久しぶりに電車に乗りました。
読みかけの本を持ってゆくつもりが忘れて、駅前の書店で文庫本を1冊購入。
本を読んでいると、時間があっという間に過ぎます。
近ごろはタブレット端末では、あまり本を読まなくなりました。
紙の本を読むのと、液晶画面で文字を追いかけるのとでは、どうしても違いが出てきます。
読書体験というように、読書には視覚だけではない体感で味わう面があるからでしょう。
指でページをめくる、指を栞にして前のほうのページを読み返すなどの皮膚感覚。
新しい本を開くときのほのかなインクの匂い。背景に遠のく車輪の音。
あるいは書かれていることに反応し、本から抜け出て記憶を辿ったりすること。
思ったより電子書籍が普及しないのは、そうしたナマの感覚が乏しいことにもありそうです。
いずれ五感を刺激するようなデジタルアーツが登場するかもしれません。
でも、いくら技術が進歩したところで、やはりナマの感覚で捉えたものとは同じにはならない。
「本」という言葉を聴いて、抽象的な本を思い浮かべる人は、たぶん、いないでしょう。
若い時に読んだ誰それの本で、といったように現実の体験に根差した本を想うはずです。
それは言葉が抽象的なものとして記憶されているわけではないことを意味します。
というようなことを考えていたら、本の内容をすっかり忘れてしまいました。
忘れついでに、仮に電子書籍に違和感を感じなくなったとしたら、と考えてみましょう。
たぶん、そのときは人間の記憶も変質するのでしょうね。
体感覚に依存するところがほとんどなくなって、脳感覚?だけで終始するようになる。
そうなると、たとえば、「痛み」は身体感覚ではなく、単なる抽象的な言葉でしか感じられない。
近ごろ、やたら人を刺したり殺したりする事件が目につきます。
そのあたり、デジタル社会と相関性があるのか、ないのか、だれか研究してほしいものです。
研究と言えば、ノーベル賞の大村さん。
人のため、世の中のためになるようなことをやれ、と祖母に言われながら育てられたそうです。
わたしにもそういう祖母がいてくれたら、今頃はノーベル賞?