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H26.11.28(金) 塩崎厚生労働大臣閣議後記者会見概要

2014-12-01 20:09:31 | 厚生労働省

(9:45 ~ 9:58 厚生労働省内会見室)

【厚生労働省広報室】

会見の詳細
《閣議等について》
(大臣)

 おはようございます。今日は閣議がございまして、そこでの発言からまず始めたいと思いますが、まず、10月の完全失業率は前月に比べまして0.1ポイント改善をいたしまして3.5パーセント、有効求人倍率は0.01ポイント上昇いたしまして1.10倍でございました。現在、雇用情勢は一部に厳しさが見られるものの、着実に改善が進んでおります。ただし、消費者マインドの低下とか、あるいは海外景気の雇用への影響について注視をしていく必要があると思います。雇用情勢の地域差などの課題に対応しました雇用対策の推進や、正社員実現加速プロジェクトによる正社員就職の促進などにより、雇用情勢の一層の改善が進むように取り組んでまいりたいと思っております。
 エボラ出血熱に関します緊急対応についてでございますが、本日、閣僚懇談会におきまして、官房長官から、エボラ出血熱については引き続き、政府が一体となった万全の対応が必要であることから、検疫所の体制強化、そして、国立感染症研究所の体制強化及びセキュリティ対策の強化、並びに国内における医療機関の施設等の整備など、緊急に必要な対策を講じて、エボラ出血熱に関する対応に一層万全を期すよう指示がございました。これに対しまして、私からは官房長官の発言を踏まえて、速やかに必要な措置を講じていくことを発言いたしました。
 明後日、11月30日は、今年から新たに「年金の日」となりますので、当日の取組などについて御報告申し上げます。「年金の日」の趣旨は、国民お一人お一人に高齢期に備えて、その生活設計に思いを巡らせいただきたい、国民お一人お一人に年金ネット等を活用して、年金記録や年金受給見込額を確認していただきたいということでございます。「年金の日」当日は、13時から丸の内の東商ホールで「年金の日フォーラム」を開催しまして、年金シンポジウムや「私と年金」エッセイの表彰式などを実施いたします。今年から新設した厚生労働大臣賞は、沖縄の双子の高校生でございまして、当日は私がちょっといないものですから、山本副大臣が出席いたします。また、「年金の日」の趣旨に御賛同いただいた27の金融関係団体等と共同して、「ねんきんネット」の活用などを呼びかけてまいります。以上が私からの冒頭の発言でございます。

《質疑》
(記者)

 エボラ出血熱についてですけれども、官房長官から発言があったということですけれども、これを受けて、必要な措置を講じてまいるということですけれども、具体的にはどのような措置を検討されているんでしょうか。


(大臣)

 これまでも三位一体ということで体制を強化、万全を期してきたわけでありますが、水際対策、それから国内の感染防止対策に特に万全を期してきたところでございます。このため、官房長官の指示もあって、検疫所の検疫官、それから国立感染症研究所の研究員の増員、それから国立感染症研究所の村山庁舎のセキュリティ強化、さらに第一種感染症指定医療機関の未設置県に対する施設整備補助、そして第一種感染症指定医療機関等に対する個人防護服等の整備補助を検討いたしておりまして、こういったものを中心に対策強化を図っていくということでございます。


(記者)

 全て予算も必要になると思いますが、補正(予算)なのか。あるいは検疫所の検疫官の増員などですと、通常の予算、来年度予算にも関わってくるのでしょうか。


(大臣)

 この対応は、喫緊の課題であることは言うまでもないわけであって、今月18日に総理から検討指示がございましたけれども、この補正予算編成も見据えた対応を求められたものだというふうに理解をしております。大事なことはこれは速やかな対応というのが必要なので、厚労省としてもスピーディーな措置を講じていくようにしていきたいと思っております。


(記者)

 補正(予算)と、通常の予算、両方で考えていくということで。


(大臣)

 今日お話があったのは、補正予算編成も見据えた18日の総理の検討指示があったことを踏まえて行われた指示だというふうに理解をしていますので、主にこれは補正予算編成も見据えたものを、とりあえず、今日、御指示をいただいたものだというふうに思っています。

(記者)

 昨日の専門家委員会で、「電子たばこ」の一部の商品の蒸気から、通常の紙巻きたばこに比べて10倍以上の発がん性物質が検出されたという報告がありました。これについて大臣の受け止めと、今現状、「電子たばこ」の規制がないことについて、今後どういった対応、規制をしていくというお考えなのか、教えてください。


(大臣)

 厚労省としては、いわゆるこの「電子たばこ」の健康影響及び未成年者に対する影響について、この専門委員会、たばこの健康影響評価専門委員会で、更なる検証を進めていくという予定でございまして、この電子たばこについてはニコチンを含む場合にはこの法律として、「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」、いわゆる「医薬品医療機器等法」によって規制をしているわけです。ニコチンが入っている場合は。今後とも「電子たばこ」の規制のあり方について、この専門委員会の検証を踏まえて、今後関係する省庁がいくつかございますので、そこと連携して検討していかなければならないと思っております。


(記者)

 「電子たばこ」から発がん性物質が、普通のたばこよりも高い濃度で出たことについてはどう受け止めですか。


(大臣)

 ホルムアルデヒド、アセトアルデヒド、アクロレインなどの発がん性物質が含まれているという御指摘があったと聞いておりまして、この専門委員会での御指摘は正面から受け止めて、今後どういう規制がありうるのかということを検討するということであります。


