にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

翻訳練習ホテルカルフォルニア&コパカバーナ

2010-08-22 09:08:00 | 日本語言語文化
2010/09/22
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>春庭英語レッスン(1)ホテルカリフォルニア

 9月12日に無事終了したジャズダンスサークルの発表会。まだ撮影したビデオを見ておらず、自分の踊りの失敗点などは確認していないので、「うん、今日もよく踊った」と、踊るドクターに扮した東山紀之のセリフをマネして、自己満足していられます。実際は、2回転すべきターンは1回転ですませているし、あちこち細かい振り付けの間違いはあったし、、、、でも、お金をとって見せるプロダンサーではなし、おばさんたちが美容体操がわりに楽しむダンスなのですから、足が高く上がらなくても、ターンが左右逆回りになってしまっても、楽しく踊れればそれでよし。

 グループの発表曲は、私が踊ったインザムードとララドゥムのほか、もう一曲、イーグルスの大ヒット曲、ホテル・カルフォルニアがありました。私は振り付けを覚えられないので、踊らなかった。
 こちらも、たいていの人が一度は耳にしたことのある。不朽の名曲のひとつになっていて、私もこの曲をなじみのうたと思って聞いてきました。英語の歌詞、全部はわからないけれど、♪Welcome to the Hotel California, Such a lovely place, Such a lovely placeという部分だけは、英語で歌える。

http://www.youtube.com/watch?v=7_Wcbts8jzY

 「ようこそホテルカリフォルニアへ。ここはすてきな場所よ」という部分だけは意味がわかっていたけれど、そのほかの歌詞の意味、これまで考えたこともなかった。
 英語の歌詞は二重の意味を持っています。日本語の短歌でいうところの「掛詞」になっていて、表の意味と裏の意味があるってことも、はじめて知りました。

 たとえば、♪So I called up the Captain“Please bring me my wine”
He said, “We haven't had that spirit here. Since nineteen sixty-nine”
 文字通りの意味は、
♪俺はキャプテン(給仕長)に「ワインを持ってきてくれ」と頼んだ
♪彼が言うには「1969年以来、ここには酒(スピリット)がないんです」

 ワインは醸造酒なので、spiritスピリット=蒸留酒ではない。どうして給仕長はワインを頼まれたのに、「蒸留酒はない」と答えるのか。
 「1969年のウッドストック以来、ロックミュージックは変質し、金儲け主義のロックばかりがヒットする。ウッドストックで盛り上がった反抗する精神=スピリット。ベトナム戦争に反対し権力者にもの申してきたロックは、安楽安易な快楽の中に落ち込んでしまってきた。もうロック魂にスピリットはない」これが裏の意味。
 spiritには、「酒(蒸留酒)」という意味と「精神」という意味が掛けてある。

 Captainも多義語で、部隊長、(陸軍の)大尉、(海軍の)大佐、(飛行機の)機長、(チームの)主将、(組織の)リーダー・長、などの意味を含む。表向きは給仕長にワインを頼んでいるのだけれど、裏の意味は「アメリカ合衆国のリーダーに向かって物言っていると考えることもできる。1976年、ベトナム戦争で精神を病んだ男たちがあふれていたアメリカで、キャプテン・USAはスピリットを切らしてWatergate 水の門に沈んだ。

 では、第一連から「裏表の意味」を見ていこう。

<つづく>
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2010年09月23日


ぽかぽか春庭「Hotel  California 訳詞」
2010/09/23
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(2)Hotel  California

ホテルカリフォルニア イーグルス
http://www.youtube.com/watch?v=7_Wcbts8jzY

ホテルカリフォルニア(Hotel California 歌詞:春庭拙訳)
1)On a dark desert highway,  暗い荒れ野のハイウェイ
2)Cool wind in my hair, クールな風が髪にふれる 
3)Warm smell of “colitas” 生あたたかいコリタス草の(*colitasは、glass=草と呼ばれるマリファナなどと同類のもの)
4)Rising up through the air,  匂いがあたりに立ちのぼる 
5)Up ahead in the distance 遙か向こうに顔を向けると
6)I saw a shimmering light, ゆらめく光が見えてきた
7)My head grew heavy and my sight grew dim, 頭が重くて視界はぼんやり
8)I had to stop for the night. 今夜はここでストップ。泊まらなくちゃ
9)There she stood in the doorway, ドアのところに彼女が立ってる(彼女=ヘロイン過剰摂取で1970年に27歳で亡くなった伝説のロック歌手ジャニス・ジョプリンを指す)
10)I heard the mission bell ミッションベルが聞こえている(mission bell=教会の鐘→ミッション(任務)開始終了を告げるベル)
11)And I was thinkin’ to myself : 自分のために考えている
12)“This could be heaven and this could be hell”ここは天国?それとも地獄か
13)Then she lit up a candle, すると彼女は灯りをともして
14)And she showed me the way, 私に行く手を示してくれた
15)There were voices down the corridor, 廊下をいくといろんな声がする
16)I thought I heard them say  やつらの声が聞こえた気がする

17)Welcome to the Hotel California, ようこそ、ホテルカリフォルニアへ
18)Such a lovely place, ここはすてきなところだよ
19)(Such a lovely place) ここはすてきなところだよ
20)Such a lovely face イカシた面々、
21)Plenty of room at the Hotel California, ホテルカリフォルニアには、部屋がいっぱい
22)Any time of year, 年中いつでも
23)(Any time of year) どんなときでも
24)You can find it here あんたの部屋はここで見つかる

25)Her mind is Tiffany-twisted, 彼女の心はティファニー捻れ
26)She got the Mercedes Bends, 曲がったメルセデスを手に入れた(*曲がったメルセデスMercedes BendsとMercedes-Benzを掛けている )

28)She got a lot of pretty, pretty boys 彼女がトモダチって呼んでいる
29)she calls friends 大勢のかわいい男娼(ボーイ)たちをひきつれて
30)How they dance in the courtyard, 中庭でダンスを踊ってる
31)Sweet summer sweat スィート・サマーが汗(スェット)になるまで
32)Some dance to remember, 覚えているためにダンスを踊る奴もいるし
33)Some dance to forget 忘れるために踊るやつもいる

34)So I called up the Captain それでキャプテン(給仕長)を呼んだのさ
35)“Please bring me my wine”「俺のワインを持ってきてくれないか、この俺に」
36)He said, “We haven’t had that spirit here 返事はこうだ「あいにくと、切らしております。そのスピリット(酒/精神)は
37)Since nineteen sixty-nine”1969年から
38)And still those voices are calling from far away, そしてまた、奴らの声が遠くから呼びかけてくる
39)Wake you up in the middle of the night 真夜中でもおまえは起こされる
40)Just to hear them say: ほら、その声が聞こえてくる

41)Welcome to the Hotel California, ようこそ、ホテルカリフォルニアへ
42)Such a lovely place, すてきなところさ
43)(Such a lovely place) すてきなところ
44)Such a lovely face イカシた面々が
45)They’re livin’ it up at the Hotel California, ここに住み替え
46)What a nice surprise, ナイスにびっくり
47)(What a nice surprise) なんてイカシたサプライズ
48)Bring your alibis あんたのアリバイ持っといで(alibisアリバイ=不在証明書)

49)Mirrors on the ceiling, 天井のミラー
50)The pink champagne on ice,  氷の中のピンクのシャンペン。
51)and she said:“We are all just prisoners here, 彼女は言った「ここじゃ皆が囚人だわ」
52)Of our own device”自分から縛られた囚人
53)And in the master’s chambers さ、牢名主の部屋に
54)They gathered for the feast, 皆で集まり祝宴だ
55)They stabbed it with their steely knives, とがったナイフで皆が突き刺す
56)But they just can’t kill the beast だけど獣は殺せない 

57)Last thing I remember, 覚えている最後のことは
58)I was running for the door, ドアに向かって走っていたこと
59)I had to find the passage back to the place I was before, もとの場所に戻る通路を見つけなきゃならないんだ
60)“Relax,” said the night man, 「リラックスして」と夜警が言った
61)“We are programmed to receive, 「受け入れるってことはもうプログラミングされてるのさ
62)You can check out anytime you like… 好きなときにいつでも(この世を)チェックアウトできるさ
63)but you can never leave” でも決してここからは逃れられない、、、、、」

 グラスの匂いが満ちた荒れ野の向こうに立つホテルカルフォルニア。ヘロイン中毒で死んだジャニスが、自由の女神のように、灯りを掲げてドアに立つ。天国なのか地獄なのか、1969年からスピリットを失ったままのアメリカで、人は自分自身を囚人にする。さあ、不在証明を持って、ホテルの部屋で宴会だ。
 朦朧とした意識ですごすこのホテルを出て最初の場所にもどろうとしても、決して逃げ出すことはできない。チェックアウトはできるけれど、ここから逃れることはできないのだ。

<つづく>
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2010年09月24日


ぽかぽか春庭「ホテルカリフォルニアの文体」
2010/09/24
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(3)ホテルカリフォルニアの文体

 二重になっている裏の意味を日本語で理解してみると、「ホテル・カリフォルニア」から荒涼としたアメリカの精神風土が見えてくる。
 ダンスと祝宴でにぎやかだけれど、どんなにリラックスしても悪夢のようなホテルからは、逃げ出すことはできない。彼女はボーイたちを「トモダチ」って呼んでるけれど、ボーイたちは彼女を取り巻いているだけ。人は自ら囚人になり心の牢獄に閉じ込められる。そこは安楽安逸の場所だけれど、決して外には出て行けない。ラストチェックアウトとは、この世を出てチェックアウトすること、、、、

 この一種異様な雰囲気が漂うホテルカリフォルニアの不気味な不安な雰囲気がどのようにして生み出されているのか。この詞に表裏の二重の意味があり、比喩表現が多用されていることは、多くの評者が指摘していることです。私はそれを読んで、「へぇ、そういう意味が掛けてあったのか!」と、思いました。

 もうひとつ、この歌詞は、英語の文としては奇妙な文体に感じられる、という批評があり、春庭にとって、「私の専門領域」に関わることなので、詳しく述べておきたい部分なのですが、てっとり早く言ってしまいます。
 ホテルカリフォルニアの英語の詩には、英語のもっとも典型的な統語(文の組み立て)である「動作者プラス意志動詞」という形がでてこないのです。

 英語は「主語+スル動詞(動作動詞)」で文を組み立て、常に動作者・行為者が中心になって対象(他者)に向かって意志的な動作を行っていくことを述べる言語です。一方日本語は、「話題のヌシ」を先に出し、話題のヌシについて、情報を語り「状態がどのように推移したかという状態変化」を説明する。「話題(トピック)+解説(コメント)」を中心に語ることが日本語表現です。

 ワインボトルの栓がなかなか抜けないで手こずったあげくに栓がポンと抜けたとき、「わっ、私は瓶の栓を抜いた!」と、自分の行動を意志他動詞を用いて語るのが英語表現であり、「わっ、栓が抜けた」と、栓を「話題の中心」に設定し、栓がどうなったのか、ということを無意志の自動詞によって状態の変化として語るのが日本語表現です。

 ホテル・カリフォルニアの英語詩をもう一度じっくり眺めてみると、、、、英語文の基本である「私+意志他動詞」という型の文が少ないことに気づく。
 わずかに「俺にワインを持ってきてくれ」という部分が、他者に対して「私」の意志を鮮明にしている文になっています。「 I called up the Captain.」という文には他者に対する働きかけが表現されていて、英語の通常の「意志他動詞」が使われている。しかもこの「ワインが欲しい」という意志は、即座に「1969年以来、ここでは酒を切らしている」と、否定されてしまう。
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 コメントや足跡のご指摘により二ヶ所の訂正をしてあります。
 ひとつは、ホテルカリフォルニアの英語歌詞を見るためにリンクした先が削除になっていたこと。著作権の関係で原詩付きの歌唱をyoutubeに載せると削除対象になるのかと思います。別のリンクを再掲載しました。toukuroさん、ご指摘ありがとう。
 もうひとつは、ホテルカリフォルニアがヒットしたころの大統領「キャプテン・アメリカ」の名を勘違いしてしまったこと。カリフォルニア→カリフォルニア州知事→大統領という連想でレーガンと書いてしまいました。1969年1月に大統領宣誓をして、2期目を全うできずに辞任したのはニクソンでした。訂正しました。chiyoisozakiさんご指摘ありがとう。これからも何かとボケかますことが増えるだろうと思いますが、みなさん、ご教授よろしくお願いします。

<つづく>
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2010年09月25日


ぽかぽか春庭「意志動詞と受身形」
2010/09/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(3)意志動詞と受身形

 日本語ではごく普通の感覚で受け止めることができる冒頭「On a dark desert highway, Cool wind in my hair, 暗い荒れ野のハイウェイ クールな風が髪にふれる」というの部分も、意志動詞中心の英語表現であるなら、「I let my hair stream in wind.私は風に髪をなびかせる」と、「I」の意志と動作を前面に押し出すほうが、自然な英語表現と感じられる。

 日本語は「私」を前面に押し出さず、「自然な状態の推移」を述べることが中心の言語ですから、このホテルカリフォルニアの英語詩を見ても、特に違和感を感じないで受け取るのですが、英語母語話者がこの詩を読んだとき、なんともいえぬ気味の悪さ、自分の存在がどこにもないように感じる不安感が、詩全体にただよっている気分がするという。

 一方、ジャニス・ジョプリンへのオマージュとして書かれたというこの詩の「she」は、常に意志動詞で行動している。
she lit up a candle. she showed me the way. She got the Mercedes Bends. She got a lot of pretty, pretty boys she calls friends.
 作詞者にとて、彼女ジャニスは、意志を持って歌い意志を持って行動し、最後にはヘロイン過剰摂取という死に方まで彼女の生き方を示すものとして選びとった、意志的な女性として描かれている、ということだろう。

 私には英語ネイティブの言語感覚についてきちんと検証を出して語るという能力がないので、この歌を聞くリスナーの違和感というものがどの程度なのか不明だけれども、できる限り意志動詞で行動を述べる英語表現にとって、この詩のように視点人物の見たこと、聞いたことが無意志動詞で描写され、意志動詞の行動が「 I called up the Captain.」ただひとつというは、尋常ではないというのは、わかる。

 意志動詞というのは、動詞を意味によって分類するときのひとつの分け方です。「きのう私は外出先で財布を落とした」とき、私は自分の意志で自らが「財布を落とす」という行為をしたのではない。うっかり気づかないうちに財布は私の身から離れた。このときの「落とす」は、他動詞ですが無意志動詞です。このとき、対象物である財布を主語にして、受け身文を作ることができません。「財布は私によって落とされた」は、日本語として不適切です。
 一方、「ガリレオは、ピサの斜塔からふたつの玉を同時に落とした」というときの「落とす」は、ガリレオが自ら意志を持って落とすという行為をしているので、意志他動詞。この場合は、「重さの異なるふたつの玉がガリレオによってピサの斜塔から落とされた」と、「ふたつの玉」を主語にして受け身(受動態)の文にすることができます。

