に強いられるように割とネガティブに生きてきたから、自分の生存を短い言葉に絞り込むことはむずかしいなあ、面倒だな、と思ったかもしれない。自分の好きな人の言葉で自分の切実な場所に近しい言葉ならそれでいいやと思って宮沢賢治の言葉を取り出したのかもしれない。ちょうど苦手な歌うことを望まれて、少しは気に入っていて歌いやすい誰かの歌を選んで歌うように。

 「宮沢賢治の言葉を自分なりにアレンジして」というのは、取り出した言葉を、詩句のように行わけにして、少し言葉を切り整えていることを指すのだろう。ここで、「もう信仰も化学と同じようになる。」という結びが省略されているのは、吉本さん自身がその「実験」の方法を強く模索し願っていること、その現在性を示しているからだと思われる。

 吉本さんが「実験」という言葉にこだわるのは、化学実験のように誰もが認めざるを得ないような、すっきりする実験方法や判定の方法を生み出せたら、まずは人間間の集団を介した無用な対立に終止符を打つことができる、と考えるからだろう。だから、「決まれば―」の後に吉本さんの内心で続くのは、そうなったらなんてステキなんだろう、せいせいするな、ということだと思う。



(註.1)
以下のブログの記事が、その色紙に触れている。
 ・ブログ 『米沢より愛を込めて・・』https://ykkyy.exblog.jp/17711296/
 ・記事  「思い出:故藤田まことさんから、故吉本隆明氏へ贈られた色紙」(2012年03月23日)
  ※この記事中に、吉本隆明氏『思想のアンソロジー』(2007年)で藤田まことに触れている箇所が引用されている。

一度は読んだことのあるその本にこの色紙の言葉や藤田まことに触れた文章があることは忘れていた。私の持っている本から関連を一部引用しておく。吉本さんが「自前の言葉」を考えてみたことも記されている。


 《解説》
 子どもの友人の娘さんが愉しい人で、藤田まことの色紙を頂戴してきてくれた。そんな私的な色紙のなかの言葉を意図的に択んだ。なぜかと強いていえば、言葉そのものが著名な芸能家がファンに与えるという位置に立っていないし、とうていそんな気持ちをもてないような謙虚な人柄が滲みでているからである。わたしも自前の言葉を色紙に頼まれたら、一度は、耻ずかしながら、生涯物書きですという模倣をさしてもらおうとおもった。
 誰にとっても生涯の職業は恥ずかしいものだ。何故なら、他の何にもなれなかったから、そうなってしまって米塩の資を得ているからだ。
 (『思想のアンソロジー』「藤田まこと」P23 吉本隆明)


 ※《解説》の前に、藤田まことの色紙の言葉が掲げてある。その中では、「耻」ずかしながら、となっている。《解説》では、「耻」と「恥」の両方の表記がある。

 


知識の最後の課題 ―『最後の親鸞』(吉本隆明)より

2018年01月24日 | 吉本さんのおくりもの

吉本さんのおくりもの 16
 知識の最後の課題 ―『最後の親鸞』(吉本隆明)より


〈知識〉にとって最後の課題は、頂を極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂を極め、そのまま(「そのまま」に傍点)寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」(「そのまま」に傍点)というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」(「そのまま」に傍点)というのをやってのけているようにおもわれる。


 どんな自力の計(はから)いをもすてよ、〈知〉よりも〈愚〉の方が、〈善〉よりも〈悪〉の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく〈愚〉に近づくことは願いであった。愚者にとって〈愚〉はそれ自体であるが、知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。
 (『増補 最後の親鸞』 P5-P6 吉本隆明 春秋社)



