内容に興味があったのはもちろんですが、WWF会員だと割引があるとのことだったので、喜んで観に行きました。「ココシリ」。
何というか・・寡黙な映画だった。
たくさんの血と涙、叫ぶ言葉たちを胸の奥におしとどめて、空を眺め透かすような澄んだ目をして、佇む男たち。
この寡黙さが「チベット」なんだと思った。
まるで山々のようなこの深い沈黙が語る言葉、脚本の行間にからあふれ出す聞こえない叫びを聞くことが、我われ観客の役割であり、それを観客が補ってこそ、この映画は完成するんだ・・と。
作品の、半ば過ぎからずっと「中国内部の問題を告発しているも同然のこういう作品、よく作れたなぁ~」と感心して観ていたけれど、作品の最後の最後に流れたテロップで、全て納得がいった。
やはりこの作品は、中共のプロパガンダ映画なのだ。
プロパガンダの外枠の文脈は、こうだ。
『密猟者も、それを力技で取り締まる山岳パトロールも、「チベット人」・・つまり、中央の秩序の届かないところで、こんな「遅れた」「なげかわしい野蛮な」状況が残存していた。そこへ中央の秩序の象徴であり未来世代の代表でもある記者が訪れ、過去世代のあやまちや、断ち切れないしがらみを告発し、介入し、現在は事態は改善されたのである・・』
それでメデタシメデタシ、と表面的には見える。そういう体裁をとっているからこそ、この作品は作れたのだろう。
でも、もう少し注意深く考えてみれば、そう簡単に片付けられないことはすぐに察しがつく。特に、密猟者と山岳パトロールたちの人間模様、その「近しさ」に注視し、なぜそのような人物配置に至ったのかを、時代背景を含めて想像してみれば。
それに気づくと、「どういう体裁をとろうとも・・たとえ中共のプロパガンダ映画と思われても構わない、とにかくチベットを描かなければ」という情熱のようなものがひしひしと伝わってきて、そのことに先ず胸が熱くなった。
その思いの熱さは、チベットカモシカに象徴させて山岳パトロールの隊長の口から語られている。
隊員を医者に診せる金を補うため、そもそもそのために命を賭していたカモシカの毛皮を売らなければならない矛盾。その想像にあまりある悔しさをのみこんで、彼はつぶやく。
「ラサへの巡礼たちを見たことがあるか。彼らは、体は汚れているけれど、魂は清らかだ」
手は汚れていても、目的はけがれない。
それを容認してよいのか否かを迫られて、観客もまた言葉を失う。
特に自然保護や環境問題に携わっていると、こういう感覚は常につきまとう。何が正解か、容易には結論を出せない。いずれにしろチベットカモシカの生息数は回復しているのだ、結果オーライならそれはそれでいいじゃん、認めなければ・・と思いながらも、何か苦い塊りをむりやり飲み込むような気分になる。
この映画を推奨してる(のかな?)WWFの意図は、どのあたりにあるんだろう?
パンダに象徴されるように、中国では野生動物も外交と外貨獲得の道具に過ぎない。国の威信の前には世界的な希少種が絶滅しても何とも思わない国だ(三峡ダムで、カワイルカは多分ダメだろう)そういう国の、こういう映画。何ともフクザツな気分になる。
でも自然保護の主体はあくまで各々の国だから、外国人である我々は、かの国がその気になってくれるのを祈るしかない。効果があると信じて、間接的な働きかけをするしかない。いくら地球はつながってるからって内政干渉をするわけにはいかないのだ。「こういう映画(=こういう自然保護姿勢)を支持するよ」とアピールするしか、WWFとしては手立てが無いのだろう。組織の立場的にも。
映画製作者と、山岳パトロール隊長と、同じ種類の苦さを自然保護主義者もまた、共有している。
そうじゃなくて、単純に「中国えらいじゃん、ちゃんと保護するよーになったのねヨシヨシ」と喜んで推奨したのなら、がっかりだぞ。
そうかもしれないという危惧を抱きつつ・・よろしければどうぞ1クリック☆お願いします。
何というか・・寡黙な映画だった。
たくさんの血と涙、叫ぶ言葉たちを胸の奥におしとどめて、空を眺め透かすような澄んだ目をして、佇む男たち。
この寡黙さが「チベット」なんだと思った。
まるで山々のようなこの深い沈黙が語る言葉、脚本の行間にからあふれ出す聞こえない叫びを聞くことが、我われ観客の役割であり、それを観客が補ってこそ、この映画は完成するんだ・・と。
