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見習い百姓のつぶやき

宮仕えも一段落、半農半Ⅹを本格化。農的暮らしとさまざまなⅩを悩んで、楽しんで一歩づつ。

お話し会「月と蛇をめぐる再生の観念」のご案内

2025-01-28 14:17:03 | 古代のこと

お話し会「月と蛇をめぐる再生の観念」のご案内

 藁蛇・注連縄が序章、トンド焼きが終章。「月と蛇をめぐる再生の観念」、縄文人の観念を一緒に考えてみたいと思います。

 「月と蛇と縄文人」の著者・大島直行氏はその著書で、縄文文化の本質は「変化しない安定社会」で、縄文社会は技術や生産力、社会規模、あるいは軍事力を発達・拡大させることに社会的関心があったとは思えず、社会的不平等を顕在化させることを回避した社会だったと述べています。
 また、縄文人は「神話的思考」「野性的思考」でものを考え、月や蛇に象徴される再生信仰が社会の中核に据えられた観念で、富や権力を得るための「強さ」や「優位性」という観念はなかったとも。

 古代出雲の人たちは戦いを好まず、「強くなった親戚には用心しろ、目立たずに生きよ」と伝えてきたのだとか。
 そして、出雲の祖神に象徴されるように、一族の安寧と子孫の繁栄が一番の願いだったのだろうと思います。その象徴の一つが、随所に残り作り続けられる荒神・藁蛇ではないかと思います。出雲には縄文人の観念が受け継がれているのではないでしょうか。

 2025年は巳年、出雲に深いご縁のある年であり、次の時代に向けて、世界に比類なき我が国の観念を共に考えていきましょう。

 

 日 時;2月24日(月・祭日)13:30~
 場 所;カムの宿(新庄町146)
 席 数;10人
 参加費;500円(茶菓代として)
  ※参加希望の方は必ずご連絡ください(090-7895-9418 三島)


変体仮名×美志萬於斜舞

2025-01-14 11:49:10 | 古代のこと

日本語の文字の歴史って、面白いですね。

日本語って、一般に最初は文字はなかった(古代文字があったと思いますが)と言われます。
遅くとも1世紀頃には漢字が伝来し、5世紀頃に漢字の音や訓を借りて日本語を書き表す方法が生み出された。これが仮名の始まりだそう。
仮名という名の由来は、漢字が正式な文字との意で「まな」と呼ばれたのに対し、略式文字の意で「かりな」と呼ばれ、それが転じて「かな」になったとか。

奈良時代に日本語を漢字で書き表そうとして、先人が工夫したのが万葉仮名で、楷書か行書で書かれました。
これが平安時代に入って男手(おのこで)と呼ばれ、草書体でもう少し崩して書かれるようになったのが草仮名なんですね。
草仮名をさらに崩して書いたのが、女手(おんなで)で、現在の平仮名だそう。

奈良時代の日本語は87音、字数は1,000字!!
奈良時代の日本語は、エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・モ・ミ・メ・ヨ・ロとその濁音が二音に使い分けられ、87音からなっていた(@@
この87音それぞれに数種から十数種以上の字を用いたので、総数は1000字近くになる。へえ~~~
それが、音の数の減少と文字数の淘汰で平安時代後期には300になったと。

そして~、明治33年に文部省が1音1字の原則をたてて、平仮名50音図を発表し、義務教育で扱う字種と字体が定められて今日に至っているそう。
50音図以外の見捨てられた平仮名を変体仮名と呼ぶようになるんですね。

Facebookに掲載した問題の元の漢字は「美志萬於斜舞」、数ある変体仮名の一つを使った「みしまおさむ」の表記なんです。
便利至上の価値観の中ですから、一つの音にいくつもの文字って面倒かもしれないけれど、何か優雅じゃありませんか?
奥深い日本語の妙、なぜ捨ててしまったんですかねえ。


大国主と御客座五神

2025-01-08 12:10:01 | 古代のこと

出雲大社の御神座は西向き、それは、西から来る疫病ににらみを利かせていると読んだことがありました。

そう、通常、御神座は南か東を向いているものらしいですね。
出雲大社の社殿は南向きで、南からご祭神のオオクニヌシを拝む形になっていますが、一番奥に祀られたオオクニヌシは西を向き、参拝者に顔が向いていない。
多くの皆さんは、何をいまさら!と思っていらっしゃることだと思いますが。

参拝者に向いているのは、図に掲げた通り、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神など天神の5神が御客座5神として向いている。
出雲大社82代千家尊統氏は、「島根の歴史散歩」に「常世に相対させられている」と書いていらっしゃるんだとか。
先日ちょこっと紹介した「逆説の日本史」の著者は、御客座5神はオオクニヌシの監視役だと書いているんですが、、、