 日本語は、状態の変化や事態の推移を認識の中心におき、話題を選んでそれを解説するということが表現の中心になります。動作者・行為者の動作行為を述べるよりも、話者が存在している場面全体がどのように推移しているのかを述べます。

「踊る」「記憶する」「鍛える」は意志動詞です。ホテルカリフォルニアの中庭で、ある者は記憶のために踊り、ある者は忘れるために踊るSome dance to remember, Some dance to forget 
 
 以上、ホテルカリフォルニアの歌詞を見て、意志動詞無意志動詞の使用について、気になったことを述べました。
 では、意志動詞で表現しましょう。私は、、、、100歳になっても自分の足で踊るために、今から筋肉鍛えているのよ、、、、 Such a lovely place, Such a lovely place......
 これでホテルカリフォルニアについての話はおしまい。

<おわり>



ペーパームーン 春庭:訳詞
I never feel, a thing is real 本当のことだとは思えない
When I'm away from you あなたから離れていると
Out of your embrace あなたの抱擁がないと
The world's a temporary parking place この世はいっときのコインパーキングみたい
Mmm , mm , mm , mm
A bubble for a minute しゃぼん玉に一瞬だけ
Mm , mm , you smile あなたのほほえみが
The bubble has a rainbow in it 虹になって浮かぶ

Say, it's only a paper moon そうね、それってただの紙の月
Sailing over a cardboard sea 厚紙細工の海を渡ってく
But it wouldn't be make believe  でもこの月も信じられるんじゃない?
If you believed in me もしあなたが私を信じるならば

Yes, it's only a canvas sky ええ、これは書き割りの空
Hanging over a muslin tree モスリン布地の木が広がる
But it wouldn't be make believe だけど空も信じられる
If you believed in me もしあなたが私を信じるならば

Without your love, あなたの愛がないならば
it's a honkey-tonk parade こんなの空騒ぎのパレードよ
Without your love, あなたの愛がないならば
it's a melody played in a penny arcade こんなのゲームセンターのメロディにすぎない

It's a Barnum and Bailey world こんなのバーナムベイリーサーカス団の世界と同じ
Just as phony as it can be できる限りのまやかしだわ
But it wouldn't be make believe でもそれは信じられるに違いない
If you believed in me もしあなたが私を信じるならば

 コパカバーナはサンバの名曲。日本語に翻訳された歌詞も種々ありますが、以下はバリー・マニロウの歌詞を春庭が訳したものです。
http://www.youtube.com/watch?v=R4GxUKYQ258&feature=fvwrel

コパカバーナ(春庭:訳詞)
Her name was Lola, she was a showgirl
彼女の名はローラ、ショウガールだった
with yellow feathers in her hair and a dress cut down to there
黄色い羽を髪につけ大きく胸をあけたドレスをまとい
she would merengue and do the cha-cha
メレンゲやチャチャを踊ったもんさ
and while she tried to be a star
彼女がスターになろうと踊っている間
Tony always tended bar
トニーはいつもバーで酒を作った
across the crowded floor, they worked from 8 til 4
混んだフロアで8時から4時までふたりは働いた
they were young and they had each other
ふたりは若く、たがいに愛し合ってた
who could ask for more?
それ以上望みはなかった
CHORUS:

At the copa (CO!) Copacabana (Copacabana)
コパで コパカバーナで
the hottest spot north of Havana (here)
ハヴァナの北で一番のホットスポット
at the copa (CO!) Copacabana
コパで コパカバーナで
music and passion were always in fashion
音楽と情熱がいつもはやりの店で
At the copa.... they fell in love
コパで、ふたりは恋に落ちた

His name was Rico
彼の名はリコ 
he wore a diamond
ダイアモンドを身につけて
he was escorted to his chair, he saw Lola dancing there
席に通され、ローラのダンスを見た
and when she finished, he called her over
ダンスが終わると彼女を呼び寄せ
but Rico went a bit too far
ちょっとリコはやり過ぎた
Tony sailed across the bar
トニーが飛び出し
and then the punches flew and chairs were smashed in two
パンチが飛び交い椅子は真っ二つ
there was blood and a single gun shot
血が流れ銃声が一つ
but just who shot who?
でも、誰が誰を撃ったのか?
REPEAT CHORUS
At the copa (CO!) Copacabana (Copacabana)
コパの コパカバーナで
the hottest spot north of Havana (here)
ハバナの北で一番ホットなスポット
at the copa (CO!) Copacabana
コパの コパカバーナで
music and passion were always in fashion
音楽と情熱がいつもはやりの店で
At the copa... she lost her love
コパで ローラは恋を失った

Her name is Lola, she was a showgirl,
彼女の名はローラ 彼女はショウガールだった
but that was 30 years ago, when they used to have a show
でもそれは、ここでショーがあった頃30年も前のこと
now it's a disco, but not for Lola,
今ではそこはディスコ、彼女に似合いの場所じゃない
still in dress she used to wear,
例のドレスをまだ着てる
faded feathers in her hair 
色褪せた羽根飾りをつけたまま
she sits there so refined, and drinks herself half-blind
小粋にバーに腰掛けて我が身をなくすまで飲み続ける
she lost her youth and she lost her Tony
若さもトニーも無くしてしまい
now she's lost her mind
今やローラは心も無くした
REPEAT CHORUS

At the copa... don't fall in love
コパで 恋しちゃいけないよ
don't fall in love
恋してはダメ、、、、


日本語の変化 ナマ蕎麦でヤバイ

2010-08-19 21:50:00 | 日本語学
2010/10/08
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>日本語の変化(1)ヤバイ?

 言葉は、発音も文法も語意も変化する。現代標準語では「暖かくなって花が咲く季節」をハルと発音しており「パル」とは発音していない。発音が変化したからです。現代語では係り結びの法則を使って文末を結ばない。文法(統語=ことばの並べ方)が変化したからです。「春ぞ来にける」とは日常会話で言いません。

 多くのことばが古語とは意味が変わっています。平安時代の紫式部は「我がカナシと思う娘」を「私がいとしく思い、愛している娘」という意味で夕顔の巻に書いているけれど、現代語で「あなたって、カナシイ人ね」と人から言われてうれしがる人は稀でしょう。
 これらの変化と同じように、ヤバイの意味も変化しています。

 日本語の未来を憂える:huehukipachinkerさんからコメントをいただきました。日本語について思いをめぐらせてくださること、ありがたく思います。
投稿者:huehukipachinker 2010-10-01 08:29
 「それにしても最近の日本語の誤った使い方にはなんかウンザリしますね。たとえば「ヤバイ」を感動した時に使用する、なんて考えられません。」

 ウンザリするおキモチはよくわかります。最近の若者ことばの変化はスゴイですものね。
 さて、この「すごい」を,感動したときに使用することがありませんか。イチローは10年連続200安打をきろくした、すご~い!白鵬は歴代2位の連勝だ、すごいねぇ。
 しかし、奈良時代以前の人がきいたら、「すごい」を感動したときに使うなんて、なんてでたらめな日本語の使い方だろうと怒り出すでしょう。

 「すごい」の古語「すごし」は、「冷たく、寒く、ぞっとするようなおそろしい感覚」を表すことばでした。それが、「恐ろしく感じるほどすばらしい」という場面でも使われるようになっていきます。平安時代の紫式部は、舞楽を舞っているようすを「なまめかしくすごうおもしろく」と、「すごし」を誉め言葉として使用しています。「すごし」の使い方にバリエーションが与えられたのです。
 
 「ヤバイ」は当初は「危険である」「具合が悪い」「都合が悪い」を意味していました。語源説は複数あるのですが、一説によれば香具師や盗賊の隠語であったそうです。それが、1980年代に若者言葉に取り入れられ、30年の間に誉め言葉に変化していきました。千年前の「すごし」と同じ歴史をたどったのです。1990年代から、若者は「ヤバイ」を誉め言葉にも使いだし、2010年の今では、春庭は学生から「先生の授業、ヤバイよ」と「誉められて」おります。

 「ヤバイ」を「具合が悪い」「危険である」という意味にのみ使っていた世代からは「誉め言葉につかうなんて考えられません」ということになるのですが、このような変化は、生きていることばの当然の変化です。

 生きていることばは変化して当然。しかし、生きて使われなくなった言語は死にます。言葉を死なすにゃ刃物はいらない。「経済的有利さ」を与えてやれば、簡単に他の言語に置き換わってしまいます。日本語が経済的に有利に生活できる言語でなくなれば、百年で死語になります。
 日本語を大切にするには、変化を憂えるのではなく、日本語そのものが死語になることを憂えなければなりません。

 楽天やグーグルは社内公用語を英語にすると発表しています。日本語より英語を身につけた方が「経済的によい暮らし」ができる社会になったとき、親たちは雪崩をうって「我が子には日本語より英語を与えたい」と考え出すでしょう。

 願わくは、ヤバイ日本語であっても、日本語が言語文化として存続していくことを。

<つづく>
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2010年10月09日


ぽかぽか春庭「ナマソバ?」
2010/10/09
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>日本語の変化(2)ナマソバ?

 さて、「ことばは変わり、うつりゆくもの」と自覚している私でも、変化の現場に居合わせて、ああ、これも変わってゆくのかと感慨にふけることも多々あります。

 10月に入って後期授業からの帰り道、途中の駅でふいと寄り道して駅構内の蕎麦屋に入りました。入り口で呼び込みのおばさんが大声で「いらっしゃいませ~、ただいま当店は、ナマソバ大盛り大サービス、おにぎりは麺とセットの場合、一個百円にてご提供しております」と、繰り返し改札前の通路ゆく人に呼びかけています。

 ん?ナマソバ?
 店の看板には「生そば・ほんのり屋」と書いてあります。つい、呼び込み大声のおばさんに「あの~、おたくの店では、キソバを注文できますか?」「キソバ?そういうものはうちの店では出してないです。うちはナマソバです」おばさんはキッパリ言い切りました。で、そのナマソバはどんなもんやらと、店に入って「牡蠣ときのこのナマ蕎麦と明太子おにぎりセット」を食べました。
 ナマソバとは、乾麺を茹でて食べることに対して、打ったまま乾してない麺を茹でて供することを指しているようです。

 生ビール、生卵からの類推で「ナマソバ」と命名する。これは「赤い、青い」に対して「みどりい」「むらさきい」という形容詞を生成する子供の造語と同じです。
 釣ったまま加熱処理を加えてないのが生魚。鶏が産んだままの茹でたりしていないのが生卵。ストッキングを履いていない、加工を加えてない足が生足。素足(スアシ)を駆逐しました。
 そのうち、まだ未婚のおぼこい生娘もナマムスメと読むようになるでしょう。あの~、すでにナマムスメと読んでいる方、キムスメです。念のため。灘の生一本(きいっぽん)、生醤油(きじょうゆ)など、混じりけのない純粋な、元のままが生(き)です。
 生なまと生きは、意味合いも近いので、混淆が起こりやすい語であるといえます。

 生蕎麦(きそば)は、本来100%そば粉だけで打った蕎麦をさしましたが、江戸時代にすでに小麦粉をつなぎに入れた蕎麦のことを生蕎麦と称して客に出す店もあり、生蕎麦と小麦粉を使った蕎麦の区別がつかなくなってきていました。
 現代では、乾麺とは異なるという意味での「ナマ」の蕎麦切りを茹でたものをナマ蕎麦と呼ぶようになり、「生蕎麦」をナマソバと読むようになっています。このように、言葉は変化していく。キソバが店から絶滅したのに、生蕎麦は「ナマソバ」と読み方を変えて生き残った。

 西船橋ほんのり屋の呼び込みおばさんが、きっぱりと「うちの蕎麦屋にはキソバはありません。ナマソバを扱っています」と、説明したときは、ああ、蕎麦屋にキソバがなくなっていくのも時代なのだろうと感慨深いものがありました。小麦粉のつなぎを含めないそば粉だけの純粋な混じりけのない生蕎麦(キソバ)というものがこの世からなくなれば、キソバという語も失われ消えてゆくのです。

 「日本語は滅びるのか」と憂えるコラムを書いたりすると、春庭をなにやらの国粋主義者と勘違いなさるムキもいらっしゃる。
 別段私は、「ヤマト民族のタマシイがうんぬん」と主張しているのではありませんので、くれぐれも誤解なきように。
 第一、私自身はヤマト民族なんていう単体ではなく、太平洋からも大陸からもこのちっぽけな島に押し寄せてきて吹きだまった多数の民族の混血のなれのはてだと思っています。言語で言うと、日本語はクレオール言語(いくつかの言語が混淆してできあがったミックス言語)であろうと推察する論に賛成しております。

 日本語が滅びたら困るのは、ニホン語教師、おまんまの食い上げになるじゃありませんか。まあ、私が生きている間は日本語教える商売も成り立っているでしょうけど、キセル直しのラオ屋が商売できなくなったのも、キセルでたばこを吸う人がいなくなったせいだし、この先町からタバコ屋はどんどん減っていくだろうし。さて、ニッポニアニッポン語教師、生き残れるか。

<つづく>
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2010年10月10日


ぽかぽか春庭「死語は変化しない」
2010/10/10
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>日本語の変化(3)死語は変化しない

 春庭が「日本語言語文化」の衰退を憂えているというと、日本語学や日本語教育に携わる者は「正しい日本語」「美しい日本語」の信奉者であり、「乱れた日本語」「変わりゆく日本語」を嘆いているのだ、と勘違いされるかもしれません。春庭は「乱れた日本語」を憂いてなどおりません。言葉は乱れることが常態だからです。「正しい日本語」というのは、現在、規範的日本語として通用しているというだけのもので、100年前の正しい日本語は、現在では古くさい日本語であるし、現在の乱れた日本語は100年後の正しい日本語です。

 言語学に携わる者の多くは、「変化し、どんどん移り変わっていくのが生きていることばである」と思っています。ことばは変化するのが当然であって、変化しないのはラテン語のような死語だけです。ことばは変化するのが問題なのではなくて、死んで使われなくなってしまうことが問題なのです。
 ラテン語は、死語となったのちも、キリスト教の宗教用語としては生き延び、かろうじて書き言葉としては現在もバチカン市国やイギリスの教育に存続しています。

 しかし、もしも日本語を「母語話者」として話す人がいなくなったとき、「日本語言語文化学者」や「日本語学者」が研究の対象とする以外には顧みられなくなり、日常生活のことばとしては完全な死語となることでしょう。
 死語にするのは簡単です。三世代百年で日本語は日本社会から消すことができます。