作品の、半ば過ぎからずっと「中国内部の問題を告発しているも同然のこういう作品、よく作れたなぁ~」と感心して観ていたけれど、作品の最後の最後に流れたテロップで、全て納得がいった。
やはりこの作品は、中共のプロパガンダ映画なのだ。
プロパガンダの外枠の文脈は、こうだ。
『密猟者も、それを力技で取り締まる山岳パトロールも、「チベット人」・・つまり、中央の秩序の届かないところで、こんな「遅れた」「なげかわしい野蛮な」状況が残存していた。そこへ中央の秩序の象徴であり未来世代の代表でもある記者が訪れ、過去世代のあやまちや、断ち切れないしがらみを告発し、介入し、現在は事態は改善されたのである・・』
それでメデタシメデタシ、と表面的には見える。そういう体裁をとっているからこそ、この作品は作れたのだろう。
でも、もう少し注意深く考えてみれば、そう簡単に片付けられないことはすぐに察しがつく。特に、密猟者と山岳パトロールたちの人間模様、その「近しさ」に注視し、なぜそのような人物配置に至ったのかを、時代背景を含めて想像してみれば。
それに気づくと、「どういう体裁をとろうとも・・たとえ中共のプロパガンダ映画と思われても構わない、とにかくチベットを描かなければ」という情熱のようなものがひしひしと伝わってきて、そのことに先ず胸が熱くなった。
その思いの熱さは、チベットカモシカに象徴させて山岳パトロールの隊長の口から語られている。
隊員を医者に診せる金を補うため、そもそもそのために命を賭していたカモシカの毛皮を売らなければならない矛盾。その想像にあまりある悔しさをのみこんで、彼はつぶやく。
「ラサへの巡礼たちを見たことがあるか。彼らは、体は汚れているけれど、魂は清らかだ」
手は汚れていても、目的はけがれない。
それを容認してよいのか否かを迫られて、観客もまた言葉を失う。
特に自然保護や環境問題に携わっていると、こういう感覚は常につきまとう。何が正解か、容易には結論を出せない。いずれにしろチベットカモシカの生息数は回復しているのだ、結果オーライならそれはそれでいいじゃん、認めなければ・・と思いながらも、何か苦い塊りをむりやり飲み込むような気分になる。
この映画を推奨してる(のかな?)WWFの意図は、どのあたりにあるんだろう?
パンダに象徴されるように、中国では野生動物も外交と外貨獲得の道具に過ぎない。国の威信の前には世界的な希少種が絶滅しても何とも思わない国だ(三峡ダムで、カワイルカは多分ダメだろう)そういう国の、こういう映画。何ともフクザツな気分になる。
でも自然保護の主体はあくまで各々の国だから、外国人である我々は、かの国がその気になってくれるのを祈るしかない。効果があると信じて、間接的な働きかけをするしかない。いくら地球はつながってるからって内政干渉をするわけにはいかないのだ。「こういう映画(=こういう自然保護姿勢)を支持するよ」とアピールするしか、WWFとしては手立てが無いのだろう。組織の立場的にも。
映画製作者と、山岳パトロール隊長と、同じ種類の苦さを自然保護主義者もまた、共有している。
そうじゃなくて、単純に「中国えらいじゃん、ちゃんと保護するよーになったのねヨシヨシ」と喜んで推奨したのなら、がっかりだぞ。
そうかもしれないという危惧を抱きつつ・・よろしければどうぞ1クリック☆お願いします。
文字化けしているようですが、そのまま掲載致しました。
こちらかもお返しさせていただきます。
仰るとおり、
確かに中国のプロパガンダとしての意味合いもある映画でしたが、
それを大きく上廻る映画的魅力が満載の傑作だったと思います。
ラストのテロップは単に検閲に対する目配せじゃないでしょうか。
映画は明らかに国際市場狙いなので、
それは致し方のないことだったと思います。
コメント&TBありがとうございます。
>>ラストのテロップは単に検閲に対する目配せじゃないでしょうか。
仰るとおりだと思います。世界の目にまずは触れないと、表現する意味が無くなってしまいますものね。
そのことで作品の価値が削がれたとは思っていませんが、中国政府の偽善ぶりが個人的には鼻についちゃったなぁ・・って感想だったわけです。