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日本語・日本語言語文化・日本語教育

日本語言語文化における<主体>と<主体性>  目次

2010-04-29 13:00:00 | 日本語言語文化
日本語言語文化における<主体>と<主体性>  目次

目次



序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・001


第1章 日本語における<主体>と<主体性>
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・003

第1節 日本語における<主体>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・004
1.1 認識の<主体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・004
1.2 日本語文法から見た<主語>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・005
 1.2.1 類型論から見た<主語>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・005
 1.2.2 日本語の<主語>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・008
1.3 日本語の自動詞文と他動詞文の<主語>・・・・・・・・・・・・・・・・・009
1.3.1 日本語の<主体>表現「ワ」と「ワレ」・・・・・・・・・・・・・・・010
1.3.2 日本語の自動詞文・他動詞文における<主体>と<客体>・・・・・・・013
1.3.3 再帰的他動詞文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・016
1.3.4 <主体>の背景化と動詞の完結性・・・・・・・・・・・・・・・・・・019

第2節 日本語の自動詞文と他動詞文の<主体>・・・・・・・・・・・・・・・021
2.1 状態変化主体の他動詞文・再帰的他動詞文の<主体>・・・・・・・・・・・021
2.1.1 状態変化の再帰的他動詞文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・021
2.1.2 再帰的他動詞文の引き起こし手と<主体>の変化・・・・・・・・・・・023
2.1.3 再帰的他動詞文のまとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・028
2.2 授動詞文の動作主体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・029
 2.2.1 授動詞文の<主体>と<受益者>・・・・・・・・・・・・・・・・・・030
 2.2.2 意志を表わす「~てやる」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・031
 2.2.3 受益者の格マーク・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・032
 2.2.4 受益者格を新たに付け加える場合・・・・・・・・・・・・・・・・・・033
2.2.5 授動詞文のまとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・038
2.3 直接受身文の動作主体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・039
2.3.1  受け身文の動作主体のマーカー「ニ」「カラ」「ニヨッテ」・・・・・・039
 2.3.2 「行為の受け手」「行為の目当て」<主語>になる場合・・・・・・・・039
 2.3.3 動作主体の行為動作の結果生産物が生じる文・・・・・・・・・・・・・041

第3節 『夢の痂』にみる日本人の文法意識と<主体>・・・・・・・・・・・・042
3.1 『夢の痂』概要・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・042
3.1.1 『夢の痂』梗概・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・043
3.1.2 『夢の痂』のテーマ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・044
3.2 井上ひさしの日本語文法観・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・044
3.3 比喩としての<主語>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・052
3.4 行為主体と責任・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・053
3.5 日本語母語話者の文法意識と日本語言語文化・・・・・・・・・・・・・・・054

第1章まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・055



第2章 日本語言語文化における<主体>と<主体性>・・・・・・・・・・・・056はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 056

第1節 <主体>と<主体性>の概念と議論・・・・・・・・・・・・・・・・・056
1.1 辞書に記載されている<主体>と<主体性>の語・・・・・・・・・・・・・056
1.2 Subjektivitätの受・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・057
1.3 近代と<主体>概念・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・058
1.4 表現主体の背景化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・062

第2節 日本語と<主体性>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・065
2.1 日本語言語文化における<主体性>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・065
2.2 哲学の<主体性>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・067
2.3 文学理論における<主体性>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・069
2.4 言語学における<主体性>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・070
2.5 日本語学における<主体性>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・071
2.6 本研究における<主体>と<主体性>の概念規定・・・・・・・・・・・・・073

第3節 太宰治「富嶽百景」の叙述分析・・・・・・・・・・・・・・・・・・・074
3.1 「富嶽百景」の表出する<主体性>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・074
3.2 「富嶽百景」概要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・075
3.3 「富嶽百景」文体分析・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・076
3.4 「富嶽百景」の叙述と<主体性>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・084

第2章まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・085



第3章 日本語の<主体>と<主体性>を反映させた日本語教育・・・・・・・・087
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・087

第1節 非日本語母語話者・日本語学習者にとっての日本語の主語・・・・・・・088
1.1 主語の非明示・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・088
1.2 日本語の主題「ハ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・090
1.3 非日本語母語話者の読解における問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・092
1.4 <主語>の見つけ方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・095

第2節 自動詞文・他動詞文の誤用と対策・・・・・・・・・・・・・・・・・・097
2.1 これまでの研究の流れ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・097
2.2 中国人学生の誤用分析・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・098

第3節 翻訳と日本語文読解指導・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105
3.1 翻訳の問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105
3.2 日本語文読解と翻訳文との比較・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・108
3.3 読解指導の要点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・109

第3章まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・110


結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・111


注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・115


参考文献一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・119

日本語言語文化における<主体>と<主体性>序

2010-04-27 08:20:00 | 日本語言語文化


 人間活動のうち、言語は、「人間が人間らしくある」ための最も重要な手段と考えられる。触覚を用いる点字、視覚を用いる手話も含め、認知し表現することが「人間らしさ」の表れとなっている。この言語活動において、人がつまずきを感じる大きな機会となっているのが、「母語以外の言語を習得する」ことと思われる。筆者は、日本語を母語としない学習者に日本語と日本文化を教える、という仕事を1988年より20余年続けてきた。日本語を母語としない学習者の誤用文などを通じて、日本語の特質について考えさせられることが多く、専門としてきた日本語統語論に関し、表出されたコミュニケーション上の日本語を通して、日本語と日本文化について考察したいと考えるようになった。
本研究は、まず日本語の統語構造において、また言語文化においての<主体>を確認する。次に日本語と日本語言語文化に対して<主体性>欠如の日本言語文化、日本人という論を検討し、日本語が<主語>を表さない言語ゆえに、日本人は<主体性>を発揮できないのだ、という言説がその通りなのかどうか、検証する。その結果得られた日本語の<主体>また<主体性>についての考察を日本語教育の指導法に積極的に活用する方策を提案する。
日本語学の研究史において、日本語の主語、主体についての多くの論が提出され、主語論の進展によって「日本語の主語と西洋語の主語は文法上の性質が同じではない」「日本語は主語を明示しなくても成立する言語である」ということが明らかにされてきたにもかかわらず、いまだに多くの日本人論日本語論の中で、「日本人は主体性の欠如した民族」「集団主義を好み、個人が確立していない」「主語を明確にして発言しない日本語は、責任の所在を曖昧にしている言語である」などの言説が流布してきた。「一人だけ周囲と異なる行動をとるのを好まず、周囲と異なる意見を持っても、異議申し立てをしない」「流行に乗りやすく、他の人にたやすく同調する」などと言われてきた。ほんとうに日本語は<主体性>のない言語であり、そのような言語故に日本人は<主体性>を発揮することができないのだろうか。あるいは日本語に責任転嫁をしているだけではないのだろうか。
 日本語学で明らかにされている主語論が一般的な言説に反映されていないだけでなく、筆者が従事している日本語教育においても、「日本語の<主語>」「日本語が表現している<主体>」の理解について、統一的標準的な教育方法は提出されておらず、出版されている教科書類、教師用文法指導書などにおいても、執筆者が拠って立つ文法論の違いにより、日本語学習者への説明も異なってくる、というのが現状である。日本語学習者への日本語理解のアプローチを探ることが、本研究の二つ目の目的である。
 本論に先立つ日本語言語文化における<主体><主体性>の研究は、日本語学の領域において、<主語>の研究、<主格>の研究というような統語論から多くの成果が上がっている。しかし、日本語学と、言語文化の両方の領域を見渡す形での<主体性>考察は、行われてこなかったというのが現状である。2010年3月に発行された廣瀬幸生・長谷川葉子『日本語から見た日本人 主体性の言語学』は、「日本語」と「主体性」を正面から取り上げ、英語との対照研究を中心として論述されているが、言語学レベルでの考察であり、言語文化の分析および論考はなされていない。
 これに対し、本研究は日本語言語表現を、文単位の表現から小説として表現された作品までを見渡す意図をもって<主体>を考察する。日本語の<主体>は、他動詞能動文であっても、「自己をとりまく環境の中で、述語によって表現された事象推移の中心者として事象の認識者となる」のであって、「動作行為者」としてのみ表現されているのではないことを確認する。
本研究の構成だが、第1章では、<主体>を日本語統語の面から考察する。第1節で<主体>、<主語>、<主題>などの語を確認する。第2節では、日本語の中の<主体>がどのように表現されているか分析する。再帰的他動詞においては、<主体>と<客体>が合一的に事象の推移の主体として述語の実現する場として存在しており、日本語表現にあっては、他動詞文も自動詞文と同じように「事象の推移」を表現しているのであることを述べ、動詞完結性が自動詞文と他動詞文の選択に関わることを考察する。第3節では、日本人の文法感覚の検証として、井上ひさしの『夢の痂』を取り上げて、日本人の日本語と<主体>に関する意識を考察する。
 第2章は、第1節で現代日本語言語文化の中に表現されている<主体>、<主体性>とその意味を考察する。第1節では、日本言語文化にあって、<主体性>がいかに言説化されているかを考察し、subjectivityの訳である<主体性>と<主観性>が、「自己をとりまく環境の中で、<主体>がそこに実現するという意味での<主体性>と、「陳述的な主体性」を表現する<主観性>が日本語においては統合されていることを示す。これによって日本語が<主体性>のある言語であることを結論とする。第2節では哲学、言語学などの<主体性>の意味を確認する。第3節では、具体的な作品分析として、太宰治の「富嶽百景」を取り上げ、表現主体とその主観、そして両者の統合としての<主体性>の表現を考察する。
 第3章は、第1節で日本語教育の立場から<主体>の理解と教育について考察する。第2節で、日本語文を英語訳と対照しつつ、翻訳にたよらない読解を可能にするための日本語教育を探る。第4節で日本語文読解授業の実践を通して日本語文へのよりよい理解をさぐる。
 第1章の統語論から見た「主体」、第2章の言語文化論から見た「主体」は、日本語教育の知見を基礎にしつつ論を進めた。そして、1,2章を総合する形で第3章の日本語教育への応用を論じた。それぞれの章は、「主体」を考察する上で関連しつつ述べられている。
 結論は本研究の総括とする。
 日本語における<主体>とは、「事象の推移、環境の変化」の中に埋め込まれた存在であり、「自己の周囲の客体に対峙する」のではなく、「客体と合一的に事象の推移の中にあって環境を受容する」ことを総括する。

第1章 日本語における<主体.>と<主体性>

2010-04-24 23:16:00 | 日本語言語文化


第1章  日本語における<主体.>と<主体性>


はじめに
 近代以後、日本語の文法研究は主として英語などの標準ヨーロッパ語1(以下西洋語と略す)との対照によって進められてきた。西洋語文法の枠組みの中で研究されてきた近代以後の日本語について、西洋語文法の見方そのままで日本語を解釈した上で、「主語のない文は行為主体を明確にしていない」とみなす論者が、現在でも存在している。日本語学研究で進められてきた「主語論」の内容は、一般に浸透しないまま、「<主語無し文>は主語の存在を曖昧にすることによって行為の無責任性を表す」というような日本語観が流布しつづけることは、グローバル化が進む世界的次元でのコミュニケーションにおいて誤解を引き起こしかねない。日本語は西洋語とは異なる論理と統語のもとに構成されてきた言語である。西洋語文法でいう<主体・客体>、<主語・述語>という枠組みとは別の視点で日本語を読み解いていく必要がある。
 「日本語は、状況を把握し、表現主体(話し手・語り手)と表現受容者(聞き手・読み手)の関わりを考慮しないと理解できない」とは、日本語学習者が、ある程度日本語学習が進んだ段階で言う言葉である。非日本語母語話者が、「主語とみなされる語を補って英語翻訳などに置き換えてから理解する」という方法に頼らず、日本語を日本語の論理のなかで理解していくためには、何を教授し何を理解させればよいのかということは、まだ十分に日本語教育に提出されているとはいえない。日本語の<主体>の問題について、述語表現、題述関係などを俯瞰し、考察していきたい。
近代以後の西洋文化、欧米的思考においては、<主体>と<客体>(=他者)とを分けて認識する思考方法のみが有効とされてきた。<主体>は<客体>に対し行為作用を行い、<主体性>をもって<客体>を変化させていく絶対的存在とみなされていた。しかし、近年、<主体>は他者との関係性において認識されるようになってきている。「主体は独自に優先的にあるのではなく、多様な要因によって形成される何か」であるというジョナサン・カラーの説明は、欧米的思考が変化してきたことを明らかにしている。だが、一般の日本語学習者は、まだ西洋語の論理によって日本語を見るため、日本語が理解できなくなることも多い。日本語教育にあたっては、日本語の論理を明確にし、西洋語とは異なる論理が存在するということを学習者に伝えなければならない。
 本章では、日本語の<主体>と<客体>の関係がいかに言説化されているかを考察していく。日本語の述語に対して<主語>の関わり方は、「主語優先」ではない。述語内容が実現する場として、<主体>と<客体>が合一的に述語に向かう日本語の再帰的他動詞文の理解は、日本語学習者に<主・客>の関係を日本語の論理の中で考えて行く場合に有効である。「主体が客体に対して行為を加える」ことを述べるだけが<主・客>の表現ではないことを教えることができるからである。
 本章第1節では、日本語の<主体>と<客体>の関係を確認する。日本語は述語の内容の実現の場とする<主語>を持つが、<主語>は背景化されることが多い。表現主体が表現の場において話し手・聞き手を「発話の場に存在する者」と認識して表現するとき、話し手・聞き手の自明性によって、それらを明示する必要はないからである。西洋語では、聞き手に対する命令文のみ<主語>が背景化するのだが、日本語では命令文以外の肯定文、否定文、いずれも<主語>を背景化することが可能である。第1節では、世界の言語との対照から、<主語>を明示しなければならない西洋語のほうが言語としては特殊な表現方法をとっているのだ、という観点から日本語の<主語>を考える。
 第2節では、再帰的他動詞文の<主・客>を中心に扱う。<主体>と<客体>が「全体・部分」の関係を持つとき、他動詞述語の内容は<主体>から<客体>へ行為作用を及ぼすという典型的他動詞文から外れていき、段階的に自動詞文に近づいていくことを考察する。また、授動詞文や受身文の<主体>と<客体>について考察する。<客体>の格マーカーを精査することにより、<主・客>の関係が明らかになることを述べる。
 第3節では、現代日本語を母語とする者の文法意識を探り、日本語を母語とする者の多くが西洋語論理を日本語に適用し、「主語のない日本語」を「行為の責任を明らかにしていない」と考えていることを検証する。



