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日本語・日本語言語文化・日本語教育

レミとネロ(明治~昭和の児童文学受容)

2008-10-07 07:32:00 | 日記
1 
1-1 レミの受容

 明治時代には、子どものための物語も、欧米からの翻訳物語や翻案ものが流行しました。
 『家なき子』のお話。少年レミが、苦労の末に実の母ミリンダ夫人に巡り会う「母さがし物」です。
 原作は1878(明治11)年エクトル・アンリ・マロが書いた "Sans Famille"。
 1903(明治36)年、読売新聞記者の五来素川が翻案し、「未だ見ぬ親」と題して発売されました。
 主人公レミの名は「太一」に、太一が8才まで育った「シャヴァノン村」は「関谷新田」となり、育ての母は「関谷新田のお文どん」。太一が売られた旅回り一座の「ヴィタリス親方」は「嵐一斎老人」、犬の「カピ」は「白妙丸」と、すべて日本を舞台にしたものとして翻案されています。
 五来素川(本名欣造ごらい きんぞう1875(明治8)年~1944(昭和19)年)は、読売新聞主筆をつとめたあと、明治大学早稲田大学で教鞭をとり、政治学を講じた。『儒教の独逸政治思想に及ぼせる影響』で政治学博士号取得(1929年)

 この「太一の物語」につよく心を動かされた小学生が東北にいました。
 1905年、小学校3年生だった宮澤賢治は、担任教師だった八木英三教諭が教室で読み聞かせてくれたこの物語に深い感銘を受けました。
 後年になって、賢治は八木教諭に会った時、自分の童話創作の動機を次のように語っています。(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』による)
 『 私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです。その時分、先生は「太一」のお話や、「海に塩のあるわけ」などいろいろのお話をしてくだすったじゃありませんか。その時私はただ蕩然として夢の世界に遊んでいました。いま書くのもみんなその夢の世界を再現しているだけです。 』
 翻案された欧米の児童小説が、東北花巻の小学生の心に残る。彼はその後『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』など、独自の作品をつぎつぎに生みだしていく。
 翻案小説が、他国に根を張り、それが新たな物語の種として育っていく、ひとつの典型がここに現れています。
 1911(明治44)年には「大阪毎日新聞」で、菊池幽芳が同じ物語を「家なき児」という題名で発表し、1912年に春陽堂から発売されました。以後、この「家なき子」という題が定着しました。
 現代日本の『家なき子』ファンにとっては、アニメの「家なき子レミ」です。1977年10月2日から1978年10月1日まで全51話が日本テレビから放映されました。

1-2 ネロのアニメ化
 このような「翻案」ものの中で、近年の傑作といえるのは、『フランダースの犬』です。
 原作は、イギリスの女性児童文学者ウィーダOuida(1839~1908)の短編『フランダースの犬A dog of Flanders 』
 翻案作品は、テレビアニメ作品『フランダースの犬』、主人公は、ネロ少年です。



2-1 パトラッシュ・フランダースの犬

 1975年1月5日から同年12月28日まで、フジテレビ系列の「世界名作劇場」枠で放映されたテレビアニメシリーズ『フランダースの犬』は、短編だった原作を、日本文化にうまく適合させて、長編アニメにしてあり、翻案として成功をおさめた作品のトップクラスだと思います。
 このアニメの大きな特徴はふたつ。
 主人公ネロの年齢が、原作では15歳、アニメでは10歳であること。 
 アニメの第1話~40話は原作にはなく、アニメのオリジナルストーリーだ、という2点です。
 ウィ-ダの『フランダースの犬』とアニメ『フランダースの犬』の差は、主人公の名前や地名を翻案した『未だ見ぬ親』と『家なき子』より、ずっと大きい。
 この差を無視して、ウィーダ原作の読者受容とアニメ作品「フランダースの犬」人気を比較することはできません。

2-2
 ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成しました。
 以下、読売新聞の特派員による記事(ブリュッセル=尾関航也)(2007年12月25日11時39分 読売新聞)より引用。
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  ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。
  物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36歳)。
  制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。
  物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。
  原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。
  米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。 悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。
  ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。
  プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36歳)は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。
  上映時間は1時間25分。使用言語は主にオランダ語で、日英の字幕付きDVDが今月(2007年12月12日)からインターネットなどで販売されている。
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2-3 ネロとアロア

 日本人が涙を流すほとんどは、ウィーダの原作を読んでのことではなく、アニメ「フランダースの犬」を見てのことです。
 アントワープの大聖堂でルーベンスの『キリストの降下』の絵を見て涙を流す日本人観光客の何人がウィーダの原作を読んでいるかは、不明なのです。
 私自身、原作を読んだのは小学校のころであり、それから一度も読み直さなかった。
 今回のことがあって、50年ぶりに読み返しました。
 岩波少年文庫『フランダースの犬』、すぐに読み終わった。短編だから。
 文庫95ページ分の、あっという間に読み終わる作品です。
 アニメ作品は1年間52話が放送されましたが、そのうちの原作相当部分は42~52話だけなのです。
 もし、原作通りにネロとパトラッシュの物語がアニメになったとしたら、これほど多くの人々が「もっとも心に残るクリスマスの物語は、大聖堂でルーベンスの絵を見上げてほほえんで死んでいくネロとパトラッシュ」という気持ちを持ち続けたかどうか、疑問です。
 原作ではネロは15歳になっています。
 一方、アロアは原作では12歳。
 原作が書かれた当時のヨーロッパで、15歳というのは、庶民階層の男の子が自立してしかるべき年齢です。自分の人生を自分で開拓していくべき少年期から青年期への移行期間にあたっています。
 翻訳されて日本に移入された明治の日本でも、15歳はけっして「子ども扱い」される年齢ではありません。中学校への進学率はまだ低く、12歳で小学校を卒業したあとは、一人前の労働力として期待されました。
 また、ネロが15歳だとすると、12歳のアロアとふたりだけで親しくすることを心配する親の気持ちもわかり、アロアの父親が、ネロに苦言を呈するのも頷けます。
 年頃の娘をもった父親なら、15歳の男の子が自分の娘と二人でいっしょにすごすことを快く思わず、「うちの娘とつきあうな」と言うでしょう。
 アニメでは、アロアは8歳に設定されています。ネロの年齢は、15歳ではなく、アロアより2歳年上の10歳になっている。
 この年齢設定の意味は大きい。
 10歳は、まだまだ自立するにはむずかしい年齢であるし、アロアとふたりっきりですごしていても、引き裂かれなければならない年齢には思われません。

2-3 アニメ「フランダースの犬」

 第1話から40話までの「日本のフランダースの犬、オリジナルストーリー」は、とても良くできています。
 ラストの悲劇に向かって、10歳のネロのけなげさ、パトラッシュとの絆に、涙しない人は「人」であるぞよ、これでもかっ!っていうくらいに、盛り上がっていく。
 原作でもアニメでも共通していると思われるのは、ネロが識字教育を受けているのかどうか不明である点。原作の設定では、おそらくネロは字が読めない。
 ウィーダの生きた時代19世紀、学校教育を受けて字が読める層と、読めない層の階層差は、現代では考えられないくらい大きなものでした。
 ウィーダの時代の考え方によれば、中産階級の子弟なら、学問を身につけて己の社会的地位を獲得すべきだし、土地財産をもたない下層階級の子どもなら、手に職をつけ一人前の職人になるなどの「自己形成ビウドゥングス」が必須のこととされていました。
 絵が好きなら、マイセン陶器などの絵付師に弟子入りするとか、タペストリーの下絵職人の親方の下で働くとか、なんとかツテを求めて、手に職をつけるよう家族がはかるところだったでしょう。
 しかし、原作では、15歳のネロの唯一の家族ジェハンおじいさんは、物語の最初からすでに寝たきりの老人で、ネロの将来のために何かしてやれることがでる状態ではない。
 老人は、ネロのためにコゼツ旦那に下げがたい頭でも下げるとか、教会が嫌いでも牧師に頼み込むなりして、ネロを徒弟奉公に出すよう、しておくべきだったのでしょうが、そうする前に病にたおれたのでしょう。
 この物語の舞台になっているベルギーでも、作者の国イギリスでも、この物語があまり受けなかったのは、キリスト教国において、教会コミュニティが機能せず、みなし児のネロのために周囲のコミュニティが何もしてやらないというストーリー展開に共感できない人も多いからではないでしょうか。

2-4 負け犬

 「フランダースの犬」の作者ウィーダは、ヴィクトリア王朝の時代の英国女流作家です。 ウィーダが作品を発表したころは、女性がようやく社会に進出できるようになった時代でした。
 女性の社会進出には、女性も識字教育を受けるようになったことの影響が大きい。読み書き能力(リテラシー)は、社会進出の第一の手段です。
 ヴィクトリア朝以前の英国女性の識字率はとても低かった。
 農民男性の識字率の低さより、さらに農民女性は低い識字率でしたし、貴族階級の女性は「右筆(ゆうひつ)=貴人のために読み書きをして仕える使用人」を雇うことが貴族女性の証だから、自分自身が文字の読み書きをする必要はなかった。手紙も領地の相続に関わる公文書も、信頼できる有能な右筆に口述筆記をさせれば間に合ったからです。
 例をあげるなら、イギリスの名家ライル卿夫人の娘アン・バセット。
 彼女は、ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモア(世継ぎのエドワード6世を生んで1ヶ月後に死去)に使えた女官であったけれど、「自分の名前しか書けない」と述べています。手紙は従者に口述筆記させていました。
 私はこの事実を、スーザン・W. ハル『女は男に従うもの?―近世イギリス女性の日常生活』 (刀水歴史全書)で数年前に読み、びっくりしたものでした。貴族階級の女性は高い教育を受け、読み書きできるとばかり思いこんでいたからです。
 ヘンリー8世の娘エリザベス1世は、数カ国語に堪能で読み書き能力にもすぐれていたと言われていますが、そのため彼女は、「幸福で平凡な結婚生活」ではなく、「国家との結婚」を選択することになりました。
 イギリスの識字女性は、上級階級でも下層階級でも少数派でした。
 読み書き(リテラシー)能力が必要だったのは、中産階級の女性のごく一部、貴族の家に住み込んで家庭教師として働かなければならないような階級の娘に限られていました。たとえば、ジェーン・エアのような。
 ヴィクトリア朝に至って、ようやく女性たちは文字を読み書きすることで社会進出をはたすようになりました。
 『フランダースの犬』の作者ウィーダもそのひとりです。
 ただし、ウィーダは、この時代の「自立した女性」がそうであったように、生涯結婚しませんでした。
 小説家として華々しい活躍をしたあと、晩年は孤独と貧困のうちにひとりぼっちで死にました。
 『フランダースの犬』が、アメリカでは映画化のたびに「ハッピーエンド」の物語に書き換えられたことと、ヨーロッパでは「負け犬のものがたり」としか受け取られてこなかったことは、同じひとつの考え方の表裏です。

