女もすなる土佐日記
2007/01/19 金
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(2)女もすなる土佐日記、中国男もすなるカフェ日記
なりすまし文体。
平安初期を代表する文学作品『土佐日記』
男性である紀貫之が女性になりすまして「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり」と、書き始めました。
平安初期、男性は漢文で日記を書いていました。
ひらがな文字は女性が使い、女性に手紙や和歌を送るとき以外には、教養のある男性が「女手」のひらがなで書いた文章を公表するなどということはありませんでした。
しかし、どれほど漢文で書く文章に熟達したとしても、自分の母語で、ふだん話していることばのまま文章につづれる魅力は、男性にとっても心ひかれるものであったことでしょう。
そこで、紀貫之は「女」になりすまして書いたのです。日本語言語文化における「なりすまし文体」の嚆矢といえるでしょう。
ネットのなかでは、男が女に女が男になりすまし、中年が若者に、老人が女子高校生に、なんでもなりすまして書くことができます。
若い人と知り合いになりたいご老体が、若者のふりをしてネット友達をつくる、くらいは「まあ、楽しくおやりなさい」と応援したくもなります。
しかし、社会問題について、何らかの意見を表明したいと考えて文章をつづっているらしいのに、なぜ中国人になりすまして文章を書く必要があるのか、よくわかりません。
==========================
南京虐殺は作り話です おじいさんのお父さんはそのころ南京にすんでいました、紅卍社に雇われて毎日墓堀をしました。その時何も代わりはなく過ごしたそうです。党中央の宣伝に惑わされないで下さい。(中国男 2007 1/7 0:47)
=========================
「南京事件は作り話」というような主張を展開したいらしいですが、日本人としてこれを主張するのはまずいけれど、中国人として主張するならいいだろう、と考えてのことなのでしょうか。
他者になりすまして、お金を振り込ませる「オレオレ詐欺→振り込め詐欺」は論外ですが、他者を傷つけたり迷惑をかけたりしない範囲でのことならば、なりすますこと自体が犯罪になるわけではありません。
言いたいことがあるのなら、堂々と自分らしいことばで表明したほうが、わかりやすい主張になるとは思いますが、自分を出して意見をいえない場合もあるのでしょう。
日本の硬派出版社の経営者がユダヤ人のふりをして書いた本は、なかなか鋭く日本社会に切り込んだ評論になっていました。
ネットのなかで「なりすまし」で書いている文章も、何らかの効用があるのかもしれません。
「論議、呼びそう問題について、別の国の人になりすまして語るのこと、論拠ない意見述べても、ごまかしきく思ているあるね。
でも、読者も、読む目もってるあるよ。
加油!!(チャーヨゥ!がんばって)」
<つづく>
11:27 | コメント (1) | 編集 | ページのトップへ
2007/01/18 木
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(1)
リービ英雄、アーサー・ビナードらの書く日本語は、とてもうまくて、もし著者名が伏せられていたら、日本語を母語としない人が書いたのだとは思えないほどこなれています。
英語母語話者だけでなく、中国語を母語とする人の文章も、初心者のものも、達意の文章を書く人のも、いろいろ読んできました。
1月にカフェ新加入の「中国男」というIDをもつ人、プロフィールは「男性・学生」以外のことは書いてありませんが、「中国人として日本の友人(読者)へ向けて社会問題への意見を書いている」という体裁をとっている文章です。
==================
近代史学習しない 困る事有る
美帝日本を占領して漢字変えた 昔の日本語皆読めない。かわいそう 大東亜戦争負けたから、仕方ない。それでホント違うこと宣伝した
ラヂオ使い、新聞使い、教科書使い、みんなでやった、それ実はGHQは美帝の中の共産主義者です。そのころいっぱいいました。それで困った美帝の闇権力はレッドパージしました。そんなことも知らない?その人達5%のアメリカン、人種アングロサクソン違う!
