観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

ウミガメに会いにいこう

2012-09-08 22:04:18 | 12.8
3年 萩原もえか

私は8月21日から8月31日までインターンでNPO法人屋久島うみがめ館に行った。私にとってウミガメは小学5年時に浜松のうみがめ保護センターで放流会に参加し、自由研究のテーマにした、とても思い入れのある動物であった。今回、10年ぶりのウミガメで会えるのでとてもわくわくしていた。
 うみがめ館に着き、その日の夜から調査が始まった。夜の調査は、子亀が脱出したあとの巣を掘り起こし、卵殻数(無事に脱出できたカメの数)、無精卵の数、発育途中で死んでしまった数(ウミガメより卵黄の方が大きい、卵黄よりウミガメの方が大きい)など約10段階に仕分ける作業をした。中には、ウジが湧いていてうようよしている虫が嫌いな私にとってとても調査困難な巣穴もあった。また、ウミガメの巣の深さは平均70センチだが、中には80センチもあるものもあり、腕が届かずに苦労をした巣穴もあった。さらに、穴掘るコツをつかめず苦労した。しかし、日を追うごとに調査が上達して調査する楽しさを覚え始めた。
 朝の調査では、子ガメが脱出した巣穴を見つける作業をした。巣穴は子ガメの足跡をたどって、その先にあるすり鉢状の不自然な凸凹である。巣穴を見つけると、前日の日付を書いた割り箸を刺して目印にしておく。これを毎朝、一時間ぐらい行った。
 これとは別にウミガメの回遊に関する調査も手伝った。幸運にも帰る前日の8月31日に別の水族館で1年間預かって育ててもらったウミガメがうみがめ館帰ってきたのだ。ウミガメは自分が生まれた浜で産卵するのかということがいまだ解明されていないので、それを証明するために左前後肢にタグ、左腹にICチップを埋め込んで個体識別をした上で海に戻すのだ。私もこの作業を手伝うことができた。この活動は2002年から計測しているので、2030年頃には解明されるだろうということだった。
 今回、うみがめ館で実習を受けて、地道な調査を続けることによって新たな発見をすることができることを肌で感じた。私は研究室でリスによるクルミの貯食行動について研究していて、作業が地味で同じことの繰り返しであるが、なにか発見があるという意識を持ってこれから調査していきたいと考えた。


タグをつけてICチップを埋め込んだアカウミガメ


一年間水族館で育てたアカウミガメ、海へ帰る

カモシカの観察

2012-09-08 20:12:52 | 12.8
4年 高田隼人

 私は「自然の中に生きる野生動物がどうやって暮らしているのかが知りたい!」という動機で野生動物学研究室に入室したが、今自分はまさにその動機ピッタリのテーマに取り組んでいる。その研究テーマは、カモシカを直接観察することによってカモシカの生態、とくに社会構造を明らかにしようというものである。その経験について書いてみたい。 
 楽しげな研究テーマに意気揚々とカモシカの観察を始めたが、カモシカの観察はそう簡単なものではなかった。初めて調査に出かけたのは3年生の12月の後半の雪降る寒い日だった。その日は1頭もカモシカが見つけられなかった。雪の降る寒さの中、1日中歩き回って目的のカモシカが1度も見られないのはなかなかつらいものだった。次の日、前日歩かなかった斜面を歩くと、カモシカの真新しいため糞と足跡を発見できた。それを追いかけていくと、ため糞や角こすり跡などカモシカの痕跡が大量に見つかった。「痕跡はあるけどカモシカにはなかなか会えないなぁ」と思いながら真新しいため糞の横でしゃがみこんで休憩していると、ほんの数十メートル先で物音がした。ふと立ち上がると、30メートルくらい先でカモシカが1頭こちらを見つめていた。やっと出会えたカモシカに嬉しいという感情よりも、初めて山の中で1対1で出会う大型動物に対する恐怖心が大きかった。興奮と恐怖心と緊張感の入り交わる何とも言えないドキドキと感動だった。カモシカは逃げもせずにこちらをしばらくじーっと眺めたあと、やぶの中に姿を消していった。
 今でもカモシカに会うと何とも言えないドキドキ感に見舞われるが、ドキドキしているだけでは調査にはならない。1頭1頭カモシカを見分けて個体識別し、行動観察の記録を取らなければならないのだ。この個体識別と行動観察がまた難しい。カモシカは意外に個体ごとに性格が様々で、人が近づいても全然逃げない個体もいれば、100メートルくらい距離があっても鳴き声と共にすぐ逃げてしまう個体もいる。あまり逃げない個体であれば、じっくり観察できて識別は比較的簡単だが、警戒心の強い個体は識別するのが非常に難しい。カモシカに出会う度にひたすら特徴をメモし、スケッチを描いて、写真を撮る。この作業を繰り返し、今では8頭のカモシカが識別できているが、未識別の個体もまだまだいる。さらに難しいのは性別の判断だ。カモシカはオスもメスほとんど外見が同じため外部生殖器を観察することが性別判断の一番の方法であるが、ふさふさの体毛に覆われたカモシカの体からそれらを見つけるのは本当に難しい。カモシカの股間が見えそうになると倒れこんで必死に双眼鏡で股間を覗き込むが、それでもなかなかわからない。実際性別が確実に分かっているのは捕獲して確認したオス3頭だけである。
 行動観察で一番気を付けていることはカモシカにできるだけ自分の存在による影響を与えないようにすることだ。これは自然に生きるカモシカのを知ろうとしているのだから当たり前のことだが、実は一番難しいことだと思う。失敗例を一つあげると、人馴れしているからある程度近くで観察しても大丈夫だと思っていた個体が、ある日突然を見るなり全速力で逃げるようになってしまい、今まで行動圏から大きく外れた場所を歩き回るようになってしまったのだ。幸い、数日観察をやめたら元の行動圏に戻ってくれたが、自分のせいで行動が変わってしまった私ことを大いに反省した。
 このようにカモシカの直接観察には難しいことがあり、まだまだ未熟だが、いい研究ができるように、毎日考えて楽しみながら成長していきたいと思っている。


