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ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

「ネトウヨ」考 (3)

2018年03月31日 | 批評
「ネトウヨ」考 (3)




 現在のわたしは、社会の風俗や流行や諸現象について疎いから、この「ネトウヨ」考 (3)で今から行うような分析や考察にはほんとうはわたしは不向きかもしれない。しかし、現在の「ネトウヨ」現象が主にバーチャル世界であるとしても或る負性としての社会的な場所を占めていて、わたしたちもそれとは無縁ではあり得ないという一般性も持っているから、わたしとしても「ネトウヨ」についても触手をのばさざるを得ない。

 どんな局所にも〈現在〉は同質なものとして現象するはずだという確信をよりどころにして、主にツイッターという狭い世界での体験をもとにして考察してみる。ツイッターというSNSで観察していると、避けようもなく「ネトウヨ」にも遭遇する。わたしはやりとりしたことはないけれど、「ネトウヨ」の中にもいくつかの層があるようだ。ツイッターなどのSNS世界に入り込んでいる者は、たぶん、以下のような層分類について、それぞれいろんな具体例を思い浮かべることができると思う。なぜなら、わたしは具体例を想起しながら層として分類抽出しているからである。しかし、大ざっぱな分類ではある。(ちなみに、後で何かの「資料」になるかもと、ツイッターで遭遇した「ネトウヨ」をInternet Explorerの「お気に入り」に「ツイッター3資料」の項目で採集している。目下240件閉じ込めている。)


1.従来からの「極右」と呼ばれていたような層。古くさい復古思想を古くさく崇拝している。これは若い世代ではないだろう。

2.盲目的なオタク趣味に熱中するように「ネトウヨの大将」を崇拝する「ネトウヨ」信者。古くさい復古思想と言うよりも、少し垢抜けて現在の軽めのオタク趣味の感覚を持っている。

3.「学者」「経済人」や「文化人」などと呼ばれる層。これは亜ネトウヨとも呼ばれるべき層。つまり、知的・論理的な装いを持っている。古くさい復古思想はほとんど見かけない。ただ、どのような経済的・精神的利害関係があるのかは知らないが、この層も政権擁護が著しい。


 いずれにしても、これらの全部の層について一般的に言えることは、いわゆる日常世界の常識が通用しないこと、生活世界での普通の会話が成り立たないことである。ネトウヨの大将と同じく平気で嘘をつく。事実の改竄もねつ造も平気でやる。彼らの言葉を目にすると昔テレビでオーム真理教の信者たちを目にしたときのような、奇妙な夢幻感にわたし(たち)は包まれる。この三つの大ざっぱな層分類の中で、わたしのイメージに過ぎないが2.の層が大きな割合を占めているような気がする。また、この1.から3.の「ネトウヨ」に批判的な「保守右翼」思想にも二三出会ったことがある。これは旧来的な常識としての節度を持ったものだろう。しかし、現在のSNSの仮想世界で主流を占めている「保守右翼」は「ネトウヨ」である。

 かれらにもわたしたちと同様の生活世界があるはずだから、普通の生活の場面では憑きものが落ちた状態で生活したり、あるいは憑かれている状態をセーブしているのかもしれない。例えば、職場や近所付き合いや町内会などで、排外主義的な言葉を吐いたり、アベそうりはすばらしいです、とか言えば、場違いであるということは当人たちにもわかるはずだろうと思われるからだ。

 時代の大きな過渡期には、個としても集団としても、現在を過去の方に押し戻そうとする心性と未来の方に突き進めようとする心性との、対立的な状況が起こる。その小規模なものとして、新しい器具や道具の登場、例えばケイタイ(スマホ)の登場と利用が始まった時期のケイタイ初期の人々の反応がある。おそらく時代の流行や先端にいる若者を中心として進んでケイタイを受け入れ利用するのに対して、老年世代などはケイタイの使用に抵抗を示したのではなかろうか。ケイタイ(スマホ)がずいぶん普及して、こりゃあいいということが実感されてそれらの初期の対立は解消された状況になっているのだと思う。こうしたことは、今までに何度もくり返され、今後もくり返されていくものだと思う。こうした過程で、時代や流行に反発して退行する心性は、それらから疎外されたり取り残されていると感じるだろうから、被害性と攻撃性とを帯びやすい。