日本人嘘教えてもらった(2007-01-12 00:08:10)
小事件暴露 大事件秘匿 これ日本国
食品の事件よく起こる 小事件です。もっと大きな悪いこと メヂア伝えない。それ仕方ないね。みんな美帝のお金に阿る、あまり言うとその人行方不明になる、怖いです。でも私身分隠した、誰か分からない、本当の事実話すよ! (2007-01-13 22:13:08)
=======================
というような文体で、中国人の主張として書いている。
でも、中国人の書く日本語の文章を10年間読み続けてきた私から見ると、中国人がこのような文体で書いているのを読んだことがない。この文体は、日本人が『中国人ならこう書くのではないか』という思いこみで書いた文体だと思われます。
以下のコメントをbbsに書き込もうとしましたが、ま、考えてみれば、お節介なことだと気づいたので、書き込みはやめました。
======================
ニーハオ?好
あなたの日記の文体が、あまりにも「中国人が日本語を書くとこうなるだろうと、日本人が考える文体」なので、おもわず、書き込みを。
中国人は、けっしてこのような文体で日本語を書かないので、中国人のふりをするなら、「中国人が書いた日本語」を読んでみると、文体模写ができるようになるかもしれないと、おすすめにあがりました。
もしかして本当に中国出身の方なら、自分ではこのように書かないけれど、日本人は中国人がこのように書くと信じているだろうという文体で書いていることになり、これは、ひとつの文体技術ではありますが。
ねかま(ネットおかま)ネット厨房(ネットで中学生のふり)などは見てきましたが、ネット中国人てのは、カフェのなかでは新しいかな、と、今後のご意見発表を読ませていただきます
加油!!
=======================
カフェID「中国男」さんの文体、テレビに出てくる中国人が助詞ぬきでしゃべり、「わたし、シャンハイからきたあるよ。カネモチあるのコトヨ」と、紋切り型に話しているような文章なので、とても笑えました。
本人は、これで中国人になりすましているつもりなんだろうなあ、と思いますが、本当に中国語母語話者が日本語を書いたのだとしたら、こんな日本語文体にはなりません。
文体分析
2007/01/20 土
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(3)文体分析
筆跡鑑定は、遺言書の確認とか、犯罪捜査でもかなりの精度で効果をあげているらしいですね。
サインなどの筆跡鑑定。
クレジットカードなどを使う機会がふえ、サインをするたびに、たいした筆跡じゃないのに、ほんとうにこれで筆跡鑑定すると私が書いたのかどうか、区別できるんだろうか、と心配になります。
よく財布をなくすので、だれかが文字をまねして書いて、拾ったクレジットカードをつかったりすることもできるんじゃないだろうかと、余計な心配をしてしまって。
だいじょうぶですよね。たぶん、ケーサツの筆跡鑑定などは、ずいぶんと精度が高いのだろうと思います。知らないけど。
文字にその人の「ひととなり」が現れているとは、よく聞くことで、悪筆の私は「筆は人なり」ということばを聞くたびに、「ああ、こんな悪筆だと、どんな悪人に思われていることか」と、落ち込みます。ま、性格悪くひねくれてるってのは、かなりあたっていますが。
また、「文はひとなり」とも聞きます。
私の文章を「歯切れよく、ぽんぽんと言いたいことを言いたいままに書いている」と評するコメントを寄せてくださった方もいました。
文章だけで私を判断する方にとって、私は「言いたい放題」に見えるのも、納得しています。
自分自身では、「世間にでると人見知りで臆病、優柔不断な性格なので、せめて文章では言いたいことを素直に言おう」と思っています。
と、言っても、実際の優柔不断の私を見たことない人には、わかってもらえないですよね。ものを買うときに迷って決められないくらいは許容範囲と思っているのですが。
文章の書き方で人柄まで判断できるのかどうかは、さておき、ある文章が、本当にその人が書いたものであるかどうか、ネットのなかで問題になることがあります。
他者になりすまして、bbsなどに書き込みをする人もいるので。
有名人のファンサイトBBSに、有名人本人が書き込みをして、管理人は大喜び。ところが、それは、第三者が有名人になりすまして書き込んだ、などということは、よく聞きます。
1行2行の短いコメントでは、どこまでできるかわかりませんが、コンピュータの発達によって、文体分析はかなりの精度で、本当に本人が書いたものかどうか判断できるようになってきました。