(記者)

 幼児教育についてお聞きしたいんですけれども、今朝の一部報道で、年収360万円以下の5歳児の保育料の無償化の実施が厳しくなったということがありました。下村大臣も実施は難しいというような発言をされているということを聞いていますが、それについて、大臣のお受け止めは。


(大臣)

 下村大臣は私の隣に、閣議が始まる前に座っていて、今日のこの話をしてきましたが、そういうような慎重な発言ではなく、むしろ報道は正確ではないんじゃないだろうかということを言っておられました。この幼児教育の無償化については今年の7月に、「幼児教育無償化に関する関係閣僚・与党実務者連絡会議」の取りまとめて、環境整備と財源確保を図りつつ、5歳児からの段階的に無償化に向けた取組を進めることというふうになっていて、その対象範囲とか、あるいは内容とか、これらについては予算編成過程において検討ということになっていたわけであります。したがって、今日、一部新聞報道がありましたけれども、何もまだ決まっていないにもかかわらず、ああいうものが出たというふうに受け止めていて、今後、(平成)27年度の予算編成過程において財源とあわせて無償化の対象範囲や対応等について関係省庁と連絡しながら検討していくというふうに私たちは考えておりまして、それは何も変わっていませんから、これから検討ということでございます。


(記者)

 関連してなんですけれども、この5歳児の保育料の無償化。塩崎大臣としては来年度から実施すべきだというお考えなんでしょうか。


(大臣)

 これは先ほど申し上げたように、連絡会議で取りまとめられた方針があるわけですから、これに則って予算編成過程の中で、関係各省が議論を深めるということだろうというふうに思っています。今日、この新聞報道が出たことについて、さっき申し上げたような形で、いろんな人が何でこんなものが出るんだろうかというふうな思いが強かったように感じました。


(記者)

 エボラ出血熱に戻って申し訳ないんですけれども、国立感染症研究所の村山庁舎のセキュリティ対策の強化というのは、セキュリティを強化することで住民の理解を得てBSL-4の稼働に結びつけたいと、そういうことなんでしょうか。


(大臣)

 住民の理解を深めるということについては、単なるセキュリティを強化したらできるというような簡単な話ではございませんので、市長さんともよく話し合いながら、そして関係者ともよく話し合いながら理解を深めていく努力を粘り強くしていかなきゃいけないというふうに思っております。


(記者)

 その関連でエボラ対策なんですけれども、検疫官の増員と感染研(国立感染症研究所)の研究員の増員、これは具体的には何人ぐらいの増員を見込んでいるんでしょうか。


(大臣)

 これについてはまだこれからの議論でありまして、具体的な数字は補正予算を決めていく中で決まっていくことだというふうに思っております。


(記者)

 具体的に例えば検疫官ですと、医師とか看護師とかいらっしゃいますが、具体的な職種とかですね、そういったものは決まっているんでしょうか。あと、いつから増やすということは。


(大臣)

 中身についてはこれからの議論であって、タイミングについては急ぐからこそ補正予算もということだと思います。


(記者)

 このタイミングで、さらなる体制、対策強化というのは、これまで3件の事例があったわけですけれども、これまでの体制では不足しているという認識なんでしょうか。


(大臣)

 私の理解では、例えば、第一種感染症指定医療機関がまだないところが7つ残っていますけれども、スピードアップするということじゃないでしょうか。


(了)


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グローバル ガールズ コレクション-東京・渋谷で開催

2014-12-01 12:16:31 | 歯科
Global News Asia 11月30日(日)0時12分配信



紛争の無い世界平和を祈願して、「自由の女神」をイメージしたファッションで登場した、宮城県名取市・あいおい歯科の歯科衛生士、斉藤真夢(23)さん。
 2014年11月29日、東京・渋谷区で、「国際紅白歌合戦&GLOBAL GIRLS COLLECTION」(日本アセアンセンターなど後援)が開催された。会場は、国立オリンピック記念青少年総合センターカルチャー棟大ホール。

事務局は、これまで3回行われている「国際紅白歌合戦」にプラスして、日本語のわからない人にも参加しやすく、楽しんでもらおうとグローバル ガールズ コレクションを企画した。
 出演者は、100名以上と盛況で、舞台袖も賑やかで華やかだった。宮城県名取市(あいおい歯科勤務)の歯科衛生士・斉藤真夢(23)さんは、紛争の無い世界平和を祈願して、「自由の女神」をイメージしたファッションで登場した。
 このコレクションに参加者した中から5名が、ロゼ ガールズ フェスティバル(Rose Girls Festival)の出演権を手にした。
【編集:安麻比呂 】

子どもの虐待防止、チェック表活用を 歯科医に配布へ

2014-12-01 12:11:25 | 歯科

@S[アットエス] by 静岡新聞 12月1日(月)9時31分配信

静岡県と県歯科医師会は30日、歯科医や医療福祉関係者を対象にした「子ども虐待防止に向けた講習会」を静岡市駿河区で開いた。今月、約1700人の会員歯科医に配布する「子ども虐待早期発見チェックリスト」の活用などを呼び掛けた。
 チェックリストは同会が県の委託を受け、本年度作成した。同会の竹内純子理事は2012、13年度に開いたシンポジウムなどを経て、虐待の判別や連絡方法を検討してきた経緯を説明した。
 チェックリストは、「保護者が発症状況をきちんと説明できない」など、22項目で不自然な点がないかを確認する。虐待が疑われる部位を記入する全身と口内のイラストや、各地の児童相談所に転送される全国共通ダイヤル<電0570(064)000>も掲載する。
 竹内理事は「子どもたちの異変のサインに気付く目を養い、通告する勇気が必要」と強調した。
 日本法歯科医学会で理事長を務める☆築民幸日本歯科大教授も講演し、歯の欠損や口内、顔、手足などの傷痕の写真を示し、虐待の見分け方を解説した。
 講習会には歯科医や保健師、養護教諭など約70人が参加した。