第1節 日本語における<主体>

1.1 認識の<主体> 
本節では、まず、日本語における<主体>および<客体>と、これらの関係性を確認する。<主体>は、ヘーゲル以後、言語学哲学上の「発話の<主体>=表現主体」として扱われてきた。本論においても、<主体>は発話がなされ、ひとつの表現が出現していれば、その発話を行ったものを表現主体として認める。「ああ、暑い!」「水!」という発話が為されたら、「暑い」と感じ認識した<主体>、「水」という一語文によって、「水が欲しい」または「水が飲みたい」と要求している者を<主体>と認める。表現主体が発話していることは自明のことであり、日本語は、発話者が「今、ここ」の現場で臨場的に感覚や体験内容を述べることを表現の中心にしている。本論において、日本語は「<主体>と<客体>が、述語に表された事態の推移の中にあって、<主体>が事態の推移を経験(受容)している」という表現であること、<客体(対象語/目的語/客語)>は<主体>と対立するものでなく、<主体>と融合して事態の推移の中にあることを述べる。日本語では、<主体>が文の<主語>として表されている場合もあり表されていない場合もある。また、<主体>の感覚や意識が向けられている<客体>が表されてる場合もいない場合もあり、<客体>が<主体>の一部分として融合して発話される場合も含めて、<主体><客体>を認めるところから論を始める。「あ!あそこ、犬が走っている」という文は、「表現主体(発話者)は、犬が走っているという現実を認識したということを、聞き手に伝える」という内容を含んでいる。表現主体と聞き手の存在が明らかであるとき、認識した者や伝達した者を表現に付け加える必要はない。「あ、犬が走っている」という文の表現主体は発話者であり、発話者は、発話内容を受容する聞き手を想定して伝達行為を行う。発話主体や伝達主体は文に明示されることはないが、存在している。認識され伝達された発話内容の<主語>は「犬」であるが、述語の「断定・非過去・動作継続アスペクト」や感動詞「あ!」場所指示の「あそこ」の選択に、表現主体の認知し伝達しようとした<主体性>が表れている、というのが本論の立場である。
 日本語文には、発話の背後に認識の<主体>が置かれている。「あ、雨」という発話があれば、雨を認識した<主体>がそこに存在していると認める。「雨が降っている」という認識があれば、そこにはその認識を持つ<主体>が存在し、その<主体>は、雨によって何らかの影響変化を受けているのであるから、それを言語的に表現できる。「昨夜、雨が降った」という発話に対して、雨が降ったことを認識した<主体>が、雨を日常的に<主体>に直接関わる存在と認めたとき、雨によって影響を受けたことを「昨夜、雨に降られた」と、受身文で表現できる。これは、日本語の発話にとって、「事態を認識している者」の存在を常に意識し、「発話している者」「認識している者」の存在を重視するのが日本語文であるということの表れである。
 英語などの西洋語ではどうか。<主体(主語)>から<客体(目的語)>への行為動作を表す他動詞文に対して、行為を受ける<客体>を主語にした受動文が成立する。しかし、自動詞文には目的語<客体>が存在せず、行為動作を受ける者が存在しない。したがって、自動詞文では、受動文が成立しない。このことからも、日本語が意味する<主語><主体>と西洋語の<主語><主体>は性質が異なっていることがわかる。
 subjectを<主語>としたのは、辞書『言海』編纂に当たって『廣日本文典』(1897)を著した大槻文彦の翻訳をその魁とする。しかし、当時は西洋文法も研究発展期であり、未成熟な西洋文法を、統語法が異なり言語類型の異なる日本語に当てはめようとした大槻文法は、黎明期の基礎を担うものとなったとはいえ、不十分な面を残す論であった。西洋語の主語と日本語の主語を同一平面で扱おうとしたために、subjectの理解においても、日本語にはあてはまらない事柄に対して十分な文法記述ができなかった。
 西洋語文法では、subjectにもともとは存在していた情報伝達の<話題>という機能が失われて「文の<主語>」という意味を担うのみになった。subujectが日本語文法に取り入れられたのは、<主語>の意味だけになったあとである。日本語には、「主語+述語」という文の形式のほか「話題(トピック)+説明(コメント)」という文法形式がある。言語情報の面からは、西洋語とは異なる表現をしているのが日本語である。係助詞「ハ」が提題機能を担っており、西洋語と文の組み立て方の意識が異なっているのである。トピックとして文にある語は<主語>を兼ねて表現できる、とした上で、本章では、<主体・客体>の確認ののち、他動詞文の<主体>と<客体>の関係について、<主体>と<客体>が所有所属主宰関係にある再帰的他動詞文を取り上げ、他動性と完結性(限界性)を中心に考察する。


1.2 日本語文法から見た<主語>

1.2.1 類型論から見た日本語の<主語>
 松本克己(2006,2007)によれば、「命令文を除き、その表層構造に主語を含まない文は文法的に許容されない」という言語のタイプは、世界に三千から六千あるという言語の中で、少数派である。少数派であるにもかかわらず、近代以後、産業革命をいち早く成し遂げたイギリスの19世紀世界覇権、自動化産業と情報を制したアメリカの20世紀世界覇権によって、英語は世界共通言語としての地位を獲得した。西洋語にSVOという語順が確立されたのは13世紀以後であり、<主語>という概念が文法理論において確立したのも、同時期とみなせる(松本2006:264)。日本語と英語のみを対照して「日本語の主語は明示が義務的でない」と表現するのは、英語中心主義による日本語の姿であって、世界的な言語類型によれば、「主語明示が義務的でない」ほうが多数派であり、文法記述において、<主語>という概念を提出せずに述べることも可能である。以下、松本(2006)の論述である。

 古英語や初期中期英語の非人称動詞などは、もともと<主語>を明示しなくても許容され、文として存在していたが、1500年代までに現代英語の形に取って代わられ、次いでフランス語ドイツ語も同様の変化をたどった。現代英語はSVOの語順をとり統語上厳格な文法項目となっている。この「語順により統語関係を表す」という文法規則は、現代ヨーロッパ諸語に表れているのみで、世界の他の言語圏ではほとんど例を見ないものである。
(中略)。
  西欧の伝統文法で最も重要視される<主語>という概念も、結局のところ、ヨーロッパという特異な言語的土壌が生んだ地域的所産にすぎないと言ってよいだろう。
(大西洋地域)の諸特徴は、全体としてこれらの言語に「行為者優位性actor predominancy」と主語顕著性subject promminency」という類型論的にきわめて特異な性格を付与する結果となった(118-21)。
  世界言語の精査によって、日本語は「類型論的にみるかぎり、特異な言語であるどころか、世界に最も仲間の多いきわめて平均的かつ標準的な言語である。言語の世界で特異な位置を占めるのは、むしろ西洋の近代諸語であって、ここでは日本とうらはらにおのれの言語を全世界の標準と見るかたくなな迷信が、最先端の言語理論家のあいだにさえもはびこっているのである(167)。

 松本(2006)の指摘のように、日本語は日本語の論理の中で考察すべきであり、日本語の<主語>も日本語の統語の中で認めていかなければならない。
ここで、現代において成立しつつあるクレオール言語2、シングリッシュの事例を確認しておこう。シンガポールにおいて、地元のマレー語や客家語が英語と融合して成立しつつあるクレオール言語をシンガポールイングリッシュと呼ぶ。いわゆるシングリッシュである。シンガポール政府は、このようなシングリッシュについて「文法を正しく使えない、劣った英語」と見なされることを嫌い、学校教育ではクイーンズイングリッシュを徹底していくとしている。しかし、現実社会では、自然発生的共通語としてシングリッシュが話されている。シンガポールは、タミル語、マレー語、客家語、英語を公用語とする多言語社会で、さまざまな母語話者が混在している。「民間共通語」シングリッシュが使われ、独自のクレオール言語が発達している途上であるといえる。
 前夜のパーティに出席したある人が、欠席した人に「ゆうべ、何で来なかったの(姿を見せなかったの)?」と、欠席理由を聞くシーンで、話者は聞き手に、「How come never show up?」と質問する。3 このシングリッシュには、英語ならあるはずの主語がない。主語がなくても、互いにコミュニケーションがとれるからである。「文に主語を明示しない」のは、日本語だけの性質でもないし、「狭い共同体のなかで、互いにわかりあえる人とだけコミュニケーションをとればいい」からでもなく、言語のひとつの型として、英語などの西洋語とは異なる型の言語も存在する、というそれだけのことである。語順が日本語と同じ韓国語(朝鮮語)でも、主語の省略は会話のなかに自然に成立している。
 近代以後の西洋文法において、主語の定義は単純明快なものである。
 デカルト派言語学・ポールロワイヤル文法4 の定義によれば以下の通りである。

  あらゆる文(proposition)には、それについて何かが述べられるところの主語と、何かについて述べられたものである述語とが存在する。

 また、ポールロワイヤル文法を高く評価しているノーム・チョムスキー(1965)は、以下のように定義する。

  主語はS(文)に直接支配されたNP(名詞句)、同じく目的語はVP(動詞句)に支配されたNPである。

 しかし、松本(2006)は主語という概念を出さなくても成立する文法論について以下のように述べている。

古代ギリシアの文法学や古代インド文法学においては、主語という概念は欠如していた。古代インド語文法家のパニーニは、主語という概念なしに、名詞の格関係(karaka名詞の格語尾)によって記述している。動作主・使役者・直接的な目標(対象)・達成手段・直接目標の関与者・分離出発点・場所」が、動詞を補足し限定するものとして、動詞=被修飾語に対する修飾語の関係として記述されている。また、アラビア語文法においても、主語という概念は統語的なカテゴリーとしては表れず、動詞文における動作主と、名詞文における主題mubtada'が文法化されている(229-75)。
 
<主語>を提示しなければ文が成立しないというのは、西洋語の特殊な文法形式なのであって、決して世界の言語の普遍的な姿ではないということである。日本語は、談話機能的に文構造を表す、<トピック=主題>と<コメント=解説・題述>が、係り助詞「は」によって文法化されている。主語述語という「依存関係による統語構造」を優先する言語と、談話機能の「主題・題述構造」を優先する言語があるうち、日本語は「談話・情報」機能の明示を優先するほうの言語である。西洋語には「情報の主題」を述べる文法的機能を持つ語は存在せず、語順によって主語と主題を兼ねたものとして表現するしかない。「As for ~」などの二次的な手続きでしか「話題の中心」を表示できない西洋語は、日本語やシンハラ語などの話題の中心を<主題>としてそのまま表示できる言語に比べると情報提示の上では不自由な言語である。
 西洋語の<主語>は、三つの機能が融合したものである。
(1)談話機能上の<主題>
(2)名詞の格表示における主格と対格を失ったSAEが、格表示の代償機能として文の位置関係で語の関係を表す<主語>によって、<述語>への関係を表示する。
(3)動詞の人称語尾によって動作主表示を行う代用として、語頭の語を主語とすることによって動作主を表示する。
 「主語・述語の依存関係」という統語概念とは異なる表現をする言語から見ると、西洋語文法において、<主語>概念を、文法主語、心理主語、論理主語に分ける考え方も、主題表示や格表示を失った西洋語が、主語の中になにもかも投げ込んでしまったがための区分なのである。
 日本語は、<主題>を表す文法的表示「は」と、<主格>を表す「が」を別のものとして明示できるのに対し、西洋語は、この談話機能上の重要な項目を「語頭に出ている主語は主題を兼ねて表示する」という曖昧な表示に変えてしまった言語である。談話機能と名詞の格関係(文の中の意味)を無視して<主語><述語>の統語関係だけを明示する西洋語は、世界言語の中では特殊な言語と言わなければならない。
 日本語で「財布」に話題の焦点があるとき「この財布は、座席の下で見つけました」と、財布に話題を表す「は」をつけて述べればよい。しかし、フランス語では「Ce portefeuille, je l'ai trouve sous mon siege. となり、「この財布はどうしたかというと、それは私が座席の下で見つけたのだ」と、あくまでも「je」の行為を述べる文として表出される。
 松本(2006)は<主語>に関して以下のように述べている。

  「主語は、結論として、普遍的なカテゴリーとしての構文の理論の一部とはならない。主語は、その起源のとても複雑で異質な概念で、非常に限られた数の言語だけの表面の統語的な現象として現れる。したがって、そのような言語の観察だけに基づくどんな統語的な理論でも、完全に再検討される必要がある。どのような意識においても主語が普遍的であると主張するならば、再検討を擁する(277)。

 人類言語にとって西洋語文法でいう主語が、文法的な概念として決して普遍的なものではない、という認識に立って、日本語の<主語>を見ていくべきであろう。
 松本(2007)は、世界言語の類型の中で日本語の<主語><主題>の位置を解明した点で重要であるけれど、それでは日本語はなぜ「行為者が行為を行う」表現より状態主を中心にして「行為の結果の状態」を述べる表現が多用されるのか、については述べていない。本論では「状態の完了を伝えるには、自動詞の完結性(テリック)が必要なためである」と考え、この点については、後述する。
 日本語の<主語>が英語など西洋語の<文に不可欠な主語>とは、異なるものであることを、日本語教育において学習者に混乱なく理解させるには、<主語>や<主題>をどのように扱えばいいのだろうか。
まず、日本語の<主語>を確認し、次に、日本語の自動詞文と他動詞文において、<主体と客体>の関係について、いくつかの特徴を見ておきたい。

1.2.2 日本語の<主語>
 日本語の<主語>についての論争は長く続いてきた。三上章が「西洋語で用いられている意味での主語は、日本語文にはない。あるのは主格補語だ」と論じたことから「主語廃止論」が拡散し、「日本語には主語がない」とする論も現れてきたが、日本語は西洋語のように「<主語・述語>が文法的な依存関係にある言語」とは異なるのであって、日本語に<主語>がある、ないということではない。主語否定論は、「日本語は述語を中心とする言語であり、主語とは述語の従属成文のひとつであって、他の連用修飾成文と同じであるから、<主語>という特別な文法カテゴリーは必要ない」という論である。主語に関して、三上章のほか、橋本(1946)、時枝(1950)、渡辺(1964)、北原(1981a)らが主語肯定、主語否定を主張してきた。5
 「述語を補う補語」のひとつが<主語>であると見なすことは、認知の過程で言えば、目の前を何かが横切ったとき、最初に「飛んでいる」という移動現象をとらえ、「何かが飛んでいる」と認知したのち、「ああ、あの移動している物体はハエだ」と認識して「ハエが飛んでる」と表現するということである。だが、我々の認知の過程において、目の前を何かわからないものが通り過ぎたとき、最初に認知が向けられるのは「何?」である。「飛ぶ」という移動現象だけを認知したのではなく、「何かが飛ぶ」という「何か」という認識を含んだ「飛んでいる」現象の認知なのである。「雪がふってきた」と表現するのは「雪」という物体を認知した表現である。英語のように文の構成要素として必須である主語と日本語の<主語>は、文法的性質が異なる、ということは重要であるが、日本語の<主語>の性質が英語の<主語>と同じである必要はない。日本語においても日本語母語話者が<主体>を認知している。他の文法的要素、対象や場所や時間などの認識よりも、動詞で認識される事態の中心にあるものが他に優先して認識され、それを言語的に表現したものが<主語>であることは認めておかなければならない。
 本論において、筆者は日本語文に<主語>は存在するという立場で論考している。ただし、それは西洋語のいう「述語に依存した主語」「主語がなければ文が成立しない」という類の主語ではない。