最近の「計量日本語学」は、さまざまな文体分析手法によって、ある程度のまとまった文章を分析すれば、本人が書いたものかどうか、判断できるようになりました。
これによって、「なりすまし文体」などは、本当に本人がかいたものか、分析できます。
従来、論議が続いていた文体論に、ほぼ決着がつく研究も出されてきました。
たとえば、「源氏物語・宇治十帖」は、ほんとうに紫式部が書いたのであるかどうか。「光源氏の物語44帖」に続けて紫式部自身が書き続けたものなのか、それとも、別人が紫式部の名を借りて書き足したものであるのか、という論議が昔から続いてきました。
あまりにも作品のトーンがちがうので、別人の作品かも、と、読んだ人が感じるところです。
最新のコンピュータ利用の文体分析では、名詞の語彙使用分布、形容詞動詞副詞の用法、など、あらゆる分析を通じて、宇治十帖も、前半44帖と同一人物の文体であろう、という研究結果がだされています。
<つづく>
00:24 | コメント (5) | 編集 | ページのトップへ
文体模写あそび
2007/01/21 日
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(4)文体模写遊び
今は、各種変換ソフトの発達で、「各地の方言に変換するソフト」もあるし、「女子高校生風、絵文字入りギャル語変換」「平安朝女流日記風古文文体」など、いろんな文体に変換してくれるソフトがあるのだそうです。
「なりすまし文体」とは、方向が異なりますが、「なりきり文体」「ものまね文体」というのもあります。「文体模写」という遊びです。
昔の文学青年たちは、特徴のある文体を模写して「川端康成風文体」「三島由紀夫風文体」「野坂昭如風文体」などで書いてみて、本当に作家の文章なのか、模写文体なのか、あてる遊びなどをしたそうです。高度な文学遊びですね。
和田誠の『倫敦巴里』
このなかで、川端康成『雪国』冒頭の文章をさまざまな作家の「文体模写」でかき分けてあるのを読みました。笑いながらも「芸やねぇ」と感心してしまいます。
夏目漱石の未完の作品『明暗』の続編を、水村美苗が書いた『続明暗』などは、知らないで読めば、「漱石がそのまま書き続けたのかもしれない」というそっくり文体に仕上がっています。
管理人ヒロユキがまたまた訴訟問題の主人公になって、何かと話題のたえない2チャンネル。
文体模写あそびも、2チャンネルに集う人には、格好の遊び道具。
カフカの「変身」を、いろんな作家の文体でパロディにしてしまうスレッドがあります。ある文体の作家に「なりすます」のではなく「なりかわって」書いてみるとどんな文章になるか、という遊びです。
たとえば、清少納言が『変身』を書いたとしたら、こんなふう。(by 2チャンネル)
=======================
ザムザはあけぼの。やうやう不安になり行く夢ぎは、薄く目あきて、
節くれ立ちたる四肢の細くたなびきたる。目には甲殻。背中の方は
さらなり。仰向きてなほ、頭もたげたるほどに見ゆる腹部、褐色げ
にして、いとすさまじ。まいて関節の四つ三つ、二つ三つなど、禍々
しく幾重にも連ねたること、返す返すもすさまじけれ。また、参り
果てて、さらでもいと寒きに、腹に掛けたる布団の止めどなく落ち
急ぐ様こそ、あはれといふも愚かなり。
========================
清少納言が「枕草子」に描いた「いとをかし」の雅も、カフカがザムザに託した不安もくるりとひっくり返されたパロディになっていて、おもしろく読めます。
ただで楽しめることば遊び、日本語言語文化のおとくいの分野です。落首、狂歌などさまざまなことばを人々は楽しんできました。
俳句短歌川柳回文、いろいろあるなか、この「文体模写」も楽しめるもののひとつだろうと思います。
春庭も、下手な俳句や短歌、回文句を楽しんでいますが、カフェ日記に自分の考えたこと思ったことを述べるとき、まずは、私自身として、私自身のことばで、言いたいこと書きたいことを書き続けることにします。
たまには、「美人で細身で若々しくて頭脳明晰」なんて人になりすましてみたい気もしますが、ま、春庭文章を読んでくださった方々が想像している通りの「老眼、白髪ふりみだしの太め、短足につっかけ履いて走り回ってよくころぶ」ってな姿、なりすましたところで、「ダンサー女パパイヤ鈴木」くらいか。
<つづく>
00:15 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ
なりすましJapan、サヌい!
2007/01/22 月
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(5)なりすましJapan、サヌい!