2-5 滅びの美学

 ウィーダの思想のなかには、抜きがたい階級意識が存在していたと考えられます。
 当時の中産階級の女性として、自分が「下層階級ではない」と意識することは「自分は男性ではない」と思うのと同じ、当然のアイデンティティであったことでしょう。
 下層階級の人々の生活を小説にするという場合、そこには当然「上から目線」での見方が存在します。
 下層階級のネロを主人公にした小説が書かれた時代には、「上層階級」「中産識字階級」と、「下層非識字階級」との間に、現在では想像しがたい階級差があったことを忘れることはできません。
 ウィーダの視点が「だれからの援助もうけられない運命をたどったネロ」「はい上がることを拒絶された下層民のお話」という目線のもとに執筆されたことを、現代の視線でとやかくいうことはできないでしょう。
 そして、このお話が「はい上がろうとする下層階級」からみても、「能力に応じて自力で将来を切り開けと育てられた中産階級」からも、「下のものたちを指導し援助すべきノブレスオブライジを負う上層階級」からも、共感の得られないお話だったことも理解できます。
 日本に「フランダースの犬」が翻案移入された時代、20世紀初頭の日本は「立身出世欲」が最高に盛り上がっていた時代でした。
 華族士族平民の差はあったものの、士族であれ平民であれ、学校教育において能力を発揮すれば、立身出世が望める時代でした。
 貧しい者が勉学の機会を得るには、①軍に入る、②授業料無料の師範学校に入る、③故郷出身の成功者の家に「書生」として住み込む、など、いくつかの方法がありました。
 歌人斎藤茂吉は、③を選択し、斎藤家の書生になりました。私の夫の伯父や伯母は、②を選択し、教師になりました。
 下層民出身のネロが、そのような立身出世を機会を得られなかったことに、同情こそすれ、「上から目線」で気の毒がる、という風潮ではありませんでした。
 なぜ日本で「フランダースの犬」が同情を集め、日本だけでこれほど多くの人々に愛される物語となったのかを、検証したのがベルギーのドキュメンタリー映画『パトラッシュ・フランダースの犬』です。
 映画『パトラッシュ』では、100人以上の人へのインタビューや、明治から今までの日本での「フランダースの犬」の翻訳本を検証し、「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけました。
 古くは、権力争いに負け九州太宰府に流された菅原道真、諸行無常の『平家物語』に描かれた木曾義仲、判官義経などの滅び行くもののふの姿。
 天下統一に王手をかけながら、本能寺の炎の中に49歳をもって滅亡した織田信長、明治の新天地を目前にしながら、暗殺された坂本龍馬など、敗北者にこそ、自分たちの心情を託す日本文学の美学が、「アニメ・フランダースの犬」の翻案に大きな影響を与えたことは確かだと思います。

3-1 パトラッシュ昇天

 ここで、もう一度ネロの年齢を確認しておきましょう。
 日本の「パトラッシュ人気」は、あくまでも1~41話のお話がつづいたのちの、10歳のネロが死ぬラストの悲劇にあります。
 ウィーダの原作によって物語が進行し、15歳のネロが力つきたのだったら、日本人も、ここまでネロとパトラッシュの悲しいラストシーンに共感をよせなかったのではないか、と思われます。
 ネロの悲劇は、「10歳という設定」と「1~40話」のオリジナルストーリーの上に成り立っていること、ウィーダの原作と日本のアニメ「フランダースの犬」の差は、シェークスピアの「マクベス」と黒澤明の『蜘蛛の巣城』、また、黒沢の『七人の侍』とマカロニウェスタン『荒野の七人』の差以上に大きい。
 ヨーロッパで「負け犬」の物語とされてきた『フランダースの犬』が、ここまで日本人の琴線を揺るがしたのは、この翻案の年齢設定の絶妙さによると思います。
 最後に、日本のアニメの翻案で、欧米キリスト教圏の人の考え方ともっとも大きく違うところ。それは、パトラッシュの昇天です。
 アニメの、天使たちに守られながら天へ登っていくネロとパトラッシュの姿は、「負け犬」などではなく、「ちからいっぱい戦い、生き抜いた末に、力つきていくもの」の美しさを持っていました。
 その犬と少年の姿の荘厳さがあるからこそ、「アニメ名場面集」という特集が組まれれば必ず上位に「ルーベンスの絵を見て死んでいくネロとパトラッシュ」が選ばれるのです。
 パトラッシュをいっしょに連れていかないでは、ネロのラストのほほえみは考えられません。
 ここで確認しておくべきこと。
 キリスト教国では、人間と犬がいっしょに昇天することはできません。犬と人が同時に天に昇っていく図柄は、不自然なものです。
 キリスト教では、犬には霊(人格)があるとは考えません。犬に魂や「心」はあるとしても、神のみもとへ召される霊はないのです。
 日本語では「霊魂」といいますが、キリスト教では霊と魂は別概念です。
 人間は、体に現された魂と、不滅の霊の息吹が吹き込まれた体とが、一つになった「神の神殿」とみなされ、その意味で、神の霊が宿るのは人間のみ、と考えられているのです。
 日本アニメの翻案のうち、もっとも「日本的な絵」は、この最後の「パトラッシュ昇天」であり、犬の霊が人とともに天使にむかえられるというところだ、と私は思います。
 このラストシーンは、「一寸の虫にも五分の魂」の仏教思想が反映されています。一寸の虫に五分の魂ならパトラッシュには50cmの霊魂です!
 つまり、ルーベンスの『キリストの降下』の絵を見たあと、ネロは微笑みながら、パトラッシュとともに、阿弥陀様のいる極楽へ迎え入れられているのでした。

 さて、ここで、もう一度原作の『フランダースの犬』を確認しましょう。ウィーダが残したラストシーンは、「生涯ふたりはいっしょにすごし、死んだ後もはなれなかった。なぜなら少年の腕があまりにしっかりと犬を抱いているので」と、ネロとパトラッシュの固い絆を描いて終わります。
 生涯を独身ですごしたウィーダは、大の犬好きで、晩年の貧困生活にあっても、犬の食べ物を得るために家具を売り払ったと伝えられています。ウィーダは「犬いじめ」などが祭りの興業として人々の娯楽のひとつだったビクトリア朝の世相のなかで、もっとも早く「ペットと人の絆」を書き残した作家です。ヴィーダがキリスト教徒であったとしても、私は、ヴィーダ自身は「犬とともに昇天する」ことを望んでいたのではないかと想像しています。表だってそのようなことを表明すれば、キリスト者として異端となるかもしれない思想を、こうやって「犬と少年の絆の物語」として描いたのではないかと。

3-2 おわりに

 ネロは「ニコラス」のニックネーム。そして、聖ニコラスは、クリスマスに橇に乗ってやってきて、子どもたちにプレゼントをする聖人です。犬ぞりで牛乳瓶を運ぶネロの姿は、聖ニコラス(セントニコラウス=サンタクロース)と重なります。
 すべての恵まれない子どもたちに、最後のさいごにサンタクロースのプレゼントへの希望をつなぐための物語。心の絆は人と人だけでなく、犬との間にもあること、最後にルーベンスの絵を見たネロはほほえんでいたこと。
 やはり、日本人の心にとって、ネロとパトラッシュは「負け犬」の物語ではあり得ない。

 以上、翻案という作業が、アニメ「フランダースの犬」も、受け入れる側の社会思潮が関わりつつ受容がなされていることを概観し、翻案の成功には、それを受け入れる社会に、受け入れるための社会思想が形成されていること、受容された物語は、さらに人々の心に残り、社会思想共同幻想の形成に利用されていくことを考察しました。
<おわり>

参考文献
エクトール・アンリ・マロ(Hector Henri Malot)『家なき子』青空文庫よりダウンロード
堀尾青史『年譜宮澤賢治伝』中公文庫(1991)
ウィーダOui'da『フランダースの犬A Dog Of Flanders(1872)』岩波少年文庫2003
スーザン・W. ハル『女は男に従うもの?―近世イギリス女性の日常生活』刀水歴史全書2003

オセロの受容と変容

2008-10-06 18:56:00 | 日記
1 日本演劇史
2-1 正劇オセロ
2-2 貞奴と音次郎
2-3 明治社会とオセロ
2-4 川上一座の室鷲郎
2-5 デズデモーナから鞆音へ
2-6 貞奴の身体性
2-7 黒田事件
3 オセロの変容
4 現代のオセロ
5 結論


「日本語言語文化における主体性の研究-日本的主体を成立させようとした演劇受容の一例について」

 本稿は、川上音次郎一座によって1903年に上演された『オセロ-室鷲郎』について、日本でのシェークスピア受容と変容を論じる。『オセロ』の核となるストーリーの運びはシェークスピアの戯曲を用いながら、明治期日本の社会情勢によってどのように人物像が浮かび上がってくるのかを見ていく。
 明治中期以後の日本の帝国主義的海外進出と、産業資本主義の急激な発展期に、他者の視線によって成立する自己アイデンティティの表出、明治日本が「西洋」「遅れていて野蛮な台湾」のふたつの視線によって、日本的主体を成立させようとした過程のひとつとして、「オセロ=室鷲郎と鞆音の物語」を考察したい。
 また女性史の面から、オセロのヒロイン、デズデモーナ像を論じた言説の可否について見ていくことにする。室鷲郎の妻鞆音は、近代家族制度家父長制度のなかに押し込められた明治期の女性たちに、近代国家が要求する「貞淑でつつましやかな良妻」の規範を体現する存在だったのかどうか、当時の世相から見ていく。

1 日本演劇史
 日本演劇史は、受容と変容の歴史である。
 法隆寺などに残されている面をつけて踊ったという伎楽は、唐時代の中国に西方地域のペルシャなどから伝わった胡の舞踊だといういうし、平安の都で舞われた越天楽や青海波などの舞楽も、大陸から伝わった踊り。各地の神社に伝えられる神楽や巫女舞も伎楽・舞楽が各地の神舞と習合したものである。
 中世には大陸から伝わった散楽が農村での田楽に変容し、そこから能や狂言が成立した。
 日本に中世から伝わっている説話『百合若大臣』。百合若大臣の話は、幸若舞として上演された。幸若舞を愛好したという織田信長も知っている話だったであろう。主人公の百合若は、合戦から帰る途中、家来に裏切られて島に置き去りにされる。島を脱出し、苦労を重ねてやっと帰還。貞淑な自分の妻に言い寄っていた男たちを弓で射殺し、妻のもとに帰った、という話。
 坪内逍遥や南方熊楠が唱えた説に「百合若大臣はユリシーズの翻案」というものがある。『百合若大臣』あらすじは、ギリシアの『オデュッセイア』と、よく似ている。オデュッセウスのラテン語名「ウリッセス」で、英語名は「ユリシーズ」。ユリシーズが百合若に変わることは、考えられることだが、このような類話は、各地独自に、同じような話が生み出される場合もあるし、なんらかの影響関係から、もとの話が各地に伝播していく場合もある。
 現在の研究では、ユリシーズと百合若大臣に直接に影響関係のある翻案だったかどうかは、まだ不明である。古今東西の文献を網羅して脳内にしまっておくことのできた博覧強記の学者、南方熊楠などが「ユリシーズ→百合若」説を打ち出しているなどから、今後の比較研究が深まることが期待される。
 いずれにせよ、一国の文化は、孤立したままではいない。海によって大陸と隔絶したかに見える地理的な位置を持つ日本の文化も、むしろ海が「海路」となってさまざまな分野で海外の文化がもたらされ、受容し変容する中で、列島の文化を維持発展させてきた。
 本稿では、明治期における「西洋演劇の受容と変容」をとりあげ、シェークスピアの「オセロ」がいかなる受容と変容によって上演されたのかを考察する。