 ところで、現在の日本会議等-安倍政権-ネトウヨ応援団というような組織性は、この戦後に限っては未だかつてなかった政治の組織性である。さらに、これらは組織的に現政権や安倍晋三よいしょや誇大宣伝活動や作為的な虚偽のばらまきなどにも力を入れているように見える。またややこしいことに、現在の欧米中心のグローバリズム、新自由主義を受け入れつつ、退行的、復古的なイデオロギーにイカレている。ちょうど、戦前と同様にグローバル資本主義の現在と超復古主義のイデオロギーとが、まるで現在を享受しつつオタク趣味にふける心性のように、矛盾なく二重化している。

 国会議員や地方議員、芸能人や宗教界などあらゆる分野にはびこっている日本会議等の威力のほどは知らないけれど、それらの復古的な思想やイデオロギーの影響下に現在の安倍政権とその取り巻きの「ネトウヨ」が存在する。この集団的なイデオロギー反応は、先に述べた時代の過渡期への二つの反応のひとつである。しかも、時代の変動を過去の方に押し戻そうとする復古イデオロギーである。わかりやすい例えを使えば、全自動洗濯機や自動運転の車があるとして、洗濯板や荷車を使うように言ったり強制しようとする考え方である。しかも、自分たちだけは現在の文明のそのような恩恵をちゃっかり享受しながら、わたしたち普通の生活者には主に観念としての洗濯板や荷車を強制するものである。

 ずいぶんと欧米化が進んで、社会の隅々やひとりひとりの意識にまでその欧米化の影響は、浸透してきている。しかし、おそらくその欧米化は私たちの意識の深層にまでは十分に到達していないのではないかと思う。このような時代の内面に対する危機感から、後ろ向きに押し止めようとする心性を組織したものが、日本会議等の復古的な思想やイデオロギーである。それは、現在のグローバル資本主義には無批判でも、進行している社会的な心性(マス・イメージ)の変貌に対する、心の奥底のわけのわからなさから来る恐怖感や危機感を集団的に表出しているものである。したがって、それが現実的にもはやあり得ない空想的なものであろうとも、現在の国家・社会をかれらのふるほけたイメージで改革・改造し自らの不安や危機感をなだめようとしている。

 普通の生活者の視線や感受では、「ネトウヨ」は異様に見える。しかし、生活世界では普通の人でも宗教やイデオロギーにとり憑かれると(もちろん、本人たちは取り憑かれているなどとは微塵も思っていないわけだが)、誰でも「ネトウヨ」になれる。この宗教やイデオロギーの威力は、現在でも依然として強力であり、外部から語りかけても、あるいは生活世界の言葉を投げかけても、一般に交通は成り立たない。彼らから憑きものが落ちるのを待つほかにない。

 現在、あらゆる分野で問われているのは、わたしたち生活者としての言葉であり、口先だけや単なる枕詞ではなくわたしたち生活者を第一とする政党、政治、経済である。また、大多数の普通の生活者の感じ考え方をくり込んだ知識である。一言で言えば、局所的にしかあてはまらないとか局所的な利害を突き抜けた普遍を目指す、知識、政党、政治、経済である。現在はまだ、それらへの端緒でさえつかんでいない。したがって、局所的な経済的・精神的利害のぶつかり合いを避けられない状況にある。

 ツイッターで見ていると、「ネトウヨ」がネトウヨの大将の名前をときどき間違えるのを目にすることがある。「安倍晋三」を「安部晋三」などと書き間違う。これをフロイトの言い間違いの研究のように有意味なものとすれば、彼ら「ネトウヨ」をとらえているのは、私人公人併せ持つ、すなわち生身の安倍晋三総理ではなく、単なる記号やイメージとしての「アベシンゾウ」なのではなかろうか。「アベシンゾウ」を支持したり、崇拝的に持ち上げることに、自らの精神的な支えや生の充実感を見いだしているように見える。それは生身の「安倍晋三」ではなく、いわば少し垢抜けたオタク趣味的に変換された「アベシンゾウ」イデオロギーに憑かれているのであろう。そこでは、時代の移り行き中での自らの内なる奥深い不安が仮想的に解消されているのだろう。

