【ヨハネの福音書の中の「栄光」】
▽「栄光」に始まり「栄光」に終わる
ヨハネの福音書は、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」(1章14節)から、「イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。」(21章19節)まで、23の節に「栄光」という単語が出てきます。そして、それぞれの節の「栄光」には、主イエスの栄光に関して次の四つの意味があると教えます。
▽創造主、至高の神としての栄光
「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」(17章5節)をはじめ、1章4節、8章50、54節、11章4、40節、12章28、41節、17章4、24節において、主イエスは救い主(キリスト)であると共に、創造主である神ご自身であることが示されています。
▽十字架、贖い主(あがないぬし)としての栄光
『すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。」』(12章23節)や、2章11節、12章16節、13章31、32節、 17章1節で、主イエスの栄光とは、私たちの罪の身代わりに十字架で神の裁きを受ける(贖い)ことであると明確に記しています。
▽御聖霊として信じる者にくだる栄光
「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」(7章39節)、「御霊はわたしの栄光を現されます。」(16章14節)とあります。主の十字架の栄光とは、御聖霊として、信じる者のうちに宿ることでもあるのです。
▽弟子(クリスチャン)達を通しての栄光
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子になることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」(15章8節)や、11章10節、 14章13節、17章10、22節、21章19節を通し、御聖霊に満たされたクリスチャンは神の栄光を表すことが語られています。