 前回の「知識の第一義的な課題」は、容易に受け入れることができても、この「知識の最後の課題」は容易に受け入れることは難しいような気がする。それはなぜだろうか。
 
 知識を大事なものと見なし知識を獲得することに人間的な活動の価値を置く考え方は社会的に流布されている。学校もまさしくそのような価値観の下に運営されている。義務教育ではない高校や大学には行かないという選択肢はあるけれども、学校の内部で、知識を獲得することなんてくだらねえ、なんて忌野清志郎の歌みたいに公然と発言しても空しく押しつぶされていく。管理運営する学校側もそこで勉強する子どもたちも、学校という場やそこでの知識獲得に価値を置く感じ方や考え方を割と自然なものとして身に付けているからである。もちろん、その自然な感じ方や考え方は、自分が社会に出て職に就くためには、この学校をくぐり抜けるしかないとか学校は仕方がないとかいう現実性に支えられている。また、両親が子どもを勉強に追い立てるにしろ放任するにせよ、社会に出て職に就くためには学校をくぐり抜けるしかないという意識的無意識的な親の意思を背中に感じている。その一方で、あまり表面化することがないにしても、子どもたちの多数の者が勉強なんていやだなという気持ちも持っている。子どもが先生などに時折ぶつける「何のために勉強するのですか」という問いかけは、その子の現在が勉強というものにくだびれているということを証している。

 こうした知識や知識の獲得に価値を置く感じ方や考え方は、現在的な主流を成しているが、人が知識を獲得し増大させ深化させていくのは人間の自然な本性に基づく知識の自然な運動である。そして、社会的に流布されている、知識を獲得することに人間的な活動の本質的な価値を置く考え方は、威勢のいい上りがけ、行きがけの捉え方である。その知識の行きがけの過程を内省的に捉えたのが前回の「無限大に想像力を働かせ、無限大に考える」という「知識の第一義的な課題」であると思われる。

 ところで、この「知識の最後の課題」は、知識の行きがけの問題ではなく還りがけの課題であり、そこに容易に受け入れがたい理由があるように見える。特に、青少年や年若い大人にとっては、まだ知識世界の上りがけの時期でもあり、いっそう実感がわかないはずだ。

 まず、この「知識の最後の課題」は、個の生涯では青少年期や成年期には一般に受け入れがたい言葉だと思われる。また、現在の人間界の社会規範のようなもの(マス・イメージ)を基準にすると受け入れがたい言葉だ思える。しかし、人が無意識的のように慌ただしく生きてきて、人生の残照の中やっと生きることの意味をゆっくりと反芻すると思われる老年期には割と受け入れやすいのではないかという気がする。つまり、自分はこの人間界をもうすぐ去るのではないかという気配の中では、知識もヘチマもないから受け入れやすいのではないかと思う。しかし、この老年期からの視線には、この人間界を超えたものの負荷がかかっている。それは、人間が知識を持ちその自然過程をはせ上っていくのも知識を放棄したり知識を殺したりするのも等価ではないか、たいしたことじゃないのではないかという、比喩的に言えば人間界を超えた世界からの視線が加わっている。それは死というものを意識したところからくる視線と言っても良い。こうした途方もない規模で考えると、人間界に喜怒哀楽を放ちながらあくせく生きてきた人間というものは何なのか、という生きることの意味の方に言葉は吸い寄せられていく。

 ここで、人間界で個によってになわれる〈知識〉の運命というものをたどってみる、それは当然ながら、ちょうど人の子の人間界への誕生から死にわたる生涯の曲線と対応する過程をたどっていく。まず、小さい子どもの言葉以前の言葉とも言うべき、アワワなどの喃語(なんご)と呼ばれる段階から話し言葉を少しずつ身につけていく段階へ。たとえば、「りんご」というものが〈りんご〉という言葉や果物という概念と関係づけられ了解されていく。こうしたことをくり返してしだいに概念の世界も踏み固められ霧が上がって晴れ上がっていく。学校に通うようになると、書き言葉の世界に出会い複雑な概念や構造や抽象的な言葉も身につけていく。それらを文章から読み取ったり、文章に書き表したりする力を獲得していく。青年期や成人期に入っていくと、それらの概念や言葉の抽象度もさらに上がり複雑さの度合いを深めていく。そして、老年期に至って概念や言葉は複雑な色合いや含みを持つようになる。そして、概念や言葉も衰えや死の匂いが付きまとってくるように見える。

 つまり、人の心身の成長曲線に対応するように、概念や言葉に対する人の意識、すなわち〈知識〉の運命はたどっていくように見える。個の身体が死を迎えるとき言葉もまた死を迎えるのである。文字が生み出されて書き言葉の世界が現れて以後でも、個が死んでしまったら〈知識〉や思想や言葉(特に話し言葉)はひとたびは死を迎えるように見える。ただ個が死んで後も、残された人々の心に言葉(亡くなった人の話し言葉や書き言葉)は時折よみがえることがある。こうして、個を訪れる言葉の運命は、個における〈知識〉の運命と同じとみることができる。また、このような個の誕生から死にわたる生涯と知識の命運は、植物の発芽から成長そして花開き実を結び、種を残して枯れていくという過程と似たものではないかと思い起こさせる。