2-1 正劇オセロ
 幕末から明治初期にかけて、啓蒙主義的な言説が次々に日本に移入され、近代日本の思想を作り上げるために利用された。欧米文学の移入も盛んに行われてきたが、一般社会に影響を及ぼすような大規模な文学紹介は、明治中期以後、欧米留学から帰国する「新帰朝人」の活躍によってなされた。
 二葉亭四迷のロシア文学紹介、森鴎外のドイツ語圏の文学紹介などが盛んに行われ、欧米文学の翻案移入は、日本の文化に大きな影響を与えてきた。森鴎外が翻訳した『即興詩人』などは、「元の話であるアンデルセンの原作よりもよほどすぐれた作品に仕上がっている」と、評判になったほどである。
 坪内逍遙も、多くの翻訳翻案作品がある。シェークスピア劇を歌舞伎や新派のために翻案するなど、演劇分野で大きな影響を残した。
 坪内の翻案ものほか、演劇では、西欧翻案ものは人気を博した。日本におけるシェークスピア演劇の嚆矢は、1903(明治36)年、川上音二郎・貞奴夫妻によって上演された『オセロ』である。
 『オセロ(Othello)』は、5幕の悲劇。シェイクスピア四大悲劇のひとつとして、1602年に初演から、世界各地で現在まで上演が続いている。副題は「ヴェニスのムーア人」(The Moor of Venice)。
 日本初演のタイトルは、『正劇・オセロ』。オセロを演じたのは川上音二郎、デズデモーナは音次郎の妻の川上貞奴。舞台のセットはスコットランドでもヴェニスでもなく、台湾を舞台にした翻案劇であった。女優のいない歌舞伎が中心であった日本の演劇界において、女優がはじめて人前で演じた作品としても重要な作であり、翻案シェークスピア劇上演として演劇史に残る作品である。

2-2 貞奴と音次郎
 川上貞奴は、日本最初の「女優」として、その名が喧伝され、数種の伝記・評伝が出版されている。杉本苑子『マダム貞奴』、山口玲子『女優貞奴』童門冬二『川上貞奴―物語と史蹟をたずねて』など、著名作家による「貞奴の物語」が出され、世に知られてきた。特に、NHK大河ドラマ『春の波濤』は、貞奴と電力王と呼ばれた福澤桃介(正妻は福澤諭吉の次女、房)との恋が主要ストーリーになっている。
 私がもっとも早く貞奴について読んだのは、長谷川時雨『近代美人伝』(1936)による。
 川上貞(旧姓:小山)、1871(明治4)-1946(昭和21)年。維新明治初期の社会変動により生家が没落し、7歳で芸妓となる。容姿端麗芸事上手のためたちまち売れっ子となり、伊藤博文に水揚げされたのちは、伊藤の庇護を得たほか、西園寺公望らの贔屓を受けた。
 1894年、22歳の貞は、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と、金子堅太郎の媒酌により正式に結婚した。
 1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行し、女形の死去(または興業主からの拒否)のため急遽代役を務め、日本初の女優となった。1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、同年、万国博覧会において会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演した。これは、日本からの正式参加ではなく、勝手に興業したものだったが、大好評を博した。この公演の後楯は、フランス駐在公使の栗野慎一郎であった。栗野が正式参加者ではない川上一座を支援したのも、貞奴に有力政治家の「贔屓」がついていたおかげと考えられる。幕末から明治時代、日本の演劇一座が海外で公演を行った例は多数あったが、日本政府側の支援を受けたのは、川上一座など、ごくわずかである。
 フランス政府はこの時、オフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与したほど、貞奴を厚遇し、パリはジャポニズム一色となった。ジャポニズムは、中国趣味(シノワズリ)を凌駕して絵画やファッションに大きな影響を残した。
 帰国後の川上一座は、いわば「凱旋公演」の趣で、各地を巡演した。
 1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立したが、3年後の1911年に川上音次郎が死去し、貞は演劇界から引退した。長谷川時雨が『近代美人伝』に貞奴の章を書いたときは1918(大正9)年であったため、貞奴の物語は、女優引退の部分で終わっている。
 日本初の女優、川上貞が、寡婦となり女優引退してのちの人生、さらに波乱がある。
 貞奴が、「奴」という源氏名で芸妓をしていた時代、無名の慶応大学生と出会い、恋に落ちた。だが、この恋は実らず封印された。なぜなら、このときの苦学生岩崎桃介は、洋行留学の費用を出してもらうことを条件に福澤諭吉の養子となり、留学から帰国後は約束通り、福澤の次女房と結婚したからだ。桃介は事業家として成功すべく奮闘し、電力王という名で呼ばれる大物に成長した。貞が寡婦となったとき、義父諭吉もすでに亡く、当時の経済界政界の大物がそうであったように、正妻以外の愛人を囲うことをはばかることはなかった。
 夫川上音次郎の死後、1920(大正7)年以後、貞は福澤桃介の愛人として同棲した。桃介50歳、貞47歳での、若き日の恋の成就であった。桃介が1938(昭和13)年に70歳で死去するまで、20年をともに暮らした。67歳で再び寡婦となった貞は、桃介なきあと8年を生き、1947(昭和21)年、75歳で死去した。
 
2-3 明治社会とオセロ
 1899(明治32)年から1900(明治34)年にかけて、川上一座は欧米諸国巡業を行った。
 アメリカでは小村寿太郎全権大使が、当時の大統領マッキンレーほかの上流人士に紹介の労をとるなど、「伊藤公」以来の「貞の贔屓筋」が生かされた。
 自由民権壮士であった音次郎は、海外公演においてはナショナリズムを打ち出し、「楠公」「児島高徳」「台湾鬼退治」などを上演した。欧米人に受けたのは、「芸者と武士」一作のみ。芸者を演じる貞奴の踊りのエキゾシズムと、武士がハラキリをするシーンのみが大受けしたのである。上演された劇の成否はともかく、「パリ万博で大受けし、勲章を授与された」というのは、他の劇団には見られない、文字通りの「洋行の勲章」となった。
 1903(明治36)年、「洋行帰り」というキャッチフレーズを全面に出した川上音二郎・貞奴夫妻によって『オセロ』が上演された。2月11日紀元節、明治座においての上演は、他の劇団では考えられないほど入場料が高かったが、公演は大成功に終えることができた。

作:シェイクスピア
訳:江見水蔭
配役:室鷲郎(オセロ)川上音二郎
    鞆音(デズデモーナ)川上貞奴(新聞予告の中では市川九女八)
    その侍女 藤間静枝
    伊屋剛蔵(イヤーゴ)高田実
    お宮(エミリア)市川九女八 守住月華
 この上演は、川上音次郎にとって一座が目指す演劇を日本の世間に示す絶好の機会ととらえられた。音次郎は、「壮士劇」「新劇」などの用語が提出されていた演劇界にあって、自分たち一座の演じるものを「正劇」と名付けたのである。
 欧米列強国の「オリエンタル趣味」の中で公演を続けた川上一座にとって、「文明社会」の一員となることが演劇上演の意義であった。西欧と同じ「帝国主義」をめざす「近代国家日本=天皇」の臣民として、演劇を「天皇のために」上演することが、川上一座を支援した明治エリート層、伊藤博文小村寿太郎金子堅太郎たちとの「共闘」を示すものと意識されたのである。
 20世紀初頭に、ヨーロッパ帝国主義、近代国家主義の「オリエンタリズム」のまなざしを受けた川上一座は、シェイクスピアの『オセロ』の上演にあたって、日清戦争後日本の植民地として領有した台湾を舞台とした。主人公「ヴェニスのムーア人オセロ」を、台湾原住民鎮圧のために台湾に送り込まれた、薩摩出身の帝国軍人に設定している。川上音次郎にとって、「演劇」は、「国家国民意識」を表明する手段でもあった。「西洋演劇、沙翁の翻案『オセロ』」の上演は、近代日本が台湾へ朝鮮半島へと「帝国主義的発展」を実践することの演劇的表現として、川上音次郎によって取り上げられたのであった。

2-4 川上一座の室鷲郎
 川上音次郎の翻案演出が、どのようにシェークスピア劇から変容しているかを見てみよう。
 シェークスピアが「オセロ」を書いた17世紀初頭のイギリスでは、まだ黒人との関わりは薄く、北アフリカのモスレム(イスラム教徒)についても特に差別の対象とされていたわけではない。オセロもキリスト教徒に改宗していると設定されているので、イスラム教や黒人差別をモチーフにして執筆された原作ではなかった。しかし、産業資本主義の労力として黒人奴隷が欧米社会に浸透すると、オセロの悲劇も彼の「キリスト教徒として生まれたのではない」「黒人」という出自を悲劇の要因とする解釈で上演されることも多くなった。オセロ自身は改宗しているが、なおヨーロッパブルジョア社会からみると、「生まれながらのキリスト者ではない人々」とは、非文明社会を代表する「他者性」のシンボルとして記号化されていた。「オセロ=ヴェニスのムーア人」とは、キリスト教社会において宗教的にも人種的にも差別排他を受ける「他者」への視線を受ける存在だった。
 川上音次郎が「正劇オセロ」を上演する以前に、アメリカまたはヨーロッパで見たことがあるかどうか、私の手元の資料ではわからないのであるが、もし見たとしたら、すでに産業化を経て、奴隷解放の時代に入ってなお、黒人への差別が深く社会に浸透していた19世紀欧米のまなざしによって上演されていたオセロであったことだろう。
 川上音次郎のオセロ(室鷲郎)は、台湾総督の地位にあり、「原住民」「土匪鎮撫」のために台湾の澎湖島へ派遣されている日本帝国軍中将である。薩摩出身者として、無骨な武人らしい人物として設定されてはいるが、宗教的人種的な差別を受ける立場ではない。
 室鷲郎は「」出身ではないか、と噂される背景を持っている。ただし、上演台本の中で、そのことが特に差別のまなざしを受けることはない。薩摩出身の軍人であるということは、当時の社会では「勝者・強者」である。
 川上がオセロに「」という出自を与えたのは、原作のオセロが身に帯びている「常に差別のまなざしを受けて生きる者」という人物像を作りたかったからであろうが、台湾総督として、軍関係者や現地の「原住民」と関わる室鷲郎には、「被差別」の状況は反映されていない。川上音二郎が演じたオセロは、薩摩弁を強調し、粗野だが合法な男らしさ無骨さを際だたせた人物像になっていた。
 依田学海は、1903(明治36)年3月の『歌舞伎 第34号』での劇評で、「オセロが黒人(依田の表現では「くろんぼう」)であるなら話はわかるが、帝国軍人の姿としては、このように騙され陥れられる者では困る」と述べている。
 また、当時の演劇界の重鎮、坪内逍遙は、同じ『歌舞伎34』で、風貌を黒人とするか否かについては、「シェークスピアは、二グロとムーアの区別をよく知らなかったかもしれないので、色は黒くなくてもよい」としながらも、オセロを人種的に「黒奴、クロンボ、蛮人」などの「劣った記号」として見なす点では依田の見方と同じ立場、すなわち帝国主義的な優越感を示し「文明―野蛮」図式で「他者オセロ」を見ている。「オセロが黒人であるなら話はわかるが、帝国軍人の姿としては、このように騙され陥れられる者では困る」との依田学海評。黒人ひいては、この舞台に登場する台湾原住民への蔑視は、依田や坪内の中で「文明人として当然」のものであった。日清戦争後10年近くがたち、台湾の併合領土化が着々と進む中で、「近代化した日本」を国民意識に定着させるためには「野蛮で遅れた台湾原住民」の存在を必要としたことの反映である。遅れてきた近代国家ニッポンに「近代的主体性」を成立させるためには、「他者の存在」「他者のまなざし」が必要であったのだ。
 「他者の視線」これは同時に、明治ジェンダーの視線でもあった。「男たちの共同体」近代国家を成立させるためには、強い支配者たる男が必要だ。維新期には、お化粧お歯黒をして長くひきずる衣装を身につけていた少年明治天皇は、西南戦争後は、軍服を着て馬にまたがる「男」へと身体性の変換を迫られた。軍服をきた「ご真影」配布は、「男性原理」で国家改造を進めなければならなかった明治国家の象徴でもある。
 軍服のオセロが薩摩武士とされていたのは、この「男性原理」象徴のひとつの表現であるが、その「軍服」が「くろんぼでもないのに部下に騙される」男であるのはイカン、という依田学海の評となるのも、「軍人のあるべき姿」が社会に浸透した日清戦争後10年、日露戦争の前年の上演であったことを知ればうなずける。
 川上音次郎は、なぜ新帰朝第一作として『オセロ』を選んだかという理由を、『歌舞伎34号』に語っている。「壮士芝居のように男性中心に舞台が推移し、女優の出番セリフが少ないこと。女優は「舞台の花」程度の扱いで主筋において重要ではないから」という理由を川上は挙げている。日本の演劇界での「女優」の立ち位置をまだ図りかねている川上ゆえ、出来る限り女優の重要度が低い作品、かつ、日清戦争後の「国威発揚」を損なわぬものであること、翻案演出者川上音次郎も、観客も「帝国主義側、欧米側から、非文明・野蛮人側をながめる視線によって「オセロ」を演じ、「男性原理」「天皇を頂点の父とする家父長制度」の枠組みのなかで上演された劇であったことを指摘しておかなければならない。

