辻の初期短編11作が収められている。多くがフランス、イタリア、スペインなどを旅したことによる作品だ。旧制松本高校で北杜夫と知り合い、以降いろんなところで彼の助けを得ていたようだ。1957年33歳の時、フランス政府の奨学金で留学する。妻も同行する。数年のフランス滞在中ヨーロッパのあちこちを旅したようだ。ここに収録されている短編も多くは60年代に執筆出版されている。なぜ辻を今回手に取ったかと言うと、どこかで彼についての評論を目にして、読んでみようという気になったからだ。しかし、図書館でその読んでみたいと思った作品名を思い出すことができなかった。彼の作品は『霧の聖マリ』だとか『西行花伝』など幾つか読んだ記憶はある。今回気に止まったのは『背教者ユリアヌス』だったかもしれないと朧気に思い出しかかったが、残念ながらそれは図書館に備わっていなかった。自分の書架を探せばどこかにあるかもしれないが面倒だ。そこで適当に文庫化された本を3冊借りてきた。
60年代と言えば私の青春時代。私もその頃はモーパッサンやマルローなど多くのフランスの小説を読んでいた。小田実の『何でも見てやろう』などで私もいつかはと思っていた。当時フランスへ渡るには飛行機は高すぎる、シベリア鉄道が安いと言われていた。大学に入ってすぐ大学とは別に日仏学館でフランス語の授業を受け始めた。大学のサークルも仏語同好会に入った。新入学の女子2人と、上級の男子3人だけのこじんまりしたサークルだった。それでも琵琶湖畔のユースホステルで合宿だとか、奈良の寺で合宿とか楽しくなりそうな予感を持っていた。ところが時代はそれを許さなかった。すぐに大学は授業どころではなくなった。全国的に学園紛争が吹き荒れた。授業はなくなり大学へ行くことも少なくなった。大学に行って勉強しないなら親から仕送りをもらうことはできないと、それを断ってアルバイトで生活を維持した。一番長く働いたのは白川道にあったレストランだった。そこでの交友関係が少し本来の道を外れさせた。そこのコックをしている男達の友人にはテキヤがいたり、親の染物屋を勘当されてタクシー運転手をしているギャンブル好きなどがいた。彼らのマージャン相手をしているうちに、あちこちの縁日で手伝いをしたり、彼らの仲間が夜間ゴルフ場の池にゴルフボールを浚いに行くのに見張りをしたりとあまり経験できないことをした。店のオーナーは材木商をしている男で、奥さんを店のマダムにしていた。子供がなかったのでゆくゆくは材木店は弟に譲るつもりのようだった。しかし、コックもボーイもならず者のようで客筋も悪い。経営意欲を無くして私が働き始めて1年もしないうちに店を閉めることになった。次の店を探すことになった。二人のコック、一人のバーテンダー、二人のフロアー係、このセットで幾つか面接を受けたが採用されなかった。それからはマージャンや用事があるときだけ呼び出されるようになり自然と関係は薄くなった。
今では記憶もはっきりしないが、大学の授業が再開されてもすぐには大学に行かなかった。授業料も納入が何回か滞った。その度に友人が学生課の前の張り紙にお前の名前が、授業料未納で退学処分予定と出ていたよと教えてくれた。あわてて金を工面して支払っていた。授業に出てみると先生が出欠の時名前を呼ばない、言いに行くと、なんだもう辞めたのではないのかと。自然フランスへの夢もどこかに消えていた。この数年は私にとって何だったのだろうかと思うが、この時代を通り抜けて、世の中何とかなるもんだとの変な自信がついたのかもしれない。
辻は大学生、研究者として滞在していたが、私が運よくフランスまで辿り着けたとしても、単なるデラシネでしかなかったろう。とてもこの小説集で辻が描いているような高尚な旅愁や感慨などとは縁が無かったろう。