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見習い百姓のつぶやき

宮仕えも一段落、半農半Ⅹを本格化。農的暮らしとさまざまなⅩを悩んで、楽しんで一歩づつ。

出雲に深いご縁のある少彦名神社(愛媛県大洲市)

2024-11-25 19:42:04 | 古代のこと

出雲に深いご縁のある少彦名神社(愛媛県大洲市)

 この地に開田や稲作の指導にやってきた少彦名が神社下の昿川の氾濫に巻き込まれて亡くなったとの伝承があり、神社奥の山には少彦名の御陵があります。
 当神社は、江戸時代にこの地の城主が少彦名の功績を高く評価し、氏子制度をなくし代々の城主が当神社を守ってきたと。
 それがそのまま現在に至り、氏子制度はなく、当地を出て大成した皆さんによって支えられているとのこと。

 神社下の昿川の対岸には、御陵を遥拝できる「富士山」がありますが、地元の皆さんは“とみやま”と呼んでいるとか。
 ヤマトにも三輪山を遥拝する鳥見山(とみやま)があり、麓には等彌神社がありますね。

 講師のYukimaru氏は、お祭りの後の直来の締めが“だん、だん”だったことにとても驚いたとか。

お話し会、残席わずかです
記紀に記されている国譲り前の出雲の国は、北九州から越の地までその影響力が及んでいたと言われますが、四国にも大洲市に残された先述のようなお話しはじめ多くの伝承があり、想像以上に深いつながりがあったようです。
12月1日の~古代出雲お話し会「四国各地に残る出雲の伝承と史跡」~はもうすぐ、上記のようなお話しを始め、多くのビックリポン!のお話があるのではないかと思います。
ぜひ、ご期待くださいね。
あっ、残席わずかですのでお早めに!

お話し会の詳細は、古代出雲お話し会「四国各地に残る出雲の伝承と史跡」のご案内 をご覧ください。


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古代出雲お話し会「四国各地に残る出雲の伝承と史跡」のご案内

2024-11-16 17:28:23 | 古代のこと

古代出雲お話し会「四国各地に残る出雲の伝承と史跡」のご案内

「『出雲王朝』というものは存在しない」というのが専門家のほぼ共通した認識だそうですが、最近、出雲王朝、出雲王国に関する、今までにない踏み込んだ内容の書籍などが目に付くようになってきました。
とは言え、確たる歴史書が存在しない中であり、多くの皆さんは疑心暗鬼に駆られていらっしゃるかもしれません。
今回のお話し会は、古代の出雲人が四国各地で果たした大きな役割に、そんなに深い関係が!と驚き、出雲に誇りを感じて頂ける内容になると思いますので、ご期待ください。

お話会の講師は、広島のある城主の末裔で、出雲の北島家とも縁戚にあり、世界のVIPや金融界を肌感覚で知るという“Yukimaru”氏です。
訳あって10年近い中国での隠遁生活。帰国後神職となり、四国の西の外れ大洲市の少彦名神社禰宜など、出雲に縁ある神社8社の面倒を見る現在。
文献の渉猟と現地調査を踏まえた深い歴史観を持つお方です。

 

✰ 日 時 12月1日(日) 14:30~16:30
✰ 場 所 Blooming出雲(松江市新庄町146)
✰ 席 数 20人
✰ 参加費 1,500円
✰ その他 終了後、茶話交流会を行います(会費;200円)
 ※参加希望の方はo-mis☆mable.ne.jp 又は 090-7895-9418(三島)に連絡ください。
 ※講師との夕食懇談をご希望の方は連絡ください。
 ※懇談会場で宿泊可能(3,000円)
※当日は、松江城マラソンが開催されており、各所で交通規制があります。
 お越しになるルートを下記のファイルでご確認ください。
  松江城マラソン交通規制

下記の写真は、Yukimaru氏が禰宜を務める少彦名神社の参籠田。
とても貴重な建物で由緒の正しさが想像できようというものです。


 

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ガガイモの舟

2024-11-05 10:07:57 | 古代のこと

古事記に「ガガイモの舟に乗ってくる神が」と出ているんですが、ガガイモって?
ご存じですか?僕は、聞いたこともないなあ、見た覚えもないし・・・あっ、知らないから見てもわからいけど💦

気になって、ちょっと調べてみたら、、、
そのガガイモって下の写真だそうですが、でも、やっぱり見たことないなあ。
あっ、この写真、風に乗ってというサイトからお借りして~


それが実って種を放出すると、こんな殻になるんですね。
丸木舟だってあったんだから、これなら立派な船になる?(*^^*)
これも私の拾いものというサイトからお借りしたんですが、殻って売ってる?