1.3 日本語の自動詞文と他動詞文の<主語>

2010-04-17 14:11:00 | 日本語言語文化

1.3 日本語の自動詞文と他動詞文の<主語>
 日本語は行為者の行為を述べるより、自己をとりまく事態の推移を語る言語である。このことは池上(1981)ほかで言及され「日本語はスル言語ではなくナル言語である」と紹介されてきた。行為者を主語とする他動詞文より、事態の推移を語る自動詞文、話題主についての説明をする題述文が多用され、一人の行為主体が客体へ行為を加えるという表現は好まれない。お茶が用意されたことを伝えるのに、「私がお茶をいれましたから飲みましょう」ではなく、「お茶がはいりましたよ」と伝える方が自然な表現として受け入れられる。「お茶が入りました」には、行為主体は明示されない。しかし、それをもって「行為主体のないナル言語は、責任の所在をはっきりさせない言語である」というような見方をする論述は、不適切である。「行為者を主語としない表現を多用するのは行為者の責任を明らかにしていないからだ」というのは、日本語表現の論理を西洋語の文法によって解釈しようとする安易な日本語論なのではないだろうか。「日本語と日本文化」論においてしばしば言及される「主語無し文=無責任文」という見方がまだまだ日本語言語文化においても根強く残されていることを、第3節において見ていく予定であるが、まず、日本語の<主・客>の表現のされ方を考察したい。日本語他動詞には、さまざまなタイプが含まれる。「他動詞」内容を実現する場として<動作主体>を置き、「客体・ヲ格補語」に行為を加えることをプロトタイプとするとしても、他動詞文が常に「行為の実現」を意味しないことも考察しなければならない。他動詞文も、日本語の論理のなかで表出された表現であり、自動詞文と同じように「事態の推移」を描く場合もあるし、行為を客体に加えて変化を実現する、ということを表現する場合もある。お茶の出来上がりを伝えるのに、「お茶がはいりました」と自動詞文として表現しても、それが「自主的主体的な行動を文にあらわさない」と見なされることは、日本語にとって不本意なことである。「お茶」を文の中心にしているのは、表現主体にとってもその発話を受容する聞き手にとっても、「お茶」が表現主体と聞き手の関心の中心として受け止められるからである。伝達の主体と受容者双方にとって、「行為者」を前景に持ち出す必要がなければ、もっとも中心となる存在を文の中心として選ぶのは、自然な表現である。日本語の<主語>に関し、表現主体(話し手・語り手)による表現が、聞き手に受け取られるとき、聞き手はどのような受容を行っているのか、非日本語母語話者の日本語学習者に伝えるべきは、「明示されない主語を補って文を理解すること」よりも、日本語を日本語の論理で理解していく、という点である。「お茶がはいった」という事態は、お茶をいれた行為者を背景化し、お茶を出来事の中心として述べていること、さらに語用論としては「お茶を飲むことの勧誘」を含意していることを理解する必要がある。
 本論で<主体>というのは、「述部(属性、様態、状態、変化移動など)が実現する場として形成されている一定の範囲」という意味での、<predicate が実現する場>をさす。また、現実に発話(表現)している主体を<表現主体>と呼ぶ。
 筆者が教育現場で<主語>という語を用いる場合には、日本語の主語と英語などの主語は異なっていることに留意させている。「花が咲いた」という表現において、述語「咲いた」という事態は「花」という<主語>において実現している。これは<文の主体>=<主語>である。また、「花が咲いた」と認識し、表現している主体が<表現主体>である。こうした<文の主体>=「文の述語事態の実現している場は何か」と、<表現主体>=「誰が文の表出視点の中心なのか」、「誰が発話しているのか」というふたつの<主体>は、同一の場合もあり、異なる場合もある。表現主体や文の主体は表出の場のなかに融合的に存在する。この融合された表出の場に、母語話者は、無意識に入り込んでおり、発話はそのまま理解できる。日本言語文化の基層として存在する日本語構文の問題について、基本となる表現形式を検討するところから考察を始めたい。

1.3.1 日本語の<主体>表現「ワ」と「ワレ」
 日本語の人称を表す言葉が、英語などの人称名詞とは異なっている点は、よく知られた文法事項である。「ぼく、どこから来たの?」と幼い子供に尋ねるとき、「ぼく」は自称ではなく、聞き手の幼子を指している。また、「あなた」も、英語のyouとは意味合いがことなるから、現代日本語では目上の聞き手に対して「あなた」を用いることはできない、という点は、日本語教科書にも記述されるようになっている。しかし、「私」を「I」と同一視する観点は、日本語教科書にもまだ残されている。
 「ワ」「我」「私」などの、<主体>を表現している語を確認しておきたい。まず、日本語言語表現のうち、上代日本語、中古日本語の作品である、『万葉集』、『源氏物語』などから、<ワレ>、<ワタシ>という語の現れ方を見ていく。
 『古今集』、『新古今集』において<ワレ>が歌中に詠まれているのは、全体の1割程度にすぎない。<ワレ>を読み込んだ歌であっても、作者と作中の主人公<ワレ>は別人格化しており、作者は演劇の役者のように<ワレ>を表現している。

陸奥の忍ぶもぢずり誰ゆゑに 乱れ染めにし我ならなくに

の「ワレ」も、作者源融本人であると捉えてもよいし源融がだれかの姿を借りて表現したと受け取ることもできる。歌会に出た人々にとって「我」は文学上、言語表現上の主体であるとみなされていたのであり、<ワレ>という語を作者本人とは受け取らなくては、表現が成立しない、という歌ばかりではない。しかるに『古今集』より時代がさかのぼった『万葉集』の時代においては、総歌数4500のうち39.5%に<ワレ>をよんだ歌がある。佐佐木幸綱(2007)は、約4割の1780首に<ワレ>が表現されていると、数え上げている。(42)万葉の時代のほうが、自我意識が強かったからでない。佐佐木(2007)は、「万葉時代までの<ワレ>とは、集合的主体であり、集団的アイデンティティを持つ存在だった。歌を文字に書くこと、文字にされた歌を通信文としてやりとりするというのは後代の形であって、文字が入ってくる以前において、歌とは、共同体の中で朗唱し、共同体全体が味わうものだった。歌が朗唱されるその場にいる者たち全体、あるいは朗唱するものが属するコミュニティ全体の表現として表す言葉として受容されていたのである。」と論じている。
 この「共同体全体」の表現のひとつが歌垣であり、中国雲南省などでは現代までこの形式の歌が少数民族文化として残されている。6 山路平四郎(1973)は、『万葉集』巻二の藤原鎌足の「我はもや 安見児得たり 皆人(みなひと)の 得かてにすといふ 安見児得たり」(国歌大鑑番号95)」の歌について、「初体験の喜びを歌った民謡風の謡い物が原歌」と、見ている。早くから、記紀歌謡や万葉集の長歌短歌の中には、「共同体=ワレ」の表現が残っていたことが指摘されてきたのである。
 現代語では<ワレ>が複数であることを特に強調したいとき<ワレワレ>と畳語にしたり<ワレラ>と表現する。この畳語の<我々>が出現するのは、後代に至って『御伽草子』などからである。現代語でもしばしば<ワレ>は単数としても複数としても用いられるし、関西弁などでは<ワレ>や<自分>が、一人称としても二人称としても用いられている。大阪では、相手に向かって「ワレ、どっからきたんや」「ジブン、名まえなんや」などと言える。古語の一番古い層の<ワ>また<ワレ>も、発話者本人を指し示す自称でありかつ相手をも指し示すことができ、単数でも複数でも表現することができた。『岩波古語辞典』には『宇治拾遺物語』での用例として、「オレ(汝)は何事を言うぞ。我が主の大納言を高家と思うか」という例を挙げている。この場合の「オレ」は、発話者を指すのではなく、聞き手である。
佐佐木(2007)は、歌は状況を詠むものではなく、意思を言葉にして朗唱することで、その力によって状況を変えることを願うものだった、と述べている。この<状況の変化を望むワレ>は、歌を詠む個人ひとりを<ワレ>と言っているのではなく、自分自身を含むこの場にいる状況全体に関わる者たちを<ワレ>と言っているのだと考えてよいだろう。
 万葉集の<ワ>、<ワレ>は、集団的アイデンティティを持つ<集合的主体collective subject>を表しているということは、以下の歌の<ワ>が、近代以後の一人称とは異なるものであることを感じさせることにもあらわれている。
 万葉集冒頭、雄略天皇を作者に擬する第一首。

籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持
此岳尓 菜採須兒 家吉閑名告<紗>根
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居
師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母
「籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串もち 
この岳(おか)に 菜摘ます児 家聞かな 告(の)らさね 
そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ 居れ
しきなべて われこそ座せ われにこそは 告(の)らめ家も名も」

 この歌の<ワレ>も、作者に擬されている雄略天皇の一人称というより、「この国を統べようとしている大王家の人間である」という集団的アイデンティティを<ワレ>によって表現している。
記紀歌謡の中に見える

  埴生坂(はにふざか) 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群(いへむら) 妻が家のあたり

という履中天皇の作歌とされる歌は、難波の宮を住吉仲皇子によって焼かれた履中天皇が、波邇賦坂に至って、なお燃えさかる宮を望見して詠じたという説話の中にはめ込まれている。しかし、歌そのものを見れば、春、陽炎のたつ妻の郷里を眺めての、大和の為政者大王(オホキミ)による、国ほめの歌、国見歌と受け取ることもできる。この場合も<ワ>は、大王個人を表すというより、朗唱されクニを言祝ぐ大王と、大王の統べる国土全体を含んでの<ワ>の方が自然である。
 <ワタシ>は、どのように文脈にでているであろうか。現代日本語の<ワタシ><ワタクシ>は、語源的には<公(大宅オホヤケ)>に対する<私>から発している。「私雨」が、広く全体に降る雨でなく、有馬や鈴鹿など山地に局地的に降る雨をさし、「私歩き」が、公用でなく私用で歩くことを表すなど、<個人>を意味するより、公に対する私的なことがらを意味している。『源氏物語』桐壺巻において、桐壺帝が靫負命婦を桐壺女御の里に使いにだす場面に出てくる「私」の用例を示しておく。幼い若宮の祖母(桐壺女御の母)が命婦に向かって「私にも心のどかにまかでたまへ」とあるのは、「公の勅使としてでなく、気楽な私用の使いとしてこの里においでください」と言っているのであって、やはり公との対比で用いられている。<ワタシ>が個人を示すようになるのは、『御伽草子』など中世以後の用例となる。<ワタシ>という語が「一人称・個人」を示すようになる平安後期から中世以後となるまで、日本語にとっての「行為主体としての個人」は、表現しにくいものであったろうと考える。
 「ワタシ」が西洋語的な一人称を表すようになったというのは、西欧的な視点で見ようとする見方の中でのことであって、日本語話者の「ワタシ」は「近代社会の個人」とは異なる内容によって使われてきたことを無視することはできない。日本語の古層での<ワレ>すなわち、「共同体=ワレ」が現代まで日本語話者に続く感覚であることを、阿部謹也は一連の「世間」に関する著作で指摘し、山本七平は「日本教」また「空気」という言葉で言い表している。「世間」論、また「空気」論には賛否両論が出されているが、現代まで日本語話者が「共同体と一体のワレ」「集合的主体」によって生きる部分を持ち続け、明治以来論じられている「西欧的、近代的個人とは異なる主体」として存在してきたことは、否定できない。<ワ>、<ワレ>、<ナ>、<ナレ>などは、「相互関係性の中での存在」「主客未分の存在」を表している。現代語にも、この「相互関係の中の存在」は残されている。「会社に所属している」という意識のある会社員が「うちは大手だから不況でも倒産することはないだろう」というときの「うち」は、自己を含めた「私が所属する集団」という意味である。方言では、「うち」を自称に使う地域として「千葉県東総地方・北陸・近畿・中国・四国・大分・長崎・熊本」が挙げられているが、関西方言話者の内省によれば、自称として「うち」と言った場合、「自分、家族、仲間というような、いわゆる「自分側の立場の総称」として使う例が多い」ということである。(ただし、関西の「うち」は、頭高のアクセントであるのに対して、関東地域で若い女性の自称として広まっている「うち」は平板アクセントである。)
 日本語言語文化の中の<主体>を考察する場合、西洋語とは別種の<主体>であることの次に、ではそのような<主体>はどのように<客体>そして述語に関わるのか、という点が問われなければならない。

1.3.2 日本語の自動詞文と他動詞文における<主体>と<客体>
 本節では日本語の文の<主体>と他動性、他動詞文、自動詞文について述べる。日本語は「発話状況・発話の場」を重視し「表現主体の視点を通した表現」による言語であることを前提とし、特に「自動詞・他動詞」の表現、受動能動の表現、授受動詞など、個々の文法現象に関わる日本語の構造と表現に含まれる意識について考察し、日本語の他動詞文とは、「動作主体(agent)が意志主体性をもって他者に行為を及ぼす」という西欧語における他動詞文とは異なり、自動詞文から連続して「事象の推移」を描写する表現であることを述べていく。
 日本語の「自・他」の認識の表出は平安時代に始まり、江戸国学者の冨士谷成章や本居宣長、本居春庭らの研究によって進展を見た。特に本居春庭は「未然・連用・終止・連体・已然・命令」の六つの活用形について研究を深め、「命令形」を他の活用と別扱いしていることで、「ディクテム(事実)」と「ムード(陳述)」を区別し、日本語動詞に深い考察を展開している。日本語の「自・他」の表現の考察は、日本語言語文化における「主体性」「他者性」の問題と深く関わっている。日本語の特徴を知るために、非日本語母語話者による誤用研究は、ひとつの視点を与える。日本語教育に関して行われたこれまでの研究の中で一例をあげると、小林典子(1996)は、自動詞と他動詞の使い分けのテストを行い、西洋語系統の母語話者は他動詞文を主として使い、日本語母語話者が自動詞文で表現する文でも、他動詞を用いることが多いと報告している。この報告は、筆者が20 年間収集した作文誤用例の分析とも一致している。竹林一志(2008)は、白川博之(2002)の中にある中国語母語話者の誤用例を紹介している。きつく締められていた瓶の蓋に力をいれ、ようやく蓋が開いたとき、学習者が「あ、開けた!」と表現した、という例である。日本語では瓶の蓋に話題の焦点があるとき、「あ、開いた!」と表現する。しかし、自動詞他動詞両用の動詞を用いる中国語母語話者にとって、「私が力をいれて、私の力で開けたのに、なぜ<開けた>という他動詞を使って悪いのか、蓋が自然に開いたのなら<開いた>でわかるけれど」と、感じられるのだ。この誤用の背景には、日本語の自動詞表現が日本語教科書に反映されているとはいいがたい現状がある。「開けるvs 開く」の説明が教科書の文法解説でどのようになされているか、という例を『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE』(以下、SFJと略す)によって見ておく。

  (1)「私はドアを開ける」(2)「ドアが開く」
  In(1), the subject 私 controls the opening of the door, whereas in (2) the opening of the door is the result of someone else’s action which cannot be controlled by the subject ドア. Many verbs have two related forms, of which one is a するtype, the other a なるtype verb. (Vol. 2. Notes:71)

この SFJ 文法説明によれば、自動詞は動作主体(subject)のコントロールが及ばない場合に選ばれると学習者は感じるだろう。自分自身が瓶の蓋を開けたのであるならば、動作主体がコントロールして開けたと感じて、蓋が開いたときに「あ、開けた!」と、表現したくなる気持ちはわかる。では、どのような記述を加えておけばよいのか。早津恵美子(1987)は「有対自動詞(他動詞と対応のセットになっている自動詞)は、働きかけによってひきおこしうる非情物の変化を、有情物の存在とは無関係に、その非情物を主語にして叙述する動詞である」と述べている(102)。「自動詞vs 他動詞」の対の動詞において、他動詞は動作主体の制御が可能であり、自動詞は制御のできない動作を表すという説明の次に、この早津の説明を加え、学習者に周知させなければならない。
さらに、中級上級の日本語学習者には、動作主体と客体(対象補語・目的語)との関係について説明する必要が出てくる。「どうしてこのような表現をするのかわからない」と日本語学習者が言った文の例がある。「引き出しを開けた。けれど、開かなかった」という表現がそのひとつである。「私は、引き出しを開けようとした。しかし、引き出しは開かなかった」という記述なら理解できる。しかし、「引き出しを開けた」という既実現の他動詞文に「開かない」という未実現の自動詞文が直接続くことについて、日本語学習者は理解にとまどうのである。この文の受容には、二つのことがらを理解していることが必要になる。ひとつは日本語の動詞は、動詞の意味内容が完結していなくても述語として使用できる、ということ。もうひとつは、動作主と動作対象が「所属関係にある」とみなされたとき、動作主から動作対象へ加えられた動詞内容は、「行為の遂行」よりも「その場の事象の変化」を述べている、という日本語の再帰的他動詞文の特性である。7 「開ける」、「焼く」、「切る」、「打つ」などの変化動詞の場合も同じである。「餅を焼いた」「釘を打った」という表現において、日本語の変化動詞は変化の完了を意味しない。「引き出しを開けた。けれど、開かなかった」という文の構造は「(私が)引き出しを開けるという行為を行ったが、(引き出しは)開かなかった」という「他動詞文+逆接の接続詞+自動詞文」というものである。表現者が最終的に意図するところは、「引き出しに対して何らかの行為が加えられたが、引き出しが開くことはなかったという事態の推移」を述べており、日本語の他動詞文は「文の主体が他者に及ぼす行為」の描写を目的とするのではなく、自動詞と同じように、「事態の推移」を述べることを主な表現範囲としていると考えられる。「芋を焼いたが焼けなかった」も「力を込めて打ったが、釘は打てなかった。指を打ってしまった」も同じ。日本語の他動詞文は、変化動詞の変化が最終段階まで進むことを意図しない。「完了」を意味せずに「餅を焼いた」と表現でき、中味が生焼けだろうと半焼けだろうとかまわない。「意図したとおりには焼き上げることができなかった」という場合、「餅を焼いた。しかしうまく焼けなかった」と表現しうる。逆に「餅を焼こうとした。しかし焼けなかった」という文では、餅に対して行為者の意図はあったものの、何らかの事情があって、「餅を焼く」という動作が行われなかったことを意味する。「焼く」という動詞内容がまったく開始されなかったことを意味するのである。
 次の例でも、「焼く」動作が意図通りに終了しなかったことを表現している。

