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吉本さんの言葉から―社会の新たな帯域の水圧

2016年08月16日 | 批評

 たぶん、吉本さんの晩年のインタビューか対談だったと思う。わたしによくあることだけど、今ではどこだったか思い出せない。ネットでキーワード検索して該当する本が分かる場合もあるけど、これはだめだった。[現在では、人は、無意識的な部分(潜在意識)が表面に露出し、ふだんの意識している部分(顕在意識)がそれと入れ替わってしまった。]このようなことを語られていたように思う。

 その言葉に出会った時は、一体社会のどのような現象を基にした判断で、どういう意味なのだろうかとよく分からなかった覚えがある。あまり詳しい前後の説明はなかったように思う。吉本さんに関してこういう不明なことをわたしはずいぶんと抱え持っている。社会に浮上してくる今までにないような事件を素材とされていたのだろうか。

 この前の「津久井やまゆり園」での元職員・植松容疑者の兇行も、ふだんは表面化しないような個の内面が、たぶん生い立ちとままならぬ生活とイデオロギー染みた病的なものとが互いに接合して、旧来では考えられなかったような強力な非行として社会に噴出して来たもののように感じる。

 ネットのツイッターなどのSNSの表現を見ていると、あるいは表現しようとする私自身の内面の動きを内省してみると、その吉本さんの言葉が分かったような気になる。旧来なら、あることに出会って或る感情を誘発しても沈黙の内面で完結していたが、新たな仮想空間の登場によって、ネットのSNSを介してそれらを言葉として放出できるようになった。そして、これにはあらゆるものごと同様に、良い点と悪い点とがある。

 もちろん、SNSで仮想的に互いに近接しても、旧来のよく知らない他人に対するような配慮や対応は誰でも働かせようとするはずである。しかし、SNSによる仮想的な近接
感と匿名性とに駆動されて、怒りや憎悪や罵倒などの内面の毒が放出されやすくなった。つまり、旧来なら一般的な外への通路を持たない内面と抑制された意識的な表面とが入れ替わりやすくなっている。

 これらのことは、現在の社会にとってもはや十分な使い物にはならない古いものの掃き寄せられているような帯域を、未だ十分にかたち成すことのない或る未知の帯域がある水圧で押し上げようとしていることの、個の内面におけるそれと対応する、二つの帯域間の軋みや摩擦などのもたらす現象と見なすことができるように思われる。

 もちろん、SNSにおける内面の毒の放出も、社会に事件として現れるものも、この社会に未だ十分にかたち成すことのない或る未知の帯域の水圧に対する、退行や病として表現されているように見える。したがって、ありふれたことだけど、まずは新たな舞台に立つ自覚と内省とを心掛けるしかないと言うほかない。SNSに限らず日々の生活経験の中、わたしたちの人間観が問われているのだ。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)


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