 以前、この国の古い段階の国家・社会に対する感覚や意識が現在にまで残存していることを取り上げたことがある。以下の文章である。

「現在にまで残るこの列島の古い社会・国家観の遺伝子」(2017年02月25日)
https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/bf20f94e082c7255c1528b754624851d


 このようなわが列島社会の住民の社会も国家も未分離な意識については、吉本さんも敗戦そしてその後の西欧の国家と社会観に触れて衝撃的に感じたと語られていた。
 現在の「ネトウヨ」的な排外主義の紋切り型のイデオロギーの破片もその空虚な言説も、あるいは民主主義的な考えも、いずれもこの列島社会に十分に根付いたものではない。我が身を振り返っても、いずれも社会も国家も未分離な意識が裏側に張り付いているように感じる。

 この現下の「ネトウヨ」の問題は、ふたつ問題性を提起する。この列島社会の住民は、意識の表層から中層にわたってずいぶん西欧化されてきたとしても、まだまだ深層にまでは西欧化の波は十分に届いていないこと。それは深層とどういう折り合いをつけるだろうか、つけたらいいだろうか、という問題がひとつ。

 もうひとつは、それとも関わるが、この国家・社会の未分離意識は、西欧社会的な視線からすればまったくの負性にしか見えないかもしれないが、逆に言えば、わたしたちこの列島民は、自らの生活世界から国家などの論理世界に遠く旅立つことが不得手で、なんでも生活世界の方に引き寄せたり、地続きで考えるという心性と理解することもできる。これにまったくの負性ではなくいくらかの積極性を持たせて考えることはできないかということがふたつ目である。

 たぶん、「ネトウヨ」ふくめて、ほとんどすべての人々が、(人は、気ままに豊かな生活をできるのが理想と思う)ということを認めるだろうと思う。このことと、わたしたちの国家・社会の未分離意識ということを合わせて言えば、わたしたちは、町内での生活や町内会での話し合いのように、町内(社会)の問題のみに限り、町内(社会)の問題に関わる限りで行政や国家に言及し、国家間の外交などの町内(社会)を超えたものについては留保する、語らない、という倫理を意識的に持つべきだと考えている。大多数の人々が、局所的考えをそれぞれに持ち互いに対立し合うという現在的な段階ではなく、いつかある普遍の考えを持つようになる段階への過渡として、無用な対立を避ける意味でも、こういう意識的なあり方はいいのではないかと思っている。それと同時に、現在までこの列島の生活社会に培われてきた、お互いに配慮し合い、お互いに助け合う(相互扶助)という今では廃れてしまったように見える気風を磨いていかなくてはと思っている。たぶん、この現在の社会のいろんな所で、そのような試みを実践している人々がいるような気がしている。

 現在は、町内(社会)の問題をはぐらかしたり、その矛盾を隠蔽するために、北朝鮮問題や韓国や中国が持ち出されているように見える。テレビが専門家なる者を招いて頻繁にそれらの話題を振りまいているが、ほんとは、わたしにとっては北朝鮮問題や韓国や中国なんてどうでもいいのである。日々の生活にほとんど無関係である。ただ、たぶん同じ出アフリカのわたしたちと同じような、それぞれの国の内に生活している人々については、興味関心を持ち、思い巡らすことはある。

 また、人がこの世界のことを思考の対象にして自由に考えるという世界では、あらゆる境界を超えて、自由に思い巡らせればいいと思う。わたしもそうしている。
 (おわり)


 ※「ネット保守」(ネトウヨ)の人口や出自については以下に古谷経衡氏の考察がある。
「都知事選で見えた『ネット保守』人口=250万人」 古谷経衡 2014/2/10
 https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20140210-00032514/



 ※「ネット保守」(ネトウヨ)に関して、以前、古谷経衡 氏の本を読んで文章を書いたことがある。
 『若者は本当に右傾化しているのか』(古谷経衡 2014年)を読む 2015年03月12日
 http://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/42ecb0cb20511b4401396bd2048b63e5

 

 