 より有利な職業を持つには、日本語より英語が使えるほうがよいと、第一世代が考えたとします。我が子がよい仕事に就けるように一生懸命英語教育を子供に受けさせます。英語が堪能になった第二世代は、さらに子供によい教育と仕事を与えようとして、家庭内では日本語を使わず、生まれた赤ん坊には英語をつかって話しかけることとし、赤ん坊は英語を話す家庭で育ちます。その子供が大人になれば、母語としての日本語は滅びているのです。口頭言語文化としては数千年、書き言葉としても千五百年の歴史をもつ言語でもたった百年で死語になります。

 今期、私の日本語学の授業をとっている日本人学生のひとり、2年間休学してロンドンとマルタ島(地中海の島国で公用語は英語)に語学留学してきました。3年生に復帰して就職活動をはじめていますが、今年も就職戦線は厳しいと言っています。
 今の就活、学生たち苦戦しています。「グループ面接でいきなり英語で自己紹介しろと言われて、他の学生がすらすら自己紹介するのに圧倒されて、名前しか言えなかった、、、、、そのあと、英語ディベートがあって、結局落ちました」と、がっくりしている学生もいます。

 彼らが一様に感じている「英語もっと勉強しておけばよかった」という後悔が、おそらく日本語が滅亡する第一歩。日本語学を教える者としては、「英語も勉強していいけど、日本語の基礎もしっかりね」と思いますけれど、,,,
 日本語の将来をもう一度言っておくと、「この子の将来を考えると、日本語より英語を話せたほうが、豊かな生活がおくれる」と、親世代が思い始めたら、日本語は滅びの一歩を踏み出すことになります。

<つづく>
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2010年10月11日


ぽかぽか春庭「消える言語生き残る言語」
2010/10/11
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>日本語の変化(4)消える言語生き残る言語

 10月08日付けの夕刊に、インドの北東部アルナチャルプラデシュ州で、コロ語という話者が800人ほどの少数民族言語によって話されていることが「新発見」されたというニュースが出ていました。チベット・ビルマ語のなかのひとつの言葉ですが、周囲の言語とは発音や語彙のことなる未知の言語。インド中国の国境紛争が起きている地域なので言語学者が入り込めなかった地域であったために、今まで知られてこなかったのだそうです。話者800人のうち、日常生活でコロ語を使っているのは年寄りばかり、若者は生活に有利な言語(おそらくはインドの公用語である英語やヒンディ語)を日常生活で使うようになっている。コロ語もいずれ絶滅してしまうであろうと危惧されます。

 世界に5000~7000種類あった固有言語のうち、すでに2000語~3000語は「最後の母語話者がいなくなった」という絶滅言語です。(言語の数え方に幅があるのは、方言の数え方の差によります。春庭は沖縄方言を日本語のひとつと位置づけていますが、標準語の母音がアイウエオの5つであるのに、沖縄方言の母音がアイウの3つであることなどから、日本語とは別に独立した言語と数える言語学者もいます。)

 日本では、アイヌ語はすでに母語話者がひとりもいなくなり、アイヌ語教室の中で学習する言語になっています。
 しかし、明治時代、ブロニスワフ・ピウスツキーが樺太アイヌのユーカラを蝋管というレコードの原型のようなもので録音して記録が残されました。(ブロニスワフ・ピウスツキーは、ポーランドを政治犯として追われて樺太に流刑になった人です。)また、お雇い外国人のチェンバレンがアイヌ語研究者となり記録を残したこと、知里幸惠ちりゆきえ(1903~1922)がわずか19年の生涯のうち『アイヌ神謡集』などを翻訳出版したことにより、アイヌ語はかろうじて記録に残されました。

 知里幸惠の弟、知里真志保(1909-1961)がアイヌ人として初めて北海道大学教授となってから、ようやく二人目のアイヌ人北海道大学教官が誕生しました。
 2010年4月1日 付けで、白老・アイヌ民族博物館の学芸員だった北原次郎太さん(34)が、北大アイヌ・先住民研究センター准教授に就任しました。アイヌ文化アイヌ語研究はこれからも発展していくことでしょう。ただし、アイヌ語が母語(家庭のなかで親から子へ伝わる言語)として復活するかはまだわかりません。
 母語として社会の中で用いられることがなくなり、教室の中で教えられる言語であるなら、アイヌ語はこれから先変化することはなく、固定化されます。

 日本語を「現在の正しい日本語」として固定したければ、方法があります。日本語の母語話者がいなくなり、教室での「日本語学習」以外に日本語を覚える方法がないという社会になれば、一定の形の日本語が変化せずに固定されます。

 ネイティブアメリカン(アメリカインディアン)を迫害してきたアメリカ。公民権運動とともに、インディアンの各部族言語(ナヴァホ語ホピ語など)によって教育を受ける権利など、固有言語使用の権利を認めようという法的な整備が勧められてきた時期もあったのですが、移民の増加により英語公用語化を望む方が多数派となった結果、すでに、ほとんどのインディアンの血をひく家庭のなかでも母語は英語になっています。混血化がすすんだ結果でもありますが、アメリカでの生活では、英語を話したほうが圧倒的に経済的な有利さが得られますから、あえて子供を固有言語で育てようとする人がいなくなったからです。

<つづく>
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2010年10月12日


ぽかぽか春庭「生きている日本語」
2010/10/12
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>日本語の変化(5)生きている日本語

 もし、日本語が母語として使われ続けるなら、これから先、生きたことばとしてどんどん変化を続けていくでしょう。奈良時代平安時代からみると大きく変化した日本語を私たちが話しているのと同じく、千年後の日本語は現在の口語とは大きく異なっているはずです。

 平安時代に生きた清少納言が「最近の言葉遣いはなってない」と枕草子に書き留めたように、私たちは「ちかごろのワカゾーは、こんな間違った日本語をつかいおって」と、嘆きつつ、日本語の変化を見ていくことになります。間違っていると感じるのは、旧世代に属するからです。規範的日本語を「正しいことば」として使用しているのが旧世代、新しい語の使用法を広め、変化を受け入れるのが新世代です。この世代間軋轢は古代から現代までいつの時代でもどこの地域でも起きてきたことです。

 現在定着しつつあり、20年後には辞書にも搭載されそうな文法上の変化のひとつ。「違う」の「テ」接続が、「ちがって」ではなく、「ちがくて」になっています。「ワカゾーの日本語は旧世代とは違くて、変化し続けている」
 私が見聞した範囲では、大学生世代の80%は「ちがくて」派です。「私はみんなとちがくて、人前で話すのが苦手なのでぇ~」などと自己紹介する学生に対して、「ちがくては、ちがっていて、正しくは違うのテ形はちがってなんですけれどぉ」と、一応は言ってみるのですが、すでに若者に定着しているこの変化は止めようがありません。

 30~40年前には「日本語の乱れ」の象徴であった一段変化動詞のラ抜きの可能形「見れる」「でれる」「食べれる」は、辞書搭載も行われていて、若者世代にとってすでに「ごくフツーの日本語」になっています。永井愛の『ラ抜きの殺意』を芝居で見ても、ら抜き可能形の使用をめぐって殺意まで持つということが、若い世代にはわかってもらえなくなっています。「ら抜き」が「正しくない日本語」という意識がまったくないからです。

 現在では「僕」は男性の自称に使われており、昔のような「あなたさまの召使い」という意味は失われています。今では、「わが家のボクはネ」と話したとき「わが家で召し使っているシモベ(使用人)」という意味では用いない。「わが家の男子(息子だったり夫だったりしますが)」くらいの意味でしょう。

 現在では「僕」というシモジモの自称を、一人前の男が使いおって嘆かわしい、と思われることはありません。「僕」という語自体は古くから存在しましたが、男性自称として盛んに使われるようになったのは、幕末の志士たちからだと語彙史研究者は説明しています。
百年もたてば、ヤバイも高級な日本語と思われるようになるでしょう。果たして、百年後に「ナマソバ」は生き残っているでしょうか。おそらくキムスメという語は絶滅しているでしょう。「結婚前に処女であること」が絶対的な価値を持っていた社会の価値観が消えたのですから、「キムスメ」という語が社会の中で使われることはないからです。

 生蕎麦キソバがナマソバに変化しても、ヤバイが誉め言葉に変化しても、変化しながら日本語は生きている。
 憂えるべきは、「母語としての日本語」が日本社会から消えることです。私がいつまでも留学生に日本語を、日本人学生に日本語学を教えてショーバイできるように、皆様、「生きた日本語」を大切になさりつつ、日本語母語社会を生き抜いていかれますように。
 
<おわり>

春庭の漢字授業-語彙教育としての漢字教育

2010-08-17 14:43:00 | 日本語教育
2010/10/13
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(1)文字表記

後期授業がはじまり、日本人学部生のための日本語教師養成コースの「現代日本語学演習」や「日本語教育研究」の講義を行っています。半期90分授業を演習は15回、研究は30回の講義。日本語教育コースであるから、教育面にも触れますが、何よりも日本語についてさまざまな面から「気づき」をしてほしいというのが、私の教育法です。

 「ひらがな五十音」を見ても、漢字をみても、留学生の誤用文を見ても、日本語についての新たな発見ができるはず。今まで知っていると思い込んでいる日本語について、実はまだまだ知らないことが山のようにあり、留学生に日本語を教えるためには、自分自身の日本語力を高めていくことが必要だということに気づいてほしいというのが、私の授業のの目的です。

 前回は、ローマ字書きについての復習。みな、小学生のとき文科省式のローマ字を習ってきたのに、パスポートをとるときは外務省式のローマ字表記で名前を書いていることにまったく気づいていませんでした。そこでヘボン式ローマ字表記を復習しました。私の授業方法は、ノートにサシスセソ、タチツテト、ザジズデド、ジャジジュジェジョなどをかかせて、隣の人と異同を確かめ合う、という方法。ただ「ヘボン式とはこのような書き方をします」と解説するのではなく、自分たちで表記を確かめ合うということで二つの書き方があることを納得させます。

 毎回書かせている学生の授業記録(今回からメール送付にしました)による感想。
 A:訓令式(文部科学省)とヘボン式(外務省)の違いについて、確かに苗字で福や深などがつく人はHではなくFを使っていました。サ行をローマ字で書いてみると確かに若干の違いがあるということがとても不思議でした。
 B:私はヘボン式という言葉を初めて聞いたし、どういったものかの予測もできなかったので、それが一番印象的でした。ヘボン式というのはローマ字のパスポートで使うような外務省の表記法で発音が重視された表記。(ta ti tu te to)それとは別に訓令式というものがあって、これは学校の授業で習うような文科省の表記法。(講師訂正:ヘボン式と訓令式の表記をまったく逆にとらえています。訓令式が(ta ti tu te to)、ヘボン式が(ta chi tsu te to)です。

 学生にノート記録を提出させることによって、学生の誤解も知ることができ、私にとっての授業記録にもなりますし、メール送付の場合、転載も簡単なので授業ノートサイトを作って、学生がクラスメートのノートを覗けるようにしたところ、互いに参考にしあえるという効果もありました。

 今回は、これまで何度も同じテーマで書いてきた「留学生のための漢字教育」について載せます。何度も同じ話題を書いてきているので、春庭コラムを続けて読んでくださっている方にとっては、「また、あの話だよ」と思うことばかりなのですが、教師は同じテーマでも手をかえ品を変え、学生の顔ぶれに合わせてアレンジしているのです。これから半月間12回続けてUPしますが、授業ではこの12回分を90分授業2コマほどで「日本語の文字表記、文字表記教育漢字教育」として解説します。

 表意文字の漢字について復習しておきましょう。
 中国の漢字は、世界の文字のなかで少数派。発音を表す音素文字(アルファベットはそのひとつ)でも音節文字(ひらがなカタカナはこれ)でもありません。文字ひとつひとつが意味を表す「表意文字」です。発音と、語の意味内容を同時に表しています。

 2007年に中国へ赴任したときだったか、2009年のことだったか忘れましたが、中国のお札に、漢字とともにモンゴル文字、ウイグル文字、チベット文字が併記されていることを書きました。中国には、54の少数民族がいますから、漢字以外の文字もさまざまにあります。最大の中心民族である漢族の文字は、もちろん「漢字」。

 単語の数は無数・無限大ですから、使用する文字数は、世界で一番多い。現代中国語では約6千字の組み合わせで、無限大の単語を表現しています。
 日常生活で使用する5000~6000字のほか、漢字文字数、5万字もあります。康熙字典(こうきじてん)には49,030字を記載。
 現代中国語漢字大辞典では、簡体字も加えて、約5万5千字の文字が記載されています。
 学生たちは、漢字の数が5万あるということも「初めて知った」と言います。

<つづく>
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2010年10月15日


ぽかぽか春庭「絵文字から発音表記へ」
2010/10/15
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(2)絵文字から発音表記へ

 2005年から小学校のローマ字指導は、ヘボン式も取り入れた新訓令式(日本式ローマ字にヘボン式も加えたもの)を教えるようになりました。ただ、現在の大学生は旧訓令式でローマ字教育を受けてきたので、ヘボン式との差異を教えています。日本語の文字の表記は音節を元にしているので、「し」という音節は「si」と書く、という指導でよいのですが、英語発音重視が強まった結果、「し」の発音には「si」より「shi」のほうがよい、ということになったのですが、これは英語を重視した表記法であるということです。スペイン語では「ju」は日本語の「フ」に近い発音ですが、「フ」を表記するとき、スペイン語方式の「ju」ではなく、英語方式の「fu」が採用されています。旧訓令式では「hu」と表記。表記と発音の問題はなかなか深い問題があるのです。

 漢字は、文字のひとつひとつが意味を持っていることが大切な要素になっています。地方の方言によって同じ漢字の姓名も発音が異なる。でも、同じ漢字の姓なら、「先祖は同族かもしれない」と感じるみたいです。互いに異なる民族または国家でも、使用する文字が同一であることをもって「同種同文」、同じ文化を持つと感じるのが中華思想のひとつ。
 中国語の方言、発音が異なっても、使用する文字は同じ漢字です。
 漢族にとって「漢字を使用している民族は同族」という意識があります。

 中国の広い大地。発音の差が大きい地方でも、文字の読み書きができる人を相手にするのであれば、漢字表記すれば、だいたいの意味がわかります。そのため、中国の各地放送局が作るドラマやニュースでは、ほとんどの場合、字幕として漢字表記が出ています。
 漢字は、中国語の方言を話す人たちにとって、「全中国共通語」を知ることでもあります。中国語は、同じ漢族のことばでも方言差が大きくて、方言の通訳が必要です。
 それぞれ別の発音でも、表記すれば何を言っているか、通訳がなくてもわかります。筆談ができるからです。

