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ぽかぽか春庭「猫文学ー夏目漱石・谷崎潤一郎・村上春樹」

2008-10-31 08:18:00 | 日記



夏目漱石の吾輩猫
2006/10/27 金
文学の中の猫(4)漱石の吾輩猫

 猫の変身譚、江戸歌舞伎など近世文学では化け猫の話が大人気でした。
 『花野嵯峨猫魔稿』は、佐賀鍋島藩の化け猫騒動のお芝居です。

 鍋島家は、主家筋の竜蔵寺家の断絶で、佐賀藩の領地を全面的に徳川幕府から安堵された。領土が鍋島家のものとなってしまったことを怨んだ竜蔵寺政家と高房の怨霊が愛猫に宿って、鍋島家に災いをなすという「愛猫変身譚」のひとつ。

 「猫」は、近代文学現代文学の中でも大活躍。
 しかし、近代文学に出てくる猫になると、江戸の化け猫とはだいぶ雰囲気も変わります。

 夏目漱石の最初の小説は「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という書き出しで始まります。1905(明治38)年に雑誌「ホトトギス」に連載し、ホトトギスの売り上げをのばすほどの人気を博しました。

 元ノラ猫の「吾輩猫」には、死ぬまでほんとうに名前らしい名前がなかったようです。あるいは「名無し猫」として有名になってしまったために、名前をつけるわけにはいかなくなったのかもしれません。

 カーポティの『ティファニーで朝食を』の中で、ヒロインのホリーは「キャットcat」という名の猫を飼っていますが、これは「キャット」という名の猫であって、名前はあります。
 吾輩猫は、漱石家で何て呼ばれていたんでしょうか。

 1908年にこの「吾輩猫」が死ぬと、漱石は知人に死亡通知を出しました。
 庭に猫のお墓をたてて、『猫の墓』というエッセイが書かれました。死して後なお、漱石にネタを提供、偉大なる名無しの御猫サマです。

 現在、新宿区立漱石公園に猫塚がありますが、これは、「吾輩猫」のお墓ではなく、漱石の妻筆子が立てた「夏目家歴代ペットの供養塔」を復元したもの。

 漱石の『猫の墓』から引用。

 早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠せて来た。いっこうに小供と遊ぶ気色がない。日が当ると縁側に寝ている。前足を揃えた上に、四角な顎を載せて、じっと庭の植込を眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない。

 漱石は、猫が弱っていったようすを描写し、死んだあと墓標をたててやった顛末を記す。

 ある晩、彼は小供の寝る夜具の裾に腹這になっていたが、やがて、自分の捕った魚を取り上げられる時に出すような唸声を挙げた。この時変だなと気がついたのは自分だけである。小供はよく寝ている。妻は針仕事に余念がなかった。しばらくすると猫がまた唸った。妻はようやく針の手をやめた。自分は、どうしたんだ、夜中に小供の頭でも噛られちゃ大変だと云った。まさかと妻はまた襦袢(じゅばん)の袖を縫い出した。猫は折々唸っていた。

 明くる日は囲炉裏(いろり)の縁(ふち)に乗ったなり、一日唸っていた。茶を注いだり、薬缶を取ったりするのが気味が悪いようであった。が、夜になると猫の事は自分も妻もまるで忘れてしまった。猫の死んだのは実にその晩である。朝になって、下女が裏の物置に薪(まき)を出しに行った時は、もう硬くなって、古い竈(へっつい)の上に倒れていた。

 最後の一節。

 猫の命日には、妻がきっと一切れの鮭と、鰹節をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥の上へ載せておくようである。

 漱石夫人筆子さんも、この猫のおかげで夫の文名があがったことを思えば、猫命日にカツブシの猫まんまを供えるのをおろそかにはできなかったことでしょう。

<つづく>
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宮沢賢治 猫の事務所
2006/10/28 土
文学の中の猫(5)宮沢賢治「猫の事務所」

 猫が出てくる宮沢賢治の童話、といえば『注文の多い料理店』の、さんざん注文をつけたすえに、狩り好きな紳士たちを料理して食ってしまおうとする山猫。
 『どんぐりと山猫』の「かねたいちろ様~山猫拝」という手紙を出して、どんぐりたちの裁判官として一郎を迎えにいく山猫。
 『セロ弾きのゴーシュ』、ゴーシュの部屋をたずねてきた三毛猫は、ゴーシュのチェロで「インドの虎狩り」の演奏を聞き、部屋中を暴れ回ります。

 「猫の事務所……ある小さな官衙(かんが)に関する幻想…… 」は、1925(大正15)年、3月に賢治が農学校を退職する直前に「虚無思想研究」3月号に発表した作品。
 タイトルのはじめに「寓話」とわざわざ記している作品です。

 「貧しい農民たち」の中に直接関わろうとした賢治は、農学校を退職したあと、開墾をはじめ、農民として生きていこうとします。

 東北の農民たちの悲惨な生活に比べて、公的な給与を得てぬくぬくと生きているように思える「教員室の教師」たち。お役所の役人たち。彼らは、地域の農民のことを考えるより、上目遣いで上役への取り入りと仲間いじめに励んでいるかのように見えます。

 そんな「事務所ぐらし」に耐えられなくなった賢治が、「事務所の閉鎖」を寓話として書いているのが「猫の事務所」です。

 事務所で働く猫たちのうち、いちばんみすぼらしく醜い竈猫(かまねこ)。
 「かまど猫」は、貧しい暮らしの中、寒さをしのぐためにカマドの灰のぬくもりをもとめて、一晩をかまどの中ですごします。だからカマド猫はいつも灰に汚れてみすぼらしい毛並みをしているのです。

 かま猫を、事務所の他の猫たちがいじめます。かま猫はつらい毎日をがまんして毎日いっしょうけんめい働きましたが、病気で一日休んだ翌日、猫たちはかま猫の仕事をとりあげて追い出そうとはかりました。

 宮沢賢治『猫の事務所』冒頭からの引用です。

軽便鉄道の停車場のちかくに、猫の第六事務所がありました。ここは主に、猫の歴史と地理をしらべるところでした。
 書記はみな、短い黒の繻子の服を着て、それに大へんみんなに尊敬されましたから、何かの都合で書記をやめるものがあると、そこらの若い猫は、どれもどれも、みんなそのあとへ入りたがってばたばたしました。

 けれども、この事務所の書記の数はいつもただ四人ときまっていましたから、その沢山の中で一番字がうまく詩の読めるものが、一人やっとえらばれるだけでした。
 事務長は大きな黒猫で、少しもうろくしてはいましたが、眼などは中に銅線が幾重も張ってあるかのように、じつに立派にできていました。

 さてその部下の
  一番書記は白猫でした、
  二番書記は虎猫でした、
  三番書記は三毛猫でした、
  四番書記は竈猫でした。

<つづく>
00:03 |

2006/10/29 日
ことばのYa!ちまた>文学の中の猫(15)かま猫いじめられる

「猫の事務所」の事務長黒猫は公平な猫で、かま猫をかばってくれました。
 が、他の書記猫たちは、よってたかってかま猫をいじめるのでした。

 宮沢賢治の『猫の事務所』昨日の続きを引用します。

 竈猫(かまねこ)というのは、これは生れ付きではありません。生れ付きは何猫でもいいのですが、夜かまどの中にはいってねむる癖があるために、いつでもからだが煤できたなく、殊に鼻と耳にはまっくろにすみがついて、何だか狸のような猫のことを云うのです。
 ですからかま猫はほかの猫には嫌われます。

 けれどもこの事務所では、何せ事務長が黒猫なもんですから、このかま猫も、あたり前ならいくら勉強ができても、とても書記なんかになれない筈のを、四十人の中からえらびだされたのです。

 大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が、まっ赤な羅紗をかけた卓を控えてどっかり腰かけ、その右側に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番の虎猫と四番のかま猫が、めいめい小さなテーブルを前にして、きちんと椅子にかけていました。

 ところで猫に、地理だの歴史だの何になるかと云いますと、
 まあこんな風です。

 事務所の扉をこつこつ叩くものがあります。
「はいれっ。」事務長の黒猫が、ポケットに手を入れてふんぞりかえってどなりました。
 四人の書記は下を向いていそがしそうに帳面をしらべています。
 ぜいたく猫がはいって来ました。

「何の用だ。」事務長が云います。
「わしは氷河鼠を食いにベーリング地方へ行きたいのだが、どこらがいちばんいいだろう。」
「うん、一番書記、氷河鼠の産地を云え。」
 一番書記は、青い表紙の大きな帳面をひらいて答えました。
「ウステラゴメナ、ノバスカイヤ、フサ河流域であります。」

 事務長はぜいたく猫に云いました。
「ウステラゴメナ、ノバ………何と云ったかな。」
「ノバスカイヤ。」一番書記とぜいたく猫がいっしょに云いました。
「そう、ノバスカイヤ、それから何!?」
「フサ川。」またぜいたく猫が一番書記といっしょに云ったので、事務長は少しきまり悪そうでした。
「そうそう、フサ川。まああそこらがいいだろうな。」

 かま猫は、他の猫からたびたびいやがらせをされ、いじめを受けてきました。かま猫はかろうじて公平な事務長の助けで仕事を続けています。

 ある日のこと、ひどい風邪をひいて一日休んだかま猫が、ようよう事務所に出てみると、かま猫の仕事は取り上げられており、同僚の猫たちからは「無視」というイジメを受けました。あいさつをしても返事はなし。だれも声をかけようともしません。
 「かま猫」はとうとう泣きだしてしまいました。
 
<つづく>
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2006/10/30 月
猫の事務所の解散

 宮沢賢治『猫の事務所』のラストシーンです。

 かま猫はもうかなしくて、かなしくて頬のあたりが酸っぱくなり、そこらがきいんと鳴ったりするのをじっとこらえてうつむいて居りました。
 事務所の中は、だんだん忙しく湯の様になって、仕事はずんずん進みました。みんな、ほんの時々、ちらっとこっちを見るだけで、ただ一ことも云いません。

 そしておひるになりました。かま猫は、持って来た弁当も喰べず、じっと膝に手を置いてうつむいて居りました。
 とうとうひるすぎの一時から、かま猫はしくしく泣きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。
 それでもみんなはそんなこと、一向知らないというように面白そうに仕事をしていました。

 その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向うにいかめしい獅子の金いろの頭が見えました。
 獅子は不審そうに、しばらく中を見ていましたが、いきなり戸口を叩いてはいって来ました。

 猫どもの愕ろきようといったらありません。うろうろうろうろそこらをあるきまわるだけです。かま猫だけが泣くのをやめて、まっすぐに立ちました。

 獅子が大きなしっかりした声で云いました。
「お前たちは何をしているか。そんなことで地理も歴史も要ったはなしでない。やめてしまえ。えい。解散を命ずる」
 こうして事務所は廃止になりました。
 ぼくは半分獅子に同感です。

 いじめに耐えかねて、泣き出したかま猫。
 そこへ一匹の金色の頭をした獅子が現れました。事務所で「地理や歴史」を調べる仕事をしていた猫たちに、獅子が大きなしっかりした声で事務所解散を命じました。

 猫の事務所は、「ぜいたく猫」が旅行するときのために地理や歴史を調べる仕事を続けていました。でも「かま猫」をいじめて泣かせて、それで続ける「立派な仕事」など必要ない。

 金色の獅子が 「お前たちは何をしているか。そんなことで地理も歴史も要ったはなしでない。やめてしまえ。えい。解散を命ずる」
と、言ったのに対して「ぼく」は、「半分同感」と書いています。

 「いじめ」があり、それを解決できない事務所も学校も、「そんなことで勉強も教育も要った話でない。やめてしまえ。えい。解散を命ずる」と、私も半分思います。
 あとの半分は「この世からいじめをなくすにはどうしたらいいのか」と、考え続けることだと思っています。

 猫の事務所は、金色の獅子の一声で解散となりました。
 現実のこの社会にいる私には、そういう解決方法は「半分賛成」

 金色の獅子が「いじめ集団の解散」を命じてくれるのを待つのではなく、自分自身の問題として考え続けます。「半分賛成」の、のこりの半分の部分です。

<つづく>
00:09 |

2006/10/31 火
かま猫、よだか

 賢治は鋭敏な心で現実の社会をみつめ、いじめを受けることについての作品を書き上げました。
 『猫の事務所』のタイトルには、ほかの作品には書き込まなかった「寓話」という文字を書きいれています。
 「寓話=擬人化した動物などを主人公に、教訓や風刺を織りこんだ物語」という語を冒頭においたのは、この童話を「人間の世界のできごとを動物を主人公にしておきかえて発表する」と、賢治が強く意識して書いたからだと思います。

 宮沢賢治が「猫の事務所」を発表してから80年以上たちます。
 賢治が、人間の世界にあることを、動物の話として描いたいじめの物語。賢治は、いじめをする集団はすべて解散してしまいたかったことでしょう。しかし、金色の獅子が「猫の事務所」の解散を命じてから80年後も、いじめはなくなりませんでした。

 『猫の事務所』のほか、いじめを受ける醜い動物の話に『よだかの星』がよく知られています。『よだかの星』は教科書に採用され、広く教材となってきました。

 この教材を国語の時間に読んだあと、クラスの中のひとりに「よだか」とあだ名をつけ、「おまえ、星になっちゃえば」と、からかった、という話を聞いたことがありました。
 いったい何をこの教材で教えたのでしょうか。

 教科書会社が発行している「指導書」のとおりに『よだかの星』授業を展開して、教材会社が発売しているテストをさせて、採点しておしまいにしたのでしょうか。
 研究授業で校長先生に「適切な指導でした」と、褒められたのかもしれません。
 「よだか」とあだ名されている子がクラスにいるとわかったあと、教師は何をしたのでしょうか。

 このところ、連日のように「いじめ」を苦に自殺する子供たちのニュースが続いています。小学生中学生高校生、、、、、
 いじめを受けていて、苦しんでいる子がいたら、、、、、、私には直接何もしてやれないのがつらいですが、どうぞ死なないで。死んじゃいけませんと、叫びたい。声が届きますように。

 子供がいじめを受けて苦しんでいるのに、何もしてやれない教師や学校であるなら、そんな学校は存在価値もありません。こどものイジメの実態を、保身のために隠す教師、校長。報告書に「当校のいじめはゼロ」と書き込めば、いじめはなかったことになると思っている先生たち。

 いじめを受けた子の親が「なぜ親に言ってくれなかったのか、もっと早くから相談してくれなかったのか」と、悲しむ気持ち、わかります。私も同じでしたから。
 子供は、親には自分が学校でみじめな思いをしていることを知られたくないのだといいます。子供は、「いじめられている惨めな自分」を、親には知られたくないのです。
 せめて親にだけは「うち子供はしっかりやっている。学校でも元気にやってるから安心だ」と、思ってほしいのです。
 「親には、自分のことが原因でつらい思いをさせたくない」と思ってしまう子もいるのです。

 カフェの中にも、下記のようなコメントを、障害や病気と闘っている人のサイトにつぎつぎと書き込んでいく人もいます。
 他者を傷つけることでしか自己確認ができない人が存在するのは確かです。

投稿者:n********
障害者はウザイ いつ死ぬんだ 早く死ね 楽になるぞ (2006-10-28 19:26:47 )

投稿者:n********
障害者は生ごみ  おまえの友達も同じ (2006-10-28 21:17:21)

 このような書き込みを人のサイトに残していくということは、きっと自分自身の心もこわれ傷ついている気の毒な方なのだと思います。

 自分自身が大切にされていない、存在価値を認めてもらえない社会で、自分よりいっそう弱いものをいじめるしか自己表現ができない人たち。
 でも、このような書き込みをした人は、相手がむきになって怒りを表したりすること自体が楽しいのですから、日記に怒りを書き込んだりすると、相手の思うつぼになるのかも。

 真に戦うべきは、このようなこわれた心を生み出してしまう、社会の構造なのかもしれません。

 夫が、息子に読めと言って渡した『格差社会』(2006年9月20日発行、岩波新書)。
 読み終えた息子は、「読み終わったらハハに回せってチチに言われたから、ハイ、次、どうぞ」と言って本をこちらによこしました。

 「数字が出てくるから、カーチャンには理解できないかもしれないって、チチがいってた」という余計な一言もありましたが、わたし、ちゃんと数字つきで1年前に、自分でも同じようなこと書いたんです。「ジニ係数の話」
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponia0509c.htm

 読み終わって、「これから格差が広がっていくと、ますます殺伐とした社会になって、親たちは、なんとか自分の子だけは上のグループにいれたくて、人をいじめようが何しようが、トップクラスから落ちこぼれないことを願い、競争社会の勝ち組になることを子に託すのかなあ」と、思いました。
 
 「よりいい大学」に入るためには、履修をごまかすということを高校ぐるみでやったりする世の中です。
 他者を思いやったり、共に生きていこうとするより、「とにかく人をけ落としてでも上に行くこと、競争に勝つこと」が奨励されている現在の社会なのですから、いじめられて星になろうとするよだかも、ただ泣きながらいじめに耐えるかま猫も、ますます増えていくように思います。

 本当に、これでいいのでしょうか。かま猫を泣かせたままで、よだかを苦しませたままで。


猫と庄造とふたりのをんな
2006/11/02 木
文学の中の猫(6)猫と庄造とふたりのをんな

谷崎潤一郎の『猫と庄造とふたりのをんな』(1934年)は、豊田四郎監督によって映画化されました。(1956年)
 猫を溺愛する庄造を森繁久彌が演じています。昭和の「ダメンズ」です。その母おりん、浪花千栄子。

 庄造は芦屋付近に暮らしている、甲斐性なしのマザコン男。ぐうたらの、典型的ダメ男です。
 どこへ勤めに出てもすぐやめてしまい、父親がなくなったのをしおに家業の荒物屋を継ぐというふれこみで家にもどりましたが、もとより商売に身をいれる気なぞなし。

 荒物屋は母親のおりんが仕切っていますが、母親の手ひとつでは家業も傾き、地代も払えぬまま借金がかさんでいます。

 庄造をめぐるふたりの「をんな」前妻と後妻。プラス母親。
 しっかり者の前妻品子(山田五十鈴)は、しっかりしているゆえに姑とは折り合わなかった。子供ができないからという理由をつけて、おりんは品子を追い出します。

 母親おりんは、小金持ちの兄から「借金を棒引きにするから、自分の娘福子(香川京子)を嫁にもらえ」と言われて、承諾。
 福子は、庄造にでも押しつける以外に始末の方法がない、という不良娘でした。

 気弱で優柔不断な庄造、嫁は品子でも福子でもどっちでもいいけれど、いっしょに寝るなら猫のリリーが一番。
 庄造の猫かわいがりようは、前妻にも後妻にも嫉妬心を呼び起こします。
 庄造にしてみれば、あしかけ4年とはいっても実質いっしょに暮らしたのは2年ちょっとの前妻よりも、嫁にきたばかりの後妻よりも、リリーとの仲が一番長い。20歳のころから30過ぎの今までいっしょに暮らしてきた。リリーが誰よりもかわいい。いっしょにいたい。

 庄造の愛猫リリーを、谷崎は「イギリス人は鼈甲(べっこう)猫と呼んでいる」と描写しています。

 欧洲種の雌猫。肉屋の主人の話だと、英吉利人はこう云う毛並みの猫のことを鼈甲猫と云うそうであるが、茶色の全身に鮮明な黒の斑点が行き亙っていて、つやつやと光っているところは、成る程研いた鼈甲の表面に似ている。何にしても庄造は、今日までこんな毛並みの立派な、愛らしい猫を飼ったことがなかった。

 文豪谷崎は、無類の猫好きとして知られています。庄造の猫によせる思いを書いている部分、そのまま谷崎の述懐だろうと思えます。

 それにつけても猫の性質を知らない者が、猫は犬よりも薄情であるとか、無愛想であるとか、利己主義であるとか云うのを聞くと、いつも心に思うのは、自分のように長い間猫と二人きりの生活をした経験がなくて、どうして猫の可愛らしさが分かるものか、と云うことだった。

 なぜかと云って、猫と云うものは皆幾分か羞渋みやのところがあるので、第三者が見ている前では、決して主人に甘えないのみか、へんに余所々々しく振舞うのである。

 リリーも母親が見ている時は、呼んでも知らんふりをしたり、逃げて行ったりしたけれども、さし向いになると、呼びもしないのに自分の方から膝へ乗って来て、お世辞を使った。

 彼女はよく、額を庄造の顔にあてて、頭ぐるみぐいぐいと押して来た。そうしながら、あのザラザラした舌の先で、頬だの、頤だの、鼻の頭だの、口の周りだのを、所嫌わず舐め廻した。夜は必ず庄造の傍に寝て、朝になると起こしてくれたが、それも顔じゅうを舐めて起すのであった。

<つづく>
00:03

2006/11/03 金
庄造と猫のリリー

 庄造が「猫と同衾」するという描写も、実際に谷崎自身が猫といっしょにふとんに入っていたのだろうと思える描きようです。

 寒い時分には、掛け布団の襟をくぐって、枕の方からもぐり込んで来るのであったが、寝勝手のよい隙間を見付け出す迄は、懐の中へ這入ってみたり、股ぐらの方へ行ってみたり、背中の方へ廻ってみたりして、ようよう或る場所に落ち着いても、工合が悪いと又直ぐ姿勢や位置を変えた。

 もし庄造が少しでも身動きをすると、勝手が違って来ると見えて、そのつど体をもぐもぐさせたり、又別の隙間を捜したりした。だから庄造は、彼女に這入って来られると、一方の腕を枕に貸してやったまま、なるべく体を動かさないように行儀よく寝ていなければならなかった。

 後妻の福子は資産家の娘。母親おりんにとっては、実の姪。家作を持参金として嫁に来たうえに、実家にしばしば帰って小遣いをもらってくる。福子の持参金がめあてのおりんには、福子がわがままし放題でも文句は言えません。しっかり者の前妻には厳しかったおりんですが、福子に対しては、下着まで洗ってやろうとするくらい、大甘です。

 後妻が家に入った事情を知った先妻品子は、腹の虫がおさまらない。庄造への未練半分、姑への怒り半分で、策略をたてました。

 先妻品子は、後妻福子に、庄造がだれより愛しているのはリリーだと告げます。原作では、冒頭部分。品子が変名で後妻の福子あてにおくった手紙の形ではじまります。
 谷崎とくいの「女の語り口」がさえています。

 夜、いっしょに寝るのでも、庄造にとって、リリーが一番。庄造と夜をすごしたいなら、庄造がこよなく愛する猫のリリーが邪魔になるはず。
 もしほんとうに庄造がリリーより福子を大切に思っているなら、リリーを手放すはずだ、と、品子は、たきつけます。福子のために、リリーを品子が引き取ることにしたいと誘いをかけたのです。

 先妻の親切ごかしのことばにに乗ってたまるかと思っていた後妻福子も、夫のリリーへの偏愛ぶりが、しだいに我慢ならなくなります。
 リリーを品子に引き渡すことを決意し、「あたしと猫とどっちが大事?」と詰めより庄造に、猫を品子に渡すことを承諾させました。

 品子は、姑に追い出されてから妹初子の家に居候しています。初子の家の二階、品子の部屋で、品子はそれなりにリリーをかわいがるようになりました。
 庄造の妻でいた間は、妻より愛されている猫をねたんだものでしたが、今となってはかわいくてたまらないのが不思議。

 母親おりんも、後妻福子も、自分自身の見栄と意地を満たすためだけに、庄造を将棋の駒のように奪い合う。本当に純粋に自分を愛してくれるのは、リリーだけ。庄造はリリーが恋しくてたまらない。

 外出も後妻福子に厳しく監視されている庄造は、福子が実家に帰ったすきをみはからって、のこのこと品子が居候している初子の家へ出かけていきました。
 リリーにひと目合いたい。膝の上にのせて、なでてやりたい。品子が家から出ていったのを見届けて、品子の部屋に入り込みます。

 金の力で姑に気に入られた福子、庄造が何より愛する猫リリーを手なづけた品子。
 庄造はこれからどちらの女の家にいたいのだろうか、、、、

 猫のリリーに森重久弥の庄造は語りかける。このセリフは原作にはなく、映画のオリジナル。

「、、、、、そやからねえ~、女は怖いって言うてるやろ?なあ、リリー?ああ、お前も雌やったなあ~(笑)」
(リリー)「・・・・・・・・・・」(リリーは見た目不細工だけれど、演技派猫です)
「いいんにゃ、わての気持ちをイッチバン、わかってるのは、リリー、お前や、お前しか、おらへんて!なあ、、、、わてにはお前しか、おらへん!、、、、お前しか、おらへんようになってしもたわ、、、、、」

 美しい女性に隷属的に支配されることこそ最高の幸福と信じていた文豪谷崎。
 猫に隷属的に支配され、猫へ愛情を捧げ尽くすのも、谷崎にとっては愛のひとつの姿だったのでしょう。

<つづく>
00:05


村上春樹といわし
2006/11/04 月
文学の中の猫(7)村上春樹と猫

 現代文学の中で、「次の日本人ノーベル文学賞作家」に一番近いと言われている村上春樹。
 作家として立つまえは、「ピーター・キャット」という名のジャズ・バーのオーナーマスターとして生計をたてていました。「ピーター」は村上夫妻の飼い猫の名前。

 「村上春樹と猫」の関係は「村上春樹とスパゲッティ」以上にたくさん語られていると思うけど、まずは「いわし」の話から。

 「いわし」とは、1982年『羊をめぐる冒険』に出てくる雄猫。年をとっていて、不器量な猫です。

「猫のことなんです」と僕は言った。
「猫?」
「猫をかってるんですよ」
「それで?」
「だれかに預かってもらえないと旅行にでられない」
「ペット・ホテルならそのへんい幾らでもあうだろう」
「年取って弱ってるんですよ一ヶ月も檻の中に入れておいたら死んでしまいますよ」
「爪がコツコツと机をたたく音が聞こえた。「それで?」
「お宅で預かってほしいんですよ。お宅なら庭も広いし、猫一匹預かるくらいの余裕はあるでしょう?」 

 右翼の大物「先生」の依頼で、北海道へ羊を探しに出かけることになった「僕」は、「年寄り猫」を、先生の秘書との交渉で預かってもらうことになった。
 

朝の十時に例の潜水艦みたいな車がアパートの前に停まった。

 運転手が猫を迎えに来た。

「可愛い猫ですね」と運転手もほっとしたように言った。
 しかし、猫は決して可愛くなかった。というよりも、どちらかといえば、その対局に位置していた。家はすりきれたじゅうたんみたいにぱさぱさして、尻尾の先は六十度の角度にまがり、歯は黄色く、右目は三年前に怪我したまま膿がとまらず、今では殆ど視力を失い欠けていた。運動靴とじゃがいもの見分けがつくかどうかさえ疑問だった。足の裏はひからびたまめみたいだし、耳には宿命のように耳だにがとりついていたし、年のせいで一日に二十回はおならをした。

 妻が公園のペンチの下からつれて帰ってきたときにはまだ若いきちんとした雄猫だったが、彼は七〇年代の後半を坂道に置かれたボウリング・ボールのように八曲へ向けて休息に転がり落ちていった。おまけに彼には名前さえなかった。名前のないことが猫の悲劇性を減じているのか、それとも助長していいるのか、僕にはよくわからなかった。

<つづく>
00:30

2006/11/05 日
命名「いわし」


「よしよし」と運転手は猫にむかって言ったが、さすがに手は出さなかった。「なんていう名前なんですか?」
「名前はないんだ」
「じゃあいつも、何ていって呼ぶんですか?」
「呼ばないんだ」と僕は言った。「ただ存在してるんだよ」

「でもじっとしてるんじゃなくてある意思をもって動くわけでしょ? 意思を持って動くものに名前がないというのはどうも変な気がするな」 』
「鰯だって石を持ってうごいてるけど、誰も名前なんてつけないよ」
「だって鰯と人間とのあいだにはまず気持の交流はありませんし、だいいち自分の名前が呼ばれたって理解できませんよ。そりゃまあ、つけるのは勝手ですが」
「ということは意思を持って動き、人間と気持が交流できてしかも聴覚を有する動物が野前をつけられる資格を持っているということになるのかな」

「そういうことですね」運転手は自分で納得したように何度か肯いた。
「どうでしょう、私が勝手に名前をつけちゃっていいでしょうか?」
「全然かまわないよ。でもどんな名前?」
「いわしなんてどうでしょう?つまり、これまでいわし同様にあつかわれていたわけですから」 

 大物右翼「先生」の運転手は、猫に「いわし」という名を付けます。名無しではない。しかし、群泳する中から一匹を指さすことすらむずかしい、「いわし」という名。
 名はあるけれど、「他から識別されることを拒否しておきたい名前=いわし」
 
 僕にとっての猫。

 それで気がついたんです。僕には失って困るものがほとんどないことにね。女房とは別れたし、仕事も明日で辞めるつもりです。部屋は借りものだし、家財道具もロクなものはない。財産といえば貯金が二百万ばかりと中古車が一台、それに年取った雄猫が一匹いるだけです。

 「僕」にとって、雄猫一匹は「たったひとつの、失ってはこまる命持つもの」です。
 でも、名無しという特権的な立場から、群れのなかの一匹のような「いわし」という猫には似合わない名が付けらて、僕の手元から引き離されます。
 僕は、たったひとつの失ってはこまる生命体「いわし」を預けて、北海道へ「羊」をさがしに出かけます。

 「名前の無い猫」は、「吾輩猫」から「いわし」まで、「ただ存在している」ゆえに、文学の中に屹立する。

 この「いわしの命名」にまつわる「運転手と僕の会話」は、村上春樹流の文体でさらりと書いていますが、言語論にとって、「言葉と認識」「他者と自己との認識関係と命名論」にとって、とても大きな問題を含んでいます。

<つづく>

ぽかぽか春庭「猫文学ー枕草子・源氏物語/更級日記 」

2008-10-29 23:03:00 | 日記


竹内栖鳳の猫、アラーキーの猫
2006/11/01 水
竹内栖鳳の猫アラーキーの猫フジタの猫

 文化の日を中心とした秋の大学祭シーズン。10/28~11/05のうち、途中の10/31だけ出講日があります。真ん中がとぎれてしまったので遠出はできませんが、「文化の日」前後のお休みですから、「美術館めぐり」を楽しんでいます。
 
 秋の美術館めぐり第一弾は、山種美術館から。
 第一回目の文化勲章受賞者である竹内栖鳳(1864~1942)。
 重要文化財指定を受けている「班猫」は、猫を描いた絵画の中でも、傑作と思います。山種美術館で公開中。(9/30~11/19)

 「班猫」は、1924(大正13)年の作品
http://www.yamatane-museum.or.jp/collection/04.htm

 山種美樹館の作品解説によると、この絵に描かれた猫の元の持ち主は、沼津の八百屋さん。おかみさんの愛猫に惚れ込んだ栖鳳が、たっての願いで譲り受け、京都の画室で飼うことにした。栖鳳は猫を自由に遊ばせながら観察を続け、この傑作を仕上げました。

 描かれているのは、猫がよくとっているポーズ。背や脇腹をなめようと、よく猫はこのように首を後ろにむけます。
 絵の中の緑色の目を持つ班猫は、きっと画家を見据えている。
 毛筋の一本一本が表情を持っているような、とても見事な描写。猫のもつ孤高性、神秘性、人を引きつけてやまない猫の魅力が画面いっぱいに広がっている。

 山種では、ほかに、栖鳳の弟子にあたる日本画家の作品がいっしょに展示されていました。私は、上村松園の大作『砧』を感銘深く見ました。

 江戸東京博物館で開催中のボストン美術館所蔵浮世絵展を見にいったら、常設展の第二企画室で、「天才アラーキー」こと荒木経惟(あらきのぶよし)の写真展「東京生活」が同時開催されていました。
 アラーキーが生まれ育った下町三ノ輪界隈や、渋谷新宿銀座などでの東京の街や人々。ほんと、アラーキーは天才です。

 そして、アラーキーと故陽子夫人の愛猫の写真。チロを写した一枚も展示されていました。
 アラーキーの愛猫チロの写真の絵はがきを買って、本日の記念品にしました。
 「愛しのチロ」という写真集も売っていましたけれど、ま、絵はがき一枚ってことで。

 2006年4月20日に見た藤田嗣治展。竹橋の近代美術館に「五人の裸婦」とともに常設展示されている「猫」は、毎回見ていてもそれほど好きにならなかったのに、藤田嗣治の作品が一同に並べられた中で、フジタの描いた猫を見ているうち、フジタの猫への愛と執着が伝わってきました。

 フジタは『猫の本』という画文集も出している猫好き。生涯のほとんどを猫とともにすごしました。
フジタの猫 http://www.oida-art.com/buy/detail/1347.html
http://www.oida-art.com/buy/detail/6294.html
フジタの猫の絵がいっぱい
http://www.ne.jp/asahi/gallery/koyama/nihon/fujita/leonardfujita.htm

 猫好きな人にとってもあまり好きではない人にとっても、猫は不思議な魅力をもつ身近な動物です。
 
 「文学の中の猫」、古代文学から現代まで、日本文学のなかに猫はさまざまに描かれてきました。

 日本語言語文化の中の猫。
 源氏物語の猫、枕草子の猫、漱石の吾輩猫、など、文学の中で活躍した猫たちを紹介します

<つづく>
11:54



日本語言語文化の中の猫
2006/10/24
文学の中の猫(1)>日本語言語文化と猫

 日本語言語文化に、猫が登場する最初の本が『日本現報善悪霊異記/日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)』、通称『日本霊異記』です。
 平安中期に成立した『枕草子』や『源氏物語』より前、平安初期に成立した『日本霊異記』

 文武天皇の時代、705(慶雲二)年頃のお話として、豊前の広国という人の父親が、死んでから猫になっって息子の家で飼われるという、説話が書かれています。

 また一条天皇の前の時代、宇多天皇の日記『宇田天皇御記』885(仁和1)年の項に、猫を愛玩したことが書かれています。ペットとしての猫の記録は、これが最初。

 「日本霊異記」の「猫になって息子に飼われた父親」の話のほか、かわいがられすぎた猫や、長く人に飼われていた猫は、年をとると「変化へんげ」する、という民間伝承も多い。
 『更級日記』にも、猫の変身譚があります。

 平安文学の中から、『枕草子』『源氏物語』の猫、『更級日記』の猫を紹介します。



清少納言の猫、紫式部の猫
2006/10/17 火
文学の中の猫(2)清少納言の猫、紫式部の猫

 現代語では猫の鳴声、さまざまありますが、「ニャオ」「ニャーニャー」「ミィーミィ」などが代表的なものでしょうか。

 平安時代のひらがな表記では猫のオノマトペ(擬声語)では「ねうねう」「うねうね」と書かれています。
 当時は拗音の表記がなかったので、現代語の拗音表記にすると「ねうねう」は「にゃうにゃう」になります。

 清少納言は、『枕草子』に中に、一条天皇が猫をたいそうかわいがって「命婦(みょうぶ)のおとど」と名付けていた、というエピソードを書いています。

上にさぶらふ御猫は、かうぶり得て命婦のおとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせたまふが、端に出でて臥したるに、乳母(めのと)の馬(むま)の命婦、「あな、まさなや。入りたまへ」と呼ぶに、日のさし入りたるに、ねぶりてゐたるを、おどすとて、「翁丸(おきなまろ)、いづら。命婦のおとど食へ」と言ふに、まことかとて、しれものは走りかかりたれば、おびえまどひて、御簾(みす)の内に入りぬ、、、、

 「命婦のおとど」と名付けられた猫が、定子中宮の局の軒端に出て寝ていた。
 猫の世話係の馬の命婦という女官が、「あれ、お行儀の悪いこと、中にはいりなさいよ」
と呼び入れたのですが、猫は、夕暮れになっても戻らない。

 馬の命婦は猫を脅してやろうとして、犬のおきなまろに「命婦のおとどに食いついておやり」と言った。
 犬は本気にして走りかかったので、猫はおびえて御簾の中にはいった。
 一条天皇はことの次第を見て激怒し、猫の世話係を罷免してしまいました。

 この清少納言が語る猫「命婦のおとど」。愛らしく一条天皇と定子中宮のまわりに侍っています。
 猫の身でありながら、乳母をつけてもらい、五位の位を得ている。命婦という五位の扱いをされたのは、天皇皇后の御殿にあがるには五位以上の身分でなければならなかったから。

 一条天皇の「猫かわいがり」ぶりは、藤原実資の日記『小右記』にも書かれています。

内裏の御猫、子を生む。女院・左大臣・右大臣の産養ひの事有り。…猫の乳母、馬の命婦なり。時の人これを咲ふ云々。奇怪の事なり。…未だ禽獣に人乳を用うこと聞かざるなり。嗚呼。
 (『小右記』999(長保1)年9月19日条)

 一条天皇の内裏に猫の子が生まれたき、乳母(猫の世話係)をつけたことを知った実資は「物笑いの種だ」と人々がうわさしたことを記し、「ああ」と嘆いています。

 この「内裏の御猫、子を生む」の前年の998(長徳4)年は疫病が横行し、その他地震や洪水による被害も大きかった。宮廷の外では、食べるものもない人々が苦吟していた時代でした。
 同じ一匹の猫を描写していながら、藤原実資の冷めた視線に比べ、清少納言はただひたすらに猫の愛らしさとして語り、定子ありし日の追憶の日々を表現しています。

 「枕草子」の各段のうち、「ものづくし」などは皇后存命中に書かれて、一条帝サロンのなかで評判にもなったと思われます。
 しかし、「定子皇后の姿」が描写される段が書かれたのは、皇后がなくなったあとだと研究されています。

 定子はすでに亡く、一条天皇のサロンはライバル彰子中宮の局(つぼね)になっています。
 紫式部和泉式部赤染衛門らがきら星のごとく居並んで仕えていた彰子の局は、新築成った内裏の「藤壷」です。

 若い女主人彰子中宮をかこんで、華やかな時間がすぎていく藤壺の御殿を遠くあおぎ、清少納言は筆をにぎりしめて、美しく聡明だった定子皇后の追憶にひたっていたことでしょう。

 「あのころは、、、、猫も犬も、みな皇后の膝元にいることの幸福をかみしめていた、、、、猫の命婦のおとども、犬のおきなまろも、皇后に「香炉峰の雪」の機転を褒められ有頂天だった私も、、、、」

<つづく>
00:07 |

2006/10/18 水
女たちの宮廷闘争

 990(正暦1)年に定子は15歳で一条天皇(11歳)に入内(じゅだい)しました。
 11歳と15歳のおひな様のような夫婦です。

 995(長徳1)年、定子の父藤原道隆がなくなった後、宮廷の勢力争いが続きました。翌年、ついに彰子の父藤原道長は、定子の兄藤原伊周(これちか)を失脚させます。
 兄は左遷され、父のあとを追うようにして母も亡くなるという心細い境涯のなか、定子は出家を果たしました。

 しかし、一度出家した定子を還俗させて呼び戻すほど、一条帝は最初に入内した年上の定子を愛し、手放そうとしませんでした。
 一条天皇との仲はむつまじく、ふたりの間には、996年に脩子内親王、999年に敦康親王が生まれました。

 1000(長保2)年。藤原道長は、前年に一条天皇に入内させておいた自分の娘彰子を、女御から中宮に昇格させました。
 そのため定子中宮は、皇后へと身分を変えることになりました。この当時の感覚だと、中宮は実質的な天皇の正妻、皇后の称号は「名誉正妻」のようなものでした。

 一条天皇をめぐって、定子皇后と彰子中宮が両立するという異例の事態。
 皇后と中宮は同格で、つまりひとりの天皇に同時にふたりの皇后が並ぶこととなったのです。

 女御更衣など、皇后と同格でない場合、ひとりの天皇に数多くの妻がいることは、いつの時代にもあったことですが、正妻である后宮(きさいのみや)がふたり、というのは、それまで例のなかったことでした。

 一条天皇には、正式に入内しただけでも6人の妻がいました。
 皇后定子(藤原道隆娘)、中宮彰子(藤原道長娘・定子にとっては父の弟の娘)、女御義子(藤原公季娘・定子にとっては、父の叔父の娘)、女御元子(藤原顕光の娘・定子にとっては父の伯父の娘)、女御尊子(藤原道兼娘・定子にとっては父の弟の娘)。
 
 つまり、定子にとって、従姉妹や又従姉妹など親戚一同の娘たちが競って入内し、寵愛を争っているという環境です。
 天皇の寵愛を得て皇子をなせば、父は外戚として大きな権力をふるえます。娘たちにとって天皇の寵愛を争う宮廷生活は、父親たちの権力闘争そのものでした。

 他の后妃たちが子をなすほど寵愛されなかったのに対し、25歳の定子は三人目の子を身ごもりました。
 1000(長い保3)年、両親はすでに亡く、兄は失脚しています。人々は最大の権力者となった道長の顔色をうかがっています。
 後ろ盾のない定子は、ひっそりと内裏から退出し、出産にそなえました。

 3人目の子は難産でした。内親王を出産した翌日、定子は亡くなりました。
 1000年の暮れ、幼い3人の子供たちを残して、定子は鳥辺野に葬られました。

 定子死去ののち、残された三人の子供の代母として、定子の同母の妹が入内しました。身分は宮人。権力のある後ろ盾がいないので、女御という身分をえることはできなくなっていました。

 定子の妹は、御匣殿(みくしげどの)と呼ばれ、姉の残した皇子たちを世話しました。
 定子を忘れられない一条天皇は、この定子の妹を寵愛するようになりました。御匣殿、懐妊。しかし、1002年、姉を追うかのように、妊娠中に18歳で亡くなってしまいました。

 度重なる悲運。
 清少納言は定子皇后なきあと零落し、逼迫した暮らしをしていたのではないか、という説話が室町時代に書かれています。

 でも、清少納言の目に焼き付いていた猫は、宮廷生活の影などみじんも負っていません。猫の思い出も、一条帝サロンの華やかな豊かなイメージのなかに描かれます。
 猫を間においた定子と天皇が、むつまじく笑いさざめいていたころのこととして、清少納言の描く「命婦のおとど」は御殿の中でのびのびと自由にふるまっています。

