にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「猫文学ー枕草子・源氏物語/更級日記 」

2008-10-29 23:03:00 | 日記


竹内栖鳳の猫、アラーキーの猫
2006/11/01 水
竹内栖鳳の猫アラーキーの猫フジタの猫

 文化の日を中心とした秋の大学祭シーズン。10/28~11/05のうち、途中の10/31だけ出講日があります。真ん中がとぎれてしまったので遠出はできませんが、「文化の日」前後のお休みですから、「美術館めぐり」を楽しんでいます。
 
 秋の美術館めぐり第一弾は、山種美術館から。
 第一回目の文化勲章受賞者である竹内栖鳳(1864~1942)。
 重要文化財指定を受けている「班猫」は、猫を描いた絵画の中でも、傑作と思います。山種美術館で公開中。(9/30~11/19)

 「班猫」は、1924(大正13)年の作品
http://www.yamatane-museum.or.jp/collection/04.htm

 山種美樹館の作品解説によると、この絵に描かれた猫の元の持ち主は、沼津の八百屋さん。おかみさんの愛猫に惚れ込んだ栖鳳が、たっての願いで譲り受け、京都の画室で飼うことにした。栖鳳は猫を自由に遊ばせながら観察を続け、この傑作を仕上げました。

 描かれているのは、猫がよくとっているポーズ。背や脇腹をなめようと、よく猫はこのように首を後ろにむけます。
 絵の中の緑色の目を持つ班猫は、きっと画家を見据えている。
 毛筋の一本一本が表情を持っているような、とても見事な描写。猫のもつ孤高性、神秘性、人を引きつけてやまない猫の魅力が画面いっぱいに広がっている。

 山種では、ほかに、栖鳳の弟子にあたる日本画家の作品がいっしょに展示されていました。私は、上村松園の大作『砧』を感銘深く見ました。

 江戸東京博物館で開催中のボストン美術館所蔵浮世絵展を見にいったら、常設展の第二企画室で、「天才アラーキー」こと荒木経惟(あらきのぶよし)の写真展「東京生活」が同時開催されていました。
 アラーキーが生まれ育った下町三ノ輪界隈や、渋谷新宿銀座などでの東京の街や人々。ほんと、アラーキーは天才です。

 そして、アラーキーと故陽子夫人の愛猫の写真。チロを写した一枚も展示されていました。
 アラーキーの愛猫チロの写真の絵はがきを買って、本日の記念品にしました。
 「愛しのチロ」という写真集も売っていましたけれど、ま、絵はがき一枚ってことで。

 2006年4月20日に見た藤田嗣治展。竹橋の近代美術館に「五人の裸婦」とともに常設展示されている「猫」は、毎回見ていてもそれほど好きにならなかったのに、藤田嗣治の作品が一同に並べられた中で、フジタの描いた猫を見ているうち、フジタの猫への愛と執着が伝わってきました。

 フジタは『猫の本』という画文集も出している猫好き。生涯のほとんどを猫とともにすごしました。
フジタの猫 http://www.oida-art.com/buy/detail/1347.html
http://www.oida-art.com/buy/detail/6294.html
フジタの猫の絵がいっぱい
http://www.ne.jp/asahi/gallery/koyama/nihon/fujita/leonardfujita.htm

 猫好きな人にとってもあまり好きではない人にとっても、猫は不思議な魅力をもつ身近な動物です。
 
 「文学の中の猫」、古代文学から現代まで、日本文学のなかに猫はさまざまに描かれてきました。

 日本語言語文化の中の猫。
 源氏物語の猫、枕草子の猫、漱石の吾輩猫、など、文学の中で活躍した猫たちを紹介します

<つづく>
11:54



日本語言語文化の中の猫
2006/10/24
文学の中の猫(1)>日本語言語文化と猫

 日本語言語文化に、猫が登場する最初の本が『日本現報善悪霊異記/日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)』、通称『日本霊異記』です。
 平安中期に成立した『枕草子』や『源氏物語』より前、平安初期に成立した『日本霊異記』