 日本語にとっても、漢字は意味概念を一目で理解するのに適した表記です.。「山」は三つの頂を持つ山塊を表した絵から作られました。日本語はその文字をとりいれて、元の古代中国の発音「サン」と同じ意味を表す日本語の「やま」の両方を使うことにしました。現代標準中国語の発音では「山シャン」という発音です。「行」という文字は、中国の時代や地域によって異なっていた発音を、それぞれ取り入れました。奈良時代以前に取り入れた古代中国の発音は「ギョウ」でした。この発音を呉音といいます。修行、行列など。平安初期ころに取り入れた発音は「コウ」です。旅行、行軍など。この発音を「漢音」といいます。鎌倉室町ころに取り入れた発音は「アン」です。行灯、行脚など。現代標準中国語の発音では「シン」です。発音は別々ですが、意味は「目的方向へ向かって進んでいく」で、足を表した形がふたつ並んでいる絵が元になっています。

 一目見てすぐに意味を伝えることができるもの、それは「絵」です。
 魚の絵を描けば、それが少々下手くそな絵であっても、魚であることは理解できるでしょう。花の絵をかけば、花を描いたのだと、たいていはわかります。

 古代エジプトのヒエログリフをはじめ、世界で文字が最初に作られたとき、絵文字→象形文字がほとんどでした。ヒエログリフは、時代が進むと「表音文字」と同じ使われ方もされるようになっていき、アルファベットなどと同じ「音を表す文字」として、王の名前などの発音を示すことも出来ました。

<つづく>
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2010年10月16日


ぽかぽか春庭「絵文字から表語文字へ」
2010/10/16
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(3)絵文字から表語文字へ

 絵文字(表意文字)としてのヒエログリフも、アルファベットと同じ表音文字としてのヒエログリフも、どちらも、紀元後4世紀には、だれも読めなくなってしまいました。(解読は19世紀のシャンポリオンによる)
 サンシャイン60ビルにある古代オリエント博物館に、「ヒエログリフで名前をかこう」というコーナーがあります。私も、自分の名前を書いてみたことがありました。ハングルで自分の名前の発音が、ひらがなとまったく同じには書けないように、ヒエログリフでも同じ発音にはなりません。
 しかし、近い音をさがして絵文字を組み合わせると、名前がつづれます。ヒエログリフを日本語の五十音表にあてはめた表を掲載しているサイト
http://www.mojix.net/mojio/hiero/jkw.html#alphabet
「ヒエログリフで名前を書こう」というサイト。
http://www.isop.co.jp/main/hiero/hieroindex.htm

 ヒエログリフで「ふくろうの絵」は「m」「ム」の音を表しています。
「コブラの絵」は、[dj]の発音を表す。日本語のカナだと少し音が違うけれど「ジェ」「ジュ」に聞こえる音。

 2010年6月、友人のK子さんがエジプトトルコ旅行をしてきて、パピルスに書かれたヒエログリフと、胸にヒエログリフの絵がついているTシャツをおみやげにくれました。さっそく後期の日本語学演習のクラスで披露しました。ついでに「古代文字」のいろいろ、まだ解読されていないマヤ文字とか、解読されたくさび形文字とか、現代の若者にも人気の中国の少数民族の文字であるトンパ文字を見せました。

 だれも読めなくなってしまったエジプトのヒエログリフ。
 ヒエログリフなどに比べて、漢字が独自である点は、絵が意味を表し、ひとつの単語や意味形態素として、数千年も使われ続けていることです。
 山は、三つの頂がある山の絵からできており、数千年の間、ずっと「山」という意味を表してきました。
 水の流れを三本の線で表した「川」は、ずっと、川の意味で表示されてきました。

 漢字はひとつの文字がひとつの単語を表す表語文字です。
 「花」は単語(名詞)をあらわし、「春になると草や木に見られる、美しい色をした植物の繁殖器官」をさししめす。 漢字形態素(部首)としては「草冠+化」から出来ています。草冠は植物であるという意味を表し、化は発音を表しています。
 形態素というのは、言語学で、音や意味の最小単位をあらわすものです。漢字の形態素は、部首として分けることができます。漢字の形態素とはどのようなものでしょうか。

 たとえば、意味の形態素として、「攵」があります。部首としての日本語での呼び方は「ノブン」で、旁(ツクリ)の形態素「攴=ボクヅクリ・ボクニョウ」の省略形です。
 改、攻、政、放など、漢字の右側に使われます。
 「攵」だけでは単独の漢字として用いられることはありません。ツクリになったとき、「し向ける、その行為動作を強いる」という意味を表し、「動詞」の記号となります。元の絵は鞭を手に持って打っている絵でした。
 「攵」が右側にある文字は、「動詞」としての機能をもつ、ということを表しています。
 このように、音声を表さず、意味内容だけ表す文字もあるし、形声文字のように、「音声」を与えるために使われる文字もある。

<つづく>
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2010年10月17日


ぽかぽか春庭「音と意味の組み合わせ」
2010/10/17
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(5)音と意味の組み合わせ

 虹は「虫=蛇・竜」が「工=ものさし」を用いて工作してできたものです。「工」はコウと発音します。「工」を発音を表す記号として形声文字が作られます。
 「コウ」と発音する「大きな川」を表すことばがありました。このことばを文字にしたいとき、「コウ」という発音の文字として「工」を選び、意味形態素のとして「水= シ (部首の名前としてはサンズイ)」を加えれば、「江」。「長江」などでは、広くて大きな川、の意味。
 日本語では大きな川の河口や「入り江」を表し「江戸」「江ノ島」「江口」などに用いられます。

 象形文字、会意文字、形声文字など、漢字の成り立ちには6種類があり、音を表す文字の用法も開発されていたのに、漢字は、語の意味を表す文字=表語文字としてそのまま数千年も使われてきました。
 日本語も、この、「意味を表す文字」をとりいれ、さらに音を表す文字「仮名」を作り上げました。

 漢字は、どこで作られた文字ですか?と、質問すると、大学生たち、みな「中国」と答えます。はい、その通り。小学生でも知っています。
 でも、自分たちが使っている文字が、隣の国で作られた文字だということを意識しながら、国語に必要な文字として使いこなしている民族は、世界の中では少数派です。

 お隣韓国では、15世紀に国王の世宗が学者に命じて、自国語にふさわしい表記文字ハングルを完成しました。かって使用していた漢字は、氏名地名の表記などごく一部に使っているだけです。

 ベトナムもかっては漢字を用いていましたが、今は、アルファベット使用になりました。現在アルファベットを使用しているベトナムの小学生は、アルファベットがどこで作られたかなどということは、気にもしていないし、教わることもないでしょう。
 アメリカやイギリスの小学生も同じこと。文字表記論の学者でもなければ、アルファベットの起源について、詳しく知る人はいないでしょう。

 でも、日本の小学生は、中国から来た漢字、中国由来の漢語であることを意識しつつ文字を教わっていく。
 中国語読み(音よみ)と日本語読み(訓よみ)を併用しているためです。

 日本語母語話者は、自分たちの読み書きする文字が外国からもたらされたことを意識しながら、母語の読み書きに自然に使用している、という世界に例のない文字使用者なのです。
 モンゴルは独立以来、モンゴル語を書き表すのにキリル(ロシア)アルファベット文字を借用していました。しかし、キリル文字を使用する場合、モンゴル文字はまったく使用せず、数種類の文字を混ぜて使うことはしていない。

 日本語では、漢字とひらがなカタカナを交ぜ書きにしています。この数種類の文字を混ぜて使うということは、日本語の特徴のひとつです。
 日本語表記に合っている表記方法ですが、非漢字圏の学習者にとっては、「日本語の習得が困難」と思わせてしまう原因のひとつです。

 逆に、はじめて知った表意文字のおもしろさに、「漢字オタク」になる留学生も多く、薔薇や憂鬱がそらで書ける、という程度ではなく、漢字文化のさまざまな面に興味を持つようになります。

<つづく>
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2010年10月19日


ぽかぽか春庭「ベトナムも韓国も「公園」は「公園」」
2010/10/19
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(6)ベトナムも韓国も「公園」は「公園」

 先週学生に披露したヒエログリフやトンパ文字については、学生からの授業コメントで「始めて見て興味がもてた」「トンパ文字は絵そのもので、文字とは思えない」などの反応があり、「世界の文字」に関心を広げることができたこと、よかったです。
 漢字は東アジアに広がり、文化圏を形成しました。漢字文化圏の広がりを知るために、中国、韓国、ベトナム、日本の単語を比べてみるとおもしろいです。
 現在、表記の上で韓国はハングル表記、ベトナムはアルファベット表記になっていますが、語源の同じものは多い。

 公園(コウエン)を表すことば。中国語ゴンユァン(gongyuan)、韓国語コンウォン、ベトナム語ゴンヴィエン(gong vien)。
 音だけ聞くと、別々の語みたいですけれど、漢字で書き表せば、全部「公園」です。発音の違いは、それぞれの「ナマリ」と思えばよろしい。

 「安全」「言論」「政治」「法律」など、数多くの語が、ベトナム韓国中国日本で、共通の「漢字語・漢語由来の語」として、それぞれの国語でつかわれているのです。(中国起源の漢字語と、日本が明治期に作った漢字語の両方がある)

 漢字文化圏とひとくくりにはできないことは承知の上で、でも、共通の語がたくさんあることを、文化の広がりと分かち合いのために生かすことはできないかと考えています。

 以下、春庭の日本語教育概論の中の授業の一部として、日本人学生に「漢字の指導方法」として講義した記録です。毎年同じような講義をしていますが、毎年学生の人数や顔ぶれに合わせてアレンジはしているのです。留学生への漢字指導部分と、日本人学生への「日本語教育概論・日本語教授法」の授業がいりまじった記録になっていて、わかりにくい部分があるかもしれません。

 留学生対象の授業は、基本的には、日本語直接法(日本語だけで日本語を教える方法)ですが、一部分、英語を媒介語にしています。折衷法という教え方です。
 非漢字圏の日本語学習者への漢字指導の一例の紹介です。

 非漢字圏の日本語学習者用の漢字教科書のほとんどは、象形文字から指導を始めます。10月15日金曜日は、非漢字圏学生、モンゴル、レバノン、ミャンマーの3人への第一回目の漢字授業でした。象形文字から導入しました。
 山の形から「山」という漢字ができた、水の流れの形から「川」ができた、と指導をはじめます。
 このやり方は、漢字に興味を持たせるために、とても効果的です。

 しかし、このため、絵文字には興味を示しても、形声文字になると、興味を失ってしまう留学生もでてきます。

 私は、象形文字の説明の前に、漢字はパーツ(ラディカルズradicals)で出来ているという説明をします。漢字の大部分は形声文字だからです。
 ほとんどの漢字は、音声を表すパーツと、意味を表すパーツで組み立ててできていることを教えます。

<つづく>
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2010年10月20日


ぽかぽか春庭「花の指導」
2010/10/20
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(6)花の指導

 形声文字であっても、できるだけ会意文字のように、パーツに意味を与えて、覚えやすくします。「花」という文字を例にとって、非漢字圏留学生への漢字指導を考えましょう。
 まず、漢字に興味と不安を持っている非漢字圏留学生に「漢字は、ことばの意味を表している文字です。形は複雑なものが多いですが、組み合わせのパーツを覚えると覚えやすくなりますから、大丈夫。心配しないでね」と、不安を取り除きます。

 漢字は、発音と意味を同時に表します。「花」は、三つの部分で出来ています。「サ」と「イ」と「ヒ」です。(草冠が表記できないのでネットではサで代用)
 分解して、並べたサ、イ、ヒ、を「さ、い、ひ」と声を出して読む留学生も出てくる。カタカナは既習なので。

 みなさんは、カタカナを覚えましたね。形を覚えるために、カタカナの「サとイとヒ」の組み合わせ、と覚えてもいいです。でも、漢字の形は、カタカナとは少し違います。イは、カタカナのイじゃありません。
 じゃ、まず「花」の発音から覚えましょう。

1)発音指導 音読みchainese readingは「カ」、訓読みjapanese readingは「はな」
 花の絵をホワイトボードに貼っておき、「花」とゆっくり大きく書く。
 現代中国語では、「花」は、「hua(-)」という発音です。
 現代日本語の音読みchinese readingは、古代中国語の発音です。音読みは「カ」という発音です。化は発音記号と思ってください。漢字の大部分は、意味と発音記号を組み合わせた文字です。

 日本語でflowerは「はな」ですね。訓読みjapanese readingは「はな」です。
 「花」には、二つの読み方があります。訓読み「はな」、音読み「カ」です。読み方はちがっているけれど、意味は同じです。

 「花」は発音を示し、同時に「はな・flower」という「意味meaning」を表しています。
 「化=カ」という発音と、「草の仲間、植物」という「草冠grass top」を組み合わせた文字です。

<つづく>
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2010年10月22日


ぽかぽか春庭「草からチェンジ!で花になる」
2010/10/22
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(7)草からチェンジ!で花になる

2)字形の説明。
 「人」は、足を広げて立っている姿を表します。それを左側に片寄せたのが人偏の「イ」。
 「ヒ」は、人が横向きになった姿を表しています。腰を下ろして足を前に投げ出し、手を前に出した姿を横から見た形です。
 立っていた人が、向きを変えて腰をおろすところを表す、つまり、「変化した」ことを表すのが「化」。change、 chemistry、の意味です。(漢字の形の成立には諸説があり、化学の化にも別説がありますが、ここでは留学生のために形の記憶を定着させやすい説を採用しています)

 春庭の授業は、先生が教室を動き回る。「花」の授業でも、立ったり座ったりします。
 黒板に、頭をつけた人の絵を描いておきます。「人」の字のてっぺんに丸い顔を描き、下には靴の絵をくっつけておきます。足を広げて留学生の前に立ちます。手は体側に。椅子をそばに置いておきます。
 「はい、先生を見てください。今、私は立っています。人という文字の形です」
 次に、立っている姿から、「チェンジ!」と言って、横に向きを変えて椅子に座ります。
 横から見て「ヒ」の形になるよう、手と足を前にのばします。

 「はい、チェンジしました。化はチェンジ!ですよ。」
 「ヒ」がカタカナのヒではなく、人が横向きになった姿だと、インプットします。ヒのトップに小さな○を書いて目鼻をつけておき、上の横棒の端に5本の指、下の横棒の先に靴の形を描いておくと、人が横向きになったようすが留学生にもわかります。

 植物を表す草冠。植物は、葉からつぼみをもち、チェンジすると花になります。
 草が変化して咲いたところを表したのが「花」。
 (実際の「花」という文字の成立は、化学の「化」の字は発音を表しているだけですが、留学生の記憶のための説明です)

 このように漢字の成り立ちを説明すると、非漢字圏の留学生も興味を持ちます。
 次に書き順の指導。漢字のストローク基本は、左から右へ。上から下へ。
 でも、タイ文字やアラビア文字では、下から上へ書く文字が多いので、どうしても母語の文字のクセがぬけず、下から上へ線を書き上げる人もいる。そして、アラビア文字は右から左へ書くので、左から右へ、上から下への書き順は逆に感じるのです。

