朝起きたら大根の種蒔き、と思っていましたが、あいにくの雨で二度寝。
朝ごはんの支度をしたりバタバタしていたら、もう出る時間!そそくさと今日の手伝いをしてくれる高校生を迎えに。
今日は、下水道工事、左官工事が一段落した錦織さんの私設図書館、次の大工工事や内装工事ができるようにとうず高く積まれた本の移動や倉庫の本棚の解体片づけ。
おっ、この分なら午前中?って思っていましたが、見通し大いに甘く、市の焼却処分場への自己搬入と、材木などを新庄の納屋に運び終わると、あららもう夕方の4時。
秘策を施しましたが、、、
それから大根の種蒔き、気持ち的にも手が回らないからと買ってきた白菜などの苗も植えましたが、この作業にはいささか秘策を施しました。
その結果が出るのはちょっとだけ先の予定ですが、さて。。。
9/8には瞬時にイヤシロチに変わるという“ねじねじ”を仕込むことにしており、それらが相乗するといかなることに、超楽しみな秋作です。お稽古もしりに火が点きはじめ
というようなことをしていて、昨日いささか消化不良、今日はひょっとして午後から?と思っていた書道のお稽古、道具は片付けずに墨を足して半紙を置いたらすぐにやれるようにと出したままにしていたのですが、結局今日はパス。
締め切りも迫ってきているので、明後日か、その次か?そろそろおしりに火が点いてきました。
昨日は、ちょっと強気で120点とか言いながら、一方ではダダ洩れ。
今日もだだ洩れを引きずりつつも、やっぱり120点かな?(*^^*)
銀座鳩居堂での房仙会書道展が終わってから初のお稽古、久しぶりに房仙先生と一緒にランチ。
ついつい感じていること、思いついたことを饒舌に語ってしまいました。
宗教に決まってるじゃないですか!
鳩居堂での一コマ、訪れた報道関係の方が宗教みたいですねと語ったとか、先生がこっちに来て話して!って。
今になってちょっぴり後悔しているのは、なぜマスコミの方に“バカなことを言われますね、宗教に決まっているじゃないですか!”って断言しなかったのかなあと。
厳密に言えば、書道など道のつく芸事も武道も宗教という規定はできませんが、道を求めていく姿勢やそこから学ぶことは、宗教と大きな違いはないだろうと思います。
信仰を持ち、常識では考えられない結果を出している多くの方にお会いしてきましたが、共通しているのは、とにかく師の教えの通り、自我や余事を交えずに愚直に実践している方々です。
結果の出ない方は、決まって我見が強く愚痴の多い方、それに、すぐに他人と比べてしまう方でしょうか。
1,000人で残っているのは15人
先日、内田樹の「街場の戦争論」を読んで感じたことを、「生きる力」というタイトルでブログを書きました。
芸事も武道も学問も、きっと宗教だって、崩れざる幸福に向かう「生きる力」を涵養するのがその目的じゃないか、もっとも、生まれて生きることってそのためかもと。
ただ、その道をたゆまず進むのは容易ではないことなんでしょうね。
内田樹が師とした多田宏先生は、20歳にして植芝盛平、中村天風、船越義珍という稀代の3人に師事できた“武運”を持った方ですが、内田樹が入門したのは多田先生の道場創建15年の時、入門者は1,000人を超えていたのに道場を開いた数人を除き、残っていたのは15人。
数多の中からそこを選んだ、門を叩くのにも大きなハードルがあり、修行は自我との相克。
内田樹は、師の教えは余事を交えずに受け入れることと書いていますが、知らないから習うと考えると当たり前のこと、それを自分はどうだから、こうだから、ついついなっちゃいますよねえ。
謙遜したつもりが
鳩居堂書道展の出品作品を制作するに当たり、自分は力がありませんから(当然ですが)とか言って謙遜したつもりなんて、何とおこがましいことかと反省しています。
決めるのは師匠なんですね、自分は知らないから習っているのだから、師匠の言うことをそのまま受け入れて実践することが弟子たるものなんだろうなあ、そこって、幾重にもハードルがある。
さて、15人の一人として残っているのかどうか、、、
ナツズイセン 昨日、奥出雲でぐうたら農法の西村和雄先生の環境農業講座があり参加しました。
その帰り、田んぼの横、山のげしにピンクの花が目に入り、車を急停止しバックしてその花を見に行ってきました。
ユリでもなしヒガンバナでもない、何?帰って調べてみるとやはりヒガンバナ科、ナツズイセンと言うのだそうです。
自然界は、与えられた場所で、あるがままに生きています。
これって、ある意味究極の生き方かもしれませんね。
月曜から東京でしたが、あえて?PadやPC機器は持たず、ホテルのパソコンも使わずネット断ち。
帰ってきて写真の編集作業を始めましたが、周辺機器のストライキ(><
スキルがない中工夫して、やっとブログに向かうことになりましたが、もう23時前、今日のブログは簡単に! 上京の目的は、銀座鳩居堂での房仙会書展、な、な、なんと、僕の作品までお情けで出展させていただくことになったこともあり、搬入作業などのお手伝いでした。
以前にも書きましたが、僕の作品は「鳳」、自由自在にはばたく人生でありたい、そんな思いかな?
