goo blog サービス終了のお知らせ 

見習い百姓のつぶやき

宮仕えも一段落、半農半Ⅹを本格化。農的暮らしとさまざまなⅩを悩んで、楽しんで一歩づつ。

焼畑で稲を作る

2025-04-15 15:03:21 | 古代のこと

今朝の地元紙のコラム“明窓”は、今年の雪は平年より3割多かったとの書き出し。
その中に「農業にも雪は味方する。水枯れの心配が減り、冷たい雪解け水が中国山地からゆっくり流れ出て、おいしいコメや農畜産物を育てる。水に恵まれた産地のイメージは地域ブランドの価値を高める。世界に打って出る農業を目指すには、かけがえのない地域資源となるはずだ」とも。

水とコメ、切っても切れない関係にあると思っていましたが、稲の歴史を紐解いてみると、最初はなんと!原初的な稲は焼畑で雑穀と混播され栽培されていたと。
そして、焼畑は2~3年で肥料分を消費し尽くし、新しい森が開かれ、10年程度休耕するのだとか。
その焼畑、日本ではもうないだろうと思っていましたが、まだやっているところがあるんですね~、ビックリ~!


さて、照葉樹林文化論でその稲栽培の歴史を読んでいる中で、「火耕水耨(かこうすいどう)」という聞きなれない言葉が出てきました。
中国の古い歴史書に、稲を栽培して2,3年経つと、田んぼで雑草や木の枝などを燃やし、肥料分としたことが書かれていいるのだとか。
えっつ!!おコメって、連作できるものだとばかり思っていましたが、、、

またある本には、農薬・化学肥料を使わない田んぼは、微生物や生き物の生態系が豊かになり、実りも豊かになると書かれていましたし。
???、で、外から全く何も入れない、こだわり自然栽培農家の反田さんに電話を入れて、火耕水耨では数年おきに肥料分として草や雑木を燃やすと書かれているけど、反田さんの自然栽培は何も入れないんだよね?と聞くと、、、
川の水を掛け流しているから、ミネラル分が補給されているんでしょうね、って。


弥生時代、古墳時代、奈良時代も、開墾された田んぼでも休耕田や耕作放棄田が多くあったと書かれており、
そうか!今のように青々とした稲が一面に広がる光景って、昔はあり得なかったんだ!
水漏れしない畦畔を作る技術や、灌漑の技術が確立して初めて連作ができるようになったんだ!
だから、江戸時代でも、お正月でさえお米が食べられない水吞百姓が多くいた。

今朝の“明窓”ではありませんが、豊かな水を育む我が国の森、守り続けたいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

照葉樹林文化論

2025-04-03 21:30:22 | 古代のこと

書庫から出して来てもらった本を見てドン引き~(^^;;
思わず、えっ!!こんなに厚い本なんだ~~(><
でも、ちゃんと借りてきました。

最近、傾倒気味の安田喜憲さんの本で引用されていた「照葉樹林文化論」に俄然興味が湧いてのことでしたが、、、
紹介されていた「照葉樹林文化論」学説を世に出した中尾佐助氏と佐々木高明氏の著作、蔵書検索でそれぞれ書庫にあるとのことで出して来てもらっての顛末。


流石に、厚さ5.5cm、840頁の中尾氏の大著にはすぐには飛びつけず、先ずは新書で手ごろそうな佐々木氏の「照葉樹林文化とは何か」を開きました。
二日余りで読み終わりましたが、これは!期待に余る手応えを感じました。
ある意味、興奮冷めやらぬ余韻の勢いで、恐る恐るでしたが開いた中尾氏の著作「中尾佐助著作集 第Ⅵ巻」、収められたシンポジウムが面白そう!まずはここから、、、

1万5千年前の大気候変動(温暖化)によって海水面が150mくらい上がり、植生が大きく変わってシイやカシなどの照葉樹林(常緑広葉樹)帯が形成され、アジアの一つの基調を成す豊かな文化の起源地となったとの学説。
その照葉樹林文化の起源地を、雲南省を中心とする文化のセンター・東亜半月弧と名付け、焼畑による雑穀農業(稲を含む)、モチ食、根栽類の水さらし利用、麹酒、納豆など発酵食品、絹、漆器、家屋(高床と吊壁)構造、歌垣、鵜飼いなど、多くの共通点が指摘されています。