「雲太、和二、京三」と口遊みにうたわれたのですが、雲太~杵築大社は大仏殿や大極殿を凌ぐ日本で一番の建物と信じられていた(実質もそうだった?)。
それは、国を奪われた大国主は激しい怨念を抱いて死んだはず、日本一の大怨霊を祀るには日本一の神殿が必要だった。
だから?神官の先祖は天皇家と兄弟だった(神話では)、いや、兄弟を必要とした。
御客座5神は奪った側の神ですから、大国主の監視役、だから、出雲大社は「霊魂の牢獄」だと。

だから、西を向いたオオクニヌシについて、千家尊統氏は、「常世に相対させられている」とお書きになったのかも。

出雲大社の御神座の向きと御客座5神、さまざまな見方があるのでしょう、興味があれば「逆説の日本史1」を手に取ってみるのもいいかも。


三島族はフェニキア人だった?

2024-12-02 18:24:50 | 古代のこと

三島神社って、全国に400社、摂末社なども含めると800社、四国には大山祇神社を中心に111社あるんだとか。

島根の三島一族は、出雲の副王・事代主に輿入れした摂津の三島江・三島溝喰耳の娘・活玉依姫に付き従って松江にやってきて、そのまま大庭(王の庭)の地を中心に住み着いたとの口伝があり、その子孫と言われています。
その摂津の三島江には三島賀茂神社があるのですが、この神社が全国の三島神社の中心とも伝えられています。
これだけの勢力を誇った三島族ですが、一説にはルーツはフェニキア人で海洋民族、宇佐族とともに古くから日本に住み着いたとも。
という興味津々な話を、また聞くことになろうとは。

日本には、世界各地から様々な種族がやってきて、今の日本人ができてきていると言われています。
そういう話の一つが日本語タミル語説、言語学者の大野晋氏がその学説を発表し、その学説を記紀などの未詳部分に当てながら書かれた本に「ささがねの蜘蛛」があります。
何年か前に読んでいましたが、その著者が15年ぶりに満を持して?出版した「よみがえる大野 日本語=タミル語接触言語説」がお話し会で大役、県立図書館になかったので、早速ネットで注文。

昨日は、古代のことにもめっぽう詳しいYukimaru氏を講師に、古代出雲お話し会「四国各地に残る出雲の伝承と史跡」に参加者は身を乗り出して聞き入りました。
数奇な人生を歩んだYukimaru氏、今は大洲市の少彦名神社の禰宜まで勤める身。
信じられないくらいの幅広い話でしたが、ガッテンの連続。


僕もここ数年来、古代の歴史に関わるさまざまな本を渉猟してきたものの、結構細かいところでストンと落ちないところってあるのですね。
Yukimaru氏の話って、嵌らなかったパズルのピースが嵌まる感覚が随所に!
そのピースの一つがこの本だったかな?


昨日は半分ちょいで時間切れ、後半の話を改めてお聞きすることにしました。
今度のお話し会、更に何が聞けるのか、、、


今日は、久しぶりの快晴で洗濯機は3回も稼働!

錦秋の北山が眩しい





朝酌の促戸で四隅突出型墳丘墓

2024-11-30 11:12:23 | 古代のこと

冷たい季節風が吹き抜ける今日、大慌てで防寒ジャンバーを引きずり出し、出土した四隅突出型墳丘墓の現地説明会に行ってきました。

朝酌の促戸(せと)、奈良時代には官営の渡しがあり、国庁から隠岐への街道と内水交通の結節点・交通の要衝として栄えた場所。
出雲国風土記には、近くでは市も立ち、設置された簗で取れた魚などが並べられて賑わう様子が描かれています。今の矢田の渡しあたりです。

四隅突出型墳丘墓は、矢田の渡しのすぐ上の小高い丘から出土し、弥生終末期に築かれ一辺10m程度だったとみられるとのこと。
松江市では18基目の四隅突出墓、大きさから言えば小型ですが、朝酌の促戸に勢力を張った有力者だったんでしょうね。
墳丘墓は古墳時代を含め何度か改変が加えられたため、出土したのは一辺のみ、残っていた埋葬施設も低部のみですが、一辺の立石・敷石・張石が残り、その様子をうかがい知ることができます。


安来の仲仙寺古墳群と比べると、時代的には?と質問しましたら、時代的にはほぼ同じですが、地域によってその様式が違うんです、って。

確かに仲仙寺古墳とは張石などの様相が違う!
そう言えば、福井でも富山でも立石・敷石・張石といったものは見られなかったなあ、それぞれ、こだわりがあったのかなあ?

紅葉が深まる一方、色づいた葉がどんどん梢から離れていて、裏のモクレンも寂しくなりました。
今朝は、そのモクレンに久しぶりにヒヨドリのツガイ、よく見えること(*^^*)