 吉本さんの〈知識〉にとって最後の課題は、おそらく読者を複雑な思いの森に導くと思われる。つまり、すんなりとは納得して受け入れることができる言葉だとは思えない。

 吉本さんの〈知識〉にとって最後の課題は、上に述べたような個にとって〈知識〉の誕生から増殖そして死に至るという〈知識〉の運命、〈知識〉の自然過程ということとは別のことである。また、現在までの人類史の主流が、大いなる自然=神々を知ることに発し、この世界の仕組みを探索するようになり、そしてそのような〈知識〉に人間的な価値を見いだし、それをになう人々(巫女やシャーマン、神官、知識層)を特別の存在と見なすようになり、今なおそれを止めていないということとも別のことである。

 この別のことという意味は、今なお〈知識〉やその獲得に価値を置くという現状が社会的な主流のような顔をしていても、社会内のわたしたちの家族や小社会や対人関係には、言いかえると生活世界の基層には、そのような主流の影響は受けつつも、あるいは主流に絡みつかれながらも、例えば〈知識〉の有る無しは大したことではないというような、人を心身の総体で感じ考えるような言葉や視線が確かに存在し続けてきているからである。それは遙か太古から脈々と受け継がれ積み重ねられてきた人類の叡智の深みのようなものであろうか、固い言葉で言えば、他者を直接的な総体性として捉える視線とも言うべきものであろうか。これは生活実感として私の中にある。

 それでは、吉本さんの〈知識〉にとって最後の課題という言葉は、どこに着地するのか、どういう場において生きるのかと考えた場合、わたしたちの生活世界に保存されてきたそのような人類の叡智の深みとも言うべき生活者の言葉や視線に対応しているように思われる。この生活者の他者を直接的な総体性として捉える視線や言葉は、数万年やそれ以上の人間という存在の始まりからの他者(自己)と関わり合う時間の蓄積のことと言いかえても良い。そして、それは表だった主流とは違って、(吉本さんの「歴史の無意識」に対応する)潜在する主流とでも言うべきものである。この意識的、自覚的な〈知識〉の還相の過程において、〈知識〉の自然過程をぶっ飛ばしていく往相は、―その〈知識〉の老いによっても内省を迫られることがあるかもしれないが―、君は何をしてきたのか何をしているのかという自らへの内省に出会うのである。〈知識〉に価値を置く〈知識〉の往相は、国家の成立辺りから人間界の知識・文化上層では力を持ち続けてきた。しかし、それは人間界(社会)の総体においてではない。また、国家成立以前にはたぶん異質な〈知識〉の捉え方の膨大な人類史もわたしたちは持っているだろうと思われる。つまり、現在の〈知識〉の自然過程である往相は、人類にとっての〈知識〉ということのほんの一部ではないかという思いがある。

 吉本さんは、若い頃からずっと親鸞を考え続けてきたのだと思う。若い頃には『吉本隆明全集1』に収められている「歎異鈔就いて」(『季節』1947年7月掲載)がある。次に、ほぼ日刊イトイ新聞の「吉本隆明の183講演」には、1972年11月12日講演の『親鸞について』(吉本隆明183講演 A29)がある。そして、1976年10月に春秋社版の『最後の親鸞』が刊行されている。吉本さん51歳の時である。40歳代から50歳代のこの辺りで、吉本さんは本格的に親鸞を捉えようというモチーフを表に出してきた。つまり、「知識の最後の課題」は、吉本さんにおいても壮年過ぎに切実に訪れてきたモチーフだったと思われる。『カール・マルクス』(試行出版部刊 1966年)における、マルクスも普通の無名の生活者も等価だというような人間の本質的な生存の捉え方やこの親鸞の「知識の最後の課題」に至る吉本さんの知識や思想の道程には、戦争の体験とそこからの内省とが色濃く記されているはずである。そして、そのような実感を伴った内省が、吉本さんを〈大衆の原像〉やこの「知識の最後の課題」のようなこの人間界での本質的な課題を捉える道を激しく上り詰めるように歩ませて来たのだという思いがする。