  はじめておもちを焼きました。でもうまく焼けなかったのでどのようにしたらおいし そうなお餅が焼けるのか教えてください。(Yahoo「知恵袋」2008/11/29 10:01:58)

 「釘を打っていて、思わず指を打った」というとき、行為者の動作者性、主体性は、まだ残されているが、「餅を食べていて歯を欠いた」という発話では、行為主体から歯への積極的な働きかけはない。それでも日本語は「ヲ格+他動詞」で表現する。「引き出しを開けたけど開かなかった」という表現では、「誰が引き出しに対して行為を加えたのか」というような行為者に話題の焦点があるのではなく、「結局のところ、引き出しは開かなかった」という最終的な状態に話題の焦点がある。「私がお茶をいれた」という動作他動詞表現では、最終的に「お茶が出来上がること」まで含まずとも表現できる。お茶の完成を確実に表現するには、「お茶がはいりました」という表現のほうがよい。むろん「お茶、いれましたよ」と、発言することも可能であるが、行為主体の明示は、「行為をした者」を目立たせる結果となり、「行為にまつわる恩恵の授受」の表現が発達している日本語では、聞き手に「お茶をいれてもらった」と、感じさせる発言は注意深く排除される。聞き手に「その行為を行ったのは私である」という行為主体の特定化は、「恩恵の明示」となるからである。その点「お茶がはいった」という表現は、お茶の完成を意味しつつ、動作主への言及は避けられる。「主体から客体への行為の完成」は、日本語においては責任の有無ではなく、恩恵の授受に関わってくるのである。
以下「行為主体がどのように行為作用を対象へ加えるのか」として<主体>の行動を叙述するよりも、「話し手聞き手のいる言語空間で、どのように事象が推移したのか」ということが、日本語表現の中心であるという観点から日本語叙述を見ていく。
 森田(1998)は、以下のように述べている。

  外の世界を内なる己がいかに把握するか、外は客体的な外在世界と考えるのは論理の世界であり、日本語の発想ではない。日本語はあくまで己の内なる視点に投影した世界として主観的に把握する。自分を取り巻く周囲の「世界」対「己」の関係で、自らが受け止めた印象や感覚として対象を理解する。(131)。

 本論も、森田が言うように、「日本語の内なる視点を投影した世界として主観的に把握する」という観点にたって他動詞文の分析を試みる。
 言語タイポロジーでいうSOV 型の範疇に入ると見なされる日本語他動詞文について、「主語が対象に作用を加えて変化させる」という「動作主体中心の表現」としてみるより、「事態推移表現中心の述語」とみなす。日本語の述語が表現の「場」を担い、述語(述部)を中心として表現が成立すると考えるのである。

1.3.3 再帰的他動詞文
 英語では、動詞をめぐって<主語>と<客語・目的語(対象となる存在)>は対立している。<主語>は動詞内容を対象(目的語)に加え、変化を引き起こす。

 <主語>→<他動詞>→<対象>

 日本語では、対象格は<主体>と共にあるものとして存在し、<主体>とは、対象が動詞内容の変化を表していく事象の中心にいる存在である。

 <主体(対象)>←<他動詞>

 英語の他動詞文は、行為主体が客体に変化を与えることを表現しているが、日本語の他動詞文は、自動詞文の対極にあるのではなく、グラデーションをもって自動詞文から他動詞文まで連続的に存在する。

 自動詞文>再帰的他動詞文>弱い他動性の他動詞文>強い他動性の他動詞文>他動詞文

 学習者は、文法解説書を参照するとき、どうしても母語の文法にひきずられた解釈をする。「他動詞」という文法用語を知れば、自分の母語の他動詞にひきつけて理解しようとするのは当然のことだ。しかし、日本語に表現された他動詞文は、幅が広く、形式上は他動詞であっても、自動詞文として扱うべき文も存在する。「綱子は、餅で歯を欠いた」(向田邦子『阿修羅のごとく』)という他動詞の形をとる文を分析してみよう。「ヲ格+他動詞」の形をとり、形式上は他動詞である。しかし、「~を欠く」の主体「綱子」は、対象格の「歯」に対して、意志的に動作作用を加えた行為者ではなく、動作主体とは言えない。この文は、他動詞の形式を見せていても、「~ヲ格名詞+他動詞」のセットで自動詞相当になっており、事態の推移を表している。綱子は、「歯が欠ける」という事象の推移を負うているにすぎない。なぜなら、この文の「歯」は綱子に所属するものだからである。綱子と歯は「全体・部分」の関係になっている。
 日本語の他動詞文は基本的に「ヲ格補語・対象語(目的語)」をとる。ヲ格補語の名詞は「モノ名詞」がほとんどで、「ヒト名詞」は少ない。日本語の他動詞文では、事象の推移の中心にいるものとしての<主体>が存在する。西洋語の他動詞文は、主語が目的語に作用行為を加え、目的語は変化移動を成し遂げている、ということを叙述する。日本語の他動詞文は、西洋語の他動詞文と基本的機能が異なり、<主体>と<客体>が事象の推移の中に存在し、事象の変化を共に担っていることを表現している。「太郎は、床屋で髪を切った」という他動詞文で、太郎は「行為主体=agent」ではなく、「事態の変化推移を所有する者・主宰する者」となっている。太郎は「太郎の髪が切られて、短くなったこと」という事象の推移を<主体>として負うている。では、「次郎は洋裁室で布を切った」は、どうか。これとても、次郎がハサミを持った行為者でなくても、文は成立する。トップデザイナーの次郎が、仕事を指揮して、洋裁チームの一員に布を裁断させており、自分ではハサミを持っていないとしても、仕事の推移について全体の責任者として「洋裁室で布を切った」と、表現できる。次郎は、「洋裁室で布が切られた」という事象の推移を、負うている主体である。従来、自動詞文は事態の推移を表現し、他動詞文は<主語>による行為動作を叙述すると文法書などに解説されてきた。筆者は、日本語においては、他動詞文もまた、自動詞文と同じく、「事態の推移」を表すことを主とするものと考える。他動詞の客体(対象補語・目的語)は、主体と共にある存在として動詞の内容を実現する場になっている。片山きよみ(2003)は、稲村(1995)を引用して以下のように述べている。

 稲村(1995)は、主語と目的語が所属関係にある多数の再帰構文の意味分析から、「主語+主語と所属関係を持つ目的語+述語」という構造の再帰構文は「主語をめぐる出来事」を表し、その表現内容には「主宰者主語による使役的出来事」や「他の行為や外部の原因を受けた受け身的出来事」などがあることを指摘、「家を建てる」「注射をする」なども広く再帰構文に含めて提示している。(3)

 「私は力をこめて瓶の蓋を開けた」という文が成立するとき、「瓶の蓋」は、すでに「私」の関係物/所属物として存在し、「私に所属するもの」と、表現主体に受け止められている。瓶の蓋が開いたとき、「あ、開けた」ではなく「あ、開いた」と表現するのは、「対象・目的物(ヲ格補語)=瓶の蓋」に対して与えられた動作主体の力は、動作主体の支配下、影響下にある物への言及だからである。これは三人称動作主体であっても同じである。彼が力を込めて瓶の蓋を開けたのを見ていた人も「開けた!」とは言わない。「開いた!」と、事態の推移について感慨を述べる。発話者の視点の中心に瓶の蓋があり、「瓶の蓋」を話題の中心として述べるからである。「あ、彼が開けた!」というのは、「他の人が開けても開かなかったのに、彼だけが開けることができた」というような場合に限られ、有標的な表現となる。部屋の中、グラスがテーブルの上に置いてある。家の主人または客人がグラスを手にしてウィスキーを飲んでいたときグラスが下に落ちたのであれば、通常は「あ、お客(主人)がグラスを割った」とは言わない。故意にグラスを投げつけたというような場合でなければ、下に落ちたグラスを見た人は、「あ、グラスが割れた」と言う。グラスに視点の焦点をあてて表現するほうが無標的表現であり、動作主体を文の主体として表現するほうが有標的である。客が手に持っていたグラスは客に所属していると考えられるゆえ、「お客さんが手に持って飲んでいたグラスを手から落として割った」と再帰的表現によって表現した場合、「お客さんが固い餅を食べていて歯を欠いた」と表現した場合と同じく、「グラスが割れるという事態」の状態主体として存在しているのであって、「グラスが割れた」という事態への行為主体として表現しているのではない。この「お客さんが手をすべらせてグラスを割った」という他動詞文も、事態推移を表現しているという点で自動詞表現につながるものである。竹林一志(2008)も、以下のように述べている。

  訪問先の家の花瓶を落とした場合に、「あ、割れてしまった」と言えないのは、発話者が心の中では「割れてしまった」と思っていても、「割れてしまった」と無標的に表現したのでは、事態の重大さ(いわば特殊的・非日常性)を表現することにならないからである。家の主人がその持ち物である花瓶を落とした際に、訪問者が何も言わない場合や「あっ」のような感嘆詞のみの場合もあろうが、自動詞・他動詞のいずれかを使うかと言えば、「あ、割ってしまった」ではなく、「あ、割れてしまった」というのは、責任の所在が家の主人にあると表現するのを避けるという理由もあろうが、事態を無標的に表現するだけのことであるとも言える。(140 -41)

 再帰的他動詞表現を通して考えるなら、花瓶が家の主人に所属していることがわかっていると、「ご主人の肘がぶつかって、花瓶を割ってしまった」と、他動詞文で表現したとしても、それは「ご主人」を「行為主体」としての責任を追及し有標的に表現しているのではない。「花瓶が割れたこと」という「事態の推移」の中心に「ご主人」がいる、という表現にすぎない。竹林(2008)は、以下のように述べている。

日本語の文表現の本質は、<主部項目における、或る事象の現出>を表す。<主部項目における、或る事象の現出>は、もっとも無標的なあり方で事態を把握・表現する傾向が強い「現出」型言語である。(144)

「花瓶」をお客さんや主人の所属物として認めた表現として、「ご主人の肘がぶつかって、花瓶を割ってしまった」と、再帰的他動詞文によって表現されたとき、それは自動詞文「花瓶が割れてしまった」と、同様、事態の推移を表しているのである。
「彼はころんで骨を折った」は、彼が骨に対して「折る」という行為を加えたことを表現しているのではない。「彼」は「骨が折れた」という事態の推移の話題の中心者であって、他動詞文で表現したとしても、自動詞文の表現に相当する。「信長は安土城を建てた」というとき、「信長さんは大工ですか」という冗談が通用するのは、「家を建てる」という「ヲ格補語+他動詞」の表現が、実際に動作主体(行為主体)の動作が行われたとして表現することも、「家が建つ」という自動詞的事態の変化を視点の中心的な人物を主体として表現することも、どちらもできるからである。「安土城が建った」という事態推移全体の中心に存在しているのが信長であって、城に対して具体的な動作をしている必要はないと、日本語話者は知っているからである。文の<主体>から<客体(対象格・目的語)>への具体的な他動性をもつかもたないかに関わりなく、「ヲ格補語+他動詞」の形式の文で表現することが可能であることを示している。
 日本語学習者に対し、次の点を日本語自動詞表現・他動詞表現の特徴として示したい。
(1)「日本語は、有対自動詞(他動詞と対応のセットになっている自動詞)は、働きかけによってひきおこしうる非情物の変化を、有情物の存在とは無関係に、その非情物を主語にして叙述する動詞である」(早津 1987)
(2)「客体・ヲ格対象語(目的語)が、文の<主体>と関わりを持つ」と発話者(表現者)が意識しているとき、他動詞文は全体として「事態の推移」を表現し、文の<主体>が実際に行為者性(agentivity)を有しているいないに関わらない。「事象の視点中心者」「事象の主宰者」を主体として表現する他動詞文もある。
(3)「主部項目において或る事象が現出する」ということを表現する場合、もっとも無標的な表現は、発話者にとって「おのづから然る」表現となる。

1.3.4 <主体>の背景化と動詞の完結性
 前項で述べた動作主体を<主語>として「お客さんがウイスキーを飲んでいたとき、手がすべってグラスを落とした」は、非意図的な動作を他動詞文によって表現している。一方、「グラスが落ちた」は、動作主体に言及せずに、事象の推移のみを述べた文であり、地震によってグラスが落ちる結果になったのか、人がぶつかったのか、結果を招いた原因には言及されていない。動作主体や原因が明らかな場合、「手がすべって、グラスが落ちた」であっても「手がすべってグラスを落とした」でも、発話主体にとって、動作主体の「行為実行責任」を追求しているわけではない。動作主体を主語として文の上に明示するかしないかは、「責任の有無」とは関わらない。
 自動詞文は動作主体を前景から背景に移す表現となる。あるものを話題の中心として、そのものをめぐる事象の推移を完結したこととして述べているのが自動詞文である。他動詞は多くの場合、事象の完結を描ききる表現とはならない。動詞の完結性限界性が関わるのである。「餅を焼いたが焼けなかった」の「焼く」は、変化動詞が変化の完結を表現せず、変化の着手だけを表現するゆえに成立する。しかし、自動詞の場合、変化の完結を表現する。「餅が焼けた」は「焼く」という変化が限界に達し完結した場合でないと使えず、「*餅が焼けたが焼けなかった」は、不自然である。日本語が「(○○が)餅を焼いた」という「主語プラス他動詞」よりも「餅が焼けた」という自動詞文を好むとすれば、この「変化を表す他動詞文では完結性が表現しにくい」、ということが理由のひとつに上げられるだろう。日本語動詞のうち変化(状態変化・空間移動変化など)を表す動詞においては完結性(telic)は表現されず、行為の着手のみが表現されるのである。動詞内容の変化が終了しているのであるなら、動作主体の動作行為に注目して「餅を焼いた」というより、事象の変化完結に注目して「餅が焼けた」と、自動詞によって変化事象完結を表現したほうが、的確な描写となる。日本語が「主語プラス他動詞」という表現より、自動詞による事態の推移としての描写を選んで表現することが多いというのも、動詞の完結性によって説明できることである。あるひとつの事象が完結して目の前にあることを認識した認識主体が、それを他者に伝える表現主体として発話するとき、動作意図の有無や動作主の関与度の割合まで勘案して「主語+他動詞」で発言するより、事象全体の推移を、事態の中心物にスポットを当てて表現する方が多いのは、表現主体の一方的な認識としてでなく、事象変化の推移を的確に表現できるからである。ある変化が事象の中に起きたとき、その事象の中心となる人は必ずしも動作主体でなくてもよい。「床屋で髪を切った」というときの出来事の中心人物は、床屋の椅子に座っているだけで、切るという動作を行っているのではない。出来事全体のの主であれば、文の中心としてフォーカスを当てて良い。動作行為を直接に行う場合でなくても、文の中心的存在としてスポットをあてて表現できるのも、日本語述語が「事象の推移を表現する」ことに力点が置かれ、「動作者の行為を主語述語依存関係で表す」という構造になっていないからである。
 「集団主義」「個人が責任を追わないようにする社会構造」などを日本語の特性からくるものと考えたい人には、「自動詞文が多用されるのは、主語の背景化によって、責任の所在を曖昧にするため」という、「責任逃れ説」が支持されているのであるが、日本の社会構造と日本語の構造は別の問題として考えてみる必要があるだろう。
 池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学』以後、一般的な認識として広がった「行為者による行為の描写を中心とする英語」に対する「状態の変化の描写を中心とする日本語」、という言説によれば、「日本語では<主語>の表示が義務的でない」という言い方になる。しかし、全世界の言語を類型別に俯瞰すれば、「<主語>の表示が義務的」である英語のほうが特殊な言語であり、英語を古英語と比較すれば、現代英語において<主語>の表示が義務となったのは、近代以後のことにすぎない。(松本2006:227-56)
池上(1981)が日本語を「行為者によって行われた行動の描写」ではなく、「状態変化の推移を描写する」ことを主たる言語表現とすることを、認知言語学の立場から明らかにしたことは日本語への新たな見方を定着させたものとして評価できるが、では、なぜ日本語は「状態変化の推移」を描写する言語なのか、なぜ上司への報告が「このたび結婚いたします」でなく「結婚することになりました」という「ナル」表現になるのか、ふたを力をこめてひねって瓶を開けたとき「あ、瓶を開けた」と他動詞文で表現せずに「あ、瓶が開いた」と、自動詞文で表現するのか、解明されていない。
 『「する」と「なる」の言語学』の核心部分をまとめた池上(1982)は、「日本語は<出来事全体>=<コト>中心的な事態把握に基づく言語類型に属する。 日本語では個体を出来事全体に埋没させた「なる」的な表現になっている。」と述べている。また、池上(1993)は、自動詞と他動詞の区別には統語論的なものと意味論的なものがある」とし、統語論的には「動詞が目的語objectを伴い、受動態化passivizationが可能になることが他動詞の条件となる。意味論的には、自動詞他動詞の区別に他動性transitiviyの程度が関わる、としている(35)。本論は、「日本語の自動詞も他動詞も、事象の推移を述べることが表現の中心である」と考える。他動性の強弱や受動態化の難易が段階的に存在するが、典型的な他動性を持つ他動詞であっても、客体が主体とどのような関係を持つかによって、他動性の発揮の仕方も変わってくる。
 日本語の自動詞他動詞に関して、筆者は日本語学習者に、
(1)自動詞は述語が結びつく名詞格成分が1項以上、他動詞は2項以上を必要とする。
(2)日本語自動詞文は動詞内容の完結性を表現できる。
を教科書等に示しておくべきであると考える。
 森田良行(1998)は、日本語に「無主語文」が多いことを取り上げ、次のように述べている。