私人・公人に関してのメモ 2018/03/29

2018年03月29日 | メモ

 私人・公人に関してのメモ 2018/03/29

 


遙か太古にはたぶん小集落の共同に埋もれるようにまどろむように生きていた人というものが、小集落→大集落→国家→・・・・・・個・家族・近代社会・国家へという風に環境世界の分離・高度化と対応するように、特に近代以降に、「個」という存在が分離・抽出されてきた。

 現在は、この先鋭化した個が中心になっている社会である。しかし、一方でこの先鋭化した個が中心になっている社会を十分に享受しながら、戦前まで根強く残存していたこの列島の遺制である、個≡社会≡国家というすべてが未分離の意識を受け継ぐ者たちがいる。いわゆる「ネトウヨ」である。

 「ネトウヨ」は、個の存在を集団(社会や国家)の中に埋め戻そうという考え、イデオロギーにイカレているが、強権政治で一時的にはそれが可能だとしても、もはや過去の歴史の段階にの有り様に押し戻すことは不可能である。だから、『北斗の拳』のケンシロウの言葉は借りれば「おまえはすでに死んでいる」である。

例えば、学校の授業中熱中していた生徒が、先生に「おかあさん」と呼びかけてしまったら場違いである。また、同一人物なのに、家族や友達間や学校や職場でそれぞれ名前の呼ばれ方も違う。同一人物なのに、私人・公人と分離するのも、現在の社会構造とその中のそれぞれの位相の違いを区別せざるを得ないからであり、その区別に対応している。

 


短歌味体 Ⅲ 2302-2401 作品集

2018年03月26日 | 作品集
短歌味体 Ⅲ     日付
短歌味体Ⅲ 2302-2303 即興詩シリーズ・続 2018年01月19日
短歌味体Ⅲ 2304-2305 肌合い詩シリーズ・続 2018年01月20日
短歌味体Ⅲ 2306-2308 肌合い詩シリーズ・続 2018年01月21日
短歌味体Ⅲ 2309-2310 肌合い詩シリーズ・続 2018年01月22日
短歌味体Ⅲ 2311-2312 とっても低い視線シリーズ 2018年01月23日
短歌味体Ⅲ 2313-2314 とっても低い視線シリーズ・続 2018年01月24日
短歌味体Ⅲ 2315-2316 とっても低い視線シリーズ・続 2018年01月25日
短歌味体Ⅲ 2317-2319 〈あ〉の泳法シリーズ・続 2018年01月26日
短歌味体Ⅲ 2320-2321 〈あ〉の泳法シリーズ・続 2018年01月27日
短歌味体Ⅲ 2322-2324 〈あ〉の泳法シリーズ・続 2018年01月28日
短歌味体Ⅲ 2325-2326 とっても低い視線シリーズ・続 2018年01月29日
短歌味体Ⅲ 2327-2328 とっても低い視線シリーズ・続 2018年01月30日
短歌味体Ⅲ 2329-2330 とっても低い視線シリーズ・続 2018年01月31日
短歌味体Ⅲ 2331-2332 とっても低い視線シリーズ・続 2018年02月01日
短歌味体Ⅲ 2333-2335 とっても低い視線シリーズ・続 2018年02月02日
短歌味体Ⅲ 2336-2337 とっても低い視線シリーズ・続 2018年02月03日
短歌味体Ⅲ 2338-2340 とっても低い視線シリーズ・続 2018年02月04日
短歌味体Ⅲ 2341-2242 そこ! シリーズ・続 2018年02月05日
短歌味体Ⅲ 2343-2245 そこ! シリーズ・続 2018年02月06日
短歌味体Ⅲ 2346-2348 とっても低い視線シリーズ・続 2018年02月07日
短歌味体Ⅲ 2349-2350 不調シリーズ 2018年02月08日
短歌味体Ⅲ 2351-2352 不調シリーズ・続 2018年02月09日
短歌味体Ⅲ 2353-2354 不調シリーズ・続 2018年02月10日
短歌味体Ⅲ 2355-2356 とっても低い視線シリーズ・続 2018年02月11日
 ★★★  
短歌味体Ⅲ 2357-2358 音色(おんしょく)シリーズ 2018年03月07日
短歌味体Ⅲ 2359-2360 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月08日
短歌味体Ⅲ 2361-2362 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月09日
短歌味体Ⅲ 2363-2364 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月10日
短歌味体Ⅲ 2365-2366 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月11日
短歌味体Ⅲ 2367-2368 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月12日
短歌味体Ⅲ 2369-2370 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月13日
短歌味体Ⅲ 2371-2372 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月14日
短歌味体Ⅲ 2373-2374 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月15日
短歌味体Ⅲ 2375-2376 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月16日
短歌味体Ⅲ 2377-2378 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月17日
短歌味体Ⅲ 2379-2380 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月18日
短歌味体Ⅲ 2381-2382 音色(おんしょく)シリーズ・続 2018年03月19日
短歌味体Ⅲ 2383-2386 ふたり(対幻想)シリーズ 2018年03月20日
短歌味体Ⅲ 2387-2389 ふたり(対幻想)シリーズ・続 2018年03月21日
短歌味体Ⅲ 2390-2392 ふたり(対幻想)シリーズ・続 2018年03月22日
短歌味体Ⅲ 2393-2394 ふたり(対幻想)シリーズ・続 2018年03月23日
短歌味体Ⅲ 2395-2396 ふたり(対幻想)シリーズ・続 2018年03月24日
短歌味体Ⅲ 2397-2399 ふたり(対幻想)シリーズ・続 2018年03月25日
短歌味体Ⅲ 2400-2401 ふたり(対幻想)シリーズ・続 2018年03月25日