浅間のカモシカ 著者撮影

「おもしろいと思うことをやればいい」

2012-09-08 14:42:32 | 12.7
教授 高槻成紀

 昨年の8月、たいへんお世話になっていた菊池多賀夫先生が逝去された。私が東北大学の時代に自然のみかたなどについて教えていただいただけでなく、私生活でもお世話になった。ご命日にまにあうべく追悼文集を編集して、よいものができた。そこに書いた文章の精神は、今麻布大学で学生に接するときの私につながるものがあるので、採録のような形でとりあげることにした。東北大学では老教授以外は先生を「さん」と呼ぶ習慣だった。

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おもしろいと思うことをやればいい:菊池さんから教えてもらったこと

 菊池さんとの思い出はたくさんあるが、多数の寄稿者がさまざまな思い出を語られるであろうから、私は東北大学植物生態学研究室に吉岡邦二先生がおられ、飯泉先生が助教授で菊池さんが助手だったころの学生という立場から、その頃のことを中心に書くことにしよう。
 私が研究室に入ったのはストレートではなかった。今、私は動物生態学を専攻していることになっているから、植物生態学出身ということを不思議に思う若い人もいる。実際、東北大学に入学したのも動物生態学を学ぶためであった。だが当時動物生態学の研究室は栗原康先生が教授でミクロな動物しか対象にできないということだった。私は当惑し、おかしな理屈だが「野外生態学ができるなら」という理由で植物生態学研究室の門を叩いた。飯泉先生が家畜と草原群落の関係を研究しておられたという話をきいて興味をもったのである。
 大学院に入って吉岡先生に相談したら、それなら金華山のシカによる影響を調べてみなさいといわれた。吉岡先生は定年前の最後の年で、たいへんにお忙しく、私たちにはかまっておられないようだった。それでもと思い、部屋の前をうろうろしながら思い切ってノックをして、一度金華山につれていって下さいとお願いした。秋ぐらいだったと思うが、それが実現した。私は緊張しながらごいっしょした。先生は船の中でも原稿を書いておられた。先生は小柄で体はあまり丈夫なようには見えなかったのだが、山を歩くときはひょいひょいと年齢を感じさせない身軽さで歩かれるので、驚いた。ときどき立ち止まっては植物の名前を教えて下さった。当時、院生は広木詔三さんと平慎二さんの二人だけで、ほかの研究室に比べると少なく、活気が乏しいと感じていた。セミナーなどもなかった。
 修士の二年生になったら、飯泉先生が指導して下さることになった。相談にいくと「金華山は山だけど、山であることよりも、島であることのほうが意味が大きいのですよ。違いますか。」とおっしゃった。私はその言葉は覚えているが、意味はよくわからなかった。当時はの私は先生に研究のことを相談するということはほとんどしなかった。というより距離がありすぎてできなかった。
 菊池さんはときどき自分の調査に私たちを連れていって下さった。日比野紘一郎さんや山中三男さんや三浦修さん、それに地理学教室の牧田肇さんなどと交流があり、皆さん「ネコさん」と呼んでおられたが(飯泉先生だけがアクセントが違い「ネコさん」と「ネ」のほうを高く発音された)、私はそれは慣れ慣れし過ぎるのではないかと抵抗があり「菊池さん」と呼んでいた。菊池さんと調査に行くと、ばりばりデータをとって、調査地から調査地に急いで移動するという感じではなく、むしろ山道を歩きながら気づいたことをポツリポツリと語られ、そういうことから教えてもらったことが多かったように思う。
 先日も学生を連れて山を歩きながらハクウンボクをみつけて、その枝を見ながら、菊池さんが「ハクウンボクの枝は妙に皮が剥げるんだよな」と言われたのを思い出した。そして同じように私は学生にそのことを伝えた。