  <主語><目的語>が省略されており、<日本語では、表現に際して、現在の事象である事柄や周囲の状況を、自分自身の目でとらえ心で感じた外界のこととして、聞き手にそのまま投げ掛ける。己を客体化し、対象化した表現をしない。日本語がいちいち<私>を文の中に立てていかない言語であるということは、話し手が表現を進める<話者の目>として言葉の背後に隠れてしまい、話者は視点を通して対象と対峙している、そのような立場に立つ言語だということである。(13)

 森田が、日本語の<主体>について「発話者は、<己>であって、<内>の存在として陰在化し、己の目でとらえられる事物、現象が<外>の世界として顕在化し、文面に表れる。」とみなしている点を肯定する。
 日本語は、出来事を対象化客体化せず、表現主体の視点が捉えたことを直接表現しようとする。日本語文は表現主体の視点が捉えた外界をそのまま言語化する。

第2節 日本語の自動詞文と他動詞文の<主体>10

2010-04-10 08:45:00 | 日本語言語文化
第2節 日本語の自動詞文と他動詞文の<主体>

2.1 状態変化主体の他動詞文・再帰的他動詞文の<主体>
 本項で<主体>は、「文の主体」をさす。文の表現主体(話し手・語り手)が文の主体と重なる場合もある。「昨年、会社の集団検診で私は左肺の上葉に豆粒大の空洞を発見されたのだ。幸い肋骨が癒着していなかったので、肋骨を切らずにすんだが、ここに来る前に住んでいた経堂の医者から半年間気胸療法を受けていた。」(『海と毒薬』4)において、「私は肋骨を切らずにすんだ」は、自分自身で「切る」という動作を行うのではない。医者が「肋骨を切る」という行為を行い、「私」はその行為を受ける側である。しかし、日本語では「私は肋骨を切る」と、「私」を<主体>にした他動詞文で表現する。この他動詞文は、<主体>の「私」と<客体>の「肋骨」が所有関係にあることで成立する。この他動詞文を稲村(1995)は「再帰的他動詞文」として分析した。

2.1.1 状態変化の再帰的他動詞文
「主語+補語(直接対象語)+動詞述語」という構文の他動詞文は、<主語>であらわされている<主体>の引き起こす動作が、他者である<客体>にその結果・影響を及ぼす。しかし、<客体>が<主体>の所属物(主体の一部分・所属物・関連物)であるとき、<主体>の引き起こした動作は、他に向かうのではなく、<主体>自身に向かう。このタイプの他動詞文は「再帰動詞文」「再帰構文」と呼ばれ、典型的な他動詞文とは文法的に異なる性質をもつことが指摘されている。

(1) 卓夫は、廊下で運動靴をはいた。(『Wの悲劇』37)
(2) その泉にすいこまれたようにメロスは身をかがめた。(『走れメロス』144)
(3) 宏男は巻子の前に手を突き出す。(『向田邦子TV作品集Ⅰ』10)
(4) そうよ、こないだ綱子姉ちゃん、あげもちでさし歯ガツーンて欠いたものね。(『向田邦子TV作品集Ⅰ』39)

 <主体>に対し他者である客体をもつ典型的な他動詞文は、「ビーバーが木のみきをかじっています。(『新しい国語二14』」という能動文が「木がビーバーにかじられています」という受動文と対立するのに対し、(1)~(4)の文は、受動文との対立が消極的であったり、対立を持たなかったりする。自動詞文は、<主体>のみにとどまる働きであり、他者への働きかけを文の出来事に表現しない。それに対して他動詞文は<客体>(他者)への働きかけを表現する。再帰的他動詞文は、文の形式として「主語・補語・述語」という他動詞能動文と共通の構造を備えているが、主語で示されるものの引き起こす動作が他に対するものではなく、<主語>で示されるもの自身に及ぶ動作である。再帰的他動詞文は、自動詞文と他動詞文の中間的なもの、と考えることができよう。
 「主語+主語の所属物である補語+述語」という構造をもつ再帰的他動詞文をまったくの自動詞相当とみなしてよいかというと、そうではない。他動詞の構造を持つということは、他動詞で表現されなければならなかった理由があり、<主体>から<客体>への関わりが何らかの形で存在するからこそ他動詞文として表現されているのだ。再帰的他動詞文の<主語>から<客語>(対象補語)への働きかけは、典型的な他動詞文の場合と同じではない。<主語>が補語を運動の中に引きずり込んでいるとして、その強さは一葉ではない。すなわち<主体>から<客体>への働きかけの度合いが段階的に存在する。再帰的他動詞文の中にも、動作主体から動作対象(客体)への働きかけが実行されているとみられるものも存在するし、対象への働きかけをまったく表現していない文もある。述語動詞の自動詞化の程度が段階的に存在し、他動詞文から自動詞文まで連続的に「働きかけ」の度合いが異なっていくのである。(3)の文は、宏男が自分の身体部分である手を動かし、述語動詞は手の動き「突き出す」を表現している。手の働きとは、すなわち手の持ち主である<主体>自身の動作である。(4)の文では、綱子から「綱子のさし歯」への働きかけ性はゼロである。「歯を欠く」という出来事に対して、綱子は自分からは意図的に行動していない。綱子は「歯が欠ける」という出来事を経験しているにすぎない。このように、<主体>と<客体>が所属関係にある再帰的他動詞文は、典型的な他動詞文とは、意図性、他動性が異なった表現である。本節は、現代日本語の他動詞文のうち、再帰的他動詞文を観察し、これらの文の特徴や成立条件を考察する。日本語の<主体>が<客体>との関係を自動詞文から典型的他動詞文まで見渡すことは、日本語の<主体>のありかたを考察することとなるであろう。
 再帰的他動詞文について、高橋(1975)、高橋(1989)、仁田(1982)、天野(1987b)、児玉(1989),工藤(1991)などの考察がある。これらの論文において「再帰構造の文」や「状態変化主体の文」とされているものは、典型的な他動詞文とは文法的に異なる面が存在することが考察されている。主語と補語の対立がこれらの文の中ではやわらげられており、補語が典型的なものとはいえないものであることなど、再帰的他動詞文を考える上で重要な指摘が為されてきている。しかし、状態変化他動詞文の文法的な性質、成立条件等について、「働き動詞は状態変化他動詞文にはならない」(天野1987b)、「主体以外に実質的な引き起こし手が明示されていること」(児玉1989)などの指摘が確実なものであるかなど、再検討を要することがらも多く残されている。細江逸記が「日本語の所相の成立過程について、原始中相(反照性・再帰性)から発達した」と述べているように、古くから日本語の再帰的な面について言及している研究も存在するが、再帰的動詞文についての研究において、十分に論議し尽くされたとは言えない面も残されている。
 本論では、直接対象語としてのヲ格補語をとる動詞を他動詞と考え、その他のものを自動詞とみなす。三上章は自動詞を所動詞と能動詞に分けたが、ここでは一括して自動詞として扱う。「道を歩く」「橋を渡る」などの、ヲ格補語をとる移動動詞は、自動詞として扱う。他動詞文のうち、ヲ格補語が主体の身体部分、側面、所有物、生産物、関係者などを主語と所属関係にあるものを補語としてとる他動詞文を再帰的他動詞文と呼ぶ。側面を表す名詞補語は、人の性質、身なり、心情など具体名詞ではない語も含め、再帰的他動詞文として扱う。

2.1.2 再帰的他動詞文の引き起こし手と<主体>の変化
 再帰的他動詞文は、①~⑦に記述する文が存在する。<主語>として文に表現されているものが動作の引き起こし手となっているのではなく、何らかの原因が作用している場合がある。

(1)主体が意志的に引き起こし主体自身が変化する出来事を述べる文
主語が意志的に自分自身の身体部分に働きかけて、主語自身の状態の変化を引き起こす。「テイル」の形では、姿勢の持続や身体部分の動きの持続などを表す。主体は人。客体は身体部分。述語は主体からの働きかけと客体の変化を表す他動詞(物理的な変化を表す他動詞、移動・位置の変化を表す他動詞、設置・取り付け・取り外しを表す他動詞など)、主体の働きかけのみ捉え、客体の変化は捉えない動詞(打撃、接触を表す動き動詞など)
①姿勢の変化
  (5)近く寄れという晴信の言葉で、彼は立ち上がると、躯を折って晴信の間近まで進んだ。(『風林火山』26)
②視線の変化
  (6)利休は道具畳をぬけ、待合からつくばいまで目をくばってからりきが朝げの用意をととのえている座敷に戻ってきた。(『秀吉と利休』8)
③身体部分の動き
  (7)みねは掌に視線を落とし、ゆっくりと指を折りながら、値踏みをしているように見えた。(『Wの悲劇』121)
  (8)そう思いながら実るは掌で目を擦った。(『青葉茂れる』12)
④身体状態の変化
  (9)じいさまは、いろりのうえにかぶさるようにして、ひえたからだをあたためました。(『新しい国語二』41)
⑤社会的な状態の変化
  (10)彼は勝負師から物語作者に身をかえた。(『秀吉と利休』70)
⑥姿勢の持続(テイル形)
  (11)秀吉はびろうどの長枕に後頭部をのせ、布団を胸にずらし、左右の手を組み合わせて額にのせている。(『秀吉と利休』43)
 これらの文では、<主体>が自分自身で出来事を引き起こし、動作を行っている。動作は他へ及ばず、主体自身が変化する。

(2)主語の内部的な原因で発生した出来事、事前発生的な出来事を述べる文
 主体は無意図的に、内的な変化や身体からの喪失などを経験する。<主体>は自分から意図的に出来事を引き起こしたのではない。無意図的な行為である。<主体>は人。客体は身体部分、所有物。動詞は主体の働きかけと客体の変化を表す他動詞。
①心理的・主体的な変化
  (12)宗二は尋常に通った鼻柱を赤く染め、口をくいしめていた。(『秀吉と利休』217)
   (13)白血球を減らさないようにするために、太陽に照らされるのをなるべく避けてトマトをしきりに食べているのもある。(『黒い雨』232)
(14)次にガス・マスクが鼻に当てられ、私は意識を失った。(『乳がんなんかに負けられない』103)
  (15)朝、縁側のところから僕を呼ぶ声で目をさました。(『黒い雨』144)
②無意識の身体の動き
  (16)針を腕にいれるたびにおばはんはぴくっと躯を動かす。(『海と毒薬』39)
  (17)(漁夫や雑夫たちは)仕事をしながら,時々、ガクリと頭を前に落とした。(『蟹工船』45)
③生理的な出現
  (18)血を流していなかったものは一人もいない。(人々は)頭から、顔から、手から、裸体のものは胸から、背中から、腿からどこからか血を流していた。(『黒い雨』41)
④身体からの喪失
  (19)婦人は腰や肩をなで回し、「かばんを落としました、わたくし」とひそひそ声で云った。(『黒い雨』45)
 これらの文の<主体>は、客体と「全体・部分」の関係にある。「宗二は鼻柱を赤く染
め口をくいしめていた」という文で、宗二は「鼻柱が赤く染まっている状態」の状態主
であり、経験主である。(19)の婦人は、「かばんを落としました」と他動詞文で表現していても、婦人が意図的に落としたのではなく、無意図的にかばんが落ち、婦人はその状態の経験種となっている。内部的な身体の動きや姿勢の変化は、無意図的ではあっても、述語の内容は主語の動作として目に見える。

(3)外的作用をうけての出来事を述べる文
 外的な作用が引き起こした出来事を、主語の部分にうけて、部分が変化することをあらわす文が存在する。部分の変化の結果を所有者である主語の状態つぃて述べている。主語はひと・もの、補語は身体部分・ものの部分、動詞は「主体の働きかけと補語の変化を表す他動詞」「主体の働きかけのみを表し、補語の変化は捉えない他動詞(動きを表す他動詞)」いずれの場合も再帰的他動詞文となる。
①人の状態の変化
  (20)僕は宮路さんが火事の焔で背中を焼いたのだろうと思ったが話を聞くとそうではない。(『黒い雨』82)
  (21)石原は太腿を半分泥に汚しただけで、岸に着いた。(『雁』111)
  (22)たとえば、ある男が倒木を伝わって川を渡っているとき、その気がオレ、男は転落して下肢の骨を折ったとしよう。(「朝日新聞夕刊」92/11/28)
  (23)初老の男があぜみちに横倒れになって、服の胸をびっしょり濡らしていた。(『黒い雨』115)
  (24)彼は何を思ったのか、手を振ったり、わめいたりして、むちゃくちゃに坑道を走りだした。何度ものめったり、枕木に額を打ち付けた。(『蟹工船』11)
  (25)二人は身を伏せ損ね、庄吉さんはもんどり打って足首を舷に打ち付けた。(『黒い雨』27)
  (26)稔が何気ないふりを装いながら隣家の庭先を覗くと、隣家の主の元陸軍少佐は長い山羊髭を潮風になびかしつつ徒手体操をしているところだった。(『青葉茂れる』44)
(27)土曜日だったから、私は午後二時頃、会社から家に戻ってきた路でトラックに追いこされ、白い埃を頭からかぶったのである。(『海と毒薬』7)
②ものの状態の変化
  (28)昼前からしばらく降り続いた雪のために、玄関前の石段と前庭、鉄柵の扉が開け放された門の脇に泊まっている車まで、すべてが再び純白の装いを整えていた。(『Wの悲劇』199)
  (29)一週間前の大嵐で、発動汽船がスクリューを毀してしまった。(『蟹工船』85)
 これらの文では、原因となる現象があり、<主体>の状態変化を引き起こしている。原因となる語に言及されていなければ、「宮路さんは背中を焼いた」の「宮路さん」は、動作主体なのか、状態主体なのか、判断できない。宮路さんが意図的にお灸で背中を焼いたという場合もあるからである。「宮路さんが火事の焔で背中を焼いた」と、状態を作り出す原因となる事象が明示されているとき、宮路さんは、状態の経験主体である。
 では、<主体>の意図的な行為でなく、状態を追っているだけの「状態主体変化」の文では、原因が文中に明示されたり文脈から推察できたりしなければ、成立しないといえるだろうか。児玉(1989)は、状態変化主体の他動詞成立の条件として、「主体の動きの実際的な…直接的な引き起こし手が明示されている、あるいは文脈的・語彙的に暗示されている」という点と、「引き起こしての作用力の発現が、主語によってなんら影響されないものであるという設定(認識)が必要」の2点をあげている。<主体>以外の「主語の状態をあらわす文」にとって、動きの直接的な引き起こし手の明示が必要であるかどうか、(7)の項で検討する。

