風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

僕という迷宮(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第49話)

2011年08月04日 00時28分43秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 若かった頃、自分の心が不思議でしかたなかった。
 誰でもそうだろうけど、若い頃は心が揺れ動きやすい。ほんのちょっとした誰かの言葉に感動したり、動揺したり、傷ついたりする。友人や読んだ本からの影響も受けやすい。自意識が異常に過剰だったりするから、今から思えばどうでもいいようなことで死ぬほど恥ずかしくなったり、くよくよ悩んだりもした。
 めまぐるしく動く自分の心は、まるで迷宮《ラビリンス》だ。どうして誰かを好きになったり、嫌いになったりするのかもよくわからない。逆もまたしかり。
 心がいったいどういう仕組みになっているのか、摩訶不思議な自分の心の正体を知りたくて心理学の本を読み漁った。
 心理学関係の著作は書店の棚にいっぱいならんでいるけど、なかでも河合隼雄さんの著作をよく読んだ。
 河合先生は日本にユング心理学を紹介した第一人者だ。ユング心理学自体、どこか東洋的な思想を感じさせるものなのでそれが僕の心にフィットしたのかもしれない。それを日本流にアレンジした河合先生の分析や考察もわかりやすかった。迷宮のように複雑な心にもコード(ある一定の構造)があるのだと知って、なんだか安心できるような心持ちになれた。目から鱗が落ちるようだった。
 人間の心にはいくつもの原型《アーキタイプ》がある。
 たとえば、映画『スターウォーズ』には主人公のルークとダースベイダーの決闘シーンがあるけど、それは「父親殺し」という原型だ。
 これはオイディプスコンプレックスと呼ばれるもので、ギリシャ神話のオイディプス王の話から名付けられた。男の子は父親を乗り越えようとすることでなにかを掴み、成長する。このテーマは人類にとって普遍的なもので、たとえば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や村上春樹の『海辺のカフカ』といった文学作品でも繰り返し描かれている。
 人間の心には、テリブルマザーという恐ろしい怪物も住んでいるらしい。
 慈母という言葉があるけど、テリブルマザーはまったくその正反対の存在だ。子供の心を飲みこみ、すべてを自分の支配下に置こうとする。童話やファンタジーでは、たとえばヘンゼルとグレーテルの話に出てくる魔女のように恐ろしい老婆として描かれることが多い。身近な例でいえば、教育ママというのもこれにあてはまるだろう。
 河合先生の本はほんとうに勉強になった。わけのわからないことだらけだった心の秘密を解明できたようで楽しかった。
 だけど、そのうちはたと困ってしまった。
 いくら心理学の本を読破してみても、どうしてもわからないことがある。仕組みというものは、たんなる枠組みに過ぎない。
 僕が感じている痛みや怒りや焦りはどこからくるのだろう?
 人を好きになった時に感じる胸がいっぱいになるような心持ちはどこからくるのだろう?
 僕は、心の枠組みよりも、自分の心を突き動かしている動力源を知りたかった。
 人間の心にはメカニズム論だけでは解き明かせないなにかがある。人間の心にはある一定の構造があるにせよ、心は決してメカニズムそのものではない。心のメカニズムだけしか見ないということは、人間の体に通っている温かい血を否定することだ。心臓の鼓動を無視するということだ。メカニズム論はたしかに便利だけど、うっかりしていると、そのメカニズムの枠組みのなかでしか物事を考えられなくなる。人間の心には底知れない力が宿っているはずなのに、それでは生きる気力が奪われてしまう。
 心理学は心を知るためのいい補助線にはなるけど、心の本質までは解き明かしてくれなかった。僕は、また迷宮をさまよい歩くような気分へ逆戻りした。
 心の源泉という問題をつきつめれば、なぜ生きているのかということにぶちあたる。
 今から思えば、僕は自分の心を知りたいというよりも、むしろなぜ生きているのかということを知りたかったのだと思う。なぜ、喜怒哀楽を感じながら生きているのだろう? さらに言えば、なぜ僕は心を持っているのだろう? そんなことを知りたかったのだろう。追いつめられていた僕は自分の心が恨めしくてしょうがなかった。心なんてなければいいのに、と何度も思った。いっそ潰れてなくなってしまえばいいのにと。
 こうなれば、もう信仰の領域でしか解決のつかないことなのかもしれない。
 それも、習慣やしきたりや伝統といった袈裟を着たお仕着せの宗教ではなく、神さまか仏さまかお天道さまかは知らないけど、そんな偉大ななにかと一対一でさしで向かい合い、純粋な問いかけを投げかけるところからしか糸口が掴めないものなのだろう。そうして全身全霊を傾けて掴み取ったものしか、僕にとっての真実にはなりえないのだろう。

 嬉しいことに出会ったり、いろいろ痛い目に遭ったりして、ほんのひとかけらだけ物事がわかるようになった。
 おそらく、僕自身は自分が主体的に生きているように思っているけど、じつはそれはまったくの錯覚で、だれかに生かされている。なにかが僕を生かしている。なんとなくそんな風に感じる。だけど、まだまだわからないことだらけだ。
 僕は、もういい年をしたおじさんになってしまった。
 それなのに、今でも気持ちが揺れ動きすぎて自分の心がわからなくなることがしょっちゅうある。心の振り子は愛と罪の間をいったりきたりして、やさしくなろうという気持ちとエゴイズムという名の打算がないまぜになって混沌とする。自分自身の心をつぶさに点検してみれば、僕はこんなことを感じているのかと今でも発見がある。
 僕という迷宮の謎は、まだまだ解けそうもない。
 迷うことは進むこと。
 そう思って、てくてく歩こう。




 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第49話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。
もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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