2-5 デズデモーナから鞆音へ
 デズデモーナは欧米社会において、長い間、「貞淑な子どものように純真な妻」として受け入れられてきた。デスデモーナとはギリシャ語で「不運な」という意味である。貞淑を貫きながら殺されてしまう運命を背負ったデズデモーナは、不運なヒロインとして、ひとつの典型的な女性像を成立させてきた。
 「御一新」以来、農業を基盤とする日本社会全体に、突如武家的な女性像が波及し始めていた明治期社会にとっても、シェークスピア劇の女性のなかで、デズデモーナは、もっとも受け入れられやすい人物像と見なされていたのであろう。
 デズデモーナは、自分よりずっと年上で勇猛な武将として知られるオセロを心から愛しており、夫に対しては、尊敬の念を抱いている。この「年の離れた夫への”父を慕うがごとき”尊敬と信頼」は、江戸期までの武家社会における妻の夫に対する態度として、規範的なものであり、江戸の武士家庭規範がそのまま持ち込まれた明治家庭規範における男女像にとっても、デズデモーナは「当然そうあるべき妻」の像として選ばれたのであった。
 最後の場面で、夫に逆らうイアーゴー(伊屋剛蔵)の妻エミリア(お宮)は、デズデモーナよりは積極的な発言をし、自らの信念によって行動しようとした女性であるけれど、やはり男によって殺されてしまう犠牲者「不運な女」である。
 デズデモーナ(鞆音)だけでなく、エミリア(お宮)像の日本的変容は、ムーア人から薩摩武士へと変わったオセロの変容に比べれば、見かけの変化の幅が小さいように見える。
 しかし、舞台での設定以上に、「観客の受容」が作り出す意味は大きい。それが「戯曲・役者の肉体・観客」の3者の合作である「舞台」の宿命なのだ。
 洋装写真も数多く残している貞奴であるが、この初演において、軍服姿のオセロに対して、鞆音は、着物姿で舞台に立っている。「夫に従順な貞淑な妻」を表徴するためには、「洋装」はふさわしくなかった時代であった。鹿鳴館時代は終わっていたが、貴顕夫人が洋装をするのは、宮中晩餐会のような特別な時だけであり、日常生活において洋装をしていたら、特別に眼をひく存在だった。貴顕夫人達も家の中のふだんの生活では和装がふつうであり、台湾赴任中の軍人の妻も和服を着ていたであろう。和装のデズデモーナは、夫につき従う日本女性の一典型として舞台の上にある。
 「恋愛」を受け入れようとし始めた明治社会、しかし上流社会においては「見合い」「政略」「家のため」の結婚がほとんどだった。明治社会のデズデモーナ=鞆音は、「己の恋愛を貫き、夫に対しては最後まで愛を失わなかった女」として、「愛に生きた女性の姿」を貞奴の肉体によって具現化している。
 オセロによる妻の殺害ののち、真実が明らかになる。デズデモーナは夫を裏切っておらず、不倫の証拠となったハンカチは夫イアーゴが盗み出したものだ、という真実を、デズデモーナの侍女エミリアがオセロに告げる。そのエミリアもイアーゴによって殺される。夫を裏切っていない妻デズデモーナ=鞆音が、理不尽にも無実の罪で殺されるというストーリー。夫も結局は死を選ぶという物語を、舞台の上に見つめた人々はどのように反応しながら見たのであったか。
 坪内逍遙は『歌舞伎34号』の『正劇オセロ』批評のなかで、貞奴の演ずる鞆音について「夫婦別ありて行儀正しいといふよりは、斟酌分別ありすぎて冷ややかな明治式」と表している。理知を漂わせた貞奴の鞆音造形だったことが想像できる。

2-6 貞奴の身体性
 戯曲は、舞台の上の俳優の肉体と声によって完成される。観客は俳優の肉体を通して実現化したヒロインを見つめる。このときの貞奴の肉体は、32歳の洋行帰り。まだ若さをつなぎ止めている、自信に満ちあふれたころだったろう。
 『オセロ』初演の1903(明治36)年とは、日清戦争によって台湾を得た直後であり、日露戦争の直前であった。不穏な世界情勢のなかにも、日本帝国が条約改正などの「欧米との対等」の地位をもとめて、はい上がろうと必死だった時期にあたる。
 「女優貞奴」の肉体は、「パリの勲章」「パリの香水にその名を残したヤッコ」であった。彼女が鞆音として舞台上に息絶えたとしても、観客は彼女の栄光を二重写しにしながら見つめただろう。「くろんぼうでもないのに騙されてしまった、しょうもない薩摩軍人」への非難はあっても、貞奴が演じた鞆音への非難は見あたらない。
 この「正劇オセロ」を見た観客はどのような人々であったろうか。このオセロ上演の数年前、1896(明治29)年に貧困の中に亡くなった樋口一葉は、「一ヶ月の暮らしにはどうしても8円かかる」と日記に書き残している。きりつめた生活でも一ヶ月の費用は8円がかかるのに、その8円が工面できなかった一葉。一方、オセロの桟敷席の席料は、9円50銭であった。一葉たちその日暮らしの庶民階級の者達はこの劇を見ることはまずできなかったであろう。この正劇オセロを見ることができた観客は、庶民の一ヶ月の生活費にあたる金額を一夜の観劇に蕩尽できる層であった。
 鞆音は、この9円50銭支払える層の「女性へのまなざし」にたがわぬ女性像を表現していたと言える。しかし、鞆音を演じる貞奴の現実肉体は、あまたの政府要人の贔屓を一身に集めることができ、その贔屓の力を夫に与えた内助発揮した女であり、結婚前は「男達の財力を背景にしたまなざし」を受けて生活する芸妓として生きていた女である。実際の生活で、貞奴が表向き夫を立てる行動を貫いたとしても、人々は川上一座の成功は、貞の功績によると見ていた。
 貞は、「夫には尽くせるだけ尽くした」という思いを持っていた。川上音次郎の壮士的女性観から言えば「二夫にまみえず」であったかもしれないのに、夫の死後は福澤桃介の愛人として同棲することに躊躇していないのだ。もちろん福澤との同棲は川上の死後のことではあるが、この鞆音の姿の表出においても、「夫を支えている」という自負のあふれる貞奴の身体が作り出す鞆音像は、決して「夫に殺されてしまうあわれな不運な妻」としてだけで観客に受容されたのではないだろうと想像されるのだ。はじめて日本の舞台に見る「女優」という好奇の目と、「洋行成功者が演じる悲劇の妻」は、輻輳し二重化された表徴となっていたのではないか、というのが、上演記録を見ただけの私の想像である。録音も映画フィルムも残されていない舞台なので、舞台評などから想像する以上のことはできない「鞆音」の身体である。
 川上音次郎が『オセロ』を選んだ理由を先にあげたが、たとえ「女優の出番が少ないものを選んで、女形に慣れている日本の演劇観客の目に違和感を残さない劇」として『オセロ』を選んだのだとしても、初めて舞台にのった「女優」は、特別な光を身に帯びていたであろうし、事実、貞奴の名声は、この舞台後も夫をしのぐものとして定着したのである。頭のいい貞が、常に夫をたて、自分は影の存在になろうとつとめたのも、影としていようとしても夫より自分の輝きが強いことを知っていたからだ。

2-7 黒田事件
 もうひとつ、この『室鷲郎』が、明治の人々に特別な感想を与える劇内容であったといえるのは、この『正劇オセロ』の上演1903年に先立つこと13年前の事件による。
 明治の高官・黒田清隆は、妻を斬り殺した、と噂を立てられた人物である。1880(明治11)年3月、泥酔して帰宅し、にささいなことで腹をたてて逆上し、部屋にあった日本刀で病弱だった妻・せいを切った。この事件は、黒田の盟友大久保利通が動き、「妻は病死」という結論になったため、噂だけを残して終わりになった。大久保が腹心の警察官僚川路利良に検視を命じ、川路は夫人の墓を掘り起こした。川路は、警察側の医師に「病死との検視結果」を出させた。黒田せいが、長年肺の病を患っていたのも事実だったが、黒田が酒乱で、酔うと刀を振り回す男だったことも周知のことだった。平素は慎重な人柄だったが、酔うと人格が一変し、友人宅で日本刀を振り回すという性癖が知られていた。酔った勢いで、妻を斬り殺す結果になったとしても、あり得ない話ではない。「黒田の妻殺し」という噂は、格好の「新聞ダネ」であった。
 黒田清隆による妻の殺害が、巷間には未だ根強い噂として残っていたいたところへ、「嫉妬のあまり妻を殺す将軍」の芝居である。実際に舞台を見ることができず、新聞などの劇評判記を読みまわすしかない人々にとって、「妻殺し」という文字は、ただちにひとつの噂を思い出す結果と成ったことだろう。人々がこの「黒田の妻の死」を新聞種として好んだのは、「近代国家」「帝国の藩屏としての人民」という枠組みがどんどんと強化されていく社会の中で、江戸後期の芝居、鶴屋南北以降の歌舞伎を彷彿とさせるほど、江戸的「エログロ」に満ちた事件と受け取られたからであった。
 デズデモーナは、夫に首をしめられながら、「こんなことになったのは、私が悪いから」と、最後の瞬間まで夫を許し愛しながら「夫による自らの死」を受け入れている。現代若者用語で言えば、「究極のドS」である。己の身に痛みや苦しみを引きうけることで、愛する者の幸福や快楽を実現しようとする「ドS=超級サディスト」と、現代の若い世代の人によってデズデモーナは評されるだろう。
 「責め絵」の代表的作家伊藤晴雨は、1903年にはまだ描き初めてはいないが、責め絵自体は、江戸末期から明治大正昭和と、密かにしかし連綿と愛好されていたのであり、この『オセロ』の妻の絞殺も、「夫の嫉妬による悲劇」という表の受け取り方の裏には、さまざまな「男と女の事情」がからまった記号として巷間に流出したであろう。夫による絞殺を受け入れた鞆音の姿は、そういう人生を選び取るのもまた女の主体にかかっているのだと、メッセージを送ることにはならなかったか。