映画のなかに出てくる日本の姿。昔のハリウッド映画の日本人や日本の景色には、笑える「おかしな日本」がたくさん出てきました。
最近の映画では、日本でのロケも多いし、それほどの違和感もなくスクリーンをみていられるようになっています。
2004年6月に封切り公開され、2006年11月にテレビ放映された『デイアフタートゥモロー』の冒頭の東京のシーンに、どことなく違和感を感じました。たった1~2分の東京の街角シーン。
東京での出来事として撮影されていますが、絶対に東京ロケをしていないなあ、と思いました。
半分中華街のような、奇妙な感じがしたのです。キッチュなトーキョー。
どこか、外国のリトルトーキョーのような町でのロケ?たぶん映画スタジオのセットで撮影されたのだと思います。東京の街角の再現に、美術さんは張り切ったことでしょう。
『デイアフタートゥモロー』の冒頭。
南極の棚氷がまっぷたつに裂けていくシーンにつづいて、トーキョーの異常気象パニックシーンになります。
「東京に、大雨洪水警報、急いで避難してください」と、パトカーが警告しながら町中をパトロールしている。会社帰りに屋台でいっぱいひっかけていたサラリーマンも、警報をきいて、さて帰ろうと腰を上げた。
突然巨大な雹が空から降ってくる。電線はちぎれ、看板やネオンサインが落下する。
最初は、この違和感の正体がわかりませんでした。
東京の繁華街を、綿入れ半天で歩いている女の子がいたり、旧千円札の伊藤博文のように白い立派なヒゲを蓄えたおじいさんがいたりすることが、アリエネー感を醸し出しているのかと思ったのですが。
今時の東京の繁華街を、街着として綿入れ半天をきて若い女性が歩いていたら、それは、なにか特別なイベントでもやっているかと思うくらい、非日常的な光景にみえる。
でも、絶対にありえないともいえない。綿入れ半天を来て学校に通っている女の子が、東京にひとりくらいいるかもしれない。ヒゲのおじいさんも、探し出せばいないことはない。
では、この違和感はどこから出てくるのだろう。
空から巨大な雹(ヒョウ)がふって、人々を直撃するシーン、雹に打たれて二階から看板やネオンサインが落ちてくる。逃げまどう人々の後ろに、はっきりネオンサインの文字が読めた。ネオンにある店の名は、「サヌい」と書いてある。
「サヌい」って、いったい?
巻き戻して画面の中に見える看板などを読んでみた。バイク屋の看板に「オートツョップ」と書かれている。オートショップのつもりだろう。
アメリカ人にとって「オートショップ」も「オートツョップ」もたいした違いもない、というか、まったく同じものに思えるであろう文字が、その文字を使っているものにとっては、見過ごせない違和感を生み出す。
留学生がよく書き間違えるカタカナ「ソとン」「ツとシ」「ミとシ」「スとヌ」。アメリカの映画会社の美術担当者がまちがえるのも、わかるけれど。「サヌい」が「サスい」だとしても、店の名としてはどうもなあ。
さらに気をつけてみると、入り口が鳥居になっている店があったりする。
アメリカ人が日本をイメージすると、「入り口といえば、これだよなあ」ということになるのでしょう。
巨大な雹は次々と人の頭上を襲い、警察官も、会社帰りに屋台でいっぱいやっていたビジネスマンも倒れていく。
そんなパニックシーンの東京、いちいち看板の文字など気にしてみる場面ではない。繁華街の道ばたに鳥居があるのも、映画館で見ていたのなら、みすごしたでしょうね。
氷の固まりで頭を打たれて倒れていく人の姿に驚いているうちに、次のパニックシーンに移っていったでしょう。
でも、そんな1、2分のパニックシーンであっても、見ていると、「あれ、これは本当の東京の街角じゃないなあ」という違和感が残りました。どこと言って指摘できなくても、なんとなく「半分中華街のような東京」だっていう印象が残ってしまいます。
これが、「なりすまし」「模写」の限界なのかもしれません。
がんばって、東京の街角をセットで再現してみた。うん、よくできている。っていっても、「オートツョップ」になっている。東京の街を見慣れた者にとっては、店の入り口が鳥居になっていることにアリエネーと感じ、車や看板についている家紋風のマークが、日本では見かけないマークばかりであることに「アレレ?」という感じを受けてしまう。
偽物が本物を凌駕する場合がなきにしもあらず。でも、やはり、「なりすまし」の表現や「ヘタな模写」は、どこかでボロが出る。
私ごときが何者かになりすましたとして、せいぜい「オートツョップ」や「サヌい」程度のものになるのが関の山。
