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片雲の風に誘われて

自転車で行ったところ、ことなどを思いつくままに写真と文で綴る。

8/10 温又柔『私のものではない国で』読了

2025-08-10 22:16:06 | 読書
 父親の転勤で三歳の時生まれた台湾を離れ以後日本で生活してきた著者が日本語での物書きになった。家庭内で少しの台湾語、中国語を使用する他はほとんど日本語で暮らしてきた。そんな著者が日本や日本語について思うことを語っている。
 子供のころから自分は台湾人なのか日本人なのか考えてきた。日本では中国名を見た人は、日本語が上手だとほめ、台湾に行くと日本人のようだと言われる。私は日本語人だと気付くまでは多くの葛藤があった。
 最近では「日本人ファースト」などとどこかのバカの云い真似をして選挙に出るものまで現れている。この言葉の意味するところをどこまで理解しているのかと疑問になる。公に説明している言葉を聞いても全く奥まで理解していない。こんな日本は最近になってからと思ったが、著者のように、国外にルーツを持ち「日本人」の中で暮らしてきた人々にとってはそれほど目新しいことではないそうだ。私の気付かないところで「日本人ファースト」的な応対をしてきたのだと思い知らされた。
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8/5 沢木冬吾『約束の森』中断

2025-08-05 14:07:18 | 読書
 図書館の書架からこの本をなぜ手にしたか記憶にない。読み進めてゆくうちにこの作者は以前読んだことがあると感じ始めた。その内だんだん記憶がよみがえってきて、沢木耕太郎と勘違いして借りたことまで思い出した。半分ほど読んだときは以前読んだ小説より内容、記述が良いように思えてきた。それでもそのあたりで出てくる出来事がどうも読んだことのある流れではと思い至った。このブログ内を調べてみると、2023年6月に読んだ記事を見つけた。同じ本だった。半分まで読んでも思い出せなかったことに大きなショックを受けた。
 ブログの「読書」カテゴリーに並んだ本を眺めてみると半分以上が「はて本当に読んだのだろうか?」と言う状態だった。残り半分でも書名、装丁は記憶にあっても内容がさっぱり思い出せないものが多い。
若い時の読書とは違って、今は単なる時間つぶしになっているだけなのだろうか。時間つぶしなら他に身体や脳を活性化できることを探す方がいいかもしれない。
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7/18 辻邦生『回廊にて』読了

2025-07-19 22:12:47 | 読書

 辻の名前を見たのは中日新聞の「大波小波」で、辻の生誕百年を記念する『雲の上の永遠の太陽』を紹介していたのだ。この本は学習院大学資料館が辻の人生を振り返っている。作家として、生活者として、旅人としてなど様々な側面に光を当てて解説しているらしい。図書館に入ってきたら読んでみよう。
 今回の本は、ロシア革命で母に連れられドイツに亡命してきた娘の一生について描いている。彼女は娘時代に絵画に目覚め、画家として人生を送り始める。彼女とパリの美術学校で一緒に学んだ日本人画家が彼女の日記を基に彼女の半生を知ろうとする。20世紀初めから第二次世界大戦終了後までの時間だ。
巻末の清水徹の解説ではいろいろ難しいことが挙げられているが、私が読んでいる間感じたのは、一人の人生あるいはアイデンティテーの根幹には人生の時間の記憶が大きく存在しているということだ。ロシアの故郷を幼くして出、父親からも離れ、ドイツで母と二人極貧の幼年時代を過ごす。その後母が再婚することになり、フランスの中部山岳地帯の修道院の寄宿学校に入れられる。そこで一人の特異な少女と知り合い感受性を鋭敏にしてゆく。そんな中でその友人の城に掛けられている数百年前の先祖が婚礼の時持ってきたたペストりを見て強い印象を受ける。これも友人を通して彼女の実際の人生だけでなく、彼女の中に積み上げられた長い時間が意識される。このそれぞれの中にある時間はある意味故郷につながっている。故郷から引き離されたら継続性に傷ができたような痛みを感じる。この痛みが本当の故郷だけでなくそれまでの人生で自分が暮らした場所も含め「故郷」として希求するようになる。故郷喪失は人生の組み立てを困難にする。こんな彼女の波乱に満ちた困難な人生も死んで消えてしまったのではなく、この日本人画家の人生の中に記憶として続いてゆく。こんな継続についてが一つのテーマのように思えた。それにしても重く真面目で真剣な小説だ。もう一冊『安土往還記』を借りてある。信長に関する話らしい。今度はヨーロッパが舞台ではない。
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7/15 辻邦生『ある告別・城』読了