その照葉樹林文化は、1)農耕段階2)雑穀を主とした焼畑段階3)稲作が卓越する段階の3段階に整理されています。

日本では1)2)が縄文時代となりますが、西日本は照葉樹林帯、東日本は落葉樹林帯、ひとくくりに照葉樹林文化とすることはできないよう。
東日本に偏っていた人口との関係は?とかの疑問もありますが、共通する文化要素が多く、太古の時代の人の交流など面白いなあと思います。

佐々木氏の「照葉樹林文化とは何か」の最後に納められた関係者の白熱した討論は、読む自分もハラハラドキドキ、歯に衣を着せずに思ったことを言い合う。
実に面白かったので、前述のとおり中尾佐助全集に納められたシンポジウムも興味津々。
楽しんで読み進めようと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出雲と越

2025-03-26 10:35:48 | 古代のこと

汗ばむ、いや、本気で汗が噴き出す春うらら、、、
春の陽気に恵まれたフィールドワークとなりました。

午前中は座学。
今日は安来の荒島方面だからと、お昼は“まつうら”そばやに、やっぱり!平日だけどたくさんの方がお待ちでしたが、井戸端会議をしながら待つことに。
待つことちょうど1時間、やっとお蕎麦にありつけ、皆さん美味しい、美味しいと喜んでくれて、何より~~!!待った甲斐あり(^^v

山陰道を走ったことのある方は皆さんご存じと思いますが、自動車道の真上に古墳!
そう、王陵の丘、その自動車道の真上の塩津山古墳に上ってきました。
お墓の下を掘られて、ひっきりなしに車の通る音と振動、お許しくださいね(^^;;


争いが嫌いで戦いに弱い出雲への西からの敵の侵入を祖先に防いでもらいたい、そんな思いのこもった墳丘墓だと聞いたことがありますが、、、
塩津山一号墳は四隅突出型の突出が1カ所だけ、方墳への過渡的な形と解説に。
丁寧な貼り石は良く見える北と西側だけ、古代の人たちも見栄っ張りだった?(*^^*)


この後、古墳作りの手伝いに遠く越から来ていた蘇我氏の棟梁と思われる方の古墳、盛り土が流失し石室が露頭した岩屋古墳に。

3世紀頃だろうけど、この大きな石を加工し、組むという技術!口あんぐりです。
石室には二つの石棺、夫婦だったか親子だったか、それとも兄弟だったか?


彼らが氏神としていたであろう近くの宗賀神社(旧名称)は勿論ですが、赤江町には越前公民館、越前地蔵尊、東赤江町に福井公会堂や福井住宅団地など、遠く離れた越と出雲の強い絆を彷彿とさせる、歴史って奥が深い。
私達に何を学べと言っているのでしょうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縄文への旅に森に行こう!

2025-02-24 22:35:47 | 古代のこと

人類の輝かしい明日を約束したはずの都市に暗澹たる未来が見えだした。
その訳は、都市文明が自然との共存という点で行き詰っているから。

最近読んだ本で、一番共感し心を揺さぶられた安田喜憲氏の生命の底からの叫び。
あなたはどう感じられますか?

世界で最も長く続いたエジプト文明は7000年、世界で一万年以上続いた時代は縄文時代以外には見いだせないと。
その縄文の時代は縄文文明だったと書かれているのですが、、、
その根拠として縄文の文明原理8点をあげていらっしゃいます。

縄文の文明原理
それは、簡単に記すと①自然=人間循環系の文明原理②平等主義に立脚した社会制度③文字に変わる何らかの情報伝達手段④1万年以上作り続けた縄文土器、組織化・制度化された美的伝統・知的伝統の存在⑤女性中心の文明原理⑥宗教・呪術を重視し、欲望を抑制し自然と共生する文明の装置⑦他文化・異文明の融合を容易にする文明原理⑧大規模な木造建築

このような文明が生まれた背景は、世界の殆どの地域の定住化は農耕によって始まっていますが、縄文人は採集狩猟民でありながら定住していた。
落葉広葉樹林にある三内丸山遺跡には人工的な栗の林があり、農耕以前の植栽による食料調達手段を持っていたと。
稲作は縄文末期にならないと定着・普及しないのですが、落葉広葉樹を生かした暮らしは稲作を必要としないほど豊かだったんですね。