 文武天皇の時代、705(慶雲二)年頃のお話として、豊前の広国という人の父親が、死んでから猫になっって息子の家で飼われるという、説話が書かれています。

 また一条天皇の前の時代、宇多天皇の日記『宇田天皇御記』885(仁和1)年の項に、猫を愛玩したことが書かれています。ペットとしての猫の記録は、これが最初。

 「日本霊異記」の「猫になって息子に飼われた父親」の話のほか、かわいがられすぎた猫や、長く人に飼われていた猫は、年をとると「変化へんげ」する、という民間伝承も多い。
 『更級日記』にも、猫の変身譚があります。

 平安文学の中から、『枕草子』『源氏物語』の猫、『更級日記』の猫を紹介します。



清少納言の猫、紫式部の猫
2006/10/17 火
文学の中の猫(2)清少納言の猫、紫式部の猫

 現代語では猫の鳴声、さまざまありますが、「ニャオ」「ニャーニャー」「ミィーミィ」などが代表的なものでしょうか。

 平安時代のひらがな表記では猫のオノマトペ(擬声語)では「ねうねう」「うねうね」と書かれています。
 当時は拗音の表記がなかったので、現代語の拗音表記にすると「ねうねう」は「にゃうにゃう」になります。

 清少納言は、『枕草子』に中に、一条天皇が猫をたいそうかわいがって「命婦(みょうぶ)のおとど」と名付けていた、というエピソードを書いています。

上にさぶらふ御猫は、かうぶり得て命婦のおとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせたまふが、端に出でて臥したるに、乳母(めのと)の馬(むま)の命婦、「あな、まさなや。入りたまへ」と呼ぶに、日のさし入りたるに、ねぶりてゐたるを、おどすとて、「翁丸(おきなまろ)、いづら。命婦のおとど食へ」と言ふに、まことかとて、しれものは走りかかりたれば、おびえまどひて、御簾(みす)の内に入りぬ、、、、

 「命婦のおとど」と名付けられた猫が、定子中宮の局の軒端に出て寝ていた。
 猫の世話係の馬の命婦という女官が、「あれ、お行儀の悪いこと、中にはいりなさいよ」
と呼び入れたのですが、猫は、夕暮れになっても戻らない。

 馬の命婦は猫を脅してやろうとして、犬のおきなまろに「命婦のおとどに食いついておやり」と言った。
 犬は本気にして走りかかったので、猫はおびえて御簾の中にはいった。
 一条天皇はことの次第を見て激怒し、猫の世話係を罷免してしまいました。

 この清少納言が語る猫「命婦のおとど」。愛らしく一条天皇と定子中宮のまわりに侍っています。
 猫の身でありながら、乳母をつけてもらい、五位の位を得ている。命婦という五位の扱いをされたのは、天皇皇后の御殿にあがるには五位以上の身分でなければならなかったから。

 一条天皇の「猫かわいがり」ぶりは、藤原実資の日記『小右記』にも書かれています。

内裏の御猫、子を生む。女院・左大臣・右大臣の産養ひの事有り。…猫の乳母、馬の命婦なり。時の人これを咲ふ云々。奇怪の事なり。…未だ禽獣に人乳を用うこと聞かざるなり。嗚呼。
 (『小右記』999(長保1)年9月19日条)

 一条天皇の内裏に猫の子が生まれたき、乳母(猫の世話係)をつけたことを知った実資は「物笑いの種だ」と人々がうわさしたことを記し、「ああ」と嘆いています。

 この「内裏の御猫、子を生む」の前年の998(長徳4)年は疫病が横行し、その他地震や洪水による被害も大きかった。宮廷の外では、食べるものもない人々が苦吟していた時代でした。
 同じ一匹の猫を描写していながら、藤原実資の冷めた視線に比べ、清少納言はただひたすらに猫の愛らしさとして語り、定子ありし日の追憶の日々を表現しています。