 一条帝の「猫かわいがり」に対して、藤原実資は批判的な目で記録していました。
 しかし清少納言が猫を描写する目は実資とは異なります。

 猫をめぐる明るさ、くったくのなさが、過ぎし日への郷愁として、セピア色の向こうに浮かび上がります。

 でも、その明るさも、定子皇后の悲運を知っている読者の目には、御簾(みす)の中が二重露光されているかのように感じられます。
 宮廷の華やかさとその裏のおどろおどろの政争と、定子なき後の清少納言の零落とを、御簾の中に読者は重ねて見つめてしまうからです。

<つづく>
00:33 |

2006/10/19 木
ライバル清少納言と紫式部

 一条帝は、温厚な人柄で、学問を好む方でした。また『本朝文粋』などの詩文を残したくらい文芸にも秀で、音楽に関しては笛が堪能という芸術家肌の天皇でした。

 定子中宮に皇后の称号を与える形で、権力者藤原道長は無理矢理、我が娘彰子を中宮へと押し立てたものの、他にも「女御更衣あまたさぶらひたまいけるなかに」、彰子は天皇の心をとらえることができません。

 999年に12歳で入内した彰子は、1000年にライバル定子皇后が死去したのちも、未だ幼く、一条天皇は、定子の妹へと寵を移してしまいました。

 聡明さと明るさで天皇をひきつけていた定子皇后と同じ寵愛を受けるには、彰子もまた聡明な女性に育ってもらわねばなりません。
 道長は「家庭教師役」である紫式部らの薫陶に、彰子の成長を託しました。

 1002年、定子皇后の妹、御匣殿(みくしげどの)も亡くなって、ようやく一条帝サロンは彰子中宮の局にうつりました。
 紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔など、平安文学を彩った才女才媛たちが、ずらりと彰子を取り囲み、もり立てています。

 1008年、彰子は、道長待望の皇子を生みます。敦成親王(後一条天皇)誕生。
 この当時の経緯は『紫式部日記』に詳しく描写されています。

 『日記』のなかに、紫式部は、ライバル清少納言を冷たい視線で描写しました。
 「あの方、知ったかぶりばかりして、漢文も読めるってことを吹聴しているけれど、枕草子をよく読めば、漢文の知識もたいしたことないってことわかるわ、、、、」

 宮廷が「華やかさと明るさ」だけで出きあがっているのではないことを最初から知りつつ彰子の局に伺候していた式部にとって、清少納言の描く「宮廷の華やかな暮らし」を読むにつけ、みずからの境遇に自戒をこめたのかもしれません。
 宮廷生活を見つめる式部の目は、清少納言ではなく、藤原実資の『小右記』に近いのか、いや、やはり実資とも異なる。

 斉藤緑雨は、樋口一葉の小説を評して「熱い冷笑によって書かれた」と、絶妙な言い方をしましたが、紫式部が宮廷を見つめたとき、「熱い冷笑」または「冷たい熱愛」をもって見ていたような気がします。

 清少納言と紫式部の「宮廷世界への視線のちがい」が、猫の描写にも、あらわれてきます。
 随筆と小説という媒体のちがいもあるでしょうが、清少納言がひたすらに定子皇后を賛美し、追憶の中に描きだしたのに対し、式部の描く宮廷は、「冷たい熱愛」の鋭い視線のみが照らし出す冷静な光を帯びているからです。

 次は『源氏物語』の猫をみましょう。

<つづく>
00:00 |

2006/10/20 金
源氏物語・若菜の猫

 定子皇后を深く愛した一条天皇は、定子の死後は定子の妹、御匣殿(みくしげどの)を寵愛するようになったことを書きました。
 御匣殿は定子の遺児を養育するために入内し、定子の残した敦康親王らを育てていました。子供の顔を見たい一条帝の足は御匣殿のもとへむき、自然と定子のかわりに愛するようになりました。

 彰子中宮のもとに一条天皇が足をむけるようになったのは、御匣殿が1002年に亡くなった後のこと。彰子の父、道長の「作戦」が功を奏したのです。

 母親を亡くし、世話をしてくれた叔母の御匣殿まで早世してしまった子供たち。一条天皇は、遺児らの養育をどうしたらいいか、悩みました。
 一方道長のおもわくは。
 入内して3年になる彰子中宮は、未だ子宝に恵まれません。道長は、「もしものときの代打」を考えつきました。

 定子の生んだ敦康親王は、なんといっても皇后所生の第一皇子、万が一、彰子に子ができなかった場合、敦康親王を彰子の養子とすれば、自分は外戚である。

 裏では定子を押しのける形で彰子を中宮にし、定子の兄伊周を失脚させた道長ですが、表の顔は、あくまでも定子の叔父。
 叔父が姪の子をひきとって育ててやろうというのですから、宮廷人たちも納得せざるをえません。

 また、御匣殿のもとへ一条帝が通ったのは、定子の子供がいたから。だとしたら、敦康親王らをひきとれば、天皇は必ず彰子中宮のもとへやってくるに違いない。

 確かな後見人が子供らに必要だと、一条天皇も考えました。
 こうして定子の遺児は、かってはライバルだった彰子中宮の手元で育てられることになったのです。

 子供らの顔を見るために、一条天皇は彰子の局に通うようになりました。道長の作戦、大成功。
 紫式部らの薫陶をえて、賢く美しい女性に成長した彰子は、ようやく一条帝の心をいとめたのでした。

 しかし、彰子が寵愛され、1008年に皇子敦成親王が誕生したとなると、道長の態度は一変します。代打はもう必要ないのです。
 養子より実の孫。以後、道長は敦成親王を皇太子に冊立するために暗躍します。

 一条帝は、あくまでも定子の生んだ第一親王の敦康親王を自分の皇太子にしたいと望んでいましたが、道長は大反対。ついに敦成親王を皇太子にしました。

 彰子中宮は、従姉妹定子の息子である敦康親王を実子と分け隔てなく大切に育てました。
 しかし、道長の反対にあって皇太子になれなかった敦康親王は、1018年に、20歳でなくなってしまいました。

 敦成親王は、一条天皇の次の三条天皇の代に皇太子に冊立され、三条帝の次の後一条天皇となりました。
 華やかな宮廷の裏では、子供の運命も権力によって翻弄されたのです。

 彰子の子、敦成親王が天皇位につくと、藤原道長の権力はここに極まり、「望月の欠けたることもなし」と、我が身の繁栄を自画自賛することになります。

 紫式部は、宮廷のこのような権力闘争をじっと見つめていました。
 紫式部の描き出した『源氏物語』の宮廷は、光とかげとが入れ違い、表と裏が反転する。権謀詐術があり裏切りがある。零落があり、落魄からの逆転劇がある。

 『源氏物語』「若菜の巻」では、事件のきっかけを猫が呼び込みます。
 主人公光源氏の正妻である女三宮と柏木との許されぬ恋の始まりに、猫が大きく関わるのです。
 愛らしい子猫が、晩年の光源氏に苦悩を与える原因ともなった、若菜の巻。

<つづく>
00:02 |

2006/10/21 土
皇女降嫁

 主人公光源氏は、数々の女性遍歴を経て、最愛の紫の上との生活に落ち着いたかにみえました。
 しかし、異母兄朱雀院のたっての願いを受け、朱雀院の愛娘、女三宮を正妻として迎え入れることになりました。

 女三宮は、父である朱雀院の愛情を一身に集めていましたが、後見者がいません。
 宮廷で女性が暮らすには、有力者が後見人となって、何くれとなく面倒をみてくれることが必須です。後見にあたるのは、多くの場合、母親の実家です。

 朱雀院は、このことを身をもって知っています。
 朱雀院の母、弘徽殿大后は、実家右大臣家の権勢を背景にもっていた。だからこそ、自分は皇太子になれた。

 しかし、自分より人物がはるかにすぐれていたにも関わらず、異母弟光源氏は、母親の桐壺更衣の実家に力がなかった。父帝の配慮で、光源氏は臣籍降下し、皇子から臣下の身分になった。

 朱雀院は「病身の自分が出家してしまったら、だれがこの身よりのない娘の世話をしてくれるのか」という不安にかられ、年来の念願である出家をはたせないでいます。
 女三宮の母親(先帝皇女、藤壺の異母妹)は亡くなっており、母親の父である先帝もとうに崩御しています。

 皇女ですから、低い身分のものと結婚させるわけにはいきません。朱雀院が悩みぬいたすえ「娘を託すに足る人物」と思ったのは、異母弟の光源氏でした。

 若い頃の朱雀院は、父桐壺帝の信頼を一身に集める光源氏がねたましく、うとましく感じたこともありました。
年をとり世の中のことを知った今では、これほどの人物は世にいない、とわかり、だれよりも信頼できる人物と思っています。

 現実の宮廷でも、定子皇后が、両親を早く失い兄も失脚するという悲運にあって、後ろ盾がいない不安定な宮廷生活のなかで早世したことを、平安朝の読者たちは知っていました。

 朱雀院が、女三宮の結婚相手として25歳も年上の光源氏を選んだことを、「父としての親心」と、読者たちは感じたことでしょう。
 光源氏40歳、女三宮14歳。

 年の差がある結婚の例はあります。現に紫式部は、父親と同年輩の夫と結婚したのですから。
 しかし、光源氏と女三宮の結婚は、単に年が離れているという以上に、さまざまな問題点をはらんでいました。

 亡くなった女三宮の母親。この母の異母姉は、光源氏が密かに愛しつづけた義母、藤壺です。つまり女三宮は藤壺の姪。

 光源氏がこの若すぎる皇女との結婚を承諾したのは、異母兄朱雀院の頼みを断り切れなかった、という理由のほかに、藤壺の面影を求めてのことでした。
 藤壺は、幼い光源氏を残したまま早世した母、桐壺更衣にそっくりな女人。母への思慕が、義母への恋心となり、若き日の光源氏は、藤壺への思いを断ち切れずに苦悩しました。

 女三宮との結婚は、光源氏の晩年にかげりを生じさせます。

<つづく>
00:01 |

2006/10/22 日
唐猫子猫

 青年期に苦労した分、壮年期からは栄華の絶頂に上った光源氏でしたが、紫式部の筆は、「こうして光源氏は、紫の上の愛情と栄華につつまれて、しあわせに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」にはしませんでした。

 光源氏に長年つれそった紫の上は、皇女の降嫁に苦悩します。
 世の人からは「光源氏に長年愛されて、妻たちのなかでもっとも信頼されている重い立場の人」とみなされている紫の上。
 しかし、正妻として迎えられた皇女の前では、身分の差を思い知らされました。

 紫の上は、父兵部卿宮の正妻の子ではありませんでした。紫の上の母は、正妻にうとまれ早死にしてしまい、祖母によって育てられました。

 (『源氏物語』『紫の物語』とこの物語を呼んで愛読した読者たちは、この少女を「若紫」と呼び、結婚後は「紫の上」と呼びました。
 物語の登場人物の名「夕霧」「夕顔」「末摘花」「朧月夜」などは、読者たちが文中の和歌などからあだ名としてつけたものであり、紫式部の命名ではありません。)

 育ての祖母までが亡くなり、幼くして光源氏にひきとられた若紫は、光源氏を父とも思って成長しました。

 最初の正妻葵の上が一子夕霧を生んで亡くなり、四十九日法要がすんだあとのある夜、突然「養父」であったはずの光源氏は、少女若紫を「妻のひとり」にしました。

 正妻葵の上が病死したあとも、あまたの女性が光源氏のまわりに存在していました。
 その中で、光源氏がだれよりも心奪われている女性は、父桐壺帝の妻、藤壺。
 紫の上の父は、藤壺の兄です。

 光源氏が自分を引き取ったのは、自分が藤壺の姪であったから、ということを、成長したのちの紫の上はわかってきました。
 しかも、女三宮も藤壺の姪。女三宮の母親は、藤壺の異母妹です。

 親の許しを得た正式な結婚ではなくとも、光源氏の愛情は確かなものと信じて長年、夫につくしてきました。
 昔、明石にわび住まいしていた光源氏が、現地妻「明石の上」を得て、娘「明石姫君」が生まれたときも、子をもてなかった紫の上は黙って耐え、その娘をひきとって大切に養育しました。

 その娘が成長し、東宮(皇太子)に入内しました。やっと子の成長を見届け、光源氏とのおだやかな二人の生活がはじまると思っていたら、突然「正妻」が降嫁してきたのです。

 光源氏は女三宮を丁重に遇し、礼をつくしました。が、すぐに幼いだけの女三宮に失望し、結婚したことを後悔しました。
 紫の上を妻にしたとき、さすが藤壺の姪だ、と思えるほど美しく賢い女性に育っていたものでした。しかし、当時の紫の上と同じ年頃であり同じ藤壺の姪なのに、女三宮は光源氏にとって物足りないと感じられる人でした。

 光源氏が女三宮を形式的にだけ大切に扱っていることは、しだいに周囲の人々にも察知されるところとなりました。
 女三宮との結婚を願っていた柏木(光源氏の最初の正妻である葵の上の兄の子)は、残念な思いをうち消すことができません。

 ある日、源氏の六条邸で蹴鞠が催されます。
 柏木は、女三宮の暮らしている部屋の近くで行われることに心躍らせながら、まりを蹴りあげました。
 御簾の奥は外からは見えないけれど、あの中に女三宮がおわすのだ、と思うと、柏木の胸はまり以上に高くはずみました。

 女三宮は御簾を垂らした家の中から蹴鞠を見物していました。
 かたわらには、唐猫が遊んでいます。小さくてかわいらしい子猫と、それより大きい中国渡来の猫です。

<つづく>
00:16 |

2006/10/23 月
子猫の紐

 御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人気近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひ続きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人びとおびえ騒ぎて、そよそよと身じろきさまよふけはひども、衣の音なひ、耳かしかましき心地す 
 
 猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付きたりけるを、物にひきかけまつはれにけるを、逃げむとひこしろふほどに、御簾の側いとあらはに引き開けられたるを、とみにひき直す人もなし。この柱のもとにありつる人びとも、心あわたたしげにて、もの懼ぢしたるけはひどもなり

 大きな唐猫が子猫を追いかけています。猫のおいかけっこに、部屋にいた人々は騒ぎだしました。猫の動きにつれ人々が体を動かすたびに、衣づれの音がサワサワと聞こえます。

 子猫はまだ人になれていないので、逃げ出さないように長い紐でゆわえてありました。子猫が走り回ると、紐の先が御簾(みす=スダレ)にひっかかりました。御簾は紐を引くことによって巻き上げ巻下げを行うようにしつらえてあります。

 子猫が逃げ回ると、たちまち御簾が巻き上げられてしまいました。
 御簾近くにいた女三宮の姿は、庭でまりを蹴上げていた貴公子たちから丸見え。
 貴族の女性が自分の姿を父や夫以外の男性の目にさらすなど、あってはならないことでした。

 おもいがけず、見つめることができた女三宮の姿。宮への思いを消せないでいた柏木は、その姿をみて、恋いこがれるようになりました。

 柏木はこのときの子猫をもらい受け、飼うことにしました。しかし、猫をかわいがるにつけ思いはつのるばかり。ついに女三宮の寝所に忍び込み、、、、。
 女三宮は不倫の子、薫を生みます。

 御簾に巻き付いた子猫の紐のように、人の世の運命の紐も、もつれ絡まり、手足にからみつき、、、、。

 世知にうとい女三宮は、柏木から届けられた手紙を隠しておくこともせず、無防備なままでした。光源氏は部屋にあった手紙を読み、すべてを知ってしまいます。

 かって、若い光源氏は、父帝の妻である藤壷と道ならぬ恋におぼれ、秘密の子をなした。父桐壺帝は、藤壺の生んだ皇子を自分の子と信じて大切にしました。
 その報いが、光源氏自身にめぐってきたのです。

 光源氏は、あくまでも皇女が生んだ我が息子として薫を育てようと決意しました。出生の秘密を守り通すことにしたのです。

 柏木は、光源氏の咎めの視線に耐えられずに病気になり、ついに亡くなりました。
 自分なきあとの後事は、いとこであり親友の夕霧(光源氏の息子)にすべてを託して、、、、

 女三宮は、父の朱雀院に懇願し、出家を果たします。
 これまで人形のように運命に操られるままになっていた女三宮が、生まれてはじめて自分の人生を自分で考え、一人で決定したのが、「出家」でした。

 皇女降嫁以来、紫の上も、心のうちでは、出家したいという願いを強めていきました。
 表向きは、世間知らずの女三宮に細やかな心遣いをし、なにくれとなく世話を続けました。その配慮に光源氏も感嘆していたくらいです。

 しかし、心のなかで、しだいに光源氏にたよるしか生きる方法がなかった自分の人生を観照する時間が大きくなってきていました。

 平安の世で、女性が男の庇護を受けることなく、精神的に自立した生き方をしたいと思ったら、出家して尼になる以外の方法はありませんでした。

<つづく>
08:08 |

2006/10/24 火
運命に絡まる猫

 幼いころから光源氏と共に生きることこそが自分の人生だと疑いもせずに生きてきた紫の上。紫の上にとって、光源氏との結婚生活が人生のすべてでした。

 しかし、その人生とは、自分にとっていったい何だったのか。夫の庇護のもと男の陰で生きるしかない女の人生を観照した紫の上は、人生のはかなさを思い、心のうちは沈むばかりでした。

 紫の上は病いがちとなり、出家を望みました。しかし、正妻女三宮の出家を認めた光源氏なのに、最愛の人紫の上には出家を許そうとしません。紫の上は、望みがかなわぬまま病が重くなり、亡くなりました。

 一匹の子猫をめぐり、運命の紐が絡まり合った末、栄華を極めたはずの光源氏の晩年は、人生の悲哀と寂寥の色を帯びます。
 皇女との結婚によって紫の上に苦しみを与えた事への後悔と、最愛の人に先立たれた悲しみのなかに沈み、光源氏は物語のなかから退場します。

 『源氏物語』後半宇治十帖の主人公は、女三宮と柏木の間に生まれ光源氏の子として成長した薫です。
 「運命の小猫」が生み出したともいえる主人公の物語は、前半の主人公光源氏とは異なって、最初から苦悩と悲哀を帯びています。

 『枕草子』の猫「命婦のおとど」のくったくのなさに比べると、若菜の猫は、次世代までつづく宮廷の負の影のあいだを縫うかのように、人々の運命にからまりました。

 紫式部は、彰子中宮のかたわらにあって宮廷の生活をじっとみつめ、その光と影をすべて冷静に観察していました。
 華やかさのなかにおぼれず、明るい光のなかに己の身をさらさぬ用心をしながら、宮廷の猫にも、じっと静かな視線をむけていたでしょう。

 紫式部の猫は、宮廷の光と影を反転させながら、御簾のうちそとをかけぬけます。

 人々のあいだで、猫をペットとして愛玩することが流行りだして以来、猫は、「物語化」しやすい存在として身近な動物でした。

<つづく>
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更級日記の猫
2006/10/25 水
文学の中の猫(3)『更級日記』の「秘密の猫」

 菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)は、1008年に生まれました。ちょうど、紫式部が宮仕えの日々を『紫式部日記』に書き、彰子中宮に皇子が生まれたことを記録していたころのことです。
 孝標女は、平安時代の女性が皆そうであったように、名前が伝わっていません。父親の名前から「菅原孝標女」と呼ばれてきました。

 清少納言は「清原氏の出身で、親族に少納言の身分の者がいる」という女官名で呼ばれていますが、本名はわかりません。両親家族と夫以外に本名を知る人はいませんでした。

 紫式部も本名はわかりません。「藤原氏の出身で、親族に式部の身分の者がいる」という女官名「藤式部」と呼ばれ、「藤壺にゆかりの紫の上をヒロインとする物語を書いた人=紫式部」という呼び名を得ました。

 菅原孝標は菅原道真の子孫。菅原家は代々、「学問の家」でありましたが、孝標女の母親の系統は「文学」に関わりが深い。孝標女の母親は藤原倫寧の娘で、母親の姉は、『蜻蛉日記』の作者である「藤原道綱の母」です。道綱は、藤原道長の異母兄。

 伯母の「道綱の母」が自分の一生を自伝『蜻蛉日記』に書き残したように、孝標女は自伝『更級日記』を書きました。

 『源氏物語』は、孝標女にとって、「あこがれの本」でした。
 読みたい読みたいと願っていた『源氏物語』を伯母のひとりから譲られた夜は、二日も寝ないで読みふけったこともありました。
 そんな「物語に熱中する少女」だったある日、猫にであいました。
  
 『更級日記』には、主人公と姉が、突然あらわれた猫を「亡くなった大納言の姫君」の生まれ変わりと信じて、大切に育てる話が書かれています。

 「大納言の姫君猫」の段の冒頭を引用します。

花の咲き散るをりごとに、「乳母なくなりしをりぞかし」とのみあはれなるに、同じをりなくなり給ひし侍従の大納言の御女の手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月ばかり、夜ふくるまで、物語を読みておきゐたれば、来つらむかたも見えぬに、猫のいとなごう鳴いたるを、おどろきて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。

 「いづくより来つる猫ぞ」と見るに、姉なる人、「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」とあるに、いみじう人なれつつ、かたはらにうち臥したり。「たづぬる人やある」とこれを隠して飼ふに、すべて下衆のあたりにもよらず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかざまに顔をむけて食はず。

(冒頭の部分、春庭の現代語訳)
 桜の花が咲き散っていくころが、また、めぐってきました。
 花が咲き散るおりごとに、「ああ、私たちのばあやが亡くなったのは、この時期でしたねえ」と、しみじみ思い出されます。

 ちょうど同じ頃にお亡くなりになった姫君、侍従職をしていた大納言様の娘御がお書きになったという筆跡をながめて、なんということもないまま物思いにしずんでいました。

 花も散りきった五月(陽暦では6月頃)のこと、夜ふけまで物語に読みふけって起きていました。
 どこから入り込んだのか、気づきもしなかったのに、猫が、とても長く鳴いている声がきこえました。おどろいて声の方をみると、とてもかわいくて心ひかれる猫がいたのです。

  「どこから来た猫なんでしょう」と思って見ていると、姉は「静かにして!他の人には知られないように。とってもかわいい猫ね、飼いましょうよ」と、言います。

 猫はたいへん人に慣れていて、そばに来て寝ころびました。「この猫を探している人もいるんじゃないかしら」と思い、隠して飼っていると、この猫は下働きの人のところには近寄りもせず、私たちのもとにだけいます。食べ物もきたなげなものは顔をそむけて食べようともしないのです。』
 
<つづく>
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2006/10/26 木
更級日記「大納言の姫君猫」

 更級日記、「大納言姫君の猫」の残り部分を、長いですが全文引用します。

 姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉のなやむことあるに、物さわがしくて、この猫を、北面にのみあらせて呼ばねば、かしがましく、鳴きののしれども、さきなほ、さるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて、「いづら、猫は。こちゐて来」とあるを、「など」と問へば、
「夢に、この猫の、かたはらに来て、『おのれは侍従の大納言殿の御女の、かくなりたるなりさるべき縁のいささかありて、この中の君の、すずろにあはれと思ひいで給へば、ただしばしここにあるを、このごろ、下衆のなかにありて、いみじうわびしきこと』といひて、いみじう鳴くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語り給ふを聞くに、いみじくあはれなり

 その後は、この猫を北面にもいださず、思ひかしづく。ただ一人ゐたるところに、この猫がむかひゐたれば、かいなでつつ、「侍従の大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせ奉らばや」といひかくれば、顔をうちまつりつつ、なごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞きしり顔にあはれなり。

(春庭現代語訳)
 姉と妹の私の間にいつもまとわりついている猫を、おもしろがりかわいがっていました。
 そんなおり、姉の体調が悪くなったことがありました。気ぜわしいので、この猫を北側の部屋において、姉と私の部屋には入れないようにしていたら、猫は騒ぎだし泣きまわりました。

 それでも、あら、また猫が騒いでいること、と思っていたら、わずらっている姉が驚いて「どこなの、猫は。こちらに連れてきて」と言いました。

 「どうしたの」とたずねると、
「夢の中で、わたしのかたわらに猫が来て、こう言うのです。
 「私は侍従の大納言殿の娘です。今はこのような姿になっております。
 こうなるべき縁が少しあったのでしょう。この家のお嬢さんたちが私の書いた筆跡を見て、私を思いだしてくださるので、ただしばらくの間と思ってここにおりますのに、このごろ下働きの人の間にばかりおかれて、とても侘びしいことです」

 と言って、ひどくないているようすは、上品でおもむきがある人に見えて、たいそう驚きました。
 姫君は、この猫の声でないていたんですよ。とても哀れ深い思いがしました。」

 それからというものは、この猫を北側の部屋になど出さないで、大納言の姫様と思って大切にしました。
 ただひとりきりでいたときなど、猫に向いあって「侍従の大納言の姫君でいらっしゃいますのね。大納言殿にお知らせ申しあげたいこと」と言いかけると、私の顔をじっと見つめて、長く長く鳴くのです。

 気のせいか、そういう目で見るからなのか、普通の猫とは思えず、私の言うことをみんなわかっているかのような顔をしているのが、いじらしくおもむき深く感じられました。
===============

 『源氏物語』を夢中になって読みふけっていた少女とその姉。
 春になると、花が咲くのをみても散るのをみても、自分たちをかわいがってくれた今は亡き乳母をなつかしく思い出します。また、乳母と同じ頃なくなった「大納言の姫君」に書いてもらったお習字の手本をくりかえしながめていました。

 どこからか迷い込んできた猫。とてもきれいな猫で上品なようすをしています。
 姉と「ふたりだけの秘密」と約束して、隠して飼うことにしました。病身の姉は、外出ることもなく、そっと猫をなでています。

 あるとき、猫が姉の夢のなかにあらわれました。
 夢のなかで、猫は「今はこのような姿になっていますが、わたくしは、大納言の娘です」と、言ったのです。
 夢のなかで身の上を語る姫君の声は、猫の声に重なっていました。

 少女たちは、あたりにだれもいないとき、猫をなでながら「おまえは、大納言の姫君なんでしょう、大納言殿にお知らせしましょうか」と言葉をかけます。猫はじっと少女の顔をみつめて、長く鳴きました。
 「やはり、そこらへんにいる普通の猫とはぜんぜんちがう猫みたい」と少女は思うのです。

 「猫の変身譚」が一般に知られていたからこそ、更級の少女も「きっとお姫様の生まれ変わりよ」と、信じたのでしょうね。

 「更級の少女と猫」は、大島弓子『綿の国星』の猫に至るまで続く「少女と猫」の物語や「猫耳少女」の原点に思えます。

 綿の国星のチビは、猫が成長すれば人間になれると信じています。チビの視線で人をみれば、元は大納言の姫君だった猫もいれば、やがては人の姿となる猫もいることでしょう。

 猫は少女にとって、自分自身の姿を反映したものであり、少女の夢と秘密を体現したものであり、だれにも知られてはならない秘密やウソを共有する、そんな存在です。

<つづく>


ぽかぽか春庭「光太郎の詩」

2008-10-28 06:51:00 | 日記
光太郎の詩
2007/01/02 火
ことばのYa!ちまた>亥年に牛の詩

 「亥」
 娘が年女です。猪突猛進娘?いえいえ、巣穴にひきこもっています。冬眠中。
 あれ?イノシシって、冬眠するんでしたっけ。
 引きこもりの猪にかわりまして、再来年の干支の「牛」が代わりにごあいさつ。

「牛」(高村光太郎 2006年12月31日をもって著作権切れにつきコピー)

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を堀り土を掘り石をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の道を味わって行く
ふみ出す足は必然だ
うわの空の事でない
是でも非でも
出さないではいられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後へはかえらない
足が地面へめり込んでもかえらない

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしゃらではない
けれどもかなりがむしゃらだ
邪魔なものは二本の角にひっかける
牛は非道をしない
牛はただ為たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなって為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自身を強くする
それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
どこまでも歩く

自然を信じ切って
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につっ込み食い込んで
遅れても、先になっても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思わない
牛は自分の孤独をちゃんと知っている
牛は食べたものを又食べながら
じっと淋しさをふんごたえ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く
牛はもうとないて
その時自然によびかける
自然はやっぱりもうとこたえる
牛はそれにあやされる

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思い立ってもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡知にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちゃを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるおいのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の眼だ
牛は自然をその通りにぢっと見る
見つめる
きょろきょろときょろつかない
眼に角も立てない
牛が自然を見る事は自然が牛を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとっての努力じゃない
牛にとっての当然だ

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争わない
争はなければならない時しか争わない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしている
生命をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機ではない
ねじだ
阪に車を引き上げるねじの力だ
牛が邪魔者をつっかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際だが
牛の力はねばりっこい
邪悪な闘牛者の卑劣な刃にかかる時でも
十本二十本の槍を総身に立てられて
よろけながらもつっかける
つっかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力ははうも偉大だ

それでもやっぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥やす
利口で優しい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた鳴き声と
すばらしい筋肉と
正直な涎を持った大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
00:29 | コメント (8) | 編集 | ページのトップへ

2007/01/03 水
ことばのYa!ちまた>冬、三日

 酒少し剰し三日も過ぎてけり(石塚友二)
 あたたかし三日の森の弱音鵙(もず)(星野麦丘人)
 はや不和の三日の土を耕せる(鈴木六林男)
 三日はや雲おほき日となりにけり(久保田万太郎)

 一月三日の東京は万太郎の句のように、雲が多くなってきました。
 今年も箱根駅伝を娘息子とテレビ応援しながらの正月がすぎています。

 「あたたかいお正月でありがたい」と、日中はストーブもつけずにすごせるほどです。

 12月半ばになってようやくいちょうが黄金色になり、冬が来たという気分にきっぱりとはなれないまま正月をむかえました。

 「きっぱりと冬」という気分も、すてがたい、とはいうものの、「刃物のような冬」は、詩のなかで味わうだけにしておいて「寒がりぐうたらの冬」でおわる、三が日 

[冬が来た]高村光太郎

きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒(はうき)になつた

きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食(ゑじき)だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た


09:34 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


2007/01/04 木
ことばのYa!ちまた>道

 娘の焼いたナッツクッキーをぼりぼりかじりながら、2日3日の箱根駅伝往路復路を応援しました。
 トップ争いや激しいシード権争いが続き、中継から目を離せないレースでした。

 見る方は、お茶飲んだりお菓子つまんだりしながらのんびりの見ているだけですが、冬の道をひたすら走り抜けていく若者の姿は、年のはじめにみんなに元気をわけてくれる気がします。

 競り合う激しいかけひきのシーンも、山登りの道をもくもくと独走していくシーンも、選手たちがひたむきに前進する姿をとらえていました。中継地点で、満面の笑顔でたすきをつなぐ者、足をいため、くずおれるように走り込む者。

 果てしなく続くように思える道の一歩一歩を、自分の足で踏みしめていくほか、前へ進む方法はありません。
 私の道も、まだまだ凸凹道やら急な登り坂やら下り坂やら、苦しい道のりばかり続くように感じますが、一歩一歩、はってでも進むほかなさそうです。

 高村光太郎の第一詩集「道程」。
 若い頃、「道程」は求道的で、「道徳の教科書」っぽくて、あまり好きになれない、などと生意気にも思っていました。

 「道」のなかの、「ああ、自然よ 父よ」というフレーズも気に入らない一節でした。
 農耕民族にとって「ああ、自然よ」ときたら、次は「母よ」と発想するほうが、素直な言語感覚なんしゃないかと感じ、「ああ、自然よ」のつぎに「父よ」と呼びかけるのは、キリスト教文化を意識したフレーズなんじゃないか、と思っていました。

 今は、光太郎がこの第一詩集を書いたときの年齢31歳よりも、その当時の高村光雲の年齢に近づいて、詩への印象も変わりました。
 父光雲と同じ「彫刻」という仕事を選んだ光太郎にとって、父から自立していくためには、父と対峙し、客観視することが必要だったのだろうなあと、思います。

道程(高村光太郎)

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

ぽかぽか春庭「短歌ノート」

2008-10-26 14:02:00 | 日記
短歌ノート
2007/01/07 日
ことばのYa!ちまた>短歌ノート(1)

 眼鏡と財布と鍵と通帳とハンコを年がら年中探し回っている。
 「保管場所を決めておけばどこにおいたか、すぐにわかるのに」と、いつも言われているのだが、もちろん決めてある。しかし、ものをなくす人というのは、毎日、「ちゃんとした置き場所にしまうまで、ちょっとの間だけ、臨時に、仮に、ここにおいておこう。ぜったいにすぐに、ちゃんとしまうから」と思って、「臨時保管」をしてしまうものなのだ。

 クレジットカードの引き落としに使っている通帳の残高が不足して、引き落としができなかった、という連絡が届いた。あら、たいへん。
 あわてて通帳をさがしたが。
 去年、「ちょっとだけ、仮に、臨時にここにおいといて、あとでちゃんと、、、、」と思った、その「臨時に仮にちょっとだけ」の場所がわからなくなった。

 引き出しやバッグや、私が「臨時にものをおいておきそうな場所」を探し回る。
 こういうときは肝心なものは見つからないが、以前から探しているほかのものがみつかることになっている。
 「まちがえてほかの古ノートといっしょにすててしまったのだろうか、なくなってしまって残念だったなあ」と思っていた「短歌ノート」がみつかった。

 短歌といっても、短歌になっているのかどうかさえおぼつかない。師匠もおらず、気が向いたときにひょこっと口にのぼることばの切れはしをメモしておいたノートだ。
 それでも、ノートがなくなってしまうと、そのときどきの心のつぶやきが消えてなくなってしまったような気がして、残念に思っていた。なくなって、そのままになって数年、ひょっこりと見つかった。

 ノートが出てきたので、一部コピーしておきます。
 そう、このころは、こんな気分でいたんだと、私の姿を残してきた歌、なつかしかった。

 「ウェブの中に記録しておけばなくさないかも」と、思ったのに、2005年と2006年の読書メモサイトが消えた。しかし、自分のサイトからは消えたように見えても、ブロバイダーの記録の中には残っていることがある、っていう話も聞いたので、パソコンよくわからない私ですが、メモの一部を写しておくことにします。

 うたの出来具合がいいわるいという規準でのセレクトではなく、日々の営みのなかで感じたことを忘れないため、母や姉ら亡くなった大切な人への思いを残すための記憶のよすがと思って選んびました。

<1998年3月>
 (新聞日曜版にオギノ博士の事績記事ありて)
我が排卵も命なきまま命無き無精卵焼くサニーサイドアップに
たったふたつ命となりぬ我が卵子受胎奇蹟の命なりしを

 (RPGゲームをする子)
幾たびも死んで幾たび生き返るRPGのみ好める子
「シマネキ(死招き?)」とう毒草に触れ勇者果て淡々リセット押す子の背中

 (先の代の地久節という日に)
生きながらもがりの宮に坐すごとき国母と呼ばれし女の一生

 (深夜のコンビニで)
コピー機の閃光コンビニ午前二時深夜の孤独を写しとらむか


<1998年3月>
 (テレビの自然番組をみて)
アイアイもベローシファカも滅びゆくマダガスカルの森の荒廃
否(いな)否と吠えるましらよ虚虚虚虚と啼く鳥熱帯雨林の滅亡

<1998年8月>
 (新宿にて)
唇(くち)赤き老い街娼(たちんぼ)の口ほどの日輪沈みぬ二丁目の角

 (吉本ばななの感想を娘と語り合う)
「ばなな」読み、娘と交わす感想が、バナナシェイクにふるふる溶けてく
子音母音子音母音と重なりて開音節にてもの言う我ら
 (母と私と娘と)
我娘(あこ)の歌と亡母(はは)の残せし歌並べ旧盆の夜はひとり歌よむ
娘(こ)の詠みし歌とわたしの腰折れを母の形見の句集にはさみぬ
ただ一度全国版に載りし母の一首をかたみに三十年生く

 (旧盆前後)
受身形(パッシブフォームPassive form)のパッシブ(passive)受苦形と訳したり殺され焼かれ屠らるる夏

 (日本語教室)
 午後クラスに満つる使役形「せる・させる」日本語覚えさせるが、わが職
「意向形」立とう進もう愛し合おうFormはかくもたやすきものを

 (文法を教えながら)
「抱かれれば、愛されれば」と仮定形しかない受動態(パッシブボイス)の一日(ひとひ)よ
「たい」「たけれ」会いたい見たい愛したい、動詞になれぬ希望の助動詞
 (ひらがなを教えながら)
「あ」「い」愛は日本語のLOVE愛されぬ妻なりし我が教えるひらがな
「こ」を九十度まわすと「い」だよ、留学生笑いつ手習い恋来い四月

 (エイトマン主題歌をきく)
殺人を犯せし歌手のうたう歌に低く唱和す我も罪びと

 (原宿界隈)
「ブラームスの小径」とう路地すりぬけてキラー通りへ向かう殺意か

 (夏の死角)
三角函数わからないまま塾やめて、さよなら三角またきて死角
詞(ことば)喰らう玻璃ハリ破離と詩歌食う飢えし心が食っても食っても
午後の曳航東京ベイにひかれゆく少年の刃先よ空を切り裂け


<1998年8月>
 (夏の葬列)
亡き叔父はとび頭(かしら)なり。葬列は木遣りうたいつ静かに歩む
炎天に黒列細く上りたり我がいえの墓は山中の墓
夏の葬列。くるくるくると黒き日傘を回していたり墓につくまで
 (銀河鉄道)
ジョバンニよ私も切符ないままで銀河鉄道廃線めぐる

 (夏の通勤)
顕微鏡の精虫遡行さながらに地下鉄階段群流くだりぬ

<2000年2月>
 (チョコレート革命)
 チョコムースのような歌詠む歌人いて、「革命?」なんとも甘すぎるんです

 (2月の居酒屋)
のんだくれ女がコップあおりつつ「カクメイが希望のことばだったよ」
コリコリと軟骨噛めば我が大腿四頭筋へと罅いる味す

 (路地の店)
元皇民朴の書きたるカナクギの「レイメンありマス」アリラン亭前

<2002年4月>

 (最終章の春・ホスピスの姉)
静心なく花の散るホスピスの窓よりながむる最終章春
枝えだに宿り木やどし けやき樹は若葉を萌やして大地母のごと
緩和ケア病棟の庭七本の桜の若木すこやかに立つ
ホスピスの窓にふりしく花追いて最期の春を瞳(め)に写しとる
プリンペランとう点滴薬を身のうちにポロンパランと注ぎて寝る姉
ホスピスの庭に光(ライト)をあふれさせ旅立つ人へのカーテンコール
 (姉のうたえる)
春の光浴び舞う花よ来年は私はいないがまた咲け花よ
======================

<2003年>
(17文字)
(5月4日に)我も手に釘打ちぬいてみる修司の忌

 (カフェ日記を書き始めたころの31文字)
09/27 宇宙(コスモス)へ旅立つ人へ一輪の秋桜たむけてグラスほす夜

<おわり>

ぽかぽか春庭「なりすまし文体」

2008-10-24 19:05:00 | 日記
女もすなる土佐日記

2007/01/19 金 
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(2)女もすなる土佐日記、中国男もすなるカフェ日記

 なりすまし文体。
 平安初期を代表する文学作品『土佐日記』
 男性である紀貫之が女性になりすまして「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり」と、書き始めました。

 平安初期、男性は漢文で日記を書いていました。
 ひらがな文字は女性が使い、女性に手紙や和歌を送るとき以外には、教養のある男性が「女手」のひらがなで書いた文章を公表するなどということはありませんでした。

 しかし、どれほど漢文で書く文章に熟達したとしても、自分の母語で、ふだん話していることばのまま文章につづれる魅力は、男性にとっても心ひかれるものであったことでしょう。
 そこで、紀貫之は「女」になりすまして書いたのです。日本語言語文化における「なりすまし文体」の嚆矢といえるでしょう。

 ネットのなかでは、男が女に女が男になりすまし、中年が若者に、老人が女子高校生に、なんでもなりすまして書くことができます。
 若い人と知り合いになりたいご老体が、若者のふりをしてネット友達をつくる、くらいは「まあ、楽しくおやりなさい」と応援したくもなります。

 しかし、社会問題について、何らかの意見を表明したいと考えて文章をつづっているらしいのに、なぜ中国人になりすまして文章を書く必要があるのか、よくわかりません。
==========================
南京虐殺は作り話です おじいさんのお父さんはそのころ南京にすんでいました、紅卍社に雇われて毎日墓堀をしました。その時何も代わりはなく過ごしたそうです。党中央の宣伝に惑わされないで下さい。(中国男 2007 1/7 0:47)
=========================
 「南京事件は作り話」というような主張を展開したいらしいですが、日本人としてこれを主張するのはまずいけれど、中国人として主張するならいいだろう、と考えてのことなのでしょうか。

 他者になりすまして、お金を振り込ませる「オレオレ詐欺→振り込め詐欺」は論外ですが、他者を傷つけたり迷惑をかけたりしない範囲でのことならば、なりすますこと自体が犯罪になるわけではありません。

 言いたいことがあるのなら、堂々と自分らしいことばで表明したほうが、わかりやすい主張になるとは思いますが、自分を出して意見をいえない場合もあるのでしょう。

 日本の硬派出版社の経営者がユダヤ人のふりをして書いた本は、なかなか鋭く日本社会に切り込んだ評論になっていました。
 ネットのなかで「なりすまし」で書いている文章も、何らかの効用があるのかもしれません。

 「論議、呼びそう問題について、別の国の人になりすまして語るのこと、論拠ない意見述べても、ごまかしきく思ているあるね。
 でも、読者も、読む目もってるあるよ。

 加油!!(チャーヨゥ!がんばって)」

<つづく>
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2007/01/18 木 
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(1)

 リービ英雄、アーサー・ビナードらの書く日本語は、とてもうまくて、もし著者名が伏せられていたら、日本語を母語としない人が書いたのだとは思えないほどこなれています。

 英語母語話者だけでなく、中国語を母語とする人の文章も、初心者のものも、達意の文章を書く人のも、いろいろ読んできました。

 1月にカフェ新加入の「中国男」というIDをもつ人、プロフィールは「男性・学生」以外のことは書いてありませんが、「中国人として日本の友人(読者)へ向けて社会問題への意見を書いている」という体裁をとっている文章です。
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近代史学習しない 困る事有る
美帝日本を占領して漢字変えた 昔の日本語皆読めない。かわいそう 大東亜戦争負けたから、仕方ない。それでホント違うこと宣伝した
ラヂオ使い、新聞使い、教科書使い、みんなでやった、それ実はGHQは美帝の中の共産主義者です。そのころいっぱいいました。それで困った美帝の闇権力はレッドパージしました。そんなことも知らない?その人達5%のアメリカン、人種アングロサクソン違う!
日本人嘘教えてもらった(2007-01-12 00:08:10)