2-8 明治社会と鞆音のジェンダー
 私は、加野彩子(1998)の、「女優・川上貞奴が近代のジェンダー範疇の形成にも、帝国主義の再生の過程にも深く関わっている」という現代フェミニズムからの視点による言説にただちに賛成できないものを感じる。
 加野彩子の「彼女(貞奴)は海外においてはエキゾテイックなゲイシャ・ガールを演じ、それによって東洋化され女性化された日本の構図を再確認するのに貢献した。だが一方で日本に帰ると、近代の日本国家の男性主体を支えるモダン・ガールの役を演じ、帝国主義の再生に貢献したのである」
 池内靖子(2008)「したがって、貞奴が欧米から帰国して初めて演じたヒロインは、川上音二郎が見通したように、シェイクスピアの他の芝居に見られるような強烈な個性のモダンガールではないが、大日本帝国軍人にふさわしい貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化するものだったといえる。」
というようなフェミニズム視点&近代国家と文化の成立論によるジェンダー定義に対して私が違和感を覚えてしまうのも、彼女ら「女性学者」の目から漏れている姿を鞆音の身体に感じてしまうからなのだ。
 明治の女達の中には、確かに、明治近代国家成立に合わせて、「良妻賢母」教育に絡め取られ、「貞淑でつつましやかな日本女性」の規範に押し込められていった層もある。高等教育を受けるような層の女達にとって、その規範にじわじわと締め付けれれる息苦しさを感じ取り、ブルーストッキングを履いて世の締め付けを蹴っ飛ばしたいと思えたこともあろう。青鞜の女たちは、明治末の1911(明治44)年には、大正へむかって足を高くあげて歩き出す。
 貞奴の「女優」の仕事が、「大日本帝国軍人にふさわしい貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化」をなしたという一面は否定出来ないだろう。しかし、新聞で『室鷲郎』の劇評を見てあらすじを知ったら、その夜に「鞆音ごっこ」を夫に命じる女達も存在しただろうし、「女優」という職業が成立することを知って、世の中に立っていこうと決意した女もいた。
 「日本の女優」の出発点であった「鞆音」が、「貞淑な良妻賢母という日本近代のジェンダー再編に役立つ性定義を強化した」だけでなく、女達を「自分の周囲にはない女のモデル」を示し、「女優という職業」を提示した意味において、女性を解放するひとつの窓を開けておいたことにもなるのではないかと思う。女性が自らを主体として社会に立たせる糸口となっていくための「鞆音」の姿が、刻まれたのだと考えることは恣意的にすぎようか。

3 オセロの変容
 『オセロ』の原典は、イタリア人作家チンツィオ(Cinthio)の『百物語』第3篇第7話にある。デスデモーナはこの話の中では、ギリシャ語で「不運な」という意味そのままに、オセロによって事故死に見せかけて殺されしまう。チンツィオの「ムーア人と結婚した女の物語」は、「ムーア人など、身分の釣り合わない結婚を親の許しを得ずにした結果、不幸になる女」の教訓話として書かれた。
 シェークスピアはその原典を戯曲『オセロ』に翻案し、原典にはなかった人間ドラマとして400年続く上演に耐える作品にまとめあげた。
 川上音次郎は、『オセロ』をさらに翻案し、『正劇・オセロ』として上演した。明治貴顕の後ろ盾をもつことによって、夫を何度も窮地から救い出してきた自負を持つ妻、貞。デズデモーナが軍人オセロをひたむきに尊敬しているように、帰国後の貞は音次郎と向き合っていたのだろうと思う。しかし、貞は、「帝国が植民地へと進していく軍人を支え、彼の犠牲と成って死んでいく貞淑な妻、鞆音」のような人生を歩まなかった。
 原典チンツィオのデズデモーナは、「ムーア人などという人種と、親の許可なく結婚した女のたどった不運な一生」を教訓として残すものだったことを、おそらく貞は知らなかっただろう。15歳のとき出会った芸者と、福澤の養子に選ばれた慶応大学生の恋が実らなかったことを「身分違い」としてあきらめたあと、川上音次郎の妻となったことに後悔はなかったろうと思う。しかし、後半生の貞は、「元女優と電力王の恋」に、臆することはなかった。47歳の貞は、電力王と呼ばれた男の愛人として堂々と同棲し、ひるむところはなかった。鞆音の造形が、後世のジェンダー学者に「大日本帝国軍人にふさわしい貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化した」と、評されたことなど、貞はぽんと蹴っとばすに違いない。

4 現代のオセロ
 1995年10月堤春恵の戯曲による『正劇室鷲郎』がパナソニック・グローブ座で上演された。川上音次郎(加藤剛)川上貞奴(河津左衛子)を主人公とし、ふたりが劇中劇『室鷲郎』を演じる。その舞台や楽屋を描いた入れ子構造の演劇で、これもまた「オセロ」の変容のひとつに数えられるだろう。
 2007年10月4日(木)~10月21日(日)彩の国さいたま芸術劇場大ホールで、蜷川幸雄演出『オセロ』が上演された。オセロ:吉田鋼太郎、デズデモーナ:蒼井優
 蜷川幸男の演出は、「変容」ではなく、正当なシェークスピア演劇としての「オセロ」だったということだが、劇評ではおおむね好評を得ていて、「21世紀のオセロ」もますます人の真実を描いた悲劇として観客の心に足跡を残しているのである。
 最後に、オセロとデズデモーナが、嫉妬の要となるハンカチをめぐって、一語一語すれ違いのセリフを交わしながら、夫の猜疑心を呼び起こすシーンを見ておく。妻は夫への愛を信じ込んでいても、常にことばは行き違い、思いはすれ違う。明治政府は修身教科書のなかで「妻は夫を支え、良き家庭を作ることが、よい国家をつくるものと心得よ」と、女達を教育した。しかし、小説のひとつ、戯曲のひとつを読めば、男と女、妻と夫は、かくもすれ違い、誤解は増殖することを、女達は学んでしまう。
 言葉がすれ違っていくその場面を、見てみよう。嫉妬心の証拠となる1枚のハンカチをめぐってかわされるデズデモーナのすれちがう言葉の数々。

(オセロ第三幕第三場より)
【エミーリア】 旦那様は嫉妬深くはございませんか?
【デズデモーナ】 誰? 主人? そんな気持はあの人が生まれた所のお日様が、
みんな吸い取ってしまったらしいのよ。
〔オセロー登場〕
【エミーリア】 あら、旦那様がいらっしゃいました。
【デズデモーナ】 もうあの人の所を離れないわ、キャッシオーが
呼び戻されるまでは。あなた、ご機嫌いかが?
【オセロー】 いいよデズデモーナ。(傍白)おお知らぬふりをする難(むずか)しさ!
君はどうだ、デズデモーナ?
【デズデモーナ】 いいですわ、あなた。
【オセロー】 手を貸してごらん。これは湿ってるね。
【デズデモーナ】 まだ年もとっていませんし、悲しみも知りませんもの。
【オセロー】 これは実り豊かで、寛大な心をあらわしている。
熱い、熱い、そして湿っている。君のこの手は
自由からの隔離(かくり)、断食(だんじき)と祈祷(きとう)、
厳しい修行と敬謙な礼拝を必要としているという手だ。
それ、若い、汗だくの悪魔がここにいるからな、
よく謀叛(むほん)を起こすやつだ。これは実にいい手だ、
気前がいい手だ。
【デズデモーナ】 ほんと、そうおっしゃってもいいわ、
だって、わたしの心をさし上げたのはこの手ですもの。
【オセロー】 気が大きい手! 昔は心があって手をさし出したものだ。
ところが今の新しい流儀は手だけで、心は無い。
【デズデモーナ】 何のことをおっしゃってるのかしら。それより、例のお約束!
【オセロー】 何の約束かねお前?
【デズデモーナ】 わたしキャッシオーにここへ来るように使いを出しましたの。
【オセロー】 わしは悪い風邪をひいて鼻水が出て困っている。
お前のハンカチを貸してくれ。
【デズデモーナ】 さあ、どうぞ。
【オセロー】 わしがやったのをだ。
【デズデモーナ】 いま持っておりませんわ。
【オセロー】 持っていない?
【デズデモーナ】 ほんとうに持っていません。
【オセロー】 そりゃあいかん。
あのハンカチは、
さるエジプト女がわしの母親にくれたものだ。
その女は魔法使いで、人の心はたいていは読みとれた。
それがお袋(ふくろ)に言った、そのハンカチを身につけているあいだは、
お袋には魅力があって、親父(おやじ)の愛情を完全に
自分に惹(ひ)きつけておくことができる。だがもしそれを失くしたり、
あるいは人にやったりすると、親父の目は
お袋をうとましいものと見るようになり、親父の心は
新しい愛人を漁(あさ)るのだと。お袋は亡くなるとき、それをわしにくれた。
そしてわしが妻を娶(めと)るような巡り合わせになったときには、
それを妻にやれと言った。わしはそうした。だからくれぐれも注意して欲しい、
君のその大事な目と同じに、それを大切なものとして欲しいのだ。
それを亡くしたり、人にやったりすることはまさに身の破滅、
とりかえしのつくことではない。
【デズデモーナ】 そんなことってありますかしら?
【オセロー】 事実だ。あの布には魔法がかかっているのだ。
織ったのはさる巫女(みこ)……太陽が年ごとの軌道をめぐること二百度(たび)、
その年月をこの世の中で数え重ねたその巫女(みこ)が、
精霊乗り移り予言の力を身に受けて、それを織り上げた。
その絹を吐いた蚕(かいこ)の虫は清められて神に捧げられたものだ。
その糸を、熟達した秘法の名手が、乙女の心臓から絞った
魔の体液で染め上げたのだ。
【デズデモーナ】 まあ! ほんとうにそうなのでしょうか?
【オセロー】 正真正銘の事実だ。だからよく注意して欲しいのだ。
【デズデモーナ】 それならそのようなもの、いっそもらわなければよかった!
【オセロー】 何だと! どうしてだ?
【デズデモーナ】 どうしてそのようにぶっきらぼうに、急(せ)いておっしゃいますの?
【オセロー】 失くしたのか? もう無いのか、さあ言え、見失ってしまったのか?
【デズデモーナ】 神様、どうすればよいのでしょう!
【オセロー】 何と言った?
【デズデモーナ】 失くしはしません。でも失くしたって別に……
【オセロー】 どうだというんだ?
【デズデモーナ】 失くしはしないと言ってるのです。
【オセロー】 じゃ取って来い、見せろ。
【デズデモーナ】 そりゃ見せられますわ。でも今は駄目です。
こんなふうにして、実はわたしのお願いをはぐらかすおつもりなんでしょう。
お願いです、キャッシオーをもう一度受け入れてあげてください。
【オセロー】 あのハンカチを取ってこい! 俺(おれ)は不安になってきた。
【デズデモーナ】 ねえ、あなたったら!
あんな立派な方は、またといるものではありません。
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 お願い、キャッシオーのことをおっしゃって!
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 あの方は一生涯あなたのためを思い、
それにすべてを賭(か)けて一すじに生きてきた方です、
いつもあなたと苦楽を共にして来た……
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 ほんとうにあなたって悪い人。
【オセロー】 おのれ畜生!〔退場〕

