作品を読むということ ―作品の入り口で
付論15 物語とドラマの作者・語り手・登場人物について
今回取り上げることは、作品のどこについても言えることだからどこを引用してもかまわないのだが、読み終えたこの作品の末尾から引用して考えてみる。
嵯峨清滝の山寺で通夜と弔いを施主として務めた空也は、京へと下ってきて四条大橋の西詰めに足を止めたのだ。
名無しの武芸者との勝負が武者修行の最後の戦いなのか、と空也は考えながら、橋を渡って祇園感神院へと足を向けた。
(霧子姉ならば姥捨の郷で空也を必ずや待っていてくれる)
と考えながら、
(このままでは修行は終われない)
と空也は思った。
(『空也十番勝負(八) ― 名乗らじ』 佐伯 泰英 文春文庫 2022.9.10)
この作品の副題が「名乗(なの)らじ」となっているのは何を指しているのだろうと、作品世界に入っていく前にわたしはちらっと考えた。もちろん、考えてもわかりそうになかった。わたしたち読者は、おそらくこの作品の終わり辺りで主人公の空也が武芸者と勝負する場面までそのことを知らないままだろう。空也に戦いを挑んだ武芸者が空也に問われても名乗らなかったという事情に拠っている。
今から考えてみることは、現在の物語の作品にとっては当然のこと、自然なことに属している。だから、なぜ取り立ててそんなことを考えるのかという疑問があり得るかもしれない。わたしは、ただ物語世界の現在の自然さを含めてできるだけその世界をはっきりつかみたいだけだ。
まず、作者が最初に主人公の空也が「名無しの武芸者」と立ち合うと構想する。次に、作者が語り手となって物語世界に下り立って、作者の構想や物語世界の促しによって語り手は、この物語の最後に主人公の空也と「名無しの武芸者」と立ち合う場面を語ることになる。語り手に語られて登場人物たちは、自らや他者に気づいていく。武芸者は、自分は名前を名乗らないのだとか、主人公の空也は、相手の武芸者は名前を明かさないのだとかに気づいていく。
「(このままでは修行は終われない)/と空也は思った。」ということも、作者には当然のことに属している。この作品が、作者によって『空也十番勝負』とその初めから名付けられている以上、主人公の空也は各地で武者修行しながら十人の相手と十番勝負の立ち合いをすることになるということは、作者にとっては自明である。しかし、このことは語り手にとっては必ずしも自明のことではない。語り手は、作者のモチーフや構想に背を押されたり促されたりするのは明らかでも、語り手はこの物語世界の現在に集中し白熱する存在である。したがって、登場人物の空也は結果として十番勝負の立ち合いをすることになるという未来のことは、よくわかっていないと思える。もし、作者同様にわかっていたら、白々しくて「(このままでは修行は終われない)/と空也は思った。」というふうには語れないように思われる。しかし、ここの描写には作者の促しというか作者の思いが溶け込んでいるような気がする。
語り手も登場人物たちも、語り手が物語世界の現在に集中し白熱するすることによって、物語世界を縫い上げていく。語り手も自らが語るまではこの先のこと、未来はわからない。登場人物も語り手に語られるまでは自らの気持ちはわからない。作者、語り手、登場人物は、もちろん作者の分身、作者の心や意識の対象化された存在たちであるが、それらが共同で意識的に協力し合ったり、あるいは無意識的に分離したりしながら、ひとつの物語世界が作り上げられていくように見える。しかし、ほんとうのところは曖昧で断定し難いところがある。つまり、物語の世界から眺めれば作者、語り手、登場人物は分離しているのだが、それぞれの未分離感がのこるのも確かなことである。
物語の世界に関わる作者、語り手、登場人物たちの関係は、わたしたちひとりひとりの現在が乳胎児期や幼少期に深く規定されているように、物語の起源に規定されているのは間違いない。しかし、微かな幻のような感覚以外としては、わたしたちが言葉をおぼえ使いこなす以前の時期(乳胎児期や幼少期)の記憶が一般には残っていないということと同じく、その物語の起源もまた幻のような靄(もや)に包まれたままである。
作者は物語を書き続け、わたしたちはその作品の物語世界を読み味わう。作者も読者もそのことを割と自然なものとして行動している。そういう自然さの深みに向け、物語の世界に関して時にふと湧き上がる疑問がある。物語とは何であり、物語を書くこと、物語を読むこと、は何なのかと。そんな時、わたしたちは物語の起源に対面しているのである。ここではその起源には迫らないが、たぶん起源辺りでの物語の世界の有り様、物語世界の現在性というものは、わたしたちの現在の物語の世界の有り様、物語世界の現在性とは違っていたような気がする。例えば、現在では分離されている過去や未来や現在とかいう意識も溶け合ったような総合的な時間意識があり得たのかもしれない。
ところで、物語から劇(ドラマ)に転位すると、作者、語り手、登場人物たちの関係は変貌する。ドラマでも語り手が登場することがあるが、物語ほど中心的な存在ではない。補助的なものである。ドラマの世界を構成する中心は登場人物たちである。物語世界では語り手に語られ導かれるようにして登場人物たちは物語世界を行動した、物語世界の現在を生きた。。しかし、ドラマの世界では登場人物たちはいわば語り手を自らの内に内在させている。物語世界の語られることによって現前する登場人物たちと違って、ドラマの世界では登場人物たち自身がドラマ世界を演じ展開させていく。
ドラマの世界の舞台に上る役者たちは、台本を読み、他の役者たちの振る舞いや、各場面の意味や話全体の作者のモチーフにも思い考える。そういう意味では、物語の世界とは違ってドラマ世界の登場人物に上って行く前の役者たちは、わたしたち現実の人間が自分の未来を想像するようにドラマの未来のことに思いを馳せたり、世界の意味について考えたりする。たとえそうだとしても、わたしたちの生活現実と同様に役者がドラマの舞台に上って登場人物に変身してしまったら、未来のことは知らず現在を生きているようにドラマ世界を行動するのである。わたしたち読者や視聴者の方が、全体から見てあいつが怪しいとか犯人はそいつなのにとかより知っているようになっている。役者たちがドラマの全体や話の結末に通じているとしても、ドラマの舞台に上った登場人物たちは、現実のわたしたちと同じくよくわからない現実自体を生きるからである。
ドラマの役者たちは、台本を読んでいて、ドラマの世界の現実や未来をのぞき見て知ることになる。例えばドラマの中の事件を起こした犯人は誰かわかるだろう。しかし、役者たちがドラマの世界に入り込んで登場人物たちとなってしまったら、ドラマの世界の構成について知ってしまったことは忘れてしまわなくてはならない。登場人物たちは、架空の世界ではあるがわたしたち同様にドラマの世界の〈現在〉を、必死にあるいはのんびりと、白熱してあるいは沈潜して生きるからである。これが現在までのところのドラマの世界の自然さとなっている。