小事件暴露 大事件秘匿 これ日本国
食品の事件よく起こる 小事件です。もっと大きな悪いこと メヂア伝えない。それ仕方ないね。みんな美帝のお金に阿る、あまり言うとその人行方不明になる、怖いです。でも私身分隠した、誰か分からない、本当の事実話すよ! (2007-01-13 22:13:08)
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 というような文体で、中国人の主張として書いている。

 でも、中国人の書く日本語の文章を10年間読み続けてきた私から見ると、中国人がこのような文体で書いているのを読んだことがない。この文体は、日本人が『中国人ならこう書くのではないか』という思いこみで書いた文体だと思われます。
 以下のコメントをbbsに書き込もうとしましたが、ま、考えてみれば、お節介なことだと気づいたので、書き込みはやめました。
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ニーハオ?好
 あなたの日記の文体が、あまりにも「中国人が日本語を書くとこうなるだろうと、日本人が考える文体」なので、おもわず、書き込みを。

 中国人は、けっしてこのような文体で日本語を書かないので、中国人のふりをするなら、「中国人が書いた日本語」を読んでみると、文体模写ができるようになるかもしれないと、おすすめにあがりました。

 もしかして本当に中国出身の方なら、自分ではこのように書かないけれど、日本人は中国人がこのように書くと信じているだろうという文体で書いていることになり、これは、ひとつの文体技術ではありますが。

 ねかま(ネットおかま)ネット厨房(ネットで中学生のふり)などは見てきましたが、ネット中国人てのは、カフェのなかでは新しいかな、と、今後のご意見発表を読ませていただきます
 加油!!
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 カフェID「中国男」さんの文体、テレビに出てくる中国人が助詞ぬきでしゃべり、「わたし、シャンハイからきたあるよ。カネモチあるのコトヨ」と、紋切り型に話しているような文章なので、とても笑えました。
 本人は、これで中国人になりすましているつもりなんだろうなあ、と思いますが、本当に中国語母語話者が日本語を書いたのだとしたら、こんな日本語文体にはなりません。



文体分析
2007/01/20 土 
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(3)文体分析

 筆跡鑑定は、遺言書の確認とか、犯罪捜査でもかなりの精度で効果をあげているらしいですね。

 サインなどの筆跡鑑定。
 クレジットカードなどを使う機会がふえ、サインをするたびに、たいした筆跡じゃないのに、ほんとうにこれで筆跡鑑定すると私が書いたのかどうか、区別できるんだろうか、と心配になります。

 よく財布をなくすので、だれかが文字をまねして書いて、拾ったクレジットカードをつかったりすることもできるんじゃないだろうかと、余計な心配をしてしまって。
 だいじょうぶですよね。たぶん、ケーサツの筆跡鑑定などは、ずいぶんと精度が高いのだろうと思います。知らないけど。

 文字にその人の「ひととなり」が現れているとは、よく聞くことで、悪筆の私は「筆は人なり」ということばを聞くたびに、「ああ、こんな悪筆だと、どんな悪人に思われていることか」と、落ち込みます。ま、性格悪くひねくれてるってのは、かなりあたっていますが。

 また、「文はひとなり」とも聞きます。
 私の文章を「歯切れよく、ぽんぽんと言いたいことを言いたいままに書いている」と評するコメントを寄せてくださった方もいました。
 文章だけで私を判断する方にとって、私は「言いたい放題」に見えるのも、納得しています。

 自分自身では、「世間にでると人見知りで臆病、優柔不断な性格なので、せめて文章では言いたいことを素直に言おう」と思っています。
 と、言っても、実際の優柔不断の私を見たことない人には、わかってもらえないですよね。ものを買うときに迷って決められないくらいは許容範囲と思っているのですが。

 文章の書き方で人柄まで判断できるのかどうかは、さておき、ある文章が、本当にその人が書いたものであるかどうか、ネットのなかで問題になることがあります。
 他者になりすまして、bbsなどに書き込みをする人もいるので。

 有名人のファンサイトBBSに、有名人本人が書き込みをして、管理人は大喜び。ところが、それは、第三者が有名人になりすまして書き込んだ、などということは、よく聞きます。

 1行2行の短いコメントでは、どこまでできるかわかりませんが、コンピュータの発達によって、文体分析はかなりの精度で、本当に本人が書いたものかどうか判断できるようになってきました。

 最近の「計量日本語学」は、さまざまな文体分析手法によって、ある程度のまとまった文章を分析すれば、本人が書いたものかどうか、判断できるようになりました。
 これによって、「なりすまし文体」などは、本当に本人がかいたものか、分析できます。

 従来、論議が続いていた文体論に、ほぼ決着がつく研究も出されてきました。
 たとえば、「源氏物語・宇治十帖」は、ほんとうに紫式部が書いたのであるかどうか。「光源氏の物語44帖」に続けて紫式部自身が書き続けたものなのか、それとも、別人が紫式部の名を借りて書き足したものであるのか、という論議が昔から続いてきました。
 あまりにも作品のトーンがちがうので、別人の作品かも、と、読んだ人が感じるところです。

 最新のコンピュータ利用の文体分析では、名詞の語彙使用分布、形容詞動詞副詞の用法、など、あらゆる分析を通じて、宇治十帖も、前半44帖と同一人物の文体であろう、という研究結果がだされています。

<つづく>

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文体模写あそび
2007/01/21 日 
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(4)文体模写遊び

 今は、各種変換ソフトの発達で、「各地の方言に変換するソフト」もあるし、「女子高校生風、絵文字入りギャル語変換」「平安朝女流日記風古文文体」など、いろんな文体に変換してくれるソフトがあるのだそうです。

 「なりすまし文体」とは、方向が異なりますが、「なりきり文体」「ものまね文体」というのもあります。「文体模写」という遊びです。

 昔の文学青年たちは、特徴のある文体を模写して「川端康成風文体」「三島由紀夫風文体」「野坂昭如風文体」などで書いてみて、本当に作家の文章なのか、模写文体なのか、あてる遊びなどをしたそうです。高度な文学遊びですね。

 和田誠の『倫敦巴里』
 このなかで、川端康成『雪国』冒頭の文章をさまざまな作家の「文体模写」でかき分けてあるのを読みました。笑いながらも「芸やねぇ」と感心してしまいます。
 夏目漱石の未完の作品『明暗』の続編を、水村美苗が書いた『続明暗』などは、知らないで読めば、「漱石がそのまま書き続けたのかもしれない」というそっくり文体に仕上がっています。

 管理人ヒロユキがまたまた訴訟問題の主人公になって、何かと話題のたえない2チャンネル。
 文体模写あそびも、2チャンネルに集う人には、格好の遊び道具。
 カフカの「変身」を、いろんな作家の文体でパロディにしてしまうスレッドがあります。ある文体の作家に「なりすます」のではなく「なりかわって」書いてみるとどんな文章になるか、という遊びです。

 たとえば、清少納言が『変身』を書いたとしたら、こんなふう。(by 2チャンネル)
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ザムザはあけぼの。やうやう不安になり行く夢ぎは、薄く目あきて、
節くれ立ちたる四肢の細くたなびきたる。目には甲殻。背中の方は
さらなり。仰向きてなほ、頭もたげたるほどに見ゆる腹部、褐色げ
にして、いとすさまじ。まいて関節の四つ三つ、二つ三つなど、禍々
しく幾重にも連ねたること、返す返すもすさまじけれ。また、参り
果てて、さらでもいと寒きに、腹に掛けたる布団の止めどなく落ち
急ぐ様こそ、あはれといふも愚かなり。
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 清少納言が「枕草子」に描いた「いとをかし」の雅も、カフカがザムザに託した不安もくるりとひっくり返されたパロディになっていて、おもしろく読めます。
 
 ただで楽しめることば遊び、日本語言語文化のおとくいの分野です。落首、狂歌などさまざまなことばを人々は楽しんできました。
 俳句短歌川柳回文、いろいろあるなか、この「文体模写」も楽しめるもののひとつだろうと思います。

 春庭も、下手な俳句や短歌、回文句を楽しんでいますが、カフェ日記に自分の考えたこと思ったことを述べるとき、まずは、私自身として、私自身のことばで、言いたいこと書きたいことを書き続けることにします。

 たまには、「美人で細身で若々しくて頭脳明晰」なんて人になりすましてみたい気もしますが、ま、春庭文章を読んでくださった方々が想像している通りの「老眼、白髪ふりみだしの太め、短足につっかけ履いて走り回ってよくころぶ」ってな姿、なりすましたところで、「ダンサー女パパイヤ鈴木」くらいか。

<つづく>
00:15 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ




なりすましJapan、サヌい!
2007/01/22 月
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(5)なりすましJapan、サヌい!

 映画のなかに出てくる日本の姿。昔のハリウッド映画の日本人や日本の景色には、笑える「おかしな日本」がたくさん出てきました。
 最近の映画では、日本でのロケも多いし、それほどの違和感もなくスクリーンをみていられるようになっています。

 2004年6月に封切り公開され、2006年11月にテレビ放映された『デイアフタートゥモロー』の冒頭の東京のシーンに、どことなく違和感を感じました。たった1~2分の東京の街角シーン。

 東京での出来事として撮影されていますが、絶対に東京ロケをしていないなあ、と思いました。
 半分中華街のような、奇妙な感じがしたのです。キッチュなトーキョー。
 どこか、外国のリトルトーキョーのような町でのロケ?たぶん映画スタジオのセットで撮影されたのだと思います。東京の街角の再現に、美術さんは張り切ったことでしょう。

 『デイアフタートゥモロー』の冒頭。
 南極の棚氷がまっぷたつに裂けていくシーンにつづいて、トーキョーの異常気象パニックシーンになります。

 「東京に、大雨洪水警報、急いで避難してください」と、パトカーが警告しながら町中をパトロールしている。会社帰りに屋台でいっぱいひっかけていたサラリーマンも、警報をきいて、さて帰ろうと腰を上げた。
 突然巨大な雹が空から降ってくる。電線はちぎれ、看板やネオンサインが落下する。

 最初は、この違和感の正体がわかりませんでした。
 東京の繁華街を、綿入れ半天で歩いている女の子がいたり、旧千円札の伊藤博文のように白い立派なヒゲを蓄えたおじいさんがいたりすることが、アリエネー感を醸し出しているのかと思ったのですが。

 今時の東京の繁華街を、街着として綿入れ半天をきて若い女性が歩いていたら、それは、なにか特別なイベントでもやっているかと思うくらい、非日常的な光景にみえる。
 でも、絶対にありえないともいえない。綿入れ半天を来て学校に通っている女の子が、東京にひとりくらいいるかもしれない。ヒゲのおじいさんも、探し出せばいないことはない。
 では、この違和感はどこから出てくるのだろう。

 空から巨大な雹(ヒョウ)がふって、人々を直撃するシーン、雹に打たれて二階から看板やネオンサインが落ちてくる。逃げまどう人々の後ろに、はっきりネオンサインの文字が読めた。ネオンにある店の名は、「サヌい」と書いてある。
 「サヌい」って、いったい?

 巻き戻して画面の中に見える看板などを読んでみた。バイク屋の看板に「オートツョップ」と書かれている。オートショップのつもりだろう。
 アメリカ人にとって「オートショップ」も「オートツョップ」もたいした違いもない、というか、まったく同じものに思えるであろう文字が、その文字を使っているものにとっては、見過ごせない違和感を生み出す。

 留学生がよく書き間違えるカタカナ「ソとン」「ツとシ」「ミとシ」「スとヌ」。アメリカの映画会社の美術担当者がまちがえるのも、わかるけれど。「サヌい」が「サスい」だとしても、店の名としてはどうもなあ。
 
 さらに気をつけてみると、入り口が鳥居になっている店があったりする。
 アメリカ人が日本をイメージすると、「入り口といえば、これだよなあ」ということになるのでしょう。

 巨大な雹は次々と人の頭上を襲い、警察官も、会社帰りに屋台でいっぱいやっていたビジネスマンも倒れていく。
 そんなパニックシーンの東京、いちいち看板の文字など気にしてみる場面ではない。繁華街の道ばたに鳥居があるのも、映画館で見ていたのなら、みすごしたでしょうね。
 氷の固まりで頭を打たれて倒れていく人の姿に驚いているうちに、次のパニックシーンに移っていったでしょう。

 でも、そんな1、2分のパニックシーンであっても、見ていると、「あれ、これは本当の東京の街角じゃないなあ」という違和感が残りました。どこと言って指摘できなくても、なんとなく「半分中華街のような東京」だっていう印象が残ってしまいます。

 これが、「なりすまし」「模写」の限界なのかもしれません。
 がんばって、東京の街角をセットで再現してみた。うん、よくできている。っていっても、「オートツョップ」になっている。東京の街を見慣れた者にとっては、店の入り口が鳥居になっていることにアリエネーと感じ、車や看板についている家紋風のマークが、日本では見かけないマークばかりであることに「アレレ?」という感じを受けてしまう。

 偽物が本物を凌駕する場合がなきにしもあらず。でも、やはり、「なりすまし」の表現や「ヘタな模写」は、どこかでボロが出る。
 私ごときが何者かになりすましたとして、せいぜい「オートツョップ」や「サヌい」程度のものになるのが関の山。
 私は、私自身の姿さらして書いていくのが一番いいと思っています。

<おわり>

ぽかぽか春庭「アーサー・ビナードふぁん」

2008-10-22 08:18:00 | 日記
2007/01/12 金 

アーサー・ビナードでコーヒーを買う

 ひごろは、自分の楽しみのための読書には、古本屋店頭ワゴン投げ売り3冊200円の文庫本がごひいきです。仕事関係の専門書は、高くてもつぎつぎに買っていかなければならないので、お楽しみ読書にはあまりお金をつかえない。
 1月8日月曜日、振り袖姿が行き交う池袋へ出て、半日本屋ですごしました。

 8日は「すわり読み」しただけで、買わなかった。2006年年末に、「1年間よく働いたごほうびに、新刊書を買ってあげましょう」と、自分で自分にごほうびで、どさっと買った分がまだ読み終わっていないから、ちょっとがまん。

 好きな本屋は池袋ジュンク堂と渋谷のブックファーストです。椅子にすわって、すわり読みができるから。
 まえは、西武のなかのリブロも座り読みができたのに、椅子が撤去されてふつうの本屋になったから、あまり行かなくなった。
 ジュンク堂は、1万円以上買うと、4階コーヒーショップで利用できるドリンク券をくれるから、まとめ買いをしようと思うときは、たいてい池袋へ。

 本屋選びの規準は、「探している本のタイトルや著者名をあやふやに覚えているだけでも、そのあやふやなタイトルをきいただけで、ちゃんと本のある場所をおしえてくれる店員さんがいる店」

 ジュンク堂の店員さんに、「えっと、信長の親衛隊っていう本を書いた谷口ナントカっていう人の最新刊の、信長のナントカっていう本」と言って探してもらった。
 「ナントカっていう人が書いたなんとかっていう本」という要求にきっちり答えて、谷口克広著『信長の天下布武への道』を探して持ってきてくれました。

 カートを押して本棚の間を歩き、目についた本をどしどしかごの中に放り込む。壁際に椅子がおいてあり、座って本を読んで選べる。
 表紙の装丁をながめ、ぱらぱらと目次をめくります。それから、前がきあとがき走り読みする。目次の気になったページをあけて、少し読む。文体の「手触り」にふれる。

 それで、1)店内で読了しちゃう 2)買う 3)買わない、の3つに分けます。
 文庫や新書は気軽に買えるようになったけれど、まだまだ自分のお楽しみ読書に1冊3000円なんて定価がついていると、「う~ん、来月のおかず代にしたほうがいいかなあ」と迷う主婦である。

 「石牟礼道子全集17巻・別巻1巻」は、1冊9000円前後。17巻とても揃えられないなあ。老後のお楽しみにとっておこう。って、もう十分「老後」の年齢なんだけれど、こういうときはまだまだ将来があるつもりで。
 それまでは古本屋3冊200円コーナーで買った「椿の海の記」や「苦海浄土」を読み直してます。すみませんね。印税ご報謝できなくて。宝くじあたったら、必ず買うから。

 写真集も定価高いから、「店内で見てしまう」のほう。長倉洋海シルクロード写真集『. 西域の貌』4095円。 ごめんね。長倉洋海さん。宝くじあたったら必ず。

 「お楽しみ用の本を選ぶ」というセレクトだったけれど、『万葉びとの生活』とか、『外国人から見た日本語』というような、仕事に関わりそうな本も「買う」の方へ。

 2006年9月に発売になったとき、すぐ買おうか迷った末やめておいた『フェルメール全点踏破の旅』は、すでに第5刷になっていた。みんなフェルメール好きなんだね。新書本、今回は迷わず「買う」のほうへ。

 暗算概算で、よし、1万円超えた、と思ったので、1階のレジへ。列にならんでようやく自分の番になって、お会計。しめて、9540円なり。えっ、1万円にならなかったの。
 レジの店員さんは「この忙しいのに、これだからオバハンはいやだ」と思ったろうけれど、「すみません、もう1冊買うの忘れたから、また来ます」と言って、会計中断。

 「あと1冊」の文庫本として、アーサー・ビナード(Artheur Binard)の『出世ミミズ』を選びました。
 『出世ミミズ』は、世田谷美術館所蔵のブラックアメリカン画家ビル・トレイラー『人と犬のいる家』がカバー表紙の絵になっている。
 本を選ぶとき、装丁もポイント大きい。平台にのっているとき、装丁に惹かれて手がのびるもの。

 追加495円。合計10035円。ドリンク券ゲット。
 喫茶店でコーヒー飲みながら買い込んだ本をつらつらながめるのも、本屋めぐりのお楽しみ。
この495円のおかげで、コーヒー券ゲットですから、とってもお得な気分で読んでいます。
 アーサー・ビナードでコーヒー買いました。

<つづく>
00:01 |




大平洋の発見は何度でも

2007/01/11 木 
ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード「大平洋の発見は何度でも」

 新聞連載もWeb日本語サイトの連載も、ビナードの日本語エッセイを楽しく読んできました。これまで読んだなかで、一番気にいっているエッセイを紹介します。

 タイトルは「初めての大平洋」(岩波『図書』2006年7月号)
 ジョン・キーツ(John Keats)が書いた「チャップマン訳ホメロスとの最初の出会いOn first looking into Chapman's Homer」という詩についてのエッセイです。

Much have I travell'd in the realms of gold,
And many goodly states and kingdoms seen;
Round many western islands have I been
Which bards in fealty to Apollo hold.
Oft of one wide expanse had I been told
That deep-brow'd Homer ruled as his demesne:
Yet did I never breathe its pure serene
Till I heard Chapman speak out loud and bold:
Then felt I like some watcher of the skies
When a new planet swims into his ken
Or like stout Cortez, when with eagle eyes
He stared at the Pacific?and all his men
Look'd at each other with a wild surmise?
Silent, upon a peak in Darien.

私は金色の王土を経巡り旅を続けた
良き国、王国、数々見つめた
アポロ神に忠実な吟遊詩人のいる
西方のたくさんの島々をまわってきた
ホメロスが彼の領地を治めていることを
私はしばしば告げられていた
だが、まだその澄み渡ったホメロスの空海の中を生きてはいなかった
チャップマンが朗々と奔放に語るのを私自身が聞くまでは
ホメロスを知ったとき、私は天空を見つめる人のようだった
新しい惑星が視野の中に飛び込んできたときの天空観測のよう
また、屈強なコルテスのようでもあった
鷲の目をもち、かれの部下たちと大平洋を見つめ
未知への推量を互いに見交わし
ことばもなく、ダーリエンの頂上からみていたように
(春庭拙訳、誤訳ご容赦)
=========
 キーツが、はじめてホメロスに出会ったとき、それはチャップマンの翻訳によってであった。20歳の若者は、そのときの興奮と感激をソネット(14行詩)にかきあらわした。

 チャップマンはシェークスピアと同時代の人。ホメロスの『イリアス』を1598~1611年に翻訳し、1615年には『オデュセイア(ユリシーズ)』を全訳した。

 キーツはチャップマンが翻訳してから200年後の1816年に、友人の家でホメロスを読み、その心境を「大平洋を初めて眺めたコルテスにも似た気持ちだ」と、うたった。

 言語に厳格な後世の学者は、チャップマンの英語訳は正確ではない、と非難する。また、キーツの「読書感想詩」にもまちがいがある、と指摘する。西欧人ではじめて大平洋を眺めたのはコルテスではなくて、バルボアであるのに、と。

 しかし、ビナードは「それがどうした」と、書いている。
 大平洋を最初に見た西欧人がバルボアでもコルテスでもコロンブスでも、そんなことはかまわない。
 キースの詩が表現しようとしているのは、偉大な文学作品をはじめて読んだときのこころのふるえ。すぐれたことばの世界に心から感動したときの「個人的な発見」なのだ、と、ビナードはいう。
「キーツが表現しようとしているのは、未知のものに心を動かされたときの個人的な発見だ。そういう意味では、太平洋の発見は何度でも。」

 そう、キーツが「チャップマンが英語に翻訳したホメロス」を読み、感激したこと。これは人にとって、ほんとうに大切な経験であり、こういう経験を持つ人は、人として生まれて幸福だといえる。
 今まで知らなかった表現に出会う。今まで感じてこなかった未知の世界に出会う。そのこころのときめきをキーツはうたい、それをまたビナードが伝える。

 ことばによって、ホメロスとチャップマンとキースとビナードが「翻訳」という架け橋を渡って、ひとつに連なる。それは人がことばを持つことによって可能になった、人だけがもてる喜びの連鎖。

 大平洋は地球に海ができたときから、そこにある。しかし、私たちの心は、ひとりひとり、一回ごとに大平洋を発見する。ことばはずっと人の口にある。そして、ひとりひとりがひとつのことばをあらたに発見する。

 ビナードがいうように「大平洋の発見は何度でも」

<つづく>
00:04


漱石ぽこりぽこり
2007/01/14 日 
ことばのYa!ちまた>小泉八雲からアーサー・ビナードまで」

 留学生に日本語と日本の文化歴史を教える仕事をしていますから、日本語を母語としていない人が日本語や日本語言語文化について書いている文章に興味があります。

 最初は、みな、発音、ひらがな、単語の習得からはじめ、漢字で挫折したり、文法で行き詰まったり、さまざまな日本語学習の壁にぶつかります。その壁をのりこえて、日本人よりも深い古典理解、現代文学分析、そして達意の文章で小説やエッセイ、日本語論を書きこなすようになった人たち。

 明治時代の小泉八雲(1850~1904ラフカディオ・ハーン)は、自分自身では日本語を書きませんでした。すべて英文で書き、私たちが読むのは、翻訳されたもの。

 戦後第一世代のサイデンステッカー(1921~)やドナルト・キーン(1922~)。日本文学に造詣深い研究者たちも、自らの文章は英語で書いていました。

 今、部屋の「つん読」本の山のなかにある『立ち上がる東京』も、サイデンステッカーは英語で書いています。タイトルは「Tokyo rising: the city since the great earthquake」、安西徹雄が翻訳しています。

 日本文学・日本語学・日本学(Japanology)を専攻する第二世代、第三世代とすすんで、日本語を母語としない人たちが日本語で文章を書き始めたとき、とても新鮮な感じがしました。

 アメリカ出身のリービ英雄(1952~)。
 万葉集の翻訳で全米図書賞を受賞。1992年に日本語で『星条旗の聞こえない部屋』を書き、野間文芸新人賞。2005年に『千々にくだけて』で大佛次郎賞を受賞。

 スイス出身のデビッド・ゾペティ(1962~)。
 小説『いちげんさん』で、すばる文学賞を受賞(1996)、『旅日記』で講談社エッセイ賞を受賞(2001)。

 カナダ出身のイアン・アーシー(1962~)。
 もとは古代ギリシャ語を専攻していましたが、日本の中学校で英語講師(ALT)として勤務したのち、専攻を日本語に変え、現在は日本語の文章を英語に翻訳する「和文英訳翻訳家」、
 イアンが日本語で書いた日本語論、『あやしい日本語研究室』(2001)おもしろく読みました。

 そして、アーサー・ビナード(1967~)。アーサーは漢字では「朝・美納豆」をあてています。
 池袋を中心にどこへ行くのも自転車。大塚の公民館で、おばさんたちといっしょに謡曲や短歌を習い、小学生といっしょにお習字に通う。落語家に弟子入りして「一日前座」をつとめたこともある。

 英語から日本語へ翻訳された文章のおかしな間違いを指摘した文章も、日本語を学習していたときのおかしな勘違いも、おもしろおかしくオチをつけて書いている。
 『出世ミミズ』の解説を書いている立川談四楼は、「落語の語り口」が身についている、と評している。

 アーサー・ビナードのエッセイは、私が今まで読んだ「日本語を母語としない人の日本語」の中で、一番ことばの感性が合っていて楽しく読めます。

<つづく>
00:17 |

2007/01/15 月 
ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナードの漱石ぽこりぽこり

 歌会や句会に出席して腕を磨いているアーサー・ビナード、詩の翻訳のほか、短歌や俳句の翻訳もしています。

 ビナードは、JR電車の「東北地方旅行ポスター」の中に芭蕉の句の英訳をみつけました。
「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」
How silent ! the cicada's voice soaks into the rocks (Basho)

 JR訳は、私が翻訳したらこんなふうになりそう、って思う。素直に逐語訳している感じ。
 しかし、ビナードは、「silence」の語感がちがう、という。

 冒頭の「How silent!」では、芭蕉が「蝉の声」をモチーフとしていることにそぐわず、まったくの無音状態に思われてしまいかねない、と、ビナードさんは感じる。
 そこで、彼の翻訳。

Up here, a stillness ー
  the sound of the cicadas
  seeps into the crags.

 英語に弱い私には、silenceとstillness、soapとseep、rockとcragの語感の違いなどわかりはしません。
 でも、日本語に対して微妙な語感のちがいも味わいわけているビナードさんなのだから、きっと英語も鋭い感覚で、一句の味わいを上手に英語にのせて訳しているだろうと思います。

 日本語のオノマトペ(擬声語擬態語)について、ビナードさんが書いていることを紹介します。夏目漱石の俳句のなかの「ぽこりぽこり」について。彼の日本語への感性がよくでています。
 「日本語ぽこりぽこり」という本のタイトルは、この漱石のオノマトペからとられているのでしょう。

 日本語が上達する人たちは、実によく辞書を活用しています。ビナードさんも知らない日本語に出会うと、すぐに辞書をひく。
 「マクワウリ」を辞書でひいてみたら、例文として漱石の句が載っていて、「吹井戸やぽこりぽこりと真桑瓜」を知った。

 でも、辞書ではなく、漱石句集のなかでは「吹井戸やぼこりぼこりと真桑瓜」と書かれていた。
 はたしてどちらが正しいのか。ビナードさんは、「ぽこりぽこり」と「ぼこりぼこり」というふたつの擬態語を比較しています。
==================
 「ぽこりぽこり」なら井戸のなかに一個のマクワウリが軽く上下して浮かんでいる感じなのに、「ぼこりぼこり」だと、「より重く、ちょっと乱暴に、というか不器用に上下している感じになり、複数のマクワウリがぶつかり合っていることも、十分考えられそう。それとも~」
==================

 先週『擬音語・擬態語使い分け帳』という本を著者からいただいたので、これから留学生が「オノマトペの使い分けについて教えて」と、質問してきたときは、この本をすすめるつもりだけど、ビナードさんのようにことばの感覚が鋭い日本語学習者からの質問があったら、日本語を教える教師も「教師冥利につきる」と思いながら、いっしょに日本語力をみがくでしょうね。

<つづく>
23:49 |

2007/01/10 水 
ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナードの短歌

 アーサー・ビナード、日本在住のアメリカ人。詩人・翻訳家です。

 リービ英雄、デビット・ゾペティなど、母語ではない日本語によって表現する外国人作家の活躍を目にする機会が増えてきましたが、A・ビナードも、そのひとり。

 アメリカの大学卒業後、1990年に来日して日本語学校で学んでから16年、現在は日本語で詩やエッセイを書いています。
自転車で都内を走り回るサイクリスト(チャリンコライダー)でもある。

 イタリア語フランス語スペイン語をはじめ、タミル語も知る語学の達人にして、落語は前座修行もしたことがある。謡を習い、日本語で俳句短歌狂歌も作る。

 ビナードさんが詠んだ日本語短歌をひとつ。
(青森で)青森の市場に紫蘇は積まれたり一束百円スソの葉として
(弘前で)落葉の限りを尽くし青森の庭木は縄にくくられて冬
富士登山の帰路の終わりの山手線金剛杖と共に揉まるる
(金峰山で)聳え立つ本堂の上を鳶が舞ういともたやすく括るが如く

 短歌も俳句も達者なものです。
 私は、ビナードさんのエッセイが好き。
 私がこれまで読んできたのは、新聞に連載中の「日々の非常口」と、小学館のウェブサイト「Web日本語」に連載中の「日本語ぽこりぽこり」
 お金をだして、本を買うのは文庫の『出世ミミズ』がはじめて。

 タイトルの「出世ミミズ」とは。ボラなど日本の魚の名前が成長するにしたがって変わっていくのにひっかけて、「アースワーム(地面の虫)」からスタートして10センチくらいになると「クローラーズ(這うもの)」と、名を変える(出世する?)というトピック。
 ほかの話も、とてもおもしろいです。

 ビナードさんは、日本語による詩集『釣り上げては』で中原中也賞を受賞し、昨年は『日本語ぽこりぽこり』で、講談社エッセイ賞を受賞しました。
 パートナーの木坂涼も詩人・翻訳家。

A・ビナードが日本語で書いた詩『釣り上げては』の中からひとつ。
==============
ことば使い

「吠えろ」と怒鳴り
「芸になってない」
と鞭打つ。

一行の
輪抜け跳びを
何回もさせる。

いくらおとなしく
馴れているようでもやつらは
猛獣。
=============
<つづく>

00:37 |


ことばの海へ翻訳の舟にのって
2007/01/16 火 
ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード、翻訳のこころ

 『出世ミミズ』の中の「エリオットと菅原とビュビュ・ド・モンパルナス」というエッセイ。初出は「菅原克己全集」の栞に書かれたもの。

 この中で、ビナードさんは翻訳についてこう書いています。
====================
 翻訳というのは、ことばを置き換える作業に思われがちだが、実際は原文のことばといっしょに、その向こうにある事物と人物と起こり得るすべての現象を点検して飲み込み、もう一つの言語の中でそれらを再現しなければならない。
====================

 ビナードは、菅原克己の書いた「『ビュビュ・ド・モンパルナス』を読んで」という作品を翻訳するとき、うまくいかなかった。
 菅原が詩のもとにしたC・R・フィリップの小説「ビュビュ・ド・モンパルナス」を読んだことがなかったから。
 そこで、ビナードはまず、菅原が読んだであろうシャルル・ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe)の日本語訳を読んだ。

 『ビュビュ・ド・モンパルナスBubu de Montparnasse』
 新潮文庫の訳者は小牧近江、岩波文庫の訳者は淀野隆三、講談社文庫の訳者は堀口大学。
 菅原が読んだのがどの訳者で、ビナードが手に入れたのがどの訳者なのかはわからない。
 検索してわかったことは、太宰治が読んだフィリップの「小さな町にて」は淀野隆三の翻訳だったこと。

 フィリップがフランス語で書いた小説が日本語に翻訳された。菅原克己がそれを読んで「『ビュビュ・ド・モンパルナス』を読んで」を書いた。
 また、フィリップのフランス語を英語に翻訳した人もいた。詩人エリオットが序文を書いて出版されたが、今では絶版になっている。
 
 ビナードは、ほうぼうの本屋をさがして、絶版になっている英語版文庫本を、マンハッタンの古本屋で手に入れたそうです。
 序文のなかで、エリオットは、自分にはない忠実さ、技術に走らず事物をありのままに深く描くフィリップの才能を羨望し、フィリップの作品を絶賛していた。

 私は、「ビュビュ・ド・モンパルナス」を読んだことがありません。
 しかし、フィリップの「小さな町で」のなかのひとつの短編「アリス」は、忘れられないお話です。
 私が小学生のときに「少年少女世界文学全集」のたぐいのシリーズのなかのひとつとして読んだフィリップの「小さな町で・アリス」

 メリメといっしょに「世界文学全集フランス文学篇」のなかに、「小さな町で」が入っていたのですが、だれの翻訳だったのでしょうか。こどもは訳者名など無頓着。知ろうとも思わなかった。

 アリスという女の子が、生まれてきた赤ん坊に嫉妬して死を選ぶお話。
 ハッピーエンドのお話を好むこどもにとっては、「母の愛を求め、母を独占したい女の子」のストーリーは強烈な印象でした。
 読んでから50年もたつのに、アリスの肖像はあざやかです。

 フランス語、英語、日本語、三つのことばが海を越え、地球をひとめぐりして、ことばを愛する人たちの心に届きます。
 海を渡る架け橋として、翻訳家たちはことばを築き、私たち読者は大空や波頭のかがやきを感じながら、大海を渡っていきます。
 
<つづく>
00:00 |

2007/01/18 木 
ことばのYa!ちまた>今年もことばの海を漂流中
 
 翻訳は、完全に同じになることはありえない。でも、私たちは、翻訳を通じて世界のことばで書かれた人類の叡智にふれることができる。

 1月11日の春庭コラムに掲載したジョン・キーツ「チャップマン訳ホメロスとの最初の出会いOn first looking into Chapman's Homer」について、英語がまるでできない春庭なのに、無謀にも日本語訳を試みました。

 へたな日本語訳、たぶん誤訳もあるでしょうが、どうしてこんな「無謀な渡海」をあえてさらしたのか。
 チャップマンや、J・キーツや、A・ビナードたちが渡った翻訳の架け橋を、私も味わってみたくなったからです。

 ふたつの言語が出会って、そのふたつの間に橋をかける、その面白さ、日本語しか知らない私でも、たまにはふたつのことばを行き来する面白さを感じてみたくて。
 誤訳もまた、ことばのおもしろさのうちかもしれません。

 私が最初に「ことばの飛行かばん」に乗って、ことばの空を飛翔したのは、5歳のころ。アンデルセンを翻訳した童話集を読んだときからでした。
 小学校に入学すると、学校図書室にあった「ラング世界童話全集」の「さくらいろの童話集」「そらいろの童話集」「くさいろの童話集」などがお気に入り。

 アンデルセンもラングも誰が翻訳したのかも知らないで、読みふけっていました。今頃になって調べてみると、アンドルー・ラングの翻訳者は川端康成・野上彰らでした。
 海をこえてやってきたことばたち、海が間にある異国のことばからの翻訳だったことなどまったく意識せずに、ことばの海へ乗り出したのです。

 J・キーツは「チャップマン訳のホメロスとの出会い」を「はじめて大平洋をみつめたコルテス」にたとえました。コルテスは、はじめて見た大平洋を「wild surmise」に満ちてながめた、と。
 わたしも「ことばの海」での「未知との出会い」そして「wild surmise」を楽しみに、これからもことばの海での漂流を続けていくつもりです。

 Web日本語(小学館ウェブサイト)で、ビナードのエッセイが読めるから、ご一読を。
http://www.web-nihongo.com/index.php

<おわり>

ぽかぽか春庭「留学生のための日本史」

2008-10-20 06:30:00 | 日記
2007/02/27 火

日本事情・留学生のための日本史

 留学生向けに開講されている授業のひとつに、「日本事情」という科目があります。
 「上級日本語」のひとつとして開講されている場合が多く、授業内容はたいへん幅広い。
 日本の文化について、あるいは現代社会について書かれた文章を読解していく授業もあるし、地理歴史の基礎的な知識を教える授業もあります。

 「日本事情」とタイトルがついている教科書では、だいたい「日本の地理歴史、文化、現代社会」を扱っているものが多数派ですが、大学でも日本語学校でもも、同じ「日本事情」という科目名がついていても、ひとつとして同じ内容の授業はないと思うくらい、それぞれ独自に展開されています。

 私が、私立大学学部2年次留学生に行ってきた「日本事情」の授業、10年ひとくぎりとして担当を終えることになりました。
 毎年、留学生とともにたくさんのことを学ぶことができて、楽しみな授業のひとつでした。

 毎年毎年担当してきた授業について、いずれゆっくりとまとめていきたいと思っています。今回はこの、「日本事情」のさわりを駆け足で紹介します。

 日本の歴史と文化について、留学生はまちがいや誤解も楽しみながら、吸収していきます。
 お寺にいって、神社のように柏手を打ってしまった、なんてまちがいも、「日本の宗教の諸相」を知ってから振り返れば、笑い話のタネになります。

 日本では、ご飯茶碗を食卓においたまま食べるのは不作法で、「犬食い」と呼び、母親は「お茶碗をちゃんと手に持って食べなさい」と躾をする。
 一方、韓国では、ご飯茶碗を手に持って食べるのは不作法で「こじき食い」と叱られる。親は子供の不作法を見とがめ、「そんなふうに茶碗を手に持って食べるのは、食卓を囲めないまま食べる乞食のようですよ」とたしなめる。茶碗は食卓において手をそえ、スプーンまたは箸をつかう。

 韓国人がはじめて「茶碗を手に持つ作法」をするとき抵抗を感じるそうですが、でも、「それぞれの文化、ちがっているから面白い」と、感じていけば、「郷に入っては郷に従え」が、身につきます。

 日本ではおにぎりを左手でもって食べても不作法ではないけれど、イスラム文化圏では食事では右手のみを使う。ムスリム(イスラム教信者)が右手で食事をするのは、「飲食には右手を使いなさい。左手で食事をしてはいけない」との教え(ハディース)に基づいています。

 左手が不浄ということではないけれど、食事は右手と決まっている。だから、もしムスリムの家庭におじゃますることがあれば、ちょっと不自由ではありますが、私も左手はつかわないよう気をつけます。ムスリムでない客が左手をつかったとしても、とがめられることはないけれど、お互いを尊重するマナーとして。

 いろんな違いも、お互いに知り合えば、「どちらが正しい」ということではなく、文化の違いは違いとして尊重しあえるようになります。
 この10年間、さまざまな国からの留学生と知り合いながら、いろいろな国の文化を知ることができました。
 日本の文化についても「日本事情」の授業を通して、新たな学びがたくさんありました。

 10年前1997年に「日本事情」の担当になったころは、オーソドックスに、日本の歴史関連書籍や、教科書『留学生のための日本史』(山川出版社)を読みながら、歴史と文化について学んでいく授業を行いました。
 『留学生のための日本史』を原始時代から読んでいき、語句の解釈や出てきた史実について解説し、学生からの質疑に答えていく、というスタイルでした。

 2000年以後は、日本文化についての発表と自国と日本の交流史の発表を中心に、学生の主体的な関わりを重視するようになりました。

<つづく>


2007/02/28 水

最大の古墳は仁徳天皇陵にあらず
 
 『留学生のための日本史』原始時代縄文時代の章が終わると、弥生、古代と進んでいきます。

 「日本事情」の授業、『留学生のための日本史』で、4~5世紀に大和政権が成立したころの歴史を扱っているときのこと。

 「ヤマトのオオキミ」が各地の小さな「クニ」を統一していったという説明のある教科書『留学生のための日本史』。
 大阪の前方後円墳の写真に「日本最大の古墳」とキャプションがあります。
 「古墳は、有力な支配者が権威をしめすために作ったお墓です。古墳はヤマト地域だけでなく、九州から東北まで各地にあります。一番大きいのは、この写真の、大阪にある古墳です」

 「一番大きいお墓の被葬者はだれですか」という質問に、私は長いこと、子供の頃歴史の時間に教わったとおりに「仁徳天皇の御陵です」と説明してきました。
 「大阪にある最大の古墳=仁徳天皇陵」と思ってきたのです。

 しかし、近年の研究では、「この最大の古墳の被葬者は、仁徳天皇であるかどうか、わからない」というのが、考古学的知見であることを知りました。

 宮内庁は今でも仁徳陵として管理し、一般的には「仁徳天皇古墳」と認識されているのですから、まちがった説明をしたことにはならないのですが、歴史学考古学では、「被葬者は、仁徳天皇・反正天皇・履中天皇のうちのひとりかもしれないし、ほかの大王の墓かもしれない」ということになっていたのでした。
 わあ、いつのまにかお墓の主が変わっていたなんて、、、、知らなかった。

 留学生は、実際にだれのお墓だったかなんてことはあまり気にせずに、古墳の写真がのっているページを見ながら、「今の天皇は、この古墳にいる大王の直接の子孫ですか」という質問をしてきます。

 中国や韓国など、かって王朝があった国、タイなど現代も王朝が存続している国でも、古代からの王朝が続いている国はないので、「ヤマトのオオキミ」についても、あくまでも歴史の話として教科書に出ていると思い、それが現在の日本の皇室と関係があると思っていない留学生もいます。千数百年前の古代の王と現在の皇室を結びつけて考えたことがない。

 回答。 
 「そうですね。 最新の考古学の研究では、大仙古墳と呼ばれている日本最大の古墳は、5世紀に築土されたことはわかっているけれど、誰のためのものかはまだ明らかになっていません。私は子供のころ仁徳天皇陵だと教わり、ずっと信じていましたが、本当は、だれの陵墓なのかわかっていないのだそうです。

 また、このころの王朝のつながり、血縁関係についても、確かなことはわかっていません。このころの神話伝説をまとめた本である『古事記』『日本書紀』には、血筋を受け継いだ先祖子孫の関係と書いてありますが、記紀の記述は、諸豪族各家の口承伝説をまとめて編集したもので、文字に記載されたことがすべて文字通りのことなのかどうかは、わかりません。

 ですが、一般の人々は、日本の皇室はこのヤマトのオオキミの子孫だと受け止めており、神話や伝説では、そのように伝わっています」

 私自身は、継体天皇以前の王朝と現在の天皇家の関係については、まだまだこれから研究がなされるべきことがたくさんあると思っており、留学生には、2代目から9代目の開化天皇までは、名前以外の記録はなく、実在しなかったという説が有力であることを話します。