 「枕草子」の各段のうち、「ものづくし」などは皇后存命中に書かれて、一条帝サロンのなかで評判にもなったと思われます。
 しかし、「定子皇后の姿」が描写される段が書かれたのは、皇后がなくなったあとだと研究されています。

 定子はすでに亡く、一条天皇のサロンはライバル彰子中宮の局(つぼね)になっています。
 紫式部和泉式部赤染衛門らがきら星のごとく居並んで仕えていた彰子の局は、新築成った内裏の「藤壷」です。

 若い女主人彰子中宮をかこんで、華やかな時間がすぎていく藤壺の御殿を遠くあおぎ、清少納言は筆をにぎりしめて、美しく聡明だった定子皇后の追憶にひたっていたことでしょう。

 「あのころは、、、、猫も犬も、みな皇后の膝元にいることの幸福をかみしめていた、、、、猫の命婦のおとども、犬のおきなまろも、皇后に「香炉峰の雪」の機転を褒められ有頂天だった私も、、、、」

<つづく>
00:07 |

2006/10/18 水
女たちの宮廷闘争

 990(正暦1)年に定子は15歳で一条天皇(11歳)に入内(じゅだい)しました。
 11歳と15歳のおひな様のような夫婦です。

 995(長徳1)年、定子の父藤原道隆がなくなった後、宮廷の勢力争いが続きました。翌年、ついに彰子の父藤原道長は、定子の兄藤原伊周(これちか)を失脚させます。
 兄は左遷され、父のあとを追うようにして母も亡くなるという心細い境涯のなか、定子は出家を果たしました。

 しかし、一度出家した定子を還俗させて呼び戻すほど、一条帝は最初に入内した年上の定子を愛し、手放そうとしませんでした。
 一条天皇との仲はむつまじく、ふたりの間には、996年に脩子内親王、999年に敦康親王が生まれました。

 1000(長保2)年。藤原道長は、前年に一条天皇に入内させておいた自分の娘彰子を、女御から中宮に昇格させました。
 そのため定子中宮は、皇后へと身分を変えることになりました。この当時の感覚だと、中宮は実質的な天皇の正妻、皇后の称号は「名誉正妻」のようなものでした。

 一条天皇をめぐって、定子皇后と彰子中宮が両立するという異例の事態。
 皇后と中宮は同格で、つまりひとりの天皇に同時にふたりの皇后が並ぶこととなったのです。

 女御更衣など、皇后と同格でない場合、ひとりの天皇に数多くの妻がいることは、いつの時代にもあったことですが、正妻である后宮(きさいのみや)がふたり、というのは、それまで例のなかったことでした。

 一条天皇には、正式に入内しただけでも6人の妻がいました。
 皇后定子(藤原道隆娘)、中宮彰子(藤原道長娘・定子にとっては父の弟の娘)、女御義子(藤原公季娘・定子にとっては、父の叔父の娘)、女御元子(藤原顕光の娘・定子にとっては父の伯父の娘)、女御尊子(藤原道兼娘・定子にとっては父の弟の娘)。
 
 つまり、定子にとって、従姉妹や又従姉妹など親戚一同の娘たちが競って入内し、寵愛を争っているという環境です。
 天皇の寵愛を得て皇子をなせば、父は外戚として大きな権力をふるえます。娘たちにとって天皇の寵愛を争う宮廷生活は、父親たちの権力闘争そのものでした。

 他の后妃たちが子をなすほど寵愛されなかったのに対し、25歳の定子は三人目の子を身ごもりました。
 1000(長い保3)年、両親はすでに亡く、兄は失脚しています。人々は最大の権力者となった道長の顔色をうかがっています。
 後ろ盾のない定子は、ひっそりと内裏から退出し、出産にそなえました。

 3人目の子は難産でした。内親王を出産した翌日、定子は亡くなりました。
 1000年の暮れ、幼い3人の子供たちを残して、定子は鳥辺野に葬られました。

 定子死去ののち、残された三人の子供の代母として、定子の同母の妹が入内しました。身分は宮人。権力のある後ろ盾がいないので、女御という身分をえることはできなくなっていました。

