新春房仙会祭りで師匠の房仙先生からいただいた凧、とても嬉しいですね。
お祭りの後の懇親会で、参加者には全員頂けたのですが、特別の凧のような気がしています。
決めるって
何度も書いてきたと思いますが、楽しいことしかしないぞ!と決めたのは12~3年前だったでしょうか、自分が楽しんでいないといい仕事ができないと思ったからなんですね。
もちろん、同じことも取り組む姿勢で楽しくできるし、辛くもなる、それはわかってのことのつもりですが。
ただ、不思議なことに自分で決めるとそうなって行く、恐らく、あの時に僕の人生は本当に大きく変わったと確信できます。
決めるって、とっても大切ですね。
一年半前?初めてお稽古に参加した日、その時はまだどうしようかと思っていたのですが、房仙先生の気合なんでしょうね、とても気持ちがいいと思った。
書道も道を究めるためにやるのだから、師匠からどんな理不尽と思えることを言われても付いていくものなんだろうけど、今の社会では極めて稀なことかも。
それが、どんな言いにくいことでも歯に衣を着せずにズバリと言うんですね、そこが続けようと思ったキモ、端くれであっても一員に加えてもらえて良かった~!
「嬉」という言葉、そんな気持ちが詰まっているんですね。
楽しいことしかしないぞ~、それに一番ピッタリでしょうか。
師に付き随う
そういえば、僕の友人の日本舞踊のお師匠さん、53年付き随ったお師匠さんが100歳の天寿を全うされたのだとか。
53年、師として付き随う、尋常じゃないように思います。
その間、師を超えた、そんな思いだって過ることがあったんじゃないかと思えるんですが、ひたすら師として従い続けた、その友人の姿はお手本です。
新春房仙会祭り、大阪で行われて行ったのですが、大阪校の皆さんの作品展も含めて正味2時間。
房仙先生の揮毫はいつも変わらずすごい気合!
そして、飾られた作品は、みんな素晴らしい!2時間、勿体ない。
やっぱり!行ってよかった!のですが、何よりも、皆さんが房仙先生とのお稽古の時間を通してのみならず、魂と魂がつながり、人生を磨く場になっているということを改めて確認できたことが一番嬉しいと思えたことでした。
昨日は書道のお稽古、ないことに、予習というか、今月の課題の練習はしていったのですが、、、
臨書ですので、結構似て書けているかなあ?などと不遜にも思って行ったものの、やはり!そう簡単には近づかせてくれません。
というか、師匠の房仙先生が凄すぎるのか?ひょっとしたら、王義之以上に王義之らしいのかもしれません。
だって、この字のここは、酔っ払って書いたから、さもなくば疲れていて腕を机に置いて書いたのか、などと解説しながら手を取ってくれるんです。
また、ここのこの部分は、石版の彫り師が彫り忘れているはず、とか、、、
きっと、今まさに眼前で王義之が書いている、それとも、書いている王義之に同化しているようにも思えてしまう房仙先生の一挙手一投足です。
集字聖教序
書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として書聖と称される王義之なので、王義之の書を基本にしたうえで個性を発揮して欲しい、というのが房仙先生の願いなんでしょうね。
さすれば、どんな個性的な展開も可能になり、素晴らしい作品となるってことかな?
お稽古の際、毎月の課題の出典となっている王義之の作品「東晋・王姜之 集字聖教序」が話題となりました。
そういえば、それって、錦織さんがくださったあの本!?と思って新庄の棚を見てみると、やはり!1959年初版、1981年51刷のもので、当然、先月と今月の課題も。
すると、来月の課題は、「山川〇煙霞」?ところが、〇の漢字がわからない(^^;;
お手本集は、新庄において来ちゃったし、、、
お稽古の後は、房仙会の和気あいあいの房年会でした。
房仙会のお稽古が始まって5年目とのこと、それぞれの皆さんが房仙先生との出会いとお稽古などを通して、大きく変わって来ている様子、これって凄くないですか?
かくいう自分も1年半弱ですが、書の道以上に教わったことが多く、一生お付き合いさせてほしいものだと思っています。
山羊の毛で作る筆、やはり自然放牧
そうそう、書道の筆で面白い話がありました。
中国では、書道の筆は山羊のの毛で作られるとのことで、日本にもそれが輸入されている。
その毛、食肉用に飼育された山羊で作ったものはすぐダメになる、そこで、いい筆の毛は自然放牧で育てて使うようになったのだとか。
山羊の毛でこうなる、ってことは、やはりお肉もその延長にあるということかな?
食肉用に肥育されている動物の現場をあちこち見た末に、基本的に肉は食べないことに決めましたが、これって正解?
追われ感の中で、書道の課題は王羲之の書から「驚砂夕起」の臨書。
一応終えて、郵パックで送るようにはしたのですが、、、
さて、この課題、驚砂は夕に起こるだけど、意味はと聞かれると良くわからない、砂嵐は別に時間を選んでくることはないだろうし。
気分転換?
