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詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ 132-134

2019年10月31日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ



132
身心が拍動している
すんなりと
平均台を渡っていくよ



133
現在の大気を吸う吐く
身心は
自然に屈折する してしまう



134
人みな屈折する
屈折率
避けられない現在のクモの糸 

メモ2019.10.30 ―自己表出と指示表出へ ②

2019年10月30日 | メモ
 メモ2019.10.30 ―自己表出と指示表出へ ②


 ここで、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の基本概念である自己表出と指示表出という概念を再確認しておきたい。なぜなら、残念なことに吉本さんが生み出した「指示表出」や「自己表出」という概念は、ものを考える世界で未だ十分にふつうの概念として流通していないし、活用されてもいないからである。晩年の吉本さんの樹木に例えたやさしい言葉によると、


 言葉というものは比喩でいえば植物、つまり樹木です。樹木にとっての幹と根ということが、言葉の本質にあたると考えるのが妥当だとぼくは思います。
 そして言葉によるコミュニケーションということは、幹から分かれた枝の先にある葉であるとか、咲いた花であるとか、実であると見なすことができるはずです。つまり季節によって色が変わったり、冬が来れば落ちたりする樹木の先の枝葉のところが、言葉のコミュニケーション機能なのであって、樹木の幹と根は黙してそこにあるだけですから、沈黙こそが言語の本質なのだ、という考え方をするわけです。


 樹木の幹と根っこというのは沈黙した言葉なのだと考えると、そのことにいちばん近いことは、ぼくの言葉でいえば自己表出ということになります。自己表出というのは、そういう幹と根っこのいちばん近いところに置かれている言語表現なのだ、という考え方をします。
 そして言語というものは、そういう自己表出と、枝葉に実をつけたり花を咲かせたり、葉っぱをつけたりするコミュニケーション言語というものもあるわけです。これを指示表出といおうではないかと、両方を分けて考えてやろうとしたのが、ぼくらの言語に対する考え方の大きなモチーフでした。
 ようするにいつでも言語というものは自己表出、つまり自己で自己に語るとか、外に言葉を発しないで、自分の中で発しているということになるはずなので、ほんとうはそういう言葉とそうでない言葉とに分けることなんかできないのです。いつでもそれは織物みたいにしっかりと絡み合って分けられないのだけれども、しかし分けようではないか、分けて考えようではないかとしたわけです。沈黙にいちばん近いところの言語を自己表出と考えようと、そのように考えていったわけです。
 (『第二の敗戦期―これからの日本をどうよむか』P119-P123 春秋社 2012年10月)



 つぎに、それらの概念が生み出された当初の『言語にとって美とはなにか』が書き継がれていた頃の吉本さんの講演によると、


 だからそうではなくて、芸術の場合にはこうなのですよ。たとえば芸術をブロック建築ならブロック建築と例えてみると、個々のブロック材が現実のかけらからできていると考えることができない。芸術をつくるもの、創造者はもちろん現実のかけらの中に現実的に存在、つまり現存しているわけですが、そういう芸術をつくるものがいて、そのつくるものが芸術をつくっていく、表現していく過程、プロセス、あるいはそれを橋と見れば、芸術をつくるものとつくられた芸術、創造された芸術との間にひとつの目に見えない橋がある。それを僕の言葉では「自己表出」といいます。社会的な意味の「自己疎外」に対応する「自己表出」という言葉ですが、芸術をつくるところの人間と、その人間がつくってできあがっていく芸術を橋渡ししているものが「自己表出」です。これがひとつの「自己疎外」に対応する概念です。
 芸術の場合、その「自己表出」の構造の中にしか、現実のかけらというのは入っていかない。だからブロック材が現実のかけらからできていて、それを集めて建築をつくると全部現実のかけらからできている、そこへ現実のかけらが入ってくるというのではなくて、つくるものとつくられた芸術とを結ぶひとつの目に見えない橋、つまり「自己表出」ですが、たとえばヘーゲルの『美学』的な言い方で言えば、観念的自己疎外ということになるわけですが、その「自己表出」の構造の中に現実性、現存性というものが入り込んでくる。そこでしか芸術の作品の中に現実性というものは入っていかないわけです。
 (A001『芸術と疎外』 「6 芸術の根本的な問題としての〈自己表出〉」講演日時:1964年1月18日、「吉本隆明の183講演」ほぼ日刊イトイ新聞より)


 最後に、それらの概念が生み出された当初の『言語にとって美とはなにか』(「試行」連載は、1961年から1965年。初めての単行本Ⅰ・Ⅱの刊行は、1965年。)によると、


 この人間が何ごとかをいわねばならないまでになった現実の条件と、その条件にうながされて自発的に言語を表出することのあいだにある千里の距たりを、言語の自己表出として想定できる。自己表出は現実的な条件にうながされた現実的な意識の体験がつみ重なって、意識のうちに幻想の可能性としてかんがえられるようになったもので、これが人間の言語が現実を離脱してゆく水準をきめている。それとともに、ある時代の言語の水準をしめす尺度になっている。言語はこのように、対象にたいする指示(引用者註.「指示表出」)と、対象にたいする意識の自動的水準の表出(引用者註.「自己表出」)という二重性として言語本質をつくっている。
 (『定本 言語にとって美とはなにか』P29吉本隆明 角川選書)