<つづく>

2007/03/06 火

この人だあれ?キドコーイン?クガカツナン?マツビバナナ
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(8)この人だあれ?キドコーイン

 タイの歴代の王様は、それぞれがお札の肖像になっているから、タイの人々は、王様の姿、歴代を区別しています。
 日本では天皇皇后肖像をお札の顔にしません。実在の人物では、聖徳太子以外にお札に顔を載せた皇族はいません。古代伝説のヤマトタケル、神功皇后は、肖像といっても、想像で描かれた絵姿。しかも神功皇后の肖像は、キヨッソーネが描いた西洋美人風です。
http://www.77bank.co.jp/museum/okane/02.htm

 日本では、明治天皇昭和天皇の肖像を知っている人でも、大正天皇の肖像を出されたら、「え?この人だあれ」と思う若者もいるんじゃないかしら。

 肖像写真についての留学生の質問を紹介します。

 『留学生のための日本史』の近代史のページ、明治の岩倉使節団の写真が掲載されています。
 中央に羽織り袴姿の特命全権大使岩倉具視。4人の副使が岩倉の周りに並んでいます。岩倉具視については、旧500円札を見せて紹介してきました。

 「はい、この人が岩倉具視。教科書の114ページに、遣欧岩倉使節団の写真がありますね。明治政府の要人がアメリカとヨーロッパを2年近く視察したときの写真です。
 真ん中にすわっている人が岩倉具視です。現在は500円はコインになっていますから、みなさんがこのお札を使うことはないでしょう」

 あるとき、「真ん中の人が古い500円札の岩倉具視っていうのは、わかりましたが、あとの4人はだれですか」という質問がでました。

  副使は、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ということまでは調べてわかっていましたが、ひとりひとりの顔について、だれがだれであるのか、区別がつきませんでした。伊藤博文など、千円札になった晩年のおひげの顔とは全然違う若い時代の顔です。

 図書館で資料をさがしましたが、写真の説明までしてある本を見つけだすのに手間取りました。
 右から順に、大久保、伊藤、岩倉、木戸、山口でした。
使節団正使副使の写真
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/sekai.htm

 いまなら、インターネット検索でクリックひとつでわかることも、10年前は図書館に通って資料をいくつもしらべなければなりませんでした。

 日本事情を教え始めた1997年当時と、10年たった現在では、留学生の教育環境が大きく変わりました。
 読み方がわからない漢字でも、一字ずつ拾って入力ができれば、コンピュータのほうが適切な読み方を教えてくれます。
 読み方がわかれば、どんどん検索して、必要な情報を手に入れられるようになったのです。

<つづく>
00:01 |

2007/03/07 水 
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(9)この人だあれ?クガカツナン

 最近では、電子辞書に漢字を手書き入力すれば、検索機能でたちどころに読み方もわかることが多くなりました。
 が、10年前くらいまでの留学生にとって、日本語の「漢字のよみかた」は、難問のひとつでした。

 読み方がわからないと、辞書事典をひくのもたいへん。漢和辞典で、読めない漢字を画数索引を調べるには、書き順と画数を正確に知っていなければなりません。

 資料に出てきた「國」という漢字が読めない留学生。台湾の留学生なら「國」が「国」の本字であることを知っていますが、他の国の学生は初めて見る字。
 まず、先生にたずねる前に辞書をひきなさい、と言っているのですが、その辞書をひくのが、一昔まえはたいへんでした。

 「口」という字を左下からひとまわりして一画で書くような学生だと、「口」の画数は「1」になってしまい、漢和辞典で調べることもできませんでした。(最近は日本人大学生でも、口をぐるりとひとまわりの1画で書いている)

 日本の漢字、「芸」。台湾では康煕字典の通りに「藝」、中国簡体字では「草冠の下に乙」くらいはわかっていました。しかし、私も、全部の漢字字体の違いを把握していませんでしたから、非漢字圏の学生への指導は当然のこと、中国台湾からの留学生の漢字指導もたいへんでした。
 作文の前後の文脈から、中国簡体字の意味を推測することができる場合もありますが、まったく推測できないときもありました。

 日本事情の授業でも、人名の読み方、事項の解説、ひとつひとつ手探りでやっていました。

 10年近く前のある日のこと、留学生が「日本事情」の授業後に質問に来ました。
 「日本人の名前を調べているんですが、わかりません。きのう、ほかの日本語の先生にきいて、読み方を教えてもらいました。でも、人名辞典を調べたのに、出ていないんです。来週、発表しなければならないのに、どうしたらいいでしょう」と、困ったようすです。

 「人名?なんていう名前ですか」
 「日本語の先生に読んでいただいたら、リクっていう名字だったのですが、リクの項を調べても人名辞典に載っていないんです。」

 ピンと来たので、たずねました。「名字ではなく、名前のほうに、南という字がはいっていますか」
 「はい、南があります」

 「それじゃ、その人は、クガカツナン陸羯南. だと思いますよ。陸という字をくがと読むんです。明治時代のジャーナリスト、思想家です。陸をクガと読むのは、特別な読み方なので、日本人が読めなくても、仕方がないんですよ」
 陸羯南、明治思想史や文化史に興味がない人にとって、あまりなじみの名前ではないと思います。

 「くが、、、あ、ありました。人名辞典に載っていました」
 最初に学生がたずねた日本語教師の「トリビア袋」に「陸羯南.」という人名がはいっていなかったからといって責められることはないでしょう。日本語教師は百科事典として存在しているわけではありません。

 しかし、日本語学習者は、「日本のことでわからないことは、まず日本語教師に質問してきますから、できるかぎり答えてやる必要があり、答えられないと、「日本のことをよく知っている日本語教師」と思いこんでいる留学生をがっかりさせてしまうことにもなります。

<つづく>
00:06 |

2007/03/08 木
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(10)この人だあれ?マツビバナナ

 アジアからの留学生たち、自国で「アジア史」「近代史」などを学習して来日していますが、日本の人名などは、自国での発音で覚えています。
 たとえば、韓国の学生にとって、豊臣秀吉は「倭乱(ウェラン)」を起こした「プンシン・スギル」ですし、安重根が中国ハルピン駅で暗殺した韓国統監・伊藤博文は「イドゥンバクムン」です。

 まずは、日本人の歴史上の人名、読み方を日本語発音で読むことから歴史と文化の授業をはじめました。
 日本語能力試験の1級に合格し、日本語の漢字の読み方を一通り習っている学生にとっても、人名の読み方はあまりにもさまざまで、読み方がむずかしい。
 留学生は、既得の「漢字の読み方」を応用して、さまざまに人名を読もうとします。

*松尾芭蕉→マツビ・バナナ
 松尾を「マツビ」と読み間違えたのはわかるけれど、なぜ芭蕉をバショウでなくバナナと読みまちがえたのか。

 バナナは芭蕉科の植物の1種であり、バナナの和名は「実芭蕉」です。
 中国語では、日本と同じ黄色く熟して生で食べるバナナは香蕉(xiangjiao)ですが、焼いたり揚げたりして食べる料理用の青いバナナを「芭蕉」という地域もあります。
 「芭蕉を日本語に翻訳すると、バナナ」と考えた留学生が、芭蕉→バナナと読んだのです。

*紫式部→シ・シキヘ
 「部屋へや」の「部へ」だから、式部は「しきへ」だろう。

*卑弥呼→ビヤコ
 弥生時代を「やよい時代」と読むのだから、弥は「ヤ」と読むはず。

 教科書『留学生のための日本史』の「弥生時代」のページに「奴国」が中国の皇帝から受けたという金印(志賀島出土)の写真があります。金印の写真のとなりには、「奴国」や邪馬台国、卑弥呼の説明。

 卑弥呼と邪馬台国についての質問もよく出ました。
 邪馬台国についても、ずいぶんと雑学を仕入れてあります。
 今の私の興味の範囲でいうと、邪馬台国畿内説が有利かと思っています。

素人探偵が自分なりの推理力を働かせることができる「魏志倭人伝」の記述なので、畿内説あり大和説ありですし、卑弥呼についても百家争鳴、それぞれの学者が自説を展開しています。

 卑弥呼はだれか。熊蘇の女王説あり、神功皇后説あり、ヤマトヒメ説あり、ヤマトトトヒモモソヒメ説あり、、、、 諸説とびかう中の、「今の古代史研究のなかで、まちがいないと言える範囲」を答えるようにしてきました。

 わたしの最近の「ひみこトリビア」のネタ本のひとつは、2005年発行の新書、義江明子『つくられた卑弥呼』です。フェミニズム古代史ってかんじ。
 諸説百家争鳴の中で、どの説をどう受け止めるかは、読者の考え方によるし、著者への信頼感によります。私は『つくられた卑弥呼』面白く読みました。

 種々の本を古代代史トリビアとして活用するなか、最新古事記ネタ本は、神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』(2007年2月発行)。

 魏志倭人伝記述についての専門的な質問もあるし、「ヒミコは美人でしたか」とか、「ヒミコは呪術をつかって国を支配したと教科書に書いてありますが、呪術ってどんなものですか」などの質問まで、いろいろでます。

 回答「美人だったかどうかは、わかりませんが、人々を支配する力はたいへん強いものだったようです」
 「中国の魏志倭人伝に、邪馬台国の卑弥呼は、鬼道を事とし、よく衆を惑わすと書いてあります。鬼道というのが、どのような行為であったのか、はっきりとはわかっていません。

 道教の鬼道と共通するようなたいへん力が強い呪術であるという説もあるし、神のことばを媒介する力、という説もある。
 卑弥呼は天文についての知識をもっていて、日食の予言などが出来たのではないか、という説もあります。」

<つづく>
00:45 |

2007/03/09 水

剣と刀

 「鬼道ってどんなこと?」という質問なら、宗教学でシャーマニズムについてならったことなども援用でき、私がこれまでに知り得た範囲で答えることも可能です。
 しかし、思いもかけないこと、私のまったく不得手、門外漢なことについての質問もたくさん出ました。

 知らないことは「そのことについて、来週までに調べてみましょうね」と答えるしかなくて、翌週、調べられる範囲で留学生に回答してきました。
 おかげで10年続けるうちには、ずいぶんと「日本の歴史と文化トリビア」を仕入れました。

 自分自身に興味がなかったことも調べることになり、「日本の文化や歴史について、留学生に教えられる程度のひととおりのことは知っている」つもりだったのに、細かいことは知らないこ思い知らされ、学生以上に、私が学ぶことがたくさんありました。

 卑弥呼について書かれているページには、「銅剣・銅鉾、銅鐸」の写真がのっており、「ceremonial bornze swords spearrs、amd bells」と英語説明があります。
 銅剣も銅鉾も、両側に刃がある諸刃のかたち。

 ある年の日本事情の授業で。
 日本の剣道に興味を持っていた学生が銅剣の写真をみて、「日本の剣術と中国の剣術は違いますね。日本では、カタナとツルギとケンは、どう違うのですか」という質問がありました。しかし、質問されても即答できませんでした。

 「え、剣と刀?同じじゃないの?ちがうんだっけ?」
 いったいどのように説明したらいいのか、この方面の知識がまったくない私には即答できなかったのです。あらためて調べ、翌週回答。

 「刀」と「剣」の違いについてわかってきたことを、煩雑にならない範囲での回答として、説明しました。

 『中国と異なり、日本では諸刃(両刃もろは)の武器は発達しなかったので、広く「刀剣」の意味として「剣」を用いており、「剣道」「剣術」という場合も、片刃のカタナを用いています。

 日本刀というときは、片刃のみをさし、両側に刃がある剣は、日本の「剣道」「剣術」で使われることはなかったようです』というような説明からはじめました。

 もともとの漢字としての意味は、辞書をひけば、「剣は諸刃(両刃もろは)、刀は片刃をいい、片刃の刀のうち、おおむね2尺(60センチ)以上のものを太刀(たち)いう」というような区別は書いてあります。
 中国で剣というと諸刃をさし、中国は剣術と刀術は別の武術なのだそうです。

 しかし、日本社会で「剣道、剣術、剣士」などというとき、剣は「諸刃」を意味していません。日本の武器としての「刀剣」は、片刃のみなので、剣といっても刀といっても、片刃のみをさしています。

 私の回答は、「刀剣史」などを研究している人からみたら、物足りない答えに見えるかも知れません。
 この質問のあと、刀剣について私が仕入れた雑学トリビアは、刀鍛冶の名匠・河内國平とビートたけしの対談記事を読んだ程度ですが、気軽な対談記事からでも、玉鋼の作り方とか、鍛錬の仕方、鉄分と炭素の割合とか、焼き入れの温度の微妙さとかわかりました。
 が、専門知識をそれ以上深めているひまもなく、付け焼き刃のまま、とにかく広く広く、留学生の疑問質問は多岐にわたりました。

 さて、「付け焼き刃」とは、刀鍛冶から生まれた慣用句です。
 そのほかにも、刀鍛冶から生まれた日本語慣用句がたくさんあります。
 師匠と弟子が刀身を鍛えていようすから。相槌を打つ、とんちんかん、反りが合わない、太刀打ちができない、地金をあらわす。
 刀の鑑定書から、折り紙つき、札付き。
 刀剣での戦いぶりから、しのぎを削る、切羽詰まる。鍔迫り合い。
 刀と鞘から、目貫き、元の鞘に収まる、恋の鞘当て、身から出た錆など。
 試し切りの刑場から土壇場。

 日本の刀についての話から、日本語についての知識を深めていくきっかけにもなり、日本事情も日本語の授業に結びついていきます。

<つづく>

2007/03/10 土

日本文化史発表 お札の顔

 私の日本事情の授業、「日本史の基礎的な知識」を中心とした初期のころから、大きく授業内容を変えてきました。
 2000年以降の日本事情は、「自国と日本の交流の歴史について、テーマを決めて資料を集め、自分なりにまとめて発表する」ということがメインになりました。

 学生のほうも、10年前と現在では、「わからないことを調べる」という環境が大きく変わってきています。

 『留学生の日本史』にそって、「日本の文化と歴史」のなかで、興味をもったことについて発表する「日本の文化発表」と、「日本と自国の交流史発表」の授業をはじめたころ、最初は図書館の利用方法、資料の探し方などから指導していました。

 21世紀になってから、留学生もインターネットで検索する方法を覚えたので、以前のような資料探しの苦労はなくなりましたが、「インターネットには、確実でないことも掲載されているから、すぐにまるごと信じてしまうのは危険」という指導をいれておかなければなりません。
 何年もの時間と、人の英知を集めて編集された事典類や参考文献にはない手軽さがインターネット調査にはありますが、手軽なだけに危険もついてまわります。

 歴史上の事実を書いたサイトでも、これだけの間違いがある、というのを学生に話しています。
 春庭HPの「メディアリテラシーについて」というページに、まちがいを平気でネットに載せてあるHPもあることを書きました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0612a.htm

 「日本文化」についての発表授業。
 留学生には、「日本の歴史と文化に関連したことなら、どの時代をとりあげてもいいし、人物についてでも、事項についてでも、興味を感じたことを調べてみよう」と話しておきます。

 クラスを班に別け、班ごとにテーマを決めます。留学生が選んだテーマには、「日本の食文化」「日本人の生活文化、余暇文化」「有名観光地紹介による日本地理復習」などがあります。

 「歴史にみる日本の寺院文化」をとりあげた班は、「平等院と平安朝の浄土信仰」「永平寺と禅」「金閣寺銀閣寺と室町文化」などを紹介しました。

 個人の興味のむくままに、「パチンコ盛衰からみる日本の社会と現代文化の諸相」という発表をした学生もいたし、「パラサイトシングルということばからみる日本の家族」という発表もありました。

 日本ではじめて花火を見た感激が忘れられないといって、「花火の歴史」を紹介した学生もいれば、「わたしはゲームオタクです」という学生が、「日本の娯楽と産業・日本ゲーム発達史」をとりあげた年もありました。

<つづく>

2007/03/11 日
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(13)お札の顔

 2001年の学生の日本文化についての発表のタイトルをみると。
 「日本の着物について」「畳の効用」「懐石料理」「銭湯の歴史」など、生活文化に興味をもったり、「能楽について」「京都の葵祭」など、自分が見てきて面白かったものの紹介をしたり。

 「空手について」など、自分が大学のサークルでやっていることの紹介、貨幣博物館での見学をもとに「日本貨幣史」、沖縄名護博物館での見学をもとに「日本の捕鯨」など、それぞれが興味をもったことについて、図鑑や博物館パンフレットの文をまとめ、クラスメートの日本語能力にあわせて、わかりやすく紹介解説する努力をしました。

 2006年の発表から。
 「日本の交通」をテーマにした班は、東京の電車や地下鉄網について、また明治期に自転車が輸入されて以来の自転車文化について発表しました。

 日本の四季をテーマにした班は、季節ごとの天候や自然の特徴についてまとめました。自分の国と違う点、同じ点をしらべ、「桜前線「梅雨」「紅葉狩り」「雪祭り」など、日本の文化が自然の姿季節の移動と深く結びついていることを知ることは、留学生にとっても興味深いことのようです。

 今年「食文化」を選んだ班は、例年の「おせち料理」「寿司の歴史」「漬け物」などの料理ごとのトピックではなく、「日本の食器・陶磁器の歴史」や「和食の食材」「食べ方マナー」「和食の作り方」というトピックを選びました。

 「タイのお札には国王の肖像があるのに、なぜ日本の天皇はお札に顔をださないのですか」という質問がタイの留学生から出たこともありました。タイの紙幣は表が現国王プミポン陛下の肖像、裏が歴代の王様の姿です。
 アメリカドル紙幣は、大統領ワシントンやリンカーン、国家元首がお札になっています。「なぜ、日本のお札には元首が登場しないのですか?」

 聖徳太子の肖像の古い1万円札を見せて、「この人が、教科書の46ページに名前がでている聖徳太子です。太子は天皇のかわりに政治を行った摂政でした。明治時代に神功皇后という神話時代の皇后の肖像がつかわれたこともありましたが、日本ではお札に天皇の肖像が使われたことがありません」

 明治以後の近代史を扱うときのために、五百円の岩倉具視。千円伊藤博文、夏目漱石など、古いお札も「日本事情」用に保存してあります。

 留学生活もまずはお金が必要。日本に到着して一番最初に両替で目にしたお札の肖像に興味を持つ留学生は多い。
 お札の肖像になる人物は、紙幣を発行している国家の代表的人物であるから、発表するのに資料も集めやすくてちょうどいい。 

 10年前、私の日本事情授業の初期は、教師がお札を見せて、人物紹介をしていましたが、後に、「留学生による日本文化発表」という「調査と発表」がメインになると、「お札の人物紹介」は、留学生の人気テーマになりました。

 2006年も、毎年のように選ばれる人気のテーマ「お札の顔」をとりあげた班がありました。
 モンゴル、マレーシア、中国の学生が千円、二千円、五千円、一万円を分担し、樋口一葉、野口英世、福沢諭吉、二千円札の裏に絵がある紫式部を調べて人物紹介を行いました。

<つづく>

2007/03/12 月

自国と日本の交流史

 人物についての発表、留学生に人気の日本の人物は、さまざまです。
 2006年に「日本の作家」をテーマにした班。森鴎外、大江健三郎など、これまでよくとりあげられた作家だけではなく、「自分がこれまで翻訳で読んできた作家を日本語で読んでみる機会だから」と村上春樹、伊集院静をとりあげるなど意欲的でした。

 伊集院静を選んだ韓国の学生は、「今は帰化して日本国籍になったけれど、元は民族名・趙忠來(チョ・チュンレ)をもっていた韓国系日本人作家として親しみがあり、自分たちにとっては、韓国人の魂を持っている作家だから」と、好きな理由を述べていました。

 日本では毀誉褒貶さまざまある田中角栄も、「日中友好の基礎を固めた人物」として、中国からの留学生には人気のある人物なので、「へぇ、そうなんだ」と、思ったりしました。
 「日本の文化紹介」の発表レジュメを作って日本語で発表したあとは、質疑応答。学生に答えられる質問もあるけれど、留学生には即答がむずかしい場合は、教師が助け船をだします。

 資料を集めて、それをわかりやすい日本語にしてまとめるのはとても時間もかかり、「発表準備のために徹夜した」という学生もいるのですが、発表がすむと、ほとんどが、「たいへんだったけれど、いい経験になった。資料の集め方も発表のしかたも、自分から関わっていくことで、積極的に学ぶことができた」という学生が多かったです。

 前期の「日本の文化」発表は、いわば「発表の練習」にあたります。

 夏休みには「日本の各地の博物館を見学し、見学した文物をひとつとりあげて、作品の背景をレポートにして提出」という宿題を出しています。
 「博物館なんて興味ないと思って、日本に留学してから一度も見たことがなかったけれど、宿題のためにしかたなく見学した。見ているうちにとても興味がわいてきた。朝から閉館まで見たけれど、まだ、全部は回りきれなかった」という感想が毎年寄せられました。

 後期には、「日本事情」の要にしている「自国と日本の交流史」の発表を行います。
 留学生の出身国と日本が、どのような交流を重ねてきたか、古代から現代まで、自分が興味をもてたことがら、人物について調べ、発表します。

 人物紹介では。
 中国からの留学生に人気定番の「日本との交流史」上の人物が何人かいます。
 近代日本に留学したことのある魯迅、孫文、周恩来などが人気の御三家。

 今年は、遣隋使遣唐使の周辺が人気で、「阿倍仲麻呂と李白・王維の親交」についてと、「留学僧空海の長安での活動」についての発表もありました。
 私が「交流史のモデル発表」として例を示したのが、今年は「鑑真と井真成」だったので、遣唐使周辺に興味がわいたのかも知れません。

<つづく>


2007/03/13 火
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(15)クエートコーラン朗唱インドの衣装

 韓国の学生は、古代史から「高句麗と日本の関係」「桓武天皇の生母である高野新笠のルーツは百済」などのテーマがだされました。

 昨年度2005年に高野新笠について発表した学生は、この時代の皇室の婚姻関係の詳細な系図を調べてきました。
 聖徳太子はじめ、天皇家が深く婚姻関係を結んだ蘇我氏が、朝鮮半島からの渡来系の一族であるという学説の紹介など、古代天皇家が朝鮮半島と深い交流をもっていることを検証していました。

 2001年11月、今上天皇は「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と発言され、韓国でも大きく報道されたため、古代日本についてのテーマが、韓国の学生にとっても身近になったのだろうと思います。

 現代の交流として、「朝鮮の美」を尊重した柳宗悦を紹介した学生がいました。
 「柳宗悦は、日本の民芸美術紹介に貢献しただけでなく朝鮮美術の紹介者として慕われており、朝鮮の独立運動を支持しました。韓国国民が尊敬する人物です」という発表しました。
 学生の発表に触発されて、私も何度か日本民芸館へ見学に行き、柳宗悦についてくわしくなりました。

 最期の大韓帝国皇太子李垠の妃となった李方子(イ・バンジャ=梨本宮方子)を紹介した学生もいたし、安重根や従軍慰安婦問題をとりあげた学生もいました。

 数年前、クェートの学生が「歴史上の交流はおもいつかない」といいました。現代社会での石油の輸出輸入を発表してもよかったのですが、「現在のクエートの衣服と音楽とコーランの紹介」をしてもらうことにしました。

 アジアの学生たち、クエートといっても、石油のほかに思い浮かぶことがなく、アラビア語でコーランの一節を朗唱したテープを聴くのもはじめてで、とても興味をもってくれました。
 発表した学生は日本語がいちばん弱い学生でしたが、発表が好評だったので、自国の文化に誇りをもち、上の学年に進級していきました。

 交換留学生として半年だけクラスに在籍したインドの学生に、インディラ・ガンジーの紹介はどうですか、と水をむけてみました。ネール首相、その娘のインディラ首相も日本に「象」をプレゼントしてくれ、日本人にはなじみのあるインド人です。でも、彼は政治家は好きじゃないという。新宿中村屋の娘、相馬俊子と結婚したラス・ビハーリー・ボースも、私にとって興味深い人物でしたが、彼はボースにも、興味がわかないらしい。

 彼は、「クエートの衣服」発表の大成功を見て、自分もインドの衣服を紹介するのだ、と、はりきりました。
 インドの衣服は、時代によっても地域によっても階級(カースト)によっても違います。

 発表のために調べているうち、留学生は「自分の出身階級に誇りをもってきたけれど、日本で発表の準備をしているうちに、低い階級に差別感を持っていた自分に気づいた」と、感じるようになりました。

 自国の文化を、他国に身をおいて客観的にながめるうち、「身分制度」にとらわれてきた自分の姿に気づいたのです。カースト制度は法的には廃止されているけれど、実際の生活では大きな影響力をもっています。就職にも結婚にもカーストの制約があります。
 留学生活は、そのような制度を外から見直す目を与えたのです。

 ちなみに、IT産業がインドで盛んになってきたのは、近年発達した現代産業にはカースト制度の制約がないからだそうです。生まれ出自に関係なく、自分の持つ能力を発揮できる分野、そんな新しい産業へ有能な人々が集まることで、インドの新しい社会が活性化してきている、そんなインド国内事情も、私は留学生から学びました。

<つづく>


2007/03/14 水
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(16)八田ダム、禹長春のキムチ

 台湾の学生が「八田與一」について、発表したとき、私は八田についてほとんど知りませんでした。
 「台湾の嘉南平野にダムを築き、今なお地元の人々に敬愛されている日本人」として、司馬遼太郎の『台湾紀行』などにもとりあげられている人物とわかり、八田について調べる機会となりました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponjijou0608ac.htm
 いまでも地元の人によって顕彰され続けていると知って、とてもうれしく思います。

 2006年も、さまざまな事項や人物についての発表がありました。
 モンゴルの学生には「モンゴル相撲について、発表してほしい」と、リクエストをだしてみました。しかし、彼は、「今年は1206年にチンギスハーンがモンゴル帝国を樹立してから建国800年にあたるので、ぜひともチンギスハーンとフビライの元寇について発表したい」というので、トピックは「元寇」になりました。

 元寇について、私にとっては新たな発見はありませんでしたが、留学生たちは、チンギスハンやフビライについてあまり知らない人もいたので、質問がたくさん出て、発表者と教師が回答していきました。

 私がまったく知らなかった人物について知ることもできました。
 韓国の育種学者「禹長春ウーチャンチュン」について。
 私は禹長春について、今まで何も知りませんでした。

 禹長春は、日本人を母とする在日韓国人として50歳までの半生を日本で過ごしました。日本名は須永長春(すなが ながはる)
 東京大学から博士号を受け、日本で研究者として地位を築きました。日本人女性と結婚、子も生まれ、そのまま日本にいても、すぐれた業績を残す生涯を過ごせたことでしょう。

 しかし、かれは50歳をすぎ、残りの人生を韓国の植物学研究に捧げました。
 ジャガイモや種なしスイカなど、たくさんの植物についての研究が実りました。
 白菜の品種改良に取り組み、「韓国キムチの父」として、韓国の人々の中にウー博士を知らない人はいないそうです。

 「韓国の第二回目の文化褒章(日本の文化勲章ににあたる)を得た」という発表をきいて、韓国からの留学生たちは、「ウー博士が韓国文化褒章を得た偉い学者だということはとても有名で、子供でも知っていることだが、お母さんが日本人だったことは、はじめて知った」と、驚いていました。
 ウー博士の子供たちは日本で育ちました。四女の須永朝子は京セラ創業者の稲盛和夫の夫人。

 発表を重ねてきて、学生同士、お互いに新しい知識を与えあい、これまで知らなかった事実を知って、目が見開かれていきます。

 タイからの学生は、ほとんどが「アユタヤ日本人町と山田長政」についての発表になります。近代以後では関わりを深めた日本とタイですが、江戸時代以前では、山田長政以外のトピックで、資料を見つけることがむずかしいので。

 今年もタイの学生は山田長政ついて発表したのですが、他の留学生たち、近代以前に日本とタイに関わりがあったことをはじめて知ったという学生が多く、さまざまに興味を呼び起こしました。

<つづく>


2007/03/15 木 
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(17)漱石の漢詩、満鉄あじあ号

 人物紹介以外では、さまざまな事物の交流がトピックになりました。
 「饅頭の伝来」「琴」「鏡」「囲碁・将棋」「お茶」「砂糖」「漢方薬」「算盤」などの文物の往来について、それぞれとても興味深い発表になりました。

 中国の琴と和琴(わごん)の違いとか、将棋の日中のルールの違い、鏡や算盤の歴史など、私のトリビア袋がどんどんふくらむ発表が相次ぎました。

 「日本のお札の顔」や「日本の文学者紹介」で人気の夏目漱石、今年は文化発表でとりあげる人がいなかったなあと思っていたら、交流史のほうで、「漱石と漢詩」についての発表がありました。

 夏目漱石の教養の基盤となっていたのが、漢詩漢文学であることについて、どのような漢詩漢文を学び、それが彼の俳句や小説、英文学研究にどのように反映されているかを考察した発表です。
 私も、これまで漱石と英文学については調べたことがありますが、漱石と漢文学については、一般常識の範囲でしか知りませんでしたから、学生の熱心な発表に感銘を受けました。

 日本近代文学の成立に漢詩漢文がどのくらい深い影響を残しているのか、まったく知らない留学生もいるので、森鴎外、幸田露伴など明治の文学者の基礎的な素養として漢詩漢文学があったことを補足説明しました。

 漱石は漢文の素養が深く、中国大陸の旅行を望んでいました。
 1909(明治42)年、漱石は、大学予備門時代の友人だった中村是公の誘いで、満州に旅行しました。中村は当時、南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁でした。
 漱石は『満州旅行日記』( 明治42年9月1日~10月17日 )を残しています。

 2006年の印象深かった発表のひとつに、「南満州鉄道」を取り上げた学生がいたことがあげられます。
 私は、12年前に中国東北地方で半年間をすごしたました。旧満州時代の歴史的事実について、否定的な意見をもち、南満州鉄道についても、その侵略的な面にマイナス評価を下す意見を中国の人々から聞くことが多かった。

 しかし、今年はじめて、満鉄に対して「日本が中国に残したインフラストラクチュアのひとつ」として高く評価するという意見を、若い世代から聞きました。
 満鉄が人民中国の発達に寄与した面もあることを肯定的に評価する発表をきいて、「偽満州帝国」への歴史的評価に、否定面だけで評価するのではない動きが出てきたのかなと思いました。

 昨年満鉄操業百年を期して、日本側からも満鉄研究の新しい動きが出てきたことも影響しているのかもしれません。客観的に歴史事実を研究していき、真実を明らかにしていこうとする相互の努力がこれからの歴史研究にも求められるでしょう。 

<つづく>

2007/03/16 日

次の時代へ

 1ヶ月前、娘、息子といっしょに上戸彩主演のテレビドラマ『李香蘭』を見ました。
 2003年に放映された『流転の王妃』を見て、天海祐希が演じた李香蘭に興味をもっていた娘が、見たい、と言ってチャンネルを合わせたのです。

 上戸彩の演技力歌唱力で、どこまで見ていられるかしら、と心配しながらでしたが、主演も助演もがんばってよいドラマになっていたと思います。
 もともとのドラマが波瀾万丈の自伝ですから、最後まで見ることができました。

 私は、数年前に、藤原作弥と山口淑子共著の『李香蘭・私の半生』を読みました。
 今回のドラマの原作は山口淑子自伝の『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』なので、「自己美化」の部分があるかなと思いましたが、満州国策の道具として中国人を演じなければならない女優であったこと、日中のはざまでゆれ、あわや死刑の可能性もあった李香蘭をきちんと描いていたと思います。

 李香蘭の父親は、南満州鉄道(満鉄)の中国語教師として、社員教育にあたっていました。満鉄社員は中国語習得が義務だったので。

 父親は「自分がこうして日本人に中国語を教え、中国人の友人と親しく交際することは、日中友好のためにも役立つこと」という信念をもって中国語教育を行っていたのでしょうが、敗戦となったあとは、日本人が自分たちの思いこみで「五族共和」「亜細亜はひとつ」と言っていたことが、結局は中国人の幸福のために寄与するものではなかったことを思い知りました。

 一方的にではなく、お互いの気持ちを通わせ合って、世界中のひとと交流したい。
 2007年、私はよりいっそう中国東北部、旧満州地域と関わり深くすごすことになると思います。
 もっともっと深く、いろいろなことに触れたいです。

 留学生たち、自国と日本との交流史実を発表したあと、みな、「自分たちの国が歴史的に深い絆で結ばれてきたことがよくわかった。わたしもこれからの両国の交流に役立つ人になりたい」と、意欲を燃やします。

 今はまだ、アジア共同体構想も「夢物語」と思われています。
 でも、ヨーロッパ共同体EUも、リヒャルト・英次郎・クーデンホーフが「ヨーロッパをひとつにまとめたい」と、言い出したときは、「夢のまた夢」と思われていたのです。

 留学生たちの真剣な学びを見ていて、今は夢物語の「アジア共同体」が、いつの日にか、平等な関係と対等な交流によって構築でき、人々が生き生きと交歓する日が実現すると、私は信じています。

<日本事情10年の実践 おわり> 

ぽかぽか春庭「雛も千年の流れのなかに 」

2008-10-19 06:15:00 | 日記
2007/03/03 土

雛も千年の流れのなかに

 日本の歴史や文化についての解説をしていくと、季節の行事や日常生活のひとつひとつが、留学生にとって、親しいものになっていきます。
 
 デパートにひな人形が飾られるようになると、毎年「雛祭り」に興味を持って質問してくる学生がいます。そんなおりには、ただ単に人形を飾って楽しむだけの行事ではないことを話します。
 節分も雛祭りも、豆をまく、雛をかざるという表面的なことだけでなく、日本の文化の奥深さを感じられるようになるのです。

 現代のような「ひな壇飾りの人形」は、一般民衆の間では、江戸時代から盛んになったもので、「一生の災厄を人形に身代りさせ、人の安全をはかる」という民間信仰の意味あいもある、などの意義を伝えます。
 
 また、家の中にひな人形を飾る「飾り雛」のほかに、人の形をした紙の人形や木ぎれの人形を川などに流し、人の無病息災を願う祈りが込められた「流し雛」は、平安時代にも行われていました。

 『源氏物語』に「人形(ひとがた)」を流して厄災を払うようすが描写されていることなどを、留学生に紹介します。
 紫式部は、『源氏物語』の中に、光源氏が、祓いをして人形(ひとがた)を舟に乗せ、須磨の海へ流した、と書いています。

 『源氏物語』の人形(ひとがた)流しの部分。
 都でいろいろと不都合なことが重なった光源氏は、京を離れて須磨に滞在しています。
 弥生上巳に海辺へ行き、精進潔斎をすることになりました。陰陽師を召して祓えを行わせ、「ひとがた」を流すのです。
(旧暦の弥生は新暦の四月にあたります。現代の雛祭は三月三日に固定されていますが、地方によって、月遅れの四月三日に雛祭りを行うところもあります。)


弥生の朔日に出で来たる巳の日、
 「今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき」
 と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。

 舟にことことしき人形乗せて流すを見たまふに、よそへられて、
 「知らざりし大海の原に流れ来てひとかたにやはものは悲しき」
 とて、ゐたまへる御さま、さる晴れに出でて、言ふよしなく見えたまふ。
 海の面うらうらと凪ぎわたりて、行方も知らぬに、来し方行く先思し続けられて、
 「八百よろづ神もあはれと思ふらむ 犯せる罪のそれとなければ」
 とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ。御祓へもし果てず、立ち騒ぎたり。

 舟に乗って流れていく「ひとがた」を見つめて、源氏の君は和歌を詠みます。
 「見知らぬ海へ流れてきた私は、穢れをのせて遙かな海へと流れてゆくひとがたのようで、悲しいことだなあ。ヤオロズの神様も私に罪がないことを知り、あわれと思ってくれるだろう」
 流れていく人形を見つめる源氏の君の涙を思うと、遙かな大海に千年の流れが感じられ、流し雛の行く末にも「もののあはれ」が思われます。

 デパートに並んでいるひな壇を見て、「値段が高くて買えません」という感想を述べるだけだった留学生も、雛祭りにまつわる日本の文化についていろいろ感じたり、自国文化と比較したりできるようになっていきます。

 稲取温泉の「つるし飾り雛」など、地方に残るさまざまな雛祭りを巡ってみるのも、日本文化を知るチャンスですが、身近なデパートの雛飾りを見て歩くだけでも、雛祭りの意義を知ったあとでは、「Doll festival」「Girl' s day」として、留学生も楽しい雰囲気を味わえるようになります。

<つづく> 00:09 |


2007年03月01日 

桃の節句のヒメたち

 『古事記』は、約1300年前、8世紀に「日本語」で書かれた書物です。漢文(中国語)で書かれた『日本書紀』に対して、表記はすべて漢字であるものの、稗田阿礼が朗唱する日本語をもとにして記録されました。

 『古事記』の採録を命じたのは天武天皇です。天武天皇が「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ」と詔したことを受けて記録されました。最初に「スメラミコト」と名乗った天武天皇の意思が深くはいっていることが推定されます。

 『古事記』の最終記録は、推古天皇(額田部皇女ぬかたべのひめみこ)でおわっており、推古女帝は、現在(明治以後)の数え方による「天皇」では「最初の女性天皇」になっています。

 しかし、実際は推古女帝の前にも女性統治者がヤマト地方に存在していました。
 記録上は「王」「天皇」というの名称を与えられなかった「女性統治者」たちがいたのです。

 飯豊青皇女(イイトヨアオのヒメミコ)は、第22代清寧天皇と第23代顕宗天皇との間の期間、5世紀ごろのヤマトを統治していたと見られています。

 17代履中天皇の皇女にあたりますが、市辺押磐皇子の娘にして履中の孫という説もあり、伝説の時代の女性だから、仁徳天皇や履中天皇が伝説的な王であるのと同様に、実在が史実としてはっきりしているわけではありません。

 平安時代の私撰歴史書『扶桑略記(ふそうりゃっき』や鎌倉時代の史書『水鏡』は、飯豊皇女を「第24代飯豊天皇」と記しているのですが、明治以後は、天皇のなかに数えられなくなりました。

 現在、公開されている『皇統譜』とは別の、非公開の『元・皇統譜』に飯豊青皇女の位を認めたものがあるといいますが、その『元・皇統譜』を見ることはできないのでので、ほんとうのところはわかりません。

 現在の『皇統譜』は、明治時代に改変されたものです。
 公開中の『皇統譜』は、宮内庁へ情報公開請求すれば、閲覧可能。公開されている『皇統譜』の一部を見たい方はこちらへ
http://www.tanken.com/kotofu.html

 江戸時代以前は天皇の位に入っていなかった天智天皇の息子、大友皇子に対して、水戸史学の影響から、現在は「弘文天皇」と、皇統譜に明示するようになりました。
 即位儀礼をおこなったかどうかは定かでないまま、第39代天皇として歴代天皇位に入れられています。

 明治以前には天皇位を認めていなかった皇子に対して、47代淳仁天皇、85代仲恭天皇、85代後村上天皇(南朝の後醍醐天皇の息子)に追号して天皇位を認めることになりました。このように、天皇位の認定は、明治以後、かわっています。
 「歴代天皇」というのが、絶対確実なものではなく、その時代その時代の考え方によって変化していることを考えると、飯豊青皇女が正式に「飯豊天皇」と認識されていた時代もあっただろうと思います。

 飯豊青皇女より前の時代に古事記に名前が出ている神功皇后、『古事記』での称号は「大后」。オホキサキ・オキナガタラシヒメ。

 明治時代以前は「第15代神功天皇」と扱われることもあった女性支配者オキナガタラシヒメを、明治以後は「仲哀天皇の皇后」として扱うのみで、最高位統治者の位にあったことを認めなくなりました。

 明治以前は神功皇后を15代の帝と数えている史書もあったのに、明治以後は天皇の位に数えないことにしてしまいました。

 あくまでも皇后であり、「摂政」として統治したとみなしたのです。
 記紀の記述から支配形態をみれば、神功皇后は、軍事に至るまでのすべてを70年近く統治していました。個人として実在していたかどうかは実証できませんが、長期間クニを支配した女性支配者が存在したという伝説は口承されていました。

 推古以後の女帝が「天皇の娘」であったことに比べると、神功皇后は、開化天皇から4代くだり、臣下となっていたオキナガスクネの娘であったとされています。

 開化天皇は、欠史9代の天皇。すなわち、系譜に名があるだけで、史的伝説もなく、架空の存在とされている天皇ですから、その5代目の孫といっても、系譜上の根拠は限りなく薄い。
 オキナガ系は、ヤマトに勢力を持っていた豪族のひとつとみられます。
 臣下であるオキナガ系の出身者をスメラミコトとすることはできない、という意識が、『古事記』採録の段階からあったのだと思います。

<つづく>
11:12 |

2007/03/02 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(4)♪お花をあげましょ桃の花

 欽明天皇の娘、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ=推古天皇)が、皇位についたことを特別な存在とするためにも、天皇を父親としていない神功皇后を「スメラミコト」と呼びたくない人々が「神功天皇」という記述を記紀に採用しなかったのでしょう。

 逆に、臣下藤原氏の娘光明子が皇后になるときは、「神功皇后も臣下の出身であった」ということが、皇族の出でない光明子が皇后になる根拠とされました。

 神功皇后の統治は『日本書紀』の記述に従えば、西暦201年から269年にあたる期間68年間。(実際の年代はわかりませんが)
 長期にわたって政務をとり軍を指揮しました。

 このため、魏志倭人伝に西暦239年に中国から親魏倭王の称号を受けた卑弥呼を、神功皇后に比定する考えが古くからありました。

 というより、日本書紀編纂者が『魏志倭人伝』卑弥呼についての記述を読んだことがあり、その年代に合わせて神功皇后伝説の年代を決定したのだろうという説が有力です。

 『古事記』の割り注によると、神功皇后は101歳まで生きたことになっています。クニを統治した期間は70年。息子の摂政というには、あまりに長すぎる。
 息子のホムタワケ(応神)が即位したのは、神功皇后の死去したあとの270年から。70歳から100歳までヤマトのクニを統治しました。

 ホムタワケが100歳まで生きたというのは、あくまでも伝説ですが、伝説上のことであっても「70歳になるまで」ママに摂政をしてもらっていた、ということになります。
 こりゃあ、うちの息子が「18歳になっても自立できない」って責められないわん。

 神功皇后は、「倭の五王」伝説と同じく、さまざまな統治者、オオキミの伝説の集大成として記録され,ひとりの人物に仮託されたのでしょう。
 3~6世紀の伝説をまとめて、神功皇后の事績、倭の五王の事績としてあてはめたものと思われます。

 ヤマトタケル、その息子とされている仲哀天皇(神功皇后の夫)も、さまざまな支配者の像をあつめた伝説的存在であるとみなすべきでしょう。

 8世紀に成立した『古事記』『日本書紀』に、「天皇」という称号を持っていないものの、実質的にクニを統治していた女性が存在していたと書いてあること、中国の歴史書『魏志倭人伝』に、女性統治者卑弥呼の名が書かれていること、留学生にとって男女を問わず興味を引き起こされることがらです。

 古代日本が母系(または双系)から父系へ移っていく過程で、社会のなかでの女性の姿が変化してしまいました。
 それでもなお、古い伝承のなかに、このクニにとって女性の存在が大きかったことがうかがえます。
 記紀の記録は、この島国がもともとは女性を中心とする社会であったことを物語っています。

 明治時代に最初の紙幣に神功皇后の肖像が使われたり、神功皇后顕彰が行われたのは、三韓征伐などの伝説を、日本の亜細亜進出のためのプロパガンダとして利用するためでした。国威発揚の道具にされてしまったのは気の毒でした。
 
 女性は「国家発展の道具」ではありません。ひとりの人間として、自分を生き生きと生かしていける人生を選び取る、主体的な存在です。
 女の子の初節句を祝うなら、「あなたは子供を産む機械」とか「子供をふたり持つのが健全」と言うのではなく、「あなたは、ひとりの人間として、あらゆる可能性に挑戦する人権をもっている」と、祝ってやりたい。

 桃の花は、生命力と繁栄を言祝ぐ花。古くから桃源郷や桃太郎伝説など、桃の力が信じられてきました。
 ♪あかりをつけましょ、ぼんぼりに♪お花をあげましょ桃の花。
 三月三日は桃の節句。

<つづく>
00:07 |



2007/03/04 日 

プリンス&プリンセス お妃何人?