 昔は、画数から読み方を調べる方法が「漢字の読みを知る」もっとも重要な方法だったので、書き順と画数を間違えるとその後の漢字学習にさしさわりが出ました。
 でも、今は、漢字の読みを調べたいとき、画面にペンで直接字形をいいかげんにでも書き込めば、読みがわかるようになっています。最近は、よほど字形が悪くなる場合をのぞいて、以前ほど筆順をやかましくいわなくなっています。

 ただ、留学生には、字形のちがいとフォントの違いの区別がわかりません。命令の「令」の字の場合、教科書体「令」では下の部分は「マ」になりますが、同じ文字です。でも、「柿かき」と「杮葺こけらぶき、柿落とし」の「こけら」の文字は、違う字です。「柿」の市は一番上に「点」を書いて「なべぶた」を書いてから「巾」を書きますが、「こけら」は「一」を書いてから「冂」を書き、そのあと、上から一気に「|」を書く、そんな微妙な字形の違いを知ってびっくりしたことがありました。
 現在の指導では「こけら」を教えることはないので、今のところ問題ありませんので、「大」と「犬」は点があるかないかで意味が違いますよ、一点一画が大切です、と教えています。

<つづく>
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2010年10月23日


ぽかぽか春庭「斧で立ち木を切ると新しい薪ができる」
2010/10/23
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(8)斧で立ち木を切ると新しい薪ができる

 最後に、「花」使うことばの使い方指導。音読みの熟語「花びん(花瓶)」「花だん(花壇)」
 訓読みの熟語「花火」の説明のついでに、花火大会について「日本の花火はとてもきれいです。花火大会は、無料です」と夏休みの活動として、おすすめします。
 「お花見」というと、桜を見ることになる、という日本文化についての説明もして、「春にはお花見してくださいね」と、おすすめ。

 日本人も、なぜ「花」が「花」という字形なのか、知らないで書いている人もいるのだけれど、これは「なんでもいいから漢字おぼえろ」と、先生に言われて、ひと文字一文字やみくもに書いて覚えてきたから。
 私、こどものころ、「花は、サイヒ」とおぼえました。

 「花」の説明で漢字に興味を持ってもらえた次の時間には、象形文字の導入をします。
 「山」「川」「門」「車」「雨」「火」など、絵からできた文字は、見た目にわかりやすく、学生も興味を持って覚えます。絵と文字を並べたり、絵からだんだん文字に変化している過程を順に並べたカードを示します。

 「花」のイントロダクションで、形声文字について「草冠と発音のカ(化)の組み合わせ」を導入したあとは、形声文字も抵抗なく漢字学習に取り組んでもらえます。

 以下のリンクは、英語による「漢字の成り立ち別分類」のサイト
http://www.csse.monash.edu.au/~jwb/kanjitypes.html

 会意文字でも、形声文字でも、できるだけ印象に残るように、形の説明をします。
 会意文字「新」の説明。
 「立」「木」「斤」を最初に分解して教える。木の絵、人が立っている絵、斧の絵。
 「立」は、平らな字面「一」の上に人が立っている絵を描く。木も象形文字で絵にできる。斤の元の形は木を切る「おの」です。「オノ=ax」

 立っている木の絵を、斧で断ち切る動作をして「cut!」と言う。切り株の絵を描き、切り株の面をさして「New!」と言う。

 「新」は、立つ、木、オノ三つの意味を組み合わせて、立ち木を切って新しい薪を作るという会意によって「あたらしい」という意味の漢字が成り立っています。

 日本酒の酒という文字。ヘンは、水や液体を表す「さんずい」です。ツクリは、酉。
 酉の形の説明。
 酒瓶の絵を描きます。酉は、ビンの下に液体がたまっている絵からできた文字です。

 漢字はおもしろいけれど、非漢字圏の日本語学習者にとって覚えるのはたいへんです。
 「たいへんですが、がんばってね。」と励まします。

<つづく>
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2010年10月24日



春庭の漢字授業2-語彙教育としての漢字教育

2010-08-17 08:25:00 | 日本語教育
ぽかぽか春庭「犬をかいます」
2010/10/24
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(9)犬をかいます

 2008年6月12日の「非漢字圏クラス初級(文法)」での授業で。
 教科書に「犬を 10ぴきも かっています」という例文がありました。
 予想より多いことを表す「も」の使い方の練習文です。「すもうとりは ごはんを 20ぱいも 食べます」などの文とともに出てきます。

 わかりにくいかと心配した「すもうとり」は、「Japanese Sumo wrestler」と、媒介語の英語での説明で問題なし。グランドチャンピオンのハクホーも「ゆーめーです」。
 しかし「犬~」のほうは、例文を理解してもらうのに、時間がかかりました。
 「先生、かっていますは、ばいですか」という質問が出たので、一瞬「??」
 日頃「私は英語がわからないから、質問は日本語で」と申し渡しているのですが、質問の意図を確認するため、英語でもう一度質問させてみると、「かう=buy」なのか、という質問でした。

 高低アクセントがちがう、という説明をしたあと、「ひらがなで書いてあるから、飼うと買う、どちらかわかりませんでした。犬を飼います、と書いてふりがなを書いておけば、わかります。買うと同じだと思いません。日本語は漢字表記が必要です」と、ここぞとばかり、同音異義語の区別には漢字表記が有効であることを伝えました。

 漢字表記をした上で、ふりがなをつけておくのが一番適切な表記方法だと、私は考えています。今は、ワープロでのふりがな表記も簡単にできるようになっています。

 非漢字圏の学習者に漢字を指導するのはなかなかたいへんですが、基本となる象形文字や指示文字は、意味を教えやすい文字です。
 水の流れを三本の線で表現すれば「川」。三つの頂を表現すれば「山」です。
 
 字形の説明。山や川など、絵から成立した象形文字は、見た目にわかりやすく形を指導できる。「上、下、中」など、位置関係や「一、二、三」などの数を表す指事文字も意味を伝えやすい。

 次に、二つの漢字の意味を組み合わせる会意文字。
 会意文字も、「月はあかるい。お日様もあかるい。「日+月=明」は、とてもあかるい。クリアリィ、ブライトネス」というと、わかってくれます。

 木がたくさんあると、林、もっと多いと森。これもわかりやすい。
 品川の「品」は、口mouthが三つあるのではなく、四角い器が三つあって、品物が入っている。「three goods in the boxes」と覚える留学生もいる。
 「休」は、人が木によりかかってやすんでいる、と説明。(異説もありますが、覚えやすさ優先)

 漢字の字形のなりたちには諸説あります。白川静のように、独自の学説を提出している学者も。諸説ある中で、私は多少強引な解釈であっても、現在の字形を覚えるために覚えやすい説明をしています。
 「体」は、台湾の学生がクラスいるときは、旧字の「體」も紹介しますが、非漢字圏学生だけのときは、body=「人」+「本=origin」と説明します。

 絵文字から発達した象形文字。位置や数を示す指事文字。意味を加えていく会意文字。一部が音を表す形声文字。音だけ借りてきた仮借文字。
 それらを組み合わせて単語の意味を表します。

<つづく>
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2010年10月26日


ぽかぽか春庭「愛人が暗算する」
2010/10/26
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(10)愛人が暗算する

 常用漢字の数は約2000ですが、読み方がたくさんあるので、中国語母語話者の留学生でも、「読み方が覚えきれない」と、ネを上げます。
 中国人留学生には、「大丈夫、あなたたちは、中国語の何千もの漢字を覚えてきたのですから、日本語漢字2000の読み方だって、習得できますよ」と、励まします。

 中国語の場合、現代の簡体漢字でも、5000~6000を知らないと、新聞は読めません。
 中国では、近代まで、文字は「知識人だけのもの」で、一般の人にとっては縁遠いものでした。
 中国では、とにかく、漢字を覚えることが、教育の第一歩です。中国の秀才たち、科挙の伝統があるためか、とにかく暗記第一主義です。文字を覚えないことには、上級学校へ進学することもできません。

 また、漢字を見れば意味がわかるから日本語は簡単だ、と考えて来日する中国人留学生には、最初に「手紙はトイレットペーパーじゃない」「汽水はサイダーじゃない」「愛人は妻じゃない」など、日本語と中国語では熟語の意味がちがうものがあることをたたき込みます。

 安易に「熟語なら漢字の意味を推測できる」と思ってしまうと、間違えることもあるので。
 「愛人が暗算します」と日本人が書いていても、驚くことはない。中国語のように、「妻がだまし討ちにする」という意味じゃないから。

 英語などのインドヨーロッパ語は、「音声言語」が言語学の基礎となっていますが、漢字導入以来、日本語は「音声言語」であると同時に、「音声と表記が同時に脳内に浮かぶ言語」として脳内変換されています。

 脳波の研究で、ことばを耳できいたとき、脳のどの部分が働くのか、という実験がありました。
 漢字を使う中国語母語話者と日本語母語話者は、他の言語の人とは使われる脳の部位がことなっている、という結果がでました。この実験、「中国語母語話者で文字が読めない人」との比較が記録されていませんでしたが、ことばを聞いたとき、音声処理の脳部位だけでなく、イメージ処理の脳部位も働いていることがわかって、納得です。日本人は、音声で日本語を聞いたとき、無意識であっても、ちゃんと脳は、文字イメージを働かせているということは、言えると思います。
 漢字イメージ処理は、左側頭葉後部が働くのだそうです。

 先生が授業中に、きしゃのきしゃがきしゃできしゃした、と発言したとき、漢字を思い浮かべることができない留学生には、この文の意味がわからないのです。
 実際にこんなこと言う先生いないけどね。いたとして、練習しましょう。
 貴社の記者が汽車で帰社した。

 はい、ノートに、「こうかいとこうかいのこうかいをこうかいした日記をブログに書いてこうかいし、こうかいした」と書いてみよう。
 紅海と黄海の公海を航海した日記をブログに書いて公開し後悔した。

 日本語は、高低アクセントでコトバの意味を聞き分けるといいましたが、実際に高低アクセントがふたつある語のセット、日常生活のなかで、「飴がふってきた」と表現しても、聞く人は、あ、雨なんだな、と推察してくれます。食卓で「橋、とって」と言われた人はお箸を渡してやります。

 でも、同音異義語の見極めはたいへんです。
 漢字によって意味を分ける語のセットはたくさんあり、文字を知らないと意味の区別ができません。

<つづく>
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2010年10月27日


ぽかぽか春庭「同音異義語」
2010/10/27
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(11)同音異義語

 同音異義語について、日本人学生から質問がでることもあります。
 「日本語には漢字熟語の同音異義語がたくさんあることがわかりましたが、それじゃ、中国の人も同音異義語がたくさんあって、聞き分けが困るんじゃないんですか。同じ漢字をつかう言語なのだから」

 はい、お答えしましょう。
 中国の人にとっては、公開と航海は、まったく違う発音です。同音異義語じゃありません。
 公開はgong(-)-hai(-)、航海はhang(/)-hai(v)です。同じhaiであっても、平らに発音するとか、一度さがってまた上がる、など、高低アクセントがことなるので、ちがう発音です。

 日本語の「はしが」と発音するとき、私たちは意味によって音の高さを変えています。すなわち、「箸が・端が・橋が」は音の高さで区別できます。箸が(高低低)端が(低高高)橋が(低高低)です。

 「はし」を、音の高さで区別するように、 元々の中国語には、四声という4種類の高低アクセントがあります。中国語の漢字ひとつひとつが高低アクセントを持っています。

 日本語へ漢字を取り入れたとき、四声はほとんど考慮しませんでした。仏典の文字を書き写すことが重要だったので。発音ではなく、文字で区別ができれば十分でした。
 また、中国語の有気音と無気音の違いは、一部有声音と無声音の違いに変化させて取りいれましたが、それでも同音になった漢字がたくさんでました。

 これは、「thank you」という英語のthの音が日本語にないから、「sank you」という発音に代用させたのと同じことです。現在では、日本語外来語として「サンキュー」という語が使用されており、サンキューと発音すると、「ありがとう」の意味だと理解されます。

 日本語は、それまで発音していなかった音を中国語からたくさんとりいれました。きゃ、きゅ、きょなどの拗音、「ん」も、中国語から入ってきた発音です。
 「朱雀しゅじゃく」という発音も、ひらがなでは「すざく」と表記していました。拗音の表記方法がなかったからです。「すざく」と書いても、発音はスザク、スジャク、シュジャク、いろいろありました。

 中国語では、日本語に取り入れられた漢字熟語のように、同音異義語がずらずら並ぶと言うことはありません。
 皇帝と黄帝は、同じ発音にはならず、同音異義語ではないのです。工程と航程も違います。

 日本語の高低アクセントは「高低」「低高」の2種類が基本ですが、中国語は「高低」「低高」「高低高」など、4種類の高低アクセントがあります。(タイ語は6種類、ベトナム語は7種類)

 「麻」「媽」「罵」「馬」は、カタカナ表記なら全部同じ「マー」ですが、高低アクセントを変えることによって、異なる音として聞き分けられます。

 同じ「マー」という発音でも高低アクセントの違いによって、「まーまーま、まーまー」「麻媽媽、罵馬」は、「麻かあさんが、馬を叱る」という意味になり、中国語の発音練習の最初に繰り返し練習させられます。
 この「マー」四声が聞き分けられずに中国語最初で挫折する人も多い。

<つづく>
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2010年10月29日


ぽかぽか春庭「薔薇や顰蹙書けなくても、、、」
2010/10/29
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(12)薔薇や顰蹙書けなくても、、、

 日本語学習者にとって、日本語発音の習得は、文字習得に比べればそれほど難しくありません。母語と異なる発音には苦労するけれども、もともと日本語の音節数は少ないのですから。また、母音が5つ、というのも、世界の言語の中ではもっとも普通の数です。

 非漢字圏の日本語学習者たち、日本語の発音習得はそれほど苦労はしないけれど、文字練習になると、ひらがなカタカナで最初にダウン。それを乗り越えても漢字で挫折。留学生たちには、「漢字、日本人にとっても、たいへんだよね。覚えるの。書けない字があっても大丈夫、今は電子辞書だとかパソコンですぐに表示できるから。でも、まずは、まずは、読み方がわかり、意味がわかること。漢字を復習してね。」と、言っています。

 漢字、読み書きできるということは、日本語の語彙がそれだけ身についているということ。準一級の漢字が読み書きできるということは、自分が読む文章のなかで、準1級漢検にでてくる程度の語彙は理解しているということです。