それと、ついでにですが、多爾具久ってヒキガエルの神なんですね。
美保神社の裏に久具谷社というのがあり、そこの祭神が
多爾具久神となっているんですが、それって何と思って調べ始め、、、

古事記には
大国主が御大之御崎(みおのみさき)を訪れたとき、海の彼方から天之羅摩船(あめのかがみのふね/ガガイモで作った船)に乗って来る神がありました。
大国主はその神に名を訪ねますが、答えが返ってくることはありません。
そこで周囲にいた神々に尋ねてみたところ、誰もその神の名を知りませんでした。
この時、ヒキガエルの神、多爾具久(たにぐく)が言いました。「カカシの神の久延毘古(くえびこ)なら知っているはずです」と。
そこで久延毘古に尋ねると、「その神はカミムスビの神の御子、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)でいらっしゃいます」とそう答えたのでした。
とあるんですね。

出雲の歴史、踏み込めば踏み込むほど面白い。

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圧倒的な力と使役される民

2024-10-26 18:22:18 | 古代のこと

奈良の橿原考古学研究所附属博物館に行ってきました。

縄文や弥生のミュージアムに行くと、祖先の暮らしぶりや生き方に感動しかないのですが、稲作が盛んになった弥生後期から古墳時代以降って、、、
美や技術を高めようとする飽くなき努力は文字通り凄いって思うけど、力が前面に出てきて目をそむけたくなる衝動に駆られます。

一番驚いたのは、巨大な円筒埴輪と家形埴輪、作ったのは出雲系の土師氏だったのでしょうか?
円筒埴輪は2mを優に超える巨大さ、作る技術力、焼く技術力、運ぶ労働力、これが何本も何十本も古墳上に立ち並んだ有り様はさぞや壮観だったでしょう。
家形埴輪も、セントバーナードの犬小屋にピッタリってくらいの圧倒的な大きさ。


また、目を奪われて見入ってしまった絢爛豪華な馬具、実際に使われたのかどうか知りませんが、藤ノ木古墳の副葬品。
写真の後ろ鞍金具、透かしの装飾も見事なものなんですが、上部の取っ手の両端はガラスに金象眼が施されています。本当に見事です。
もっとも、この鞍金具は新羅か百済からもたらされたものと書かれていましたが、豪族たちはこういうものを競って手に入れようとしたんだろうなあ。


企画展は古墳以降を中心とした甲冑、その技術力や美意識には一目も二目も置くんですが、こうした甲冑は全ての戦闘員が着用できたのではなく、一部の、皇族や豪族の長などほんの一部で、後は着のみ着のままだったんだろうなあ。
そんなことを考えてしまうと、足を止めて見入るなんて到底できません。
足早に企画展示室を後にしました。


民は搾取されるだけ?
柿本朝臣人麻呂 香具山の屍を見て悲びて作る歌一首(万葉集426番歌)

草枕 旅の宿りに 誰が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに
この歌は、藤原京の造営のために、全国各地から人民が集められ労役に従事したが、過労や病気のために野垂れ死にし、道端に転がっている屍を見て歌った歌とのこと。

また人麻呂が歌ったのではないかと言われる「藤原京の役民の作る歌」という題名の長歌
(万葉集50番歌)などもありますが、古墳造営や大王が変わるたびに新しくされた王宮の造営のためにどれだけの民が苦しんだことか。
巨大利権争いのための道具として、家族のある数多の雑兵が死んでいったことか。
その上に、貴族の文化が花開き、萬世一系を誇る皇統が存在する。