私は、私自身の姿さらして書いていくのが一番いいと思っています。
<おわり>
2007/01/19 金
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(2)女もすなる土佐日記、中国男もすなるカフェ日記
なりすまし文体。
平安初期を代表する文学作品『土佐日記』
男性である紀貫之が女性になりすまして「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり」と、書き始めました。
平安初期、男性は漢文で日記を書いていました。
ひらがな文字は女性が使い、女性に手紙や和歌を送るとき以外には、教養のある男性が「女手」のひらがなで書いた文章を公表するなどということはありませんでした。
しかし、どれほど漢文で書く文章に熟達したとしても、自分の母語で、ふだん話していることばのまま文章につづれる魅力は、男性にとっても心ひかれるものであったことでしょう。
そこで、紀貫之は「女」になりすまして書いたのです。日本語言語文化における「なりすまし文体」の嚆矢といえるでしょう。
ネットのなかでは、男が女に女が男になりすまし、中年が若者に、老人が女子高校生に、なんでもなりすまして書くことができます。
若い人と知り合いになりたいご老体が、若者のふりをしてネット友達をつくる、くらいは「まあ、楽しくおやりなさい」と応援したくもなります。
しかし、社会問題について、何らかの意見を表明したいと考えて文章をつづっているらしいのに、なぜ中国人になりすまして文章を書く必要があるのか、よくわかりません。
==========================
南京虐殺は作り話です おじいさんのお父さんはそのころ南京にすんでいました、紅卍社に雇われて毎日墓堀をしました。その時何も代わりはなく過ごしたそうです。党中央の宣伝に惑わされないで下さい。(中国男 2007 1/7 0:47)
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「南京事件は作り話」というような主張を展開したいらしいですが、日本人としてこれを主張するのはまずいけれど、中国人として主張するならいいだろう、と考えてのことなのでしょうか。
他者になりすまして、お金を振り込ませる「オレオレ詐欺→振り込め詐欺」は論外ですが、他者を傷つけたり迷惑をかけたりしない範囲でのことならば、なりすますこと自体が犯罪になるわけではありません。
言いたいことがあるのなら、堂々と自分らしいことばで表明したほうが、わかりやすい主張になるとは思いますが、自分を出して意見をいえない場合もあるのでしょう。
日本の硬派出版社の経営者がユダヤ人のふりをして書いた本は、なかなか鋭く日本社会に切り込んだ評論になっていました。
ネットのなかで「なりすまし」で書いている文章も、何らかの効用があるのかもしれません。
「論議、呼びそう問題について、別の国の人になりすまして語るのこと、論拠ない意見述べても、ごまかしきく思ているあるね。
でも、読者も、読む目もってるあるよ。
加油!!(チャーヨゥ!がんばって)」
<つづく>
11:27 | コメント (1) | 編集 | ページのトップへ
2007/01/18 木
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(1)
リービ英雄、アーサー・ビナードらの書く日本語は、とてもうまくて、もし著者名が伏せられていたら、日本語を母語としない人が書いたのだとは思えないほどこなれています。
英語母語話者だけでなく、中国語を母語とする人の文章も、初心者のものも、達意の文章を書く人のも、いろいろ読んできました。
1月にカフェ新加入の「中国男」というIDをもつ人、プロフィールは「男性・学生」以外のことは書いてありませんが、「中国人として日本の友人(読者)へ向けて社会問題への意見を書いている」という体裁をとっている文章です。
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近代史学習しない 困る事有る
美帝日本を占領して漢字変えた 昔の日本語皆読めない。かわいそう 大東亜戦争負けたから、仕方ない。それでホント違うこと宣伝した
ラヂオ使い、新聞使い、教科書使い、みんなでやった、それ実はGHQは美帝の中の共産主義者です。そのころいっぱいいました。それで困った美帝の闇権力はレッドパージしました。そんなことも知らない?その人達5%のアメリカン、人種アングロサクソン違う!