書道のお稽古の気分転換に、エンドウ豆の支柱にする竹の準備、トトロの森で手ごろで、ない方が良いかなあと思える30本余り切りました。
一部分ですが、随分すっきりしたように思います。
エンドウ豆が芽を出してきているので、明日は、この支柱立てからかな?もう一つの気分転換、昨日のランチ会で残ったリンゴ、他にも頂いたリンゴが冷蔵庫にあったので、リンゴジャムに変身。
お稽古もあったので、煮込みの時間が不足気味でしたが、とっても美味しいとニンマリ(*^^*)
それと、入れ忘れたレモン果汁の代わりに瓶詰めした後から柚子のしぼり汁、柚子もクエン酸たっぷりですからね、でも、味は未知との遭遇です。
最後に、やっと咲きだした新庄の小菊、名前は知らないんですが、しぶとく元気だなあ。
ついでにボケ、花をつけた株がもう1本あるんです、季節感があいまいだからボケ?でしょうか。
今頃かよ~と言われそうですが、そう、今頃になってしまいました。
本当は、芋づるの苗を取るつもりでビニルマルチとトンネル、ダブルで保温して種芋を植え付けましたが、いつまでたっても芽が出ず、買った苗で植え付けましたが、、、
そろそろ苗の植え付けも終わるころにやっと芽が出て、それからは勢いが良かったですね。
それゆえ、随分芋づるや葉っぱを楽しませていただき、今日は超遅い芋日理に合わせて最後の芋づると葉っぱも収穫。
明日は、芋づるの煮付け。
それはそうと、今頃になってですから、お芋もやたら成長してくれて、で、でか~~
さて、来年はどうするか?
この芋、やたら美味いので来年も作ろうと思いますが、、、
「漢字百話」内田樹の本で、漢字に含まれる口って呪文を収める“サイ”という容器であるとの説を唱える漢文学者・白川静を知り、この本を手に取りました。
そういえば、地元紙の文化欄に白川先生の漢字の成り立ちが連載されていたような。
手に取った「漢字百話(本当は怖い漢字のはなし)」、もっと面白おかしく書かれていると思ったのに、まるで学術書のようですが、何度も読み返すと面白い。
元に返して、“サイ”と読むと今までの漢文学って根底から変わる、変わってきたのかな?
歴史って、こんなところがありますよね、一つの発見が定説を根底から覆してしまう。
だから?新しい発見って世に出にくい、権威ある先生方によって隠蔽されてしまっている、なんて話をよく聞きますが、、、
書(ふみ)とは
だから?この本、読みこむと面白い。
読みはじめのころ、“書”について書かれていました。
房仙会の米子の書道展に来てくださった、欧州で評価が高い画家の方が、主宰する房仙先生の人柄や思いと生徒の皆さんの気の高さを感じる素晴らしい書道展でした、って仰ったことに通じるなあと。
書とは、しるされた文字である。わが国には、書も史も文もみな「ふみ」とよむ訓があった。いまの音訓表では、文が数年前(昭和48年)の改定で回復されたほかは、なおそのようにはよまぬ定めである。きびしいことを定めたものである。
文は記号の総体である。内なるものが外にあらわれるものをいう。その限定的用法が文字である。文字は、ことばの呪能をそこに定着するものであり、書かれた文字は呪能をもつものとされた。史は、その書かれたのりとの器を木の枝につけて、神霊にささげる祭儀を示す形で、いわば告文である。それはもと史祭とよばれる祭儀を意味した。
書はその告文を境界の地に埋めて、その呪能によって域内を衛るためのものであった。字形は者と聿(筆)とからなる会意字であるが、聿はのちの附加部分であり、者そのものに本来の意味がある。者を声符と解するのは誤りである。
文字は便利だけど
書かれた文字は呪能を持つ~思いは伝わる、単なる文字として書いてしまうのかどうか、書道というくらいですから、思いや生き方を込める向き合い方をしたいものだと。
言葉ではすべての思いが伝わらないからイメージで伝えあうという方がありました。
言葉は、そのイメージを補完するものだと。
亭田さんは、文字を持たない先住民族は3万年間のことを口伝し、表象的な図を用いるが、読める人は膨大な情報を読み取れるようだと仰っていましたが、漢字の元も一緒かも。
文字になって、伝わっていたものが伝わらなくなった。のかな?
カタカムナも同じかもしれません。
文字は便利だけど、伝わる情報量は限定的かもしれませんね。
本当にお世話になった、優しい優しい叔父の連れ合いが亡くなり、一通りのお別れ行事が終わりました。
叔父の気落ちし、憔悴しきった表情を見ているのはとても辛いもの。
日にち薬とはいえ、年齢も年齢ですから、改めて教育論争でも吹っ掛けに行ってこなきゃ。
通夜を前にした昨日、気もそぞろ、のようなところはありましたが、書道のお稽古日。
昇級試験が間近に迫る中でのお稽古、だけど、書けば書くほど初筆がうまく行かず、お手本とズレていくような感じ。
時間切れ間近、二日がかりでお稽古した作品を何枚か持参したのを恐る恐る出すと、見事全部だめだし、今日の方がずっといいわよ、って、ええ~~っ、時間がないんですが、、、
時間が迫った最後、う~ん、不完全燃焼でしたが、房仙先生からこれなら行ける!って。
締め切りまであと数日、昇段試験を前にした皆さんは大きな作品も含めて3点完成させる必要があるようですから、先生の手を取るのは申し訳ない気持ち。
ということもあって、半分は帰って仕上げるつもりになっていましたから、半信半疑。
自分の我と向き合う、やっぱりそんな簡単なことではありません。
でも、これで一区切り、全身の力が抜け、安心しきってしまう、そんな感じ。
さあ、来月は少し気持ちを切り替えて、もっと楽しみますか(*^^*)