【祝福の神】
それから、ヨセフは父ヤコブを連れてきて、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオを祝福した。
創世記47章7節
若き日のヤコブがハランの地へと旅立つとき、ヤコブの父イサクはあらためてヤコブを呼び寄せ、彼に神の祝福を注ぎます(創28・1~4)。神御自身もまた、旅の途中にベテルでヤコブに祝福の約束を与えます(創28・13~15)。だからといって、ヤコブの生涯は順風満帆とは言えず、かえって苦労と挫折の連続でした。
しかし、そのような苦闘の日々のなかでも、神はヤコブと共にいて絶対的な守りのうちに、彼を霊的に砕かれた深みのある器へと変え、実際生活でも豊かに祝したこともまた事実です。私たちもキリストの十字架によって罪の赦しを得て神の子とされる時、ことごとく思い通りに人生が進まずとも、自分の願い以上の祝福で満たされることを、ヤコブの生涯は証ししています。その今も生きておられる神の祝福を、次の三つからも知ることが出来ます。
晩年にも新しい希望が与えられる…「もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのおまえの顔を見たのだから。」(創46・30)とヨセフを再会した時のヤコブの言葉は、まさに死中に生を見出した喜びの叫びです。
そしてこの神の祝福を体感した喜びは、救い主と会ったシメオンに通じます(ルカ2・29~30)。
最善最良の場所へと導かれる…ゴシェンの地(創47・11のラメセスの地も同じ場所)は、牧畜に最適の場所でした。羊飼いはエジプト人に嫌われましたが(創46・34)、
神は信じる者に必ず居場所を備えてくださる方です(詩篇16・6)。
ファラオ(エジプトの王)を祝福するヤコブ…通常は上位の者が下位の者に祝福を与えます(へブル7・7)。
しかし、神を信じる者は人や場所がいかなるものであれ、相手のために祝福を祈る尊い務めが与えられているのです(創47・7、10。エレミヤ29・7)。