 


   [短歌味体Ⅲ] 即興詩シリーズ・続


2302
蛇行して並んでいる
ことばたち
ふいと割り込む言葉がある


2303
ことばたちは身固まって
「何ですか?」は
「アカカアイア」とカクカクする




   [短歌味体Ⅲ] 肌合い詩シリーズ・続


2304
朝のドアに手触れなくても
肌合いは
朝の気配にすうっと目覚める


2305
思えば生きものはみな
くうきの海
浸かって身震わせ響き合う




   [短歌味体Ⅲ] 肌合い詩シリーズ・続


2306
〈朝〉という文字を想起する
こともなく
朝の通路を渡ってゆく


2307
〈朝〉という文字を想起する
者たちは
机上から未明の〈朝〉を遠望する


2308
〈朝〉というつぶやきは
文字の〈朝〉と
同じ朝の音・色・匂う




   [短歌味体Ⅲ] 肌合い詩シリーズ・続


2309
いくつもの朝をくぐり抜け
〈あさ〉は今
湯煙を後に〈朝〉の椅子に座る


2310
言葉を目や耳で受け取る
者は皆
自室からの〈朝〉の眺めが加わる




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ


2311
子どもらが動き回る
線上に
ぐっぱんぐっぱん追う足跡の


2312
地面に腰を下ろせば
風が変わり
遙かな時間の波打ち寄せる




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2313
外からの視線感知して
子どもらの
動線が一瞬ぶるっとふるえる


2314
アーナンダ ソーナンダ
子どもらの
つぶやくお経が大空引き寄せゆがむ




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2315
足下から聞こえてくる
同じ言葉
でも不意を突く戻れない幼年


2316
何ほしいです?それはでちゅね
まっかな
お空を飛んでる鳥さんでちゅ




   [短歌味体Ⅲ] 〈あ〉の泳法シリーズ・続


2317
イメージの翼広げて
たったったっ
〈あ〉を無音に近く分割する


2318
微小素を集めてみたら
耳にした
ことのない〈あ〉の魚が泳ぎ出す


2319
〈あ〉を微分してゆく この
滑り心地は
まくろーりん未知の気分さ




   [短歌味体Ⅲ] 〈あ〉の泳法シリーズ・続


2320
「あーーあ」とつぶやくと
〈あ〉の舟を
やり過ごし埠頭(ふとう)に座り込んだ


2321
意味を織り始めゆく駅
前広場
には〈あ〉の少年たちのたむろする




   [短歌味体Ⅲ] 〈あ〉の泳法シリーズ・続


2322
複雑な音階歩む
〈あ〉の旅も
肌感覚が生命(いのち)を刻む


2323
(お腹すいたな)とどこからか
響いてくる
沈黙の稜線を〈あ〉は宿へ下る


2324
食べ物の湯気立つ匂いに
言葉の荷を
下ろし手足を伸ばすよ 〈あ〉は




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2325
あっここにこんなものがある
いくつもの
目が腕組んでのぞき込んでいる