 「エジプト女の魔法使いにもらった魔法のハンカチだから、これを失うと夫の愛情を失うことになる」という作り話をしているうちに、オセロは自分の心を嫉妬へと導いていく。デズデモーナは、夫の作意にはまったく気付かず、悠長にキャッシオーの復権復職をねがって、夫に迫る。オセロは、妻のハンカチがここにないことを確信し、キャッシオーの名が妻の口から出るたびに猜疑心を膨らませていく。
 人の心の変容を見事にシェークスピアは、一枚のハンカチをめぐって書き表している。
 このシーンで印象に残るのは、デズデモーナが夫のことばの裏にはまったく気づかず、ひたすら夫の部下キャッシオーの左遷を憂えて、彼のために役立つ人間であろうとしている点だ。デズデモーナを「日本近代国家の貞淑な妻」を体現したと見るなら、オセロに「ハンカチを失うと夫の愛を失う」という話で脅されても「失ってはいない」と、強弁しながら、自分の意見をぶつけていく妻の姿は、「貞淑な妻」「黙って夫に従う妻」とは相容れないものだ。この「夫の言葉とすれちがいながらも、自分の主張を続ける妻」の姿は、ジェンダー学者が「貞淑な良妻賢母という日本近代のジェンダー再編に役立つ性定義を強化した」と主張する姿とは異なっているように見えるのだが。

5 結論
 シェークスピア『オセロ』の翻案日本初演を考察し、『オセロ』が近代日本社会にどのように受容されてきたかを見てきた。
 翻案劇『正劇オセロ』は、日本で本格的に女優が女性を演じた劇として、ジェンダー論や近代文化論で扱われてきたが、私がそれらの言説のなかに感じた違和感を、自分なりに考察できたと思う。「鞆音を演じた貞奴の身体は、日本近代国家の貞淑な妻を体現した」という一面からの見方に対し、「それだけではなかったのではないか」という私の思いに、ひとつの解決を与えることができた。
 黒田事件に注がれた視線と同じ視点で「室鷲郎と鞆音」を見た人々もいるのではないか、という疑念、女優貞奴の姿によって演じられた鞆音は、「貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化するもの」という現代ジェンダーの見方による規定以上に、「夫に殺されることも自分自身の運命として主体的に選びとった女」、また、「女優という職業を選んだ女の姿」を、明治社会に確固とした女性像のひとつとして表現しえたのだと、私は思う。
 「女優貞奴」は、近代女性が自己を主張し、自分自身を社会の中に押し広げていこうとするとき、「出口のひとつ」を開いておいた存在なのであり、「夫に殺される運命を、自ら肯定できる主体としての鞆音」を、男にも女にも知らしめた「コトの主体としての女」を開示したのではなかったかと、私は考えるのである。


参考文献

池内靖子(2008)『女優の誕生と終焉-パフォーマンスとジェンダー』
加野彩子「日本演劇と帝国主義:ロマンスと抵抗と」(pp.19-48)[『日米女性ジャーナル』第23号、1998年、城西大学国際文化教育センター
河竹 繁俊(1966)『概説日本演劇史』岩波書店
郡司正勝(1977)編『日本舞踊辞典』東京堂出版
杉本苑子(1975)『マダム貞奴』読売新聞社
童門冬二(1984)『川上貞奴―物語と史蹟をたずねて』成美堂出版
長谷川時雨(1936)『近代美人伝』岩波文庫1985年
山口玲子(1982)『女優貞奴』新潮社
若桑みどり(2001)『皇后の肖像――昭憲皇太后の表象と女性の国民化』筑摩書房
同 (2003)『お姫様とジェンダー』ちくま新書
若林雅哉(関西大学文学部総合人文学科芸術学美術史専修準教授)『萬朝報「川上のオセロを観る」を手がかりに』京都大学大学院文学研究科「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」URLhttp://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/2_tetsugaku1/2_09.pdf





融合文学

2008-10-05 10:57:00 | 日記
融合文化
(1)ポンペ神社
(2)陰陽五行思想
(3)辛酉革命と建国の日
(4)独裁者の王国
(5)はやしさんのこと
(6)心の鎖国
(7)力道山
(8)ジーパン刑事松田優作
(9)マラーノ松田優作
(10)マラーノ文化
(11)融合する文化


ぽかぽか春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>融合文化

(1)ポンペ神社

 司馬遼太郎は、『この国のかたち二』の中、「ポンペ神社」について書いています。(文春文庫77p~87p)

 四国の医者、荒瀬進氏の実家にあった祠に、江戸時代幕末期に幕府がヨーロッパから正式に招聘した唯一の医学教官、オランダ人ポンペ・ファン・メールデルフォールドがまつられていて、一家は、毎日かかさずポンペに礼拝していた、というエピソードです。

 1857年、西洋列国との差を縮めようとする幕府に招かれたポンペは、長崎で、西洋医術を学ぼうとする日本の若者たちに医学や物理学化学を教えた。
 たった一人で、5年にわたって、基礎医学の教授、長崎養生所(日本初の西洋式病院)を運営し、100人を越える日本人の「若き医学者」を養成した。

 ポンペの教えを受けた弟子たちのうち、荒瀬幾造は、結婚した若妻に恩師ポンペへの感謝を語った。妻は、夫が早世したのちも、庭に建てたポンペをまつる祠を大切にして、子孫にも繰り返しポンペへの感謝を伝えた。

 司馬は、このエピソードをもとにして『胡蝶の夢』という小説を書きました。
 「ポンペ神社」の中で、司馬は、日本古来の古神道の精神について語っています。
 クリスチャンであるポンペを神社の祠にまつって大切にする、そういう融合精神こそが、日本的「人を越えた力や心情」を大切にする心であり、古神道の神髄なのではないかと。

 司馬は、山本七平が述べている「日本人の宗教混淆」こそが、日本的寛容の現れであり、すべてを受け入れ、融合していく姿勢こそが、日本文化の源であると評している。

 私も、司馬の説に賛成である。
 縄文時代に固まってきた「日本語」も、宗教も、さまざまな時代にさまざまな地方からこの列島に流れ着いた、多様な文化を受け入れて変容してきたものであろうと。

(2)陰陽五行思想

 昨年11月、北海道にお住まいのpikkipikkiさんから陰陽五行思想についてのご質問をいただきました。
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pikkipikki (2008-11-14 22:45:59 )
賢治の「ポランの広場」の冒頭で行方不明になったのも山羊だったかも?

それと日本文化に影響を与えた中国思想についてお聞きしたいのですが・・槙佐和子さんや吉野裕子さんについてはどう思われますか?
農耕に付随して入ってきたので、これほど日本人の祭りや文化に、中国からの陰陽五行道等が浸透してるのでしょうか?
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 春庭の回答(2008-11-16 10:14:44 )
 ぴっきさんこんにちは。

 槙佐和子さんは、医学医療思想にくわしく、医療の中に入っている五行思想について言及されている方ですが、私は読んだことがありません。
 吉野裕子さんは、30年前に『古事記』で卒論を書く際に、『日本古代呪術・陰陽五行と日本原始信仰』 大和書房 1974 、『隠された神々 古代信仰と陰陽五行』 講談社現代新書 1975を意義深く読みましたが、その後つぎつぎと出版された膨大な五行思想関連について、まだ読んでおりません。

 陰陽五行思想が、農耕をもとにしているというのは、ご指摘の通りです。
 元々日本に土着していた焼き畑農耕やドングリクルミなどを栽培してきた農民思想に対して、稲作農耕にともなって、大陸に浸透していた五行思想が入り込み、稲作農耕民族としての日本の農民のものの考え方の基層に連綿と伝わっています。

 私が、「陰陽五行思想がいかに深く入り込んでいるか」ということの例としてよく取り上げるのが、「ポケットモンスター=ぽけもん」の戦闘能力役割について。
 火ポケモンは鋼(金)ポケモンに勝つが、水ポケモンには負ける。 草(木)ポケモンは土ポケモンを撃退する。ポケモンの戦闘能力にも、ちゃんと陰陽五行思想が繁栄されています。
 現代のこどもたちは、遊びながら陰陽五行の思想をしっかりと身につけている。

 もちろん、これは皮相な例にすぎませんが、無意識のなかに、陰陽五行思想は私たちのものの考え方の中に入り込んでいるのです。
 私が子供のころ楽しみにしていた村の行事。母の実家の村に行って楽しんだお祭りのひとつ「おこうしんさま」
 吉野裕子の陰陽五行思想の著作を読んで、「おこうしんさま」とは、「御庚申様」であることをようやく理解しました。

 西暦年または神武暦を60(十干十二支をかけた数)で割って割り切れる年が庚申の年です。十干十二支の57番目。庚申は十干の庚(かのえ)も、十二支の甲(さる)も、ともに金性であることから、庚申の年や日は金気が天地に充満します。ポケモンでいうと「鋼ポケモンの天下」になっている。こういうとき、人の心が冷酷になりやすく、天災事件事故が増える、と、昔の人は考えた。
 そのため、庚申の夜は、夜中飲み食いの祭りをして、冷酷無比な邪悪なものが人の世に入り込まないようにしたのです。
 庚申信仰について、さらにくわしくお話してみましょう。

(3)辛酉革命と建国の日

 庚申に続く辛酉(しんゆう・かのととり)も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされ、中国では王朝が交替する革命が起こる年とされていました。これを辛酉革命と言います。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金です。
 日本では、推古天皇9年(601年)が辛酉革命の年に当たり、この年の1260年前であるの辛酉革命の年に「神武天皇が即位した」と、逆算されました。

 辛酉の年の元日は、西暦になおすと「西暦紀元前660年2月11日」。日本の「建国記念日」とは、アメリカの独立記念日、中国の10月1日の国慶節とはまったく意味が異なります。「建国記念日」というと、今できの新しい独立記念日を想像されてしまうから、私は「建国神話の日」「建国伝説の日」と改めるべきだと考えています。

 どうしても「建国記念日」という名称が必要なら、進駐軍支配下のUSAオキュパイドジャパンから独立した日にすべきです。日本は1952年4月28日に主権を回復し、独立 国家・日本として再スタートしました。4月28日を「独立記念日」「建国記念日」として祝うなら、ゴールデンウィークが一日増えて、あら、うれしや。

 さて、話を元に戻します。
 庚申信仰は仏教信仰が農民層に広まると、仏教と習合しました。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され、村やの共同体で「庚申講」が組織されるようになりました。庚申講の成果として「庚申塔」やその前身にあたる「庚申板碑」が造立されました。