(4)行為者の働きかけを受けての、結果的な状態をあらわす文
 人の行為の結果を者の状態の変化として表現する文がある。<主語>は擬人的な物、補語はものの部分。動詞は「<主体>の働きかけと補語の変化を表す他動詞」で文が成立する。
①<主語>の状態の変化
  (30)道の両側の店舗もかたく表戸を閉ざしている。(『風林火山』15)
  (31)兵隊は二名ずつ二台のトラックに分乗し、先頭を来た一台はボンネットの先に浅葱色の小旗をたてていたと云う。(『黒い雨』158)
  (32)街灯がほとんどなく、家並みも灯を消している。(『空洞星雲』39)
  (33)この蟹工船博光丸のすぐ点前に、ペンキのはげた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから怒りの鎖を降ろしていた。(『蟹工船』5) 
 これらの「非情物の結果の状態」を表している文の<主語>は、擬人的な存在で、<主語>の部分が客語となり「全体・部分」の関係をなしている。実際の働きかけを行っているのは、人であるが、動作が完了した後の状態持続を非情物主語の状態として表現している。出来事の引き起こし手は、<主語>ではなく、<主語>に関わる人間である。

(5)<主語>が他者に行わせた行為を、<主語>の引き起こした出来事として述べる文
①<主語>が使役主的な存在である文
(34)信長は村重の一族三十余人を京都六条河原で切り、婦女子百二十余人を尼崎ではりつけにし、婢妾従僕五百余人を焼き殺した。(『信長と秀吉』117)
  (35)秀吉は二万の大群で、まず出城をつぶし、生育している稲を焼き払った。(『信長と秀吉』125)
  (36)希代子急いで入浴し、マンションの近くにある美容室で顔や髪をととのえてから、タウナスを運転して、海堂産業の本社に行った。(『空洞星雲』143)
  (37)姪の矢須子は町の美容院へパーマをかけに行き、いやにのっぺりした顔になって5時ごろ帰ってきた。(『黒い雨』64)
 信長や秀吉は、行為述語の直接の動作者ではなく、出来事の全体を主宰統括している。ヲ格補語は、信長や秀吉にとって、その命運を握っている「自己の所属物」にあたり「主語の支配下にあるもの」で、<主体>と<客体>は「全体・部分」の関係にある。実行者agentに対する、依頼者principalの関係に近く、<主語>は、事象全体の統括者に相当する。「秀吉は二万の大群で、まず出城をつぶし、、、」という文では、「デ格」の「二万の大軍」がagentにあたる。再帰的他動詞文においては「デ格」補語が動作主体agentになる。「太郎は床屋で髪を切った」の「で格」「床屋」が髪を切る作業をしている。
<人数デ>
  (38)お経を前の晩の漁夫に読んでもらってから、四人の他に病気のもの三、四人で麻袋に死体をつめた。(『蟹工船』79)
<組織デ>
  (39)私のうちでは冬季防寒のため、平たい石または瓦を煮物などするときかまどで焼いて、古新聞紙に包みまして、それを布でまいて 背中に入れました。(『黒い雨』72)
  (40)写真の集まりが悪いので、編集部で美人の写真を捜さなければならない。(『雑誌記者』94)
 agentは雑誌記者個人であるとしても、principalは「デ格」の「編集部」である。「私は病院で胃を調べた」「太郎は、電気屋でテレビを修理した」なども、デ格名詞の病院、電気屋がagentで、私、太郎はprincipalである。このprincipalは、出来事の引き起こし手を<主語>とする使役文に近い。

(6)主語を生産全体の主体として表現する文
 物を生産する動作そのものを行っていない場合でも、生産された物を自分の所有物・作品として、その物の存在に関わる統括主宰者が<主語>として表現できる。主語は人、補語は生産仏、述語は生産を表す動詞の再帰的他動詞文が成立する。
  (41)黄金の茶室を例にとれば、思いついたのはもとより秀吉である。でも宗二の想像のごとく、迎合や妥協やあるいは媚び利休はそれを建てたのではない。(『秀吉と利休』16)
  (42)信長は義昭のために二条に新邸を建て始めた。(『信長と秀吉』54)
  (43)命を助けられた城兵は、やつれはてて見る影もなかった。秀吉は城のふもとに大釜をすえ、かゆをつくってあたえたが、急に食事をあたえられたので、大半のものが急死してしまった。(『信長と秀吉』126)
  (44)京都の高瀬川は、五条から南は天正十五年に、二条から五条までは慶長十七年に、角倉了以が掘ったものだそうである。(『高瀬川』124)
 これらの文の主語もprincipalであり、依頼者としてagentに生産活動を行わせている。生産活動の主宰統括者である。「運河を掘る」には、資金を出す、設計、土を掘るなどの関与者のものに、複雑な工程を経て完成する。その統括者を主語として生産の全体を表現できるのである。これらの再帰的他動詞文の成立条件は、生産物が統括主宰者主語の所有物であることだ。「僕はナオミちゃんにいろんな形の服を拵えて、毎日毎日、取り替え引きかえ着せてみるようにしたいんだよ(『痴人の愛』)などの「拵える」も、「僕」はprincipalとして「拵える」のである。

(7)原因や働きかけを行っているものについてふれていない出来事を表す文
 <主語>が働きかけを行わず、<状態主体>として存在する文のなかに、他の原因などは明示されていないものもある。主語は人。補語は主語の部分・所有物である。述語は主体の働きかけと補語の変化をあらわす他動詞。
  (46)次の朝、雑夫が工場に降りて行くと、旋盤の鉄柱に前の日の学生が縛り付けられているのを見た。首を絞められた鶏のように、首をガクリ胸に落とし込んで、背筋の先端に大きな関節をひとつポコンとあらわに見せていた。そして子供の前掛けのように、胸に、それが明らかに監督の筆致で「此者ハ不忠ナル臆病者ニツキ、麻縄ヲ解クコトヲ禁ズ」と書いたボール紙をつるしていた。(『蟹工船』59)
  (47)この境内の脇の往来の人は、みんな灰か埃のようなものを頭から被っていた。(『黒い雨』41)
<主語>と<客語>が「全体・部分」の関係を持つ再帰的他動詞文が「テイル」の形を取ったとき、変化の結果の状態を表す。変化の過程は表さず、結果が完結したあとの「結果的な状態」のみを示す。変化を引き起こした者は誰かということには無関心であって、<主語>の状態を表す。「男女が黒焦の死体となって、二人とも脱糞を尻の下に敷いていた」という文は、「変化が限界に達した後の結果的な状態」を表している。変化を引き起こしたのは誰かということは文の中にも、前後の文脈にも表されていない。これらの文では、出来事の引き起こし手はだれかということは文の成立にとって必要な条件ではない。他者が引き起こしたものであっても、<主語>自身が引き起こしたものだっても、主語の状態を述べるという文の機能には変わりないのである。児玉(1989)が状態変化他動詞文の成立条件を「他者によって発現した客体変化をみずからの状態として持つ」としたことからは、この⑦の文の成立が説明できなくなる。「初老の男はあぜみちに横倒れになって、服の胸をびっしょり濡らしていた。(黒い雨)」は、「濡らす」という変化を発現した他者を明示していない。しかし、<主語>は「変化の結果の状態」の<主体>である。再帰的他動詞文の成立状態は、<主体>と<客体>が「全体・部分」の関係「全体の統括者・統括者と所属関係にあるもの」という関わりを持つことによって成立し、主客は一体となって述語の内容を実現する場となって存在している。

2.1.3 再帰的他動詞文まとめ
 再帰的他動詞文の引き起こし手agentをまとめておく。
(1)<主語>が引き起こし手となっている。「メロスはひょいとからだを折り曲げた」(『走れメロス』」
(2)<主語>の内部的な変化。「宗二は鼻を赤く染めた」(『秀吉と利休』)
(3)外的な作用を受けて<主語>の部分が変化し、そのことによって変化部分の所有者の状態をあらわす。「正体も知れぬ光で、僕の頬も左側を焦がした」(『黒い雨』)
(4)他者が引き起こした変化を<主語>の状態として表現する。「道の両側の店舗は表戸を閉ざしていた」(『風林火山』)
(5)他者に行わせた行為を、<主語>が主宰統括した者として表し、出来事全体を<主語>の意図した文として表している「希代子は美容院で髪をととのえた」(空洞星雲)
(6)<主語>の主宰統括した生産活動によって作り出された生産仏が、<主語>の作品・所有物として存在するとき、生産の出来事全体を<主語>の作り出した行為として表す。「角倉了以は高瀬川を掘った」(高瀬船)
(7)出来事をもたらした行為者や原因にふれずに、<主語>の状態を述べる。「死体は城に下に脱糞を敷いていた」(『黒い雨』)
 身体状態の変化、社会状態の変化、心理的生理的な変化を表す再帰的他動詞文は、他動詞文の形式を使いながら、主体と客体が「全体・部分」を構成することによって、段階的に自動詞表現と同じく状態の表現となっている。「ひとつひとつのものが、ある時間的なありかの中で、一時的に採用するそのものの存在のしかたを指し示している」ことが再帰的他動詞文のありかたである。
 次に、再帰的他動詞文が表現できる範囲を上げておく。
(1)再帰的他動詞文は、文構造は他動詞文と同じであるが、<主体>から<主体>の部分への働きかけを表す場合と、「<主体>をめぐる出来事」、「<主体>を中心とした事象の推移」を表す場合が表現できる。
(2)「主語+客語(対象補語)+他動詞」という文構造をもつ再帰的他動詞文は、客語に<主語>と「全体・部分」の関係をなすものをとり、①空間的位置変化、②姿勢の変化・身体の動き、③姿勢の持続、④、心理的生理的な変化、⑤、生理的出現、⑥身体への取り付け、取り外し、⑦身体、身の上からの喪失、⑧身体の外見上の変化・変化の結果的な状態、⑨社会的な状態変化、⑩社会的な出来事の引き起こし、出来事の主宰者の命令依頼による変化、⑪生産を主体統括する主語による作品・所有物の作りだし、⑫非情物の結果的な状態、を表す。
(3)再帰的他動詞文の<主語>は、「主語自身への働きかけを行う動作主体」「変化の結果小状態の主体」「状態生産の主体」として文中に存在する。
(4)変化動詞と動き動詞のどちらの他動詞でも、<主語>が「状態の主体」として存在する文が成立する。状態の引き起こし手、直接の行為者・原因は明示されなくてもよい。
以上、<主・客>が「全体・部分」の関係所有・所属関係になっている日本語文を精査し、<主体>から<客体>への働きかけが、西洋語とは異なる文の表現を確認した。

2.2 授動詞文の動作主体

2010-04-05 11:06:00 | 日記
2.2 授動詞文の動作主体
 日本語動詞文の<主体>と<客体>がどのように表示されているか確認し、<主体>と<客体>の関係を見ていく。本項においては、授動詞文の動作主体から動作が向けられる受益者の表示マーカーがどのように使い分けられているか、考察する。
 日本語初級の学習者に、次のような例文が「やる・くれる」文として与えられる。
『日本語初歩29課』より

   チンさんは わたしたちのために 記念写真をとって くれました。
   田中さんは わたしに 英語を 教えて くれました。
   わたしは こどもたちを しょうたいして あげました。
   わたしは 山田さんのくつを みがいて あげました。
                                   
 これらの文において、動詞で表わされた動作・行為の受益者(利益・恩恵を受ける人)は、わたしたち、わたし、こどもたち、山田さん、であるが、名詞についている助詞(または複合助詞)は「のために」「に」「を」「の」などさまざまである。授受文において日本語学習者がとまどうことの一つは、誰が誰にしてやっているのかという関係がよくわからないことである。確かに上の例文を見る限りでは、受益者はさまざまな格で示され、何を用いたらよいのか、わかりにくい。「先生が私達に日本語を教えてあげました。」など、話者の視点とやりもらいの方向を間違うもの、「夫は私に結婚してくれました」など、受益者の格を間違えるものなど、誤用の性質はいろいろあるが、授受文が学習者にとって、習得しにくいものの一つであることはいえるだろう。
 しかし、これまで、学習者に対し、わかりやすい教示は少なかったように思う。
 例えば、 McGloin (1989)は動詞テ形に「やる」「あげる」がついたときの格マークについて、次のように説明している。
 (1)授受動詞(あげる・やる・くれる)の間接目的語(恩恵の受益者)は「に格」で    マークされる。例文「道子に英語を教えてあげた。」
 (2)直接目的語が人に所属している場合には「に格」は適切でなく「の格」が用いら    れる例文「道子の部屋を掃除してあげた。」
 (1)(2)の説明は不十分である。恩恵の受益者は「に格」で示すという説明を、学習者が応用すれば「私は 太郎に 駅へ 案内してやった」などの誤用がでてくるのは当然だろう。また、「太郎」の幼い娘「花子」が、彼女の所有物である絵本を持ってきて、読んでほしいと「太郎」に頼んだとしよう。絵本は明らかに花子の所属物だから「太郎は花子の絵本を読んでやった。」とするのが適切で、「太郎は花子に絵本を読んでやった。」といったら不適切なのだろうか、という疑問も、学習者は感じるだろう。
 授受文の受益者を適切に示すために、もう少し詳しい説明を試みたい。
 授動詞(やる・あげる)は、他者のために何らかの行為を行なうことを示す補助動詞として用いられる。この項の目的は、だれのために行為が行なわれているのかを示す受益者のマーカーを明かにすることである。
(1)元の文の補語(客体)と受益者が同一の場合は、受益者を新たに示す必要はない。補語が受益者を兼ねる。補語の所有者が受益者である場合も同様。
(2)受益者を新たに付け加える場合、受益者にものの移動があるときは、受益者は「ニ格」で示す。ものの移動がないときは、「のために」で示す。