 定子の妹は、御匣殿(みくしげどの)と呼ばれ、姉の残した皇子たちを世話しました。
 定子を忘れられない一条天皇は、この定子の妹を寵愛するようになりました。御匣殿、懐妊。しかし、1002年、姉を追うかのように、妊娠中に18歳で亡くなってしまいました。

 度重なる悲運。
 清少納言は定子皇后なきあと零落し、逼迫した暮らしをしていたのではないか、という説話が室町時代に書かれています。

 でも、清少納言の目に焼き付いていた猫は、宮廷生活の影などみじんも負っていません。猫の思い出も、一条帝サロンの華やかな豊かなイメージのなかに描かれます。
 猫を間においた定子と天皇が、むつまじく笑いさざめいていたころのこととして、清少納言の描く「命婦のおとど」は御殿の中でのびのびと自由にふるまっています。

 一条帝の「猫かわいがり」に対して、藤原実資は批判的な目で記録していました。
 しかし清少納言が猫を描写する目は実資とは異なります。

 猫をめぐる明るさ、くったくのなさが、過ぎし日への郷愁として、セピア色の向こうに浮かび上がります。

 でも、その明るさも、定子皇后の悲運を知っている読者の目には、御簾(みす)の中が二重露光されているかのように感じられます。
 宮廷の華やかさとその裏のおどろおどろの政争と、定子なき後の清少納言の零落とを、御簾の中に読者は重ねて見つめてしまうからです。

<つづく>
00:33 |

2006/10/19 木
ライバル清少納言と紫式部

 一条帝は、温厚な人柄で、学問を好む方でした。また『本朝文粋』などの詩文を残したくらい文芸にも秀で、音楽に関しては笛が堪能という芸術家肌の天皇でした。

 定子中宮に皇后の称号を与える形で、権力者藤原道長は無理矢理、我が娘彰子を中宮へと押し立てたものの、他にも「女御更衣あまたさぶらひたまいけるなかに」、彰子は天皇の心をとらえることができません。

 999年に12歳で入内した彰子は、1000年にライバル定子皇后が死去したのちも、未だ幼く、一条天皇は、定子の妹へと寵を移してしまいました。

 聡明さと明るさで天皇をひきつけていた定子皇后と同じ寵愛を受けるには、彰子もまた聡明な女性に育ってもらわねばなりません。
 道長は「家庭教師役」である紫式部らの薫陶に、彰子の成長を託しました。

 1002年、定子皇后の妹、御匣殿(みくしげどの)も亡くなって、ようやく一条帝サロンは彰子中宮の局にうつりました。
 紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔など、平安文学を彩った才女才媛たちが、ずらりと彰子を取り囲み、もり立てています。

 1008年、彰子は、道長待望の皇子を生みます。敦成親王(後一条天皇)誕生。
 この当時の経緯は『紫式部日記』に詳しく描写されています。

 『日記』のなかに、紫式部は、ライバル清少納言を冷たい視線で描写しました。
 「あの方、知ったかぶりばかりして、漢文も読めるってことを吹聴しているけれど、枕草子をよく読めば、漢文の知識もたいしたことないってことわかるわ、、、、」

 宮廷が「華やかさと明るさ」だけで出きあがっているのではないことを最初から知りつつ彰子の局に伺候していた式部にとって、清少納言の描く「宮廷の華やかな暮らし」を読むにつけ、みずからの境遇に自戒をこめたのかもしれません。
 宮廷生活を見つめる式部の目は、清少納言ではなく、藤原実資の『小右記』に近いのか、いや、やはり実資とも異なる。

 斉藤緑雨は、樋口一葉の小説を評して「熱い冷笑によって書かれた」と、絶妙な言い方をしましたが、紫式部が宮廷を見つめたとき、「熱い冷笑」または「冷たい熱愛」をもって見ていたような気がします。