小保方氏の検証実験、11月末に終了へ

2014-12-01 12:06:28 | 医療と介護
 結果を近く公表
朝日新聞デジタル 11月28日(金)19時13分配信

理化学研究所は、小保方晴子氏によるSTAP細胞の検証実験を、期限としていた11月末で予定通り終了することを明らかにした。小保方氏は今後、相沢慎一特任顧問らの指導のもとで、得られたデータを取りまとめるという。結果は近く公表される。公表時期は明らかにしていない。

 小保方氏の実験は、理研が4月から1年間の計画で進めている検証実験とは別に、7月から監視カメラ付きの部屋で第三者の立ち会いのもとで始まった。撤回された論文の方法で作製できるかどうかを検証するのが目的。理研によると、11月末以降は小保方氏が実験することはないという。

 理研は4月からの検証実験について、8月に「論文記載の方法ではSTAP細胞はつくれなかった」と中間報告した。条件を変えて実験を続け、来年3月末までに一定の結論を出す。


真田と千代

2014-12-01 11:56:16 | 創作欄
2013年12 月 6日 (金曜日)
 4)
千代は母が亡くなった時、遺品を整理した。
その中に桐の箱に入った金杯を見つけた。
「戦没者叙勲記念」と書かれていた。
千代の父親はアジアの南方で戦死していて、それが唯一の生きた証であった。
母と父の結婚生活はわずか2年であった。
その金杯を貴金属店で鑑定したみたら、ほとんど価値のないものであった。
母が誇りにしていた「お国にから頂い金杯」はそのようなものであったのだ。
終戦後まだ若かった母は再婚できたが、独身を貫き一人娘の千代を育てた。
真田は千代からそのようなことを聞かされ、切ない気持ちになった。
「お国のために・・・」 満蒙開拓団満蒙開拓移民は、満州事変以降太平洋戦争までの期間に日本政府の国策によって推進された。
中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。
日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。
満蒙開拓青少年義勇軍は15歳~19歳の若者で編成された。
千代の母親の弟も15歳で満州に渡って命を落としている。
母親の長兄は教師の立場から教え子たちを送り込む立場にいた。
生き残って日本へ戻ってきた教え子は誰も居なかった。
長兄は罪悪感にとらわれ、戦後は教師を辞め農業に身を転じた。
真田と母親の長兄が偶然、同じ師範学校出身学校であった。
真田も戦後、教師に戻ることはなく闇市で無頼の徒に身を落とした。
教え子たちに言っていた「お国のために」が不遜であったのだ。
戦場では「天皇陛下万歳」と叫んで、「万歳突撃」で戦友のほとんどが無為な死を遂げた。 「戦争は、無謀だったのね」千代は真田から「万歳突撃」の実態を聞かされた。
「戦後、何度も戦場が夢に出てきて、うなされた。それを紛らわすため酒を無茶飲みし、賭博にものめり込んだ。ヒロポンもやった」
「ヒロポン?」
「ヒロポンは覚せい剤なんだ。一時的に疲労や倦怠感を除き、活力が増大に錯覚させられた。それで中毒になった奴もいた」
もはや戦後とは言えないが、戦争の傷が完全に癒えたわけではなかった。
1970年安保に多くの国民は距離を置いたが、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。
1970年安保は1960年安保に比べると反対運動はあまり盛り上がらず、世論も、安保延長は妥当という見方が強まっていたため、大規模な闘争にはならず収束した。
還暦を迎え真田の戦後も終わったのである。
「60歳になったのね。お祝いをしなけば」と千代は言った。
「そんなものよしてくれ」と真田は苦笑した。
60歳まで生きてこられたことが奇跡のようにも思われた。
千代はバーの経営を続けていた。
「私には水商売が合っているの」
「そうかい。好きなようにしればいい」真田は千代を束縛するつもりはない。
女子大生であった竹内雅美は都市銀行に就職した。
時どき同僚たちと飲みに来て、店でカラオケを歌っているそうだ。
真田は千代と一緒に暮らし初めてから、店へ顔を出していない。