女性中心の平等社会
重複になりますが、
縄文時代の墓は大きさや副葬品に差別がない、それは、女性中心の社会故に平等社会だったと。
下記の笠原正夫氏の居平遺跡の絵に描かれた縄文の環状集落は、中心の広場の外側はお墓ですが、彼らの思いが伝わってくるようです。
そして、愛”とはキリスト教のもと女性の性を監視し、女性性をコントロールするため男が造りだしたものと先生はお書きですが、縄文の性はおおらかで女性主導、一夫一婦制に捉われなかったというのです。女性がとても自由な社会だった。


そんな、1万年以上続いた縄文文明が衰退したのは、
3000年前ごろの気候悪化が大陸からの民族移動をもたらし、稲作や人殺しの武器を持つ文明が移入され、それと一緒に新手の病気がもたらされて縄文文明が一気に衰退したのだと。
縄文の豊かな森の文化を守り受け継いできた日本
の山村を崩壊に導いた工業技術文明は、自然=人間搾取系の地中海文明(家畜の文明)が、自然=人間循環系の森の文明を侵略、征服する過程だったとご指摘ですが、まさに!

暗澹たる未来を杞憂にする21世紀の人びとが生き残るための新たな文明像とは、自然との共生・循環・平等主義、他文明との融合、女性中心の社会ではないでしょうか。
縄文文明の発見とは、自然=人間循環系の森の文明が我々のアイデンティティ―だと気づき、守ることと仰っています。

もう少し暖かくなったら、
森に出かけて縄文への心の旅を如何ですか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダイヤモンド麻仁祖山

2025-02-18 14:38:56 | 古代のこと

全国で唯一ほぼ完本の形で伝えられてきた「出雲国風土記」、風土記編纂の詔から1300年を記念して東京・大阪・出雲で 連続講座が開催されました。
その講座の記録集「古代出雲ゼミナール」を紐解いてみました。

出雲国風土記の最初に記されたあの八束水臣津野命の国引き神話、その講座で平城宮から出土した隠岐からの木簡、荷物を送った荷札が紹介されていました。
下の写真は、その複製品です。


出雲国庁と隠岐を結ぶ官製ルート
それを見た前日、美保関町千酌に行ってきました。奇しくもです!
いつ頃からだったのか?律令制が敷かれる頃には間違いなく、出雲国庁(政治の中心)と隠岐を結ぶ人や物を運ぶための官製のルートがありました。
それは、国庁から大橋川へ、朝酌促戸(今の矢田の渡しあたり)を渡り、長海町から山越えをして千酌に、千酌から船で隠岐に渡るルートです。


千酌から隠岐へは丸木舟か丸木舟に側板を付けた準構造船だったと思うので、砂浜に乗り上げるか、川を少し遡るか。
今は殆ど埋まっていますが、千酌川はそういう船を着けて荷の上げ下ろしをしたのかなあ?
千酌に着いた荷は朝酌促戸から国庁に、恐らく手続きを終えて山陰道を平城宮に向かったのだろうと思います。
木簡には、加工されたイカやフグが大量に送られたことが読み取れます。

そんな隠岐との航路の要衝、千酌の地勢をを改めて見ておこうと出かけました。
千酌に着いて一番気になったのは、千酌湾越しに見える東の小高い三角の山。
これはきっと!と思って出雲風土記に記載され、延喜式にも式内社と記載のある尓佐神社の境内から鳥居越しに見ると、やっぱり!予想通り。


神名火山
鳥居の真ん中に三角の山が!きっと、神名火山だっただろうと。
あのお山の名前は?地元の人に聞けばよかったのですが、調べればわかると思って帰ったけど、あれこれ検索しても出てこない💦💦
諦めかけた頃に、あった!「麻仁祖山」というんだ!

吉野裕子さんは著書で、古代の人たちは三角形の山容を持つ山を神の籠る山・神名火山として崇拝していた、それは蛇がドグロをまく姿だからと書いていました。
古代人は「蛇」を豊穣・再生のシンボルとして崇めていた、それが注連縄の形として造形されたとも。
この山は、必ず神名火山として崇められていたんだろうと思ったのはそんな訳だったのです。

山の名を調べる中で、地域の古老たちからの聞き書きをまとめた凄い資料に出会いました。そこには、2月9日は「山の神祭礼」で供物はオコゼだとありました。
吉野裕子さんは、古来山の神は「蛇」だったと記し、全国的に供物はオコゼだと、確かオコゼは女陰の象徴だと書かれていたように思います。
きっと、麻仁祖山が山の神祭礼で大きな役割を果たしているんだろうなあ。

最後に、4月初旬、ダイヤモンド麻仁祖山が見られると!
山頂から輝く太陽が昇る!!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする