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見習い百姓のつぶやき

宮仕えも一段落、半農半Ⅹを本格化。農的暮らしとさまざまなⅩを悩んで、楽しんで一歩づつ。

縄文への旅に森に行こう!

2025-02-24 22:35:47 | 古代のこと

人類の輝かしい明日を約束したはずの都市に暗澹たる未来が見えだした。
その訳は、都市文明が自然との共存という点で行き詰っているから。

最近読んだ本で、一番共感し心を揺さぶられた安田喜憲氏の生命の底からの叫び。
あなたはどう感じられますか?

世界で最も長く続いたエジプト文明は7000年、世界で一万年以上続いた時代は縄文時代以外には見いだせないと。
その縄文の時代は縄文文明だったと書かれているのですが、、、
その根拠として縄文の文明原理8点をあげていらっしゃいます。

縄文の文明原理
それは、簡単に記すと①自然=人間循環系の文明原理②平等主義に立脚した社会制度③文字に変わる何らかの情報伝達手段④1万年以上作り続けた縄文土器、組織化・制度化された美的伝統・知的伝統の存在⑤女性中心の文明原理⑥宗教・呪術を重視し、欲望を抑制し自然と共生する文明の装置⑦他文化・異文明の融合を容易にする文明原理⑧大規模な木造建築

このような文明が生まれた背景は、世界の殆どの地域の定住化は農耕によって始まっていますが、縄文人は採集狩猟民でありながら定住していた。
落葉広葉樹林にある三内丸山遺跡には人工的な栗の林があり、農耕以前の植栽による食料調達手段を持っていたと。
稲作は縄文末期にならないと定着・普及しないのですが、落葉広葉樹を生かした暮らしは稲作を必要としないほど豊かだったんですね。


女性中心の平等社会
重複になりますが、
縄文時代の墓は大きさや副葬品に差別がない、それは、女性中心の社会故に平等社会だったと。
下記の笠原正夫氏の居平遺跡の絵に描かれた縄文の環状集落は、中心の広場の外側はお墓ですが、彼らの思いが伝わってくるようです。
そして、愛”とはキリスト教のもと女性の性を監視し、女性性をコントロールするため男が造りだしたものと先生はお書きですが、縄文の性はおおらかで女性主導、一夫一婦制に捉われなかったというのです。女性がとても自由な社会だった。


そんな、1万年以上続いた縄文文明が衰退したのは、
3000年前ごろの気候悪化が大陸からの民族移動をもたらし、稲作や人殺しの武器を持つ文明が移入され、それと一緒に新手の病気がもたらされて縄文文明が一気に衰退したのだと。
縄文の豊かな森の文化を守り受け継いできた日本
の山村を崩壊に導いた工業技術文明は、自然=人間搾取系の地中海文明(家畜の文明)が、自然=人間循環系の森の文明を侵略、征服する過程だったとご指摘ですが、まさに!

暗澹たる未来を杞憂にする21世紀の人びとが生き残るための新たな文明像とは、自然との共生・循環・平等主義、他文明との融合、女性中心の社会ではないでしょうか。
縄文文明の発見とは、自然=人間循環系の森の文明が我々のアイデンティティ―だと気づき、守ることと仰っています。

もう少し暖かくなったら、
森に出かけて縄文への心の旅を如何ですか?


ダイヤモンド麻仁祖山

2025-02-18 14:38:56 | 古代のこと

全国で唯一ほぼ完本の形で伝えられてきた「出雲国風土記」、風土記編纂の詔から1300年を記念して東京・大阪・出雲で 連続講座が開催されました。
その講座の記録集「古代出雲ゼミナール」を紐解いてみました。

出雲国風土記の最初に記されたあの八束水臣津野命の国引き神話、その講座で平城宮から出土した隠岐からの木簡、荷物を送った荷札が紹介されていました。
下の写真は、その複製品です。


出雲国庁と隠岐を結ぶ官製ルート
それを見た前日、美保関町千酌に行ってきました。奇しくもです!
いつ頃からだったのか?律令制が敷かれる頃には間違いなく、出雲国庁(政治の中心)と隠岐を結ぶ人や物を運ぶための官製のルートがありました。
それは、国庁から大橋川へ、朝酌促戸(今の矢田の渡しあたり)を渡り、長海町から山越えをして千酌に、千酌から船で隠岐に渡るルートです。


千酌から隠岐へは丸木舟か丸木舟に側板を付けた準構造船だったと思うので、砂浜に乗り上げるか、川を少し遡るか。
今は殆ど埋まっていますが、千酌川はそういう船を着けて荷の上げ下ろしをしたのかなあ?
千酌に着いた荷は朝酌促戸から国庁に、恐らく手続きを終えて山陰道を平城宮に向かったのだろうと思います。
木簡には、加工されたイカやフグが大量に送られたことが読み取れます。

そんな隠岐との航路の要衝、千酌の地勢をを改めて見ておこうと出かけました。
千酌に着いて一番気になったのは、千酌湾越しに見える東の小高い三角の山。
これはきっと!と思って出雲風土記に記載され、延喜式にも式内社と記載のある尓佐神社の境内から鳥居越しに見ると、やっぱり!予想通り。


神名火山
鳥居の真ん中に三角の山が!きっと、神名火山だっただろうと。
あのお山の名前は?地元の人に聞けばよかったのですが、調べればわかると思って帰ったけど、あれこれ検索しても出てこない💦💦
諦めかけた頃に、あった!「麻仁祖山」というんだ!

吉野裕子さんは著書で、古代の人たちは三角形の山容を持つ山を神の籠る山・神名火山として崇拝していた、それは蛇がドグロをまく姿だからと書いていました。
古代人は「蛇」を豊穣・再生のシンボルとして崇めていた、それが注連縄の形として造形されたとも。
この山は、必ず神名火山として崇められていたんだろうと思ったのはそんな訳だったのです。

山の名を調べる中で、地域の古老たちからの聞き書きをまとめた凄い資料に出会いました。そこには、2月9日は「山の神祭礼」で供物はオコゼだとありました。
吉野裕子さんは、古来山の神は「蛇」だったと記し、全国的に供物はオコゼだと、確かオコゼは女陰の象徴だと書かれていたように思います。
きっと、麻仁祖山が山の神祭礼で大きな役割を果たしているんだろうなあ。

最後に、4月初旬、ダイヤモンド麻仁祖山が見られると!
山頂から輝く太陽が昇る!!