風になりたい

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最後の特攻 ―― 責任の取り方 ――(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第120話)

2012年08月15日 08時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 一九四五年八月十五日、最後の特攻機が飛び立った。玉音放送が流れ、全国民に日本の降伏が知らされた後だった。
 特攻に出撃したのは、大分基地で第五航空艦隊司令官として指揮を執っていた宇垣纒《うがきまとめ》中将。艦上爆撃機・彗星の後部座席に乗り組み、彗星隊十機を伴っての出撃だった。特攻隊は沖縄方面へ向かった。宇垣提督の坐乗した特攻機は沖縄の米軍キャンプ付近に墜落したとする説が有力だ。
 宇垣提督は日米開戦時の連合艦隊の参謀長を務め、真珠湾奇襲作戦やミッドウェー作戦の実現に尽力した。その後、第一戦隊司令官としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加し、第五航空艦隊司令官になる。第五航空艦隊は沖縄・九州方面に来襲した米艦隊に対して特攻作戦を実行した。
 彼の特攻に対してはいくつかの疑義が呈されている。
 日本が降伏を受諾した後――つまり、戦争が終わった後なのだから、敢えて攻撃する必要はない。もし日本に戦争継続の意志ありと看做《みな》されれば、厄介なことになる。しかも、自分独りで行なうならまだしも、部下を道連れにしている。そこまでする必要があったのかどうか。もちろん、昂《たかぶ》る感情が現場に充満していたことは間違いないだろう。供《とも》をさせてほしいと部下たちが懇願したかもしれない。とはいえ、それを宥《なだ》めるのも指揮官の大切な仕事だ。もし部下たちが特攻へ行きたいと言い出したのであれば、きちんと説得したうえで諦めさせ、生き残って日本の再建に努力するように諭すべきだった。
 とはいうものの、揚げ足取りばかりしてもしかたない。上述の疑義はともかく、宇垣提督が責任を取ったということは間違いない。彼の採った方法は疑問点があったかもしれないが、「私も後から行く」と特攻隊員にかけた言葉に対して、自らの命を捨てて責任を取ったのだ。なかなかできることではない。地位のある人間であっても、自分の責任を自分のものとして引き受ける者はさほど多くない。
 特攻作戦については、フィリピン攻防戦の際、当時第一航空艦隊司令だった大西瀧治郎提督が始めたという通説が流布されているが、この説は大いに疑問だ。特攻作戦は第一航空艦隊が独自に始めたものではなく、明らかに軍令部(帝国海軍の中央司令部)が作戦立案したうえで、組織的に行なった作戦だ。大西提督は現場の将軍であり、中央において指揮する立場にはない。当時の大西提督には、組織的に特攻を行なうための部隊編成や機材調達の権限がなかったので、彼が独自に準備できる作戦ではない。特攻作戦の首謀者は軍令部にいなければおかしい。
 大西提督は終戦の翌日の八月十六日、特攻隊員への謝罪の言葉を記した遺書を残して割腹自殺している。おそらく、死人に口なしとばかりに、特攻作戦の責任を大西提督へなすりつけたものと思われる。
 一部の提督は武人として己の責任を取った。しかし、残念ながら、特攻作戦の真相は戦後六十六年経った今日でもまだ解明されていない。
 宇垣提督の特攻を最後として、このような悲劇が二度と繰り返されないことを祈るばかりだ。
 




(2011年8月15日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第120話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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