日本人嘘教えてもらった(2007-01-12 00:08:10)
小事件暴露 大事件秘匿 これ日本国
食品の事件よく起こる 小事件です。もっと大きな悪いこと メヂア伝えない。それ仕方ないね。みんな美帝のお金に阿る、あまり言うとその人行方不明になる、怖いです。でも私身分隠した、誰か分からない、本当の事実話すよ! (2007-01-13 22:13:08)
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というような文体で、中国人の主張として書いている。
でも、中国人の書く日本語の文章を10年間読み続けてきた私から見ると、中国人がこのような文体で書いているのを読んだことがない。この文体は、日本人が『中国人ならこう書くのではないか』という思いこみで書いた文体だと思われます。
以下のコメントをbbsに書き込もうとしましたが、ま、考えてみれば、お節介なことだと気づいたので、書き込みはやめました。
======================
ニーハオ?好
あなたの日記の文体が、あまりにも「中国人が日本語を書くとこうなるだろうと、日本人が考える文体」なので、おもわず、書き込みを。
中国人は、けっしてこのような文体で日本語を書かないので、中国人のふりをするなら、「中国人が書いた日本語」を読んでみると、文体模写ができるようになるかもしれないと、おすすめにあがりました。
もしかして本当に中国出身の方なら、自分ではこのように書かないけれど、日本人は中国人がこのように書くと信じているだろうという文体で書いていることになり、これは、ひとつの文体技術ではありますが。
ねかま(ネットおかま)ネット厨房(ネットで中学生のふり)などは見てきましたが、ネット中国人てのは、カフェのなかでは新しいかな、と、今後のご意見発表を読ませていただきます
加油!!
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カフェID「中国男」さんの文体、テレビに出てくる中国人が助詞ぬきでしゃべり、「わたし、シャンハイからきたあるよ。カネモチあるのコトヨ」と、紋切り型に話しているような文章なので、とても笑えました。
本人は、これで中国人になりすましているつもりなんだろうなあ、と思いますが、本当に中国語母語話者が日本語を書いたのだとしたら、こんな日本語文体にはなりません。
文体分析
2007/01/20 土
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(3)文体分析
筆跡鑑定は、遺言書の確認とか、犯罪捜査でもかなりの精度で効果をあげているらしいですね。
サインなどの筆跡鑑定。
クレジットカードなどを使う機会がふえ、サインをするたびに、たいした筆跡じゃないのに、ほんとうにこれで筆跡鑑定すると私が書いたのかどうか、区別できるんだろうか、と心配になります。
よく財布をなくすので、だれかが文字をまねして書いて、拾ったクレジットカードをつかったりすることもできるんじゃないだろうかと、余計な心配をしてしまって。
だいじょうぶですよね。たぶん、ケーサツの筆跡鑑定などは、ずいぶんと精度が高いのだろうと思います。知らないけど。
文字にその人の「ひととなり」が現れているとは、よく聞くことで、悪筆の私は「筆は人なり」ということばを聞くたびに、「ああ、こんな悪筆だと、どんな悪人に思われていることか」と、落ち込みます。ま、性格悪くひねくれてるってのは、かなりあたっていますが。
また、「文はひとなり」とも聞きます。
私の文章を「歯切れよく、ぽんぽんと言いたいことを言いたいままに書いている」と評するコメントを寄せてくださった方もいました。
文章だけで私を判断する方にとって、私は「言いたい放題」に見えるのも、納得しています。
自分自身では、「世間にでると人見知りで臆病、優柔不断な性格なので、せめて文章では言いたいことを素直に言おう」と思っています。
と、言っても、実際の優柔不断の私を見たことない人には、わかってもらえないですよね。ものを買うときに迷って決められないくらいは許容範囲と思っているのですが。
文章の書き方で人柄まで判断できるのかどうかは、さておき、ある文章が、本当にその人が書いたものであるかどうか、ネットのなかで問題になることがあります。
他者になりすまして、bbsなどに書き込みをする人もいるので。
有名人のファンサイトBBSに、有名人本人が書き込みをして、管理人は大喜び。ところが、それは、第三者が有名人になりすまして書き込んだ、などということは、よく聞きます。
1行2行の短いコメントでは、どこまでできるかわかりませんが、コンピュータの発達によって、文体分析はかなりの精度で、本当に本人が書いたものかどうか判断できるようになってきました。
