感動的な書道ライブでした。
合計5枚、あの和紙の大きさって何というのかわかりませんが、畳一畳強でしょうか、デビュー仕立てのヒロさんという房仙会の仲間の歌に合わせて、歌の中から“負けるな”という歌詞を即興で揮毫したり、こんなのありだ!
また、お客様から書いてもらいたいリクエストを募って揮毫したのは“正義”、どなたですか?と先生に問われ手を挙げたのは僕が声をかけて来てくれた方の友人、作品をお持ち帰りくださいって、とても嬉しかったですね。
パフォーマンスをしながら次々と書き上げ、最後に、いつもお世話になっている会場の東光園さんにと“感謝”の揮毫、支配人や料理長も皆さんに紹介して一言づつ、感謝の思いを一つ一つ形にしていく房仙先生でした。
食養、合格点かな?
書道ライブの前段では、ご主人の福田光孝先生の食養の講演会。
“一物全体食”、全てを頂く、寝かせ玄米食だったり、めったに食べないパンも食べる時は全粒粉、小魚は全部頂く、結構やっていますが、もう少しだけ意識してもいいかな?
“身土不二”、自給が可能なものは極力自分で作り、買う時はなるべく地産地消、これも合格点が頂けるでしょう。
そう言われれば!というのは、動物は生食だから血がきれい。
動物は、具合が悪くなったら食べないでじっとしていて治す、100%自然治癒力、僕は基本的には病院に行かないと決めていますが、そうか!最高の治療法と言われる断食療法、食に関して、改めていろいろ気付きをいただきました。
そうそう、反省会で隣になった房仙先生、僕と一緒で肉は食べないとのことでしたが、その話から食事は全部主人が作ってくれるんですよって。
仙台、東京、三島、大阪、米子に100人を優に超える生徒を抱え、全会場で月1回お稽古。
それれの生徒が月1回から2回、自宅に送った清書を添削し、結果を見ながら、改めてそれぞれに合ったお手本まで書いてくださることも。
お稽古会場で拝見するご主人は、黒子に徹してよくぞサポートしていらっしゃると思いますが、超多忙な房仙先生とは言え、奥様である房仙先生の食養管理までも!
古希を迎えられた房仙先生のこの激闘、ご主人の支えがあればこそ、凄いご夫婦です。
このお茶目な方が福田房仙さん、僕の書道のお師匠さんです。
午前中の搬入作業を終え、房仙会米子書道展が始まりましたが、明日の書道ライブなどのメインイベントを控える中、今日はお稽古。
昇級・昇段試験を控えてのお稽古ということもあり、今までにも増して気合が入っていて、みんなが下手すぎるから!!気合が入ってますます元気になれるのよ、何てお茶目なことを平気で言っちゃうお師匠さん。
それがちっとも嫌味じゃないんですよね(*^^*)
僕の作品“鳳”も不釣り合いな位な額装に納まって輝きを放っていますよ~~(あっ、自画自賛 ^^;;)。
米子で一緒にお稽古する先輩の皆さんの作品もステキで、ぜひ見て欲しいけれど、一番見て欲しいなあと思うのは、お茶目な房仙先生の“魂”という作品。
このお茶目さに結びつかないとも思えるオーラ、エネルギーが放たれています。
書を通して魂の在り方を学び幸せになって欲しいという思い、どこまでも会員の人生に寄り添いたいという房仙会主宰者としての魂魄が凝縮しているように思います。
そんな書の持つエネルギーを感じていただければ嬉しい限りです。
いよいよ明日は房仙会米子書道展の搬入と展示作業、午後からお客様への公開が始まります!
史上初!僕の作品も展示されますが、馬子にも衣裳、立派な額装で数十万円、いや数百万円にも見えそうな作品ですよ~(*^^*)
そして、明後日28日は房仙先生の書道ライブやランチ会など、メインイベントです。
そんな大行事を前にした昨日、ランチ会で飲んじゃったから新庄でお泊り。
秋晴れの気持ちいい朝、大山が優雅な姿を見せてくれ、畑に足を踏み入れるといつの間にかジャガイモが芽を出していました。
先日は、台風前に種を蒔いた小カブが可愛い双葉を揃えていたり、新しい生命の息吹はいつ見てもとても嬉しいもので、今日も頑張ろう!って気になりますね。
さあ、リベンジです。 一昨日、満を持して取り組んだはずでしたが、自爆気味に沈没してしまったペール缶での竹炭づくり。
一番の反省、というか、これしか考えつかないその原因は、竹が乾燥していなかったこと。
今年の春に切った竹で、乾燥しているだろうと思っていましたが、全く!という感じかも。
竹炭づくりの手順はというと、YouTubeで見た青竹細工道場の作り方そのままですが、先ずはレンガでカマドづくり。
ペール缶の内側に断熱用の新聞紙を竹とで挟むように入れ、ペール缶ギリギリの長さの竹を小割りして詰め込めるだけしっかり詰め込む。
今回は、3年前に切った竹があった!ので、そを使いました。
カマドに置いた餅焼き網(材料の竹が下に落ちないようにするため)の上に、竹を詰めたペール缶をさかさまに置く。
1mの足場用鋼管に新聞紙を撒いて煙突とし、カマドの煙道に乗せてペール缶に括り、焚口を残して土を寄せる。
割り箸位の木や竹を焚口で炊き続け、団扇で煽ぐこと20分(もう少し短くても良さそう)、写真のように小さな空気孔を残して焚口をレンガで塞ぎ、他から煙が漏れないように土を寄せる。
写真のような煙が出続け、40分余りで煙が薄くなってきました。
今日はもう5分くらいそのままにしましたが、ちょっと長かった?
ですので、動画のように焚口、煙突の場所、カマドの途中を開放して空気を送ったのですが、完全に燃焼しつくしたようで炎無し。
ここで空気穴を全部土で塞ぎ、待つこと2時間、さて、結果は??
結局、全共闘には言いたいことなんて何もなかった。
空気を読む
状況依存というのは、いわくいいがたい、一緒に行動せざるを得ない空気を作り出すからとても危ないのです、と養老孟子先生は仰っています。
それについて、山本七平が『「空気」の研究』でうまく説明しているのだとか。
曰く、日本人はみんな空気を読む。でも、後になるとどういう状況だったかわからない。その空気は時代のものだから。 面白いよなあ、いわゆるノンポリ、真っただ中にはいなかったものの、その世代で、運動の端の方にうごめいていましたが、今振り返るとその空気感ってとてもよくわかります。
内田樹と養老孟子の「逆立ち日本論」のこのあたりを読みながら、今、“時代が変わろうとしている”空気感をとても感じている僕は、そのトレンドに合わせて、時代の歯車を回すところに少しでもコミットできたらと考えて生活しているのですが、それって時代の空気?
面倒くさく面倒くさくしている
先日友人から、最近のブログを読んでいると、もっと単純に考えればいいのに、面倒くさく面倒くさくしているように思えますと。
確かに(^^;; それは、他に親しくしている方からも言われているんですね、、、
この本の前書きで養老先生は、内田さんは好悪がはっきりしていて感覚的に生きている人だとわかる。そういう人は抽象思考を苦手とすることが多いが、内田さんは例外的に二つを兼ね備えている。
感覚から入って抽象まで立ち上げていくから、抽象に危なげがないと。合気道をやっているからか、そういう人だから合気道をやっているのか。
だから、僕も内田樹を好んで読むんだろうと思いますが、きっと、僕の抽象は持って回って、まさに面倒くさく面倒くさくしているんだろうなあ。
ここにも修行の種があるようです。