ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

タスマニア行:世界遺産囚人遺跡群の半分がある島

2024年02月28日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


ハート型のタスマニア島の南
東に位置する、ひと際入り組
んだ地形の奥に州都ホバート


そこから東にぐるりと回り込
むカニの爪のようなエリアが
タスマン半島

(※出所:ウィキペディア)


ホバートから90kmでも、非動
物園アンズー
から目と鼻の先の



世界遺産ポートアーサー史跡



なんとも壮麗で、まるで城跡



でもここはかつて、流刑囚た
ちに最も恐れられた流刑地。



おとぎ話のような外観とは似
ても似つかぬ過酷な史実の場



18世紀の大英帝国はアメリカ
での独立の機運の高まりを受
け、キャプテン・クックを密
使に「アメリカに代わる植民
地の発見」という賭けに出ま
す。クックは東回りでオース
トラリアに到達し、1770年
に東岸をニューサウスウェー
ルズと称して領土化を宣言。


その前にNZも「発見」したの
にご不要だったようで植民
地宣言はされませんでした。


1776年、アメリカ独立宣言。
独立戦争は1783年まで続き、
最終的にイギリスはアメリカ
を失います。5年後の1788年
にオーストラリアへ初代総督
アーサー・フィリップを送り
込み新たな植民地建設に着手


建設の担い手となったのは流
刑囚たち。殺人や強盗はもと
より、パンや家畜を盗むとい
った軽犯罪でも、島流しとし
てアメリカに代わり遠いオー
ストラリアへ送られました。


1788~1868年までの間に、
実に16万5千人の流刑囚が送
り込まれ、オーストラリアの
植民地建設は流刑囚なくし
ては、あり得ませんでした。

(※流刑囚のための足かせ)


オーストラリアの世界遺産20
ヵ所のうちのひとつは、かつ
ての囚人遺跡群で(2010年に
文化遺産に登録)、それらは
11ヵ所で構成されています。

(※フリーマントル刑務所も)


そのうち約半数の5ヵ所がタ
スマニア
にあるという数字か
らしても、この地がイギリス
の流刑植民地政策上いかに重
要だったかがうかがえます。


5ヵ所のうち最大にしてタス
マニアの流刑政策を雄弁に物
語るのがここポートアーサー

壮麗さには訳がありました。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« タスマニア行:非動物園の生... | トップ | タスマニア行:世界遺産ポー... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

オーストラリア:タスマニア」カテゴリの最新記事