http://www.youtube.com/watch?v=m0u0yzJ5y-g  

http://www.youtube.com/watch?v=8OjDIq5uyi8

2013年12 月 3日 (火曜日)
創作欄 真田と千代 3)
「恋や愛に理屈はない―と誰かが言っていたけど、私が真田さんに、男として惹かれたのは理屈じゃないの」千代が言う。
「一緒に暮らそうか?」真田はホテルのベッドから身を起こしながら手枕をしている千代を見詰めた。
千代は左手を出して、「起こして」というので、真田はその手を握り引き寄せた。
「そうね。考えておくわ」 千代は女子大生の竹内雅美と自由が丘の一軒屋に暮らしていたので即答を避けた。
真田は原宿の分譲マンションで暮らしていた。
これまでずっと一人で暮らしてきた真田であったが、家で待ってくれる人がいることを欲する気持ちになっていた。
「俺も家庭の温もりや安堵を求めていたのか?」自分の気持ちの変化にむしろ驚いた。
真田は何時も誰かを好きになっていたい、という質の男であったが、好きになった女と暮らそうとは思っていなかった。
「会いたければ会いにいけばいい」と割り切っていた。
また、去って行く女を追いかける気持ちもなかった。
もし、戦争がなかったら、妻子と平凡に暮らしていただろう。
真田は何時の間にか、東京大空襲で失った妻子の夢を見なくなっていた。 そ
れなのに、父母や兄弟たちの夢は見ていた。
夢の中の自分は旧制の中学生の姿のままである。
夢の中には初恋の人も出て来た。 相手はお寺の女の子で内気であった。
当時の女の子は着物姿であり、いかにも立ち居振る舞いがおっとりとしてた。
可憐で繊細であり大和撫子というイメージである。
初恋の子の姫木園子は出会うとうつむいて顔を赤らめていた。
真田が長い髪の女に好意を寄せるのは、初恋の女の子の思い出が原型になっていたと思われる。
里山の一本の田舎道にたたずみ、真田を帰りを待っていた少女の姿が夢に何度も出てきた。 「最近、真田さんの夢を見る」と千代は言っていたが、真田の夢は不思議と日本の戦前の原風景のなかで展開された。
2013年11 月30日 (土曜日)
創作欄 真田と公子 2)
看護婦の小西公子は、真田が考えているような女ではなかった。
上昇志向が強く、しかも優しさから不幸な人、悲惨な状態に置かれている人々に対して憐憫の情を注いだ。
公子はある日、ベトコンの若い女性兵士が囚われ、南ベトナムの兵士たちに川の中で責め苦にあっている写真を週刊誌で見て、大きな衝撃を受けた。
女性兵士は公子と同世代と思われた。
その1枚の写真が、女性兵士が置かれている立場を如実に物語っていた。
女性兵士は長い髪の毛を鷲づかみにされ、川の中にしばらく頭を埋められ窒息する瞬間に、頭を川面に引き戻された写真である。
片手を捻じ挙げられている。
別の兵士が憎しみの表情を浮かべ横から女性兵士のお尻を軍靴で蹴っていた。
女性兵士は泣き顔になっていた。
その写真を見てから数日後、先輩の看護婦に誘われて公子はベ平連に関わった。
真田は心の優しい公子と過ごすと気持ちが穏やかになった。
何時も傍にいてほしいと思ったが、公子には夜勤があった。
「公子、よく働くね。カラダは大丈夫かい?」
その日、公子は夜勤明けであったが、真田に会いに来てくれたが、だいぶ疲れているように見えた。
「今月は夜勤が10回なの」 と深いため息をついた。
「10回?! 3日に1回だね。それは酷いな」 真田は目を丸く見開いた。
公子は喫茶店の2階の窓から道ゆく人に視線を注いでいた。
「日本は、平和でいいわね」
「そうだね」真田はタバコを吸う。
「私にも、1本ください」
「公子はタバコのむのかい?」真田は怪訝な表情を浮かべた。
「看護婦はタバコのむ人多いの」
ピースを1本箱から出して真田は公子の口に近づけた。
そしてライラーで火を付けた。
「タバコは、どうすえばいいのですか?」
公子は指にタバコを挟みながら、火が着いた部分を確認するように見詰めた。
「たばこは、呼吸をするようにすえばいいんだ」
公子はタバコを口に含むようにして、煙を少し吸い込んだ。
真田はそんな公子を愛おしいと見詰めた。
まるで、子どもがイタズラをした時のような表情を浮かべ肩をすくめた。
「これが、タバコの味なのね。いいものね。先輩たちがタバコをのんでいるの、分かる気がする」
公子の笑顔は疲れを徐々に癒していくようにも映じた。
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<参考>1
ベトナム反戦運動ベトナムに平和を!市民連合
略称「ベ平連(ベへいれん)」)は、日本における代表的なベトナム戦争反戦平和運動団体。ベトナム戦争(1960~75年にわたる第2次インドシナ戦争)に対する反戦運動。
それまでの反戦運動に比し、ベトナム反戦運動は、質的にも量的にも、はるかに際だったものであった。
とくに戦争当事国アメリカの中で、自国の戦争政策に反対して行われた運動は、軍隊内部での抵抗をも含めて、
第1次世界大戦末期の帝政ロシアでのそれを除いては前例のない規模であった。
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<参考> 2
二・八闘争】(ニッパチトウソウ) 1965年、人事院は夜勤制限の必要性を認め「夜勤は月平均8日以内」「1人夜勤の禁止」などの「判定」を出した。 この判定をテコに1968年、新潟県立病院における看護婦の実力行使を背景とした「夜勤協定」獲得のたたかいが始まり、それを皮切りに「2人以上・月8日以内」夜勤制限を要求する実力闘争が全国的に広まった。 「2人以上・月8日以内」の数字をとって「二・八(ニッパチ)闘争」といいます。

真田と栄子

2014-12-01 11:53:16 | 創作欄
5)