 清少納言と紫式部の「宮廷世界への視線のちがい」が、猫の描写にも、あらわれてきます。
 随筆と小説という媒体のちがいもあるでしょうが、清少納言がひたすらに定子皇后を賛美し、追憶の中に描きだしたのに対し、式部の描く宮廷は、「冷たい熱愛」の鋭い視線のみが照らし出す冷静な光を帯びているからです。

 次は『源氏物語』の猫をみましょう。

<つづく>
00:00 |

2006/10/20 金
源氏物語・若菜の猫

 定子皇后を深く愛した一条天皇は、定子の死後は定子の妹、御匣殿(みくしげどの)を寵愛するようになったことを書きました。
 御匣殿は定子の遺児を養育するために入内し、定子の残した敦康親王らを育てていました。子供の顔を見たい一条帝の足は御匣殿のもとへむき、自然と定子のかわりに愛するようになりました。

 彰子中宮のもとに一条天皇が足をむけるようになったのは、御匣殿が1002年に亡くなった後のこと。彰子の父、道長の「作戦」が功を奏したのです。

 母親を亡くし、世話をしてくれた叔母の御匣殿まで早世してしまった子供たち。一条天皇は、遺児らの養育をどうしたらいいか、悩みました。
 一方道長のおもわくは。
 入内して3年になる彰子中宮は、未だ子宝に恵まれません。道長は、「もしものときの代打」を考えつきました。

 定子の生んだ敦康親王は、なんといっても皇后所生の第一皇子、万が一、彰子に子ができなかった場合、敦康親王を彰子の養子とすれば、自分は外戚である。

 裏では定子を押しのける形で彰子を中宮にし、定子の兄伊周を失脚させた道長ですが、表の顔は、あくまでも定子の叔父。
 叔父が姪の子をひきとって育ててやろうというのですから、宮廷人たちも納得せざるをえません。

 また、御匣殿のもとへ一条帝が通ったのは、定子の子供がいたから。だとしたら、敦康親王らをひきとれば、天皇は必ず彰子中宮のもとへやってくるに違いない。

 確かな後見人が子供らに必要だと、一条天皇も考えました。
 こうして定子の遺児は、かってはライバルだった彰子中宮の手元で育てられることになったのです。

 子供らの顔を見るために、一条天皇は彰子の局に通うようになりました。道長の作戦、大成功。
 紫式部らの薫陶をえて、賢く美しい女性に成長した彰子は、ようやく一条帝の心をいとめたのでした。

 しかし、彰子が寵愛され、1008年に皇子敦成親王が誕生したとなると、道長の態度は一変します。代打はもう必要ないのです。
 養子より実の孫。以後、道長は敦成親王を皇太子に冊立するために暗躍します。

 一条帝は、あくまでも定子の生んだ第一親王の敦康親王を自分の皇太子にしたいと望んでいましたが、道長は大反対。ついに敦成親王を皇太子にしました。

 彰子中宮は、従姉妹定子の息子である敦康親王を実子と分け隔てなく大切に育てました。
 しかし、道長の反対にあって皇太子になれなかった敦康親王は、1018年に、20歳でなくなってしまいました。

 敦成親王は、一条天皇の次の三条天皇の代に皇太子に冊立され、三条帝の次の後一条天皇となりました。
 華やかな宮廷の裏では、子供の運命も権力によって翻弄されたのです。

 彰子の子、敦成親王が天皇位につくと、藤原道長の権力はここに極まり、「望月の欠けたることもなし」と、我が身の繁栄を自画自賛することになります。

 紫式部は、宮廷のこのような権力闘争をじっと見つめていました。
 紫式部の描き出した『源氏物語』の宮廷は、光とかげとが入れ違い、表と裏が反転する。権謀詐術があり裏切りがある。零落があり、落魄からの逆転劇がある。

