平成22年度卒業 奥津憲人
このエッセーシリーズの名称である「Observation」は「観察」という意味である。語源は「監視する」というラテン語らしいが、「注意を向ける」という意味もあるらしい。人が森や草原を「観察」するとき、どんなものに注意を向けるのだろうか。最近の私は耳を澄まして鳥の鳴き声を聴き、鳴いた鳥を探す。または地面を見ながら何か落ちていないか、どんな花が咲いているかを探す。そういう意味では私はかなり細かいものに注意を向け、様々なものを見ているように思う。
しかし、人によって見えるものは違うだろう。私のように小さいものに注意を向ける人もいるし、大きな木々に目を向ける人もいる。かとおもてば生き物ではなく、川や空を見る人もいるだろうし、森の空気だけを感じる人もいる。このように、同じものでも見える・感じるものが違うのはなぜだろうか?
私は大学で生態学を学んだ。だから自然を見るとき、生物の生活や、他の生物や環境とのつがなりを考える。木を見ればどうしてその木がそこにあるのか、花を見ればどんな昆虫がいるか、動物の糞を見れば何を食べているのか、そんなことが頭をよぎる。単に風景としてではなく、一つ一つの生物の営みとして、そのつながりによって生まれた、ある意味では完成されたシステムとして自然を捉える。それは、そのシステムにおもしろみを感じ、知りたいと思うからだ。私が自然に対してそういう捉え方をするのは、背景知識として生態学的な知識をもっているからだと言える。
ところで、私は現在教員として中学生~高校生に理科を教えている。生徒に聞いてみると、ほとんどの子が「森」に行ったことがないという。だから自分の周りには自然はあまりない、と思っている。そんな中、中学生の移動教室で軽井沢に行くことになったため、野鳥の鳴き声を紹介した。また、スキー教室に行くときには、雪に残る動物の足跡を紹介した。そういうことを知ると、思ったより自然は身近であり、ありふれているということを知ってほしかったからだ。
私のその企みはうまくいったようだ。軽井沢では野鳥の鳴き声を聞いて「この声はミソサザイですか?」と言う生徒がいたし、スキー教室では「ウサギの足跡がいっぱいあった!」と言う生徒がいた。どうやらこの生徒たちは自然に目を向けてくれたようだ。

大きな鳴き声で鳴くが、体はとても小さいミソサザイ。見つけづらい鳥だが、鳴き声を聴いた生徒はしっかりと姿を捉えていた。
ところが、一人の生徒の質問を聞き、私は自分自身も自然を「見たつもり」になっていたと思った。それはウサギの足跡を見たときの、
「何でこんなにたくさんの足跡が残るんですか?」
という質問を聞いたときだった。それに対して私はすぐに
「それは冬で餌が少ないから、いろいろ探し回っているんだ」
と生徒に答えたが、直後に私は思った。そういった素朴な疑問を、私は思いつくだろうか?
私は「理科」という科目で最も重要なことは「なぜ?」と疑問を見出す力だと思っている。「なぜ?」は学ぼうとする原動力であり、科学が発展するスタート地点にもなるからだ。子どもはその力を持っている。しかし、私は「森には当然ウサギの足跡くらいあるものだ」と不思議には思わず、「足跡が多い」ということにすら気がつかなかった。これは知っていることが見るべきものを見せなくしている例だと私はそのとき感じた。
「知る」ということは、注目すべきものが増えることになる。現に植物の名前を覚えれば、どういった場所にその植物が分布しやすくて、どこを探せば生えていて、どんな場所に生えていたら貴重なのかを探すことができる。一方で、「知っていること」については注目しないかもしれない。一目見ただけで「こういうものだ」と判断し、詳しく見ないこともある。だからこそ、「なぜそこにあるのか?」「なぜこんなに大きいのか?」といった素朴な疑問はなかなか思いつかないものになってしまう。「知る」ことで見えるものも増えるが、見えなくなってしまうこともあるのだと思った。
手帳のメーカーで有名な高橋書店では、「思わずメモしてしまう身近な人の名言」を募集して大賞を決めている。その第14回手帳大賞の受賞作品に、こんなものがある。
「土の中に 絵の具があるのかな」
(http://www.takahashishoten.co.jp/techotaisyo_16th/archives14.htmlより引用)
この言葉は、受賞者の4歳の男の子が、色とりどりの花が咲く花壇を見たときに言った言葉だそうだ。既成概念のない子供ならではの、自然に目を向け、知ろうとしている姿勢が感じられる。その子には花の色と、自分が知っている絵の具とが連想されたのだろう。
知っているから見えるもの、知っているからできる発想。知らないからこそ見えるもの、知らないからこそできる発想。どちらも大事だが、なかなか相容れないものである。できる限り「初心忘れるべからず」を意識し、たまには「常識」を捨てて、素直に自然に目を向けることも必要だろう。人によって見え方は違っていても、自然の姿は変わらない。どういう見方をするかは人それぞれだが、そこに自然がある事実に変化はない。これからも私は自然を「観察」し続けていくだろう。その時にはいろいろな視点から見て、真摯に、そして素直に自然と向き合っていきたいと思う。
このエッセーシリーズの名称である「Observation」は「観察」という意味である。語源は「監視する」というラテン語らしいが、「注意を向ける」という意味もあるらしい。人が森や草原を「観察」するとき、どんなものに注意を向けるのだろうか。最近の私は耳を澄まして鳥の鳴き声を聴き、鳴いた鳥を探す。または地面を見ながら何か落ちていないか、どんな花が咲いているかを探す。そういう意味では私はかなり細かいものに注意を向け、様々なものを見ているように思う。
しかし、人によって見えるものは違うだろう。私のように小さいものに注意を向ける人もいるし、大きな木々に目を向ける人もいる。かとおもてば生き物ではなく、川や空を見る人もいるだろうし、森の空気だけを感じる人もいる。このように、同じものでも見える・感じるものが違うのはなぜだろうか?