「真田さん、ご家族に連絡したのですか?」
大田栄子は気遣った。
「独り身なんだ」
「ご家族はいなのですね」
「そうなんだ。心配する者がいない、ということは気楽だね」真田は笑顔になった。
「私と同じですね」 栄子も微笑んだ。
「栄子さんに家族はいなにの?」
「そうです。私に女子競輪選手になるように勧めた父は52歳の時に脳内出血で亡くなりました。植木職人をしていて、ギャンブル好きでした」
「52歳! 若すぎる死だね」
「倒れて、一度も目覚めることなく亡くなりました」栄子は涙ぐんだ。
真田は麻雀仲間が同じ52歳で心筋梗塞で呆気なく逝ったことを脳裏に浮かべた。
癲癇持ちで突然発作が起きて、「あ~」と叫びながら雀卓に倒れこんだり、床に倒れ込んだりしていた。
真田たちは何度か男の発作が収まるまで見守った。
その男は大手の電機メーカーの工場に勤務していたが、土曜日に雀荘に表れ徹夜麻雀に加わっていた。
その日も男は癲癇の発作をおこしたのだと真田たちは思った。
だが心筋梗塞であったのだ。

突然死んだ男は真田より2歳年下であった。
栄子は真田の姿に死んだ父を重ね見た。
父が生きていれば同世代と思われたのだ。
「栄子さんのおふくろさんは?」
問われて栄子の顔は複雑な表情となった。
「母は・・・母は私が小学校2年生の時に居なくなりました」
「居なくなった?」
「家へ帰って来なくなったの」
真田は栄子の悲しげな顔を見詰めながら余計なことを聞いたと悔やんだ。
2013年12 月12日 (木曜日)
創作欄 真田と栄子 4)
若い倉持由紀江ととりとめのない話をしていたが、真田は突然、メランコリーな気分となる。
尿意をもようしたのでトイレへ向かう。
そして戻ってくる間に異変が起こった。
右足がつるような感じがした。
トイレから戻ってくるまでおしぼりを手に由紀江が立ったまま真田を待っていた。
その笑顔が揺れているように見えた。
ボックス席に着いた真田は受け取ったはずのおしぼりをテーブルにおとした。
右手がまるで骨折したようにだらりと重く垂れ下がった。
そして手首に痺れが走った。
それは電流が走ったような軽い痛みであったが、脱力感で手首の辺りが重くなっていた。
酒を飲めば収まるだろうと盃を右手でつかんだが、それを床に落とした。
「真田さん、どうかしましたか」 由紀江は真田の顔を覗き込むよに見詰めた。
「大丈夫、疲れが溜まったたんだ。徹夜麻雀もしたしね」
頭を何度も振りながらボックス席に背中をもたげると、真田の意識が遠のいていく。
結局、真田は取手駅前の通りに面した取手協同病院に運ばれた。
「俺は、いったいどうしたんだ」 ベットに横たわっている自分の姿に真田は愕然とした。
「ここはどこだ?」真田は豆電球が灯る天井を見上げながら身を起こした。
古い部屋であり木製のガラス窓の外は闇に包まれていていた。
腕時計を見ると午前2時であった。
実はこの病院に戦前のことであるが、作家の坂口安吾が住んでいたのである。
真田は翌朝、看護婦から脳梗塞を起こしたことを聞かされた。
「真田さん、運がよかったですよ。比較的軽い脳梗塞だったのよ」
40代と思われる小太りの看護婦は、検温をしながら言う。
「脳梗塞だったんだ。気を失って何も覚えていない」
「この病院が、駅前でよかったのよ」
「病院は取手駅前にあるのか」
「そうね。駅まで1分ほどよ」
午後2時ころ、元女子競輪選手だった大田栄子が真田のことを心配して病室にやってきた。
「真田さん、昨夜は驚いたわ。倒れた時はどうなるかと思って・・・」
「俺は倒れたんだ」
「席から床に転げ落ちたのよ」
「そうだったのか」
栄子は何時ものように午前2時に店を閉めて、起きてからすぐに銭湯の朝湯に入り、掃除、洗濯をしてから真田の見舞いに来たのである。
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<参考>

茨城県厚生農業協同組合連合会総合病院取手協同病院 (旧・茨城県厚生農業協同組合連合会総合病院取手協同病院
1976年 9月 旧取手協同病院と旧龍ヶ崎協同病院とが合併 現在地に新築移転し取手協同病院となる

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坂口安吾(小説家)1938年から2年間、取手病院に住み込む。
1940年には取手の寒さに悲鳴をあげ、詩人の三好達治の誘いで小田原に移住する。
2013年12 月12日 (木曜日)
創作欄 真田と栄子 3)
「居酒屋では、日本酒を飲んでいましたね。やはり日本酒ですね」
栄子はおしぼりを出しながら尋ねた。
「取手の地酒があれば、それがいいな」
「それなら、田中酒造の君萬代ですね」
「ユキちゃん、君萬代をお願い」と大田栄子は立ち上がってカウンター内の倉持由紀江に声をかけた。
間もなく由紀江が日本酒を運んできた。
20代と思われた由紀江はまだ18歳であった。
男好きのする顔立ちであり愛想が良くて由紀江を目当てにバー「ジャン」に通ってくる客の多かった。
髪をアップにしているので大人びて見えた。
「ユキちゃんお願いね。私は向こうへ行くから」と栄子はカウンター内へ入った。
常連客はみんなかつての栄子の競輪ファンたちであった。
「お客さんは、どこからいらしたんですか?」
真田は濃紺のスーツを着ていて、地元取手の人間には見えなかったようだ。
「東京の自由が丘から」真田は日本酒を一口飲んで答えた。
口あたりはまろやかで思いのほか美味しい地酒であった。
「日本酒を美味しそうに飲むですね」
由紀江が微笑むと幼さが漂った。
「君はまだ、高校生みたいに見えるね」
「来月、19歳になるの」
「若くていいな」
「お名前、お聞きしていいですか?」
「真田、生まれは長野県の松本だけど、残念ながら真田幸村の子孫ではない」
由紀江には真田幸村が何者であるか知識がなかったので、話が通じなかった。
「真田さんは取手競輪に来たのですね」
「そう、往年のスター選手だった松本勝明が出ていたのでね」
由紀江は競輪の知識がないので、松本勝明の名前を出しても反応がない。
「ママが元女子競輪の選手だなんて、すごいことようね。お風呂に一緒に入って太腿を見てびっくりしたの」
由紀江は両手で輪を作りながら、「ママの太腿は、私のウエストくらいあるのよ」と無邪気な笑顔となる。
真田は栄子の太腿を見てみた衝動にかられた。
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<参考>
真田 信繁 / 真田 幸村 は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
真田昌幸の次男。

