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佐原 あやめ祭り開催期間:5月下旬~6月下旬

2015-06-17 21:43:38 | 雑記・断片・映像
あやめ祭り開催期間:5月下旬~6月下旬
開園時間:8時~18時30分

あやめ祭り期間中には、東洋一の品種数を誇る園内で栽培された 400品種 150万本の花菖蒲が一斉に咲き乱れ、紫・白・ピンク・青など色とりどりの花をつけます。また、園内の水路をサッパ舟と呼ばれる小舟に乗って巡ることができます。水上からの花菖蒲もまた格別の美しさです。
佐原の町並み






水運を利用して「江戸優り(えどまさり)」といわれるほど栄えていた佐原。人々は、江戸の文化を取り入れ、更にそれを独自の文化に昇華していました。その面影を残す町並みが小野川沿岸や香取街道に今でも残っています。このような歴史景観をよく残し、またそれを活かしたまちづくりに取り組んでいることが認められ、平成8年12月、関東で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建)に選定されました。佐原の「重伝建」は昔からの家業を引き継いで今も営業を続けている商家が多く、「生きている町並み」として評価されています。
重要伝統的建造物群保存地区重要伝統的建造物群保存地区伊能忠敬旧宅(寛政5年(1793)建築・国指定史跡)のほか県指定文化財も8件(13棟)が小野川沿いや香取街道沿いに軒をつらねています。
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国指定史跡

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■伊能忠敬旧宅

伊能忠敬が佐原で30年余りを過ごした母屋と店舗がそのまま残されている。

母屋は寛政5年(1793)忠敬自身が設計したものといわれている。

忠敬翁は17歳で伊能家の養子となり、醸酒業ならびに米穀薪炭販売に精励すると共に、村政の中心として活躍した。50歳で隠居をして、天文学や地理学を学び、大日本沿海輿地図を完成させたことで広く知られている。佐原が生んだ世界に誇る科学的地図を作成した偉人である。

<建築年代>
店舗・正門:不明
書院:寛政5年(1793年)
土蔵:文政4年(1821年)以前

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千葉県有形文化財


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■三菱館

旧三菱銀行佐原支店(香取市所有)

県内でも有数の洋風建築として知られ、イギリスより輸入したレンガを使った2階建ての洋館。内部は吹き抜けになっており、2階周囲に回廊がある。

屋根は木骨銅板拭きで、正面建物隅にドームを設けている。

川崎銀行佐原支店(開業明治13年)として、清水建設の前身である清水組により建設され、本店(日本橋)と同時開業。現在は市に寄贈されギャラリーとしても活用されている。

<建築年代>
大正3年(1914年)

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■福新呉服店

文化元年(1804年)の創業、佐原で八代目の老舗。

前面と側面は土蔵造りの堂々とした間口で当時の隆盛が偲ばれる。

店舗奥には、井戸のある中庭があり、文化財の土蔵やトイレなどを一般公開している。佐原の商家の典型的なつくりで、映画、ドラマのロケ地として使われる。

生活空間であるたたずまいそのものが生きている博物館として「佐原まちぐるみ博物館」の一号館となっている。昔の生活道具や衣装なども置かれ、自由に見学できる。

<建築年代>
店舗:明治28年(1895年)
土蔵:明治元年(1868年)

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■中村屋商店

明治7年頃より代々荒物・雑貨・畳を商ってきた。正面の交差した道路に沿った変形の敷地であるため、母屋の角の柱を五角形断面にしている。内部の架構に工夫をこらし、間取りも変形平面の部屋を設ける等、全体として一階に店舗と台所を、二階には座敷を設け、よくまとまった平面構成となっている。

「まちぐるみ博物館」の一つとして、一枚の紙から作られた「連鶴」を展示している。

<建築年代>
店舗:安政2年(1855年)
土蔵:明治25年(1892年)以降

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■正文堂

大黒柱は欅材、2階の窓は土塗の開き戸、さらに横引きの土戸に板戸と、三重に防火設備を伏した土蔵造りとなっている。登り龍、下り龍を配した看板が特に目を引く。

「正文堂」の文字は巌谷修の書(明治29年)である。

重厚などっしりとした立派な建物である。

<建築年代>
明治13年(1880年)

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■正上

江戸時代より醤油の醸造をしていた老舗。創業は寛政12年(1800年)5月。現在は10代目。戦後は佃煮の製造販売が主となった。土蔵は明治初期の建築。江戸時代の店構が残る数少ない建築物であり、当時の戸締りの方法である「よろい戸」方式が残っている。店の奥には千本格子の障子戸が残り趣がある。