 二人並んだ内裏雛人形、親王雛はPrince & Princes。三人官女は、Three court ladies。五人囃子はFive court musicians。
 ♪お内裏様とお雛様、二人並んですまし顔♪

 「プリンス&プリンセス」に関しては、日本事情を学んでいる留学生からさまざまに質問が出ます。
 この10年のあいだに、女帝論争などもあり、海外の新聞に報道される機会が増えたので、留学生の興味を呼び起こしたのでしょう。

 日本語学科で学ぶ2年生。ほとんどが、日本語能力試験1級に合格しているクラスでの、留学生からの質問「歴史上には女性の天皇がいたのに、なぜ、今は認めないということになったのですか」

 回答「現行の皇室典範は、1947年に成立し、皇位は男系男子皇族が継承すると書かれています。もとになった旧皇室典範は、1889(明治22)年に、薩長閥の武家出身の人々が中心になって決めました。

 江戸時代以後の儒教思想は、武士支配に合うように編集された朱子学が中心で、男尊女卑の考え方をしています。この儒教思想を持つ武家出身者によって天皇家の継承方法を決めたため、天皇は男系男子皇族がなる、と記載されました。

 歴史的には、古代にも江戸時代にも女性天皇はいて、女性の皇位継承を否定していませんでした。
 つまり、天皇は男性皇族が継承するというのは、明治以後に近代天皇制を確立しようとした人々の考え方です。」

 留学生からの質問。
「昔の天皇は妻を何人も持っていたそうですが、一夫一婦制になったのはいつからですか」

 回答。
 「古典文学の授業で源氏物語を読んだ人、古文、難しかった?源氏物語の冒頭を覚えていますか。
 いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやんごとなききわにはあらねど、すぐれてときめきたもうありけり。これが源氏の書き出しです。

 女御と更衣は、天皇のおきさきのうち、皇后中宮より身分は下になります。身分の高い人もそれほど高くはない人も、たくさんの女性が天皇の妻としておつかえしていた、と紫式部は『源氏物語』を書き出しました。
 天皇家は世継ぎを得るために、正妃のほかたくさんの妻を持つ必要がありました。

 紫式部のお仕えした中宮藤原彰子は、一条天皇の妻。一条天皇には、皇后、中宮というふたりの正妃のほか、女御3人。あと定子皇后の妹も、皇后亡きのちに入内(じゅだい)していました。この6人が公式な妻。そのほか、公式の立場ではなく天皇の閨に近侍した女性はさらにたくさんいたでしょう。

 近代、明治天皇には、昭憲皇后(一条美子いちじょうはるこ)に子がなかったので、大正天皇生母(柳沢愛子)など7人の側室を持ちました。
 しかし、明治天皇の次の大正天皇は、体調が十分でないときも多く、また皇后が男子を産んだこともあって、皇后ひとりのみでした。

 大正天皇の貞明皇后が4人の男子を産み、昭和天皇の香淳皇后が2人の男子、今上天皇の美智子皇后が2人の男子を産みました。
 大正天皇、昭和天皇、現在の天皇と皇太子も、配偶者はひとりのみになっています。

 しかし、皇室のことを決めた法律である皇室典範には、一夫一婦制などの規定はありません。したがって、決まり事として何時いつから一夫一婦制になった、ということはできないですが、実際上としては、大正天皇以後は天皇一人に皇后ひとりになっています。

 日本の歴史をみると、6世紀に実在した第26代継体天皇以後の天皇99代のうち、世継ぎを生んだ皇后(中宮)は、18人のみ。(うち3代は直近の、貞明皇后香淳皇后、美智子皇后)。
 皇后(中宮)を母親として出生した男性天皇は、24人のみ。8割の天皇は皇后中宮以外の所生です。
 現在のように、三代つづけて皇后や皇太子妃があとつぎを生んだのは、実にまれなこと、歴史上になかったといえることなのです。

 昭和天皇の前に、皇后から生まれた男性の天皇は、後宇多天皇(1267~1324在位1274~1287)で、母は、90代亀山天皇中宮藤原(洞院)佶子。それ以来600年間、皇后(中宮)が男子を産んだことはありませんでした。

 江戸時代に徳川和子(後水尾天皇中宮)が生んだ明正天皇も女帝ですから、昭和天皇が1901年に皇后(出産時は皇太子妃)から生まれたのは、約600年ぶり、皇室の歴史のなかで珍しいことだったのです。

 多数の国民が、天皇皇太子皇族が側室をもつことを望んでおらず、現在のような一夫一婦制を続けるほうがいいと感じているようなので、これからも天皇制が続く間は皇位継承問題は繰り返されるでしょうね」

<つづく>
=====================
もんじゃ(文蛇)の足跡:
 皇后(中宮)所生の天皇(女帝のぞく)以下のとおり。( )内が母親。
 敏達天皇(29代欽明皇后石姫)、天智天皇と天武天皇(34代舒明天皇皇后宝皇女=皇極女帝)、平城天皇と嵯峨天皇(50代桓武天皇皇后藤原乙牟漏おとむろ)、仁明天皇(52代嵯峨天皇皇后橘嘉智子)、朱雀天皇と村上天皇(60代醍醐天皇皇后藤原穏子)、冷泉天皇と円融天皇(62代村上天皇皇后藤原安子)、後一条天皇と後朱雀天皇(66代一条天皇中宮藤原彰子)、後三条天皇(69代後朱雀天皇皇后禎子内親王)、堀河天皇(72代白河天皇中宮源賢子)、崇徳天皇と後白河天皇(74代鳥羽天皇中宮藤原璋子)、近衛天皇(74代鳥羽天皇皇后藤原得子)、安徳天皇(80代高倉天皇皇后平徳子)、仲恭天皇(84代順徳天皇中宮九条立子)、後深草天皇と亀山天皇(88代後嵯峨天皇中宮藤原吉子)、後宇多天皇(90代亀山天皇中宮藤原(洞院)佶子)

11:42 |


2007/03/05 月

箱入り

 3月3日が終わったら、お役目ごめんになって、また1年間は箱の中に押し込められ、押入や納戸ですごすおひなさまたち。
 箱入りの生活は、楽しくはないでしょうね。

 留学生からの質問「プリンセスマサコは、皇室に入ったために病気になったというのは本当ですか」

 回答「雅子妃は適応障害の療養中と発表されています。一般国民にはわからないことがたくさんあるけれど、男子の出産がなかったことでプレッシャーをうけたり、しきたりにストレスを感じて適応できずに心を痛めてしまったのなら、お気の毒なことですね。

 正妃が生んだ直系男子が3代続いたことが奇蹟的なのに、奇蹟をつづけて起こせなくても、しかたがないことなのにね。」

 オーストラリアのジャーナリスト、ベン・ヒルズ著『プリンセスマサコ・菊の玉座の囚人』(ランダム・ハウス・オーストラリア社)に対し、事実誤認の記事が多いとして、宮内庁が抗議しました。(ただし、宮内庁の抗議は天皇皇后に関する記事に対してのみ行われ、雅子妃に関する記事については無視。)

 ヒルズ氏は「我々オーストラリアは表現の自由を享受する長い伝統があり、これを誇りにしている」との説明を行い、宮内庁が要求した謝罪を拒否。
 日本語翻訳版を発行する予定だった出版社は、「発行をとりやめる」と、決定しました。

 一般の人と異なり、自分から名誉毀損の訴訟を起こすこともできない皇族について書くのであれば、事実誤認や誤解を招く内容に慎重になる必要があることは確かでしょう。
 しかし、「宮内庁が抗議 → 発行とりやめ」というのは、なんだか釈然としません。

 雅子妃のご療養についても、日本国民の間にもさまざまな意見が散見されます。
 私自身は、「外から見てもそのつらさがわかりにくい心の問題なのだから、ゆっくり気長にご療養を」と考えますが、「皇后陛下の誕生日祝いに欠席したのはけしからん」とか、「正月の皇居参賀に際し、午後のおでましがなかったのは残念」という意見を述べる人もいます。

 でも、さまざまな意見を述べることができる国であることはありがたいことだと思っています。
 自ら抗議できない皇族にかわって、宮内庁が筆者に抗議したことはわかりますが、だからってすぐに「出版とりやめ」という出版社の態度は、これから先思いやられます。
 大本営発表でなければ、出版できない社会になっていくのでしょうか。

 お雛様がしまわれている箱の中。箱の中にいれば、安全です。
 防虫剤もいれられて、外からの虫が入り込んでくることもないでしょう。冷たい風もあたらないでしょう。

 箱の中の波風を立てないことが最優先される、不自由な社会。
 「自らの信条により唄いたくない歌」の伴奏を拒否する音楽教師は、罰せられる社会。
 反対意見が出そうな本は出版とりやめる社会。
 自由なはずの社会がどんどん不自由になっていることに、皆が目をつぶって、自分自身の収入確保を最優先する社会。

 納戸の中で、じっと安全に暮らしたい者にとっては、快適でなにより安心できる暮らしでしょう。
 この箱は、目に見えないから、気にしなければ、自分が箱の中にいることは見ないでいられる。

 でも、目には見えない箱でも、感じてしまう者もいます。
 箱の中にじっと身を縮めているのは苦しいと思う者もいます。箱のなかのしきたりに自分は合わせられないと感じる人もいます。
 それでも皆が押し合いへし合い、箱の中で暮らすこの社会。

 日本事情のなかで、留学生が「現代の日本社会」の諸相を理解していくと、「金の屏風の向こうには、白酒飲んで楽しくすごすってわけにもいかない生活がある」こともわかっていきます。
 「安全で快適」な生活を望むだけでは、見えない箱に押し込められて暮らすことになってしまうことも見えてきます。

 ♪金のびょうぶにうつる灯(ひ)を かすかにゆする春の風 ♪
 あたたかい春の風が、病気療養中の人々にも、悩みを抱える人々にも吹き渡りますように。
 春の風が自由に吹き渡ることのできる天地でありますように。

<つづく>
12:45 |

 王室をもつタイの留学生からは、皇室に親近感をもちつつ日本とタイ王室のちがいに関して質問がでます。
 「日本の皇位継承権をもつ皇族で離婚した人がいますか」などの質問も。

 それというのも、現在のタイの王位継承権をもつ第一王子は離婚経験があり、離婚した王妃、愛人だった女性、再婚した別の王妃の間にそれぞれ子をなしたために、国民の間には「現在のプミポン国王に比べると、未来の国王として、、、、」という意見を持つ人もいるのだそうです。

 独身で国民福祉に奔走している王女も王位継承権を持っており、人気は高いのですが、こちらは「子をもっていない独身女性が王位を継いでも、次が、、、、」という意見もあって、タイ王室の次代もたいへんみたい。

 日本の皇族離婚については、「過去に離婚したくてもできなかった皇族がいたかどうか、日本の皇室のプライバシーは一般人にはわかりません。少なくとも、今上天皇と美智子皇后は、愛情によって結ばれ仲良く添い続けている理想的な夫婦と、国民に思われています」と説明しています。


2007/03/06 火

分去れの碑

 「お言葉ですが」の週刊文春連載を2006年夏にうち切られた高島俊男が、発表の場をウェブサイトWeb草思に移しました。『お言葉ですが』を文春で愛読してきた読者にはかえってありがたいかも。ウェブ読書は無料なので。
 
 2007年2月掲載分の『新お言葉ですが第二回』に、読売新聞のコラム「編集手帳」を引用している。引用されている編集手帳コラムは、皇后御歌を、引用しています。

 引用の源、美智子皇后の御歌はつぎの通り。
皇后御歌「かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ」

 この歌について、高島は「心を打たれた」と感想を述べています。

 わたしが心を打たれたのは、第一にその大胆であったが、もう一つ、この歌から感じられる強い悔いの念である。
 あんなに美しかった人が、泣きそうな顔の、猫背の--これは身長の点でも天皇につきしたがう形をつくれ、と役人に要求されてのことだろう--老女になった。その悔いが、おそらく半世紀にわたって心身を苦しめてきたのであろうことがうかがわれる。

 「民間出身の24歳の令嬢が、皇太子と結婚する」という、前例のない人生を選んだ美智子皇后に、高島は「他の人生」への悔いを読みとる。それは、高島が「家族を持たない人生」を選んだことへの悔いと共鳴して高島の胸のなかに響いています。

 同じ歌でも、読み手がことなれば、感じ方も違ってくる。荒川区立図書館公式サイトにある「日本を考える」というコラムの筆者も、この歌を引用している。(2004/07/01)
 

 美智子皇后は、幾多の苦難を乗り越えてこられたが、陛下とのご結婚を後悔することはなかった
「かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ」と、今ご自身が歩まれた道に確信を持たれているのである。
 「この国に住むうれしさよゆたかなる冬の日向に立ちて思へば」 

 ひとつの歌の解釈をめぐって、まったく相反する受け止め方が示されています。
 ひとつは「この歌から感じられる強い悔いの念である。」
 もうひとつは「今ご自身が歩まれた道に確信を持たれているのである。」

 荒川コラム子は、美智子皇后が、皇太子妃時代の流産後の精神的不安定の時期、神谷美恵子との交流によって魂の回復を得たことを紹介し、皇后になったのちのバッシングによって失声症になったころの「うつつにし言葉の出でず仰ぎたるこの望の月思ふ日あらむ」という御歌も引用しています。

 同じ歌をめぐって、まったく異なる感じ方がある。それは、それでよいでしょう。歌は、ことばとして発せられたあとは、受け取る側のこころしだいだから。

 さて、私にとっては、歌の解釈以前に、「分去れ(わかされ)」という単語が、「新出語彙」です。
「追分(おいわけ)」は知っていましたが、「分去れ」は知りませんでした。
 
 軽井沢のあたりは、皇室の人々にとってはゆかり深い土地。
 と、いっても、「テニスコートの恋」によって若者が集まるようになるまでは、静かな避暑地でした。さらにその前は中山道の鄙びた宿場町追分が知られているだけで、軽井沢はただの山村でした。

 中山道を追分宿までいくと、北陸街道と中山道のふたつの道に分かれていく地点があります。分かれ道の地名が「分去れ」。
 現在、その地には、「分去れの碑」という石碑が建てられているそうです。

 高島のエッセイに追分と分去れの地名は出てきませんが、御歌が、このあたりの道を散策しているときのことに仮託されているのであろう、という教唆を受けたことは、文末に述べてあります。

 つまり、この歌は、表面上は「軽井沢あたりを散歩していたとき、ふたつの道の分かれ目にでた。ひとつの道を選んで歩きつづけたが、そのとき選ばなかったもうひとつの道は、いったいどこへ向かう道なのだろう」という、「散策時の感想」と、受け取ることもできる。

 そのような表向きの解釈ができるからこそ、一般国民の目にふれるところに公表されたのでしょうが、読みとる人々は、それぞれが己の心情にひきつけて解釈できます。
 高嶋にとっては「自分の選んだ人生への強い悔いを感じる」
 また、別のコラムでは「ご自身が歩まれた道に確信を持たれているのである」

 私の受け取りかたは。
 分かれ道にきて、自分自身の過ぎ去った道を思う。悔いることはない。自分の歩んできた人生は、自分自身が選び取ったものとして、後悔はしていない。しかし、それでも、もうひとつの道が、いったいどのようなものだったのか、知りたくなる。悔やむことはない、しかし、、、
 その、人の心の微妙なたゆたいを表現できる、美智子皇后は希有な歌人だとおもいます。

 私は、美智子皇后の歌集『瀬音』は、読んだことがありません。
 1年に一度歌会始の御歌を新聞でみるだけ。
 それでも、皇后がたいへんすぐれたことばの使い手であり、もし職業を選ぶことができたなら、「プロの歌人」としても世にたっていくことができる資質をもっている人だと感じます。

 皇后は、アマチュアとして、まどみちおの詩集を英訳されていますが、分去れのもうひとつの道を選んでいたら。詩人としてあるいは英文学者としても、一家をなすことができた人であったでしょう。
 ご実家の正田家は、日清製粉創業家ですが、親族の多くが学者になっているのを見ると、皇后の二手にわかれた分かれ道のもうひとつには、学者、文学者としての道があったかもしれない、と想像してしまうのです。

 2007年3月6日、宮内庁は「皇后さま(72)は強いストレスを原因として腸壁からの出血などの症状があり、今月下旬から10日間の静養期間を設ける。精神的な疲れが原因とみられる」と、発表しました。

 72歳の年齢で、末娘も嫁ぎ、男の子の孫も誕生し、一般の家庭なら「おばあちゃん、これでもう何も心配はないですね」と、その幸福な生活をうらやましがられる人生であろうものを。
 それなのに、腸から出血するほどの強いストレスがかかる心理状態とは。宮内庁がいう「皇室の課題」、どれほど心重く苦しいものなのでしょうか。

 皇后は、第二子を「子宮外妊娠」により流産したあと、精神的なストレスを受け、葉山で夫や長男と別れて、長期間静養生活を送りました。
 また皇后位についたあと、やはりストレスから声がでなくなる時期がありました。
 50年前のふっくらまんまるの顔に微笑みをたたえていた人が、「泣きそうな顔の猫背の老女」と高島俊男に描写される姿になり、なおもまだ、ストレスで内出血をする。
 皇太子妃も、数年にわたる適応障害の精神的な苦しみからいまだ開放されたようにはみえません。

 ふたつに道が分かれていくその分去れの地で、「もうひとつの道」を歩んでいれば、72歳で強いストレスを受ける人生とは違った道があったのかもしれないと、「泣きそうな顔の老女」は、思うことはないのでしょうか。

 おおかたの人が「皇后様は、たくさんのお苦しみのなかにあっても、陛下をお支えした日々をけっして悔やむことなく、、、、」と、受け取っているなか、ひとり、「あんなに美しかった人が、泣きそうな顔の、猫背のーこれは身長の点でも天皇につきしたがう形をつくれ、と役人に要求されてのことだろうー老女になった。その悔いが、おそらく半世紀にわたって心身を苦しめてきたのであろうことがうかがわれる。」と、感想を述べる、その苦しみに同感できる感受性を持つ人として高島がいること、感じたことを率直に述べる場を提供するサイトがあること、これは、私を勇気づけてくれます。

 私もまた、自分が進んで行かなかった道をふりかえることがある。
 もしも、あのとき、役者をつづけていたら、、、、地方公務員をつづけていれば、今頃は、、、、もしも病院の内科検査士をやめないでいたら、、、、英文タイピストをつづけていたら、、、、中学校国語教師をやめなかったら、、、ケニアで1年近くすごすことがなかったら、、、、中国での単身赴任を引き受けていなかったら、、、、
 私の場合、あまりにも分かれ道が多かったので、まあ、どう分かれていっても、どうせたいしたことは出来なかったことだけは確かなのだけれど

ぽかぽか春庭「神話の日」

2008-10-18 23:11:00 | 日記
神話の日
2006/02/11 土

 古い古い日本の姿、曖昧な部分もあります。歴史上の出来事のはっきりした日付がわかるようになったのは、6世紀くらいからでしかありません。
 日本の建国の日が2月11日だなんて!
 日本の建国はUSAのような新出来の国の独立記念日みたいに、はっきりわかっていないのです。

 長い歴史が続く中で、日本が「何月何日」とはっきりわかるような建国の日を持ってこなかったのは当然でしょう。「日本」という国号でさえ、いつ出来上がったかははっきりしておらず、ニッポンなのかニホンなのかも「テキトー」でいいのに。

 それなのに、2月11日を「建国の日」と区切ってしまうのは、旧石器時代縄文時代以来の私たちの先祖がはぐぐんだ長い長い歴史に対して、申し訳ない思いです。

 伝説上の初代天皇(神武天皇)は、現在の歴史研究では実在したことが確認されていません。言語学の命名法研究からみて、神武の和名は、後世に作り上げられた名であることがはっきりしています。神武から9代の天皇は実在しておらず、その名は後世の創作です。

 架空の神武天皇が即位した日を、切りがいいからと1月1日(太陰暦)とし、それを太陽暦になおすと2月11日になるという計算です。こういう「伝説上」の日付で建国の日を決めてもらっては、人文科学としての歴史が泣きます。
 2月11日を祝日にしたいのなら、「神話の日」としてほしいです。
<つづく>
00:01
 
2006/02/12 日

 旧「紀元節」が決められたのは、「近代国家」として、建国の日を内外に示すべきだという国家観によります。
 戦後いちどは廃止された「紀元節」が「建国記念の日」として復活したのも、この国家思想のためです。

 「国民のために国家がある」のか、「国家のために国民がある」のか、という2つの考え方が拮抗するなかで、「国家のために国民がある」と考える人々にとって、「建国記念の日」は、よりどころのひとつになっています。

 「建国記念の日奉祝」派の人々にとって、初代天皇が即位した日を祝うことが、この国にの建国を祝うことになる、と考えられているようなのです。
 しかし、『日本書紀』の記述を見ていけば、この国を最初に統治した天皇(スメラミコト)という名乗りを与えられている人はふたりいます。

 始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)=神武、と、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)=崇神です。

 スメラミコト(天皇)という称号を考え出した人は、天武天皇です。天武以前は「おおきみ(大王)」という称号を名乗っていました。

 a*****さんからのコメント。ありがとうございます。
 「 昨日のNHK,「その時 時代は動いた」壬申の乱 で、天武天皇(大海人皇子)が大友皇子を破った後、それまでの大王をやめて、初めて自らを天皇と名乗り、それ以前の大王を天皇と呼び直した、という話でした。神話の日というのもいいですね。。
投稿者:a***** (2006 2/11 0:20)

 NHK『その時歴史が動いた』、天武天皇の事績を広く伝えてタイムリーな企画でした。NHK番組では伝えていない天武朝9代と明治以後3代の天皇の関係について、のちほど今シリーズの中でお話ししていきたいと思っています。

 『古事記』での神武天皇の和名は「かむやまといわれひこ(神倭伊波禮毘古命)」。
 初代神武だけがさまざまエピソードを持ち、2代から9代まで、第2代綏靖、第3代安寧第4代懿徳第5代孝昭第6代孝安第7代孝霊、第8代孝元、第9代開化、までは、后の名子供の名を羅列するのみですっとばしています。

 次に詳しいエピソードが出てくるのは、10代目の崇神天皇から。
 初代と同じく10代目も、「ハツクニシラス(はじめてこの国を統治した)」という和名を持っています。歴史的には、崇神からが実在の「ヤマトの大君(おおきみ)」であろうとみられています。

 2月11日を祝うなら、自国の長い長い歴史を振り返り、日本語が豊かな言語文化を築いてきたことを、一同そろって寿ぐ日としてほしい。

 「神話と伝承の日」とし、アイヌのユーカラや沖縄のおもろそうしなどといっしょにことばの豊かさを味わうと共に、日本語の長い歴史と言語文化の変遷をふりかえる一日として、祝いたいなあ。

<つづく>
01:44



大王の名前と言語学
2006/02/13 月

 日本の言語文化にとっても言語学にとっても、アイヌ語と琉球語(沖縄方言)を日本が保持していることは、とても喜ばしいこと。
 私は、縄文文化あるいはそれ以前の旧石器時代も含めて自分たちの長い歴史を誇りたいと思います。日本語の豊かな響きを寿ぎたいと思います。

 「日本」という国号にこだわるのなら、大宝律令に「日本」の文字が記載された701年に注目したらいいのかもしれないし、「帝国日本」ではない、新生の現在の日本を寿ぎたいなら、大日本帝国から「日本国」へと生まれ変わったときを「建国の日」としたらよかろうと思います。

 世界的には、占領下や、植民地状態にあった国が独立した日を「建国の日」と呼ぶのが大半ですから、日本が「オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)」でなくなった日(1952/04/28)を「建国の日」とするのが、世界的、歴史的には納得の記念日かもしれない。4月29日と連休になるのでいいかも。

 日本語を母語として読み書きしてきた者として、ことばの使い方には気をつけたい。
 歴史を無視して、今から2666年前(紀元前660年)という伝説上のある一日を記念して「建国記念の日」と呼ぶのは、無理がある。その日に即位したという伝説上の人は実在しないのですから。
 歴史学考古学から考えても、言語学命名法からいっても、「2月11日は建国記念の日」とするのは、誇るべき日本文化日本歴史に対して、不誠実なことです。

 天皇の和名や陵墓の研究によって、初代~9代の天皇名は、後世に作り上げられたものであると判明しています。
 天皇の中国風の名、神武とか、応神とかの名は、天武以後につけられた、新しい名前です。

 中国式天皇名より古い時代につけられたはずの天皇和名を、命名法(ネーミング、命名法は言語学の一分野です)によって、言語学的に調べると、いつごろその名がつけられたのか推定できます。

 10代以後の天皇和名よりも、新しい方式の名がつけられているのが、初代から9代までの名前です。
 初代から9代までの和名は、天武天皇持統天皇の時代以後につけられたことが判明しています。すなわち、初代~9代の天皇は、天武朝になってさまざまな伝承をもとに作られたのです。

<つづく>
00:58


古事記口承
2005/02/14 月

 実在の神武天皇は存在しなかったけれど、神話伝説上の神武天皇は、後世作り上げられました。
 「きっと最初の天皇はこんな人だったのだろう」と、さまざまな伝承、地方に存在していた伝説を混ぜ合わせ、中国の思想などを取り入れながら、ハツクニシラス伝説が確立して出来上がっていきました。

 12日に書いたように、天武天皇(大海人皇子)は、「大王(おおきみ)」の称号を「天皇」という称号に変え、天武以前の大王にも中国風の名と天皇の称号を与えました。

 各地の伝承を取捨選択し、統一王朝の記録として「古事記」や「日本書紀」の編纂を意図したのも天武天皇です。
 中国に対して、また地方の豪族に対して、統一王朝の正当性と権威を知らしめるため、天武天皇は稗田阿礼に命じて、各地に伝わる伝承を暗唱させました。

 「稗田阿礼」とは、一個人ではなく、阿礼を長とする朗唱職能集団の一族であったと私は思っています。
 「伝説」や「神話」を集めたものを稗田阿礼が朗唱し、太安万侶が編纂したものとして私は「古事記」を受け止め、20代から30年以上にわたって読んできました。

 1974年に『古事記』を卒論として提出して以後も、おりにふれて読み直すたびに、万葉仮名の発明と工夫に感嘆し、世界各地の伝承神話との異同が次々に見つかるなど、新しい発見が増えてきました。
 古事記編纂の過程でどのような取捨選択、あるいはもっと踏み込んだ改竄が行われたかについては、ここでは論議を置いておきます。

 漢字漢文は伝来していたけれど、まだ日本語表記法が出来上がっていなかったので、暗唱する以外に伝える方法はありませんでした。

 口承は、文字がある地域にとっても、そうでない地域にとっても、言語文化の重要な伝承方法です。
 『ユーカラ』はアイヌ神謡集、『おもろそうし』沖縄の古代歌謡集。日本の言語文化にとって、たいせつな宝物です。

 口承の伝統は、アイヌユーカラや琉球おもろそうし、日本語文芸でも将門記、平家物語、仏教説話などで続いてきました。
 文字ではなく、口移しで物語を覚えていく方法を残していたのが越後瞽女(えちご ごぜ)。最後のごぜさんだった小林ハルさんは2005年に105歳で亡くなり、耳からの情報だけで伝えていく口承の保持者はいなくなりました。

 口承文芸の伝承者、現在もいますが、皆、文字記録も利用しつつ口承を伝えていて、耳からだけで受け継いだ人はいなくなったのです。

 稗田阿礼の口承を文章表記にうつすに当たって、漢文で書くか漢字によって日本語を記述するか、ふたつの方法が考えられました。
 漢文方式が『日本書紀』となり、漢字を日本語の音節にあてはめる「万葉仮名」方式で『古事記』が書かれました。

 日本の神話についてはさまざまな論がありますが、『古事記』や『日本書紀』に書かれた、古い神話を持つことは、日本語言語文化にとって、とても心豊かなことです。

<つづく>
00:01


歴史ファンタジー
2006/02/15 水

 「古事記」「日本書紀」などにに書かれていることを吟味せず、天皇についての歴史的事実を知りもしないで、明治以降の国家神道だけを奉じて「日本は神の国だ」とか発言する政治家が出てきてしまうのは、わが国の歴史に対して不遜なこと。

 千年の伝統を破壊する形で急ごしらえでつくりあげられ、まとめられた明治以後の国家神道は、南方熊楠が案じたように、自然のなかに息づいていた素朴な神々を破壊し、おろそかにしてしまいました。

 各種の「歴史」というのは、ファンタジーの一種であり、ある社会が一致して信じたいと思うことが記述されていきます。
 歴史がファンタジーであることを認識せず、書かれていることがそのままそっくり事実と思いこんだり、歴史事実への検証なしに「これが『国民の歴史』である」という態度で主張するのは、「科学としての歴史」ではありません。
 人文科学としての歴史記述は、冷厳な目で検証を行っていくべきです。

 一般に流布している「日本の原像」、天照大神アマテラスオオミカミが皇室の祖先神であり、神武天皇以来万世一系の皇室が存在している、というのも、そう信じたいひとが信じているファンタジーです。

 伊勢神宮天照大神と天皇家を結びつけたのは、天武天皇です。アマテラスを「祖先神」として祀るのは、天武朝から始まったこと。
 聖徳太子の時代まで、「やおろずの神々の中の有力なひとつ」ではあったけれど、「皇室祖先神」という扱いではありませんでした。

 「天皇は神の子孫であり、自らも神である」という思想を積極的に政治利用し、自分たちの権威を高めるために周囲への宣伝材料として行動した天皇は、天武天皇からはじまる9代と、明治以後の3代のみ。
 125代の天皇の中の実在した116人のうち、天武朝の9代(8人)と、明治以後の3人の合計12人だけが、日本史の中で、特殊な天皇だったのです。

 他の歴代天皇は、周囲に対して「天皇は神と同じように権威あるもの」として押し出さなくても存在理由があったし、アマテラス神の子孫を強調する必要もありませんでした。
 明治以後の天皇とことなり、他の歴代天皇は仏教を信仰し、聖徳太子以来の仏教に基づく教えを守って行動してきました。

 天武朝の天皇も、天武自ら仏教者として出家したし、聖武天皇は深く仏教を信仰し、東大寺大仏を建立しました。
 聖徳太子時代以後で、仏教と切り離された天皇は、明治以後の4代だけ。

 周囲内外の競争勢力に対して、積極的に「自らの権威」を作り上げなければならない存在だった天皇が、歴史上ふたりいます。
 天智天皇系統の大友皇子(弘文天皇)と対抗しなければならなかった大海人皇子(天武天皇)と、旧幕府徳川将軍を圧倒する権威を、大急ぎで持たなければならなかった明治天皇です。

 内での権威確立と同様に、外国勢力へも自身のよって立つ威信を誇示しなければならなかったのが、天武帝と明治帝。

 天武天皇は、圧倒的な大国中国に対抗していかなければならず、明治天皇は弱冠16歳での即位後、これまた圧倒的な力で開国を迫り、すきあらば植民地化の機会をうかがう欧米諸国と対抗しなければなりませんでした。

 天武天皇と明治天皇は、「自分たちは祖先神アマテラス神の子孫である」ことを強調して自らの統治者としての権威をうち立てた、という共通点を持っています。他の天皇には見られない特異なことでした。他の天皇は、「神の子孫」なんてことは強調せずに、仏教思想のなかで一生をすごしたのです。
<つづく>

00:01



蝦夷共和国総裁選挙
2006/02/16 木

 明治以降、皇室は「国家神道」のみに関わって、仏教信仰から離れました。
 国家神道の思想とは、明治期、急ごしらえで作り上げられた「中央集権型国家のための新思想」でした。
 源流は水戸史学などに求められるものの、国家的な思想として、天皇が「神道」一辺倒になったのは、明治からです。

 「皇室は、アマテラス神の子孫であり万世一系」と考えることは、歴史ファンタジーとして信じたい人が信じていけばいいのであって、「天皇家は125代続いたというが、それなら、「我が命も、岩宿遺跡の先祖以来200代だか300代だか続いた末の命である」と、考える人がいてもよい。
 125代連続だろうと、私みたいな「どこの馬の骨やら」の者だろうと、命の価値は等しい。

 天武帝が自家の正当性を主張し、各地の豪族を圧倒する威信を確立しようと懸命だったのは、壬申の乱後もすぐには支配権が確立せず、天智系の子孫をかつぐ勢力の豪族を圧倒しなければならなかったから。

 明治維新期に天皇の権威を認めたのは、一部の人間であり、他を圧倒する確たる力を持っていなかったからこそ、威信の表示が必要でした。
 明治初年の民衆にとって、「テンノー?ミカド?いったい何それ?」という程度の存在でしかなかったのです。

 明治維新を押しすすめた人たちも、倒幕後の構想はまちまちでした。公家の三条や岩倉は天皇中心にしようと考えていたでしょうが、他の人々はそれぞれの考えでまとまってはいませんでした。

 坂本竜馬が「入れ札(選挙)」によって「国の代表」を決める共和国を構想していたこともあったようだし、短期間ではあったけれど、榎本武揚が「函館政庁(蝦夷共和国)」を樹立し、入れ札によって総裁を決めていたことなどを考え合わせると、歴史の「もしも」が少しずれていれば、日本が138年前に共和国へ移行していた可能性もありました。

 明治10年の政変(西南戦争)終結まで、明治新政府は存続できるかどうか、薄氷ふむようなあやうい政権でした。
 近代社会の確立にあたって、天皇が政治権力に直接関わることになったことは、強力な中央集権を作り上げた半面、近代の破綻にも繋がる要因ともなりました。

 近代以後の共同体のありかたと近代制度の枠組みが、今、大きくきしんでいます。国民統合のシンボルとは一体どのようなものであるべきなのか、そこまで立ち返って考えたいのです。
 
 「私にとっての共同体とは何か」を、もう一度考えてみたいと思っています。
 共同体と自分自身を結びつける手がかりのひとつが、私にとっては「日本語」です。
 日本語を母語としない人との共同体形成はどう行っていったらいいのか、についても含めて、日本語について考えてみること、母語、共通語としての日本語についてあれこれ考えること。私のアイデンティティのひとつの源泉です。


ぽかぽか春庭「ぐっときたネーミング・カタカナの名前」

2008-10-15 07:10:00 | 日記
ぐっときたネーミング


2007/02/07 水
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(1)娘と私とマツコとナンシー

 娘は母に厳しい。
 私の「苦労自慢」なんかに娘は鼻もひっかけず、「母はねぇ、自分じゃ苦労してきたと思っているけれど、他の人からみたら、そんな苦労は苦労のうちにも入らない、しょーもないことなんだから、人様に話したがるんじゃないよ」と、言う。

 じゃ、どんな苦労が苦労と言えるのかというと、「『だからあなたも生き抜いて』の大平光代さんみたいに、イジメ自殺未遂、キャバ嬢、やくざの女房、背中に刺青、一念発起で勉強をはじめて弁護士、くらいやらないと」という。
 え~、そういっても、弁護士なんてとても無理だし、背中にあるのは、吹き出物だけだし。

 それから、去年見たテレビドラマ、内山理名主演の『嫌われ松子の一生』の川尻松子くらい、というのが、娘の言う「苦労を自慢してもいい」規準。
 「第一、川尻松子っていうネーミングが、なんか不幸を背負っていそうで、、、、」

 出発点は、私も松子も、中学校の国語教師で同じだったんだけれど。
 松子は中学校校長にレイプされお金を盗んだことにされて退職。私は、教員組合に入ったことで校長に嫌われイジメを受けて退職。うん、ここらから苦労の質で負けるなあ。

 松子はつぎつぎにしょーもない男と恋愛をし、だまされたり裏切られたりする。その中の一人から覚醒剤中毒にされ、その男を刺し殺して殺人犯として刑務所に入る。
 松子は親兄弟とも義絶。いつも親や姉妹に助けてもらった私は、そう、甘ちゃん人生です。

 その後も松子は悲惨な運命を繰り返す。さあ、あんたはどうだ。さあって責められても、私の人生、覚醒剤にも殺人にも縁がなかった、、、、息子の出産で死にかけたけれど、死ななかったし。
 松子はつぎつぎに「しょーもない男」に翻弄されたけれど、私が関わった「しょーもない男」は、今のところ、ひとりだけだし。

 はい、苦労したとは言えませんね。たいしたことしてこなかった人生です。
 てなワケで、娘からは常に批判的にみられ、反面教師として扱われるのが、母親の運命。
 娘と母は、しょっちゅう冷戦状態になり、しばし口をきかずにすごす。一番長いのでは、去年、5ヶ月くらい必要伝達事項以外、しゃべらないですごした。

 たまに仲良くすごせることもあり、「なにか、面白い本あった?」と、互いの本を交換したりすることもある。つかの間の晴れ間。干天の慈雨。闇夜に提灯。
 
 娘と私がふたりとも好きな作家、そうたくさんはいない。
 まえは、娘が「吉本ばなな」を読んでは、私に「これはよかった」「これはまあまあ」と勧めてくれたのだが、成人してからはあまり「ばなな」を読まなくなったみたい。

 母娘ふたりとも好きな現役の書き手は、文芸評論家の斎藤美奈子。
 物故作家で、母娘ふたりそろって「ああ、あの人がまだ生きていて書き続けていてくれたら」と、惜しく思っている人は、ナンシー関。コラムニスト。消しゴム版画家。
 『テレビ消灯時間』シリーズも、「何」シリーズも、「記憶スケッチアカデミー」も、みんな好きだった。

 先月、私が電車のなかで「小耳にはさもう」を読み返し、「最初の週刊誌連載から15年たっているのに、何度読んでも面白い」と思った。娘も「また読みたい」と、読み出した。
 そしてふたりして「天才だねぇ」と感心した。

<つづく>
10:17

2007/02/08 木
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(2)ナンシーとるえか

 ナンシー関『小耳にはさもう』を1996年に文庫本で読んだとき、週刊誌初出は1992年なのに、数年たって文庫になっても、少しも古びず色あせず、生き生きしたテレビ時評人物評として読めたことに感心していた。

 今回はなにしろ初出から15年もたっているのである。それなのに、腹をかかえて笑い、鋭い評に感嘆し、文体の小気味よさに驚嘆した。

 『源氏物語』が千年たっても色あせないというのはわかるが、世の「文筆業界」からは、「すぐに消え去るイロモノ」扱いだった、テレビ時評人物評コラムという分野である。
 独断と偏見で断言しよう。ナンシー関も千年!残る。
 これほど「芸」がさえている日本語の「文・芸」は、そうはない。
 
 2002年6月、ナンシー関39歳の早世、つくづくと、惜しい。
 体重負荷が心臓に行ったと言われている。
 太っていることに対して開き直っていたナンシーに、読者こぞってダイエットをすすめるべきだったか、と心から思う。
 もっとも全読者が「ダイエット」と合唱すればするほど、「けっ」と言って「昨日今日太ったわけじゃない!」と、ブチあげただろうが。
 
 私の好きな須賀敦子が60歳でデビューして69歳でなくなったとき、惜しくはあったが、「なんでもっと書き続けてくれなかった」と、慨嘆はしなかった。
「作家として活躍した期間は短かったが、彼女なりに十分に生き、十分書いた」と、いう気持ちが残った。

 でも、ナンシーには、「なんでもっと書かなかった」と、悔しくて惜しい。
 去年の紅白。オズマバックダンサーの「裸に見えるボディスーツ」vs NHK、などについて、凡百のコラムでなく、ナンシーのコラムが読みたかった。
 ナンシー関オフィシャルサイト http://www.bonken.co.jp/

 小田嶋隆のナンシー関評を引用すると「ワンアンドオンリーな人だったと思う。スタンドアローンな、唯一の、かけがえの無い、稀有にして再生不能な才能」
 ワンアンドオンリーなスタンドアローンってカタカナの前半はともかく、かけがえのない再生不能な才能だったとつくづくおもう。