 植物についてのそうした知識も菊池さんらしいが、菊池さんの菊池さんらしさは、林や山をもう少し大きく見る視点にあったと思う。当時私は土壌や地形に興味をもつことができなかった。それらが植物にとって重要であることはわかるが、それはむしろ当然のことであって、生き物のおもしろさはそこにあるのではなく、そうした基礎に立って、そこで暮らす植物の生き方の巧みさとか、それが動物とどう関係するかということを見いだすことにあるのだと思っていた。だが、菊池さんに山につれていってもらううちに、だんだんと「植物の下側」のおもしろさがわかってきた。
 「トチノキは谷を背負って生えている、と表現していたんだ」と自分が若い頃にとらえていた植物と地形の関係についての直感を語っておられたのを憶えている。それは崖錐のことを説明するときで、崩落を含む岩等が集まって崖錐を作り、その下には水が流れていて、そういうところにトチノキとかサワグルミとかジュウモンジシダなどがよく出てくることを説明しているときだった「背負って」というのは直感だが、調べてみるとそれはトチノキが生えているところの後ろには必ず崖錐があるという原理のあることがわかる。調査はそうしたことを裏付ける作業だが、減少を発見するにはそうした直感をもつことが大切だということを言いたかったようだ。
 当時、植物生態学では群落分類学が勢いがあった。というより、植物生態学すなわち群落分類学だという雰囲気が被っていた。群落記載とは種の出現の記述であり、その組み合わせで「分類」するというものだ。それは「なぜ」を説明するものではなく、私は全然興味をもてなかった。私は菊池さんもそういう研究をしておられると思っていた。
 飯泉先生は教授になられるとセミナーを開かれた。講義でしか話を聞いていなかった先生方が発言されるのを聞くのは新鮮だった。それで少しずつ気がついてきたのは、群落分類学だけが植物生態学ではないらしいということ、どうやら飯泉先生はそういう流れに批判的であるようだということだった。私は生意気な学生で、今西錦司やそのスクールの研究者の本や論文をよく読んでいて、憧れてもいたから、東北大学のいわば手堅く、地味な学風に不満感があった。吉岡先生は穏やかな人柄だったが、今西錦司の話になったとき
「あれはエッセーだから」
とやや強い調子で言い、続けて、それよりは事実を重んじてデータを十分に示すことこそ重要だと言われた。
 飯泉先生の研究は多彩であるが、私は「ウマタテバ」関連をよく読んでいた。ウマタテバとは牧場などで、家畜がよく集まる場所のことで、そこは踏みつけによって裸地化するが、同時に特異な群落になる。飯泉先生はそれを家畜が種子を運んで糞をするからだということを実証的に示す研究をされた。一連の論文には「なぜ」に答える精神があった。「ウマタテバは牧場のヘソなんですよ。」と言われた。私は
「そういう植物生態学もあるのか」
と意外に思い、しかもそういう研究をしていた先生が自分の指導教官であることが不思議な気がした。講義では一度も聞いたことがなかったからである。
 ある日、シカの行動圏の調査について雑談をしていたら、「高槻君、今西を読んでいるらしいね。私がウマタテバをやっていたときね、学会でウシの社会性の話をしたら、今西さんがえらく評価してくれてね」
と言われて、驚いた。その後も、私が博物学的なことに興味がありながら、そういう生態学は今どきしてはいけないのだと呑む込むようにしているのをみて、おもしろいと思うことをやればいいと背中を押すような発言をされたことがある。菊池さんはお茶を飲みながら雑談をするのが好きで、私もよく参加した。飯泉先生はめったに合流されなかったが、ごくまれに突然参加され、驚くほど楽しげに話されることがあった。あるとき、先生が南方熊楠について熱く語られてまたまた驚いた。それまで飯泉先生は生理生態学などを鋭利に解析するような研究が得意だと思っていたからである。そのときどうやら南方のような複雑系に興味があるのかもしれないと思ったが、先生はその後「イグネ」などに興味を示されて、私は得心した。先生が熊楠を「ノウナン」と発音されたのを憶えている。