江戸時代初期の大坂の陣で活躍し、特に大坂夏の陣では、寡兵3500を持って徳川家康の本陣まで攻め込み家康を追いつめた。
戦国乱世最後の英雄であり、大坂の陣を契機に、この合戦に参陣・参戦した将兵による記録・証言が基となって、江戸幕府・諸大名家の各種史料にその戦将振りが記録された。
さらにはその史実を基に講談や小説などに翻案、創作されるなどして、ついには真田十勇士を従え宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として扱われ、国民の間に流布するに至った。
そのため幕府・諸大名のみならず広く一般庶民にも知られる存在となった人物である。
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http://www.kimibandai.sake-ten.jp/history.html
2013年12 月11日 (水曜日)
創作欄  真田と栄子 2)
競輪好き人間であれば、競輪女王であった田中和子元選手のことを誰もが知っているであろう。
田中選手は1955年に「全冠制覇」達成し女子競輪における唯一の選手であった。
特別競輪を実に15回制覇している。
驚愕ともいえる強さであり、落車を1回した以外は全て1着だったという年まであった。
神奈川の渋谷小夜子も強かったが、渋谷が引退すると田中和子は独擅場の強さを誇るようになった。
後続をぶっちぎって悠々と1着ゴールしたケースも数知れなかった。
「田中和子は強かったね」真田は田中和子の走る姿を思い浮かべた。
「本当に、田中さんは強かったです。とても私には勝てませんでしたね」
元女子競輪選手の大田栄子の目が輝いた。
まさか取手駅前の居酒屋で元女子競輪の選手と出会い、女子競輪時代の昔話ができるとは真田は思わなかったので気持ちも高揚してきた。
大田栄子は実はバー「ジャン」という店を経営していて、居酒屋で客引きをしていたのだ。
居酒屋の店主は競輪好きであり、選手時代の大田栄子のファンの一人であったので、店内での客引きを大目に見ていた。
競輪帰りのファンの常連客でその居酒屋は競輪開催日には賑わっていた。
「私の店に来ませんか?バーですが日本酒も置いています」
真田は喜んで誘いに応じた。
通称祇園横丁にバー「ジャン」はあった。
カウンター席とボックス席二つがあり、10数人で一杯になるほどの広さである。
店には、20代の女性と40代と思われる女性が居た。
カウンター席に6人の男性客が居て、その日の競輪の話などをしていた。
大田栄子はビックス席に真田を招き、接客した。

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<参考>
取手地区はかつて、陸前浜街道の宿場町として栄え、本陣をはじめ、旅館や茶屋が並ぶ陸上交通の要所であった。
また、江戸時代中期から明治時代にかけて諸藩の産物を運搬する利根川水運が盛んであった時代には、宿場町として河岸を中心に発展した。
昭和22年取手町に井野村を編入し、昭和30年、取手町、稲戸井村、寺原村、小文間村と高井村の一部が合併し、取手町が誕生した。
昭和40年を転機に日本住宅公団、民間の宅地開発、大手企業の進出などで人口が急増し、同45年10月、取手町は、県内17番目の市制を施行した。
1970年(昭和45年)取手町は取手市となった。
取手は、地域の中央部を南北に水戸街道(国道6号)が通る。
1970年代から1980年代にかけて東京都心のベッドタウンとして開発され人口が増加。
1971年(昭和46年)上野―取手間は複々線化により輸送力が上がっている。