 訓読みをひとつひとつ覚えていき、音読みの熟語をひとつひとつ覚えて、日本語学習たちは、いっしょうけんめいに漢字を学習します。日本語教師志望者は、最低でも漢字検定2級、できれば準1級の範囲の漢字は読めるように、同音異義語の区別ができるようにしておきましょう。2級は常用漢字の範囲内程度の漢字が出題されますから、一般の社会で必要とされる漢字です。1級となると、ほとんど趣味の世界のような、見たこともない漢字が並びますから、よほどの漢字オタクか、漢字クイズに出演するタレントになるのでもなければ、社会生活では使わない漢字が多い。

 日本語教師たるもの、漢字が書けないのに漢字教育をしてもよいのか。はい、私はしょっちゅう、漢字を書き間違えたり、思い出さなかったりして、顰蹙をかっていますが、、、、
 私は、「ひんしゅく」と、ソラでかけません。ヒンのほうは、「あるくページは卑しい」と分解して覚え、薔薇の薔は「草十人人一回」と分解して覚えたのですが、こんどは顰蹙の「蹙」が書けなかったり、薔薇の「薇」が書けなかったり。

 でも、そんなことにめげてはいません。書けなくても意味がわかり使い方を知っていれば、今の世の中パソコンでもケータイでも文字を出すことが出来ます。それより、語彙をたくさん知っているほうが、漢字教育に役立つし、同音異義語の使い分けも大切。漢字の教え方は、先生の工夫次第でいくらでもおもしろくできる。
 日本語学習者が漢字嫌いになるか、漢字好きになるかの分かれ目は、先生の漢字指導にかかってきます。

 日本語教師志望者のみなさん、それぞれに漢字指導の授業案を考えてみて。
 大学の授業ヒトコマ90分で15~20文字の指導をするとして、読み指導、書き指導、熟語指導、同音異義語や対義語への注意など、教えなければならない項目は盛りだくさん。
 ひとつの漢字に当てられる時間は5~6分です。筆順&書き練習にあてる時間も一字につき3分はほしいから、意味用法の導入に使える時間はひとつの漢字を3分。3分で意味や使い方を説明する練習をしてみてください。意味用法が、学習者の印象に残り、字形を忘れられないようにインプットする。

 漢字指導の模擬授業。練習をしてみましょう。
 5分間で、漢字指導。指導する文字は「楽」の一字。
 音読み。ガク、ガッ。熟語=音楽、楽器、
     ラク、ラッ。熟語=楽園、楽観(楽観の対義語・悲観)らく・ニ(副詞)
 訓読み。たの・シイ(形容詞)。たの・シム(動詞)
 
 5分で、字形の説明、筆順、読み方。熟語の意味用法。例文。初級の学習者にもわかる日本語で解説するのは至難の業です。

 ほら、「楽園ラクエンは、paradiseパラダイスと同じですか」と、クリスチャンの留学生が質問していますよ。詳しい説明をしたいけれど、、、、
 解説をゆっくりしていれば、たちまち時間はすぎて、書き練習の時間がなるなる。
ゆっくり書かかせて、学習者の字形を直してやりたいと思えば、説明の時間が短くなる。5~6分で1字教えるというノルマはなかなかたいへんです。

<つづく>
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2010年10月30日


ぽかぽか春庭「漢字の楽園」
2010/10/30
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(13)漢字の楽園

 たいへんではあるけれど、文字教育は楽しい。日本に留学してはじめて漢字を習った非漢字圏の女子留学生が、一番好きな文字として「楽」を選びました。理由を述べてもらい「楽しいことが好き」「音楽が好き」というような答えが出るのだろうと予想したのですが。「楽という字は、ロボットに見えます。アンテナをつけた人型ロボットがダンスをしているみたいです」と、私には思いもつかなかった発想で、違う角度から漢字を見る楽しさを教えてくれました。ドラエモンのアニメを見て日本に興味を持ったという留学生にとって、「楽」がダンスするロボットに見えるという漢字の形のおもしろさを再認識させてくれました。
 日本語教育は楽しい仕事です。みなさん、がんばって工夫しながら日本語教育をめざしてください。
=============
 と、ニホン語教師志望者のための日本語教育学概論の授業を9月1日から8日まで、一日に90分授業5コマ連続という過酷な集中授業、漢字教育論のほか、日本語文型、文法論も日本語音声学も社会言語学も、日本語教育法もいろいろぶちこんで、なんとか修了しました。

 今期10月から担当する初級漢字クラスでやってみたいことがあります。
 同僚のアイコ先生、上級漢字授業の最後のほうで、筆ペン習字の時間を作っています。これまで学んだ漢字の中で、「一番好きな字」をA3の紙を横にして右半分に書かせ、左半分にその理由を日本語で書いてもらいます。クラス全員の分を縮小コピーして綴じ、漢字学習修了の記念品として留学生に渡しています。

 前々からぜひマネをして取り入れたいと思っているクラス活動なのですが、残念ながら私の受け持つ漢字指導は、初級さいしょの漢字学習で、「この字が好きな理由」を書くのも、上級のように宿題にして自由に書かせるということができません。理由を書く日本語文の指導だけで一コマ使ってしまいそうだからです。初級漢字クラスで、90分を日本語文章指導に当てている余裕がないのです。教えるべき漢字数は決まっていて、試験までに全部を教え込まねばならず、90分で20文字導入するのでせいいっぱいの授業時間。

 今期、国費留学生コースのひとつのクラスが、留学生数が3名という少人数です。日本の文科省が国費留学生の出費を抑えてきて、学生数が予定よりぐんと減ったのです。このままこの「国費留学生コース」が閉鎖になるかもしれず、そうなったら私は失業ですけれど、先のことを憂えているより、3人という少人数でひとりひとりの留学生にしっかりと向かいあえる今期を生かさない手はありません。国籍はミャンマー、レバノン、モンゴル。
 おまけに、専任の先生がサバティカル(研究のために1年間大学出勤を免除される制度)を使うため、自分のクラスで予定表にないことをやったとしても、「試験範囲をきちんとこなさないと困ります」と叱られることもなさそうです。チャンス!

 この「好きな文字の習字」をぜひやってみようと思っています。ホームステイをしたおりに「日本の書道」を体験する留学生もいるので、クラスの中では書道をしたことがなかったのですが、今期のチャンスにしたいことしてみるつもりです。ちなみに私自身は書道苦手です。国語科教師免許を取得するには書道が必修になっていたため、1年間書道授業を受講しましたが、時は学生紛争緒時代。ほんの数回、筆と硯を持って国語科教育の教室で「仮名文字指導」というのを受けたところで、大学は学生ストライキに突入、ロックアウト学園封鎖という事態になり、先生の自宅へ清書を数枚送付しただけで単位をもらいました。字が下手なのは生まれつきだし、書道塾へも通わなかったし、中学校国語教師時代も書道の授業は別の能筆先生が担当していたので、私はやりませんでした。
 インチキお習字の私ですが、留学生に「好きな漢字」を書いてもらうのを今期の楽しみにしています。

<つづく>
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2010年10月31日


ぽかぽか春庭「こうせいへの日本語」
2010/10/31
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>春庭の漢字授業(14)こうせいへの日本語

 同音異義語の漢字書き取り練習、次は、「コウセイへの日本語」、って書いてください。そして、コウセイにあたることばを知ってる限りえんぴつで書き出してみて。思い出せなくなったら、辞書つかっていいから、赤ペンで書いてみて。

「岩波国語辞典」交声、攻勢、公正、校正、更正、厚生、後生、後世、恒星、構成、曠世(世にまれなこと)、

「広辞苑」上記以外に、向性、高声、孔聖、好晴、控制、硬性、興盛、薨逝、鴻声
坑井(鉱山の縦穴)
苟生(何事もなしえないで生きながらえること)
荒政(飢饉などへの救済の政治)
広西(カンシー・中国の地名)
江西(中国の揚子江地方にある地名/滋賀県近江地方の西)、

 熟語の意味を考えると、「こうせいへのにほんご」は、どんな意味になりましたか。
 「攻勢への日本語」、でも「公正への日本語」でも、「興盛への日本語」でも、意味が通じるでしょう?
 曠世、坑井、苟生この三つは、私も意味を知らず、使ったことのない熟語でした。

 漢字教育というのは、日本語にとって、語彙教育であるとも言えます。
 日本語の語彙の7割を漢字熟語が担っています。漢字を知るということは、語彙を増やすということなのです。
 私も、曠世、坑井、苟生という語について、新しい知識を得ました。この熟語をつかうことは一生ないかもしれないけれど。

 一生使うことの無いかもしれない漢字、10月30日土曜日にひとつ知りました。源氏物語のかな文字使用と「仮名手本」に関する論文の中、「八世紀前期成立の史書『古事記』及び『日本書紀』では、五世紀に朝鮮半島経由で漢字漢文が齎されている」という記述がありました。漢字伝来に関する論述、私は絶対に使わない「齎」という文字。「斉藤」の「斉」の字、異体字がたくさんあって、斉藤、齋藤、斎藤、など、サイの字がいろいろありますから、「齎」も音読みは「サイ」だろうと見当をつけて漢和辞典ひいてみると、はたして斉の次のつぎに出ていました。

 斉の動詞としての訓読みは「ととのう・そろう・ひとしい」。「斎」の訓読みは「いわう・いつく」ということは知っていましたが、「齎」という字は動詞としてはいったいどんな意味?「齎」の動詞としての読み方は「もたらす」でした。受け身形「齎される」は、「もたらされる」。うぁあ、さすが書道家の論文だ、難しい字をよく知っている、と感心しましたが、私なら、常用漢字外の文字を書くときは振り仮名をつけるとかします。このような常用漢字外の字を論文中に書くことはありません。まあ、漢字の使用は人それぞれの好みということです。

 さて。後世にことばの架け橋を架けましょう。「コーセーへの日本語」ということばを書きましたね。
 本日の宿題、ミニレポートです。「私が選ぶ、後世に残したい日本語」というタイトルで、なぜ、その言葉を選んだかという理由を書いてください。400字以上。 
 「え~、宿題かくのぉ~、作文、きら~い!」という日本人学生たちの面倒くさそうな声。日本語母語話者が日本語で作文を書くの、どこがたいへんなの?日本語学習者も、毎日、日本語作文を書いて練習しているんですよ。

 学生が選んだ「後世にのこしたい日本語」、それぞれ自分の好きなことばを選んで書いてきました。
 「ありがとう」「お母さん」「友達」「おはよう」「一期一会」「希望」「夢」など、みな、「残しておきたい好きなことば」を持っていて、理由をあげています。
 日本人の中にただ一人混じって「現代日本語概論」を受講している韓国人留学生イさんの好きな日本語は「一流」でした。きっと、イさんは「一流の日本語の使い手」を目指しているのでしょう。

 みな、それぞれの「後世にのこしたい日本語」を大切にして、日本語学習者にとってのよい日本語教師になれるよう、言葉にたいする興味を持ち続けて下さい、とニホン語教師志望者たちにお話して、春庭の「日本語学概論」「日本語教育概論」の中の、「漢字教育について」の授業は終了。漢字表記の話のほか、日本語の歴史、日本語の音声、文法と、日本語教師になるための日本語修行は続きます。「日頃日本語を無意識に使って暮らしているけれど、外から日本語を見る目を持つと、こんなにも言葉について知らないことがあったんだ」という感想を学生が持ってくれること、という春庭の第一の目標は達成されます。

<おわり

ことばの往来-食べ物篇1 唐なすかぼちゃ

2010-08-12 17:39:00 | 日記
2011/01/19
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>食べ物往来(1)唐なすかぼちゃ

 昨年11月からちと節制を続けている春庭、思いっきり食べられない分、頭の中は食べることばかりの春庭。脳細胞を覗けるメガネがあれば、頭の中にはいっぱい食べ物がつまっていることと思います。

 ことばについて思い巡らすのが商売なのですが、こうなると「食べ物にまつわることば」が脳細胞にとりつきます。
 アーサー・ビナードさんは、12月9日の講演で話していました。八百屋の店先で「eggplant卵の植物」の名が日本語では「茄子」であることを知ったと。ビナードさんの話のあと、食べ物の名前について、特に外来の食べ物について、その名前の由来と、それがどんなイメージを与えられるかについて思いを巡らせました。
 
 ビナードさんがいうように、アメリカの子供は、野菜の茄子を見れば卵を思い浮かべるのでしょう。茄子と卵は分かちがたく結びついている。それはそうです。「卵植物」という名前なのですから。

 春庭は「じゃ、イギリスの子供はどうなのか」と、思います。イギリス英語では茄子はaubergine、と言います。そしてこの語は、フランス語と同じ。フランス語でナスはl'aubergine、「l'」は英語の「the」と同じような定冠詞で女性名詞につく。カタカナで書くとロベイルジン。イギリス英語でcourgetteズッキーニも、フランスから渡った。
 イギリスとフランスはドーバー海峡を隔てて、川の両岸みたいなもんだから、言語にも借用関係がたくさんあります。しかし、太平洋を渡ったら、aubergineは「卵の植物」という「見たまんま」の名前に変身してしまった。

 ナスを茄子と漢字で書くのは、中国語の「茄子チエズ(qié zi)という表記をそのまま使っている。中国では、写真を撮るときの笑顔作成用語がチエズです。英語や日本語で「チーズ!」というかわりに、「チエズ」と言ってシャッターを切ります。
 日本にナスが渡来したのは奈良時代より前のこと。万葉仮名では「奈須比(なすび)」と書かれています。

 ナスビは奈良時代以前に渡来しましたが、カボチャはずっと後に日本に渡来しました。最初は「唐から来たナスビ=唐なす」という名でした。唐というのは、中国・東南アジア、インドまでを含む「外国」という意味でした。原産地は中国南方から東南アジアかけての地域なのだろうと思ったら、実際には南米だそうです。ポルトガル船によって日本に入ってきてから、「カンボジャからもたらされた」ということが広まって、カボチャになりました。

 中国語では南瓜(ナングヮ)。きっと中国の南の地方からもたらされた瓜だったのでしょう。西瓜(シーグヮ)は西から。西域の新疆ウイグル地域あたりから西瓜が大型のトラックで運ばれてきて、中国東北地方の田舎でも大きな丸い西瓜がひとつ10元(130円ほど)で市場に山積みになっていましたっけ。今、中国はすごいインフレですから、西瓜も値上がりしただろうなあ。日本語のスイカは、広東語のサイクヮァがなまった発音。
 
 大根は弥生時代には栽培されていた、もっとも古くから食べられていた根菜のひとつ。もとはオオネと呼ばれていましたが、中国から漢字が渡来したとき訓読みで「大根」と表記されるようになり、音読みでダイコンと呼び方が変わりました。今では「ダイコンdaikon」が、英語の辞書にも載っています。

<つづく>
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2011年01月21日


ぽかぽか春庭「eggplantナスとお茶とチーズケーキ」
2011/01/21
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>食べ物往来(2)eggplantナスとお茶とチーズケーキ