 私は、東京白金にあるシェラトンみやこホテルの庭を散歩したとき、巨大な庚申塚の石をみかけました。武州の農民達が庚申講を無事終えたことをことほぎ、この巨大な石に講連中の名前を彫って寄進したものです。
 そのときはただああ、大きな庚申塚だなあと思っただけでしたが、こうして庚申信仰など陰陽五行思想について考えてみると、日本に入っている陰陽五行思想の広がりをしみじみ感じることができました。

 折口信夫の「まれびと」思想は、民族学・宗教学のなかに反論も多い論です。折口信夫の論に破綻もありながら、彼のつかんだ「希人、稀人、客人」が、「来訪神」として日本人のものの考え方の基層にあるという論は、今もなお魅力的な考え方だと私は思っています。

 縄文文化以来の「マレビト」思想に、稲作移入とともに、大陸から来た「五行思想」が習合し、さらに6世紀以後に伝来した仏教思想が習合し、私たちの者の考え方の基礎になっているのだと考えています。と、ここまで書いてきて、「五行思想」という一語を質問されて、質問を読んでから30分間でこれだけの回答を書くことの出来るアタシは、やはり「雑学博士」号に価すると自分を褒めています。チャンチャン。

 宮沢賢治は法華経の信者でしたが、彼の作品のなかにも、法華経思想とともに、縄文遺跡三大丸山から連綿と続く縄文的な「匂い」を感じることがあります。「鹿踊りのはじまり」その他に、マタギなどの狩猟民的な匂いもありますしね。

 賢治の『ポランの広場』の「行方不明になった山羊」のテーマは、村上春樹の『羊男』シリーズにつながっているのかもしれませんね。

「文化は世界をめぐり、世界はつながっている」というのが、前シリーズ「布をみる」のテーマでした。
 春庭コラムは「世界市民にとっての文化をテーマにこれからも展開していきますので、以後もごひいき賜りますよう、お願い申し上げます。

(4)独裁者の王国

 正義とはなにか。
 カルト集団オウムが、「自分たちの王国」の幻想を作り上げ、「王国」のためには殺人さえ引き受けたことを、特殊なまちがったことのように思っている人もいることでしょう。でも、私たちも同じことをやっているのです。

 「テロ撲滅のために戦争をしているのだから、その戦争を認めてやっておとなしく税金払うのは、国民として当然」と思うのも、「王国のために、正義のためにサリンをまく」のも、根は同じこと。どちら側から裁くか、という「立場」の違いがあるにすぎません。

 どちらの「利益」に荷担するか、というだけの違いです。カルトオウムは、殺人集団とされています。私もそう思います。でも、それならば、60年前の日本人全員が殺人集団です。第二次戦争中の日本人全員も、戦争を阻止せず認めていたという意味で、戦争に反対しなかった全員は、国家による殺人を認めていたことになる。
 自分たちの仲間が都市無差別空襲や原爆投下によって「非戦闘員100万人が殺された」ことは悲劇でしたが、他の国の「非戦闘員1000万人」を殺すことに同意していたことを忘れてはいけない。

 十字軍も、殺されたイスラム教のひとりひとりから見れば、残虐な殺人者です。
 軍部の暴走を「アジアへの進展」と受け止め、止めようとしなかった国民ひとりひとりが殺人に荷担したのだ、と、チャップリンの「独裁者」を見ればと感じます。

 このような考え方に対して、反対意見をもつ人もいることでしょう。オウムと昭和時代前半の日本を同じだとみなすなんて、とんでもないことだ、と。
 私は、「反対意見を出せない社会」こそ恐ろしい、と考えていますから、違う考え方があるのは当然と思います。

 以下の考え方にも賛否両論があることでしょう。
 都市無差別空襲などで肉親を殺された人々が、「軍人にだけ恩給がだされ、一般市民の犠牲者に何の補償もなかったのは理不尽」として裁判をおこしている人々もいます。東京大空襲訴訟第7回口頭弁論が11月13日、東京地裁103号法廷で開かれ、東京大空襲の実相について、空襲体験者で作家の早乙女勝元氏と原告6名が証言しました。

 日本国民として戦争に行き、殺人に荷担させられ、日本人兵士として戦ったのに、戦後は「日本人じゃないから軍人恩給は出せない」と言われた人々のなかに、今もなお補償を求めて裁判を戦っている人たちがいます。
 朝鮮韓国、台湾の出身者のなかで、日本国籍を失ったことによって、日本国から見捨てられた人々が大勢いたのです。

 これらの「国籍を失ったために国の補償を受けられなかった軍人」のなかに、傷痍軍人の姿で街頭に立っていた人もいました。包帯を巻いたり、松葉杖をついたりしながら街頭に立ち、ハーモニカをふいたりしながら金銭を乞うていた人を覚えているのも、私の世代が最後でしょう。
 民族と国籍について、まだまだ、さまざまな問題が残されています。 

<つづく>


(5)はやしさんのこと

 日本は、外交的に鎖国をやめても「心の鎖国」が大きい国だとされてきました。
 自分たちと異なる文化を持つ人々、異なることばを話す人を、排除しようとする社会的な圧力が強い国だ、と言われているのです。

 この傾向は、小学校幼稚園ですでに始まっています。
 子供は幼いころから「周囲から浮かないように」「自分だけ目立ったり、突出することのないように」という圧力の中で、「日本社会に生きる訓練」をされて育ちます。

 若い世代のなかで、ことさらに「KY=空気読めない」が、非難めいた言い方でクラス・グループのなかで言い立てられています。これも、「周囲に合わせよう」という社会の風潮、裏返せば「自分たちのやり方に合わない人は排除しよう」という社会意識に添ったものなのです。

 そんな「同化を求める社会」のなかで、自分が「少数派」だったら、どうするか。ひたすら周囲に同化して、自分が異端視されないようふるまうか、「カミングアウト」して周囲とは違うことを告白するか。

 2008年4~7月に見ていたドラマ『ラスト・フレンド』でも、性同一障害をかかえて悩むルカ(上野樹里)が、「女の肉体を持って生まれたことに違和感をもち、心は男性として生きることを望んでいる」ということを、家族にさえうち明けられずに悩んでいました。

 自分が「フツーと呼ばれている人とはちがうこと」をうち明けるのは、たいへん大きな心の負担となるのです。

 林良枝さんは、みなから「ヨシエさん・よっちゃん」と呼ばれていました。よしえさんの家族がそう呼んでいたから。
 元気で明るい人でした。

 高校時代、私は、夏休み、先生の勧めで「日本の高校生と在日朝鮮子弟・朝鮮学校高校生、交流キャンプ」に参加しました。北部地区県立高校生として参加した私は東部地区県立高校生のヨシエさんと同じ班になりました。

 「日本の県立高校生」として参加していたヨシエさんは、朝鮮高校の若い人々の姿を見て、自己紹介として「はやしよしえです」と、繰り返すたびに違和感を強く持つようになりました。それまで、自分自身を「はやしよしえ」と思って暮らしてきたのに、このキャンプから帰ってから「通称名を使っている在日家庭の娘」であることを意識し始めました。

 高校を卒業し大学に入ってから、ヨシエさんは、名前を「イム・ヤンジ」と呼んでほしい、と友達に言いました。本名は「イムヤンジ林良枝」だから、と。
 イムさんは、大学に入って学生運動に関わり、恋人ができました。進歩的で民主的な考え方を持つと人だと思える人でした。信頼する恋人に、国籍のこともうち明けました。

(6)心の鎖国

 結婚を約束した恋人は、家族に「国籍が違う人と結婚をするなら、将来は保証しない。財産も分けてやらないから、家を出て自活しろ」と言われて、イムさんに帰化を求めました。
 「僕は、君の国籍を愛しているんじゃない、中身の君を愛している。だから、国籍変更は、法律上の国籍を変えるだけで、中身の君は何も変わらない」と、恋人は言ったそうです。

 イムさんは、悩んだ末、「帰化しようと思えばできるけれど、ありのままの私を受け入れてくれない彼の家族とは、将来うまくやっていけないかもしれない」と考えて、恋人との結婚をあきらめました。

 彼の家族とうまくやっていけない、というのは、口実だったろうと思います。「国籍を変えるだけだし、中身の君は変わらない」と考える恋人に対し、がっかりした、というのが本当ではなかったか。
 もし私なら、「国籍がちがう人とは結婚を認めないという家族より、今のままの君を選ぶ」と、言ってほしいと思うから。

 ヨシエさんのようなエピソードは、私の周囲にたくさんありました。
 アメリカ人との「国際結婚」なら認めるけれど、在日家庭の人との結婚は許さない、という考え方の人もいました。

 当時は、「閉鎖社会」の住民が多数派でした。
 ヨシエさんが自分の国籍のことを周囲に話したころ、「テレビの人気者の中に、出身地を隠している人が多い」と、たくさんのうわさがありました。

 今でも、ネットの中に「隠れチョーセンタレントをあばく」「実は日本人じゃないタレント一覧」なんていうサイトがあるのです。
 日本国民として戦争に行き、日本人兵士として戦ったのに、戦後は「日本人じゃないから軍人恩給は出せない」と言われた人々のなかに、傷痍軍人の姿で街頭に立っていた人もいたのではないか、ということ話題にしました。
 民族と国籍について、まだまだ、さまざまな問題が残されています。 

 「本物の傷痍軍人ではない」と、言われた人々のことを述べました。
 皇軍兵士または軍属として徴用されながら、軍人恩給などからはこぼれ落ちた人々。
 1952年の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効によって、日本が朝鮮の独立を正式に認めたことに伴い、半島出身者は、正式に日本国籍を喪失しました。
 同条約の発効日に、外国人登録法(昭和27年法律第125号)が公布・施行されました。

 1965年の日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結により、日本と韓国との国交が結ばれました。したがって、韓国籍の人は、大韓民国の国籍を持っています。

 しかし、現行の外国人登録において、「朝鮮籍」とは、「旧朝鮮戸籍登載者及びその子孫(日本国籍を有する者を除く)のうち、外国人登録上の国籍表示を未だ『大韓民国』に変更していない者」を呼びます。

(7)力道山

 「日本在住朝鮮籍」の人は、法的には北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と、国籍上の関わりはないという事実には、わたしもびっくり。
 韓国籍の人は大韓民国の国籍所有者。それと同じように、「朝鮮籍」の人は「朝鮮民主主義人民共和国」の国籍を持っているのだと思いこんでいました。朝鮮籍の人は、「国籍を大韓民国籍に変更していない者」という扱いだったのですね。知らなかった。

 自分のパスポートに「朝鮮民主主義人民共和国への渡航はできない」と書かれていることには気づいていたけれど、日本と国交がない国の国籍を持つことはできない、ということに思い及ばずにいました。
 朝鮮籍、韓国籍の人のなかには、日本での社会生活上、日本人名を通称名として持ち、日本語を話して生活する人も多い。

 若い世代のなかで、ことさらに「KY=空気読めない」が、非難めいた言い方でクラス・グループのなかで言い立てられています。これも、「周囲に合わせよう」という社会の風潮、裏返せば「自分たちのやり方に合わない人は排除しよう」という社会意識に添ったものだと感じます。

 そんな「同化を求める社会」のなかで、自分が「少数派」だったら、どうするか。
 ひたすら周囲に同化して、自分が異端視されないようふるまうか、「カミングアウト」して周囲とは違うことを告白するか。