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<参考>
女子競輪
最盛期の1952年には669名もの女性選手が在籍したが、体力の限界や結婚などで引退する者が相次ぎ、1959年には394人、1961年には294人にまでその数を減らしていった。
また、デビュー当時18 - 19歳だった彼女らも徐々に高齢化し、晩年には「ミセス・ケイリン」とまで揶揄される有様であった。
そして1964年8月、末期まで残った230人の女子選手全員の登録消除が決定し、10月31日付けで選手登録消除となり、全員が引退した。
なお、女子選手が男子選手と結婚し、その子供も競輪選手になったという例もある。
女子競輪が衰退していった理由としては、男子と比べれば選手の数が少ない上に、元々選手間での力の差があり過ぎてレースが堅く収まってしまうことが多く、 ファンから見てギャンブルとしての魅力が乏しかったこと。
女子の強豪選手は西日本に多かった一方で、比較的女子競輪の人気が高かったのは南関東など東日本であり、施行者側も人気強豪選手を呼ぶには多額の交通費を支払うことになるため、経費面がネックになっていったこと。
「家庭の都合」などを理由に競走不参加を続ける不真面目な選手も多く見られ、施行者側としても選手確保に頭を悩まされたこと。
元々男子と比べて賞金体系が低く設定されていたことや、女子競輪の開催自体が減少したため、収入に結びつかない選手が増えたことで競輪選手に対する魅力が薄れ、新たに競輪選手を目指そうとする女性が減少し新陳代謝が進まなかったこと。
圧倒的な強さを誇ったスター選手の田中和子らの引退と、それに代わる新しいスター選手を輩出できなかったこと。
一定の年代が訪れると、概ね結婚のため現役を退いた時代でもあった。
最初から選手の質の維持に問題があったことなど。
2013年12 月 9日 (月曜日)
創作欄 真田と栄子 1)
競輪ファンである真田は、競輪選手である松本勝明が日本プロスポーツ大賞に選ばれた時、溜飲を下げた思いがした。
マイナーなイメージが定着し、真田が通っていた後楽園競輪は、1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている)。
だが、皮肉なことに競輪選手である松本勝明の実績が評価されたのである。
真田は松本勝明選手が出るので久しぶりに取手競輪場へ行った。
すでに松本選手は44歳であり往年の走りを失っていたが、自転車競技の感動を改めて味合う。
真田は62歳になっていたが、気持ちは松本選手への強い思い入れがあり、同世代のつもりになって応援する。
結果は松本選手の負けであったが、松本選手の主導権を握る競争スタイルとそのプロセスに満足することができた。
競輪が終わって、真田は取手駅前の居酒屋で酒を飲んだのであるが、思いがけなくその店で真田は元女子競輪選手に出会う。
1949年から1964年まで「女子競輪」が開催されていたので、主だった選手を真田は覚えていたが、取手に元選手の大田栄子が在住していたのである。
大田栄子は35歳になっていた。
栄子は高校生時代はバレボールの選手であり、競輪好きであった父親の勧めで女子競輪選手になったのであるが、8年前に女子競輪はファンの指示も得られずは廃止されてしまった。
原因は男性選手の競輪競技に比べ、レース運びが単調であり、プロスポーツとしての面白みに欠けていたことは否めない。
つまりエキサイティングな競争競技ではないので、ファンたちに飽きられたのだ。
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<参考>
歴代大賞受賞者・団体・スポーツ種類
1968 1 西城正三 プロボクシング
1969 2 読売巨人軍 プロ野球
1970 3 大鵬幸喜 大相撲
1971 4 長嶋茂雄 プロ野球
1972 5 松本勝明 競輪

政治の劣化は、国民の劣化を意味している

2014-12-01 11:34:10 | 政治・社会・経済問題
今や空気、雰囲気、感性が社会を動かしている。
その時代に合っているからこそ、安倍晋三首相は高い支持率を得ている。
こういう時代には、政党もスローガンで選挙を戦うことになりがちだし、それに頼っているだけの議員が当選してしまう。
政治の劣化は、国民の劣化を意味している。
軍部が先に戦争を起こしたというが、当時は国民がそれを待望していた。
ファシズムとは社会が劣化して加速する現象だ。
この国はどうにもならないと傍観者的に考える社会的ニヒリズムが、劣化と歩調を合わせて進み、社会をさらに衰退させる。
日本は危うい道を歩初めていると感じている。
歴史に学び、日本の立場を理解したうえで、自分はどう生きるのか、幸福とは何かを自問自答し続けることが、日本の将来を選ぶことにつながる。
考えることを放棄したら、劣化は止められない。
それができるかどうかが今、問われている。ノンフィクション作家・保坂正康さん

昭和最強の囲碁棋士、呉清源さん死去…100歳

2014-12-01 08:17:56 | 社会問題・生活
読売新聞 12月1日(月)3時0分配信


 囲碁の革命といわれた「新布石」を編み出し、戦前から戦後にかけて読売新聞社主催の打ち込み十番碁で無敵を誇った昭和最強の棋士、呉清源(ご・せいげん)さんが、30日午前1時11分、老衰のため神奈川県小田原市内の病院で亡くなった。100歳だった。

 告別式は近親者で行い、後日、お別れの会を開く予定。喪主は次男、昌樹氏。

 1914年、中国福建省生まれ。碁の才能が認められ、14歳で来日。翌年、日本棋院からいきなり三段を許された。50年九段。79年、日本に帰化。

 33年、木谷実五段(当時)と共に、隅の締まりを重視した従来の布石に対し、盤面の中央を志向する「新布石」を発表。現代碁の骨格をつくった。

 39年に読売新聞社主催で打ち込み十番碁が始まり、日本のトップ棋士延べ10人を相手に戦った。打ち込みとは、1人と10局を打ち、どちらかが四番勝ち越した時点で、次戦以降、負けた方が格下扱いされる制度。呉さんは56年の終了時までに全員を打ち込み、囲碁界の第一人者として君臨した。

あす衆院選公示 主要な争点は

2014-12-01 07:21:51 | 政治・社会・経済問題
2014年12月1日(月) 6時22分掲載


経済・財政に関する各党の主張のポイント(毎日新聞)
アベノミクス、集団的自衛権、原発…争点多様、競う各党
 衆院選は2日に公示される。与野党の公約が出そろい、選挙の主要争点が明らかになってきた。自民、公明両党は金融緩和や成長戦略で景気回復につなげる経済政策の継続を強調。野党には成長重視の点で一致する党もある半面、民主党などは格差拡大を招いたとして中・低所得層への対策強化を打ち出す。集団的自衛権の行使容認など安全保障や原発政策でも、与党に対する野党各党の距離感は異なっている。(朝日新聞デジタル)