2.2.1 授動詞文の<主体>と<受益者>
 日本語には、誰に向けて動作が行なわれたかを明示する形式がある。動詞(~て形)に
補助動詞としての「やる」「くれる」「もらう」がついた、いわゆる「授受文(やりもらい文)」である。授受文は、動作主体・話者の視点・待遇の面から体系をなしているが「やる・くれる」と「もらう」は構文的に異なっている。「やる・くれる」文は、元になる文の構造をかえずに、動詞に補助動詞をプラスした形を基本とするが、「もらう」文は、元になる文と主語・補語の位置が異なる。「もらう」文は、構造の面からは、受け身文につながるといえる。
  (元の文)先生が 太郎を ほめた。(動作主体-対象-述語)
  (受け身)太郎が 先生に ほめられた。(対象-動作主体-述語)
  (もらう)太郎が 先生に ほめてもらった。(対象-動作主体-述語)
 本項では、元の文と格の構造が変わらない「やる」「くれる」文を中心に、誰に向けて動作が行なわれたのかを明示する格マークが何になるのかを見ていくことにする。「やる・くれる・もらう」は動詞で表わされる内容について、話し手の視点によって、話者が主観的に表現したものである。実際の受給関係のあるなしに関わらず、話者の視点からの受給関係を表わす。

 (1)お兼さんは自分の声を聞くや否や、上り口まで駆け出してきて、「このお暑いの    によくまあ」と驚いてくれた。(『行人』)

 この「驚いてくれる」の行為主体(お兼さん)は、相手の利益を考えて「驚く」という行為を行なったわけではない。しかし、「自分」は主観的に、お兼さんの「驚く」という行為が自分に向けて行なわれたと受け止め、自分にとってプラスの利益を感じさせるものとして「くれる」を用いている。授受文は、話し手の視点からみて主観的に「行為が行なわれる方向」「誰の為に行為が行なわれたか」を示すのである。
 授受文の補助動詞「~てやる」「~てもらう」「~てくれる」は、本動詞の動作行為がだれに向かって行なわれるかを示すのであって、利益の受給そのものを示すのではない。行為を向けられた相手にとって、その行為が受け入れられるものであれば、プラスの利益になるし、受け入れられないものならばマイナスの利益と受け止められる。「やりもらい」が文法的に表わすのは行為を向ける方向であって、話し手や聞き手の主観によって、その行為がプラスにもマイナスにも受け止められる。本稿でいう「受益者」とは、あくまでも話し手の主観の中での利益・恩恵の受け手であって、現実に行為の受け手が利益を得るとは限らない。「軽蔑する」「ぶつ」「いやがらせをする」など、語彙的にマイナスの利益と受け取られることが多い語もあるが、文脈によっては、プラスの利益にもなり、話し手の表現意図によって変わってくる。
 マイナスの利益を表している文。(例)花子をいじめたくなって、太郎は花子に石をぶつけてやった。

 (2)あとにも先にも一度の小言をあんなにくやしがって泣いてくれなくともよさそう    なものを。(『野菊の墓』)(マイナスの利益)
 (3)私はこの小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。(『放浪記』)
 (4)彼と一度仕合いして化けの皮をひんむいてやりたいと思った。(『風林火山』)

 プラスの利益を表している文(例)境内の石を病気の部分にぶつけると治るという話を聞き、太郎は花子に石をぶつけてやった。

 (5)外の場合なら彼女の手をとって、ともに泣いてやりたかった。(『行人』)

 「のために」は、授受文でない場合も、動作・行為の恩恵・利益を受ける存在を表わすことができる。「おかあさんはヒサのために、ヒサの大好きな五目めしを作った。」という文は、動作主体(おかあさん)がヒサの利益を目的として動作を行なったことをあらわす客観的な描写である。「ヒサのために」は客観的に受益者がヒサであることを示している 一方「おかあさんはヒサのために、ヒサの大好きな五目めしを作ってくれた。」という文は、視点がヒサの側にあり、ヒサの側からおかあさんの行為を主観的に述べたことになる。話し手(文の作者・語り手)の意識がヒサの立場に置かれておりヒサの側から表現されているのである。このように、授受文は、ある立場からの視点による動作・行為の方向の表現であり、一つの視点からみて主観的に恩恵を受ける存在を示す文である。

2.2.2 意志を表わす「~てやる」
 「~てやる」文の動詞は本来、意志動詞である。「~てやる」文に、非意志動詞が用いられる場合、「わざと驚いてやった」「家族のために死んでやろう」などのように意志的な意味が加わる。意志を加えられない動詞を「~てやる」文にすることはできない。
 「*はっきりと見えてやった」「*うっかり落してやった」
 本動詞としての「やる」には「一方から他方へ移らせる」という行為の方向を示す用法のほかに、「積極的にみずから行なう、する」という意味もある。

 (6)若し、そなたが、このわたしの命令をきかぬならば、わたしは、それを自分で     やります。(『風林火山』)

 「~てやる」という補助動詞としての用法にも、動作・行為の方向を示すのではなく、「積極的に行なう」という意味を表わす場合がある。この場合は、動作・行為主体の意志や希望を表わしている。

(7)ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。(『走れメロス』)
 (8)畜生、この仇はきっととってやる。(『邪宗門』)

2.2.3 受益者の格マーク
 「~てもらう」は、動作・行為を向けられる側を<主語>とし、動作主体を補語として、表現した文であるが、「~てやる」「~てくれる」は、動作・行為を他者に向かって行なう側を<主語>とし、動作・行為を向けられる側を補語とする表現である。
 「~てやる」は、「話し手・話し手が同じ立場に立つ人」を行為の受け手にすることはできない。「~てくれる」は、「話し手・話し手が同じ立場に立つ人」が行為の受け手になる。逆にすると非文になる。

*太郎は私をかわいがってやった。(*は、日本語表現として適切でない文・非文を表す)
*私は太郎をほめてくれた。

 「~てやる」「~てくれる」文は元の文と格の構造を変えず、動詞に補助動詞「やる」「くれる」を付け加えて、動作を向ける相手、利益・恩恵を受ける相手(受益者)を示す。受益者はもとの文の補語と別の存在として付け加えられることもあるし、もとの文の補語(動作客体など)が受益者を兼ねる場合もある。
 もとの文に新たに受益者格を付け加える場合、「のために」という複合助詞で受益者を明示することもあり、「に格」で受益者を示すときもある。一般的な会話や小説などの文章中では、行為者や、行為を向けられる人は自明のこととして省略される場合が多い。文脈によって、誰がその動作・行為を行なうのか、誰に向かって行為が向けられているのか、推察できるからである。しかし日本語学習者にとって、これを推察するのは上級者になってもなかなか難しい。
 <主語(行為者)>については、なんとか推察できる学習者でも、誰に向けた行為なのか、という点はなかなか理解できない。新聞・小説などの読解に進んだとき混乱する原因のひとつとして、初級段階で、受益者がどのように示されているのかを確実に把握していないこともあげることができるだろう。何によって受益者の格マークが決定されるのであろうか。
 「やり・もらい」によって、動作・行為の方向を表わした結果、その動作によって、相手との関わりが直接的なものとなるかどうか(相手へ移動するものがあるかないか)ということが、関係してくる。動作の結果、相手へ移動するものには、具体的なものもあるし、抽象的な物の場合もある。動作・行為の結果、相手への授受・移動があるかないかが、格マークにかかわってくるのである。
 大曽美恵子(1983)は、国立国語研究所『動詞の意味・用法の記述的研究』をもとに、「~てやる」の受益者格について、次の法則をまとめている。

具体的な物、または抽象的な物(情報・知識など)あるいは五感に訴える何か(声・音・香りなど)が、好意とともに受け手にむかって移動すると考えられるときにのみ、ニ名詞句を使って行為、およびに上記の物の受け手をしめすことができる。

 本項はこの指摘をもとに、さらに検討を加え、受益者を「のために」で示す場合、「に格名詞句」で示す場合、受益者が元の文の補語(動作客体)と同一の場合、異なる場合、あらたに受益者を付け加える場合などの条件を考えていきたい。

2.2.4 受益者格を新たに付け加える場合
 授受文の受益者が動作の直接の客体ではなく、利益・恩恵の受け手としてのみ存在している場合がある。すなわち授受文にした結果、利益の受け手としての補語を付け加える場合である。物の授受・移動がない場合とある場合によって、受益者の示し方が異なる

物の授受、移動がないとき
 動作・行為が相手や対象(アニメイト・組織・機関)を必要とせず、動作の結果、受益者へ向かって、物の授受、移動が行なわれない場合、受益者を明示するときには「のために」を用いる。物の移動がないのに「に格」を用いると、不適切になる。行為者は、受益者の利益を目的として動作・行為を行なうが、その動作・行為は、相手が存在しなくとも完結する。

(9)太郎は家族のために、一日中 働いてやった。(家族=受益者)
    *太郎は家族に、一日中 働いてやった。
    (太郎は、一日中働いた。)
 (10)万更の他人が受賞したではなし、さだめし瀬川君だって私の為に喜んでいてく     れるだろう、とこう貴方なぞは御考えでしょう。(『破戒』)(私=受益者)
    *瀬川君だって私に喜んでいてくれるだろう。
 (11)津田はこの二人づれのために早く出て遣りたくなった。(『明暗』)(二人づれ=受益者)

 小説などでは文脈上、受益者が省略されていることが多いが、学習者に受益者を明示する必要がある場合、ものの授受・移動がないときは、受益者を「~のために」で示す。
( )は省略されている語を筆者が補ったもの。

 (12)つうがもどってきて、汁が冷えとってはかわいそうだけに、(おらが、つうの     ために)火に掛けといてやった。『夕鶴』
 (13)やっぱりあんた、(おれのために)これを警察にもっていってくれないか。(『空     洞星雲』)

 機械的に『受益者は「に格」』と覚え込んでしまった学習者は、「あたしが代りに行って、断わってきてあげましょうか『明暗』」の受益者を明示しようとすると、『*あたしが代りに行って、あなたに断わってきてあげましょうか』というような誤用をしてしまうことになる。(あたし=お延  あなた=津田)

物の授受・移動がある場合
 本動詞が「に格の相手対象」の補語をとらないときでも、授受文にすると、動作・行為の結果、相手に物を授受することになったり、ものが移動する場合がある。
 動作・行為を向ける相手(受益者)は移動するものの着点であるので、このときは受益者を「に格」で示す。移動するものは、具体的な物の場合もあるし、抽象的なもの(情報・知識など)や、感覚的なもの(声・匂い)などの場合もある。
 学習者に、省略された受益者を明示する必要がある場合、ものの授受・移動があるときは、受益者を「に格」で示す。

 (14)いいもの、八津にこしらえてやろう。(『二十四の瞳』)(八津=「いいもの」の着点・動作を向ける相手・受益者)

 動作主体が「こしらえる」動作を、八津の利益を目的として八津に向かって行なう、ということを動作主体(話者)の立場から述べている。「こしらえる」動作の結果、「いいもの」は八津に移動することをふくみ(implicature) として表現している。

 (15)さっそく、富岡はゆき子の枕元に座り込んで、ナイフで(ゆき子に)林檎をむ     いてやった。(『浮雲』)(ゆき子=林檎の着点・動作を向ける相手・受益者)

 動詞によっては、補助動詞「~てやる・くれる」を加えた結果、物の移動が生じるときと移動がないときの、二つの条件に別れる場合がある。
 「読む」は「を格」の補語(非アニメイト)を必要とし、本動詞は「に格」を必要としない。しかし「~てやる・くれる」を加えて、受益者を示す必要ができたとき、受益者への声の移動のあるなしによって受益者格が異なる。省略された受益者を明示するときも、注意が必要である。
 「太郎が本を読んだ。」という文の「読む」は、黙読したのか朗読したのかは、前後の文脈がなければ、この一文だけでは決定できない。しかし「~てやる」文にすると、動作を向ける相手や、受益者を示す必要がでてくる。朗読して相手に聞かせたときは、「声」が相手に移動すると考えられ、受益者は「に格」で示される。(動作を向ける相手=声の着点)

 (16)太郎は花子に絵本を読んでやった。(花子=受益者・動作を向ける相手・声の着     点)

 「に格名詞句」は、動作を向ける相手になり、「読んでやる」は「朗読する」に限られる。「に格名詞句」は、動作主体が動作を向ける相手・声の着点であり、受益者となる。朗読したときは、声の着点の「に格」がなければならないので、たとえ「絵本」が「花子」の所有物であっても、「太郎は花子に(花子の)絵本を読んでやった」という文にすべきである。

(17)童話指導上の大切な点は、子どもに読んでやったにしても、また自分で読ませ     るにしても、あとで子どもと話し合うということです。(坪田譲治)
     (子ども=受益者・動作を向ける相手・声の着点)

 黙読したときには動作・行為を向ける相手は必要ない。着点名詞句がないので、受益者を「に格」で表わすことはできない。

(18)卒論の添削を頼まれたので、太郎は花子のために論文を読んでやった。
     (花子=受益者)
(19)「(夏崎は)上京すると、必ず私の所に寄りまして、読んでくれと大量の原稿     をおいていきます」(『空洞星雲』)
 (20)私は夏崎のために原稿を読んでやった。(夏崎=受益者)

 (19)を「私は夏崎に原稿を読んでやった。」とすると、夏崎に向かって朗読を聞かせていることになってしまう。
 「歌う」も、声の着点が受益者を兼ねていれば、「に格」で、そうでなければ「のために」で受益者を示す。(省略された受益者を明示するときも同様。)

 (21)太郎は花子に子守歌を歌ってやった。(花子=受益者・声の着点)
 (22)太郎はいまは亡き作曲者のために彼の遺作曲を歌ってやった。
     (作曲者=受益者)

 動作の結果、物の授受・移動がないときは「のために」を「に格」に変えて受益者を示すことはできないが、移動がある場合には、受益者を強調して表現したいとき「に格」を「のために」に変えて受益者を示すことができる。このときは「のために名詞句」がふくみとして着点を表わす。(23)は、受益者「彼(晴信)」は「のために」で示されているが授受の後、「城」の着点であることをふくんでいる。

(23)そして晴信という若い武将と一緒に合戦に出掛け、彼のために次々に城をとっ     てやることが、ひどく楽しいことのように思われた。(『風林火山』)(彼=受益者・城の着点)
(24)太郎は花子のために絵本を読んでやった。(花子=受益者・声の着点)

(24)は、朗読、黙読の両方の可能性がある文になるが、この場合は、前後の文脈で判断するしかない。

 元の文の補語が受益者を兼ねる場合もある。動作・行為を向ける相手が、元の文の動作客体と同じ場合、元の補語が受益者を兼ねるため、特別な場合以外、受益者をあらためて示す必要はない。(受益者を特に強調する場合、元の補語に重ねて受益者をあらためて示すことがある。)

「に格」の補語が存在する動詞文
 元の文に「動作の相手」が存在している場合、「動作の相手」が「授受の相手」と同一なら、「に格の相手対象」がそのまま受益者になる。使役文のうち、「に格の相手対象」をとる文も同様である。

 省略された受益者を明示する場合も、元の文の「動作の相手」が受益者のときは「に格」によって表わす。

(25) ほんにおとっつぁまも貧乏人で、その頭巾のほかにゃ、何をひとつおめえに残     してやることもできなんだわけだ。『聴耳頭巾』(おめえ=相手対象・受益者  
(26)でも、あのときのきみは、たしかに何か貴重なものをぼくに与えてくれた。
     (『夜の仮面』)(ぼく=相手対象・受益者)
(27)あたいの会長を(あんたに)紹介してやろうか。(『空洞星雲』)
(28)お医者さんは、とても治らぬというし、それなら好きな雑誌を好きなだけ(お     まえに)読ませてやろうと思ったのが、親の慈悲というものだよ。(『雑誌記者』)
(29)東洋新聞記者の名刺の威力で、係員はすぐに登記の写しを(矢部に)見せてく     れた。(『夜の仮面』)
(30)それを中座して真佐子に会い、(真佐子に)靴を買ってやってからホテルへ。(『彼方へ』)

 受益者が元の文の「に格の相手対象」と同一でなく、別に存在するときは、受益者は「のために」で示される。ただし、「に格の相手対象」も、行為を向けられる結果、恩恵・利益を受けることができる。省略を補うときも同様。