 〈知識〉に対する ―それは人間や人間世界に対すると言ってもいいけれど ― わたしたちの一般的な視線には、二つある。一つは、個の誕生から死に至る生涯というものの時間の総体を含んだ視線である。もう一つは、人々が小さな集落で生活し始め知識を生み出していった人類の初期(起源)を含んだ視線である。〈知識〉に対するわたしたちの現在的な視線は、現在の〈知識〉にまつわるマス・イメージに浸かっていて、ふだんはあまりその二つの視線を意識することはない。しかし、学校生活や受験など現在の〈知識〉の場で、くたびれ果てて「ここから脱け出たい」という感情や意識を抱いたときには、それら二つの視線は顕在化してくることがあり得るように思う。

 その二つの視線は、まず、わたしたちに知識や知識世界について、なぜそんなものが存在するのかという内省をもたらす。次に、その内省に促されるようにして、この断ち切られることなく連綿と続いてきた人間界の歩み、その現在の中で、日々わたしたちが生きているということは何なのだろう、という問いから教育(家庭教育や学校教育や社会教育)を含めた知識というものが何なのかという問題が浮上してくる。これらのことは、この人間界における人の存在の本質的な価値として吉本さんが捉えた〈大衆の原像〉と関わってくる。

 この吉本さんの「知識の最後の課題」は、まず、親鸞が関東の地で仏教のようなものを携えて当時の民衆の世界に入り込んで行ったとき親鸞が鋭く感じ取った課題であった。どうしても〈知識〉を引きづっていて〈知識〉を完全には放棄できない親鸞の最後の課題だった。次に、この課題は、この人間界での人の存在のあり方の本質を〈大衆の原像〉という本質的なイメージとして捉えてきた吉本さんの、そこから〈知識〉へと逸脱してしまわざるを得なかった自分の最後の課題として問われている。つまり、親鸞の時代から遠く離れた現在の、現在的な問題として問われている。

 〈大衆の原像〉は変貌してしまったとかよく批判されるが、これは本質的な存在のあり方として抽出されたイメージである。つまり、具体性のレベルではないある抽象度を持ったイメージである。たとえば、柳田国男が捉えた常民の具体的な生活世界やその具体的なイメージと現在のそれらは大きな落差や違いがあるように感じるだろう。大衆の具体性としての有り様は、高度経済成長期以後の消費資本主義の世界の下の、大衆が知識世界に普通に出入りするようになった段階とそれ以前では大きな変貌があるだろう。また、知識人と知識には無縁な生活者という構図も、純文学と大衆文学という構図も、解体されて現在ではその断絶と境界が曖昧になってきている。しかし、数万年に及ぶこの列島の住民の精神的な遺伝子がそう簡単に変わらないのと同様に、大衆の具体的な有り様ではなく、大衆のこの人間界における有り様の本質的なイメージとして抽出された〈大衆の原像〉は、不変的なものとしてある。そして、この吉本さんの「知識の最後の課題」は、家を抜け出した放蕩息子が様々な放浪の旅の末に我が家に帰ってくるように、〈知識〉世界に逸脱してしまった自分が、最終的に還っていく世界が価値のイメージ(像)として指示されていることになる。

 あぶくのような知識の優劣を競ったり、知識をひけらかしたり、自らの生活実感とは無縁に何やら固い抽象語を振りまわしたりということを、今なお知識世界の住人は止めていない。そんな知識界の住民を尻目に、この吉本さんの「知識の最後の課題」は、わたしたち人間界の内部での大きな課題として考えられているはずである。

 しかし、人間界の規模を超えた大いなる自然(宇宙)というレベルからの反照する視線(というものを比喩的に仮定して)を導入すると、この吉本さんの「知識の最後の課題」も粉々に砕けて、ただなぜかはわからないがこの大いなる自然(宇宙)の下に人間というものが存在し、宇宙から見たら人間という本質的に受動的な存在、親鸞の絶対他力的存在というあり方をしているということになるだろう。ちょうど人工衛星から(のデータを画像処理して)列島を見たとき、なにか生命が分布して生命活動を明滅させているものの静止画像を見たときのように。しかし、人工衛星からこの列島やそこに住む人々を見ようとする視線は、もはや比喩ではない現実的なものとして人類が獲得してしまった。吉本さんはこの上方からの視線を「世界視線」(『ハイ・イメージ論Ⅰ』) (註.1)と呼んでいる。この世界視線は、人間界の科学技術の成果がもたらした人間的な視線であるが、人間界を突き抜けるものを持っているように思われる。自分が地上の内部にいながらそこから遙かに突き抜けた外部の遙か真上からの視線である。言いかえると、大いなる自然(宇宙)が内省というものをすると見なせば、それを代替するような内省する視線のようにも感じられる。しかし、ここではこれ以上それには触れない。



