現在のわたしは、社会の風俗や流行や諸現象について疎いから、この「ネトウヨ」考 (3)で今から行うような分析や考察にはほんとうはわたしは不向きかもしれない。しかし、現在の「ネトウヨ」現象が主にバーチャル世界であるとしても或る負性としての社会的な場所を占めていて、わたしたちもそれとは無縁ではあり得ないという一般性も持っているから、わたしとしても「ネトウヨ」についても触手をのばさざるを得ない。
どんな局所にも〈現在〉は同質なものとして現象するはずだという確信をよりどころにして、主にツイッターという狭い世界での体験をもとにして考察してみる。ツイッターというSNSで観察していると、避けようもなく「ネトウヨ」にも遭遇する。わたしはやりとりしたことはないけれど、「ネトウヨ」の中にもいくつかの層があるようだ。ツイッターなどのSNS世界に入り込んでいる者は、たぶん、以下のような層分類について、それぞれいろんな具体例を思い浮かべることができると思う。なぜなら、わたしは具体例を想起しながら層として分類抽出しているからである。しかし、大ざっぱな分類ではある。(ちなみに、後で何かの「資料」になるかもと、ツイッターで遭遇した「ネトウヨ」をInternet Explorerの「お気に入り」に「ツイッター3資料」の項目で採集している。目下240件閉じ込めている。)
1.従来からの「極右」と呼ばれていたような層。古くさい復古思想を古くさく崇拝している。これは若い世代ではないだろう。
2.盲目的なオタク趣味に熱中するように「ネトウヨの大将」を崇拝する「ネトウヨ」信者。古くさい復古思想と言うよりも、少し垢抜けて現在の軽めのオタク趣味の感覚を持っている。
3.「学者」「経済人」や「文化人」などと呼ばれる層。これは亜ネトウヨとも呼ばれるべき層。つまり、知的・論理的な装いを持っている。古くさい復古思想はほとんど見かけない。ただ、どのような経済的・精神的利害関係があるのかは知らないが、この層も政権擁護が著しい。
いずれにしても、これらの全部の層について一般的に言えることは、いわゆる日常世界の常識が通用しないこと、生活世界での普通の会話が成り立たないことである。ネトウヨの大将と同じく平気で嘘をつく。事実の改竄もねつ造も平気でやる。彼らの言葉を目にすると昔テレビでオーム真理教の信者たちを目にしたときのような、奇妙な夢幻感にわたし(たち)は包まれる。この三つの大ざっぱな層分類の中で、わたしのイメージに過ぎないが2.の層が大きな割合を占めているような気がする。また、この1.から3.の「ネトウヨ」に批判的な「保守右翼」思想にも二三出会ったことがある。これは旧来的な常識としての節度を持ったものだろう。しかし、現在のSNSの仮想世界で主流を占めている「保守右翼」は「ネトウヨ」である。
かれらにもわたしたちと同様の生活世界があるはずだから、普通の生活の場面では憑きものが落ちた状態で生活したり、あるいは憑かれている状態をセーブしているのかもしれない。例えば、職場や近所付き合いや町内会などで、排外主義的な言葉を吐いたり、アベそうりはすばらしいです、とか言えば、場違いであるということは当人たちにもわかるはずだろうと思われるからだ。
時代の大きな過渡期には、個としても集団としても、現在を過去の方に押し戻そうとする心性と未来の方に突き進めようとする心性との、対立的な状況が起こる。その小規模なものとして、新しい器具や道具の登場、例えばケイタイ(スマホ)の登場と利用が始まった時期のケイタイ初期の人々の反応がある。おそらく時代の流行や先端にいる若者を中心として進んでケイタイを受け入れ利用するのに対して、老年世代などはケイタイの使用に抵抗を示したのではなかろうか。ケイタイ(スマホ)がずいぶん普及して、こりゃあいいということが実感されてそれらの初期の対立は解消された状況になっているのだと思う。こうしたことは、今までに何度もくり返され、今後もくり返されていくものだと思う。こうした過程で、時代や流行に反発して退行する心性は、それらから疎外されたり取り残されていると感じるだろうから、被害性と攻撃性とを帯びやすい。
