見習い百姓のつぶやき

宮仕えも一段落、半農半Ⅹを本格化。農的暮らしとさまざまなⅩを悩んで、楽しんで一歩づつ。

弥生時代って、実は(@@

2024-04-27 11:58:43 | 古代のこと

昨夜のことですが、視界の隅っこにするするっと降りて来た二つの物体が、、、

何だろうと目をやると、窓や網戸にへばりついているのは今年初めてのヤモリ、しかも、2匹一緒に。
見た目には、オスがメスを追いかけて来た、そんな雰囲気、カメラを向けて一枚、もう一枚と思っているとオスが恥ずかしがって?窓から離れてしまいました。
こっちも季節になってきましたね。

さて、4月の初め「極悪人、実は大功労者?」というタイトルで「スサノヲの正体」という関裕二の本を紹介したのですが、、
その本で一番響いたのは「縄文人はなかなか稲作を受け入れなかったし、弥生時代到来後も東漸が遅々として進まなかった」という個所。
著者がこの見方、考え方を取る拠り所は寺前直人著「文明に抗した弥生の人びと」などと紹介されていたので直ぐに借りて読みました。

なるほど!書かれてはいませんし、出雲の登場も極めて少ないのですが、「出雲の国の人びとは争いを好まなかった」事実とも強くリンクする話です。
弥生時代って大陸から稲作文化や青銅器、鉄器が伝わり、我が国は“未開”の縄文から大きく文明化が進んだと大括りに喧伝されていますが、全く違うのかも。

というのは、玄界灘に面した北部九州では、大陸からもたらされた磨製石剣や金属製剣などが厚葬墓を中心に階層的に副葬されていて、人々の階層化が進んだようだと。
劔などの武器が権力の象徴として、手に入れられる持つ者とそうでない持たざる者を峻別し、力をひけらかす象徴でもあった。

一方、本州島では、弥生中葉まで、磨製石剣や打製石剣、銅剣類は発見されるが、副葬品としてではないし、わざわざ刃先を丸くしていることや、手に入れた銅を武器や生活用具ではなく銅鐸として流通させている。
そして、石斧や石包丁などを使い続け、一気に文明化するのではなく、縄文文化を色濃く残している。
それは、縄文の祭祀で大きな役割を果たした石棒を使い続けたことや、銅鐸などに縄文からの文様を使い続けていることにも表れている。

争いに使う武器を優先するのではなく、祭祀を中心とした階層のない社会を継続するという強い意思が働いていたのかもしれません。
便利や力ではなく、少々不便でも皆で仲良く暮らすことを優先した本州島の弥生時代、学ぶものが多いように感じました。

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