 食べ物は直接人の生命維持に関わるものだから、様々なイメージを付けられて比喩となったり、隠語として使われています。
 映画のセリフのなかでeggplantが使われている例として、ウェブ友まっき~さんが紹介してくれた『トゥルー・ロマンス』

 画面では、デニス・ホッパーが椅子に縛られている。息子の行方を追うシシリア出身のイタリアンマフィアに「息子の居場所を吐け」と脅されているのだ。父親は、息子の居場所を絶対に言わないために、殺されることを覚悟で、相手を罵倒する。
Hey. Yeah. And, and your great-great-great-great grandmother fucked a nigger, ho, ho, yeah, and she had a half-nigger kid... now, if that's a fact, tell me, am I lying? 'Cause you, you're part eggplant.
「よぅ、それでもってあんたのヒーヒーひーばあさんはクロン坊とやっちまって、へへ、ばあさんに、くろんぼ合いの子ができたってわけだね、さて、こいつはほんとかね。いってみろよ、おれは嘘言ってるのかい。だって、おまえは黒ナスでできてるんだぜ。

 英語に弱い春庭なので、ほんとうに罵倒語としての解釈でいいのかどうか、英語俗語辞典など調べてみたら、アメリカ語のスラングでは、eggplantは、アフリカ系の混ざった「イタリア系アメリカ人」を指す、ということらしい。ことばの持つイメージの広がりって、ほんとうに幅広い。映画のなかでは、「you're part eggplant 」というのが、相手を罵倒する台詞になっているのです。ナスのスラングでの意味を知らなければ、字幕で「おまえ、ナスの仲間だぜ」と出ていても、それが罵倒語になることはわかりません。
 eggplantが出てくる映画を指摘していただき、勉強になりました。なんによらず、言葉について新しいことを知るのが大好きなので、スラング調べるのも楽しかったです。

 江戸時代の吉原の俗語で「お茶引き」は、客が来ないで仕事にあぶれた遊女を指す。元は、大名お抱えの芸人がお座敷がかからずヒマなときはお茶の葉を臼で挽く仕事をあてがわれたことから、「お茶を引く→仕事がなくてヒマ→客のない遊女」となったのです。

 お茶の葉は中国雲南地方が原産地。お茶は、中国から世界中に広まりました。お茶を表すことばも、中国語が世界中に広がったのです。「お茶」を意味する語は、福建語(フーチェン語)では「テ(te)」、広東語(カントン語)では「チャcha」です。チャ系統の語は、インドではチャイ、日本ではチャ。テ系統の語は、英語のteaティーやドイツ語のTeeになりました。
 お茶に関する春庭の蘊蓄は以下のページにあります。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotobaworld0611a.htm

 ジャガ芋は中国語で「土豆Tu(3)Dou(4)」といいます。土の中にある豆、です。根っこにゴロゴロとついているジャガ芋を見れば、豆のようだという発想はわからなくもない。(サツマ芋は根ですが、ジャガ芋は茎の変形だそうです)
 しかし、ジャガ芋のことをフランス語では「大地のりんご(pomme de terre)」というのを知って、リンゴとジャガ芋じゃ、ずいぶん形も色も味も違うのに、フランス人にはリンゴもジャガ芋もおんなじように思えるのかと思ったことがありました。ものの名付けは多様だなあと思います。

 日本語の名付けの発想は、渡来地または原産地主義が多い。
 ポテト、ジャガ芋。原産地はアンデス山中だという。和語ではもともと「芋」とは里芋を指しました。戦国時代の終わり頃、オランダ商人がジャガタラ(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)から新しい芋を持ってきました。ジャガタラ芋、ジャガ芋は、馬につける鈴の形をしているから馬鈴薯とも呼ばれました。現代では、ジャガイモ、バレイショ、両方とも通用しています。料理名になると、ポテトサラダ、フライドポテトなど、ポテトというカタカナ外来語も通用していますから、3つの名前をとっかえひっかえ使い分けていることになります。

 同じく、原産地は南アメリカ大陸というサツマイモ。薩摩(鹿児島)では、中国(唐)経由で入ってきた芋を唐芋(カライモ)と呼び、薩摩から全国に広まった芋はサツマ芋と呼ばれました。他所から新しく来たものは、来た土地の名をつける。薩摩から伝わったという揚げ物は九州や関西では天ぷらと呼び、関東ではサツマ揚げ。

 イベリア半島カステーリャ地方のお菓子がポルトガルの宣教師によって日本に伝えられた16世紀末。このお菓子はカステラという名で長崎地方に定着しました。ポルトガル語の「パン」は、日本語でも「パン」

 輸入された食べ物ばかりではありません。輸出もあります。
 日本のおでんは、韓国に定着し、呼び名もそのまま「오뎅 oden」。うどんも同じ。
 英語のウェブスター辞典に載っている「英語になっている外来語」のうち、日本語由来の食べ物語は、daikon 大根、 kaki 柿、 kombu昆布、ramen (カップ)ラーメン、sake 酒、 sashimi 刺身、shabu-shabu しゃぶしゃぶ、 shiitake 椎茸、shoyu 、醤油sukiyaki、 スキヤキ sushi寿、司 teriyaki 照焼、tofu 豆腐、wasabi わさび、yakitori 焼鳥、などなど。

 外国へ出かけていった和食の食べ物たちは、どんなイメージを新しく身にまとったのでしょうか。アメリカのスシバーなどで人気の和食は、「健康によい食べ物」のイメージだそうです。もともとは中国の食べ物だった拉麺はすっかり日本化し、中国に逆輸出された日本の拉麺は「日式拉麺」として人気を得ています。またカップラーメンの輸出にともなって「ramen」という日本語からの外来語として英語にも取り入れられているのは面白い。

 今朝、久しぶりに読み返した村上春樹の初期の短編小説。タイトルは「チーズ・ケーキのような僕の貧乏」平凡社から『カンガルー日和』として1983年に刊行された中の一篇で、私は1988年発行の講談社文庫で読みました。

 さて、「チーズケーキのような貧乏」のイメージはどんな感じ?
 日本にチーズケーキが「しゃれたスィーツ」として定着したのは、90年代になってからだったように記憶しています。(私がチーズケーキにはまったのが、遅かったのかもしれないけれど)そうすると、80年代初頭には、チーズケーキはまだまだ一般的でない、こじゃれた雰囲気を持っていたはず。そうか、結婚したばかりの村上春樹の貧乏って、チーズケーキのイメージなのか。私が1982年に結婚したころの貧乏は、戦時中の「サツマ芋のつるとフスマで作ったすいとん」みたいでしたから、チーズケーキのような貧乏(三角形の土地に住んでいたことの比喩なんですけれど)って、うらやましいくらいです。



2011/02/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>食べ物往来2(1)食べ物の外来語、追加カステラ

2011/01/21 の春庭コラム
「ポルトガルのカステーリャ地方のお菓子が宣教師によって日本に伝えられた16世紀末。このお菓子はカステラという名で長崎地方に定着しました」。

という記述に対して、以下のようなコメントを頂きました。
「カスティーリャ=castilla=スペインです。投稿者:wxm68971 2011-01-26 13:42」

 このコメントに対する春庭返信を再録します。コメントに気づくのがおそく、返信が遅くなってしまいました。
==========
カステラ  haruniwa   2011-02-06 22:48:37
春庭へのコメントありがとうございました。
以下のように訂正いたしました。

 イベリア半島カステーリャ地方のお菓子がポルトガルの宣教師によって日本に伝えられた16世紀末。このお菓子はカステラという名で長崎地方に定着しました。

 現在受け持っているクラスのひとつに、4名のスペイン人留学生とひとりのポルトガル人が在籍しています。同じスペイン人といっても、日本の関東文化と関西文化と沖縄文化が異なる、という程度にひとりひとりの出身地の違いによって言葉や文化が異なる、ということを「我が町の文化」「私の地方の衣装」という発表をさせたときに語っていました。

 カタルーニャ、カステーリャやバスクなど、スペインは地方によって異なった文化があり、ことばも異なる。一方ポルトガル語は方言によってはカステーリャ語に近く、スペイン人とポルトガル人は通訳無しでお互いに話が通じる。
 日本にやってきた宣教師は、ザビエルのようにバスク人もいたのですが、ひとくくりにポルトガル宣教師とされています。派遣元の修道会の派閥がポルトガルを本部としていたところが多かったので。

 カステラ(カスティーリャ)のお菓子も、ポルトガルから派遣された宣教師たちという意味では「ポルトガルのお菓子」という表現で間違いではないのですが、ひでさんがご指摘のように、現在の地図ではカスティーリャはスペインに間違いないので、上記のように訂正いたしました。

ご指摘をありがとうございました。
===============
 食べ物の日本語。3日に新宿サザンテラスの宮崎アンテナショップkonneで食べた「おび天」は、漢字では「飫肥天」と表記します。ひらがな表記は商品名としてブランド登録されているので、一般名詞としては「飫肥天」。
 イワシ、アジ、シイラ、サバ、トビウオ、サワラなど日向灘近海でとれる大衆魚を骨も頭も丸ごとすり身にしたものに豆腐を混ぜ、味付けに味噌や醤油、黒砂糖を加えて揚げたもの。豆腐と混ぜることで、薩摩揚げより柔らかくふわりとした食感になり、黒砂糖によって黒みがかった色と甘味のある味わいとなる。

 konneで春庭が食べたのは、揚げたての飫肥天に大根おろしと生姜すり下ろしがついていました。サツマ揚げが薩摩藩の特産物であったように、「飫肥天」は、江戸時代に飫肥藩の庶民の食べ物として作りだされた食品です。特産物が他の地方へ広がっていくとき、出身地の名前がつけられるのが、日本語食品名の基本。

<つづく>
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2011年02月09日


ぽかぽか春庭「ナポリ風ボローニャ風」
2011/02/09
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>食べ物往来2(2)ナポリ風ボローニャ風

 地名が食品名になる例。
 現在の東京湾では海苔の養殖はとうに行われなくなっていますが、浅草海苔という呼び方は残りました。高野豆腐は高野山の精進料理が発祥で、奈良漬けは奈良の特産。

 カタカナ地名が日本語食品名になる経緯もさまざまです。
 食べ物の名前、インドリンゴの元の品種は、ジョン・イングがアメリカのインディアナ州から日本へ運んだ種が原種です。それを改良して甘みが強く酸味を抑えた「インドりんご」を日本で品種改良したもの。寒い地方の果物であるリンゴがインドと呼ばれるのはなぜかと不思議に思ったころもありましたが、語源を知れば納得。

 ウイスキーやワインには産地の名がつけられることが多く、一般名詞にもなっていく。たとえば、フランスのコニャック地方原産のお酒、コニャック。シャンパンは、シャンパーニュ(Champagne)地方の発泡ワイン、スコットランドのウイスキー、スコッチなど。最近はブランドを守るために、名称の元となった産地以外で作ったものがその名称を名乗ることが許されなくなってきているようです。

 ソースも産地ごとの特色があるので、名前に残される。ただし、イギリスのウースター(Worcestershire)で作られるようになったトマトベースのソースと、日本のウースターソースはかなり違うもののようです。

 パスタソース。パスタのナポリタン。私が子供のころ、スパゲッティといえば、ケチャップで味付けされた洋風ウドン。フォークでくるくる巻いて食べるのがカッコいいように思っていて、バスで県都へ行ってレストランでナポリタンを食べるのは子供にとって晴れがましい食事でした。今おもえば、いつもの代わり映えしない夕食と思って食べていた母の手打ちのうどんのほうがずっとおいしかったはずなのですが。子供は非日常が好きなのです。

 ナポリタンは、ナポリの人々が食べているのかと思ったら、「ナポリ風の」というイタリア語は「ナポレターナ(Napoletana)」であるよし。ナポリタンは「日本洋食」のひとつで、横浜山下町にあるホテルニューグランド第2代総料理長・入江茂忠が考案者だそうです。

 ジェノベーゼ(Genovese)はイタリア語で「ジェノバ風」。こちらはバジルソースのうち、ジェノバでよく使われるソースをこう呼ぶ。ボロネーゼ(ボローニャ風)は、ミートソースのパスタ。イタリアの地名が日本ではパスタソースの名としてなじみになりました。

 私が大好きな「食べ放題」の意味で使われる「バイキング」。この言葉を「Eat as you can食べ放題」の意味で広めたのは、帝国ホテルの発案によってでした。
 バイキングが活躍したスカンジナビア半島。スエーデン語では、スモーガスボードSmorgasbordと呼びます。スモーガスはオープンサンドイッチ。ボードはテーブルの意味で、テーブルの上に並べられた料理を好きな分とって食べる形式をスモーガスボードと言うのです。

 スモーガスボードというカタカナ語の響きより、「タベホーダイ」という和語漢語の混種語より、やはり「バイキング」といったほうが、好きなだけ大食らいする雰囲気が伝わります。セルフサービスの食べ方に「バイキング」というネーミングを思いついた帝国ホテルのセンスです。

 食べ物の語源に関して、本もたくさん出ています。東京堂から清水桂一『たべもの語源辞典』内林政夫『西洋たべもの語源辞典』が出ており、調べる気があったら、そのほかでも探索可能。『完本食からみた日本史』(芽ばえ社)、『たべもの日本史 総覧』(新人物往来社)『舶来事物起源事典』(名著普及会)。『国史大辞典』(吉川弘文館)全15巻も、索引から食べ物について調べることができる。

 私が今読んでいるのは、永山久夫『たべもの古代史』。電車の中で読むのにちょうどいい文庫本です。先土器時代のマンモス狩りから平安時代までを扱っています。
 根が食いしん坊ですから、ダイエット中の現在、せめて食べ物話で満腹になろうという魂胆です。sumitomoさんのカフェ日記で、私が「腹の虫おさえ」と言っている言葉を、京都や大阪では「虫養い」というのだと知りました。そこで春庭一句「虫養いしてないつもりがなぜ太る」

 次回からは「インターナショナル食べ放題」シリーズ。アフリカ料理中華料理の食べ歩き。ダイエットは続けて行きますって。5月にはまた発表会で踊るつもり。

<おわり>
 

<おわり>


翻訳練習 摩天楼の詩

2010-08-05 08:49:00 | 日記
2011/03/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>摩天楼の詩(1)超高層ビル

 2月13日に訪れた横浜ランドマークタワーは、日本で一番高い高層ビルです。 最頂部296.33 m、最上階 273.00 m 。しかし、世界の高層ビルのなかでは第51位。
 世界一は2010年1月に開業したアラブ首長国連邦ドバイにあるブルジュ・ハリファです。最頂部 828 m、最上階 621.3 m 。160階建て。800メートルの超高層、地震の多い日本では絶対に無理な高さです。娘は、台湾に友達と旅行した際に、台北101に登ったことがあります。高さ509.2mで、地上101階。世界2位のビルになってしまいましたが、アジアでは一番高い。

 高いところに登るのが趣味のひとつである春庭。子供の頃にこっそり母の田舎にあった火の見櫓に登ったころから、高いところからの眺めが大好きになりました。よく行くのは都庁の展望室、文京区役所シビックセンターの展望室。無料なので。
 ランドマークは、大人ひとり入場料は千円でした。高い!

