風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

司令官の差で負けたミッドウェー海戦(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第107話)

2012年05月29日 08時10分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 子供の頃、家の風呂場を改装してくれた大工のおじさんが空母飛龍の元乗組員だった。艦橋の真下にある伝令所で任務についていた彼は、昭和十七年六月五日、ミッドウェー海戦に参加した。ミッドウェー海戦は、主力空母四隻を擁した日本の南雲機動部隊と主力空母三隻のアメリカ機動部隊が激突した天王山の戦いだった。

 当時の日本機動部隊は世界で最強の部隊だった。ゼロ戦隊、雷撃機隊ともに精鋭揃いで、とりわけ、急降下爆撃隊の命中率は神業としかいいようのない高さを誇っていた。機動部隊の兵力、練度、士気の高さは、どれを取ってもアメリカを大きく上回っていた。
 ただし、日本の軍令部(艦隊司令部)と機動部隊首脳の力量はアメリカよりも劣っていた。
 ミッドウェー作戦は、急遽決定した作戦だった。
 準備が間に合わないので、もう一か月遅らせられないかと各方面から要請が相次いだのだが、そのまま強行してしまった。また、作戦目標がミッドウェーであることを誰にも知られてはいけないにもかかわらず、海軍基地のある呉では町の誰もがミッドウェー作戦のことを知っていた。徹底的な緘口令を敷かなかったのは気が緩んでいたとしかいいようがない。敵に作戦がばれないように暗号の乱数表を変更すべきだったが、開戦当時のものをそのまま使用し、その結果アメリカに暗号を解読され、ミッドウェーが攻撃目標であることがアメリカに知られてしまった。
 一番致命的だったのは、敵空母が現れないだろうと甘い希望的観測を抱いたことだ。本来であれば、敵も必死で反撃に出てくることを考慮し、ミッドウェー沖で米空母と対決するための戦術を十全に練っておかなければならなかったにもかかわらず、それを怠った。
 機動部隊同士の戦いは一瞬で勝負が決まる。
 そして、戦いは錯誤《エラー》の連続だ。
 エラーを最小限に抑え、敵が見せた一瞬の隙を突き、相手方の空母を破壊したほうが勝利する。
 戦うためには、まず敵のありかを知らなければいけない。敵の所在がわからなければ攻撃のしようがない。だが、機動部隊司令部は索敵をおろそかにした。
 黎明二段索敵――つまり、夜が明けないうちに第一弾の偵察機を出発させ、夜が明ける頃に同じ偵察ライン上に二機目の偵察機を出発させるという二段構えで敵を探すべきだった。日の出の頃には、一機目の飛行機が索敵ラインのほぼ先端――つまり一番遠い地点で偵察を開始し、二機目は味方の機動部隊に近いところから偵察を始める。こうすれば敵の発見率が格段に高くなる。
 だが、日本の南雲機動部隊は、一つの索敵ラインにつき偵察機を一機だけを使用する一段索敵しか行なわなかった。加えて、偵察ラインの間隔をもっと狭く設定して、きめ細かく偵察しなければならないのに、索敵網が粗かった。このような偵察軽視のために、敵艦隊の発見が遅れ、攻撃が後手に回ることになった。
 攻撃隊の使用方法もまずかった。
 第一次攻撃隊にミッドウェー島の基地を攻撃させ、第二次攻撃隊を艦隊出現に備えて艦隊攻撃用の兵装で待機させるという方法を採っていたのだが、第一次攻撃隊がさらに基地を攻撃する必要があると打電したため、第二次攻撃隊の爆弾と魚雷を陸上基地攻撃用の兵装へ転換する作業を行ない、ミッドウェー島を再度攻撃することになった。そして間の悪いことに、ちょうどこの作業中に敵艦隊発見の知らせが入った。
 この時、空母蒼龍と飛龍の二隻で編成した第二航空戦隊司令官の山口多聞提督は陸用装備のまますぐに出発することを機動部隊の最高司令官である南雲忠一提督に進言したが、機動部隊首脳部はこれを却下した。
 たしかに、陸上攻撃用の兵装のまま敵艦隊を攻撃しても効果は薄い。判断のむずかしいところだが、急降下爆撃隊だけでも先に発進させる必要があっただろう。
 機動部隊首脳部は艦隊攻撃用の兵装で敵空母を叩く正攻法を決定。今度は装着したばかりの陸上攻撃用の兵装を艦隊攻撃用へ再度兵装転換作業をしなければならなくなった。艦隊攻撃用の兵装のまま待機していれば、すぐに出発できたのだが、むだな作業のために一刻を争う貴重な時間を浪費してしまった。
 実は、この兵装転換問題は、ミッドウェー海戦に先立って行なわれた四月のセイロン島沖海戦の際、すでに同様の事態が出現していたものだった。セイロン島沖海戦はイギリスの弱小部隊を相手にした戦だったために大事には至らなかったが、セイロン島沖での教訓を活かして問題解決の対策を講じていれば、ミッドウェー海戦ではスムーズに敵を攻撃することができただろう。
 ようやく二度目の兵装転換が終了し、攻撃隊の発進準備に入ったその時、アメリカの急降下爆撃機が日本機動部隊へ襲いかかってきた。空母赤城、加賀、蒼龍に爆弾が命中。これが甲板上と格納庫に転がっていた陸上攻撃用爆弾の誘爆をさそい、三隻は大破炎上。戦闘不能となった。唯一生き残った空母飛龍が孤軍奮闘して攻撃隊を二度発進させ、米空母ヨークタウンを大破させたが、この日の午後、命中弾を喰らい、航行不能状態に陥ってしまった。
 最終的には、主力空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍の四隻、重巡洋艦一隻が撃沈され、母艦艦載機二百機以上を喪失した。三千人強の戦死者が出ている。これに対して、アメリカ側のそれは、空母一隻と駆逐艦一隻の沈没にとどまった(空母ヨークタウンは最後に潜水艦伊一六八がとどめを刺した)。開戦以来、初めての敗北。それも空母部隊壊滅という大敗北だった。日本海軍は太平洋を所狭しと暴れ回った騎虎の勢を失い、進撃がほとんど止まってしまった。