(31)津田から愛されているあなたもまた、津田のためによろずをあたしに打ち明け     てくださるでしょう。(『明暗』)(津田=受益者)(あたし=相手対象)
(32)だが、なにか知っているならば、教えてくれないか」(『夜の仮面』)
     だが、なにか知っているならば、(君の妹さんのために、ぼくに)教えてくれな     いか(君の妹さん=受益者)(ぼく=相手対象)

 受益者と「に格の相手対象」が同一の場合、受益者であることを強調して示したいときは、受益者を「に格」でなく、「のために」で示すことができる。「のために名詞句」はふくみとして「相手」を兼ねて表わす。(35)は、受益者を「のために」で示しているが、受益者(あなた)が「贈る」動作の相手対象でもあることをふくんでいる。

(33) あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ。『明暗』(あなた=相手対象(ふくみ) ・受益者)
(34) 真佐子に靴を買ってやった。(真佐子=相手対象・受益者)
 (35) 真佐子のために靴を買ってやった。(真佐子=相手対象(ふくみ) ・受益者)
 (36) 真佐子のために靴を買った。(真佐子=受益者)

 (34)と(35)は、「買う」という動作が真佐子に向かってなされている。真佐子は靴の着点であり、靴が真佐子に与えられることをふくんでいるが、(36)は、靴が真佐子の手に届いたかどうかは表現していない。文脈の断続の適不適からいうと、「真佐子のために靴を買った。だが、真佐子にやらなかった。」とはいえるが、「真佐子に靴を買ってやった。だが真佐子にやらなかった。」というのは不自然である。

「に格」以外のとき 
 「に格の相手対象」をとる動詞でないときも、「を格の直接対象」「と格の相手対象」「から格の相手対象」などに動作・行為を向けているとき、受益者と動作を向ける相手が同一なら、受益者をあらためて示す必要はない。受益者と対象が異なる場合は、受益者は「のために」で表わす。省略されている受益者を明示するときも、同様である。

(37)矢部さんは心のやさしい方なのね。そういって、わたしを慰めてくださるのね。     (『夜の仮面』)(わたし=直接対象・受益者)
 (38)あのとき、力ずくでもいいから、この人はわたしを奪ってくれればよかったの     だ、と寿美子は思った。(『夜の仮面』)(わたし=直接対象・受益者)
 (39)三尾は、瑛子の父が自分を思い出してくれたのが、嬉しかった。(『空洞星雲』)     (自分=直接対象・受益者)
 (40)勘助は、二年前自分を召し抱えてくれた若い武将が好きだった。(『風林火山』)     (自分=直接対象・受益者)
 (41)何もお前が岡田なんぞからそれを借りてあげるだけの義理はなかろうじゃない     か。(『行人』)(岡田=相手対象・受益者)
 (42)だが、ゆき子だけは、病気と闘いながらも、ここまで、自分と行をともにして     きてくれたのだ。(『浮雲』)(自分=相手対象・受益者)
 (43)太郎は花子と結婚してやった。(花子=相手対象・受益者)
 (44)太郎は花子といっしょに図書館へ行ってやった。(花子=共同者・受益者)
 受益者と対象・相手が同一でないときは、「のために」を用いて受益者を示す。
 (45)母が「早く結婚して親を安心させろ」というので、太郎は母のために花子と結     婚してやった。(母=受益者)(花子=相手対象)

 「に格名詞句」が受益者を兼ねているときは、受益者を「のために名詞句」で示し、ふくみとして、物の着点を表わすことができた。これに対し、「を格」「から格」「と格」など、「に格」以外の格の場合は、「のために名詞句」が、ふくみとして他の意味を表わすことはない。
 「太郎は 花子のために 図書館へ 行ってやった。」という文は、太郎が花子といっしょに行ったことをふくみとして表わさないし、「母のために結婚してやった。」という文は、結婚相手が誰であるか表わしていない。
 「おれは真佐子のために靴を買ってやった。」という文が、受益者格の「のために」によって、靴を受け取る相手をふくみとして表わすことができるのは、物の移動があるからである。「に格の相手対象」がものの移動の着点になっているときに、「のために」を「に格相手対象」をふくんで用いることができる。

受益者が「の格」で表わされるとき
 人の体の部分、心情、所有物、所属物などが補語になっている場合、補語の所有者が受益者と同一のときは、受益者をあらためて示す必要はない。「の格名詞句」が、受益者を表わす。補語の所有者と受益者が異なるときは受益者を「のために」で示す。

(46)寿美子は、すぐには答えず、ハンカチーフを出すと、希代子の汗を拭ってやっ     た。(『夜の仮面』)(希代子=汗の所有者・受益者)
 (47)大友はカチリとライターを鳴らして、矢部のくわえたままのたばこに火をつけ     てくれた。(『夜の仮面』)(矢部=タバコの所有者・受益者)
 (48)太郎は花子の部屋を掃除してやった。(花子=部屋の所有者・受益者)
 (49)母は上京するといつも花子の部屋に泊まるので、太郎は母のために花子の部屋を掃除してやった。(母=受益者)(花子=部屋の所有者)

 物の授受(移動)がある場合、「の格」で示される受益者は、ふくみとして物の着点を表わす。逆に、「に格」で受益者を示したとき、移動する物は授受の後に受益者の所有物になることをふくんでいる。(50)は授受の相手を示す「に格名詞句」がない文だが、「の格所有者」である花子が授受の相手であることをふくんでいる。(51)は服の所有者を示す「の格名詞句」がない文だが、授受の相手である花子が、授受行為の後、服の所有者になることをふくんでいる。

(50)太郎は花子の服を縫ってやった。(花子=授受後の所有者・ 受益者(ふくみ))
 (51)太郎は花子に服を縫ってやった。(花子=相手・受益者・授受後の所有者(ふくみ))

2.2.5 授動詞文のまとめ
 授動詞文の受益者は、次のように示すことができる。

(1)元の文の補語と受益者が同一のときは、受益者をあらためて示す必要はない。元の文の「に格相手対象」「を格直接対象」「と格相手対象」などの補語が受益者を兼ねる。
補語の所有者と受益者が同一のときも同様で「の格所有者」が受益者を表わす。
補語と受益者が同一で無いときは受益者を「のために」で示す。
(2)授受文にしたため、元の文にはなかった受益者を付け加える場合、具体的・抽象的な物の移動(授受)がある場合、物の着点と受益者が同一のときは、受益者を「に格」で示すことができる。物の授受・移動がないときは、受益者を「のために」で示す。動作・行為を向ける相手(授受後の物の着点)と受益者が異なるときは、受益者を「のために」によって示す。
(3)物の移動があるとき、「のために」で受益者をしめし、ふくみとして動作・行為を向ける相手・物の着点を表わすことができる。物の授受・移動がない場合は、できない。


2.3 直接受身文の動作主体
 動作主体Xによる行為・動作は、客体と次のような関係を持つ。
(a)動作主体Xの直接の働きかけが客体Yに及ぶ。
・XはYをV(動詞)  太郎は花子を殴る  太郎は花子を救う
(b)動作主体Xの動作・行為の相手がY。
・XはYにV     太郎は花子に惚れる   太郎は花子に会う
(c)動作主体XとYの共同行為。
・XはYとV     太郎は花子と結婚する  太郎は花子と衝突する

2.3.1 受身文の動作主体のマーカー「ニ」「カラ」「ニヨッテ」
(a)の直接の働きかけの行為内容は、さらに分析すると、(a1)(a2)(a3)に分けられる。動作主体の行為動作の結果生産物が生じる文の場合、生産物を主題、主語にすると、動作主体のマーカーは「ニ」ではなく、「ニヨッテ」となる。動作主体を「カラ」出表す場合もあり、この、「ニ」と「ニヨッテ」「カラ」の使い分けを日本語学習者に示すのが本項の目的である。「ニ格」は、行為の与え手、被作用者にとって、行為の相手を示す。「カラ格」は行為の出どころ、行為の起点を示す。「ニヨッテ」は行為の原因根拠となるものを示す。
(a1)「行為の受け手」「行為の目当て」が受身文の<主語>になる場合
(a2)「行為の目当て」が<主語>になる場合 
(a3)動作主体の行為動作の結果「生産物」が生じる場合

2.3.2 「行為の受け手」「行為の目当て」が受け身文の<主語>になる場合
 (a1)動作主体Xが、客体Yに対して、物理的・心理的に働きかけ、それによってYが直接何らかの影響を受ける。(殺ス、壊ス、割る、捕マエル、助ケル、苦シメルなど)
 Yの役割は「行為の受け手」。Yを主語として受け身文にすると、動作主体は「二格」で示される。 ・Yは Xに Vラレル 

 (1)先生が私を叱った。 
→ ・私は先生に叱られた。(「私」は私にとって既知の存在なので、ガ格は他との対比の場合にのみ用いられる。「(他の人ではなく)私が先生に叱られた」)
  ・私は先生から叱られた。 (親から叱られたのではなく、先生から叱られたのだ、ということを強調したいときは可。一般的には「二格」の方が動作主性を表せる)
  ?私は先生によって叱られた。
 この文では動作主体「先生」に対する被作用主体「私」のほうが、名詞階層1が高い。したがって被作用主体の側から主観的に事象を描くことが自然である。「カラ」を用いることも可能であるが、「ニ格」によって動作主性を表すほうが自然な表現である。

(2)先生が私の作文を誉めた。(持ち主の受け身) 
→ ・私は先生に作文を誉められた
  ・私は先生から作文を誉められた。
  ・?私は先生によって作文を誉められた。

(3)太郎が花子を救った。
→ ・花子が太郎に救われた。 
  *花子が太郎から救われた。 
  ・花子が太郎によって救われた。
 花子と太郎の名詞階層は同等。そのため、カラ格は、行為の起点という意味よりも、花子が何からすくい上げられたのか、という救難の場所を示す。「花子は泥沼から救われた」と同じように、花子が救い出された元の場所を示す場合に「太郎から救われた」と表現できるが、救助行為の起点としては用いることができない。

(4)先生が答案用紙を配った。
→ *答案用紙が先生に配られた。(答案用紙は、先生より名詞階層が低いので、「ニ+先生」は、答案用紙の帰着点が先生であると受け取られる)
  ?答案用紙が先生から配られた(答案用紙が誰のもとに帰着したのか、文脈からわかる場合のみ可)
  ・答案用紙が先生によって配られた

(5)先生が生徒に答案用紙を配った
→ ・答案用紙が先生から生徒に/へ 配られた
  ・生徒は先生から答案用紙を配られた
  ?生徒は先生によって答案用紙を配られた

「行為の目当て」が主語になる場合 
 (a2)動作主体Xが、客体Yに対して、感覚的感情的に働きかける。
 (Xの感情が向かう先がY)愛スル、憎ム、好ム、嫌ウ、尊敬スル、軽蔑スルなど。
 (Xの感覚が出現する先がY)見ル、聞ク 嗅グなど
 Yの役割は、「行為の目当て」。Yを主語として受け身文にすると、
・YはXに Vラレル  

(6)太郎は花子を愛する
→ ・花子は太郎に愛される
  ・花子は太郎から愛される  
  ・花子は太郎によって愛される

(7)太郎は花子の手紙を見る 間接受け身文(持ち主の受け身)にした場合
→ ・花子は太郎に手紙を見られた 
  *花子は太郎から手紙を見られた 
  ?花子は太郎によって手紙を見られた

2.3.3 動作主体の行為動作の結果生産物が生じる文
 (a3)動作主体Xの動作・行為の結果、Yが生じる。 作ル、掘ル、描クなど。
 Yの役割は「生産物」。Yを主語として受け身文にすると、YはXによって Vラレル  
→ (8)料理が花子によって作られる 絵は太郎によって描かれる
 寺村(1981)は(a3)の「新たにモノを作り出す」類の動詞は、その作業の結果何ものかが出現することを表すものであることから、「到達点」を要求する移動の動詞、「変化の結果の状態」を要求する変化の動詞と共通する性質をもっている。」と述べている。生産物の最終的な出現を動作の完結点として要求する。
 日本語受け身文では、動作主体agentを「ニ格」で表す。複合助詞「ニヨッテ」も<動作主>のマーカーとして用いられる。「によって」は、格助詞「ニ」、動詞「因る、拠る(よる)」の連用形+接続助詞「テ」が複合して助詞相当句となったものである。「よる」が実質的な意味を有する動詞として用いられ、体言をうけて、「波による浸食」「女性による犯罪」「運慶による仏像」「アンケートによる調査」などで原因や根拠を表すが、近世以後、「よる」の連用形+「テ」で用いられてきた。(a3)のモノの生産を受け身文で表すとなぜ「ニ」ではなく、「ニヨッテ」が動作主マーカーを表すのか。
 答案用紙は無生物のモノ名詞であるので、ヒトである先生より名詞階層が低い。そのため、答案用紙を被作用主体として主語にするとき、動作主体の意味で「ニ」を先生につけることができない。「先生」に「ニ」をつけると、「二」は名詞階層の高い「先生」を「帰着点」と認定するからである。答案用紙が配布されて、先生の元へ帰着するという意味を優先するため、動作主体を表さず、答案用紙が先生のもとへ移動したことを表す。
(9)先生は私たちに答案用紙を配った。(「ニ格」は、答案用紙の帰着点)。
 この場合、「私たち」を被作用主体とし、「先生」に「ニ」をつけて作用主体(動作主体)を示すことができる。
→ ・私たちは先生に答案用紙を配られた。(「二格」は作用主体)。 
・私たちは先生から答案用紙を配られた。
・私たちは先生によって答案用紙を配られた。
 (a3)作ル、掘ル、架ケル、描クなどの動作主体Xの動作の結果生じたYを<主語>として事象を描くとき、名詞階層の低い生産物が名詞階層の高いヒトを押しのけて、そちらに視点を集めるようにするのであるから、動作主体は背景化されて「答案用紙が配られた」と、動作主体は言及しないでおくか、根拠原因のよってきたるところをしめす「によって」を用いて動作主体を表すか、どちらかになる。「答案用紙が先生によって配られた」。創作品が生じる動詞の作品・出現物を主題するとき、動作主体は「によって」で示すことになる。
(10)ゲルニカはピカソによって描かれた。 *ゲルニカはピカソに描かれた。
生産出現動詞であっても、被作用者がヒトであれば、「ニ格」で作用主体を示すことができる。しかし、有生主語より名詞階層が低い生産物を主語にすると、生産者をニ格で示せない。
(11)犬のポチが私の大切な花壇に大きな穴を掘った。
→ *私の大切な花壇に、大きな穴がポチに掘られた。(動作主体は「ニ格」で表せない)
→ ・私は、ポチに大切な花壇に穴を掘られた。(動作主体は「ニ格」で表せる)
 これに関して、三原健一(1994)は、以下の例文をあげて、次のようにと述べている。

(12)私はそのことで親に叱られた。
(13)答案用紙が配られた。(試験官によって / *試験官に)
  動作主をニで標示することが自然である文では、主体者(通常は有生主語)の側から事象を描くという意味において主観的表現であり、直接的に能動文に対応する客観的な表現である「に」のほうがより視点が近く、身近な表現としてとらえられ、主観的な表現であると言えるのに対して、「によって」は客観的で、能動と受動の関係が対応するというようなときに使用される(295)。

 しかし、「二格動作主」は主観的な表現、「ニヨッテ」は客観的、という説明では、日本語学習者に具体的な使い分けの基準がわからない。
 日本語学習者に対して、教授者は「主語の名詞が、動作主体の名詞よりも名詞階層8が低いとき、動作主体は「によって」で表される」という点をよく理解していることが肝要である。それをふまえて説明をしておけば、日本語学習者が迷うことはない。

第2節においては、再帰性他動詞文、授受動詞文、受け身文などの<主体>がどのように表現されているか、精査した。