 2008年4~7月に見ていたドラマ『ラスト・フレンド』でも、性同一障害をかかえて悩むルカ(上野樹里)が、「女の肉体を持って生まれたことに違和感をもち、心は男性として生きることを望んでいる」ということを、家族にさえうち明けられずに悩んでいました。

 自分が「フツーと呼ばれている人とはちがうこと」をうち明けるのは、たいへん大きな心の負担となるのです。

 通称名をもつ在日朝鮮籍、在日韓国籍の人のなかに、出身を公表せずに生きた人、また、日本に帰化したあと、元は朝鮮籍・韓国籍であったことを秘密にする人もいました。
 そうせざるを得ない、日本社会の制約があったからです。
 以下、力道山と松田優作についての紹介です。

 出生地と最初の国籍を公表しなかった人。
 たとえば、力道山。
 力道山は、日本併合下の朝鮮半島洪原郡新豐里(現在の北朝鮮統治範囲)に生まれました。出生地での名は、金信洛(キム・シルラク)。

 戦後プロレスラーとして人気者になったあと、プロレス興業の場で、力道山の出身地は「長崎」とされ、朝鮮半島生まれであったことは「タブー」としてふれられなくなりました。

(8)松田優作

 長崎県大村市の農家・百田家の養子となって日本国籍をとっており、「日本人」であるということに嘘偽りはありません。
 テレビの前の人々は、力道山の活躍に熱狂し、悪役ヒールをやっつける「日本国民のヒーロー」と、思っており、生まれ故郷の出身地を言うことはできなかった。

 力道山主演の自伝映画『力道山物語』でも、長崎の貧農出身、というシナリオになりました。
 出身地がおおやけに言われるようになったのは、力道山の死後のことです。

 実の息子ふたり、百田義浩・百田光雄(ふたりともプロレス関係者)さえ、「力道山は朝鮮半島出身者」ということを、父親の死後知ったそうです。
 実の息子にさえ出身地を秘密にした、という事実に、この問題の根深さが見えます。

 死後、国籍問題をおおやけにした人、松田優作もそのひとり。
 妻の松田美由紀が、死後7年目に公表しました。
 また、前妻の松田美智子は、著書『越境者 松田優作』(新潮社2008年)において、「優作が日本国籍にどのような想いを持っていたか」を書いています。

 優作の父親は日本人。しかし、父には、法律上の妻がいたために、韓国人の母親の私生児として、韓国籍で出生届が出されました。すったもんだがあったらしく、実際は1949年に生まれたのに、届けは1年遅れで1950年。韓国名は金優作(キム・ウジャッ)。

 松田美智子は、帰化申請するにあたって、優作がどのような逡巡をへて、どのような心境にあったかを記しています。

==========
 優作は、文学座研究生のころ美智子と出会ったが、国籍については、けっして明かさなかった。美智子が優作の国籍について何も聞かされていないうちに、美智子の両親は興信所を使って優作の国籍を調べ、結婚に反対した。
 結婚問題で国籍と直面した優作は、「日本人として生きる」ことを決意し、帰化申請をする。

 『太陽にほえろ!』の出演が決まった時に、松田優作は法務大臣宛の帰化動機書を提出した。
 「番組出演が決まりました。番組は全国で放映される人気番組です。もし、僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います。特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう」と、優作は大臣に向けて書いた。
===============

 「太陽にほえろ」は、当時の人気番組。テレビの前の人々は、「刑事」たちについて「日本の正義を守る日本人ヒーロー」と思っていました。
 「警察のヒーロー役が韓国人であることを知ったら、日本人、とくに子供たちは失望するだろう」と、優作が本気で信じていたのかどうかはわかりません。

 法務大臣にこの切実な心情が伝わったのか、どうか、優作は1974年に日本国籍取得しました。

(9)マラーノ松田優作

 人気刑事ドラマのヒーロー松田優作を、「マラーノ文学の作家」としてとらえなおしたのが、四方田犬彦です。

 四方田犬彦『日本のマラーノ文学 ―ドゥルシネーア赤』が2007年12月に発行され、私はさっそく「2007年冬休み読書」の一冊にして読了しました。
 姉妹編の『翻訳と雑神 ―ドゥルシネーア白』は、まだ読んでいません。
 2007/11/08に、国立東京博物館のなかの一角座で『俗物図鑑』を見てきたところで、映画のなかに四方田が「俗悪評論家」として出演していたのがおもしろかったし、四方田の『月島物語』なども愛読してきました。

 「マラーノ」ということばを私はまったく知りませんでした。本屋の店頭平台で目立つ真っ赤な装丁のなかの「マラーノ」とかかれた文字に引きつけられました。知らない言葉というのは、一目をひくものですから。
 「マラーノ」とは、 スペイン語(カスティーリャ地方の古語)で「豚」の意味だという。

 「豚」とは、「豚肉を食べることを禁じられているユダヤ教徒が、ユダヤ教徒であることを隠すために、ことさら人前で豚肉を食べてみる」という意味を持ち、「かくれユダヤ教徒」のことを指す隠語でした。

 マラーノ=Marranos スペイン語、ポルトガル語。「マラノ」とも
 もともとの意味が「豚」であるマラーノとは、イベリア半島において強制改宗させられたユダヤ人。また、ユダヤ教を偽装棄教し、表面上キリスト教徒となったユダヤ人を表す言葉。

 スペイン半島のユダヤ人の多くが、14世紀から15世紀に異端審問や魔女裁判などの影響でスペインからポルトガル、オランダ、イギリスなどへ集団で亡命した。

 なぜユダヤ教徒であることを隠さなければならなかったか。
 15世紀まで、イベリア半島はイスラム教徒であるオスマントルコに支配されていました。イスラム教徒はユダヤ教徒と共生をはかっていました。

 しかし、キリスト教徒がイスラム教徒を追い払って、カソリック王国をうち立ててから、ユダヤ人への迫害がはじまった。
 キリスト教は、ユダヤ教に不寛容であり、その結果、多くのユダヤ教徒がスペインを捨てたという。
 スペイン国内に残ったユダヤ教徒は、信仰を押し隠し、豚肉を食べているふりを装って生きることになってしまった。

 マラーノ=故郷を追われたユダヤ人、出自を偽り、他者の身を窶すユダヤ人。出自を偽って生きている人のこと。

(10)マラーノ文化

 四方田の著作は、在日朝鮮・韓国人、被差別出身者、さらにはホモセクシュアリティといったマイノリティ等々をあえてマラーノと呼ぶ。

 きっすいの日本人なのに、中国人女優として満州映画に出演していた李香蘭。
 死ぬまで本名は金胤奎であることを隠し続けた立原正秋。
 そして、松田優作らが論評されています。

 四方田は、松田優作に「劇作家」としての作品やシナリオが残されていることをとりあげ、論じています。
 私は、松田優作に戯曲やシナリオ作品があることさえ知りませんでした。
 四方田は、松田の戯曲を読み解き、松田を劇作家としても大変優れた資質をもっていた、と言っています。

 癌による40歳での早世がなければ、後半生は、優れたシナリオ作家戯曲作家となっていたかもしれません。
 俳優としては、早世したために伝説神話化した松田ですが、作家としては、まだまだこれからだったのに。

 私は、最近「比較文学」「比較文化」「融合文化」などの分野を勉強しているので、このような、越境、他者性、マイノリティなどに関わっていくことが多くなっています。
 日本文化の中にある多様性は、各地から日本列島へと流れ込んだ文化を排除することなく、それまでの文化歴史と融合させることによって成り立ってきました。

 キリスト教が、イスラム教やユダヤ教を排除する文化であったことに行きづまりを覚えている西欧文化にとって、日本の融合文化は、今、もっとも注目すべき「先駆的文化」と思えるようです。

 日本文化を学ぶ人々の熱い関心を、私は日本語教育を通じても感じてきました。
 日本の古神道仏教の融合をはじめ、この列島が大陸や大海から運ばれるものをどんどんとおなかにため込む「羊水文化」のように思えます。

 体内の揺籃を経て、これから先、どのような文化を生み出していけるのか、私にとっては、これから先の列島文化は、新たな可能性を秘めているように思えるのです。

 何者をも排除することなく、すべてを取り込み認めていく揺籃文化を、育てていきたい。
 マラーノもその一部ですし、今年、ようやく先住民族、文化であることを認められたアイヌ文化もその一部でしょう。

(11)融合する文化

 ペルシャ伝来の雅楽。雅楽で使う仮面は、胡人(ペルシャ人)の姿を写したものとして中国で作られ、飛鳥奈良時代に伝来しました。
 雅楽伎楽が盛んになっても、古神道の神楽(かぐら)は滅びることはありませんでした。農民の間で演じられていた「おかぐら」と伎楽雅楽は習合し、融合して現代まで伝えられています。

 大陸では滅びてしまった、この伎楽が、日本の土地に融合して、その後田楽猿楽能狂言歌舞伎と、さまざまな芸能が生まれても、神楽も伎楽も能も歌舞伎も、日本社会のどこかで演じられ、滅びることなく伝えられてきました。

 バレエやモダンダンスが伝来しても同じ事。それらの洋舞の技法に、日本の土着の動きが加わり、舞踏(Buto)が生まれました。ブトーは、海外でも高い評価を受け、海外公演が続いています。

 ヒップホップやストリートダンスもきっと何かを刺激し、何かを生み出しているにちがいない。おかぐらがヒップホップをとりいれたとしても、それはそれでいいのだと思います。 

 何者をも排除することなく、自分たちと同等のものとして取り入れ、在来のものはそのまま残しつつ、新たな融合した文化を生み出す力。
 この融合文化の力こそが、日本文化の底力なのだろうと、私は思っています。

 加藤周一は、この日本文化を「雑種文化」と名付けました。mix=雑種または混合、というとらえ方も出来ると思います。もとの形を残したまま取り入れることも多いから。
 しかし、漢字のように「外来のもの」であることを意識しつつも、完全に自家薬籠中のものとして使いこなすようになっているものは、すでに混合ですらなく、「日本の漢字」として独自のものであると言ってよいと思う。

 表記として漢字が日本語に融合した存在となっているように、他のさまざまな文化が、日本文化として融合しつつこれからも新たに生命力を得ていくのだろうと、私は思っているのです。

<おわり> 

目次 融合文化・オセロ考・フランダースの犬

2008-10-02 23:39:00 | 日本語言語文化
融合文化(1)ポンペ神社(2)陰陽五行思想(3)辛酉革命と建国の日(4)独裁者の王国(5)はやしさんのこと(6)心の鎖国(7)力道山(8)ジーパン刑事松田優作(9)マラーノ松田優作(10)マラーノ文化(11)融合する文化==========オセロ-日本語言語文化における主体の研究その21 日本演劇史2-1 正劇オセロ2-2 貞奴と音次郎2-3 明治社会とオセロ2-4 川上一座の室鷲郎2-5 デズデモーナから鞆音へ2-6 貞奴の身体性2-7 黒田事件3 オセロの変容4 現代のオセロ5 結論=========1-1 レミの受容1-2 ネロのアニメ化2-1 パトラッシュ・フランダースの犬2-2 検証「フランダースの犬」2-3 ネロとアロア2-4 負け犬2-5 滅びの美学3-1 パトラッシュ昇天3-2 おわりに=========色彩名称と文化-日本語言語文化における「しろ」