最近の「計量日本語学」は、さまざまな文体分析手法によって、ある程度のまとまった文章を分析すれば、本人が書いたものかどうか、判断できるようになりました。
これによって、「なりすまし文体」などは、本当に本人がかいたものか、分析できます。
従来、論議が続いていた文体論に、ほぼ決着がつく研究も出されてきました。
たとえば、「源氏物語・宇治十帖」は、ほんとうに紫式部が書いたのであるかどうか。「光源氏の物語44帖」に続けて紫式部自身が書き続けたものなのか、それとも、別人が紫式部の名を借りて書き足したものであるのか、という論議が昔から続いてきました。
あまりにも作品のトーンがちがうので、別人の作品かも、と、読んだ人が感じるところです。
最新のコンピュータ利用の文体分析では、名詞の語彙使用分布、形容詞動詞副詞の用法、など、あらゆる分析を通じて、宇治十帖も、前半44帖と同一人物の文体であろう、という研究結果がだされています。
<つづく>
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文体模写あそび
2007/01/21 日
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(4)文体模写遊び
今は、各種変換ソフトの発達で、「各地の方言に変換するソフト」もあるし、「女子高校生風、絵文字入りギャル語変換」「平安朝女流日記風古文文体」など、いろんな文体に変換してくれるソフトがあるのだそうです。
「なりすまし文体」とは、方向が異なりますが、「なりきり文体」「ものまね文体」というのもあります。「文体模写」という遊びです。
昔の文学青年たちは、特徴のある文体を模写して「川端康成風文体」「三島由紀夫風文体」「野坂昭如風文体」などで書いてみて、本当に作家の文章なのか、模写文体なのか、あてる遊びなどをしたそうです。高度な文学遊びですね。
和田誠の『倫敦巴里』
このなかで、川端康成『雪国』冒頭の文章をさまざまな作家の「文体模写」でかき分けてあるのを読みました。笑いながらも「芸やねぇ」と感心してしまいます。
夏目漱石の未完の作品『明暗』の続編を、水村美苗が書いた『続明暗』などは、知らないで読めば、「漱石がそのまま書き続けたのかもしれない」というそっくり文体に仕上がっています。
管理人ヒロユキがまたまた訴訟問題の主人公になって、何かと話題のたえない2チャンネル。
文体模写あそびも、2チャンネルに集う人には、格好の遊び道具。
カフカの「変身」を、いろんな作家の文体でパロディにしてしまうスレッドがあります。ある文体の作家に「なりすます」のではなく「なりかわって」書いてみるとどんな文章になるか、という遊びです。
たとえば、清少納言が『変身』を書いたとしたら、こんなふう。(by 2チャンネル)
=======================
ザムザはあけぼの。やうやう不安になり行く夢ぎは、薄く目あきて、
節くれ立ちたる四肢の細くたなびきたる。目には甲殻。背中の方は
さらなり。仰向きてなほ、頭もたげたるほどに見ゆる腹部、褐色げ
にして、いとすさまじ。まいて関節の四つ三つ、二つ三つなど、禍々
しく幾重にも連ねたること、返す返すもすさまじけれ。また、参り
果てて、さらでもいと寒きに、腹に掛けたる布団の止めどなく落ち
急ぐ様こそ、あはれといふも愚かなり。
========================
清少納言が「枕草子」に描いた「いとをかし」の雅も、カフカがザムザに託した不安もくるりとひっくり返されたパロディになっていて、おもしろく読めます。
ただで楽しめることば遊び、日本語言語文化のおとくいの分野です。落首、狂歌などさまざまなことばを人々は楽しんできました。
俳句短歌川柳回文、いろいろあるなか、この「文体模写」も楽しめるもののひとつだろうと思います。
春庭も、下手な俳句や短歌、回文句を楽しんでいますが、カフェ日記に自分の考えたこと思ったことを述べるとき、まずは、私自身として、私自身のことばで、言いたいこと書きたいことを書き続けることにします。
たまには、「美人で細身で若々しくて頭脳明晰」なんて人になりすましてみたい気もしますが、ま、春庭文章を読んでくださった方々が想像している通りの「老眼、白髪ふりみだしの太め、短足につっかけ履いて走り回ってよくころぶ」ってな姿、なりすましたところで、「ダンサー女パパイヤ鈴木」くらいか。
<つづく>
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なりすましJapan、サヌい!
2007/01/22 月
ことばのYa!ちまた>なりすまし文体(5)なりすましJapan、サヌい!
