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対象世界の構造とそれへの出入りについて

2016年07月01日 | 批評

 この文章のモチーフは、人がある専門的な分野や専門的な言葉に対面したときのある言葉に言い表しがたい思いから来ている。そういうわけで、この文章はたとえ固い言葉でしか言い表せていないとしても、たぶん万人の思いに交差するものであると信じている。

 わたしたちは、この人間界(社会)に存在しながら、海、空、大地や石などの自然物や動植物や、人間(他者あるいは自分自身)や人間の作り出したものなどとの多様な関わり合いの渦中にいる。その渦中では、それらのものを対象として意識し、志向したり引き寄せたりして日々生きている。

 人の対象とするものには、自由や愛のような抽象度の高いものもあれば、また単一なものだけではなく植物界や宇宙など大規模な構造を持つ対象世界と呼ぶべきものもある。わたしたちは誰でもこうした無数の対象との関わり合いを日々生きている。さらに、そうした対象との関わり合い自体をこの現在のわたしのように内省することもある。

 例えば、株価や為替相場とかいう経済領域の要素の話がある。株価という経済領域の一要素は企業の生命力や活動の状況と連動しながら、為替相場などの金融経済とも連動しているらしい。現在に到る政府―日銀の意図的な株高・円安誘導政策がそのことを語っている。

 また、エコノミストや経済学者という人種の主流は、古い言葉で言えば「経世済民」ではなく、上から目線である。つまり一般的には、わたしたち生活者目線でなく為政者目線で語る者を指すようだ。その中にもリフレやらいろんな流派があるらしい。

 わたしは文学や思想の世界には積極的な関心があるが、経済や政治や法の世界には積極的な関心はないから、いろんな専門的な解説に出合っても、どうしても本気になれなくて生返事で聞いているような状態になる。つまり、どうでもいいやという感じでそれらの対象に向き合っていることになる。

 しかし、生活者として、あるいはこの世界に生存する者として、消極的な、防御的な関心は、経済や政治や法の世界に対して持っている。また、経済世界の専門的な言葉に出合って、それがよくわからないとしても、わたしたちは誰もが日々経済世界内存在であり、経済活動をしている当事者である。

 人はこの社会で家事や学生や職業など、誰でも一つは専門的な対象世界に関わっているように見える。教育という対象世界がある。わたしは少なくとも十年は高校の教員として学校や教育という世界に関わってきたから、その教育現場が抱えているだろう諸問題もわかるつもりでいる。

 教育学者が教育を論じる場合の当否やその言葉の空疎さや教育行政の空疎な言葉もわかる。もちろん、同じ教育現場にいたとしても、小中高校大学を貫く教育の普遍的な事柄もあるだろうが、すべての個別具体性を同一の地平で論じることはできないことも確かである。

 ところで、教育という世界も、誰もが学校を通過し、そして親になり、その子どもたちが学校へ行くようになると再度新たな形の学校との関わりを持つことになる。こういう誰もが学校や教育に関わるという点と、人は太古から教育ということを家族内や地域で行ってきたという点から、教育という対象世界に入ることができる。

 これを教育という対象世界の基底として第一層と見なすことにする。この層は、万人に無縁ではなく、万人に開かれて在り、この層では誰もが教育とは何か、どんな形が理想的かを考え論じることが可能である。この第一の層の上に、第二層として公教育の現場の先生や生徒の世界がある。

 さらにその上に第三層として、教育学者たちの教育論や教育工学や技術論などのにぎやかな、しかも空疎に見える世界がある。第二、三層の活動や表現の生命を支えるのは、それらの層が第一の万人に開かれた教育という層をどれほど組み入れていることができるかに掛かっている。さらに第四層として、国家の教育に対する関わりもある。

 このようなことは、教育以外のすべての対象世界についても同様だと思う。したがって、人は誰でも自分の関わっている対象世界の経験を基にしながら、別の対象世界に入り込み、その第一層から対象世界を捉えようとすればいいのだと思う。このことは容易なことではないけれど、これが普通の生活者であるわたしたちにはより本質的な関わり方であり、出入りの仕方であると思う。
 
 現在の経済という対象的な世界も、第二や第三層の人々があれやこれや机上で論じていても、特に政権寄りの彼らが、第一層のわたしたち普通の生活者の経済活動を繰り込めていないから、GDPの6割を占めるという家計消費の問題が今頃浮上してきているのだと思う。



その道の専門でなくても
出入りする
大道無門しずかに開いている

註.経済でも教育でも政治でも音楽でも美術でも、どんな専門的になってしまった領域も人間的なものに過ぎず、万人が出入りできる層が必ずあると思う。
 ([短歌味体 Ⅲ]966 入口シリーズ・続 自歌より)


  (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)


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