 言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりをふくむようになり、それが発達して自己表出として指示機能をもつようになったとき、はじめて言語とよばれる条件をもった。この状態は、「生存のために自分に必要な手段を生産」する段階におおざっぱに対応している。言語が現実的な反射であったとき、人類はどんな人間的意識ももつことがなかった。やや高度になった段階でこの現実的な反射において、人間はさわりのようなものを感じ、やがて意識的にこの現実的な反射が自己表出されるようになって、はじめて言語はそれを発した人間のためにあり、また他のためにあるようになった。
 (『同上』P30-P31 吉本隆明 角川選書)


このように言語は、ふつうのとりかわされるコトバであるとともに、人間が対象にする世界と関係しようとする意識の本質だといえる。この関係の仕方のなかに言語の現在と歴史の結び目があらわれる。
 この関係から、時代または社会には、言語の自己表出と指示表出とがあるひとつの水準を、おびのようにひろげているさまが想定される。そしてこの水準は、たとえばその時代の表現、具体的にいえば詩や小説や散文のなかに、また、社会のいろいろな階層のあいだにかわされる生活語のなかにひろがっている。
 (『同上』P44 吉本隆明 角川選書)


わたしがここで想定したいのは、・・・中略・・・言語が発生のときから各時代をへて転移する水準の変化ともいうべきもののことだ。
 言語は社会の発展とともに自己表出と指示表出をゆるやかにつよくし、それといっしょに現実の対象の類概念のはんいはしだいにひろがってゆく。ここで、現実の対象ということばは、まったく便宜的なもので、実在の事物にかぎらず行動、事件、感情など、言語にとって対象になるすべてをさしている。こういう想定からは、いくつかのもんだいがひきだされてくる。
 ある時代の言語は、どんな言語でも発生のはじめからつみかさねられたものだ。これが言語を保守的にしている要素だといっていい。こういうつみかさねは、ある時代の人間の意識が、意識発生のときからつみかさねられた強度をもつことに対応している。
 もちろんある時代の個々の人間は、それぞれちがった意識体験とそのつよさをもっていて、天才もいれば白痴もいる。それにもかかわらずある時代の人間は、意識発生いらいその時代までにつみかさねられた意識水準を、生まれたときに約束されている。これとは反対に、言語はおびただしい時代的な変化をこうむる。こういう変化はその時代の社会のさまざまな関係、そのなかでの個別的な環境と個別的な意識に対応している。この意味で言語は、ある時代の個別的な人間の生存とともにはじまり、死とともに消滅し、またある時代の社会の構造とともにうまれ死滅する側面をもっている。
 (『同上』P46 吉本隆明 角川選書)


 例えば、「言語が現実的な反射であったとき、人類はどんな人間的意識ももつことがなかった。」と吉本さんが書き記す時、それは一体いつの時代のことを言っているんだという疑問はあり得るだろう。それは柳田国男に関してもあった。しかしいずれも、段階として抽出された人間的本質の有り様からイメージされているものであるから事実性を問うても無意味である。もしそれらに異論があるなら、同様に抽象されたイメージとして語るほかにない。もちろん、事実性としては、考古学や遺伝子学などがどんどん明らかにしていくだろうと思われる。

 以上の引用をたどっても、自己表出と指示表出の理解には不十分かもしれないが、逆にいえば、それを十分に把握できた時には強力な解析の力を手にするだろうと思われる。わたしもまた、まだ十分な理解ではない。

詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ 125-128

2019年10月29日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ



125
ちっぽけな人間界の
窓から
太古の人の言葉は突き抜けて天へ



126
人間の始まりから
人の数だけ
振り返られた〈生きる〉



127
泣き笑い考える人人人
言葉が
張り付いて世界は回る



128
時代とともに「変面」する
心の
顔立ちにも遙か祖先の匂う 

詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ 118-121

2019年10月27日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ



118
空を舞うカラスたち
カァカァカァと
人の圏外で語り合っているか



119
カラスに憑かれた人は
(かぁかぁ)
外れの駅から病声を上げる



120
カラスも花も圏内に
引き込まれ
童話の駅から降りてくる



121
例えば人が花や
鳥だった
時があった?遙かな分岐の駅々

詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ 113-117

2019年10月26日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ



113
一枚の木の葉が落ちた
たましいに
土煙の静かに立った



114
哀切を哀切は
哀切の
出口のない助詞の部屋の内にいる



115
手向けの言葉は
一言でいい
(あいせつのう……)



116
通路が永遠に閉ざされて
しまった
しまったというおもいに沈むばかり



117
一枚の葉は幻となり
わたしの
部屋の棚に横たわる

詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ 109-112

2019年10月25日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 自動運転シリーズ



109
一枚の木の葉が枯れる
時間の中
波風立つドラマがあった



110
枯れ始める辺りには
ジタバタと
アンチエイジングもあった



111
押し流す奔流を
静かに
見ている 見ているばかりである



112
木の葉の意志を超えて
自然は
推移する 流れていくよ