 (註.1)
「世界視線」

 ランドサット映像が世界視線としてあらわれたことの意味は、わたしたちがじぶんたちの生活空間や、そのなかでの営みをまったく無化して、人工地質にしてしまうような視線を、じぶんたちの手で産みだしたことを意味している。この視点はけっして、地図の縮尺度があまりに大きいために細部を省略しなければならなかったとか、さしあたり不必要だから記載されなかったということではない。ランドサット映像の視線が、かつて鳥類の視線とか航空機上の体験とかのように、生物体験としての母体イメージを、まったくつくれないような未知のところからの視線だということに、本質的な根拠をもっている。いわば、どうしても人間や他の生物の存在も、生活空間も、映像の向う側にかくしてしまう視線なのだ。
 (『ハイ・イメージ論Ⅰ』 P155 吉本隆明 ちくま学芸文庫)

 

※今回を含めた以下の三つの文章は、一連のものです。

 「吉本さんのおくりもの」
12.知識の第一義的な課題 
13.知識の起源から照らして
16.知識の最後の課題

 


吉本さんのおくりもの15 言葉の素顔や表情 ―川上春雄宛全書簡より

2017年10月09日 | 吉本さんのおくりもの

 『吉本隆明全集37』(書簡Ⅰ、晶文社 2017.5.10)には、吉本さんの川上春雄宛全書簡と川上春雄氏の吉本さんや吉本さんの両親や吉本さんの知友への訪問記やインタビューやメモの「川上春雄ノート」などの資料がおさめられている。

 わたしたち読者は、一般には言葉と化した作者(表現者)に表現された言葉を通して出会うことになる。作者は、書くという世界になじんでしまっており、しかも商業出版という世界に関わって生活している。そうしたことの詳細や具体についてはわたしたち読者はよくわからないし、作者たちもそうしたことをあんまり公開することはない。そうしたことは、表現自体にとっては瑣末なことかもしれないが、わたしたち読者が作者の言葉の肌触りのようなものまで含めた理解ということを目指すならば大切なことだと思われる。この第37巻は、作者の言葉の素顔や表情やふんいきのようなものまで含めた、つまり、深さを持った理解ということを追究する場合の大きな助けになると思う。

 わたしたちは誰でもこの社会でいろんな人と関わり合いながら生きる。その関係には、仕事上の付き合い、顔見知り程度、恋人や家族関係、親友と呼べる関係など、関係のつながりの深さの違いや濃淡の差がある。わたしたちはその多様なつながりを割と自然に使い分けて生きている。吉本さんと川上春雄氏との長年に渡る関わり合いは、「創成期はどんなばあいでも、文学は、思想的に『進退を共にする』もの」から始まった。もちろん、出会いの初めからそうだったわけではない。

 吉本さんと川上春雄氏との出会いと川上春雄氏の人柄については、資料Ⅰ「川上春雄ノート」の「吉本隆明会見記」(一九六〇年七月十九日)と資料Ⅳの「著作集編纂を委かされた川上春雄氏」(一九七〇年十〇月二六日)でだいたいのところがわかる。二人の表現活動に関わる関係は、信頼に基づく生涯にわたる深い関わり合いを持つものだったように見える(註.1)が、その関係の持続の最初の根底的な関門は次のようなものであった。