 もうナンシーの新作コラムは読めないと思うと世の中、味気ない。
 ナンシーをうけつぐ人はいないものかと、娘と私は「いっしょにおもしろがれる人」をさがした。

 一時期、ナンシーをつぐコラムニストは「青木るえか」と、娘とふたりで盛り上がった。
 けれど、るえかの「競輪」は私たちの守備範囲になく、るえかゾッコンの「大阪松竹歌劇団」も、OSKでは、実際に見に行けないから話がついていけない。(宝塚なら東京でも見ることができるけれど、そんなメジャーなものに入れあげる「主婦るえか様」ではない。

 ナンシーが幅広いファン層を持ったのに対して、るえかのコアなファンは「どこまでもついていきます」と思うが、一般受けはしないみたい。
 競輪とOSKにはノリきれないけれど、「主婦」シリーズ、読み続けます。
 最新の文庫は『主婦でイキます』

<つづく>
00:31

2007/02/09 金
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(3)るえかとリリー

 るえかの面白さのひとつは、自虐ギャグの一種になるのだろうか、徹底的に自分が「グズ主婦」であり「ダメ女」であることを笑いのめしているところ。
 
 るえかコラムの引用
 「 『だめんずウォーカー』というマンガをちらっと立ち読みしたら、ダメな男にひっかかるという話がえんえんと続いていた。私なんかひっかけてももらえないが。「私ってこんなにダメなのよ~」という顔をした自慢話ぐらいイヤなものはない。倉田さんはモテてうらやましい、私にはダメ男すら寄ってこねえんだ。 」

 って、いう感じで、るえかはえんえん、自分のダメ主婦ぶりやら、杉良太郎やOSKへの偏愛を語っていく。
 まあ、これも「わたしってこんなにダメなのよ~」のひとつではないのか、というツッコミに対して、クラタマは太めではあってもビジュアル的に男がよりつく可能性を見せているのに対して、るえかはナンシーと同方向をまっしぐらってとこ(ビジュアル志向はみじんもないってこと)が、ナンシー後継者たるにふさわしい。

 辛酸なめ子、本名池内江美で小説発表するようになったので、我が家ではナンシー後継者候補コラムニストから外しました。(勝手に)

 我が家はたちまち、るえかのダメ主婦ぶりに感動し、洗脳された。
 るえかを読みはじめた2003年以来、部屋のそうじをしなくても平気になった。
 畳から虫をわかして平気な「るえか」に比べれば、ワタ埃のひとつやふたつや無限大なんぞ、屁でもない。

 古い缶詰の中味が変化して缶ごとガス爆発するまで放っておく「主婦るえか」に比べれば、冷蔵庫に賞味期限切れが折り重なっているなんぞ、そのうちガスが噴出しても、「屁で空中ウクライナ」てなもんである。(by ピエール瀧)

 ってか、掃除ぎらいが「るえか」という同類をみつけて、「そうだよねぇ、部屋掃除しなくても、死にゃしねぇ」と開き直ることができたっつうか。
 2003年以来のガラクタやらゴミやらが散乱した部屋で、「ほこりアレルギーでくしゃみが出る」と言いながら生活している。
 すでに「悲惨な状況」を通り越しているのだが、悲惨でも死なない。

 るえかのウェブコラムは『Web本の雑誌』に不定期連載。
http://www.webdokusho.com/koushin/aoki.php

 リリー・フランキー。
 娘は雑誌などでみかけるイラストも好きだったようだけれど、私はナンシー関との対談本でその名前を知るまで、何している人かも知らず、「リリー」っていうから女性だとばかり思っていた。

<つづく>
06:42

2007/02/10 土
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(4)リリーとブルボン

 「リリー実は男性イラストレーター」だったので、なんだかだまされた気がして(勝手に)、『東京タワー オカンとボクと、ときどきオトン』で大ブレイクしても、それほど手放しでファンになることはなかった。娘は深夜バラエティなどのコメントが面白いといって、気に入っていたが。

 リリーが「マザコン」を公言し、「おかん大好きな僕ちゃん」であることを臆面もなく語ったりするのも、「う~、それほど息子に好かれてみたいワン」と、うらやましいだけで、コンチクショーとやっかむばかり。
 うちの「僕チャン」もマザコンに育てたかったけど、ふう、毎日メシ作って食わせる母のことは「ウザい」のヒトコト。

 苦労をひとりで抱えて生きてる母はうっとうしくて、その苦労の種を作り出している「ごくまれに、たま~にオトン」は貴重品扱いってのは、どう考えても不公平じゃないか?
 だから、あんたの苦労なんて、苦労のうちに入っていないんだってえの。(by 娘)
 はいはい。

 今月、娘が私に「絶対おすすめ、母はきっと気に入るから、とにかく本を読んでみて」というので、新刊書店と古本屋で2冊買った作家。ブルボン小林。

 コラムニスト、ブルボン小林、別名の「長嶋有」では小説家。『猛スピードで母は』で2001年に芥川賞受賞。(ブルボンの表記ではactager show)。受賞時29歳。

 ゲームをする以外のことは何もしない娘と息子は「ファミ通」というゲーム専門雑誌を毎号買っている。ファミ通でゲームソフト評論をやっているのが、ブルボン小林。

 「『ゲーム・ソムリエ』というコラムが面白いよ。母、ぜったいファンになるから、ぐっとくる題名ってのを買ってきて」と娘に言われて、新刊書店で『ぐっとくる題名』を買った。中公新書756円。古本屋ではウェブ時評コラム『末端通信』を買った。66円。毎度御用達の、3冊200円の棚で見つけた。

 新刊も古本も、面白かった。笑えた。
 「ほらね、母が好きになる作家だって言ったでしょ」と、娘は得意そう。

 ゲーム評論の『ジュ・ゲーム・モア・ノンプリュ』は、ゲームを全く知らないので買う気になれないかったのだけれど、ゲーム知らない人にも案外おもしろいのかもしれない。
 タイトルは、ジェーン・バーキンの出世作「ジュ・テーム・モア・ノンプリュ」のパロディ。バーキン、私はバッグの名前でしか知らんのだが。
 「愛してる(Je t'aime)」「俺?さあね(Moi non plus)」

 ブルボン小林の『末端通信』は、2001年から2002年にウェブ連載されていたコラム。
 それが、発表から6年もたっていて、古本屋で66円なのに、古びていない。笑えた。

 ウェブの世界では、ドッグイヤーで時間が進む。犬の寿命と同じくらいの早さで時間が鳶猿(この誤変換おもしろいからそのまんま)。
 1年で成犬となる犬の時間。人間世界にあてはめれば、1年たつと、20年分の時間が過ぎ去ったことになる。2001年の「末端通信」初回から6年たつ。ドッグイヤーを人間に換算すれば40年分くらい時間がたっている勘定になるのに、とても面白かった。

<つづく>
00:03 |

2007/02/11 日
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(5)ブルボンとカトリーヌ

 末端通信のなかで、「ナンシー関」を追悼している文章もなかなかいい。
 ああ、私たちが気に入る人は、やっぱり「ナンシー大好き」なんだよね、と確認。
 「空前絶後のナンシー関」「不世出のナンシー関」ではあるけれど、当分はブルボンをおもしろがっていようかね、ということになった。

 ブルボン小林というペンネーム。パソコン通信初期のどこかのBBSで、製菓会社ブルボンと小林製薬のCMを熱く論じたのでつけられたハンドルネームなんだって。

 ブルボンのネーミング、「フランスのブルボン王朝ではなくて、スーパーの安売りコーナーで山積みになっている製菓のブルボン」と思ったのは当たりだったが、小林は小林製薬とは思いつかなかった。(長嶋のほうが本名)

 ブルボンっていう発音の響き。「フランス・ヴァロア王朝」とか言うときの、「何だかよくわかんないけれど、華麗にして厳粛」って感じに比べると、ありがたみが60%薄らぐ。なぜだろうと思っていた。
 ブルボン王朝最後のルイ16世やマリーアントワネットがギロチン台に消えたせいかしら、と思っていたのだけれど。

 日本語の文脈のなかで、ブルボンって発音したときの音の響きが、「バカボン」とどっこいどっこいになっちゃうからだ、とわかった。ブルボン小林が『天才バカボン』を語っている語り口のおかげで。

 リリー・フランキーの『東京タワー』も、親友の名前がバカボン。
 バカボンもブルボンも天才ですね。

 さて、ブルボンである。
 新潟でおせんべ焼いてたお菓子メーカーが、「北日本製菓」から「ブルボン」に社名変更したあと、一瞬だけ高級菓子っぽくみえたときがあった。
 社名変更当初、テレビCMにカトリーヌ・ドヌーヴを使って、世間様をあっと言わせたのだ。

 カトリーヌが「ブルボン」という社名をきいて、ブルボン朝と、なんぞ関わりがあるのかいなと勘違いして、出演を承諾してしまったのだというウワサ。
 ブルボンといえばフランス、フランスといえばカトリーヌ、という発想でたどりついたドヌーブにCM出演を承諾させたのはどこのどなただったか、回想記が読みたい。

 ドヌーブの自分史の中では、この「ブルボン朝とは縁もゆかりもない元・北日本製菓」のCMに出演したことは、「大女優の思い出に残る仕事」として記憶されているのかどうか、ぜひ突撃芸能レポーターの果敢なるインタビューを待ちたい。

 カトリーヌ効果が失せると、一瞬の「スターの輝き」は消えて、たちまちスーパー投げ売り品コーナーの袋菓子というイメージが定着したが、おせんべ焼いていた北日本製菓の時代よりは格段に全国区になった。ブルボン様さまである。

<つづく>
10:52 |


2007/02/12 月
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(6)ミッキーとブルボン

 「安川素絢斎」「堺枯川」「三木露風」「滝廉太郎」となると、何だかエラソーな感じがする。
 その名を知らなくても、なんだかわかんないけれど、きっと立派なことした人なんだろうって、思える。

 一方、ミッキー安川、フランキー堺、ジェームス三木、ピエール瀧。このパターンのネーミングだと、どうしても「バタ臭くて陽気で軽い」感じがします。

 フランキー堺のように進駐軍時代にバンド活動などしたんだろうなあという雰囲気がするネーミング。
 ミッキー安川のように「オレはアメリカ留学して、英語ぺらぺらなの」っていう感じがとても安上がりに思えるネーミング。
 総じて「カタカナ名+漢字苗字」は、屁力で浮きそうな気がする。

 ジェームス三木なんか、仮面夫婦やら「春の歩み日記(交情のあった女体の採点簿)」やらという、実にアクの強いスキャンダルが元・妻によって暴露されたのに、暴露をものともせずシナリオ作家として生き残ってきた。
 (最新作は稲森いずみ主演『忠臣蔵 瑤泉院の陰謀』2007年1月2日放映。長いから見なかったけど。)

 むろん、才能もあるのだろうけれど、仮面も女体採点も、「ジェームス」だから、ま、いいか、という筆名の軽さが作家イメージを救ったのではないか、と私は推測しておる。
 これが、「三木清泉(本名)」だと、清いイメージが崩れたあとは、ぐずぐずになったのでは。
 
 どうして、ナンシー関とか、ブルボン小林とかの名前だと、「軽さと気楽さ」が醸し出されるのかっていうのを考察していたら、ジェームス三木やミッキー安川のイメージまで思い至りました。言語学的ネーミング考察です。

 一方、藤ジニー蓮實シャンタル、桐島ローランド滝川クリステル木村カエラ山本モナ、など、「漢字苗字+カタカナファーストネーム」だと、「うちらの親や夫は由緒正しき日本人どすぇ」(なぜ京都弁?)という感じになって、「歴とした家に突如金髪の妻がやってきた感」やら、「日本娘が外国人と結婚してハーフが生まれました感」が醸し出される。やたらなことでツッコミいれると、フランス語やノルエー語で叱られそうな気がする。

 ブルボン小林の『ぐっとくる題名』は、本などのタイトルを評しているコラム集。
 本のタイトルをとりあげ、なぜそれが受けたのか、分析している。

 ネーミングというのは、応用言語学のひとつの分野。言語学教科書のなかでも、一章をつかって講義されている。

<つづく>
===============
もんじゃ(文蛇)の足跡
(注)「安川素絢斎」江戸中期の画家。「堺枯川」は、明治の社会主義者、堺利彦。「三木露風」は『赤とんぼ』の詩人。「滝廉太郎」は『荒城の月』の作曲家です。
 藤ジニーは銀山温泉の金髪女将アメリカ出身。蓮實シャンタルは評論家蓮見重彦の妻フランス出身。桐島ローランドは写真家。桐島洋子の息子、江角マキコと離婚。滝川クリステルはニュースキャスター。木村カエラは歌手。山本モナはタレント。

 (↓を受けての追記)モナが民主党議員との路上キスシーンを激写され、ニュースキャスターから降板されても、すぐさま北野武がタレントとして復帰させることができたのも、モナって名のイメージなら「不倫スキャンダルも逆手にとれる」と、ビート殿が判断したんじゃないかしらん。
 山本清子とか山本貴子だと、アナウンサーにはいいけれど、かぶりもので登場するのは似合わないもん。

00:01 |


2007/02/13 火
 ことばのYa!ちまた>ぐっときた(7)ブルボンとピエール

 一般ピープルがネーミングに頭をひねるのは、子供が生まれたときくらいのもんだが、商品ネーミングとなると、「売れるか売れないか」の重要な要素で、社内ネーミングプロジェクトやネーミング専門会社が知恵をしぼっている。

 本や歌のタイトルも、題名ひとつで売れ行きが異なる。
 『ぐっとくる題名』に登場するタイトル「ゲゲゲの鬼太郎」「勝訴ストリップ」「部屋とYシャツと私」「ツァラトストラかく語りき」「11人いる!」「少年ケニヤ」「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」「にょっ記」などなど。

 ブルボン小林は、言語学なんぞを持ち出さずに軽快にネーミングの要を語っているのだけれど、日本語の音声と意味と語構成について、凡百の言語学専門書より鋭い感覚で迫っていて、言語学日本語学の授業でも『ぐっとくる題名』が使えそう。(ツーカ、後期の日本語学&社会言語学の授業で使おっと)
 
 言語学などと言い出すと、とたんに堅くて無味乾燥に思えてしまうが、『ぐっとくる題名』とにかく笑える。(ほんとは言語学もおもしろいんです。『言語学の散歩』とか、笑えます)
 『ぐっとくる題名』については、いずれゆっくり日本語学がらみで語りたいです。

 『ぐっとくる題名』で分析されている本のタイトルの中で、ばかばかしくて笑えるネーミング。たとえば『屁で空中ウクライナ』。
 電気グルーブのピエール瀧のエッセイ本のタイトルです。
 このだじゃれ自体は、地理の授業に退屈した中学生あたりが思いつきそうなものであるけれど、それをそのまま本のタイトルにするのは、なまじっかなことじゃできない。

 タイトルしだいで売れるも売れないも決まるというに、本屋のカウンターへ行って、レジにお客さんが並んでいる前で、書店員に「すいません、あの、『屁で空中ウクライナ』ってゆー本、探してるんですけど、『ヘデクーチューウクライナ』ありますか」って、大声で頼めるかってことになると。

 「ヘデクーチュー」を、ウクライナ語とかロシア語の、ちゃんとした意味があることばなのかも知れないと、まじめに検索してくれる書店員もいるかもしれない。

 私は「エリエリ・レマ・サバクタニ」という音のひびきを耳にして、「怪しげな星占いの呪文みたいなことばだ」と思った。このフレーズが、「神よ神よ、なぜゆえ我を見捨てたもうか」という旧約聖書詩編を引用したイエス最後のことばだということを、青山真治の映画のタイトルになるまで知らなかった。

 「はい、かしこまりました、ヘデクーチュー、ウクライナですね。少々お待ち下さい」と、検索画面に打ち込んで『屁で空中ウクライナ』が画面に立ち上がったとき、書店員が「プッ」と、屁のような笑い声をあげたとき、平然としているのはむずかしい。いっしょに照れ笑いするしかない。

 電気グルーブを知らなくても、ウクライナという国家が地図上のどこにあるのか知らなくても、笑える。
 ばかばかしさが気に入ったので、すでに何度かこのシリーズ中に登場させてますが、何か。

 私、ピエール瀧については役者として、『Allways三丁目の夕日』の氷屋や、『ゆれる』の刑事役で見ただけなのだけれど、きっとエッセイの才能も花開いているのだろうと、読む気にさせる、オバカなネーミングです。
 電気グルーブのライブでは、ピエール、力をこめて放屁し、きっと空中浮遊するんだろうなあと、想像できます。いや、ほんとに。

<つづく>
00:00 |


2007/02/14 水
ことばのYa!ちまた>ぐっときた(7)ブルボン小林『ぐっとくる題名』

 マッキー光永『ろくでなし(129)』に出てくるデリバリヘルスの店名「ヤマトナデ”シコシコ”」。このネーミングを文章中に登場させるタイミング、絶妙です。
 電柱へのビラ貼りとビラ剥がしのアルバイト同士の緊迫の対決も、笑って脱力してしまう。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/mackychan/diary

 人様の日記は笑って楽しんでいるが、どうも私の書く日記は、「不幸自慢」やら「よい人ぶりっこ」になっていく一方で、笑えない。
 アントニオ・KJr.さんからも、「もうちょっと笑える文章なら読む気になれるのに」という感想をいただいたことがある。

 こればかりは、資質才能の問題で、笑いをとるのは、漫才落語でも文章でも一番高度な技ですから、私ごときがなまじっかな笑いをとろうとするとたいていスベります。

 『ぐっとくる題名』の中、ブルボン小林は、ネットに増殖し続けるウェブ日記について「ネット日記は、自己愛が肥大化していく」と、書いている。

 あれ?『末端通信』の中に書いてあったんだっけな。
 読むときは寝っ転がって読むか電車の中かどちらかなので、いつも読み流し。メモとったり、付箋貼ったりっていうことはしないので、何がどこにかいてあったか、あいまい。
 ま、とにかく、書いてあった。

 すぐ人のことばに影響される私は、たちまち、「おっとお!わたし、こんな苦労してきました」なんてウェブ日記に書くのは、自己愛肥大化の極地って思われちゃうよねぇ、そんじゃ、私の苦労はたいしたことありませんっていうExcuseをいれとかなくちゃ。

 というわけで、「私の苦労は苦労といえるほどのものじゃありませんのに、苦労したとか語っちゃって、すみません」というおことわりつきで、「ブルボン小林」は面白いです、という読書日記を書きました。ついでにというか、こっちが肝心だったのだけれど、ネーミングと語のイメージについて、書きました。

 今回は「カタカナ名前の人」というコンセプトで並べたので、私が好きなほかの「笑わせてくれる書き手」である井上ひさし、宮沢章夫、三谷幸喜などは割愛しました。
 これにて、私と娘がはまり、ふたりが愛好する「笑わせてくれる書き手のうちカタカナ名前の人」の紹介、「ぐっときた」シリーズはおひらき。

<おわり>

ぽかぽか春庭「諡、しこ名、源氏名」

2008-10-14 07:25:00 | 日記
名と色のニッポニアニッポン言語文化散歩
「名前について」

at 2004 02/09 07:04 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)①」

 02/04に、雄略天皇は、自分の名を後世の人が「ユーリャクテンノー」と呼ぼうとは、まったく知らなかった、と書いた。雄略天皇という名は「諡名(おくりな)=死後に贈る名前」である。
 また、天皇=スメラミコトという称号は、後世「大王おおきみ」に代わる称号として採用されたもので、雄略天皇が実在していた頃には、スメラミコトもテンノーもなかった。

 雄略天皇は、中国の歴史書にその名が見える、倭の五王のうちの「武」と比定されており、実在の大王とされる。
 『古事記』に書かれた、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)という名の「長谷」は、宮号。彼の宮廷の所在地の地名である。おくり名の意味は、長谷(現在の桜井市)に朝倉宮を建てた若(美称)タケさん。

 『古事記』に名を書いてある中の最後の天皇は、聖徳太子が摂政をつとめた女帝、推古天皇。
 名前は、額田部(ぬかたべ)のヒメミコ。ぬかたべヒメミコは、第30代敏達(びたつ)天皇の皇后だった。
 死んだのちの名前、漢風のおくり名は「推古天皇」和風のおくり名は、豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)。

 天皇一族、蘇我一族が殺したり殺されたり、血で血を洗う権力闘争を続けていた時代。第32代崇峻(すしゅん)天皇が592年、蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された後、日本初の女帝(第33代:在位 592~628)として即位した。

 『古事記』は、推古天皇の陵墓が、元は大野の丘(奈良県宇陀郡)にあったが、科長(しなが)に移された、という記載で全巻を閉じる。

 『古事記』最初の天皇として名があるのは、神武天皇。またの名は、「ハツクニシラススメラミコト(国をはじめて統治した天皇)」
 しかし、神代に、「ハツクニシラススメラミコト」という名をもつ天皇はもう一人いる。
 初代の神武と十代目の崇神の両者が同じ「ハツクニシラススメラミコト」の称号を持っている。どっちがほんとの「国をはじめて統治した天皇」なのか。あるいはどちらもちがうのか。

始馭天下之天皇(神武)<神武紀>
御肇国天皇=所知初国之御真木天皇(崇神)<崇神紀>

 私は『古事記ふることふみ』を文学として扱い、神話学的に学んだ。この中の記述をそっくりそのまま歴史的記述と扱うこともしない。
 もし、古事記や日本書紀の記述を「歴史学」の分野の文献として扱うなら、厳密な検討が必要だと思っている。考古学、文化人類学、民俗学、民族学、中国文献学、言語学、あらゆる手段でテキストは検討されなければならない。その中で、歴史記述として扱える部分もあるだろう。

 しかし、私にとって、『古事記』は、第一に「日本語言語文化」の「作品」である。語り部稗田阿礼一族が代々語り伝えることを家のわざとし、それを太安万侶が筆記したと伝えられるのが『古事記』
 文字として記録される際に、当時の先進文化国家中国の影響が入り込んだことは当然のことだろう。中国の文化を中心に受け入れていた時代であり、なによりも記述された文字が中国の漢字転用であったのであるから。

 自分の国の歴史を外国語(漢文)で記録した日本書紀に対して、古事記は、文字は漢字であっても、日本語を日本語そのままに表記するべく工夫して記録された。稗田阿礼の口承伝承が、文字にされるとき、どのような変換がおこったのかは、中国文献やアジア各地の伝承との比較など、さまざまな見地から研究が行われている。

 春庭は、古事記を共同作業による文学作品として、記述そのままに扱う。「うさぎがワニの背を飛んで海をわたった」と書いてあるなら、そう書かれるべき必然があったのだ。
 コノハナサクヤヒメは、火をはなった家にとじこもって出産したと書かれている。同様の伝承がアジアオセアニアなどにどのように分布しているのかという観点の研究は必要だ。

 だが、私はこの国の伝承として、阿礼がそれを言い伝えたとされていたこと、それをどのように脚色したにせよ、わが国の伝承として採用された、ということを重んじる。
 太安万侶が日本語の記録として、日本語の言語文化として編集採用したことを尊重する。

 和辻哲郎は、『日本古代文化』の中で、
 「記紀の材料となった古い記録は、たとえ官府の製作であったとしても、ただ少数の作者の頭脳からでたものではない。弥生式文化の時代からの古い伝承に加えて、3、4世紀における第2次の国家統一や、5世紀における国民の発達の間に、自然に囲まれてでた古い伝説が、6世紀を通じて無数の人々の想像力により、この時代の集団心に導かれつつ、漸次形を成していったのである。
 奈良期に至って、最後に編集される際に、特に明白な官選色彩を帯びさせられたとしても、それは、物語の中核をまで変えていない。」
と述べている。

 私はこの和辻の考えを支持するものであるが、ただ、記紀の記述を扱うには先に述べた厳密な科学的探求が必要だと思っている。

 神話や伝承は、世界各地に共通の要素がたくさんある。近年の比較神話学や文化人類学などの研究成果により、各地伝承の「国の出来はじめ」「人類のはじめ」「人間が火を使えるようになったときの話」「人が死すべき存在であるのはなぜか」などの記録や言い伝えが、比較検討され、分析されている。<つづく>

春庭今日の一冊No.98
(わ)和辻哲郎『日本古代文化』(岩波書店)


at 2004 02/10 21:34 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)②」

 「出雲の国譲り」神話。2/6に書いた「葦原醜男」の大国主命が、高天原系のカミに恭順し国を譲った話である。最近までこの出雲王朝は架空のものと言われてきた。

 出雲地方の考古学的研究が進み、多数の発掘物が出てくるに従い、現在では、出雲に大きな政治勢力が存在したことが明らかになっている。ヤマト地方や吉備地方の政権との抗争についても、さらに研究が進んでいくだろう。

 しかし、「因幡の白ウサギ」や「海幸彦山幸彦」などの神話は「神話」「伝承」「お話」として扱うことを気にしない人も、神武天皇などが登場したトタンに、それを「伝説」「おはなし」として、書かれたことを客観的に扱うことができなくなったりする。「天皇家の祖先である」という一点をもって、この記述を客観的に扱おうとすることに異議を申し立てるのだ。

 きちんとした比較検討分析の結果うちだされる結論を、私は尊重する。たとえば、大王のおくり名。
 津田左右吉は、言語学的歴史的に、初代からの天皇の名前を調べ上げ、比較分析した。

 古代の天皇の諡名は、後世になっておくられたもの。津田は、初代からの天皇おくり名を後世の天皇の名と比較し、「9代までの天皇は実在せず、後世になって名前を作り上げられた架空の天皇である」という結論を導き出した。

 天皇が神として絶対の存在であった戦前に、歴史の真実を追究しようとした津田。現在では、津田の研究方法にもさまざまな批判点や反論が出ているが、真実を追究することによって研究生命どころか、実際の命までも失いかねなかった時代に、研究の方針を曲げなかった津田の姿は評価されてよいと思う。

 津田は「天皇不親政が日本の伝統である」と考えた。この考えは「大逆思想」とみなされ、攻撃を受けた。そして津田の古代・上代史に関する著書は「皇室ノ尊厳冒涜云々」と批判され、出版を手がけた岩波茂雄とともに裁判にかけられた。

 しかし津田は裁判闘争を通じて自分の信念を披瀝し、自分は「立憲制にのっとった天皇を敬愛していること、天皇が自ら政治に関わるのは、この国の伝統的なありかたではないこと」を述べた。

 津田左右吉の研究に興味ある人は、下記の本をどうぞ。

春庭今日の一冊 No.99
(つ)津田左右吉『神代史の新しい研究』1913 (『津田左右吉全集所収』)

 津田に対する反論も様々に出されている。しかし、「神武から開化までの9代は、実在していない」という研究に対する反論が、決定的な証拠をともなって出されたことはない。
 牽強付会の「とんでも歴史学」では、いろんな説があるだろうが、科学的な、考古学民俗学民族学、比較社会学、言語学などの立場からの記紀研究、また考古学、古墳や陵墓の研究、中国文献の研究などの見地を総合して、津田左右吉の理論をくつがえしてしまえる有力な研究はない。

 「神武天皇は実在しなかった」この歴史的事実を覆すだけの科学的な根拠があるなら、おおいにその学説を世に問うべきである。根拠がないなら、とんでも学説をひっこめてほしい。

 津田が「実在しなかった」と結論づけた神武天皇。
 『古事記』での名は「神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト」。神武の名として、数種類の名前が記紀中に記載されている。

若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)
豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)
神日本磐余彦天皇 カムヤマトイワレビコ 
始馭天下之天皇 ハツクニシラススメラミコト 
宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇ウネビノカシハラノミヤニアメノシタシロシメス など。

 記紀の記述を「歴史学の基礎文献」として扱うなら、厳密な科学的分析が必要だ。
 たとえば、漢字の伝来について、古事記応神紀に百済の和邇吉師が論語や千字文を貢進した、と書かれているが、これをそのまま「漢字伝来の歴史」として扱うことはできない。 応神の時代に千字文は成立していなかったことをはじめ、検討すべきことは多い。
<つづく>

at 2004 02/12 08:16 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)③」

 2月11日を「建国記念日」という名の祝日にしたのは、ヤマトの大王カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が即位したという日本書紀の記載からである。奈良県畝傍山の橿原に宮を建て、辛酉年春正月庚辰朔の日に即位した、とある(西暦では紀元前660年)

 最新の考古学的調査では、弥生時代のはじまりはおおよそ紀元前800年くらいとされている。
縄文から弥生時代への移行を決める主な指標は、稲作が行われたことを示す遺構遺物。弥生式土器や縄文式土器を調査する。土器に付着した炭化物を放射性炭素年代測定法で調査し、稲作の本格化、弥生時代の始まりは「紀元前800年ごろ」と測定されている。

 その意味では、紀元前660年という神武即位の年代は「縄文時代から弥生時代になったころ」の記憶の残りなのかもしれない。
 
 しかし、前回のべたように、ヤマトの統一王朝をたてた大王としては、神武は認められない。あらゆる見地の研究からいって、初代から9代までの天皇は、後世その名を作り上げた者である。

 もちろん、自国の成り立ちをそのようにして作り出さなければならなかった諸事情というのは、理解できる。

 圧倒的な力をみせる中国大陸の勢力、国内大小豪族との抗争、その中で、天皇一族が、全土を統一支配することの正当性を主張するには、記紀が書かれた年代からはるか千年以上遡って初代を想定する必要があった。

 神武即位を、具体的に前660年とはっきり年をいいきっているには理由がある。辛酉の年に大きな出来事が起こるという中国の思想にあわせて算出しているのだ。大きな出来事が起こる年(辛酉)の正月元旦(太陰暦)の即位。

 この元旦を太陽暦になおすと2月11日にあたる、として、この日を「紀元節」に定めた。この日をそのまま現代に「建国記念日」としたのが、今の祝日。

 歴史への考え方、さまざまな立場があろうが、私は、カムヤマトイワレビコ(神武)の実在が歴史上で証明されていない以上、神武天皇の即位日を「建国記念日」と定めることは、子供たちに「歴史のうそ」を教えることになると考える。

 民族の古い記憶の表現として「神武即位」を「あるひとつのお話」として伝えるのは桃太郎の話を伝えたり、浦島太郎の話を伝えるのと同じになされてよい。
 だが、私たちの祖先はヤマト族だけではない。エミシもワニ族も、ハヤト族も皆この国土に住み続け、それぞれの土地を愛してきた。

 ヤマト族の長の伝承をヤマトスメラミコト一族が「初代」として採用したからといって、それを現在の「歴史的な建国の日」として採用するのは、多様な重なりを受け入れてきたこの国の多種多様性、様々な要素が重なり合う豊かな文化の伝統を否定することにつながる。

 明治国家と学校教育が、この「神武即位神話」を「紀元節」として採用したのは、まさに多様性を否定し「国民全員がひとりの天皇の子孫として、単一民族として存在する」という意識を植え付けるためであり、国民を一丸として同じ方向に向けて行動させるための装置であった。

 わが島国、花綵(はなづな)列島は、紀元前660年を「建国の日」と限定してしまえるような、矮小なものではない。もっと広く深い国土なのである。

 どうしても戦前の「紀元節」の日を祝いたいのであれば、「神話の日」「ハツクニシラス伝説の日」とでも、名付けてほしい。祝日がほかにない2月に休める日があるのはありがたいが、子供には歴史の真実を伝えたい。

 そもそも、世界の中で、「建国の日」を定めているのは、「植民地であったが、独立した」という日を持っている国が多い。
 アメリカ独立記念日は、イギリスからの独立を決めた日。植民地の最高議決機関である大陸会議で独立宣言が採択され、議長が署名したのを記念する日が7月4日。

 また、現在の政権が樹立した日をもって建国の日とする国も多い。
 文書に記載された分だけで、4千年の歴史をたどれるという、お隣の中国で建国を祝うのは10月1日、国慶節。1949年10月1日の現政権の中華人民共和国の正式建国宣言の日。

 日本のように歴史の古い国が「建国の日時」を定めることには、そもそも無理がある。記紀以来の長い歴史を誇りたいのであるならば、むしろ、「建国の日はこの日である」などと、定めないほうがよろしかろう。
 はっきりした「建国の日」を祝いたい人におすすめ。植民地から独立した日を祝うのが世界的傾向の「建国の日」である。ゆえに、オキュパイドジャパン(占領軍支配下にある日本)が「ただのジャパン」に戻った日でも祝うがいい。

 いつが建国の日と、決定できないほど古い歴史をもっている国であることを誇るほうが、「実在しなかった人を初代天皇と決め、後世にその名を作り上げられた天皇が即位した日だから、建国記念の日」として定めるより、よほど名誉なことではないだろうか。

 私は『古事記』を卒論として最初の大学を卒業した。神話の記述や風土記の記載、祝詞のことばなどに、愛着がある。自分の母語が「記紀万葉」の言語文化を持つことを誇りに思う。
 二度目に卒業した大学では「日本語学」を専攻した。日本語、日本語言語文化を愛し、誇りに思う気持ちは他の人におくれをとらないつもりだ。

 だから、記紀も万葉も、誇るべき日本語言語文化として、大切に伝えたい。歴史の真実をねじ曲げてまで、「建国の日」と定めなくても、私は十分に古事記や万葉集をもつこの国の歴史を愛し、誇りに思っている。

「アイヌユーカラ」や「おもろそうし」などと並んで、記紀万葉も私にとって大切な言語文化のひとつである。

春庭今日の一冊No.100
(も)本居宣長『古事記伝』

at 2004 02/12 23:07 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)④」

 『古事記』冒頭にイザナギイザナミ国生み神話がある。古代人にとって「祭祀(政事まつりごと)、軍事、生産」の三つは最重要事項であり、生産にとって「生む」ことは最大の関心事でもあった。

 文学としての古事記にとって、その魅力の大きな部分は「古事記歌謡」である。古事記最初の歌謡は、出雲におけるスサノオとクシナダヒメの神婚の際のうた。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 「八重」の音が繰り返され、のびやかでおおらかなことばの広がりの中で、「妻をこもらせるために」と歌い上げ、妻となるクシナダヒメを「隠所に起こして(くみどにおこして)=寝所で婚姻をなして」と、宣言する。

 結婚は生産再生産を左右する重要事項であり、世界各地の神話伝承伝説に、神の結婚は大きなエピソードをなしている。また、生産をつかさどる「大地母神」は、アジア各地の神話やエジプト、ギリシャ神話にも。ヨーロッパで出土するおなかや胸の大きな「ビーナス像」と呼ばれる像、日本の胸を強調した土偶なども、女性の生産力への信仰の現れといわれる。
 古代ヨーロッパの大地母神は、キリスト教浸透のちは聖母マリアの中にも、マグダラのマリアにもその面影が残されている。神の子を宿した聖母と、多くの男に身をまかせる世界最古の職業についていたマグダラのマリアは、大地母神の二面性の表現である。
(大王のおくり名の項、これで終わり)

もんじゃ(文蛇)の足跡:
 春庭今日の一冊100冊目は、本居宣長『古事記伝』を紹介したが、古事記を卒論にしたときの基本文献は、図書館で借りたものが多いし、買った単行本は売ってしまった。
 手許に残っている本はあまりない。
 宣長も手許にあるのは1960年筑摩書房古典日本文学全集の『本居宣長』くらい。津田左右吉は『日本古典の研究』上下二冊が残るのみ。
 西郷信綱、中西進、大林太良などを参照しながら「神話学的に」書き上げたつもりの卒論は大失敗作になったけれど、今でも記紀風土記古代歌謡が好き。

 今回、昔読んだ本を読み返すことはできなかった。電車の中しか読書タイムがとれず、電車本は文庫か新書に限るから。座っているときは重い単行本でもいけるが、立って読むには文庫がいい。電車の中では、たとえば、神野志隆光『古事記と日本書紀』などを読む。

 今回、昔読んだ著者で唯一読み返したのは、直木孝次郎。『日本神話と古代国家』のみ。これは、1960年代70年代の論文をまとめたもの。昔読んだつもりでも、すっかり忘れていることも多く、再読して楽しかった。

 たとえば、初出は1969年『歴史評論』の「日本「神話」にみる作為と変形」の中に、上田秋成や山片蟠桃、安藤昌益らが『古事記』記載を「史実として扱うべきでない」と江戸時代に論じていたことが紹介されていた。秋成といえば『雨月物語』、安藤昌益は「農本思想家」と思ってしまうから、古事記への言及について、30年前はまったく気にしなかった。
 私の根っこ、根元のひとつが古事記だと思う。radicalism古事記

春庭今日の二冊No.101102
(な)直木孝次郎『日本神話と古代国家』1990講談社学術文庫
(か)神野志隆光『古事記と日本書紀』1999講談社現代新書


at 2004 02/17 09:12 編集

源氏名

 「女房」とは、房(へや)を賜って働く、宮中の女官であった。
 紫式部は中宮彰子に仕えた女房、清少納言は皇后定子に仕えた女房である。

 定子と彰子は従姉妹であり、同じ一条天皇の后。寵を競うライバルでもあった。
 紫式部は『紫式部日記』の中で、清少納言のことを「あの人、知ったかぶりで、ヤナ女よ」と悪口を書いている。女同士の悪口陰口が千年の時空を越えて記録されている。

 紫式部の時代は、女官の呼び名は夫や父方の名字と身分によってきめることが、多かった。
 少納言の身分の家族を持つ清原氏出身の女官は、清少納言。式部の身分の家族を持つ藤原氏出身の女官は、藤式部(とうのしきぶ)。藤の色の紫と「若紫の少女」の物語を書いたことからついた呼び名は「紫式部」。
 また、通称として、住んでいる部屋や邸宅の名、出身の地名をつけて呼ぶこともあった。

 古代の女性の名前は、両親や夫以外には明らかにしなかった。物語の登場人物にも名前が書いてないから、物語を読むとき、読者は登場人物に呼び名をつけた。

 読者が「紫の上」と呼んだヒロインの本名は、物語の中にも書いてない。紫式部も「女君」「上」などと書いたのみ。本名をなんというのかは書かなかった。源氏物語の中の登場人物の名前は、読者が呼び慣わした通称である。
 主人公が詠んだ和歌の中の印象的なことばによって、通称がつけられり、住んでいた部屋や屋敷の名をつけたり。

 「源氏物語」冒頭の巻。光源氏の母は、宮中の桐壺に部屋を賜っていた。身分は更衣だったから、読者は、この人を「桐壺の更衣」と呼んだ。
 光源氏の年上の恋人、六条御息所は、京の六条に住んでいた。明石の地に生い育ったので、明石の上。その母をもつ娘が入内すれば「明石中宮」

 源氏物語が平安女性の「必読の書」になって以後、物語の中にでてくる地名や巻名から宮中で女房として働く際の呼び名を付ける人もでてきた。「早蕨典侍さわらびのてんじ」「榊命婦さかきのみょうぶ」など。

 また、時代が下って、武家の家内で働く女中のうち、格式の高い女性「老女」も、源氏物語にちなんだ名前をつけるようになった。源氏物語とは無関係のものもある。老女「政岡」「瀬川」など。

 太閤様のころ。京島原・伏見撞木町・大阪新町にある公認遊郭のお部屋に付けられた名前。一部屋ごとに、桐壺・若紫・帚木と源氏物語に因んで命名されたという。

 曲亭馬琴の随筆『燕石十種』の中に、ものの名前の由来について考察した文章があり、そのひとつに「遊女の名の由来」として、この話が書いてあるそうだ。(春庭、未読です。興味ある方、確かめてほんとかどうかおしえてください)

 部屋の主である遊女を、「夕霧の間に住む太夫=夕霧太夫」「浮橋太夫」などと呼ぶようになった。
 太夫は遊女の最高位。時代によって、また、京と江戸では呼び名が異なるが、太夫の下に天神、格子、散茶、端などがある。お端(おはした)女郎といえば、あまり位の高くない遊女を呼んだ。
<つづく>

at 2004 02/18 18:43 編集
「源氏名②」

 三浦屋「高尾太夫」「薄雲太夫」「花紫太夫」「几帳格子」「采女格子」、扇屋「夕霧太夫」、大黒屋「藤野」など、高名な遊女は浮世絵、錦絵にも描かれた。今でいうグラビアアイドルである。また、「吉野太夫」「高尾太夫」などのように代々受け継がれる名前もあった。

 維新以後、明治政府は「文明開化」の明治こそ新しき御代であり、江戸風俗はすべて「古くさいだめなもの」というイメージを浸透させた。
 現在は、江戸文化がさまざまな見地から見直されている。遊女を中心にした遊里文化もまた、江戸文化の大切な一翼である。

 私のひと世代上の人たち、私と同世代の人でも、遊女ときいただけで「いやらしい、下品な」と、眉をひそめる人もいる。だが、太夫と呼ばれるほどの遊女が身につけていた教養を知れば、彼女たちが現代に生きていれば、そこらへんの女子大生など足下にも及ばない知性を持ち、さまざまな技芸を身につける努力を怠らなかったことがわかる。

 遊女最高位の「太夫」はスーパースターといってよい。ただ、容貌が美しいだけでは太夫の地位にのぼることはできない、客あしらい行儀作法はもちろん、歌舞音曲、和歌俳句、生け花茶の湯、書道など、技芸全般を身につけていたのである。

 言葉遊びも遊里では人気の遊びだった。遊女が遊びの全部を受け持つのではなく、太鼓持ちなどが受け持つ部分もあった。しかし、丁々発止の言葉遊びを好む客がきたら、その客にあわせて、ギャグもパロディも本歌とりも、俳句も和歌も川柳もこなすのが太夫だった。

 江戸吉原の技楼主、結城屋来示(ゆうきやらいじ)の著作『吉原徒然草』に登場する言葉遊びのたぐいを並べてみると。
 「なぞなぞ、咄し、日待ばなし、おとしのはなし、落としのしれた咄、おとしのよき珍しき咄。地口、わる口、こ新しきぢ口」

 おとしのはなしは、今の落語に通じる面白おかしい話であろう。日待ばなしはどのような話であったのだろうか。人の悪口を機知をきかせて言い立てるのも言葉遊びの妙。地口はギャグ。一番単純なものが駄洒落。

 客が出した三題噺に機知を生かしてしゃれのめした返答をする。それで座をもたせ、客の心をなごませる。所望があれば、はやり歌、小唄、はうたをうたう。説教節やら浄瑠璃やらを三味線とうたを披露する。何の芸も持っていない現代の芸人に比べれば、月とすっぽん。最高の芸人である。もちろん、床上手も芸のうち。

 客は遊女にあうとき、はじめてのときは「初回」。酒を飲んで食べて、チップをばらまき、大宴会で金を湯水のごとく使う。第一回目はこれだけで帰る。「裏をかえす」二回目も同じ。飲んで食べてチップ払って大盤振る舞い。
 三回目にようやく遊女と二人だけの時間がもてる。<つづく>

春庭今日の一冊No104
(ゆ)結城屋来示『吉原徒然草』(岩波文庫)


「源氏名③」

 太夫は客の好みにあわせて、客が所望するさまざまな芸を披露する。客にとっては、このような位の高い遊女を座敷にあげることが、ステイタスでさえあった。

 太夫は、どのような身分の客とも、対等に渡り合い矜持高くふるまった。もちろん結局は買う客と買われる者の関係ではあるが、太夫には気に食わぬ客をふることもできたし、むしろ金を出す客のほうが太夫の機嫌取りに汲々とせねば、初会のために金を湯水のごとくつかわされても、裏をかえす(二度目に会う)こともできなかった。

 初会は「初対面」だけ。客は太夫の姿を近くで見ることができただけで、感激。それで帰る。太夫が客を気に入れば裏をかえす。裏でもぬかりなくチップもはずみ、万事に大盤振る舞いして、三度目にようやく太夫とふたりで差し向かい。

 太夫の揚げ代は、時代によってまた京と江戸でも異なるが、おおよそ銀90匁。(銀60匁が1両)。ただし、これは公式な揚げ代で、これを払うだけではだめ。太夫のまわりで働く人々へのチップ。飲食費用などすべていれると、だいたい一晩で10両は必要。

 江戸の1両の現代通貨への換算は、ちとめんどう。時代によって変動しているのはもちろん、何を基準として換算するかで異なる。
 現代の「一杯のかけそば」の価格と比較すると、1両はおよそ12~3万円分の蕎麦が食べられた。
 1両でお米が150キロ買えた。これで計算すると現代はお米コシヒカリが1キロ500円として7万5千円くらい。
 人が働いた際の賃金で比較すると1両では30~40万円分の価値がある。職人の一日分の賃金がおよそ銀1匁から2匁。30日間働いてもらう給料が1両前後だった。

 なんとか初会で大金使い、裏をかえして大盤振る舞い、三度目にようやく太夫とふたりだけの時間をすごせる。このときも蒲団新調代として何十両も必要だったり、もろもろの金がかかる。現代でいえば、一晩に何百万円か使うことになる。
 
 落語の『紺屋高尾』では、染め物屋の久蔵が高尾太夫に会うため3年間貯金をする。染め物職人として働いた賃金からこつこつ貯金し、3年で9両を貯める。あとの1両は親方に都合してもらい親方の服も借りて「お大尽」のふりをして太夫に会う。
 太夫が客を気に入らないときは一晩で終わり。しかし太夫は久藏が気に入り、次に会うのはいつか(裏をかえす日)をたずねる。

 久蔵は泣きながら「あと3年たたないと、会いにくる費用が貯まらない」と正直にうちあける。高尾は久蔵の純情に惹かれて年期があけたら夫婦になる約束をし、久藏の揚げ代は自分持ちにしてやる。
 晴れて夫婦になったあとは、ふたりして染め物(駄染め)の店を繁盛させ、幸福にくらす。いわば、吉原の「逆シンデレラファンタジー」

 庶民にとって、太夫は手の届かない高嶺の花だったが、庶民にも太夫の姿や名前にあこがれたり、ファンになったりする手段はいろいろあった。
 
 浮世絵のモデルになるのはもちろん、絵双紙や「吉原評判記」なども出版され、今だれがトップの太夫なのか、どんな顔立ちなのかなどを、江戸庶民は「グラビアクイーン」をながめるように、楽しんでいた。

 遊女の名前が「ブランド」になっていて、遊女の名を冠した「おしろい」や「紅」が売り出されたり、新しい髪の結い方に、売れっ子太夫の名をつけて「○○髷」などの名で流行したこともある。

 遊女の格にも上から下まであり、年期があけて遊女をやめてからの処遇もさまざま。
 太夫になって上層の客の相手をつとめ、27歳の年期あけ、あるいはそれ以前に客にひかされて、遊里から抜け出せる遊女もいれば、親兄弟や夫のために苦界に身を沈めたまま、浮かび上がることもできない者もいる。

 遊里に入っても身売りの借金がへるどころか、働けば働くほど、借金が増えてしまい、27歳すぎて吉原を出されたあとは、場末の私娼窟へ鞍替えするしかない女もいた。

 なぜ、働いても借金がふえてしまうのか。遊女の着るものやかんざしの類、身の回りの調度品日用品を買う費用は遊女もち。これだけでもかなりの出費。
 遊里から外へ出られない遊女たちは、江戸の相場より割高だとわかっていても、高い枕紙、高い髪油、高い小間物を遊里に出入りを許された特定の商人から買わざるをえなかった。
 売れっ子は客に買ってもらうこともできるが、お茶っぴきは、これらを自分で買うことになり、また借金がかさむ。

 また、遊里の決まりの中で、「紋日(物日)」という「必ず客をむかえる日」がある。この日は、かならず買われなければならない決まり。だから、客を迎え入れることができず、お茶をひいてしまったら、「自分で自分を買う」金を払わなければならない。売れない遊女は、紋日のたびに自分を買う金をださなければならず、どんどん借金がふえる仕組みになっていた。

 若くして病気にでもなって死んだとき、無縁仏として葬られる者もいる。吉原の近辺には「投げ込み寺」と呼ばれる寺がある。
 私は以前、樋口一葉記念館のそばの投げ込み寺のひとつ「浄閑寺」にお参りしたことがある。

 たびたび浄閑寺を訪問していたという永井荷風の碑が門前に記されている。荷風は、吉原より玉ノ井などの庶民の街を好んだと言うが、新吉原開業以来2万5千人の無縁仏が眠ると言われる寺に深い思いがあったのだろう。

 近代に水商売をする女性の名前を「源氏名」というようになったのは、永井荷風「断腸亭日乗』あたりからだそうだが、荷風以前から用例があるかどうか、春庭には不明。

春庭今日の二冊No.105、106
(お)興津要『古典落語』
(な)永井荷風『断腸亭日乗』


「源氏名④)」

永井荷風の日記1937年(昭和12年)六月廿二日の一部

六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事なかりき。近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。
余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を越ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。...