映画のなかに出てくる日本の姿。昔のハリウッド映画の日本人や日本の景色には、笑える「おかしな日本」がたくさん出てきました。
最近の映画では、日本でのロケも多いし、それほどの違和感もなくスクリーンをみていられるようになっています。
2004年6月に封切り公開され、2006年11月にテレビ放映された『デイアフタートゥモロー』の冒頭の東京のシーンに、どことなく違和感を感じました。たった1~2分の東京の街角シーン。
東京での出来事として撮影されていますが、絶対に東京ロケをしていないなあ、と思いました。
半分中華街のような、奇妙な感じがしたのです。キッチュなトーキョー。
どこか、外国のリトルトーキョーのような町でのロケ?たぶん映画スタジオのセットで撮影されたのだと思います。東京の街角の再現に、美術さんは張り切ったことでしょう。
『デイアフタートゥモロー』の冒頭。
南極の棚氷がまっぷたつに裂けていくシーンにつづいて、トーキョーの異常気象パニックシーンになります。
「東京に、大雨洪水警報、急いで避難してください」と、パトカーが警告しながら町中をパトロールしている。会社帰りに屋台でいっぱいひっかけていたサラリーマンも、警報をきいて、さて帰ろうと腰を上げた。
突然巨大な雹が空から降ってくる。電線はちぎれ、看板やネオンサインが落下する。
最初は、この違和感の正体がわかりませんでした。
東京の繁華街を、綿入れ半天で歩いている女の子がいたり、旧千円札の伊藤博文のように白い立派なヒゲを蓄えたおじいさんがいたりすることが、アリエネー感を醸し出しているのかと思ったのですが。
今時の東京の繁華街を、街着として綿入れ半天をきて若い女性が歩いていたら、それは、なにか特別なイベントでもやっているかと思うくらい、非日常的な光景にみえる。
でも、絶対にありえないともいえない。綿入れ半天を来て学校に通っている女の子が、東京にひとりくらいいるかもしれない。ヒゲのおじいさんも、探し出せばいないことはない。
では、この違和感はどこから出てくるのだろう。
空から巨大な雹(ヒョウ)がふって、人々を直撃するシーン、雹に打たれて二階から看板やネオンサインが落ちてくる。逃げまどう人々の後ろに、はっきりネオンサインの文字が読めた。ネオンにある店の名は、「サヌい」と書いてある。
「サヌい」って、いったい?
巻き戻して画面の中に見える看板などを読んでみた。バイク屋の看板に「オートツョップ」と書かれている。オートショップのつもりだろう。
アメリカ人にとって「オートショップ」も「オートツョップ」もたいした違いもない、というか、まったく同じものに思えるであろう文字が、その文字を使っているものにとっては、見過ごせない違和感を生み出す。
留学生がよく書き間違えるカタカナ「ソとン」「ツとシ」「ミとシ」「スとヌ」。アメリカの映画会社の美術担当者がまちがえるのも、わかるけれど。「サヌい」が「サスい」だとしても、店の名としてはどうもなあ。
さらに気をつけてみると、入り口が鳥居になっている店があったりする。
アメリカ人が日本をイメージすると、「入り口といえば、これだよなあ」ということになるのでしょう。
巨大な雹は次々と人の頭上を襲い、警察官も、会社帰りに屋台でいっぱいやっていたビジネスマンも倒れていく。
そんなパニックシーンの東京、いちいち看板の文字など気にしてみる場面ではない。繁華街の道ばたに鳥居があるのも、映画館で見ていたのなら、みすごしたでしょうね。
氷の固まりで頭を打たれて倒れていく人の姿に驚いているうちに、次のパニックシーンに移っていったでしょう。
でも、そんな1、2分のパニックシーンであっても、見ていると、「あれ、これは本当の東京の街角じゃないなあ」という違和感が残りました。どこと言って指摘できなくても、なんとなく「半分中華街のような東京」だっていう印象が残ってしまいます。
これが、「なりすまし」「模写」の限界なのかもしれません。
がんばって、東京の街角をセットで再現してみた。うん、よくできている。っていっても、「オートツョップ」になっている。東京の街を見慣れた者にとっては、店の入り口が鳥居になっていることにアリエネーと感じ、車や看板についている家紋風のマークが、日本では見かけないマークばかりであることに「アレレ?」という感じを受けてしまう。
偽物が本物を凌駕する場合がなきにしもあらず。でも、やはり、「なりすまし」の表現や「ヘタな模写」は、どこかでボロが出る。
私ごときが何者かになりすましたとして、せいぜい「オートツョップ」や「サヌい」程度のものになるのが関の山。
私は、私自身の姿さらして書いていくのが一番いいと思っています。
<おわり>