2326
アリたちの中に迷い込んだ
気色の
大きな虫がもじょもじょしている




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2327
雨上がり木々の葉から
滴たち
チーツンハーツンしているよ


2328
水たまりとぬかるみを
選んで歩む
足心びちゃびちゃばちゃん




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2329
ねくたいとりかわぐつぬいで
ちからぬいた
そこでならたぶんそれがみえるよ


2330
足下の高さ流れる
風たちは
ぼくらのきもちをくすぐってゆく




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2331
そこでもうネジを巻いたら
「蜘蛛の糸」
大人の視線に真っ逆さまだよ


2332
少しでも飾り付けたら
花たちは
萎(しお)れ出しやわらかな風は止む




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2333
ぼんやりと視線落とし
やっほっほ
やっほっほ幻の足音を聴く


2334
服を着ていてもはだかの言葉
恥ずかしくはない
お腹のそこからやっほっほやっほほ


2335
人類の幼年期、そう
なんども
なんども雨に濡れ雨匂っていた




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2336
ずんずんずんお腹の底
の方で
鈍く響く音のする


2337
七曲がり下って行っても
見晴らしは
うーん、ずんずずん霧がかかっている




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2338
大きく息を吸い吐くとき
ゆっくりと
ひとつの影がついて来る


2339
木々や生きものたちとの
境界を
弧を成して触れ戻り来る孤


2340
子ねこや赤ちゃんの
無邪気な
たたずまいがまぶしすぎるぞ




   [短歌味体Ⅲ] そこ! シリーズ・続


2341
うやむやのもやもやの煙
立つ中で
たいせつなものはいつも末席にいる


2342
ゴシック言葉飛び交う
果実を
剥いても剥いても中はがらんどぅ




   [短歌味体Ⅲ] そこ! シリーズ・続


2343
外からは何にも見えない
内では
煙が微かに上がっている


2344
〈事件〉は内からどおんと
打ち破って
煙と共に転がり出てくる


2345
内と外とが少しばかり
溶け合う
細道があるような気がする




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2346
カタン!気づく舞台は
息をして
いる息をして・今・ここに・いる


2347
大息中息小息
様々に
行きつ戻りつ何か掴(つか)み来る


2348
いきいきて戻りを知らぬ
呼吸法
いき切れの日にカタン!世を去る




   [短歌味体Ⅲ] 不調シリーズ


2349
不調ならこれとあれとの
境溶け
こあれあれこと漂い出す


2350
(ちょざーれあるこちょざーる
あれこ)
風景がゆらゆら揺らぎ出す




   [短歌味体Ⅲ] 不調シリーズ・続


2351
不調には朝が濁る
晴れ渡った
朝の静けさは遠い日のよう


2352
ありふれたと言うのが
ためらわれる
幾千の朝の中には新婚の朝もあったよな




   [短歌味体Ⅲ] 不調シリーズ・続


2353
不調の今日ぼくには
ふちょうさん
の符牒がはっきり見えた


2354
不調にはあんなにも遠く
いつもが
ありありと記憶のガラスケースに




   [短歌味体Ⅲ] とっても低い視線シリーズ・続


2355
拾い上げる砂一粒〈あ〉
もう一粒〈い〉
砂場には言葉が眠っている


2356
つぶつぶぶつぶつぶつぶつ
砂粒を
選び並べるきみの手に日差している





★★★

 ※短歌味体、継続3年、合計3000余首で一言。

詩意識から入り込み、短歌味体を2015年02月02日からほぼ毎日作り続けて3年、3000首の峠を越えた。別に特別の感慨はない。最後に大きな病気をしてしまったけれど、なんとかやってこれた。
そして、(誰もがやればできるじゃん)という気持ちを持った。いろんな分野で、いろんな人々が、黙々と(やればできるじゃん)を実践してほしいなと思う。もう少し続けてみる。


