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現在というものの姿(像)について

2016年08月08日 | 批評

 現在というものの姿(像)について
  ―退行としての復古イデオロギー批判


 現在というものは、おそらくいつでもそこを生きる者にはぼんやりした姿としてしか捉えることができないのではないだろうか。現在のものを素材として現在というものの正体を捉えようといろんな諸要素を駆使してその像を結ぼうとしても、どうしてもぼやけてしまうのではないか。これは、この社会や世界全体の現在という場合でも、ある家族やひとつの会社の現在についても変わらない。これはなぜだろうか。できるだけ内省しようとしたり、客観視しようとしても、現在に生きるわたしたちはその渦中にいて、頭がのぼせていたり、あるいは大半は現在に対して無意識的に振る舞っているからだと思われる。そこでもうひとつ、現在の正体に迫る方法として、少し頭を冷やして過去の方からたどってくるということがある。これは思想に限らず、わたしたちが日常的に採っているやり方でもある。

 そのように現在を捉えることが困難を極めても、それでもわたしたちは現在というものの姿を捉えようとすることを止めることはないだろう。現在を生きるわたしたちの息苦しさとそれを解除しようとする欲求がそれを促すからである。わたしたちひとりひとりの固有性を超えてその息苦しさの正体を一般的に分離してみれば、上限は政治を含む共同的なものとしてやってくるものであり、下限としては家族を含む人と人との関わり合うところからやって来るものである。それらはいずれも遙か太古からの歴史的な積み重なりの現在としてある。

 ところで、対象を捉え、吟味しようとして視線を向ける場合、その人間的な視線には、吉本さんの指摘した地面と平行な人の目の高さの視線(普遍視線)と上空から垂直に俯瞰する視線(世界視線)がある。後者は、現在では人類は人工衛星の高度からの視線を獲得している。わたしたちは特に現在に対して無意識的ではなく醒めた場面では誰でもこの二つの視線の交わるところで対象を見ている。その場合、世界視線は低高度であり客観的な視線と呼ぶべきかもしれない。これは自分含めた対象の現場性を抜け出して見渡す、考えるという外からの視線であり、現在を振り切って時間の流れで見渡すという時間性も含んでいる。そういう意味では、この世界視線は内省的な視線と見なすこともできる。あるいは、その客観的な視線を主要に行使すれば現場性を離れた外からの他人事の視線と見なすことができる場合もある。

 ここで、この現在というものの姿、にぎやかすぎるけど、どん詰まりの荒れ果てた風景たちの惨状はどこから来たか。過去の方からの俯瞰的な眼差しを向けてみる。

 現在の方へ下ってくると、第一次産業の農業人口が急速に減少し、それと同時に旧来的な農村社会の残滓や生(なま)の自然感や自然イメージが枯渇して来ている。一方で、第三次産業のサービス業が主流になり、経済構成も消費が中心となる経済社会になり、したがって消費を促す広告産業が産業の一部門になるほど栄えてきた。人工的な自然感性や自然イメージが振りまかれる消費資本主義の時代になってきた。この主流の産業の交替が、わたしたちの生活の感性や意識の変貌に与えた影響は大きい。この新旧の時代は、事件や出来事としての激しさは見られなくても、江戸期から明治近代への激動の時代のように大きく社会の段階を画するものになっている。人々は無意識的な部分でその流れを受け入れたり退けたり耐えたりしながら、少しずつ慣れて割と自然なものとして受け入れ見なすようになってきたのである。もし、わたしたちの現在の内面の感受や意識を腑分けしてみたら、それらの産業構成の大規模な入れ替わり・変動と対応するような自然感や自然イメージの入れ替わり変貌した分布が得られると思う。

 したがって、現在を、敗戦後からの70年の歩みとして捉えると、老年期に当たると言えるかもしれない。その例えで言えば、今までの歩みのいろんなツケが積み重なって来ていて、そのツケの支払いを迫られているような状況になっている。もうひとつの見方もできる。現在をそんなどん詰まりの死に瀕した社会だとすれば、死後の社会、つまり、次の新たな時代の始まりの兆しが蕗(ふき)のとうのようにどこかに存在するのかもしれない。それが本格的に大衆的に気づかれるのはずいぶん遅れてやって来るのだとしても。