病院新聞と医療人

2014-12-01 02:53:10 | 創作欄
2012年12 月14日 (金曜日)

徹は約束の時間なので、癌病院研究所の所長室のドアをノックした。
「どうぞ、お入りください」丁寧な言葉遣いであった。
部屋に入ると先客が居た。
白衣姿の吉岡源之助所長はソファーの一方の席を示し、「座ってしばらくお待ちください」と言う、淀みなく語り出した。
「頭脳明晰な人だ」と徹は感嘆した。
病理学者である吉岡所長は癌の「個性と多様性」を説いていた。
徹は質問者に瞠目した。
その人は、かなりの知識を有していた。
後で分かったのであるが、相手は読売新聞の記者であった。
取材が終わり記者は「先生、ありがとうございました。また、お話を聞かせてください」と頭を下げてから、徹にも目礼して部屋を出て行った。
「彼は読売新聞の科学部の宮坂記者でよく勉強しています」と吉岡所長は微笑んだ。
徹は「制癌剤の動向について、聞きたい」と電話で告げていた。
取材を終わって徹は唐突に聞いてみた。
「私は記者として、半人前です。どのような姿勢で取材すべきですか?助言をしていただきたいのですが・・・」
「あなたは、医学部出身ですか?」吉岡所長はパイプを白衣のポケットから取り出した。
「いいえ、文学部です」
「そうですか。それなら文学をやりなさい」
徹は癌病院研究所の吉岡所長の言葉が心外であった。
病院新聞に関わってまだ1年弱で24歳であった。
これか知識を深めて読者に応える記事を書きたいと思っていたのだ。
この人には他の医学者とは違った哲学・理念があると直感した。
日本赤十字病院の神山悟病院長から「是非、吉岡所長に会いなさい。病院新聞の記者なら、吉岡さんから薫陶を受けなさい」と言われていた。
何故か、吉岡所長の存在が徹が崇拝する作家の森鴎外と重なったのだ。
『ここに現代の鴎外』が居るそんな想いがしてきた。
徹は現代の鴎外に私淑する思いで、吉岡所長と懇意になりたいと考えていた。
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週刊である病院新聞は時々休刊になっていた。
「オイ、堀口君、来たまえ!広告は、これだけか?!」と金縁メガネの社長が椅子に反り返り高圧的な態度で聞く。
「ハイ。頑張ったのですが・・・」と掘口勝夫編集長は社長の机の前で恐縮仕切って答えた。
「これでは赤字だよ! 新聞は発行できない。休刊にしたまえ。オイ、木村君、あんたは真田君を確りと指導・教育をしておるのか?!」今度は木村定雄を呼びつけて説教をする。
「真田君はどのような動きをしておるのか?報告したまえ」
「真田君は病院団体を周り、取材をしています」
「それから?」
「広告の営業はまだ無理かと思い、新製品の記事を書かしています」
「新製品の記事を書いたら、広告にせにゃあならんだろうが。どうなんだ」
「そのように努めます」
「成果を出さないで、どうするんだ?!」
「ハイ、何とかします」
真田徹は衝立の陰で恐縮して、社長と木村定雄のやりとりを聞いていた。



経済状況を底上げする支援策が期待される

2014-12-01 01:43:04 | 編集スクランブル
★互いを「知らない」ことが偏見や不信感の温床となる。
日本人も中国人も元来は“人のつながり”を大切にする民族とされる。
★「オレオレ詐欺」などの「特殊詐欺」の被害が急増している。
何らかの対応はできないのだろうか?
被害者は圧倒的に70歳以上の女性。
★家計を支えていくことで経済全体の活性化を進めていく視点が大切。
★一昨年12月の衆議院選挙では、内政、外交両面で混乱を生んだ民主党政権に対して選挙民による厳しい審判が下された。
だが、約43%の得票数で79%もの議員数を獲得した自民党と利する選挙でもあった。
年々国民は白けて、投票率は下がる一方だ。
★野党の存在感は薄れるばかりだ。
ますます喜ぶのは自民党ばかり。
「俺は自民党員だけど、白票を投じた」と知人の一人が冷ややかに言っていた。
★現下の景気・経済状況について、国内総生産(GDP)の約6割を占める個人消費の落ち込み。
円安による燃料代や原材料価格の高騰が中小企業・小規模事業者の経営環境を圧迫している。
★経済状況を底上げする支援策が期待される。
★民主党政権は、何が問題であったのか?
マニフェストになかった消費税を選挙で世に問うことなく決めたことで、国民の信を失った。
国民との約束という最も“民主的なルール”を踏み外したと批判され、政権を失った。
★今回の選挙では、具体的な経済政策を提示できず離合集散を繰り返す野党に経済運営を委ねられるかが問われる。
★「企業が雇用・賃金を増やす好循環の動きは続いている」(日本経済新聞)
だが、こうした好循環を中小企業や地域経済に波及させるまでの間、消費税を10%に引き上げることは延期されるべきだ。
国民の7割は来年10月からの消費税引き上げに反対している。
★当然であるが、食品など生活に欠かせないものは軽減税率の導入で低く抑え、増税の“痛み”を和らげるべきだ。