ところで、現在の日本会議等-安倍政権-ネトウヨ応援団というような組織性は、この戦後に限っては未だかつてなかった政治の組織性である。さらに、これらは組織的に現政権や安倍晋三よいしょや誇大宣伝活動や作為的な虚偽のばらまきなどにも力を入れているように見える。またややこしいことに、現在の欧米中心のグローバリズム、新自由主義を受け入れつつ、退行的、復古的なイデオロギーにイカレている。ちょうど、戦前と同様にグローバル資本主義の現在と超復古主義のイデオロギーとが、まるで現在を享受しつつオタク趣味にふける心性のように、矛盾なく二重化している。
国会議員や地方議員、芸能人や宗教界などあらゆる分野にはびこっている日本会議等の威力のほどは知らないけれど、それらの復古的な思想やイデオロギーの影響下に現在の安倍政権とその取り巻きの「ネトウヨ」が存在する。この集団的なイデオロギー反応は、先に述べた時代の過渡期への二つの反応のひとつである。しかも、時代の変動を過去の方に押し戻そうとする復古イデオロギーである。わかりやすい例えを使えば、全自動洗濯機や自動運転の車があるとして、洗濯板や荷車を使うように言ったり強制しようとする考え方である。しかも、自分たちだけは現在の文明のそのような恩恵をちゃっかり享受しながら、わたしたち普通の生活者には主に観念としての洗濯板や荷車を強制するものである。
ずいぶんと欧米化が進んで、社会の隅々やひとりひとりの意識にまでその欧米化の影響は、浸透してきている。しかし、おそらくその欧米化は私たちの意識の深層にまでは十分に到達していないのではないかと思う。このような時代の内面に対する危機感から、後ろ向きに押し止めようとする心性を組織したものが、日本会議等の復古的な思想やイデオロギーである。それは、現在のグローバル資本主義には無批判でも、進行している社会的な心性(マス・イメージ)の変貌に対する、心の奥底のわけのわからなさから来る恐怖感や危機感を集団的に表出しているものである。したがって、それが現実的にもはやあり得ない空想的なものであろうとも、現在の国家・社会をかれらのふるほけたイメージで改革・改造し自らの不安や危機感をなだめようとしている。
普通の生活者の視線や感受では、「ネトウヨ」は異様に見える。しかし、生活世界では普通の人でも宗教やイデオロギーにとり憑かれると(もちろん、本人たちは取り憑かれているなどとは微塵も思っていないわけだが)、誰でも「ネトウヨ」になれる。この宗教やイデオロギーの威力は、現在でも依然として強力であり、外部から語りかけても、あるいは生活世界の言葉を投げかけても、一般に交通は成り立たない。彼らから憑きものが落ちるのを待つほかにない。
現在、あらゆる分野で問われているのは、わたしたち生活者としての言葉であり、口先だけや単なる枕詞ではなくわたしたち生活者を第一とする政党、政治、経済である。また、大多数の普通の生活者の感じ考え方をくり込んだ知識である。一言で言えば、局所的にしかあてはまらないとか局所的な利害を突き抜けた普遍を目指す、知識、政党、政治、経済である。現在はまだ、それらへの端緒でさえつかんでいない。したがって、局所的な経済的・精神的利害のぶつかり合いを避けられない状況にある。
ツイッターで見ていると、「ネトウヨ」がネトウヨの大将の名前をときどき間違えるのを目にすることがある。「安倍晋三」を「安部晋三」などと書き間違う。これをフロイトの言い間違いの研究のように有意味なものとすれば、彼ら「ネトウヨ」をとらえているのは、私人公人併せ持つ、すなわち生身の安倍晋三総理ではなく、単なる記号やイメージとしての「アベシンゾウ」なのではなかろうか。「アベシンゾウ」を支持したり、崇拝的に持ち上げることに、自らの精神的な支えや生の充実感を見いだしているように見える。それは生身の「安倍晋三」ではなく、いわば少し垢抜けたオタク趣味的に変換された「アベシンゾウ」イデオロギーに憑かれているのであろう。そこでは、時代の移り行き中での自らの内なる奥深い不安が仮想的に解消されているのだろう。
以前、この国の古い段階の国家・社会に対する感覚や意識が現在にまで残存していることを取り上げたことがある。以下の文章である。
「現在にまで残るこの列島の古い社会・国家観の遺伝子」(2017年02月25日)