 「娼妓の墓が倒れている間に一片の石を置いて永眠したい」と願った荷風だったが、荷風の墓は雑司ヶ谷にある。
 荷風は江戸文化を好み、江戸文化の華である遊廓を好んだ。死してのちは「荷風散人」として無縁仏となった娼妓と共に眠りたかったのだろう。

 江戸から明治に時代が移り、「幕府公認遊廓の吉原」が消えても、吉原の繁昌は続いた。
 明治5年の娼妓解放令とは、外国向けの「わが国は人身売買なんかしちゃおりませぬ」という言い訳のために発令されただけで、政府は「貸座敷免許制」というのを始めた。

 遊女と呼ぶのを廃止して娼妓と変え、遊廓を「貸座敷」と変えた。名前がかわっただけで、江戸時代よりも政府公認の場所が増える結果になった。
 娼妓は、形だけ「自由意志による商行為」として働くことになったが、実態はなんら変わっていない。

 天保年間の『守貞漫稿』に出てくる全国の公許の遊廓はわずか25ヶ所だったが、大正時代に公認の貸座敷は545ヶ所、娼妓は5万2200人という調査報告がある。
 明治政府のしたことは、お墨付き遊廓の許可基準を下げたことだけだった。

 明治に入っても吉原のにぎわいは続き、樋口一葉の名作『たけくらべ』の舞台になっている。『たけくらべ』冒頭の一節に、当時の吉原大門近辺が活写されている。




廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、


 大正、昭和の「陽気の街」については、荷風の著作など、お読み下さい。

 一葉、荷風の著作に出てくる遊女娼妓たちの姿。一葉荷風は娼妓達をきちんと「一個の人間」として見つめ、対等の目線で描写した。

 廃娼運動が盛んだったころ、本気で娼妓の身の上を考えてやる人もいる一方、「堕落した商売に従事しているかわいそうな女たちを救いましょう」と唱え、「娼妓は自分たちより一段と劣った下等な人間」と見ている「有閑階級」の人も多かった。

 「一葉日記」の中に、姉貴分の一葉が酌婦をしている女のために一肌ぬぐ話もある。
 一葉の描く酌婦たちは、廃娼運動する上流夫人のような「見下げた」視線での描写ではない。一葉が現代にもなお読み継がれる作品を残せたのは、一葉が「歌塾萩の舎に集まる華族令嬢へも、場末の酌婦へも等しい視線を放つ」ことができる人であったからだと思う。

 1945年3月10日、東京大空襲の日。新吉原から続いた「陽気の街」は下町一帯を地獄と化した空襲で灰燼に帰す。10万ともそれ以上とも言われる空襲時死者の中に、吉原の花魁も芸者も茶屋の主人も若い衆もいた。

 国民には「耐えがたきを耐え、忍びがたきをしのび」とラジオが伝えてから半月もたたぬ8月下旬、政府は吉原再開を決定。名も「進駐軍接待所」と変わった。

 表むき「キリスト教一夫一婦制度の国」であるアメリカの軍人のため、日本政府は飢えている国民の食料をどうにかするより一早く、「進駐軍の慰安」を準備したのだった。

 現代の「陽気の町」吉原。「ソープ街」という。売り物は「石鹸洗剤」ではない。源氏名をもつ女性たちが働いている。
 この「世界最古の職業」と呼ばれる仕事に関する意見考えは、春庭、また別の機会に論じます。古代神事、生産豊壌儀礼からのつながり。

 現代に「源氏名」を名乗るのは、主として「フーゾク」と呼ばれる仕事をしている女性。本名で仕事をする女性は、たぶんいないだろう。
 昔の吉原さながらに、夫の借金のために売られてきた人もいれば、「短期間で大金をかせげる職場」として自ら望んで仕事を求めてくる人もいる。

 現代の源氏名にも、流行があって「ジュリー」「エマニュエル」「マリリン」など、横文字名前がはやったこともあるし、その時代に人気がある女性タレントの名前をそっくりまねるのがはやることも。「モモエ」「アキナ」「セイコ」「アユ」「アヤヤ」など。

 現代の吉原では、店ごとに源氏名の付け方を工夫しているところもあるとか。ある店では女の子全員が「ゆり」「すみれ」「のばら」「ひまわり」「ひなげし」「さくら」など。店のキャッチコピーは「ヒミツの花園、あなたのために満開です」
 ある店では「ポルシェ」「フェラーリ」「ロールス」など、皆、外車の名前。経営者が外車趣味なのか。キャッチコピーは「あなたを乗せて全力疾走」ではいかが。

 一軒一軒、源氏名を調査したワケじゃないから、この源氏名がほんとかどうか知らないけれど、きっとこちらの方面にくわしい方は大勢いるだろう。
 「現代吉原の源氏名研究」調査のためと称して、実地研究を行う方がいたら、研究成果をぜひご一報ください。

春庭今日の二冊No.107108
(き)喜田川守貞『守貞漫稿』天保年間に、きたがわもりさだという絵師が記した「挿し絵付き風俗案内」
(ひ)樋口一葉『たけくらべ』


ぽかぽか春庭「名前について」

2008-10-13 18:54:00 | 日記
ニッポニアニッポン言語文化散歩「名前について」


節分・春の名を呼ぶ

at 2004 02/01 18:51
編集2月3日は、節分。
 自分の心の中にいる「邪気」を追い出し、幸福を願う日。冬の寒さを、凍える心を、冷え込む人間関係を、心の中から追い払おう。節分の次は立春。

 春を迎えよう。「鬼はそとぉ、福は内!」
 新たな春のはじまり。木々が芽吹きを待ち、花は蕾の準備を始める。私の庭も新しくなりました。

at 2004 02/02 06:48 編集
「節分・春の名を呼ぶ②」

 1月後半、陰陽五行思想の影響について話してきた。去年の夏以降「東洋思想史」を復習する必要があり、「朱子学は心学のひとつなり、といえるのはどのような理由によるか」とか、「朱子学と陽明学の違いを説明せよ」などを考えてきた。
 その過程で、陰陽五行についても読み直すことができた。

 元来、陰陽は太陽の光と陰、五行は季節の移り変わりをもとにした農耕暦の表現である。陽光と季節の推移とは、農作業にとって重要なことがらであった。
 すべてのもとになる五気「木、火、金、水、土」の相剋相生について、また、季節や色との組み合わせなどについて紹介した。(2004/01/27参照)

 木=春=青、火=夏=朱、金=秋=色、水=冬=黒、という季節と色との組み合わせ。「土」は中心をあらわし、季節の変化を司る。それぞれの季節の終わり18日間は、「土用」。そして、季節の変わり目が、「節分」

 陰陽五行思想では、陰と陽の対立は、激しい変化を生じ、人々に災いをもたらすと信じられていた。季節も陰と陽が入れ替わる。この変化による災いを祓い人々に幸いをもたらすために、節分の行事や儀式が行われた。

 本来、節分は、立春・立夏・立秋・立冬の前日をいう。この日を境に季節が分れる。夏の節分、秋の節分もあったのだが、季節の変わり目が特に著しい立春の前日が「節分」として大きな行事になった。
 春の節分、今年は2月3日。各地で節分行事が行われる。

 家内では一家の主が、神社などでは年男が「福は内、鬼は外」と言いながら、煎った大豆をまく。土から芽を出す豆の生命力が、邪気を払う。年の数だけ豆を食べると一年を無病息災で過ごせる。
 神社や寺院の追儺(ついな)の式。これは「鬼やらい」と呼ばれ、疫病の鬼を追い払う儀式。

 また、「門守り」と言って、鰯の頭や柊の葉を門のところにさして、鬼を追い払う。鰯の頭の悪臭や柊の葉の先のとがったところを鬼が嫌い、退散すると信じられてきた。
「鰯の頭も信心から」ということわざも、この鰯の頭によって邪気を払うという信仰から生じた。

 各地それぞれに、節分行事、鬼やらい行事がある。京都では、節分の日に北野天満宮・吉田神社・壬生寺・八坂神社・の四社寺を「四方詣り(しほうまいり)」として参詣し無病息災、招福を願う習慣が生き続けている。

 現在の節分行事「福は内、鬼は外」の豆まきは、奈良・平安時代の宮中行事「追儺式」が民間に広まったものと、されている。<続く>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊
No.93(し)島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書

at 2004 02/03 06:35 編集
「節分・春の名を呼ぶ③」

 文武天皇の時代から宮中の「追儺式」が始まり、民間行事は宮中の儀式を模倣したといわれている。
 しかし実際は、民間の「邪気払い」や「春を迎える行事」を、陰陽師が儀礼化して宮中に持ち込んだのであろう。

 田起こし播種の準備を始める農耕民族にとっても、家畜繁殖の時期を迎える牧畜民族にとっても、季節の推移は生産にとって重要なことであった。世界各地の文化に「春迎えの行事」がある。
 奈良時代以前から「邪気を追い払い、福を招く」という習俗は、各地に民間習俗として存在していたものと思われる。
 宮中追儺式も、暦博士や陰陽師たちが、民間の様々な春迎えの行事に五行思想をまぶして儀礼化し、宮中の平安祈願に採用したのではないか。

 宮中の追儺式は、「続日本紀」文武天皇の頃に記載されている。奈良時代、文武天皇の御代、疫病がはやり多くの人命が失われた。そこで、陰陽の思想に基づき、土で牛の形を作り、疫病を払う行事に用いた。これが追儺の始まりとされている。
 「土牛」を使うことは、中国の「礼記」にある「土牛を作りて寒気を送る」が起源で、陰陽師たちが陰陽五行に則り、それを追儺式として完成させたのであろう。

 平安時代の宮中の追儺式は、陰陽師が祭文を読み、黄金の四つ目の面をつけた方相氏が盾と矛を持ち、その矛を地面 に打ち鳴らしながら、「鬼やらい、鬼やらい」と言って宮中を練り歩いた。
 その鬼の後に殿上人たちが、桃の弓と葦の矢を持って追いかける。桃や葦は、古来より、邪気を祓う力を備えているものと考えられていたのだ。
 桃の生命力については、2003/11/05蛇の足跡参照。葦の生命力は、この国の古名を豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)と呼ぶことでもわかる。

 古代。人々が暮らす地には自然の中に様々な神々がいた。山と里を行き来する神、海と陸を行き来する神など、八百万(やおろず=無数)の神々が人々の住む地を経巡り、幸いを与えた。

 この古代の自然神を古層とし、陰陽五行、道教などの中国からの思想、そして仏教などが重層して、私たちの精神生活ができあがっている。
神仏習合により独自のものとなった日本の神と仏。私たちの生活に残る民間習俗には、この「神仏習合」後の仏教や神道の影響を残しているものが多い。

 現在の神社神道は、明治以後の「神仏習合を分離させた新しい神道」である。古来の神道とはかけ離れている部分が大きい。現在の神社を見て「昔からの宗教」と思わない方がいい。

 博物学者、南方熊楠などが保護しようとした神社や神道は、古層を残した古来の神々なのだ。

 節分行事。人々は何を「邪気」として払い、何を福として招き入れたのだろうか。人によって「邪」と感じるものがことなり、人によって「福」と思い「幸福」と考えることが異なるのかも知れない。

 私は、私にとって「福」である存在の、いろんな人の名を呼び、心の中に招き入れる。家族の名も、友の名も。あだ名であったり、ペンネームであったり、IDネームであったりする、ひとりひとりの大切な名を呼ぶ。私の周囲のひとりひとりの名に感謝して、心のうちに招き入れる。「福はうち!」

at 2004 02/04 11:25 編集
「節分・春の名を呼ぶ④」

 季節が分れる節分の翌日は立春。
 古代、春たてば、人々は野に出て若菜を摘み、若菜摘む若い娘に声をかけた。

 万葉集の最初の歌。
「籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね  われこそは 告らめ 家をも名をも」

 丘で菜を摘む若い娘に名を問いただし、自分の名を告げている。雄略天皇の歌とされているが、伝承。おそらく、長い間伝えられてきた、歌垣(かがい、うたがき)の歌であったろう。
 歌垣とは、一ヶ所に男女が寄り集まり、歌を相手に投げ合って結婚相手を探す、というアジアの各地に残る風習。

 この歌垣の中で、「こもよ、みこもち、ふくしもよ、みふくしもち、この丘に菜つますこ、いえをきかな、なのらさね。われこそは、のらめいえをもなおも」と、歌いつがれてきたのであろう。

 男と女が、歌をうたいながら、お互いの名前を聞きあう。気に入った相手であれば、名を告げ、結ばれる。名前は自分だけの大切なもの。その一番大切な名前を相手に告げ、ささげるのである。

 その大切な儀礼の歌の作り手として比定されたのが、ワカタケルおおきみ。『古事記』では、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)と呼ばれる大王。後世になって「雄略天皇」という名で呼ばれるようになった王である。ワカタケル本人は、自分が「雄略天皇」などという名で呼ばれるようになるとは、つゆ知らなかった。

 ワカタケル大王の大后は「若日下部王わかくさかべのおおきみ」。第二の后「韓比賣」第三の后「妹若帯比賣命いもわかたらしひめのみこと」ただし、これらの后の名を、ワカタケル自身がどう読んでいたのかはわからない。昭和天皇は、后の良子(香淳皇后)を「ナガミヤ」と呼んでいたそう。

 ワカタケルが美和河へ行き、見初めた美しい娘に名を問うた。娘は答えた、「わたしの名前は赤猪子(あかいこ)」

 名を問われて、答える。これで求婚と承諾が完了。赤猪子は、ワカタケルが「迎えにくるまで待て」と言って宮廷に帰っていったあと80年間、待ち続けた。ワカタケルの方は、求婚して「待っていなさい」と言ったことなど、すっかり忘れてしまったのに。

 名を問われて答えれば、その女性は求婚を承諾したとみなされる。名を知る人は、その人自身をすべて自分のものにできるから。古代の女性は自分の名を、両親と夫以外には知らせなかった。
 紫式部も清少納言も藤原道綱の母も、今日まで読み継がれるすぐれた作品を残した女性であるが、本名はわかっていない。

 紫式部や清少納言らは、父や夫の名がわかるが、六歌仙のひとり小野小町は、小野氏の出身であることがわかっているだけ。「小町」というあだ名が歌に残されただけで、どこのだれの娘やら夫がいたのやらも、はっきりとはわかっていない。

 各地に伝説が残され、能のなかにも小野小町は「草子洗い小町」「卒塔婆小町」など、さまざまな姿で登場するが、実際は、古今集に残された歌がはっきりしているだけで、あとはすべて謎の女性なのだ。

 歴史上ではどこの誰であるやら名もわからず、詠んだ歌だけが千年の時空を越えてわたしたちにも届く。ことば、そして名前。ほんとうに不思議な気がする。

 名前、固有名はアイデンティティの基本となるもの。ウェブ上では、お互いにハンドル名、IDネームで呼び合い、どこの誰とわからなくても、お互いが夕べ何を食べたかとか、何を見たか、なんてことまで話し合う。
 パソコンの画面を見たときに、ぱっと目に入ったとたんに親しみを感じるIDネームもふえてきた。
 どんなIDの方とめぐり会い、どんなハンドル名の人とお話ができるだろうか。楽しみにしている。
☆☆☆☆☆☆
春庭今日の三冊No.94~96
No.93(お)大伴家持編纂『万葉集』
No.94(せ)世阿弥(か)観阿弥『卒塔婆小町』
No.95(?)作者不詳『草子洗小町』



「at 2004 02/05 08:07 編集

本名あだ名四股名

 古代の女性は、名前を両親と夫以外には知らせなかった、と述べた。
 名前は自分自身の命ともいうべき大事なものであり、大きな意味を含んでいた。

 木の花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と 石長比売(いわながひめ)の名前。

 アマテラス大神の孫ニニギの命は、天上の高天原から地上をおさめるためにつかわされ、美しい女性に出会った。娘に名をたずねる。

 美しいその女性は、「私は大山津見の神の娘。名は、木の花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)です。」と答えた。
 女性が名前を名乗るということは、その名を持つ自分自身を明らかにすること。つまり、求婚を受け入れる意志があることを示す。

 ニニギの命はヒメの父、大山津見の神のもとを訪ねた。大山津見はこの求婚を喜び、姉の石長比売(いわながひめ)と共に、たくさんの献上物を持たせて婚礼を承諾する。しかし、姉の石長比売は大変醜かったので、ニニギノ命は妹の木の花佐久夜毘売だけを留めて、醜い姉は父のもとへ送り返してしまった

 石長比売を送り返されたのを知った大山津見の神は、「私が二人をともに送り出したのは、石長比売によって、天の神の御子の寿命が永久に石のように堅実となるため。また、木の花佐久夜毘売によって、木の花の栄えるように栄えるため。

 しかし、石長比売を返して、木の花佐久夜毘売を留めたので、天の神の御子の寿命は木の花のようにもろくなってしまうだろう」と言った。そのため、今日にいたるまでニニギノ命の子孫である天皇の寿命が人の子の寿命と同じになり、死すべき人間となった、というのが、天孫降臨神話。
 
 その後、木の花佐久夜毘売は、ニニギノ命とのたった一夜のちぎりで子をなす。ところが、ニニギノ命は往生際悪く「サクヤヒメよ、一夜ではらんだと言うが、本当に私の子供か?国の神の子ではないのか。」と咎めた。

 一夜でみごもったからといって、よその男の子ではないかと疑うなんて、ほんとにイケスカナイ男ですね。カミの風上にもおけない。あ、風上じゃなくえ雲の上にいたんだった。
 雲の上ツカタの方々、イケスカナイ方ばかりじゃないと思います。いとヤンゴトナキ不思議の国のアリス川の宮(贋)なんか、中年女性のとりまきがけっこういたというから、イケスイタんでしょう。

 いけすかないニニギに疑われても、凛として、ヒメは「私のはらんでいる子が国の神の子であれば、産む時に無事ではないでしょう。もし天の神の御子であれば、無事でしょう。」と言い、戸口のない大きな家を作るとその中に入り、産む時になって家に火をつけた。女はいつも毅然としている。

 この時に生まれた御子が火照(ほでり)の命で、隼人らの祖先になる。また、次に生まれたのが火須勢理の命(ほすせりのみこと)=海幸彦。次が火遠理の命(ほおりのみこと)、別名を、天日高日子穂穂出見の命(あまつひこひこほほでみのみこと) =山幸彦。
 海幸山幸(うみさちやまさち)のお話になる。

 以上のように、名は生命そのものであり、特に女性にとって、名を知らせることは我が身を相手にゆだねることであった。

 父親に顔も性格もそっくりな娘が、私の若い頃のアルバムながめながら「お母さん若い頃は、すごくカワイかったのにねぇ。今じゃ、ただのオバサンだけどさ。どうしてこんなかわいいころ、ちゃんと自分を売り込まなかったの。ちゃんと売り込みさえすれば、ぜったいにお父さんよりマシな人に巡りあえたと思うよ」

 はぁ、「我が名」売り込みの才覚とぼしく、売れ残ってしまい、こんな結果に、、、。
でも、娘よ、私が「自分の名前」の売り込みに成功し、もっとマシな人と結ばれていれば、あんたは、今頃、、、、

春庭今日の一冊No.96
No.96(ひ)稗田阿礼(ひえだのあれ)朗唱。民部卿・太安万侶(おおのやすまろ)編纂『古事記』


at 2004 02/06 22:35 編集
「本名あだ名四股名②」

 古事記に出てくる「葦原醜男(あしはらのしこお)」という名、「豊葦原」であるこの国土を「醜(しこ)=強さ」によって統べるという意。

 葦原醜男=葦原色許男、またの名は大国主神。出雲のかみさま。
♪大きな袋を肩にかけ、大黒様が来かかると、そこに因幡の白うさぎ~の大黒様。
 この神は大国主神、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)、葦原色許男神(あしわらしこをのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)、大物主命(おおものぬしのみこと)など様々な別名をもつ。

 『日本書紀』では大己貴(おおなむち)、大汝(おおなもち)、など、表記はいろいろ。「大国主神、またの名を大物主神、また国作大己貴命と号す。また葦原醜男といい、また八千戈神という。また大国玉神といい、また顕国玉神という」とある。

 豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)の、もともとの支配者であった、大国主。
 たくさんの名を持っていた中の「醜男しこお」の「しこ」は、「おそれをなし、うとましく思えるくらいに強い力をもつ」という意味を含んでいた。醜男の意は、頑強、頑健な男、まがまがしいくらい強い男。

 現代の「しこ男」といえば、「しこ名」を持つおすもうさん。
 相撲界では、一人前の関取になると、幕下まではしこ名を持たず本名で土俵に上がっていた力士にも、しこ名をつけるようにする。
 昔は、相撲協会が「幕内では必ず本名を避けるように」と、指導したそうだが、最近は本名のままの力士も増えた。

 本名のままでも、強そうなお相撲さんはいる。でも、呼び出しや行司が名前を呼びあげるとき、本名の力士の名を、「鈴木」「山田」などと、声はりあげて呼んでも、あまり強い感じがしない。鈴木さん、山田さんは、しこ名を名乗ったほうが強そうだ。

 幕内力士で「鈴木さん」は思い切って変わった文字使いになって、パソコンでは出てこない。火ヘンに華とかいて、「よう」。よう司。
 「山田さん」もまた、変わったしこ名になって「若兎馬わかとば」。兎馬って、ロバのことだけど、三国志の中の赤兎馬は最強の馬の名前。一日で千里を駆け、山や河を平地のように越えるという名馬である。 三国志最強の漢、呂布や関羽が乗った馬。うん、若兎馬という四股名、「山田さん」より強そうだ。

 現在、幕内で本名を名乗っているのは「十文字」。これだと本名でもなんだか強い気がする。一度はしこ名を変えたのだが、また本名に戻した。十文字→階ヶ嶽→十文字。

 垣添(かきぞえ)は、一度もしこ名を名のったことがない。横綱二代目若乃花は、間垣親方という名になっているから、垣添も、力士の名としてよろしいのだろう。垣添が悪いのなら、間垣だってよろしくないもの。
 もっとも、親方のなかには「中村親方」がいて、これだと「中村さん」と呼べば一般の名字と区別がつかない。

 出島、一度もしこ名を名乗っていないが、山や川、島など、地名が入る名前は、もともと四股名っぽいからいいんだろう。霜鳥も本名。動物の名は、動物の強さを身に帯びることができて可。大きな鵬「大鵬」龍と虎「龍虎」、そして「麒麟児」など。

 元々、力士の四股名は、郷土の土地の魂をその身に帯び、地霊を鎮めことほぐ意味がある。
 高知出身「土佐の海」、青森県岩木町出身「岩木山」など、「そのまんま」のわかりやすい四股名。十両の五城楼。地名っぽくないが、五城楼は地元仙台の雅名(別名)で、「立派な城に守られた美しい街」という意味。郷土にちなんでいる。

 グルジア出身力士の本名トゥサグリア・メラフ・レヴァン も「黒海」としこ名がつくと、黒海の土地の魂を背負って、土地の神から力をもらう。そしてその力によって勝負に勝てば、今度は故郷の海や山に自分が新たな力を与えることができるのだ。
 十両の本名ボラーゾフ・ソスラン・フェーリクソヴィッチは、「露鵬」という四股名によって、鵬のごとく羽ばたき「露西亜」の土地をことほぐことができる。


 出雲神話の神である大国主神、またの名を大物主神が、「葦原醜男/ 葦原色許男神(あしはらのしこをのかみ)」という呼び名をもっていたように、「醜男=しこ名を持つ力士=強い男」である。

 強さを持つ男が土地を支配し、土地の霊魂を身につけた。
 大相撲の力士たちは、このような四股名を名乗ることによって、他の一般の人とは異なる特別な力を身におびるのである。

もんじゃ(文蛇)の足跡:豫母都志許賣・ヨモツシコメについては、またいつか




ぽかぽか春庭「かわいい東京駅・近代建築物語」

2008-10-12 00:50:00 | 日記
かわいい東京駅
2005/01/11 水
ことばのYa!ちまた>かわいい東京駅(1)東京ミレナリオ

 2005年12月30日に、東京ミレナリオを見ようと思い立ち、有楽町と東京駅へ行ってみた。しかし、あまりの人出の多さにおそれをなし、見ないで帰宅してしまった。
 東京駅の人群、係員が「ミレナリオ入り口で入場規制中、入り口までの待ち時間は、2時間待ちとなっております」と、アナウンスしていたのだ。

 東京駅丸の内側から北口へ向かう列の中に入っていたときの、私の前にいたカップルの会話。
 男性「ミレナリオ、今年で終わりです、来年は見れませんって、あんなにニュースで言うからこんなに人が集まっちゃうんだよ」
 女性「でも、うちらだって、そのニュースみてきたんやん」

 東京駅丸の内側の前にミレナリオの見本が飾られている。
 男性「これ、見て帰ろうや」
 女性、ケータイで写真をとりながら「でも、せっかくここまで来たんになあ」ライトアップされている東京駅もついでに撮りながら
 女性「あ、かわいいなあ。わたし、東京駅はじめて見た。かわいいやんか」
 
 東京駅丸の内口駅舎は、辰野金吾設計の近代建築史に残る傑作である。明治期近代建築の粋を示す。完成は1914年(大正3)年。赤煉瓦駅舎の全長は、320メートル。煉瓦の建造物では日本最大。
 近代建築傑作としての東京駅駅舎、また、東京のランドマークとして語られる場合も、この駅舎の美術芸術的な価値を語られ、近代建築の傑作と褒め称える。

 「辰野式」と呼ばれた煉瓦を基調とした独特の作風を示した辰野金吾。建築家辰野金吾は、日本という国家を近代化するために西洋建築の建設を行い続けた。彼が生涯を賭けて作り上げた最高傑作、それが、東京駅駅舎。

 照明デザイナー石井幹子さんが1986年に駅舎のライトアップを依頼され、東京の夜に駅舎の赤煉瓦の色が映える。

 「かわいいっ!」という彼女のことば。なんでもかんでも感動したり、気に入ったものへの形容は、「かわいい」の一語ですませてしまう、若者のボギャブラリーによって発せられたのだろうが、私はその素直な感想に感心した。

 私に「東京駅をひとことで表現しなさい」と、課題を与えられたら、「東京駅はかわいい」と、言えただろうか。
 大建築家の傑作、日本最大の赤煉瓦近代建築、などなどの枕詞によって、この駅舎を飾り立てたくなり、けっしてひとこと「かわいい!」とは言えなかっただろう。

 でも、ライトアップされた東京駅、ほんとうに「かわいいっ」のです。ディズニーリゾートの建物みたいに。
<つづく>
00:32

2005/01/12 木
ことばのYa!ちまた>かわいい東京駅(2)日本の近代はカワイイもんだった

 「東京駅、かわいい!」と言った女性、彼女は、ディズニーリゾートのライトアップされた建物を思い出し、「同じテイストの建物」と思ったのじゃないだろうか。

 ディズニーリゾートの建物は、おとぎ話にでてくるような「子どもが喜びそうな」見た目をしている。たぶん、建築評論家に言わせれば「特に芸術的な価値はない」と評されるのだろう。

 でも、でも。丸の内口からライトアップされた東京駅を見ていると。ああ、ほんとに「おとぎの国の駅舎」みたいだなあ。建築家の権威とか、近代建築の傑作とかいう言葉にかかわらず、この駅舎を表現したら「かわいいっ!」なんだなあ、と納得した。

k:****さんからのコメント
 其の「かわいい」と云うのは多分、今風の構造建築物、直線的な物との比較から出た言葉でしょう。何か温かみの無い、近代高層構造物。

 k****さんのおっしゃるとおりの面もあるでしょう。東京駅の中央、ドーム型の天井をもち、赤い煉瓦と花崗岩の白による外観が印象的。本来は3階建てだったが、戦災で3階部分が焼け落ちてしまい、2階までを修復して現在の形になっている。そのため、無機質な感じがする高層ビル群とは趣がちがっているのだろう。
 だが、私には、もうひとつ、「カワイイ」の中味が感じられた。

 「日本の近代化」は、西洋欧米に追いつけ、マネて真似して西洋をぜんぶ取り込んでいけ、というまねっこ精神によって始まった。明治45年間、人々は懸命の努力を続け、ようやく西洋に追いついた、西洋の水準にたどりついた、と思えたひとつのモニュメントが、東京駅丸の内駅舎だった。明治精神の仕上げのひとつとして、1914年(大正3)に完成。

 「かわいいっ!」のひとことは、「日本の近代化」の本質を言い当てている。
 ディズニーリゾートの建物のように、ひとつの仮構された世界を現出し、「本物ではないけれど、そこにいると、自分がお伽の国の住人になったように感じられてくる」装置。

 産業革命以来、近代国家設立を重厚壮大に練り上げてきた西洋列強を後追いして、「おもちゃの国」のように急ピッチで作り上げたハリボテの街、まねっこの制度。それが日本の「近代化」であった。

 とにもかくにも大急ぎで工場を作り上げて生産にはげみ、鉄道を張り巡らせて輸送をする。映画セットのように、目に見える側だけは近代化を達成した。
 おもちゃの国だろうと、お伽の国だろうと、見た目に「西洋列強国にひけをとらない」が必要だった。

 明治初期の鹿鳴館の舞踏会。フランス軍将校だったピエール・ロティが、「お猿さんたちの舞踏会」と評した「まねっこ舞踏会」も、盛大に開催された。
 明治の仕上げとしての「東京表玄関」も、盛大に築き上げなければならなかった。

 お雇い外国人ジョサイア・コンドルらに学んだ辰野金吾が、「自前の設計施行によって、自分たちで作りあげる」仕上げの作品として東京駅丸の内駅舎を完成した。
 明治期の西洋文化への憧憬が、美しい外観となって現出した。ランドマークとして、すてきな建物だと思う。

 東京駅の外観が、どこかディズニーリゾートのようなお伽の国めいたかわいらしさを人々に感じさせるとしたら、「まねっこで、追いつけ追い越せ」とはげんで成立した明治以後の「近代国家」を反映しているからかもしれない。
<つづく>
00:03

2005/01/13 金
ことばのYa!ちまた>かわいい東京駅(3)おのぼりさんぽ再び

 「近代産業国家日本」という装置。
 「自分たちが近代国家の住人になったように感じられてくる」装置として完成するために、「最大の煉瓦建築による駅舎」を必要としたのだろうなあ、などと思いながら、ライトアップされたかわいい東京駅を見上げた。

 近代市民社会という土台なしに、砂上楼閣のように急ごしらえで作られた「近代国家」は、華麗な姿の東京駅完成から30年後に進むべき道を見誤り、大きな破綻をおこした。
 その破綻を徹底的に見つめることなしに、これまた大急ぎで取り繕ったために、今再び、繕ったはずの縫い目が綻びはじめ、大きな裂け目になろうとしている。

 「仮構された近代産業国家」日本が、今、きしきしと建物のゆがみを音に表わしながらきしんでいる。あらゆる「近代国家」の装置が、ひび割れにかろうじて耐えている。学校教育しかり、医療保健制度しかり、郵政しかり、公営放送しかり、。

 次の建物を、次の装置を、私たちは作り上げることができるのだろうか。
 土台を確立せずに急ピッチで作り上げた「書き割りのような国」ではない、真に民衆のための国家。

 つぎつぎに装いを変えて、その都度「新しい首都」を演出してきた東京。
 石器時代の太古から人が住み着いた台地と谷地が、人の中心地としての機能をはたすようになって400年。次はどのような衣裳が与えられるのだろうか。
 十二階や煉瓦作りの駅で装われた近代都市東京から、高層ビル群スカイスクレイパーにきらびやかな電飾の衣裳をまとったコンテンポラリー・トーキョーへと時代は移り変わってきた。
 電飾は、いつまで輝き続けることができるのだろうか。

 丸の内ミレナリオ、見に行った人の日記をいくつか拝見。
 読んでわかったこと。東京駅北口に大群の列を作って2時間待ちをしていたのは、田舎者。東京駅周辺の道を知っているひとは、さっさと丸の内ストリートへたどり着き、横の路地から本通りへ入り込めたのだって。また、有楽町側から東京駅方向へ歩道反対コースを歩いてミレナリオを見た人もいる。

 わざわざ有楽町側から東京駅北口まで歩き、人混みに驚いて帰宅してしまった私は、20余年東京に住んでいても、いつまで経っても田舎者なんだなあ。
 「近代産業国家の首都東京」は、私にとって、どれだけ長く住んでいても「出稼ぎの街」であり、「ふるさとから遠く離れた大都会」である。都民税区民税は払っているけれど、「東京市民」には、なかなかなれそうにない。

 東京は分刻みでその相貌を変えていく。丸の内再開発後、「東京ミレナリオ」再開したら見にいき、年末年始の祝祭空間を存分に味わうことにしましょう。
 そのときは「かわいい東京駅」から列を組んで並んだりせず、直接、ストリートに横はいりしますから。
 おのぼりさんの東京徘徊、今年も続きます。
<おわり>
00:11




コンドル近代建築探訪散歩・煉瓦の館旧古河邸の光と闇
2006/08/05 土
煉瓦造りの館、光と闇

 私の自転車散歩の休憩スポット、旧古河庭園、六義園、小石川植物園、後楽園。それぞれの庭の造りを楽しみ、季節ごとの花や木を眺めます。
 7月8日、薔薇を見に旧古河庭園に立ち寄ったところ、旧古河邸の内部見学会が2時からおこなわれるというので、申し込みをしました。

 煉瓦造りの洋館は、「大谷美術館」として管理されており、内部で結婚式なども行えます。
 入館見学料500円(往復ハガキによる事前申し込みだが空きがあれば当日も参加可。私は当日参加)

 旧古河庭園にある煉瓦のお屋敷、ジョサイア・コンドルの設計です。コンドルは明治から大正にかけて日本の近代建築に指導的な役割をはたし、鹿鳴館・ニコライ堂・湯島の岩崎邸、品川の島津邸(現・清泉女子大学)などを設計しました。現存しない鹿鳴館以外は、見にいけますが、内部が常時見学できるのは、湯島岩崎邸。

 旧古河邸の見学は2回目。前回見学したのが何年前のことだったか、忘れてしまいました。
 「近代建築・煉瓦造りの豪邸」としての古河邸紹介は、たくさんのサイトがあるので、そちらを参照ください。
 たとえば、公式サイトは
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index034.html

 建物については
http://allabout.co.jp/house/architect/closeup/CU20050717B/

 今回の私の古河邸紹介は、題して「煉瓦のお屋敷、光と闇」

 内部見学会が始まる2時まで、少し時間があったので、まずは庭園の薔薇を見て歩きました。
  薔薇の名前、「クイーン・エリザベス」「プリンセス・ダイアナ」「プリンセス・ミチコ」「カトリーヌ・ドヌーブ」など。曇り空での下でも、光り輝くような名を持つ花たちです。

 庭からベランダを見ると、きもの雑誌の撮影が行われていました。モデルはスラリとした容姿の桐島かれん。レフ板(Reflector反射板)の光を受け、かれんさんがいろんなポーズや表情を作ります。ベランダの下の植え込みの薔薇ごしにシャッター音が続きます。
 古いお屋敷の壁にそっと手をあてて、美しいモデルがすっくりとたったようす、薔薇の花のようにつややかです。

 トップモデルが、小粋にまたあでやかに着こなす着物。きもののことはなにひとつ知らない私でも「わぁ、高そう!」と、思った。お屋敷に似合う着物です。
 ふぅ、私は一生着ることもなさそうな、、、
 古い洋館のなかでの着物姿、どんなふうに仕上がっているのか、あとで、雑誌を立ち読みしよっと。

 2時から若い女性ガイドさんの案内で、10人ほどの見学者が説明を受けながら見学しました。
 1階は、お客をもてなす公的なスペース。応接間、ビリヤードルーム、食堂など。
 2階は、古河旧男爵家の私的居住スペース。外観は洋館だけれど、コンドルは巧みな設計で、2階を和室にしつらえてあります。