大王の落胤でありながら、権勢に媚びることなく歌を詠んだ
人麻呂の一生は、悲恋と辛い境遇の連続だったように思われますが、日本の文化創造にとてつもなく大きな足跡を残し、今も多くの人から仰ぎ見られているって、、、

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天孫降臨神話と人麿の挽歌

2024-10-15 16:10:42 | 古代のこと

先日借りてきた梅原猛著「水底の歌~柿本人麿論 上・下」、上巻を読み終え下巻へ。
大の苦手だった古典、であるのに、鎌倉、室町、江戸、そして近世の文献を渉猟、いちいち引いてあるし、活字もことのほか小さいので目は白黒、四苦八苦(><
上下で650頁を超える大作、後何日かかるやら、、、

と思いながら読み進めていて、そういうことだった!?目から鱗。
アマテラスは持統天皇を擬して創造されたと読んで知っているつもりでしたが、天孫降臨神話の歴史と裏事情がこれほど理路を持って語られて、なるほど~~!!
その始まりは人麿の草壁皇子への下記の挽歌。


天地(あめつち)の 初(はじめ)の時 ひさかたの 天(あま)の河原(かはら)に 八百万(やほよろづ) 千万神(ちよろづがみ)の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して 神分(かむあが)ち 分ちし時に 天照(あまて)らす 日女(ひるめ)の尊(みこと) 天(あめ)をば 知らしめすと 葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天地の 寄り合ひの極(きはみ) 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲(ぐも)の 八重かき別けて 神下(かむくだ)し 座せまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥(とぶとり)の 浄(きよみ)の宮に 神ながら 太敷(ふとし)きまして 天皇(すめろぎ)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神あがり あがり座しぬ

わご王(おほきみ) 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花(はるはな)の 貴(たふと)からむと 望月(もちづき)の 満(たたは)しけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船(おほふね)の 思ひ憑(たの)みて 天つ水 仰(あふ)ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁(つれ)もなき 真弓の岡に宮柱 太敷き座し 御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言(みこと)問はさぬ 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬる そこゆゑに 皇子の宮人 行方知らずも

柿本人麿 巻二167番歌

天孫降臨神話が公式文書(日の目を見たかどうかは別)に初めて書かれた古事記が、元明天皇に献上されたのは712年です。
草壁皇子の薨去は689年ですから、献上の20年以上前に人麿が挽歌に詠んでいる。
この時、天照らす日女の尊が葦原の瑞穂の国に降臨させるはずだったのは草壁の皇子で、降臨は八百万、千万神の合議によって決められたことになっている。
ただ、降臨する予定の皇子が若くして
薨去し、石門を開いて神あがりしてしまった。

人望篤い大津皇子は持統女帝に粛正されたのですが、殿上の空気が厳しく、
天皇即位を躊躇っていた草壁皇子が若くして薨去したためシナリオが変わり、、、
持統女帝は直系の軽皇子(持統女帝の孫)の
天皇即位を願い、繋役として空位となっていた天皇に即位したんですね。
その後、異例とも言える15歳で
軽皇子は文武天皇として即位したけれど、24歳で薨去し、皇子の聖武天皇即位迄、文武の母の元明天皇、姉の元正天皇が即位する。


その正当化のため、天孫降臨神話の降臨の主体が皇子・オシホミミノミコトではなく皇孫・ニニギノミコトに、アマテラスが一度隠れた天岩戸から出てきたと。
なるほどね、アマテラスは持統女帝、天岩戸から出てきたのは元明天皇、皇孫の降臨を命じるのが持統女帝と高木神の不比等ってことになるんだ!
そして、文武天皇の妃は藤原不比等の長女の宮子、聖武天皇は孫になるわけだ!だから、皇孫降臨を命じる高木神は不比等に擬されるわけで、天孫降臨神話でめでたく正当化されるということなんですね。


そうそう、肝心な話、古事記の作者は稗田阿礼となっていますが、あれっ?古事記献上の20年以上前、天孫降臨神話の原型が草壁皇子の挽歌にある!
人麿と稗田阿礼って、、、?

余談ですが、反乱の罪を着せられて自殺した長屋王にも、不比等の次女長俄子が嫁いでいる(@@
保険が掛けてある、さすが遠謀深慮の不比等ですね。

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