 第一次産業の農業が主流から退いていくにしたがって、それに対応する生の自然意識が底をさらわれるように旧来的な世界や情緒や思想が消えていく現在、その危機感からその旧来的な世界を過激に回復しようとする退行が、現在のグローバリズムや消費資本主義的な衣装を身にまといながら、現れている。退行というのは、政治権力による一時的な見かけ上の回復は可能だとしても、その流れは避けられない歴史の必然だというわたしの認識から来ている。

 したがって、現状のSNSにおける「ネトウヨ」の花盛りに見られる惨状や現政権の復古イデオロギーへの純化は、かつて戦争期という大きな危機に際して、全てが雪崩を打つように太古の感性に先祖返りしてしまった、そうして米英を太古の感性さながらに「鬼畜米英」と呼んで退化した〈鬼〉のイメージで捉えることに何にもふしぎに思わなかった、こうした危機からの退行と同質のものである。そして、現在の危機感をもたらすのは、戦争ではなく社会の大きな段階を画するような変動である。彼らは右往左往してその変動する現在の難しい諸問題にまともに対処し得ないが故に、安易な退行に逃げ込んでいるのである。しかも、外敵を作って煽ったり、社会に様々なくさびを打ち、マスコミを統制したり、と憲法改悪と復古イデオロギーへの退行に突き進んでいる。つまり、この社会の未来的な兆しを捜したり、検討したするのではなく、このわたしたちの生存する現在の社会をひちゃかちゃに荒らしまくっている。

 わたしたち普通の生活者は、この社会内に存在していると見なせるとしても、そのことをふだんほとんど意識することなく、個々具体的に存在し、日々生活している。わたしたち普通の生活者が、社会的に登場するのは一般にマスコミの世論調査や行政の家計消費の統計の値として、抽象化された意識の集約として登場する。ネットやSNSの表現がビッグデータとして集約されるなら、これもまたわたしたちの抽象化された意識の集約と見なせるだろう。こうしてわたしたち普通の生活者の大多数の民意も割と簡単に把握できるような社会になった。
 
 したがって、わたしたち普通の生活者の代行としての政治家や政府は、知ろうと思えば簡単にわたしたち多数の民意を知り得るのである。しかし、与野党含めて馬鹿な外交理念(軍事的な安全保障)などは耳にしても、わたしたち多数の民意をほんとうに受けとめる姿勢は今のところ見えてこない。派遣社員の増大や低所得層の増加、マスコミを通して知る日々の嫌なあるいは奇妙な事件として社会に浮上してくるこの荒れ果てた現在の風景を見ていると誰もが良い気分にはなれないだろう。この風景の過半の責任は、政治にある。つまり、官僚政治と自民党政権にある。

 誰もが、この現在に押し寄せている諸問題に答えるのは難しいと思う。しかし、それを具体例で示せば、派遣社員問題や年金問題、あるいはそれらへの抜本的な対策としての、諸外国でも検討され始めている「ベーシックインカム」(最低所得保障制度)などの検討など、実際に考え検討するのと、社会的な制度を改悪し社会の風景を荒らし続けたり、株価虚飾経済や「一億総活躍社会」などの中身のない空無を唱え続けるのとは違う。日本の経済学者で大蔵官僚であった下村治の『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』を以前読んだことがある。彼は高度経済成長期の経済的なブレーンであった。そして、(上から目線の古い言葉で言えば)「經世濟民」ということ、つまり普通の人々の幸福ということが、彼の考え方の中心に位置していた。当時の日本の貿易黒字に対するアメリカの考えや対策に対してもはっきりと問題点を指摘して意見を述べていた。もはや現在は、このようなすぐれた官僚や学者も存在し得ない、ちまちました意識的無意識的な己の利権を守る世界になってしまったのか?。

 もう一度くり返せば、アホな民主党政権の転んだ後の現政権は、本当は代々の自民党政権が積み上げてきた原発問題や他のさまざまな問題の尻ぬぐいが仕事だったはずである。それを居直り強盗よろしく、わたしたち大多数の普通の生活者とは無縁な、虚飾経済対策を併せ持つ空無な復古イデオロギー政権になってしまった。このどん詰まりの現在の社会の向こうから見れば、つまり未来性の萌芽の方から見れば、SNSにおける「ネトウヨ」の花盛りも復古イデオロギー現政権も、退行する病の、悪の徒花以外ではない。つまり、人々のまじめな知恵の結集として見なせるこの社会の本流とはなり得ない。


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