私は大学で生態学を学んだ。だから自然を見るとき、生物の生活や、他の生物や環境とのつがなりを考える。木を見ればどうしてその木がそこにあるのか、花を見ればどんな昆虫がいるか、動物の糞を見れば何を食べているのか、そんなことが頭をよぎる。単に風景としてではなく、一つ一つの生物の営みとして、そのつながりによって生まれた、ある意味では完成されたシステムとして自然を捉える。それは、そのシステムにおもしろみを感じ、知りたいと思うからだ。私が自然に対してそういう捉え方をするのは、背景知識として生態学的な知識をもっているからだと言える。
ところで、私は現在教員として中学生~高校生に理科を教えている。生徒に聞いてみると、ほとんどの子が「森」に行ったことがないという。だから自分の周りには自然はあまりない、と思っている。そんな中、中学生の移動教室で軽井沢に行くことになったため、野鳥の鳴き声を紹介した。また、スキー教室に行くときには、雪に残る動物の足跡を紹介した。そういうことを知ると、思ったより自然は身近であり、ありふれているということを知ってほしかったからだ。
私のその企みはうまくいったようだ。軽井沢では野鳥の鳴き声を聞いて「この声はミソサザイですか?」と言う生徒がいたし、スキー教室では「ウサギの足跡がいっぱいあった!」と言う生徒がいた。どうやらこの生徒たちは自然に目を向けてくれたようだ。

大きな鳴き声で鳴くが、体はとても小さいミソサザイ。見つけづらい鳥だが、鳴き声を聴いた生徒はしっかりと姿を捉えていた。
ところが、一人の生徒の質問を聞き、私は自分自身も自然を「見たつもり」になっていたと思った。それはウサギの足跡を見たときの、
「何でこんなにたくさんの足跡が残るんですか?」
という質問を聞いたときだった。それに対して私はすぐに
「それは冬で餌が少ないから、いろいろ探し回っているんだ」
と生徒に答えたが、直後に私は思った。そういった素朴な疑問を、私は思いつくだろうか?
私は「理科」という科目で最も重要なことは「なぜ?」と疑問を見出す力だと思っている。「なぜ?」は学ぼうとする原動力であり、科学が発展するスタート地点にもなるからだ。子どもはその力を持っている。しかし、私は「森には当然ウサギの足跡くらいあるものだ」と不思議には思わず、「足跡が多い」ということにすら気がつかなかった。これは知っていることが見るべきものを見せなくしている例だと私はそのとき感じた。
「知る」ということは、注目すべきものが増えることになる。現に植物の名前を覚えれば、どういった場所にその植物が分布しやすくて、どこを探せば生えていて、どんな場所に生えていたら貴重なのかを探すことができる。一方で、「知っていること」については注目しないかもしれない。一目見ただけで「こういうものだ」と判断し、詳しく見ないこともある。だからこそ、「なぜそこにあるのか?」「なぜこんなに大きいのか?」といった素朴な疑問はなかなか思いつかないものになってしまう。「知る」ことで見えるものも増えるが、見えなくなってしまうこともあるのだと思った。
手帳のメーカーで有名な高橋書店では、「思わずメモしてしまう身近な人の名言」を募集して大賞を決めている。その第14回手帳大賞の受賞作品に、こんなものがある。
「土の中に 絵の具があるのかな」
(http://www.takahashishoten.co.jp/techotaisyo_16th/archives14.htmlより引用)
この言葉は、受賞者の4歳の男の子が、色とりどりの花が咲く花壇を見たときに言った言葉だそうだ。既成概念のない子供ならではの、自然に目を向け、知ろうとしている姿勢が感じられる。その子には花の色と、自分が知っている絵の具とが連想されたのだろう。
知っているから見えるもの、知っているからできる発想。知らないからこそ見えるもの、知らないからこそできる発想。どちらも大事だが、なかなか相容れないものである。できる限り「初心忘れるべからず」を意識し、たまには「常識」を捨てて、素直に自然に目を向けることも必要だろう。人によって見え方は違っていても、自然の姿は変わらない。どういう見方をするかは人それぞれだが、そこに自然がある事実に変化はない。これからも私は自然を「観察」し続けていくだろう。その時にはいろいろな視点から見て、真摯に、そして素直に自然と向き合っていきたいと思う。