★★★


   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ


2357
赤い音みどりの森に
押し寄せて
一面の赤の下、臥すみどり


2358
赤々と鳴くツバメも
時間旅
灰色に暮れる夕べ小さな丹(に)と飛ぶ




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2359
深みから突き上げくる
名辞以前の
溶岩流ふったくつったく



2360
めいじ以前の遙かな時
静まる
大海原をゆらゆら泳ぐものがいる




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2361
葉のみどりにそっと触れる
心の
階段を音階を成し下りゆく


2362
はっとする赤いひかりが
まぼろしいの
ような不確かさでよぎりゆく




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2363
開け放ちぼんやり外見る
音や色が
溶け合いながら窓辺をよぎる


2364
ふと湧いてくる記憶のように
深みから
色鮮やかな楽隊が通る




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2365
花ひらき花ちる春の
ひんやり
静けさのみち音色が鳴っている


2366
まぼろしの踏みしめられて
音色の
道ありありと鳴り響いている




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2367
あいまいやおぼろげの立つ
霧の朝
クリアーに絞り込めない、言葉は


2368
「ばかだねえ」と向かい来る
音色が
こちらを包み漂っている




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2369
はっきりと見えなくても
春の風
らんららんと地を撫(な)でてゆく


2370
地中にあるならば
今年もまた
躍り出てくるみどりの新芽




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2371
冬峠過ぎ日差しに浸かる
なだらかな
旋律になびく丘に出る


2372
眼華飛び交う春の日に
眼下に
ちろちろ広がる光の静寂(しじま)

註.「眼華」は島尾敏雄の作品に出てくる。
吉本さんが講演「漱石のなかの良寛」(A079)で触れている。




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2373
小さい頃の春の市
どこからか
参集するおお賑わいよ


2374
音色匂い立つ市道(いちみち)を
あちこち
スキップしながら歩む心は




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2375
zoom in ズームイン
しだいに
音色変わる ずーむいん


2376
言葉の峠道から
紅葉も
風の旋律も変わりゆく




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2377
鳳仙花夏の大気に
揺れ揺られ
ぽっとはじける海へのダイブ!


2378
水面の小さな泡ぶく
ダイビング!
にぎやかな音色のキラキラ




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2379
洗いつつ語らう母たち
大きな声
が水音に跳ね交響する

註.大昔のことでなく、つい半世紀ほど前、川で洗濯に連れられて。


2380
自然の音色に
溶け合う
人の声声の席があった




   [短歌味体Ⅲ] 音色(おんしょく)シリーズ・続


2381
遙か少年時と言っても
ほらそこに
にぎやかな祭り音色浮上する


2382
黄金(きん)色の鉦や太鼓に
笛も乗る
秋の段落、暮れゆく少年の背




   [短歌味体Ⅲ] ふたり(対幻想)シリーズ


2383
流しの横向きのもの
縦になってる
小さな濁り流し横に置く


2384
ひとりなら気ままでも
ふたりなら
足もつれることもあるさ


2385
ああままよと城明け渡す
こともある
ふたりなら城出たり入ったり


2386
ふたりならにぎわいもあり
ひとりなら
火の気のない寒さに身震いも




   [短歌味体Ⅲ] ふたり(対幻想)シリーズ・続


2387
あの家は殿のいくさに
出るそうよ
(どうするどうするどうするよお)