「まちぐるみ博物館」の一つとして、映画・ドラマの映像写真やデータが掲載されている。

<建築年代>
店舗:天保3年(1832年)
土蔵:明治元年(1868年)

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■小堀屋本店

創業は天明2年(1782年)切妻平入瓦葺きの建物で、奥の土蔵には蕎麦作りの秘伝書や道具類が残っていた。

建物は木造2階建で、店舗、調理場、土蔵が一体となった明治時代の形式をそのまま残している。

表のガラス戸は明治35年に旧佐原市で初めて使われたものであり、貴重な文化財である。

<建築年代>
店舗:明治25年(1892)
土蔵:明治23年

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■中村屋乾物店

店舗は、明治25年(1892年)に佐原を襲った大火直後に建築されたもので、当時最高の技術を駆使した防火構造で、壁の厚さが1尺5寸(約45cm)にもなる建物。間口は3間で、1階は畳敷と通り抜け土間のある店構え、2階は屋根裏を表した倉庫になっている。1階の正面は揚戸と土間の建て込み、2階は観音開きの土戸としている。小屋組み6段、出し桁化粧造りとなっている。

文庫蔵(総檜)は、店舗から1間程離れて建つ3階建ての建物で、1階と2階は明治18年(1885年)の建築、3階は店舗とともに明治25年(1892年)の大火の前の形で再建されたもので、2室(8畳間と6畳間)続きの座敷となっている。

限られた敷地の中に蔵造りの建物が建つため、居室に文庫蔵の3階をあてるなど居住空間の配慮に工夫が見られる。建築当初の様子がそのまま残っており、堂々としたたたずまいである。

<建築年代>
明治25年(1892年)

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■旧油惣商店

創業は寛政6年(1794年)で、奈良漬けづくりを始めた。明治から昭和戦前までアメリカへ輸出。

旧店舗は、木造・寄棟妻入二階建・瓦葺で、間口三間半、奥行五間の大規模な総二階建である。

土蔵は切妻平入二階建・瓦葺で屋根裏を含めると三階建、棟札に「寛政十戌午歳九月 立之大工 佐吉立之」とあり、佐原最古の土蔵の可能性がある。大正5~6年に増築。

酒造業銘柄『菊華』。佐原で初めてキリンビールを販売する(大正年間)。

江戸、明治、大正、昭和30年までの建物、家財がそのまま維持されている。

<建築年代>
店舗:明治33年(1900年)
土蔵:寛政10年(1798年)










































佐原へ来て、突然、20代のころが思い出された

2015-06-17 21:24:35 | 雑記・断片・映像
知人が千葉の佐原へ行ってきた。
その話を聞いて、急に佐原へ行くことにした。
佐原は27歳か28歳の時の日本薬業新聞社の1泊の社員旅行へ行って以来だ。
当時、労働組合活動で、会社側と我々社員は対立していて、旅行ではとんだハプニングもあった。
営業の矢頭さん(仮名)が酔いにまかせて、支社長の部屋へ殴り込みに行ったのだ。
部屋の電灯は消され、乱入した矢頭さんと同じ営業の近野さん(仮名)が、支社長に対して寝ていた蒲団を帯で縛って蒲団蒸し状態にしたのだ。
支社長のお父さんで顧問の先代支社長が駆け付け、社員たちの狼藉行為を制圧した。
「そもそも、お前が悪いんだ。社員たちを責められるのか!」と息子を一喝!
蒲団蒸しから開放された支社長は親父さんの頭が上がらないので、うなだれていた。
佐原へ来て、突然、20代のころが思い出された。














結果としての核兵器の暴発が怖い!

2015-06-17 21:03:34 | 政治・社会・経済問題
核兵器の脅威は遠い存在のようだ。
米ニューヨークの国連本部で4月末から約1か月開かれた各拡散防止条約(NPT)再検討会議では70人を超える広島・長崎の被爆者が駆けつけた。
会場内外で核兵器がいかに非道なものであるかを訴えたが、アメリカの一般市民やメディアの無関心さや核保有国の論理に振り回されて会議は決裂、被爆者たちの声はかき消されたそうだ。
なぜなのか?
2009年、米国のオバマ大統領がプラハ演説で「核なき世界」追求を表明した。
「核兵器は決して使われてはならないほど恐ろしい。だから、対立する国同士は核兵器を手放さないだろう」
だが、テロ集団が核兵器を手にして使用することは誰にも否定できないし、止められないだろう。
イスラム国やテロ集団、あるいは北朝鮮だって、自暴自棄になるかもしれない。
自分たちも滅びるが、先進国を道連れに滅びることを意図するかもしれない。
結果としての核兵器の暴発が怖いのだ。