 しばらくして、菊池さんは完全に博物学的だということがわかった。それだけではない。私は研究の参考にするために今西、梅棹忠夫、吉良龍夫、伊谷純一郎、河合雅雄などを熟読していたが、当然の流れとしてそのスクールの社会学系のものも読んでいた。ただ後者はいわばファンとして読んでいたにすぎなかった。ある日、菊池さんが
「高槻、中尾佐助が来ることになったよ」
と嬉しそうに話された。教室セミナーという外部講師を招くセミナーがあったのだが、そのひとりとして農学者の中尾佐助を呼ぶことになったというのだ。中尾は農学者というより、「東亜半月弧」の提唱者の一人であり、後の照葉樹林文化論へと発展する理論体系の基礎を作った大学者である。その中尾の招聘の提案を菊池さんがしたということだった。菊池さんは農業にも深い興味をもっておられて「日本農業史」の厚い本が部屋にあった。
 研究者として専門的な部分はきちっと押さえながら、もっと幅広く勉強する。それはいわば知的な楽しみで、菊池さんにはおもしろいことであれば、専門と「周辺」にあまり境界がなかったように感じる。
 調査に行くと、少し早めに切り上げて、こけしの職人の仕事場に寄ることがあった。菊池さんはこうした伝統的な職人の仕事が好きで、みやげ店で買うのではなく、仕事場で職人の顔をみて、話をして買うというふうだった。自分で轆轤を手に入れてこけしや独楽を自作するほどだった。器用な人だった。私のみるところ、器用な人にはどちらかというとものごとをきちんとするのが好きで、字なども活字のように楷書で書かないと気がすまないという人と、仕事には夢中になるが形式にはこだわらない人がいるようだ。菊池さんは後者で、字は達筆で行書だった。ペンよりは筆を、金属よりは木材を好む人だった。
 マングローブの調査で西表島につれて行ってもらったとき、もちろん地形と群落のことを懸命に調査したのだが、菊池さんは西表の若者が夕方に蛇皮線をひきながら民謡を歌うようすを
「あれがいいんだよ」
と、研究室では見せない表情で話された。菊池さんは民謡もうまかった。
 植物の研究と道楽としての木工や民謡にも、知的な楽しみという通底するものがあって、菊池さんの中ではその境界もあまりなかったように思う。
 菊池さんは後に学会の会長を務められたが、大きな組織で大声で影響力をふるうというより、気心の知れた小さなグループで、あまり大きくない声で話しながら、じっくりと研究をするというスタイルを好まれたように思う。そして、そういう人のつながりを大切にされた。
 大切にされたといえば、菊池さんがお気に入りのこけしを手にして、なでるようにこけしの表情を眺めるようすとか、愛用のカメラを左手に持ち、右手でレンズを持つときのようすなどが、懐かしく想い出される。

 私は研究や道楽ということだけでない部分でも菊池さんから教えてもらったことがたくさんあるし、学生への接しかたなどにも思うことがあるのだが、紙数も尽きたし、それは他の寄稿作品から読み取れるに違いない。私は学生時代の植物生態学研究室の空気と、三十代の若い菊池さんから、既成の学問枠にとらわれずに、自分がおもしろいと思うものをそのまま追求すればよいということを教えてもらったことを書いて筆を擱こうと思う。学生時代に菊池さんに邂逅できたことは、実に幸いだった。私はこれからも野山を歩き続けるが、これまでもそうだったように、ときどき菊池さんのあの穏やかな笑顔を思い出し、菊池さんがして下さったように、力まず、しかし惜しみなく若い世代に伝えていこうと思う。そうすることが菊池さんの精神を伝えることになるように思えるから。菊池さん、ありがとうございました。安らかにお眠り下さい。