 1.アイサツ状とは馬鹿なことをしてくれたと思います。
 それは、「事業上」からも、「試行」出版部の名前にかけても、まったく愚かな猿ヂエだと思います。そのことを貴方が身に沁みて知るでせう。だが、「事業上」の不利は貴方が負えばよいが、せっかく創造的な運動をさらにおしすすめるために、貴方をさそった「試行」の名前にたいして貴方はどんな責任を負うのか、こちらが、歯を喰いしばって非妥協的に耐えているのを、貴方は裏からつきくづす方向にすすみつつあるといえます。この方向を、そっ直にではなく、陰ですすめれば、即座に、貴方との関係を断ちたいとおもいます。不悪。貴方は、ちょうど、斉藤「深夜」氏とおなじ程度の「事業」上の才覚と、編集者的感覚でいるのです。どうして、ほんのしばらくでも、黙ってついてこられないのか!小生は、出版事情についても、ライター層についても、思想情況についても、貴方よりよく知り、よく考えつくしているつもりです。返答を欲しいとおもう。繰り返し、言う。何と馬鹿なことをしてくれたものだ!
 ・・・中略・・・
 貴方の返答をまちます。それの如何では、小生も、貴方と一切関係ない旨の文書を各方面に配布せざるを得ないでせう。決して気を悪くしてはいけません。
 貴方が、お前も人間なら、おれも人間だ、何も一から十までお前のいいなりになる必要はないという鬱積を抱くのは当然であるかもしれないが、小生は「実利」上からも、思想上からも、「試行」に関するかぎり何も利得していないのである。文字通り、物心両面の不如意が、それから得た小生の「実利」である。創成期はどんなばあいでも、文学は、思想的に「進退を共にする」ものでなければ、共同できないことは自明である。貴方に、その気があるかのか、どうか、しかと賜りたい。返事を待ちます。
 (川上春雄宛書簡56 1964年7月12日 P92-P93『吉本隆明全集 37』書簡Ⅰ)


 ところで、貴方の方からみるとこういった小生の原則は、ゴウマンであり、また他人に強いる理由のないものであるという考えがどっかにあって、今回の案内状となったとおもいます。これは、小生の原則からは、耻かしくて頭を上げられないような気持です。村上、谷川両君とやっていたときでさえ、それだけはしませんでした。二、三の出版社から「試行」を引き受けるからという申出があったのに、それを敢えて断わって、はじめたくらいだからです。
 また、逆に、この一見するとゴウマンにみえる原則は、結果として、「実利」をもたらしました。あらゆる雑誌が、大商業誌、小同人誌、左翼文芸誌をふくめて、赤字、借財のうえに成立っている現状のなかで「試行」だけは、赤字、借財で苦しむことなく存続してきました。「実利」の上からも、貴方が配布した案内ハガキの代金に匹敵するだけの効果が、案内を出したことから得られないだろうことを、小生は断言することができます。だから、貴方の今度の処理は、「実利」上からも、「原則」上からも、何と馬鹿なことをしてくれたのだ、という小生の発言に要約されるのです。
 ふたたび、くり返します。
 一、貴方は以上申述べた「試行」の原理を承知の上で、なお協力体制をとってくれるだろうか。(そうしてくれるかぎり、貴方に欠損や借財を負はせることはない、という責任を小生は保証することができます)
 二、ムダな金は、出版広告のためつかわず、ハデな宣伝もせず、地道に悠然と、よく球をえらんで出版部を継続してくれる意志があるだろうか。
 三、むこうから自然にやってくるのではなく、こちらからすすんで中小出版の仲間入りをする愚挙(中小出版は全て赤字、借財のうえに自転車操業をしているものだということを小生はよく知っています)を避けて、地味にふるまうということに耐えてくれるだろうか。
 もう一度、素直にお訊ねします。
 (川上春雄宛書簡58 1964年7月15日 P95-P96)



 この書簡56に付された註によると、「アイサツ状」は、『初期ノート』の広告文のことで、それを「川上はこのダイレクト・メールで少しでも購入者の範囲を広げようとしたのに対し、著者は『ディス・コミュニケーションの方法』を出来るだけ狭く厳密にまもりたいと考えていたのだとおもわれる」とある。
 
 この頃の吉本さんは、安保闘争の敗退の後でいろんな精神的な傷を負いつつ出版界からも干されるような情況の中、その情況にツッパル自立的な表現の場として谷川雁、村上一郎とともに三人で「試行」を創刊した。その「試行」が、吉本さんの単独編集になっていた時期である。吉本さん40歳。資本主義は表現者の片道は助けてくれるが、また表現者をダメにする面も持っていると吉本さんは何度か書き記したことがある。そういう吉本さんの表現者としての出版界での経験が十分に見えていない川上春雄氏とのくいちがいからこの問題は起こっている。圏外にいるわたしたちからは、そんなささいなことと見えるとしても、思想の現実性は、具体的な場ではそんなささいに見えるところに立ち現れる。