馬子にも衣裳って言葉がありますが、先生のお眼鏡にかなった特別な紙に書かせていただき、台紙に裏打ちし、額装された作品を見ると、結構見れるものになるものです。
人生初となるこの作品は、恥ずかしげもなくカムの宿の玄関を飾る予定です。
鳩居堂という場所に行かせていただき、いくつか特別なトピックがありましたが、その一つは、房仙会に入会した動機や思いを語らせていただく機会があったこと。
ついつい饒舌に、房仙先生は人生の師としても生涯仰いでいけると確信したからと、そんな話をしてしまいました。
また、あり得ないような素晴らしい出会いがあり、長い時間話をさせて頂けたことは、とても意義深いことだったように思います。 房仙先生、ご主人で副主宰者の光孝先生と一緒に写真に納まったのは、房仙先生の渾身の書「魂」、その文字の通りのすごいエネルギーを発している作品の前です。
全ての物事は意識によって作られている、よく耳にする言葉ですが、渾身の意識を込めて認められた書も人の心を揺さぶり、時には人の人生をも変えることができるのではないでしょうか。
そんなことを感じさせていただいた先生の書でしたが、この場にいられたことは凄いことだったように思います。
銀座・鳩居堂画廊での房仙会書展、8月11日まで開催されています。
“岩盤を穿つ”、結構印象的な書名で、奥歯を穿られながらそんな言葉を思い出していました。
昨夜は、奥歯が痛くてほぼ一晩中寝付くことができず、今までだましだまし来ていたんですが、これは歯医者に行くしかない!と予約の間に挟んでいただきました。
その治療、目をしっかり開けてと叱咤されながら、自分の舌を歯鏡で押さえさせてもらい(^^;; 歯と歯茎が穿られていくのを見つめていたんですから、そんな気にもなるってものです。
お陰で、歯の痛みはほぼ雲散霧消状態になりましたが、今日の書道のお稽古日は参加取りやめ。
ただ、先日の東京に闖入させてもらったおかげで、鳩居堂出品作品完成したそのお礼と、欠席の連絡はしたものの、それでも生きている顔を見てもらおうと会場を覗きました。
行ってみると、いつもの会場に誰一人姿がない???フロントで聞くと7階、3方すごい眺望!
実は、わざわざ行ったのにはもう一つ理由があって、先日読んでいた本で「読書百遍義おのずからあらわれる」という言葉に出会ったからで、これって、書道そのものじゃないか!と思ったから。
書道のお稽古会場では、「お稽古はお湯を沸かすがごとく」という言葉で盛り上がったので、この言葉は飲み込みましたが、お湯は冷たくならないうちに火にかけるとすぐに沸く、つまるところは似ているかなあ。
この本では、使っている身体性ってごくごく僅か、膨大な可能性が秘められているとありましたが、歯医者で舌の使い方を指導されたことも一緒で、たかが舌だってこんな使い方、動かし方があるんだ!って。
きっと、道のつく日本の伝統技能やスポーツなども一緒なんでしょうね。
理解できなくても、思うように身体が動かなくても、愚直に求め続けていると“おのずからあらわれる”ものなんじゃないかと、自らを慰めています。
まあ、それほど筆は、それを動かす手は、それを動かす脳は自分の思うようには動いてくれません。
写真、やめてくださいよ、と言いながらやけに嬉しそうな顔で写っていました。
この後だったかなあ、多分にお情けだろうと思いますが、これで!ということになり、鳩居堂の作品作りが一段落、やった~~!!
わざわざ東京まで出向いた甲斐があった?ということなんでしょうか。
今回の作品作りで一番学べたことは、我と向き合えたことで、自然体ってそう簡単じゃないってことでした。
準備を初めて最初に向かう時って、最初だからとほとんど気負いがありませんが、枚数を重ねていくとここがああだからこうしようとか、この初筆をもっと太くしたらとか、ついつい作為的になり、我欲が出てくるものです。
そうすると、どんどんダメになるんだよなあ。
これって、体が勝手に反応するごとく書いて書いて書き込んで行く以外にないんだろうなあ。
道のりは始まったばかり、まだまだ先は長い(^^;;
一緒に補習を受けた皆さん、何かしら、仲間意識のようなものが、、、
東京に行ったお陰で、電車の中、飛行機の中、ホテルの部屋と本を読む時間が取れました。
お陰で、赤嶺勝人さんの「ニンジンから宇宙へ」をほぼ読み終えることができました。
それにしても、この本は凄いなあ、食や農について僕が学んできたことがほぼ網羅されている上、更に広い、しかも、核心を突いおり、僕のバイブルとも言える一書になりそうです。
身土不二、そして一族の祖国 先日、母が作っているブルーベリーのことで思うことがありました。
「もう少し熟れてからの方がいいんじゃない?」というと、「もう熟れて落ちてる実があって汚いから」と、えっ!諸葛孔明は、兵士に故郷の土を持参させ、病になるとその土を嘗めさせたのだとか。
赤嶺さんの宇宙循環論から言えば、私たちは土からできている、いや、まさにその通りで、それが腑に落ちた生き方ができるようになると、病とはほぼ無縁になるんだろうし、アトピーともさらば。
仏法では、身土不二と説きますが、古人は「10里四方より遠くの食べ物を食べてはいけない」と伝えて来たそうで、朝起きて食べ物を取りに行き、夜までに帰って来れないところのものは食べるなと。
これって、本当にそうだなと、わざわざ地中から掘り出した資源を浪費し、地球の裏側からポストハーベストや防腐剤漬けの食べ物を運んで食べるって、可笑し過ぎるんじゃあないかなあ。
陰陽から言っても理に反しているし、しかも人体が摂取してこなかった化学物質漬けの食べ物ばかり、これじゃあ、病気になるのは当たり前だし、病気は医者が、薬が治すものと信じている。
そういえば、アナスタシアの提唱する一族の祖国って、身土不二そのもので、本当に理に適っています。
きっと、一族の祖国的な暮らし方、じわじわと広がって行くんだろうなあ。