読書の秋、と言いながら、このところじっくりと本を読んでいません。
少し反省?して、本棚を眺めていたら、『「空気」の研究』が目に止まりました。
何年か前に読んだ文庫本で、他に『「水=通常性」の研究』など2作が収録されています。
うち、80ページほどの「空気」だけを再読。
空気とか水とかについて書かれた科学書ではありません。
YKすなわち空気を読む、読まない、あるいは空気に逆らえない、などと言う時の「空気」です。
日本の社会は、空気の支配によって動いてゆく。
それはわたしも若いときから漠然とながら感じていました。
なぜ、日本は空気によって動いていく社会になっているのか?
それは、対象を相対化する文化が無いから。
だから、どんなことも絶対化され、それが空気となって多数の人間が呪縛される。
大雑把に要約すると、そういうことになります。
例えば、経済の成長と公害とは相対的に把握するべきもの。
ところが、ある時は「成長」が絶対になり、次は「公害」が絶対になる。
昨日の軍国主義が今日の民主主義・・・手のひらを返すように「絶対」が変わる。
絶対とは神だけのものである・・・それが一神教の基本原理。
人間は相対的な言葉や概念でしかものごとを捉えられず、その言葉とて絶対的なものではない。
かたや、言葉にも霊が宿るとする日本・・・言葉に支配されてもしかたがない?
「政治とカネ」もマスコミがこぞって書き立ててれば、「空気」になる。
「マスコミとカネ」「病院とカネ」「大学とカネ」・・・カネは何も政治とだけつるんでいるわけではない。
が、一事が万事、一色に染まった空気に社会が覆われ、流れてゆく。
だからこそ、空気を作り出そうとする空気には敏感にならないといけません。
読むほどに、日本の長い歴史や伝統も「空気」に覆われていたと気付かされます。
同時に、空気の支配に抵抗する伝統も無かったわけではない、と著者は書いています。
例えば、それは「水を差す」ということ。
なるほど、アベノミクスなんてインチキ政策には、浴びせるくらいの水が必要。
というわけで、空気の研究は水への研究へと続くのです。