 負けたといはいえ、日本海軍の兵士はよく戦った。戦闘機隊はアメリカの攻撃機を多数撃墜し、機動部隊の各艦は対空砲火で多数の敵機を叩き落した。各空母は命中弾を受けるまで、見事な操艦技術によって何十発もの爆弾と魚雷をかわし続けた。生き残った飛龍の攻撃隊は少数機での攻撃にもかかわらず一回目の攻撃でヨークタウンを射止めている。
 優秀な乗組員や搭乗員を擁していたのだから、機動部隊首脳部が敵機動部隊の出現を予想し、それに備えて入念に戦術を練っておけば十分に勝機を摑ことができた戦いだった。ただ、現場がいくらがんばりを見せても、司令官の戦略や指揮がまずければ戦いに勝つことはできない。勝負にすらならない。指揮官の戦略ミスや判断ミスを個々の兵士がカバーしようとしても限界がある。戦いというものは、しかるべき戦略としかるべき戦術があってはじめて勝利できるものだ。戦力を活かすも殺すも、司令官の指揮次第。もちろん、これはどんなプロジェクトにもいえることだが。
 日本の拙劣さに対して、アメリカは徹底的に手段を講じた。
 全力をあげて日本の暗号を解読し、日本海軍の次の攻撃目標がミッドウェー島であることを突き止めた。ミッドウェー島の航空基地の防備を固め、陸上航空機を増強したことが、先に述べた日本の機動部隊の兵装転換を誘うことになった。また、五月の珊瑚海海戦で大破した空母ヨークタウンをたった三日で修理してとりあえず航行可能な状態までもっていき、約千人の修理員を乗せたまま出航してミッドウェー島沖へ向けて航海しながら修理を続けた。空母ヨークタウンは最低三か月は再起不能と思われ、日本側はまさかミッドウェー島沖へ現れるとは予想だにしなかった。逆に、日本海軍は珊瑚海海戦で無傷だった空母瑞鶴を搭乗機不足という理由からミッドウェー海戦への参加を見送っている。
 ミッドウェー海戦にかけた日米の意気込みは、まったく違う。アメリカはできるかぎりのことをやったが、日本は甘い見通しのまま打つべき手を打たず必勝体制を敷かなかった。ミッドウェー海戦は、司令官の重大な戦略ミス、戦術ミス、判断ミスの連続によって負けた戦いだったといえる。負ければいろいろとぼろが出るものだが、それにしてもぼろが多すぎた。負けるべくして負けた戦いだった。なによりも惜しいのは、現場の必死の努力が水泡に帰してしまい、鍛え上げた優秀な乗組員や艦載機搭乗員を多数失ったことだ。

 若き日の大工のおじさんは、アメリカ軍の攻撃を受けて大破した飛龍から脱出して一命を取りとめた。毎年六月五日、ミッドウェー海戦の日がやってくると断食をして、亡き戦友たちの冥福を一日中祈るのだと言っていた。彼はずいぶん前に逝去されたが、今はあの世でかつての戦友たちと盃を交わしているのだろうか。



(2011年6月5日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第107話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/
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