集合住宅の玄関先で、顔見知りの住人女性が二人で立ち話していました。
30分ほどして帰ってきたら、まだ、立ち話が続いている。
長~~~い、と思わず言ったら、それがきっかけで話をやめたようです。
別に邪魔するつもりはなかったのですが、つい本音が出てしまいました。
それにしても話がよく尽きないもの。一日中でも立ち話をしていそうです。
このことから、しばらく前、数年ぶりに会って話をした知人のことを思い出しました。
その彼、こんなによく喋ったかな、と思うほど饒舌でした。
もっと寡黙な男のはずだったけど、まるで人が変わったように、喋りまくります。
わたしの勘違いで、誰か他の人の印象と取り違えているのかな・・・・。
それでも、話の中身がこちらにも興味のあることならいいのですが、まったく一方的。
もしかして、家では、喋るな、と云われていて、その鬱憤を外で晴らしているのかも。
とにかく会話というモノは、双方向でないと成り立ちません。
半分以上は聞き流していましたが、相手は喋るだけで満足している様子です。
わたしより、たしか4,5歳くらい年長です。
言葉の垂れ流し・・・・そんな認知症の症候というのもあるのでしょうか。
沈黙は金、とは思いませんが、饒舌は金、でもありません。
要は、沈黙と饒舌のバランスの塩梅が肝心です。そのためには間というものが必要。
音楽でもそう、休止符は何の為にあるのか、です。
知人の話を半分上の空で聴きながら、こんな仮説を考えました。
その人の話すことは非常に具体的で日常的な話ばかりです。
一般化、抽象化する言葉というものがほとんど出てきません。
具象から抽象へ、個別から普遍へ・・・・その間には思考と云う過程が入ります。
その思考が欠落すると、ただただ言葉の垂れ流しに終始するのではないか。
という仮説なのですが、認知症も認識力や思考力の衰えでしょうから、的外れでもない?