https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/bf20f94e082c7255c1528b754624851d
このようなわが列島社会の住民の社会も国家も未分離な意識については、吉本さんも敗戦そしてその後の西欧の国家と社会観に触れて衝撃的に感じたと語られていた。
現在の「ネトウヨ」的な排外主義の紋切り型のイデオロギーの破片もその空虚な言説も、あるいは民主主義的な考えも、いずれもこの列島社会に十分に根付いたものではない。我が身を振り返っても、いずれも社会も国家も未分離な意識が裏側に張り付いているように感じる。
この現下の「ネトウヨ」の問題は、ふたつ問題性を提起する。この列島社会の住民は、意識の表層から中層にわたってずいぶん西欧化されてきたとしても、まだまだ深層にまでは西欧化の波は十分に届いていないこと。それは深層とどういう折り合いをつけるだろうか、つけたらいいだろうか、という問題がひとつ。
もうひとつは、それとも関わるが、この国家・社会の未分離意識は、西欧社会的な視線からすればまったくの負性にしか見えないかもしれないが、逆に言えば、わたしたちこの列島民は、自らの生活世界から国家などの論理世界に遠く旅立つことが不得手で、なんでも生活世界の方に引き寄せたり、地続きで考えるという心性と理解することもできる。これにまったくの負性ではなくいくらかの積極性を持たせて考えることはできないかということがふたつ目である。
たぶん、「ネトウヨ」ふくめて、ほとんどすべての人々が、(人は、気ままに豊かな生活をできるのが理想と思う)ということを認めるだろうと思う。このことと、わたしたちの国家・社会の未分離意識ということを合わせて言えば、わたしたちは、町内での生活や町内会での話し合いのように、町内(社会)の問題のみに限り、町内(社会)の問題に関わる限りで行政や国家に言及し、国家間の外交などの町内(社会)を超えたものについては留保する、語らない、という倫理を意識的に持つべきだと考えている。大多数の人々が、局所的考えをそれぞれに持ち互いに対立し合うという現在的な段階ではなく、いつかある普遍の考えを持つようになる段階への過渡として、無用な対立を避ける意味でも、こういう意識的なあり方はいいのではないかと思っている。それと同時に、現在までこの列島の生活社会に培われてきた、お互いに配慮し合い、お互いに助け合う(相互扶助)という今では廃れてしまったように見える気風を磨いていかなくてはと思っている。たぶん、この現在の社会のいろんな所で、そのような試みを実践している人々がいるような気がしている。
現在は、町内(社会)の問題をはぐらかしたり、その矛盾を隠蔽するために、北朝鮮問題や韓国や中国が持ち出されているように見える。テレビが専門家なる者を招いて頻繁にそれらの話題を振りまいているが、ほんとは、わたしにとっては北朝鮮問題や韓国や中国なんてどうでもいいのである。日々の生活にほとんど無関係である。ただ、たぶん同じ出アフリカのわたしたちと同じような、それぞれの国の内に生活している人々については、興味関心を持ち、思い巡らすことはある。
また、人がこの世界のことを思考の対象にして自由に考えるという世界では、あらゆる境界を超えて、自由に思い巡らせればいいと思う。わたしもそうしている。
(おわり)
※「ネット保守」(ネトウヨ)の人口や出自については以下に古谷経衡氏の考察がある。
「都知事選で見えた『ネット保守』人口=250万人」 古谷経衡 2014/2/10
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20140210-00032514/
※「ネット保守」(ネトウヨ)に関して、以前、古谷経衡 氏の本を読んで文章を書いたことがある。
『若者は本当に右傾化しているのか』(古谷経衡 2014年)を読む 2015年03月12日
http://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/42ecb0cb20511b4401396bd2048b63e5