 超高層ビルを英語ではスカイスクレイパーskyscraperといいます。日本語で超高層ビルを摩天楼と呼ぶのは、skyscraperを直訳した語なのだと気づきました。辞書を調べてみれば、広辞苑などにも「摩天楼はskyscraperの訳語」と出ていました。こうなると、誰がこの訳語を思いついたのか気になるところですが、明治初年の翻訳語は訳者がわかっている例が多いのに、摩天楼については、訳者がはっきりわかりません。おそらくは中国語経由の漢語ではなく、日本で翻訳された和製漢語であろうと思うのですが、初出はどの本または新聞だったのか、知っている人がいたら、教えて欲しいです。

 春庭の語感で言うと、摩天楼とは、まるで魔法のように空高く聳える建物のイメージ。「摩」には「する・こする・なでる・みがく」という意味のほかに「せまる・とどく」という意味があります。「天に届く楼閣」というのが「摩天楼」。
 摩天楼は、Skyscraperをそのまま漢字熟語に訳した翻訳語。英語のskyscraperは、skyをscrapeするもの、という意味。scrapeは、「する・こする・みがく・えぐる」という意味で、「摩」の意味に近い。英語の、scraperとなると「くつみがき・道ならし道具・削り器・消すもの」という具体的な「ひっかくもの」「かすめ取るもの」を意味します。Skyscraperは、私には「空をひっかくもの・空を削るもの」という語感になります。

 アーサー・ビナードは、英語と日本語との間を自在に行き来する言葉の越境者です。
 2010年12月9日アーサー・ビナード講演会を聞きに行ったとき、ビナードさんが朗読してくれた英語の詩。「摩天楼の建設」
 この詩、どこかにUPされていないか、いろいろ検索してみたのですが、日本語ページには見当たりませんでした。私の講演メモにはこの詩の作者は「ジョージ・オッペ」と記されていました。同じ講演を聴いて感想をUPしているチョムプーさんのブログ「ココナツカフェ」には「ジョージ・オッペル」と書かれていました。

 オッペルは「オッペルと象」でおなじみの名です。(当初、オッペルという誤植が通用して、私が教科書で読んだのもオッペルでしたが、現在はオツベルまたはオッベルに訂正されています)
 私がメモしたオッペより「オッペル」のほうが正しいのだろうと思って検索を掛けたのですが、どうしても出てこない。おかしいな、私は検索名人のはずなのに。

 そこで英語サイトに期待をかけて、「skyscraper George Oppel 」で検索したら、Googleはとても賢いので、「もしかしてskyscraper George Oppen?」と、訂正してくれました。
 「The Building of a Skyscraper」の詩がみつかりました。私ってやっぱり検索名人ね。ちょっと自己満足。あは、私が名人なんじゃなくて、Googleが私の記憶違いを訂正してくれたからだよね。
http://selectedpoems.wordpress.com/2010/09/18/george-oppen-the-building-of-a-skyscraper/

<つづく>
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2011年03月06日


ぽかぽか春庭「摩天楼の建設」
2011/03/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>摩天楼の詩(2)摩天楼の建設

 アーサー・ビナードは、2010年12月の講演会の締めくくりとして英語の詩『摩天楼の建設』を朗読しました。
 この詩を取り上げるビナードに、「詩人の覚悟」を見た思いがしました。人々が忘れ去ろうとしていること、高層ビルの上から下を見ないようにしていること、それをビナードはあえて見ようとしています。

 12月の講演の中では触れられていませんでしたが、ビナードはベンシャーンの絵に日本語の詩をつけた絵本を発行しています。『詩画集ここが家だ』
 日本の人が下を見ないようにして忘れている「第五福竜丸」についての絵本です。広島長崎の原爆被害は毎年記念式典もありますが、多くの人の脳裏から忘れ去られている第五福竜丸の核実験被害について、思い出そうとするビナード、摩天楼の上にいても、その下をきっちりと見届けようとする詩人です。

 そう、詩人とはめまいがするのを覚悟で、摩天楼の作業桁の上で、目をそらさずビルの下をのぞき、ビルが建てられるより300年前の裸の大地を見据えることのできる人のこと。
 ほんわかとした日常をほんわかと癒してくれる言葉も必要ではあるでしょう。人間だもの。が、私はこのGeorge Oppenが指し示すような、きりきりとした鋭さを含む詩に勇気づけられる。

 横浜や東京ウォーターフロントの、新宿新都心の、ニューヨークマンハッタンの、シカゴスカイスクレイパーの、立ち並ぶ摩天楼の、300年前の大地を俯瞰し、空をひっかく傷を我が身に負う覚悟の詩人たちの言葉を、私は読み続けたい。

 私も、大地から切り離された高層ビルの屋上のような環境で、下を見ないようにして暮らしている一人です。下を見て世界の本質を知ろうとすれば、めまいがして落っこちてしまうでしょう。詩人のように物事の本質を見据えようという覚悟もなく、やわな日常を生きています。めまいを引き受けて、高層ビルの下にあるものごとの真実をのぞき込む詩人に感心しながら、今日もただふわふわとした日常を、生きています。

 「The Building of a Skyscraper」を訳してみました。春庭の試訳ですから、きちんとした訳を知りたい人はアーサー・ビナードの著作を探してみて下さい。ビナードwith木坂涼さんは、もっとちゃんとした日本語詩にしていて、どこかの本に載せていると思うので。

The Building of a Skyscraper 高層ビルの建設 by George Oppen

The steel worker on the girder 作業桁の上の、鉄骨作業者は
Learned not to look down, and does his work 下を見下ろさないことを学び、仕事をする
And there are words we have learned ここに我々が学んだ教訓がある
Not to look at, 下を見下ろすことなく、ものごとの本質を見ないようにしていたことを
Not to look for substance 見ようとすると、
Below them. But we are on the verge めまいがしそうだ
Of vertigo.

There are words that mean nothing 何も意味しないことばもあり
But there is something to mean. 何かを意味することばもある
Not a declaration which is truth 真実の告白もあり
But a thing そうでないのもある
Which is. It is the business of the poet しかし、これは詩人の仕事だ
“To suffer the things of the world 世界のことがらを引き受けて苦しみ
And to speak them and himself out.”ことばを話し、自分自身を外へ出していく

O, the tree, growing from the sidewalk— 歩道に育っている木は
It has a little life, sprouting 芽吹いている小さな命を持っている
Little green buds 小さな緑の蕾が
Into the culture of the streets. 通りの文化の中にある
We look back この土地の300年間を振り返ると、
Three hundred years and see bare land. 裸の大地が見える
And suffer vertigo. めまいがするのを引き受けよう

<つづく>
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2011年03月08日


ぽかぽか春庭「盲目の摩天楼」
2011/03/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>摩天楼の詩(3)1939年9月1日、盲目の摩天楼

 1939年9月1日に起きたナチスドイツによるポーランド侵攻のニュースをきいて、アメリカの詩人オーデンが書いた詩の中に、摩天楼は「blind skyscrapers」として登場します。2001年9.11のニューヨーク貿易センタービルへの攻撃のあと、この事件を予言したかのごとき詩として話題になりました。

 詩人は倉庫が建ち並ぶ52番街の安酒場に居座ってニューヨークの街の人々を思い、リンツ近郊で生まれたヒトラーが巨大な狂った神のような独裁者となったことを恐れ、日常生活にしがみついている人々を憂えています。しかし、詩人は一筋の焔がつかの間でも正義を見せ、人々の交わすメッセージを照らし出すことを信じています。

September 1, 1939 by W. H. Auden (訳:松岡直美+春庭)

I sit in one of the dives
On Fifty-second Street 52番通りの安酒場で
Uncertain and afraid 私は不安に怯えながら座っている
As the clever hopes expire 
Of a low dishonest decade: 低調で不正直な十年の小利口な希望も尽きたから
Waves of anger and fear 怒りと恐れの波は
Circulate over the bright  
And darkened lands of the earth, 地上の闇と光の上を旋回し
Obsessing our private lives; 我らの個々の生にとりつく
The unmentionable odour of death 言葉に出来ない死の匂いが
Offends the September night. この9月の夜を犯す

Accurate scholarship can  正確な学識をもってすれば 
Unearth the whole offence 全てを明らかにするだろう
From Luther until now ルターから今日に至るまで
That has driven a culture mad, 文明を狂わせた攻撃のすべてを
Find what occurred at Linz, リンツで起こったことを
What huge imago made どれほど巨大な心像が
A psychopathic god: 精神を狂わせた神を作り上げたかを
I and the public know 私も市民も知っている
What all schoolchildren learn, 全ての児童が学ぶことは
Those to whom evil is done 悪がなされれば
Do evil in return.  その悪業は報復されるということだ。

Exiled Thucydides knew 追放されたツキディディスは知っていたのだ
All that a speech can say 民主主義について
About Democracy, 言論の総体がどんなことを言えるのかを
And what dictators do, そして独裁者が何を為すかを
The elderly rubbish they talk 奴らが無関心の墓場に向かって語る
To an apathetic grave; 古くさいでたらめを
Analysed all in his book, 彼の本にすべては解き明かされている
The enlightenment driven away, 啓蒙の考えは駆逐されると
The habit-forming pain, 慢性的な痛みは
Mismanagement and grief: 誤りも哀しみも
We must suffer them all again. 我らは再びこれらすべてを苦しむことになる。

Into this neutral air このねずみ色の空気の中で
Where blind skyscrapers use 盲目の摩天楼が
Their full height to proclaim その高さいっぱいに
The strength of Collective Man, 集合体の人間の強さを主張する
Each language pours its vain 個々の言葉は無益な
Competitive excuse: 弁解を競い合う
But who can live for long しかしいったい誰が長く
In an euphoric dream; 愉悦の夢に生きられるものか
Out of the mirror they stare, 彼らが凝視する鏡から
Imperialism's face 帝国主義の顔と
And the international wrong. 国際的な悪業が浮かび上がる。

Faces along the bar バーに並んだ顔は
Cling to their average day: 日常にしがみつく
The lights must never go out, 灯りを消してはならない
The music must always play, 音楽を鳴らし続けなければならない
All the conventions conspire  あらゆる手段によって
To make this fort assume この砦が
The furniture of home; 家庭の趣をかもすように謀られる
Lest we should see where we are, 我らがどこにいるかを見極めないのであれば、
Lost in a haunted wood, 我らは呪われた森に迷う、
Children afraid of the night  幸せであったことも正しくあったこともなく
Who have never been happy or good. 夜を恐れる子供たちのように。

The windiest militant trash 大物たちがもっとも声高に叫ぶ
Important Persons shout 好戦的なたわごとも
Is not so crude as our wish: 我らの願望ほどに荒々しいものではない
What mad Nijinsky wrote 狂ったニジンスキーが
About Diaghilev ディアギレフについて書いたことは
Is true of the normal heart; 尋常な心の真実だ
For the error bred in the bone 男と女、それぞれの
Of each woman and each man 骨身に巣食う誤りは
Craves what it cannot have, 得ることのできないものを求めてやまない
Not universal love 普遍の愛ではなく
But to be loved alone. 自分一人だけが愛されることを。

From the conservative dark 用心深い暗闇から 
Into the ethical life 倫理的な生の中へ
The dense commuters come, 通勤者の群は
Repeating their morning vow; 朝の誓いを繰り返す
"I will be true to the wife, 「私は妻に誠実であろう
I'll concentrate more on my work," 仕事に集中しよう。」
And helpless governors wake そしてどうしようもないオヤジども起きだして
To resume their compulsory game: 義務となったゲームを再び始めるだけだ
Who can release them now, 今、いかにして彼らを解放できようか
Who can reach the deaf, いかにして聾者に耳を傾けさせ
Who can speak for the dumb? いかにして唖者のために語ることができようか

All I have is a voice 私にあるのは声のみ
To undo the folded lie, 畳み込まれた嘘を解きほどく声
The romantic lie in the brain 通りにいる好色な男の頭にある
Of the sensual man-in-the-street 虚構の嘘や
And the lie of Authority 権威の嘘を
Whose buildings grope the sky: その楼閣は空を手探りする
There is no such thing as the State 国などというものはない
And no one exists alone; 誰もひとりでは生存できない
Hunger allows no choice 飢餓は誰にでもやってくる
To the citizen or the police; 市民にも警官にも
We must love one another or die. 我らは互いに愛し合わねばならぬ、そうしなければ死ぬばかり

Defenceless under the night 夜、無防備に
Our world in stupor lies; 我らの世界は茫然と横たわる
Yet, dotted everywhere, しかし、どこにでも認めることができる
Ironic points of light 皮肉な光は
Flash out wherever the Just 正しき者たちが取り交わすメッセージを
Exchange their messages: つかの間照らし出す
May I, composed like them 私も、それらと同じく
Of Eros and of dust, エロスと灰で出来ているのだが、
Beleaguered by the same 同じ否定と絶望に
Negation and despair, 取り巻かれているのだが、
Show an affirming flame. 肯定の炎を見せてやれるかもしれない

 このオーデンの詩は、ナチスドイツのポーランド侵攻のニュースに触発されて執筆されました。この1939年9月1日ポーランド侵攻後、ナチスがヨーロッパの脅威となっていることを憂えて、自国民に語りかけたのが、イギリスのジョージ5世の演説です。この演説に至るまでのジョージ5世の苦闘を描いた映画『英国王のスピーチ』がアカデミー賞の作品賞はじめ、主演男優賞コリン・ファー)、監督賞トム・フーパー、脚本賞デヴィッド・サイドラーを受けました。映画も見たいと思っていますが、その前に、本物のジョージ5世の演説を聞いてみました。(ゼミの先生に教えていただいたURLです)
http://www.awesomestories.com/assets/george-vi-sep-3-1939

 戦争へ向かうという局面にあっても悲壮な感じではなく、訥々とした話し方です。流暢でスマートな紳士のスピーチではなく、木訥なしかし誠実な語りかけで、せつせつと国民に訴える、スピーチです。
 オーデンの詩も、ジョージ5世のスピーチも、「人の心に届くことば」の本質を考えさせてくれます。
 今、世界で起きていること。人々が交わすメッセージは、さえずりとなって世界中を駆け巡り、世界を変える力になっています。この一筋の肯定の焔は、どのような力をもってしても、決して消してしまえないと思います。

<おわり>