2388
一族の長(おさ)ならば(ならば、と)
漂い来る
硝煙に今朝きりりと起つ


2389
心は選択の峠道
踏み越えても
身は避けられぬ選択の内に




   [短歌味体Ⅲ] ふたり(対幻想)シリーズ・続


2390
赤と青混じり濁る
こともなく
ただ斑点と安らぎ居る


2391
赤と青濁り混じれば
肌荒れて
ただ軒先の雨粒を眺め居る


2392
できるなら後付いて行く
武者(むしゃ)んよか
男の深みにある母系の無意識

註.「むしゃんよか」は、熊本弁で「(武者のように)かっこいい」の意味。




   [短歌味体Ⅲ] ふたり(対幻想)シリーズ・続


2393
(ああそうね)と重なり合って
響き合う
言葉は居間の灯りに映える


2394
ひとりひとりでもなく自然に
溶け合い
立ち上がるふたり言葉がある




   [短歌味体Ⅲ] ふたり(対幻想)シリーズ・続


2395
静かな水面に見入る
わたしを
はっと引き戻し干渉する波紋


2396
〈あ〉の言葉に〈い〉が近づく
なみの物語
〈あい〉の言葉にぽっと灯がともる




   [短歌味体Ⅲ] ふたり(対幻想)シリーズ・続


2397
子を生み育てる母となり
主婦の座へ
少しよそよそしく上り下りして見える


2398
子ども染みたけれど魔法の
言葉
(ちちんぷいぷい)母を隠し持っている


2399
渦中の〈私〉が見つめる
ふたり景色
我れ知らずのゆがみはあるか




   [短歌味体Ⅲ] ふたり(対幻想)シリーズ・続


2400
ふたりの出会い聞かれると
恥じらい振れる
小物語なぜか閉じゆく


2401
いくつもの手を振り切って
何事も
なかったように川原に来たふたり

 

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「ネトウヨ」考 (2)

2018年03月25日 | 批評

「ネトウヨ」考 (2)



 もう一度、おさらいするようにたどり直してみる。まず、「ネトウヨ」を前回拡張して「ネット保守」以外にも適用してみた。この拡張版の「ネトウヨ」は、ネット社会やSNSがもたらした負性ということは確かなことである。つまり、従来なら自分の内心でぶつぶつつぶやくかあるいは知り合いに話すかしかなかったような、人の内面や社会の片隅にしか存在し得なかったようなものが、ネット社会やSNSによって仮想空間に引き出されてしまった。ということは、従来の親しい知り合いや小社会で話す場合なら何らかの抑制や倫理が発動するはずのものが、バーチャル空間の匿名性も加わったため自分の内心にある毒を含むような言葉をつぶやく歯止めの解除キーが容易に解除されるようになり、ネット社会やSNSによって連結された仮想空間に放出されてしまう可能性を持ってしまった。しかし、ネット空間でも生活世界での普通の対人関係のように、何らかの抑制や倫理を発動している人々もあれば、虚偽やねつ造や罵詈雑言を放ち、毒ある言葉に憑かれている人々もいる。しかし、可能性としては、対象に対する仮想的な近距離感と匿名性の下に、従来であれば個々の内心に閉じ込めていたようなことを、誰もがやすやすと放出できる可能性を手にしたことになる。

 こうした事態は、拡張版の「ネトウヨ」、すなわち、わたしたちすべてに関して到来している新しい事態である。ほんとうは、「ネトウヨ」=「ネット保守」に限定して、別の新たな概念を当てた方がいいと思うが、ここでは「ネトウヨ」的な状況が「ネトウヨ」に限定されるものではなく、わたしたちすべてがそのような可能性を持っているということで、ここでは拡張版「ネトウヨ」として論じることにする。

 わたしはケイタイやスマホを持たないのでその使用の内面をよく知らないのだけれど、人々がケイタイやスマホの利用に慣れ親しんで、マナー含めたその利用の仕方のある形をそれぞれが築き上げてきたように、ネット社会やSNSによって仮想空間(仮想社会)に結びつけられたわたしたちは、その仮想社会での仮想的な生活行動をしていく中でのある倫理のようなものをそれぞれが築き上げていかなくてはならないだろうと思う。つまり、わたしたちはネットという仮想空間に仮想的に参入しているわけであるが、その本体は生身の人間であるのだという自覚過程をたどらなくてはならない。今はまだ、残念ながらその過渡期、途上にある。そして、従来からの生活世界での人間関係における配慮や倫理などの持ち込みが一般的なのだろうと思う。しかし、その一般的な感覚は、それを無視する「ネトウヨ」的なものの氾濫にある戸惑いを感じているように思う。わたしたちは、従来からの一般的な配慮や倫理の感覚から「ネトウヨ」的なものの氾濫を潜り抜けて、現在という新たな事態に即応する、より新たになった形の配慮や倫理の形成を促されているのだろうと思われる。