 前回と異なる私の興味は、岩倉靖子に関わっています。
 明治の元勲岩倉具視(旧500円紙幣の肖像)の曾孫にあたる岩倉靖子の評伝『公爵の娘・岩倉靖子とある時代』(浅見雅男著 中央公論新社)を読み、靖子が一時期、親戚の古河男爵家で生活していたことを知りました。

 靖子が預けられていたころの古河邸は、このコンドル設計の洋館だったのかどうか。
 年代など忘れてしまったので、はっきりはわからなかったのですが、たぶん、こちら西ヶ原の別邸ではなく、新宿若松町の本邸のほうと思います。
 でも、靖子がこの和室の窓から外をながめて、青春の鬱屈を感じることもあったのではないだろうか、などと、勝手な想像をしながら、見学しました。

 岩倉靖子は、「赤化華族事件」に関わった唯一の女性。
 他の華族お坊ちゃまたちが、口では「貧しい人々を救おう、そのためにはマルクス主義の勉強も必要だ」と、威勢の良いことを言いながら、警察に思想事件として検挙されるとたちまち転向してしまったのに対して、靖子は長期間の拘留にただ一人耐えました。

 8ヶ月半もの獄舎生活から釈放後、靖子は遺書を残して自殺。享年20歳。

 靖子を預かっていた古河男爵は、「顔に泥を塗られた」と、激怒し、靖子を許さなかったそうです。
 
 靖子の遺書
 『 生きて居る事はすべて悪影響を結びました。
 これ程悪い事はないと知りながらこの態度を取る事を御許し下さいませ。
 皆様に対する感謝と御詫びとは言いつくせません。
 愛に満ちたいと思っていてもこの身が自由になりません。
 ただ心の思いを皆様にささげる事を御汲取り下さいませ。
 総てを神様にお任せして、私も魂だけはみ心によって善い様になし給うと信じます。
 説明も出来ぬこの心持ちをよい方に解決して下さいませ。
(1933年12月21日付け) 』

<つづく>
00:49 |

2006/08/06 日
薔薇庭園の光と陰

 西ヶ原の旧古河邸、もとは明治の元勲・陸奥宗光(むつ・むねみつ 1844-1897)の別宅でした。
 宗光の次男・潤吉(1869-1905)が、古河財閥の創始者・古河市兵衛(ふるかわ・いちべえ 1832-1903)の養子になった際に、この土地が古河家の所有となりました。

 古河家は、創業者古河市兵衛が足尾銅山の成功などで、財を築きました。
 晩年まで息子を得られなかった市兵衛が、陸奥宗光に請うて宗光次男潤吉を養子としたことから、上層階級へのつながりを深くすることができました。

 潤吉35歳で早死にしたあと、市兵衛が晩年にもうけた息子、虎之助(1887-1940)が三代目となりました。

 1915(大正4)年12月1日大正天皇即位大典に当り、28歳の虎之助は、大倉財閥を築いた大倉喜八郎らとともに爵位を与えられ、男爵となりました。
 明治中期までは「維新の功労者」などに与えられた爵位が、明治後半から大正には、経済界の成功者、多額納税者にも与えられるようになっています。

 1917年(大正6)、古河虎之助が30歳のとき、ジョサイア・コンドルに、邸宅設計を依頼しました。コンドル最晩年の作品が、この煉瓦造りの邸宅です。
 この洋館設立は、2年前に虎之助が男爵を受爵した記念でもあったことでしょう。

 洋風庭園の設計はコンドル自身が行い、 和風庭園は京都の庭師・七代目小川治兵衛(おがわ・じへい 1860-1933)が築庭した、和洋折衷の庭。館は1階洋室2階和室の和洋折衷の邸宅です。

 シャンデリアの材料はこれこれ、天井のデザインはこう、と、説明を受けながら古河邸を見学する人々は、屈託なく「へぇ、すごい材料を使っているんだねぇ」などと、館の中を歩いています。

 受爵、豪邸建設と、表は光に満ちた古河邸です。
 しかし、邸宅のガイドさんが一言もふれなかった、このお屋敷の背景には、靖子が心を痛めた「時代の病理」も闇の中に潜んでいたのです。

 古河財閥とは、足尾銅山の足尾鉱毒事件の加害者側、古河鉱業社主の家です。
 銅山の鉱毒のため、群馬栃木の渡良瀬川流域が汚染され、流域の人々は悲惨な状態に陥りました。

 群馬栃木両県鉱毒事務所の1899年の調査によると、鉱毒水が井戸水に混入したことなどを原因とする死者・死産が推計で1064人にものぼりました。
 土壌が鉱毒に汚染された渡良瀬川流域の農民は農作物も作れず、健康被害も広がりました。

 衆議院議員・田中正造(1841~1913年)は一身を投げ打ち、被害の実態を明治天皇へ直訴しようとしました。
 1901年12月のこと。

 平民が天皇に直訴するということは、重罪で、最高刑は死刑です。正造は妻に罪が及ばないよう離縁状を渡した上で、天皇の前に進み出ようとしました。しかし、進路をはばまれ失敗。逮捕拘束。

 釈放ののちも、田中正造は足尾、谷中村の農民のために働きました。名主の家に生まれたけれど、財産はすべて農民のために使い果たし、72歳でなくなったときは、無一文。信玄袋ひとつに書きかけの原稿が残されているのが、唯一の財産でした。

 鉱毒の影響は長く残り、1971年に至っても、この地域の米からカドミウムが検出されて大問題になりました。

 正造がなくなった1913年に、岩倉靖子が誕生します。

<つづく>
00:02 |

2006/08/07 月
煉瓦館の公爵令嬢・岩倉靖子

コンドル設計の洋館に古河夫妻が実際に住んだのは、邸宅が完成してから6年間ほど。古河夫妻が若松町の本邸に越したあと、西ヶ原別邸は古河財閥の迎賓館として利用されました。

 古河家迎賓館として20年余り使用されたあと、戦後はGHQに接収され、その後は東京都の所管となriました。
現在、庭園は公園として一般公開されています。(建物は大谷美術館が管理)

 古河夫妻は、西ヶ原の屋敷で1923年まで暮らしましたから、1913年生まれの岩倉靖子が、子供時代にこの庭で遊んだこともあったと思います。 岩倉靖子は、古河虎之助夫人不二子の姪です。

 古河虎之助夫人は西郷家から嫁いできました。
 西郷従道(上野の銅像西郷さんの弟)の娘のうち、桜子が岩倉具張(岩倉具視の孫、公爵家当主)に嫁ぎ、不二子が古河虎之助夫人となりました。

 岩倉家は、当主具張が若い女性と出奔し、家庭を顧みない父親でした。母子家庭同然で育つ岩倉家の子供たちを不憫に思い、古河夫妻は桜子と子供たちをなにかと気にかけていました。

 古河夫妻は実子がなく、不二子の甥(西郷従道の次男の息子)を養子にしました。
 養子のいとこにあたる岩倉家の子供たちは、古河邸ですごすことも多く、なかでも靖子は古河家に預けられ、しばらく古河夫妻の家で生活していました。

 古河邸2階の和室縁側の窓から外をながめると、下に薔薇園が見えます。コンドル設計の薔薇園として、家が建った当初から薔薇が庭に植えられていたそうです。
 靖子が庭の薔薇の花々の間をめぐって歩いたこともあったでしょう。

 芝生と薔薇の洋風庭園の下は、和風庭園の池が広がっており、木立を抜けた先にある池は静かに水をたたえ、水面には形のよい松や楓、石灯籠が映っています。
 靖子は公爵家のお姫さまとして、名家に嫁ぎ、何不自由なく生きていく人生を選ぶこともできました。
 しかし優雅で贅沢な生活に安住するには、靖子の心は純粋すぎ、清廉すぎました。

 豪勢な館の外には、貧困に苦しむ人々があえいでいる。
 その声に耳をふさいで安楽に「公爵令嬢」として暮らすことは、靖子には苦痛でした。
 靖子は「貧しい人々の側に立ちたい」という生き方を選びました。
 しかし、8ヶ月の拘留生活に耐えた靖子も、釈放後の周囲の無理解と非難の嵐には耐えることができませんでした。

 20歳の靖子の心は誰にも理解されないまま閉ざされました。
 華族から思想犯として拘留される人物がでた、ということは、一族にとっては、世間体だけでなく、華族年金の支給など経済的なことにも問題を及ぼす、重大事件だったのです。
 靖子は、心のうちをたった200字の遺書に残したのみで死んでしまいました。

 今日見た着物雑誌の撮影だけでなく、この邸宅はテレビロケなどでも時々使われ、お金持ちの豪華なおやしきとして、雑誌やテレビ画面でみることができます。
 スポットライトがあたる豪勢なおやしき。

 でも、その裏側に、足尾の鉱毒に苦しんだ農民もいたし、農民たちを支えて戦い抜いた田中正造がいた。貧しい農民たちの側に立つことを望んで心を痛めていた20歳の公爵令嬢がいたことを忘れないでいようと思います。(煉瓦館の公爵令嬢の項おわり)
00:21 |



コンドル近代建築探訪散歩・旧岩崎邸の修復と保存

2006/08/19 土
やちまた日記>夏のおでかけリポート(15)コンドル近代建築探訪散歩・旧岩崎邸ミニコンサート

 夏のおでかけリポート、「コンドルの近代建築めぐり」シリーズ、旧古河邸につづき、旧岩崎邸を紹介します。

 8/12夕方、旧岩崎邸を見学しました。
 旧岩崎邸洋館は、8/05~8/07に紹介した旧古河邸と同じ、ジョサイア・コンドルの設計です。
台東区サイト  http://www.uraken.net/rail/travel-urabe75.html
東京都公式サイト
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index035.html

 旧岩崎邸庭園、初めて訪れたのは、2003年の4月末。改修後岩崎邸初公開直後のゴールデンウィークにいったので、ものすごい混みようでした。
 大人気の洋館見学は長蛇の列。このときは、和館と撞球室(ビリヤード室)だけ見て帰りました。2回目の訪問のとき、ゆっくり洋館を見ることができました。

 今回3回目。三の丸尚蔵館を見た帰りに、大手町から千代田線湯島へ行きました。湯島駅からは徒歩3分ですが、JR上野駅から不忍池をめぐって10分くらい散歩がてら歩いていくのもいいでしょう。

 8/12のおめあては、毎週土曜日に開催されている、「土曜ミニコンサート」
 夏の間、8/26日までの木金土は、開園時間が19時まで延長されており、土曜日、4時と6時、の2回、30分間のミニコンサートを聴くことができます。

 9月からは、夕方17時閉園。毎週土曜日1時と3時にミニコンサート開演。

 2005年隔週開催だったミニコンサートが好評で、2006年は毎週土曜日に開催されるようになりました。
 新進の音楽家による演奏が、入園料のみで聞けるのです。(入園料 一般400円65歳以上200円)
 8/12の演奏者は、バイオリン堀井希美さん、ピアノ鎌田恵さん。

 岩崎邸での、賓客へのもてなしとして開かれた音楽会そのままの雰囲気で、洋館客室に立つ堀井希美さん。
 客室、婦人客室、食堂の3室に集まった観客が、美しいバイオリン演奏に聴き入りました。

 演奏された曲は、シューマン「ロマンス・イ短調」「民族風の5つの小品」、トボルザーク「4つのロマンティックな小品集」、バルトークの「ルーマニア民俗舞曲」、アンコールは、ラフマニノフ「コレルリの主題による変奏曲」
 
 木造の部屋でバイオリンの響き、思ったよりずっといい感じでした。突然の雷雨のあとだったので、湿度が高く、堀井さんは、一曲終わるごとに調律して演奏していました。
(ピアノは部屋の広さとの関係と思いますが、電子ピアノでした)

 演奏のあと、邸宅ガイドさんの案内で洋館と和館の見学をしました。建材などのこまかい説明を聞くことができました。

 コンドルが設計した洋館は、客室食堂書斎などがあり、三菱財閥の迎賓館として使用されました。1896年に竣工。

 17世紀のジャコビアン様式を取り入れた設計。
 南面のベランダ床はイスラム風の模様がはめこまれています。ベランダの外側、1階南側にはトスカナ式の列柱、2階にはイオニア式の列柱が並んでいます。

 芝庭からながめると、コンドルが和館との調和も考えて、アメリカのカントリーハウスのイメージも取り入れた、という雰囲気が伝わります。

<つづく>
00:29 |

2006/08/20 日
やちまた日記>夏のおでかけリポート(16)コンドル近代建築探訪散歩・旧岩崎邸の破壊と保存

 洋館の一室にコンドル夫妻の写真が飾ってありました。日本舞踊のお師匠さんだった女性を妻としたコンドルが、サムライの衣装をつけています。すっくと立つ和服姿の美しい奥さんを見上げ、かがんで踊りのポーズをきめているコンドル。奥さんへの憧憬と愛情が感じられる写真です。

日本と日本文化を愛したジョサイア・コンドル(Josiah Conder 1852~1920)。24歳で来日してから終生日本に住み、お墓は護国寺にあります。

 岩崎邸洋館は三菱財閥の迎賓館として使われ、和館は岩崎久弥私邸。戦後はGHQに接収されました。現在は東京都が管理しています。

 往時は20棟あったという建物のうち、現在修復保存され、公開されている建物は3棟のみ。木造2階建ての洋館と、木造平屋の和館の一部。山小屋風の撞球室(ビリヤード場)が残されています。

 家の持ち主岩崎久弥(1865~1955)は、三菱財閥の創設者岩崎弥太郎の長男。三菱三代目社長。
 和館は、大河喜十郎を棟梁として施行され、岩崎久弥の家族9人が住んでいました。久弥夫妻、久弥の母、久弥の子供6人。

子供たちのうち、男子3人は三菱に入社。
 長女美喜は、外交官沢田廉三に嫁ぎ、戦後エリザベス・サンダースホーム(日米混血児のための児童施設)を開設しました。
 三女の綾子は、福沢諭吉の孫・堅次と結婚し、98歳で、存命だそうです(1908年生)。

 550坪あった和館は、最高裁判所研修所等を建設するために取り壊され、現在は160坪分だけが残されています。

 残された160坪分の和館建材は、四方柾目の五寸柱、杉柾目一枚板の天井をはじめ、現在では手に入れたくても入手困難になってしまった貴重な材料が使われています。

 邸宅ガイドさんは、厚さ3cm幅60cm長さ5mの天井板一枚が500万以上するだろうから、一室の天井を復元するだけでも、1億円はかかるだろう、と説明していました。
 しかし、500万はおろか1000万払っても、昔のような建材が手にはいるかどうかはわからない、という状況だそうです。

 建具には、橋本雅芳の絵が描かれていました。たった一枚だけ残っている、雅芳のふすま絵、ふくろうが描かれているのを見ました。

 このような貴重な文化財を取り壊して、コンクリートの研修所を建て、しかも1969年の建設からわずか25年後の1994(平成6)年 4月 、研修所は埼玉県和光市に移転してしまい、現在は研修所として使われていない。

 「古びた和館よりコンクリートの新しいビル」という発想しかもてなかったお役人様。そういう行政には、何の責任も問われない。
 もったいないことです。

<つづく>
00:26

2006/08/21 月
やちまた日記>夏のおでかけリポート(16)コンドル近代建築探訪散歩・旧岩崎邸の修復

 コンドルがこの岩崎邸竣工の前に手がけたのが、三菱一号館。1894年に竣工。日本で最初のオフィスビルとして東京丸の内に建てられました。こちらは1968年に解体されました。
 しかし、三菱は文化財としての価値を考え、外観だけですが、この一号館を復元する予定だそうです。2009年完成予定。

 一度壊してしまってから、文化財の価値に気づいたわけですが、できれば、解体されたときに、そっくり移転保存しておいてくれたらよかったのになあ、と、残念に思います。

 岩崎邸を見て、私が一番美しいと感じた部分。それは、階段ホールの一階から二階へ立っている太い円柱です。百年前に塗られたニスが結晶し、茶色のニスの上に黒い斑点模様が浮き出ているのです。これぞ、百年かかってニスが自然に固まってできた模様であり、人工ではできない技です。

 邸宅ガイドさんは、「この柱、こんなに古くなって汚くなってますけど、塗装し直しなんかできないですよ。文化財だから」
と、説明していたので、え、この柱を「古くてきたなくなっている」と、見る人もいるのだな、受け取り方は人それぞれなんだな、と思いました。
 私には、「百年の時間の美」があらわれた、もっとも美しい塗装に思えたのですが。

 この柱、もし解体して破壊されてしまっていたら。柱だけ再現しても、このニス結晶の美しさを再び現出するためには、あと百年待たなければならない。

 「古いけれど修復できない」というものが、もうひとつ。
 婦人客室の天井は、絹地に手で刺繍してある布を貼りめぐらせた豪華なもの。豪華ですが、米軍接収時代を経て、汚れてしまいました。しかし、洗浄はできません。洗浄しようとすると刺繍の絹糸がほつれてしまうからです。
 このような刺繍を手で行うことは、現代では、もはや不可能なので、洗浄せずにそのまま保存することにしたのだそうです。

 岩崎邸は、戦後、GHQに接収されていました。
 米軍接収時代に、住人となった将校たちは、壁紙が古くなったり破れた部分があったからと言って、壁にどんどんペンキを塗り立てました。
 アメリカのホームドラマでも、パパの日曜日の仕事といえば、毎週のようにペンキ塗りや庭の芝刈り。家の壁はペンキを塗りまくり、常にぴかぴかにしておくのがアメリカの美学なのでしょう。
 
 しかし、「古くなって破れていた壁紙」、実は、とても貴重な工芸品でした。
 和紙を革のように細工して金細工をほどこしたように見える、「金唐革(きんからかわ)」という特別な壁紙が使われていたのです。
 米軍将校たちは、この貴重な金唐革の、工芸的価値・美術的価値を知りませんでした。

 江戸時代に、西洋渡来の金革が大名や大商人の間で珍重されました。金革は、薄い皮に金細工をほどこしニスを塗ったもの。たばこ入れや刀の鞘に細工されました。
 江戸の奇才、平賀源内は、金革人気に目をつけ、和紙による擬革紙を作り出そうとしました。和紙に箔を張り、漆を塗る。紙なのに金革のように見える「金唐革紙」を工夫したのです。

 明治時代になると金唐革紙が産業化され、高級壁紙として西欧へも輸出されました。
 しかし、明治末期には手漉き和紙がすたれ、機械漉きが台頭しました。手漉き和紙産業が衰え、金唐革輸出も不振となって衰退しました。
 金唐革の技術を伝える者がいなくなり、幻の壁紙となってしまったのです。

<つづく>


2006/08/22 火
やちまた日記>夏のおでかけリポート(17)コンドル近代建築探訪散歩・旧岩崎邸の修復、金唐革紙

 岩崎邸に入ったGHQ将校に工芸美術品の価値がわかる人がいなかったこと、不幸なことでした。貴重な壁紙は全部上からペンキを塗られて破壊されてしまいました。 

 さて、岩崎邸修復に際し、金唐革の再現にあたったのが、現代の名工、上田尚(うえだたかし)さん。
 上田さんは1983年に金唐革に出会い、復元に成功しました。失われようとしていた金唐革紙の技術が、上田さんの研究のおかげで復活したのです。

金唐革紙紹介HP
縄文社「日本のてしごと」http://www.handmadejapan.com/sidestory_/sst074_01.htm 
紙の博物館 http://www.handmadejapan.com/features_/ft008_01.htm

 岩崎邸の修復。米軍によって壁に塗られたペンキをはがす作業からはじまりました。ペンキを塗られ、台無しになってしまった金唐革壁紙。
 上からペンキを塗ってしまわずに、そっと壁紙をはがして保存しておいたなら、今や美術館でひっぱりだこ、オークションで高値取引ができる工芸品コレクションになったのに。
 「米軍に金唐革紙=豚に真珠」だったのですね。
 って、壁紙とっておけばいくらで売れたか、などと値段のことを気にしちゃう私も、まあ、「豚に模造真珠」くらいのシロモノですね。

 金唐革紙の壁紙、復元には、1平方メートルあたり500万円、一室で1億円以上かかりました。費用の面から、復元できたのは、客室一室のみ。あとの部屋の壁紙は、金唐革にはできませんでした。

 ある文化財を、「古くなった」「汚くなった」と、こわし、新しい建物を建てる。
 米軍が金唐革紙にペンキを塗ったようなことが、日本各地で続いています。
 東京都北区にある煉瓦造り工場の「造兵廠275号」も、まもなく取り壊され、「真新しい図書館」になろうとしています。
 275号の前には解体作業のブルドーザーがきていました。

 図書館の一部に煉瓦造りの外観を残すということですが、外観だけ残した丸の内の銀行倶楽部のように、やはり元の建物を保存するのとは違います。
 http://yma2.hp.infoseek.co.jp/TokyoArch/Photo/01/daimaruyu/GINKO-CLUB.html

 文化財の保存と修復。経済優先のこの国では、なかなか難しいことなのでしょう。
 経済価値以上の価値を認めたがらない行政は、まだまだ続くみたい。
 そりゃまあ、私みたいに、金唐革紙の美術的価値もさることながら、1平方メートルあたり500万と聞いて、ヒェーと言っちゃうようなもんが国民ですから、、、、、、それに見合うような政府なんでしょけどね。

<旧岩崎邸の項おわり >




煉瓦造り・造兵廠275号
2006/08/04 金

 私の好きなものめぐり、絵本の次は、「煉瓦のたてもの」
 近代建築を見て歩くのが好きです。とくに、煉瓦造りがすき。
 煉瓦建築の東京駅について、今年1月11日~13日カフェコラム「かわいい東京駅」に書いたので、ご参照ください。

 東京都内の煉瓦建築、東京駅のような有名建築なら、保存に問題はありませんが、あまり有名でないものなどは、しばらく見ないでいるうちに壊され、あっというまに鉄とコンクリートの現代建築に立て替えられてしまいます。

 私のように、見て歩くだけの人間にとっては、煉瓦の色や手触りが好きで、残してほしいと思っているのですが、煉瓦の建物、実際に中に住んでみると使い勝手の悪いことも多いらしく、設備の整った新建築に対抗して保存するには、よほどのことがないと、保存の願いもかないません。

 東京都北区にぼろぼろの煉瓦建物が残っています。
 旧陸軍造兵廠 (ぞうへいしょう)。鉄砲の弾を作る工場でした。
 大正8年に建築された煉瓦建物。「275号棟」という古い標識が入り口に残っています。

 これまでの20年間、これからこの建物の保存はどうなるのだろうと思いながら見てきました。
 JR十条駅から徒歩10分程の北区十条台,
公園予定地の中にあります。隣の敷地は自衛隊十条駐屯地。

 歴史的な意味からも、なんとかして全体保存ができないものか、という保存運動も起こりました。しかし、そっくりそのままの保存はならず、煉瓦建築のごく一部分を新中央図書館の外観にとりいれる、という部分保存が決まりました。
 「軍事産業の工場」という建物のせいか、あまり保存運動は盛り上がらなかったようです。

 私は図書館の本をよく借りるので、新しい図書館が区民の福利厚生に役立つということは、わかるのだけれど、関東大震災にも東京大空襲にも耐えて残ってきた歴史的建物を「古いから」という理由で、壊してしまったら、二度と取り戻せないと思うのです。
 軍事工場は、邸宅やお城、寺のような歴史的建造物とはことなるけれど、やはり、私たちがたどってきた歴史のひとつの姿を残しています。

 「負の遺産」として広島の原爆ドームを残すべきであるのと同じく、軍事工場もひとつの歴史遺産として、残しておくべきことだと思います。
 この煉瓦造りの工場で、大勢の人々が「爆弾つくり」を行ったのだ、ということを伝えていくのも、平和を考えるひとつのよすがとなります。

 軍事工場も歴史的建物だとおもうし、なにより、煉瓦造りが美しいのです。
 木のドアは朽ち、窓のガラスは割れ放題。青いペンキの屋根はさび付いています。ぼろぼろだけれど、煉瓦の外壁はとても美しい。美しいものは残すべきです。

 20世紀という「破壊と創造の時代」に、破壊を目的として爆弾を作り続けた造兵廠。
 1887創業の埼玉県の日本煉瓦製造も2006年6月末に業務を停止ましたし、煉瓦建物はもう補修も難しいのでしょう。


ぽかぽか春庭「月と暦」

2008-10-11 08:42:00 | 日記
月と暦
2006/10/09 月
新暦旧暦イスラム暦(3)月と暦

 10月6日は、暦の上で旧暦8月15日、中秋の満月。しかし、天文学上の実際の月齢では、10月6日の月齢は13.6、10月7日、14.6、10月8日、15.6。
 7日夜の十六夜(いざよい)こそが、実は満月でした。

 7日夜、十六夜月をながめました。8日夜の月も煌々と大きく、きれいでした。
 月の光は、人に静かにふりそそぎ、ときの流れに身をひたらせてくれます。

 月明かりをみつめていると、この夏、東京駅大丸百貨店で開催された石川賢治写真展『月光浴』を思い出しました。
 ケニアのサバンナ、ヒマラヤ、ハワイ、オーストラリアなど、世界各地を旅して、月の光だけで感光する写真を撮り続けている写真家、石川賢治さんの作品が、虫の声風の音波の音など静かな夜のバックグラウンドミュージックの中に展示されていました。

 サバンナのなかにたたずむキリンの兄弟、マダガスカルのバオバブの木、月の光のなかで撮影された光景は、不思議な魅力に満ちていました。

 時間を意識したときから、人は月の満ち欠けを見つめ、時の流れと循環を知りました。そして、暦をつくりました。
 日が昇り日が沈み、月が満ち、また欠けてゆく。
 人類が文明を手にしたときから、月は時のめぐりを人に教え、暦は人とともにありました。
 
 日本事情(日本の社会と文化・歴史)の授業で、明治の文明開化にふれます。
 「文明開化」。
 人々は、牛鍋に舌鼓をうち、ザンギリ頭をたたいて「文明開化」の音をきいた。電信電話にびっくりし、新橋横浜間鉄道開通に大騒ぎ。明治5年に新生明治政府の威信を内外にしめすために急ピッチで作り上げられた鉄道、見物客でにぎわいました。

 しかし、庶民にとって、陸蒸気(おかじょうき)=鉄道は、見物にでかけて話のタネにはなるものの、自分たちの日常生活には直接関わらなかった。新橋横浜間の乗車賃は、庶民には手の届かない高価なものでした。

 では、文明開化のなかで、全国民の毎日毎日の日常生活に最も大きな影響をあたえた大変革とは何か。

 暦です。

 生活するには、今日が何日かわかっていなければ、商売の契約もかわせないし、働きに出た賃金も正確に計算できなくなる。暦は、だれの生活にとっても、大きな関わりをもつもの。

 その大切な暦。1873年の暮れ、いきなり12月2日の翌日12月3日が正月1月1日に切り替わってしまった。月の暦、太陰暦から太陽の暦、太陽暦へと変わったのです。

<つづく>
00:22
2006/10/10 火
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(4)太陰暦から太陽暦へ

 江戸時代に広く使われていた太陰太陽暦(旧暦)は、暦としてよくできておりで、ひとびとは暦売りから買い求め日々の暮らしに重宝していました。
 太陰太陽暦は、農耕社会にあっている暦でした。新春といえば春のはじめ。新春=新年、農作業もここから始まります。

 太陰暦では、月の満ち欠け「29日&半日」で1ヶ月を決めるため、29.5日×12回では、1年354日になり11日が不足する。そのため、11×3=30日で、3年弱毎にうるう月をもうける。うるう年になると、1年が13ヶ月になる。

 この13ヶ月のおかげで、季節がそう大きくずれることなく、新年新春は春の季節からはじめることができました。
 現在の暦では、新年新春が1月で寒いさかり。私も子供の頃は、なぜ冬なのに新春というのかと、不思議でした。

 明治新政府は政権樹立当初から、西洋諸国との外交なども考え、太陽暦=西洋暦に切り替えようとしていました。
 しかし、反対意見も多かった。徳川時代末期に流通していた太陰太陽暦「天保壬寅暦」は、緻密な計算のうえに作られており、人々はこの暦をつかうにあたって、何の不自由もしていません。

 それをいきなり「西洋にあわせて暦を変える」と、決めたら、抵抗がおこるかもしれません。
 新政府の土台は脆弱。反対派による政府攻撃がおきたら、対処もむずかしい。
 西暦にしたいとは思うものの、踏み出せなかった。
 そんな状態のなか、なにがなんでも改暦をしなくてはならない問題がでてきました。

 明治政府は、江戸徳川幕府が所有していた財政権の引継ぎに失敗し、1872(明治4)年に廃藩置県、1874(明治6)年に地租改正が行われるまで、財政基盤が脆弱でした。政府ができたものの、お金は入ってこない、という状態だったのです。
 政府の財政は1868年の明治維新から年ごとに逼迫していきました。

 徳川幕府の武士への俸禄は年俸制。「1年に一石の米」とか、「50俵2人扶持」など、米によって支払われ、1年ごとの支給でした。
 しかし、明治新政府は、官員への給与を月給制に改めました。1年に1度、いっぺんに支払う財政がなかったので、「月賦でちまちまと支払っていく」ことにしたのです。

 1873(明治5)年、財政問題ますます悪化し、官員へ給与を支払うのも大変でした。
 太陰暦によると、1874年はうるう年。すなわち、太陰暦で1年が13ヶ月ある年にあたっていました。

 さあ、たいへん、年俸を月賦で支払うことにしたのはいいが、1974年は、月給を13ヶ月分、支払わなくてはならなくなった。
 そこに知恵者が現れました。改暦実行。

<つづく>


2006/10/11 水
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(5)明治の改暦

 1873(明治5)年の暮れ、12月をすっとばして、西洋暦の正月に変えてしまう、という名案。
 これなら、1874年に13回目の給与を支払わずにすむ。西洋暦なら12回だけ月給を支払えばいいのだから。おまけに、12月の給与を「これは正月分」として支給すれば、明治6(1973)年は11回の月給支給ですむ。

 1873(明治5)年12月2日。翌日は、暦が切り替わって、明治6年1月1日となりました。
 明治5年12月分の月給は、支払い停止。12月は2日間しか働かないので、この2日間の給与は1月分と合併とする。つまり、12月の2日間分はサービス残業のような扱いになってしまいました。

 1874年は、13ヶ月分支払わなくてはならなかったのに、西洋暦にしたために12回ですむ。1873年12月分は「1月と合併支払い」だから、支払わずにすんだ。つまり、2ヶ月分の月給を節約できました。

 政府の強硬な改暦に、日常生活は大混乱です。
 12月にいきなり改暦されても、すでに、次の年の太陰暦のカレンダーが売り出されて、流通したあと。

 新暦を売り出した業者は大もうけとなったが、ほとんどの商売人・社会人は、暮れに1年の支払いをすませる経済のしくみだったので12月2日の次の日が新年元日でございますと決められて、大弱りでした。

 井原西鶴の「世間胸算用」にも描かれているように、どんな阿漕な借金取りも、新年に年が改まれば、正月中は取り立てはしないのが仁義。
 取り立てるべき歳末がバッサリ切り落とされて、いきなり新年元日。
 日頃、借金取りに追い回されていた庶民には歓迎された改革だったかもしれませんが、年末がなくなって、いきなり新年では、正月のめでたさも半減した明治6年の新年となりました。

 明治の改暦で決まった西洋暦は、誤差の多いユリウス暦。
 西洋ではグレゴリウス暦が主流だったのに、なぜユリウス暦になったのか、わかりません。古い文献を参考にしてしまったのかも。
 明治31年にようやく現在のグレゴリウス暦(1年を365.2425日とする)に改正されました。

 ユリウス暦を定めたのは、古代ギリシャのユリウス・カエサル(英語読みでは、ジュリアス・シーザー)
 太古の国家形成のときから、時と暦を支配するのは、権力者為政者の重要な統治ツールでした。

 暦を支配したい為政者。多くの権力者が暦に自分の名を残そうとしました。
 しかし、権力が続くのは生きている間だけ。死後、現在まで暦にその名が残っているのは、古代ギリシャの皇帝アウグストゥス(Augustus)の名を残した、8月。英語のオーガスト(August)と、ジュリアス(Julius)シーザーの名を残した7月ジュライ(July)のみ。

<つづく>


2006/10/12 木
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(6)暦と支配者

2006/10/06 14:32 h**** 1日30時間くらいあればいいのに
というコメントが残されていました。

 私が独裁者だったら、簡単にかなえてあげられる。
 法律を変えて、「1日を24時間とすることを、以後廃止する。朝10時間、昼10時間、夜30時間、一日を30 時間と決定する」と、決めれば、たちまち1日は30時間となる。 もちろん、1日30時間ほしいってのは、そういう意味じゃないけれどね。

 月が暦の中心であった農耕社会では、現在の新暦2月を1年最後の月とし、春の季節がめぐってくるころ、すなわち現在の暦の3月あたりを、新年のはじまり、新春としていました。
 これは、日本だけでなく、古代ヨーロッパの農耕社会も同じ。

 ヨーロッパ社会がキリスト教社会となり、古代ギリシャローマの暦を取り入れた後も、この「春のはじめ」の行事は捨てがたく、謝肉祭カーニバル、キリスト復活イースターなどの行事に残存しました。イースターで色つき卵をかざったり、兎を祭のシンボルにするのは、春の農耕のはじめと多産を祈る行事からきているそうです。

 現在の1月が新年はじめとなったのは、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の定めたユリウス暦から。
 古代ギリシャでは、新春の2ヶ月まえに、為政者による政治年度を切り替えていました。ユリウス暦にきりかわるとき、この年度切り替えの時期を新年に定めました。

 うるう年の日数調整に2月をあてるのは、春に新年をむかえる暦だったとき、年末にあたる2月に日数調整をしたから。うるう年調整の月を2月にするというのは、新年が冬に変わってからも、引き継がれました。

 西暦キリスト教社会の元年はイエス・キリストの生まれた時を基準にしている。ただし、現在の研究では、イエスが生まれたのは、紀元前2年くらいじゃないか、と考えられています。

 ミャンマー・スリランカでは、釈迦が入滅した年を紀元元年とし、今年は仏暦2550年。
 タイ、カンボジア・ラオスでは入滅1年後を紀元とするので、今年は仏暦2549年。タイでは公式文書は西暦ではなく、仏暦の年号を書く。

 それぞれの文化にそれぞれの暦。暦のなかにも、多様な文化と歴史のようすが見てとれます。
 
 日本での暦の使用、卑弥呼や倭の五王が中国へ朝貢して以後、中国から伝えられたものがあるのかもしれません。
 正規の記録に残されているのは、『日本書紀』欽明天皇14年(AD 553)のころのこととして、「医・易・暦を担当する博士を百済から派遣してもらい、大和朝廷が雇いたい」と願った、と書いてあります。
 博士とは最新の学術を学んだ技術者のこと。現代ならば最先端情報技術者にあたるでしょう。

 推古天皇の時代、AD 602年のこととして、百済から来朝した僧の観勒が暦法を教えた、とあります。推古天皇の摂政であった聖徳太子が、隋や百済の最新学術を人々に学ばせたのでしょう。暦や易の最先端の知識を仕入れることは、世の支配者にとって、大切なことでした。

<つづく>


2006/10/13 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(7)暦と十二支

 正式に暦が日本の統治に取り入れられたのは、持統天皇のときから。
 690年に、元嘉暦(げんかれき)を公式の暦法としてとりいれるという勅令がだされ、692年から正式な暦にしたがって、諸事万般とりおこなわれるようになりました。

 暦の計算方法によって、初代大王(おおきみ)始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと(後代につけられた諡号は神武天皇)の即位日を、紀元前六百六十年正月朔日に即位した、などと計算したのは、明治時代のこと。

 2000年は、この神武紀でいうと2660年。今年は2666年。この神武紀(皇紀)を日本の暦のもとにする、という暦に関する法律は、現代でも廃止されておらず、閏年の算定は、この暦をもとにして計算することになっている。
 暦に今年は2666年と書いて発売して、法的にはOK。

 ただし、実際に初代がいたとして、正月も朔日もだれも知っちゃあいなかったころの人のはず。
 紀元前600年ごろから、縄文文化が弥生文化へとじょじょに移り変わっていった、という最新の縄文学弥生学からいうと、このころから貧富の差が生じ、支配者が生まれたと考えることは妥当ですが、各地にいたであろう小さな村の支配者が「はつくにしらす」という名だったかどうかなんて、わかりません。

 祝日のなかで、成人の日、敬老の日、体育の日などは、週初めの月曜日に祝う移動祝祭日ということになったのに、初代の即位日を2月11日(旧暦の正月朔日)に固定するのは、何の意味もない。この日こそ移動祝祭日にして「神話と歴史を考える日」にしてほしい。

 アジアで広く使われている、十二支による12年ごとの年のめぐり。
 暦をめぐるエトセトラのなかで、十二支は今も生活に結びついており、毎年の年賀状にも十二支の動物が描かれます。
 暦にあらわれる動物たち、いずれも深く生活と結びついています。龍は架空の動物ではあるけれど、農耕と水に深く関わると信じられており、農耕社会にとっては、なくてはならない存在でした。

 日本は、子(鼠)丑(牛)寅(虎)卯(兎)辰(龍)巳(蛇)午(馬)未(羊)申(猿)戌(犬)亥(猪)。
 漢字圏の中国韓国台湾は同じですが、亥年の亥を猪とするのは、日本独自。十二支本家の中国で亥は豚。

 しかし、アジア各国、それぞれの国情にあわせて、動物にさまざまなバリエーションがあります。ひとつの国で、地方によってちがいがある場合も。

 日本語教科書に十二支の紹介をしているのもあるし、私が漢字授業で使用している「Basic Kanji」という英語圏学生用の漢字教科書にも、動物の名前の紹介と共に、1ページがあてられています。
 非漢字圏の留学生にきいた、十二支さまざま。

 ミャンマーの十二支は、ネズミ、水牛、虎、ロバ、ウサギ、イタチ、馬、ヒツジ、サル、トリ、犬、豚。
 ベトナムも、牛のかわりに 水牛、羊のかわりに山羊。モンゴルでは虎のかわりに豹。
それぞれの生活に関わり深い動物が選ばれています。

<つづく>


2006/10/14 土
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(8)暦と十二支・猫と牛

 おもしろいのは、チベット地方、タイ、ベトナムの十二支では、兎のかわりに「猫」が入っていること。

 猫は、リビア山猫から家畜化され、エジプトや古代ペルシャなど、北アフリカ・メソポタミア地方から世界に普及していきました。
 十二支が考えられた古代中国に、まだ猫が広く存在していなかったために、猫は十二支に入っていない、というのが、犬はいるのに猫が十二支に含まれなかった理由だとされています。

 説話では、「神様のもとへ挨拶に行く日付をたずねた猫に、鼠が嘘をおしえ、猫は間に合わなかった。恨みに思った猫は鼠をつかまえて食うことにした」というお話が広まっています。

 十二支のなかで、自分の生まれ年の動物には親しみを感じる人が多いでしょう。

 動物を主人公にした詩のなかで、「牛はのろのろと歩く」と始まって「牛は大地をふみしめて歩く/牛は平凡な大地を歩く」と結ばれる、高山光太郎(1883~1956)の詩が教科書に掲載されていて、小学生のころ、たいそう感激したものでした。

 十二支の物語でも、神様のところに挨拶にゆくとき「私は歩みが遅いから」と、他の動物よりはるか前に出発し、ゆっくりゆっくり歩いて、一番先につくところだった。しかし牛の背に隠れていっしょにやってきていた鼠が、一歩先に神様の前に進み出て一番乗り。
 牛は十二支の一番にはなれず、二番目になった、というエピソード、牛のイメージによくあっています。まじめにひたむきに努力して、しかし一等賞は他のすばしこい要領のいいやつに、かっさわれる。

2006/10/16 月
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(10)秋やすみ

 光太郎の「牛」。悠揚せまらぬゆったりとした歩みで、のんびりしっかり歩いていました。

 なにごとにもあせらずあわてず、「牛はのろのろと歩く/牛は大地をふみしめて歩く/牛は平凡な大地を歩く」
 と、いきたいのですが、実際には、毎日あわてふためいて、階段教室を走り回って、ときにこけたりする。
 一日の仕事がおわると、「♪まっちっどおしいのは~冬やすみ!」と、歌います。

 暦の不思議。休みの日は三連休だろうとあっという間に終わってしまう、仕事の日は、1日がなかなか終わらない。
 春休み夏休み秋休み冬休みがあるのに、これ以上贅沢はいえませんが、秋やすみも必要よね。

 留学生それぞれの国の暦を尊重しつつ、日本語教室は「大学暦」にしたがって、、、、あ、今年の秋、文化祭シーズンの授業なし日、11月1日から5日まで連休になるわ。らっき~!

 文化祭による授業休講は、各大学それぞれが異なる日に文化祭を行うので、とびとびになってしまうことが多い。
 今年は出講している5つの大学の文化祭が、文化の日を中心にまとまっていて、連続で休めそう。
 秋やすみは、何をしようかな。

 うちのペットは、古来月の中に住んでいると信じられてきた、兎。真っ黒くろすけのロップイヤー。ベランダで暮らす黒ウサギといっしょに、兎が餅ついている月でもぼうっとながめているうちに、なんとなく休みの夜もおわってしまうのが常ですけど、ま、ぼうっとすごすのもいい休み方でしょう。

 満月から、十六夜、立待月、居待月、寝待月、更待月と月の出はおそくなり、二十日月のあとは、夜10時をすぎなければ、月ものぼらない「宵闇」となる。10月21日には新月に。

 秋やすみの文化の日。(戦前は、明治節、明治時代は天長節だったけれど、文化の日になったのは、1946年、新憲法公布の日、という位置づけ。新憲法施行の日は5月3日)

 2006年新暦(太陽暦)11月3日は、旧暦(太陰暦)の9月13日。
 中国韓国では中秋の名月(8月15日))を寿ぎますが、旧暦9月13日の「十三夜」別名「豆名月」「栗名月」の月をめでるのは、日本だけの習慣のようです。
 俳句の季語では「後の月」とも。

 母が煮る栗あまかりし十三夜(能村登四郎)
 
 文化祭秋休みは、甘栗でもむきながら、うさぎといっしょに「後の月」をぼんやりながめることにいたしましょう。

<おわり>