 吉本さんは、「小生の方は、かつてこれほどのショックはないというほどの衝撃を貴方からうけました」(川上春雄宛書簡60 1964年7月20日)と述べている。そして、その言葉の少し後に、次のような吉本さんの真情が書き記されている。



 こんな、情けないことで、大の男が何べんも通信を交わさねばならないとは、小生のはじめて体験することです。けれどどうしても、何よりも大切な問題が、今回のことのなかにはふくまれていますので、繰り返し繰り返し(引用者註.二度目の「繰り返し」は繰り返し記号が使われている)貴方を説得した次第です。どうか素っ直な能[態]度を示されるよう。また、お互の一家にこれ以上いやな空気がこもることのないよう祈ります。少なくとも、小生の家に伝えられる貴方の案内状の余波は、いづれもやりきれないものばかりでした。貴方の御家族もきっと小生の通信でいやな思いをされていると推察します。



 この吉本さんと川上春雄氏の危機的なすれちがいは、吉本さんの提案(「川上春雄宛書簡60」の中で提案)による、「試行」出版部の出版案内を送ったことを取り消すという内容の「廻状」を、川上春雄氏が「アイサツ状」を出した相手に送るということで落着したようである。同年8月上旬頃のことである。

 川上春雄氏は、2001年9月9日に78歳で亡くなられている。そして、吉本さんは「川上春雄さんを悼む」という追悼の文章を書いている。これは川上春雄氏が亡くなられた後に、吉本さんが二人の交渉史と川上春雄氏の人物像を反芻して出てきた言葉であろうと思われる。真情のこもった本人の言葉で語ってもらうと、



 川上春雄さんとはじめて通信を交わすようになったのは、わたしが飯塚書店版の『高村光太郎』を出版した折だったと思う。それまでまったく未知だった川上さんが、詳細な誤植の訂正個所を挙げて送ってくれたことから、手紙や葉書の往復がはじまった。物ぐさなわたしでも、黙っていては相済まぬと思うほど詳細を極めたもので、御礼状を出さずにおられなかった。川上さんはその頃、詩誌「詩学」の研究会に属して詩を書いておられたと記憶する。力量のあるいい詩作品だった。じぶんよりずっと若い詩人だと考えていた。交渉が生じてからは、ますますわたしの著作にたいする読みは深くなり、訂正や感想の類いもまた以前より細部にわたり、たんに誤植の訂正にとどまらず、わたしの認識の誤解にまで及び恐縮するばかりだった。そしてだんだんと〈ああ、おれはいい読み手をもったな〉とわれから思えるようになった。・・・中略・・・
 山形県米沢市の学生時代、会津出身の同級生が二人いたが、二人の共通点はテンポがあまりはやくないが、考え方にも行動にも筋金が入っているという印象だった。おなじ性格は当初から川上春雄さんにも共通していた。筋が通っていて頑固ともいえるし強情ともいえる。一旦、思い込んだところから思考は単一で根気に充ちていて、わたしなどの言い分で抑止されるものではなかった。この資質は得難いもので、わたしなどが尊重してやまないところだった。川上さんへのわたしの親愛感と信頼感はそこを源泉に形成されたような気がする。わたしのようなちゃらんぽらんな性格は、そこから沢山のことを学んだような思いがする。
  (「ちくま」2001.12 、『ドキュメント吉本隆明①―〈アジア的〉ということ』所収 弓立社)




 吉本さんが、上に引用した「川上春雄宛書簡60」で川上春雄氏をくり返しくり返し説得したのは、おそらくこの追悼文に表現されたような、川上春雄氏は自分にとって得難い人だという直感を持ったからではないだろうか。


<あなたは他人に寛大でゆるしているようにみえながら、あるところまでくると、他人には唐突としか思えないような撥ねつけ方をするよ。決してその都度、わたしは、そういうことは好きでないとか、いやだからよしてくれとは言わずに、ぎりぎりの限度まで黙っていて、限度へきてから、一ぺんに復元しないような撥ねつけ方をするよ>
 (「情況への発言」1973.9 P277 『「情況への発言」全集成1』所収 洋泉社)