2025-07-15 22:48:04 | 読書

 辻の初期短編11作が収められている。多くがフランス、イタリア、スペインなどを旅したことによる作品だ。旧制松本高校で北杜夫と知り合い、以降いろんなところで彼の助けを得ていたようだ。1957年33歳の時、フランス政府の奨学金で留学する。妻も同行する。数年のフランス滞在中ヨーロッパのあちこちを旅したようだ。ここに収録されている短編も多くは60年代に執筆出版されている。なぜ辻を今回手に取ったかと言うと、どこかで彼についての評論を目にして、読んでみようという気になったからだ。しかし、図書館でその読んでみたいと思った作品名を思い出すことができなかった。彼の作品は『霧の聖マリ』だとか『西行花伝』など幾つか読んだ記憶はある。今回気に止まったのは『背教者ユリアヌス』だったかもしれないと朧気に思い出しかかったが、残念ながらそれは図書館に備わっていなかった。自分の書架を探せばどこかにあるかもしれないが面倒だ。そこで適当に文庫化された本を3冊借りてきた。
 60年代と言えば私の青春時代。私もその頃はモーパッサンやマルローなど多くのフランスの小説を読んでいた。小田実の『何でも見てやろう』などで私もいつかはと思っていた。当時フランスへ渡るには飛行機は高すぎる、シベリア鉄道が安いと言われていた。大学に入ってすぐ大学とは別に日仏学館でフランス語の授業を受け始めた。大学のサークルも仏語同好会に入った。新入学の女子2人と、上級の男子3人だけのこじんまりしたサークルだった。それでも琵琶湖畔のユースホステルで合宿だとか、奈良の寺で合宿とか楽しくなりそうな予感を持っていた。ところが時代はそれを許さなかった。すぐに大学は授業どころではなくなった。全国的に学園紛争が吹き荒れた。授業はなくなり大学へ行くことも少なくなった。大学に行って勉強しないなら親から仕送りをもらうことはできないと、それを断ってアルバイトで生活を維持した。一番長く働いたのは白川道にあったレストランだった。そこでの交友関係が少し本来の道を外れさせた。そこのコックをしている男達の友人にはテキヤがいたり、親の染物屋を勘当されてタクシー運転手をしているギャンブル好きなどがいた。彼らのマージャン相手をしているうちに、あちこちの縁日で手伝いをしたり、彼らの仲間が夜間ゴルフ場の池にゴルフボールを浚いに行くのに見張りをしたりとあまり経験できないことをした。店のオーナーは材木商をしている男で、奥さんを店のマダムにしていた。子供がなかったのでゆくゆくは材木店は弟に譲るつもりのようだった。しかし、コックもボーイもならず者のようで客筋も悪い。経営意欲を無くして私が働き始めて1年もしないうちに店を閉めることになった。次の店を探すことになった。二人のコック、一人のバーテンダー、二人のフロアー係、このセットで幾つか面接を受けたが採用されなかった。それからはマージャンや用事があるときだけ呼び出されるようになり自然と関係は薄くなった。
 今では記憶もはっきりしないが、大学の授業が再開されてもすぐには大学に行かなかった。授業料も納入が何回か滞った。その度に友人が学生課の前の張り紙にお前の名前が、授業料未納で退学処分予定と出ていたよと教えてくれた。あわてて金を工面して支払っていた。授業に出てみると先生が出欠の時名前を呼ばない、言いに行くと、なんだもう辞めたのではないのかと。自然フランスへの夢もどこかに消えていた。この数年は私にとって何だったのだろうかと思うが、この時代を通り抜けて、世の中何とかなるもんだとの変な自信がついたのかもしれない。
 辻は大学生、研究者として滞在していたが、私が運よくフランスまで辿り着けたとしても、単なるデラシネでしかなかったろう。とてもこの小説集で辻が描いているような高尚な旅愁や感慨などとは縁が無かったろう。
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7/11  高村薫『墳墓記』読了

2025-07-11 14:23:50 | 読書
 最近つとに話題に上っていた高村の新作だ。
帯の釣り書きに
      「地に沸き立つ声、声、声 
         男が、定家が、鬼が、夢を見る
             高村文学の極限と愉楽がここに」
 とあるように、古希を過ぎて老境に入りなんとしている著者の今の心境が読み取れる小説だ。
 著者とほぼ同じ年代の男、裁判所の書記を務めていた。祖父と父は能楽師を生業としていたようだ。どうも男は死の床にある様子。そのおぼろになる思考の中に、幼いころの出来事が浮かんでくる。祖父が能の装束をつけて物置へ入ってゆく様子。その後祖父が首を吊った状態で見つかる。祖父に連れられてお水取りやら鞍馬山の神事などに連れていかれた景色、祖父の囲っていた若い女性の姿などが浮かんでくる。それが男の記憶を刺激する。そこからそれにまつわる定家の歌などが現れてくる。定家の歌だけでなく、定家が選んだ『新古今和歌集』や『新勅撰和歌集』に載せられている歌人たちの姿も浮かんでくる。こんな記述が現代語、古文調、和歌などとして続く。最初読み始めたときはこの展開がうまく理解できず、初めの数頁で放り出してしまった。その後改めて読み始めると構成がおぼろげにでも見えてきた。男が今際の際にあり、妄想が頭の中を巡っていること。その中心は子供のころの祖父との出来事。少し長じては祖父と同じようにあまり家庭を顧みることもなく別宅で過ごす父親を疎んじていたこと。また男が青年になり学生の頃の友人、付き合った女性。最初の妻、次の妻。また孫娘との交流。さも一人の男がその生を終えるとき思い浮かべそうなその人生の一部だろう。そうしてその人生の棚卸をし、それらをすべて処分して次の世に向かってゆくことができた。また改めてゆっくり読んでみたい。

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