 この他者(たぶん奥さん)の批判は、「かなりうがっている」と受けとめつつ、吉本さんの自己像としては「しかし、依然として〈いや、ちがう〉という無声の声を挙げるほかない」と述べている。吉本さんの内心は別にして現象としてはそのような吉本さんの他者との関係の取り方に見えるのだろう。ここから、吉本さんと川上春雄氏との初めての衝突を眺めてみると、吉本さんは自分の前に現れた川上春雄氏を得難い人だと思っていたのに、それが裏切られるように暗転して「かつてこれほどのショックはないというほどの衝撃」を受けた。たぶん、吉本さんの衝撃は人並み以上の物だと思われる。つまり、それだけ過敏な反応だったろう。そして、その吉本さんの反応の型は、「〈いや、ちがう〉という無声の声を挙げる」自己探索の旅程でもあった『母型論』(1995年)へと追究されていくことになる。しかし、これが初めてのことで相手が得難い存在であったから、「撥ねつけ」ることなくくり返しの説得を試みたのだと思われる。

 ところで、「創成期はどんなばあいでも、文学は、思想的に『進退を共にする』ものでなければ、共同できないことは自明である。」(川上春雄宛書簡56)と吉本さんは述べている。吉本さんと批評家芹沢俊介との関係も、そのことに近いものとして始まったのかもしれない。おそらく雑誌「試行」に文章を寄稿してから吉本さんとの交渉が始まったと思われる芹沢俊介は、「一九七〇年から続いていた三十数年の親交にいつの間にか空白が生まれていた。」(「吉本さんとの縁」『文学界』2012年5月号)と書いている。そこでの芹沢俊介によると、吉本さんが『生涯現役』(2006年)で芹沢俊介がホスピス運動のようなものに関わってしまっているという批判を語っていたということである。「こんな『妄想』を生むほどに視力が弱まってしまったのだと考えれば、吉本さんに直に会って、一言、直接抗議することですませられる」けど、会えば、ののしりあいにまで発展するかもしれず、迷っているうちに足が遠退いてしまった、と芹沢俊介は書いている。それが吉本さんの娘さんの計らいで亡くなる少し前に芹沢俊介は吉本さんに病院で会えたということである。吉本さんがどうやって芹沢俊介がホスピス運動のようなものに関わってしまっていると判断したかやこの両者の食い違いに、ここではわたしは判定を下そうとは思わない。ただ、芹沢俊介が書いているように目を不自由していた吉本さんだろうが、「妄想」とは思えない。吉本さんはそう捉えたのだということは確かなことであり、芹沢俊介との関わりを「思想的に『進退を共にする』」に近い関係と見なしていたと思われるから、とても残念なことと衝撃を受けたものと思われる。

 付け加えれば、わたしは芹沢俊介の文章をずいぶん読んできてある程度のいい評価を内心で下していた。しかし、別の文章(「『吉本隆明追悼』のひとつから」 2012年5月)で一度触れたことがあるが、吉本さんに後継としての弟子がいるのだろうか(弟子が必要だ)、というような少し思わせぶりの下の芹沢俊介の発言は、わたしを唖然とさせた。自立思想の吉本さんから何を学んできたのかという思いで、わたしには衝撃だった。


 吉本親鸞説というのがあります。現代の親鸞になるためには、吉本さんはまだ何か一個付け加えなくてはならないのです。
 アメリカの9・11について、吉本さんは、加藤典洋さんとの対話で「存在倫理」という考え方を加えました。ただしまだ一個だけかけていました。
 それは親鸞には唯円(親鸞の死後書かれた歎異抄の作者と言われる)がいましたが、吉本さんに唯円がいるかどうか、ということです。
 今回は吉本隆明さんを追悼するおしゃべりでした。
 (「いのちを考えるセミナー 2012年3月21日 芹沢俊介さん講演ーー吉本隆明さん追悼その5――殿岡秀秋筆録」)



(註.1)
吉本さんと川上春雄氏との出会いと交渉から来た川上春雄氏の人物像については、上に触れた「川上春雄さんを悼む」(「ちくま」2001.12)という吉本さんの追悼の文章の方が、わたしたちによりわかりやすく実感的に伝わってくると思う。