 『源氏物語』「若菜の巻」では、事件のきっかけを猫が呼び込みます。
 主人公光源氏の正妻である女三宮と柏木との許されぬ恋の始まりに、猫が大きく関わるのです。
 愛らしい子猫が、晩年の光源氏に苦悩を与える原因ともなった、若菜の巻。

<つづく>
00:02 |

2006/10/21 土
皇女降嫁

 主人公光源氏は、数々の女性遍歴を経て、最愛の紫の上との生活に落ち着いたかにみえました。
 しかし、異母兄朱雀院のたっての願いを受け、朱雀院の愛娘、女三宮を正妻として迎え入れることになりました。

 女三宮は、父である朱雀院の愛情を一身に集めていましたが、後見者がいません。
 宮廷で女性が暮らすには、有力者が後見人となって、何くれとなく面倒をみてくれることが必須です。後見にあたるのは、多くの場合、母親の実家です。

 朱雀院は、このことを身をもって知っています。
 朱雀院の母、弘徽殿大后は、実家右大臣家の権勢を背景にもっていた。だからこそ、自分は皇太子になれた。

 しかし、自分より人物がはるかにすぐれていたにも関わらず、異母弟光源氏は、母親の桐壺更衣の実家に力がなかった。父帝の配慮で、光源氏は臣籍降下し、皇子から臣下の身分になった。

 朱雀院は「病身の自分が出家してしまったら、だれがこの身よりのない娘の世話をしてくれるのか」という不安にかられ、年来の念願である出家をはたせないでいます。
 女三宮の母親(先帝皇女、藤壺の異母妹)は亡くなっており、母親の父である先帝もとうに崩御しています。

 皇女ですから、低い身分のものと結婚させるわけにはいきません。朱雀院が悩みぬいたすえ「娘を託すに足る人物」と思ったのは、異母弟の光源氏でした。

 若い頃の朱雀院は、父桐壺帝の信頼を一身に集める光源氏がねたましく、うとましく感じたこともありました。
年をとり世の中のことを知った今では、これほどの人物は世にいない、とわかり、だれよりも信頼できる人物と思っています。

 現実の宮廷でも、定子皇后が、両親を早く失い兄も失脚するという悲運にあって、後ろ盾がいない不安定な宮廷生活のなかで早世したことを、平安朝の読者たちは知っていました。

 朱雀院が、女三宮の結婚相手として25歳も年上の光源氏を選んだことを、「父としての親心」と、読者たちは感じたことでしょう。
 光源氏40歳、女三宮14歳。

 年の差がある結婚の例はあります。現に紫式部は、父親と同年輩の夫と結婚したのですから。
 しかし、光源氏と女三宮の結婚は、単に年が離れているという以上に、さまざまな問題点をはらんでいました。

 亡くなった女三宮の母親。この母の異母姉は、光源氏が密かに愛しつづけた義母、藤壺です。つまり女三宮は藤壺の姪。

 光源氏がこの若すぎる皇女との結婚を承諾したのは、異母兄朱雀院の頼みを断り切れなかった、という理由のほかに、藤壺の面影を求めてのことでした。
 藤壺は、幼い光源氏を残したまま早世した母、桐壺更衣にそっくりな女人。母への思慕が、義母への恋心となり、若き日の光源氏は、藤壺への思いを断ち切れずに苦悩しました。

 女三宮との結婚は、光源氏の晩年にかげりを生じさせます。

<つづく>
00:01 |

2006/10/22 日
唐猫子猫

 青年期に苦労した分、壮年期からは栄華の絶頂に上った光源氏でしたが、紫式部の筆は、「こうして光源氏は、紫の上の愛情と栄華につつまれて、しあわせに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」にはしませんでした。

 光源氏に長年つれそった紫の上は、皇女の降嫁に苦悩します。
 世の人からは「光源氏に長年愛されて、妻たちのなかでもっとも信頼されている重い立場の人」とみなされている紫の上。
 しかし、正妻として迎えられた皇女の前では、身分の差を思い知らされました。

 紫の上は、父兵部卿宮の正妻の子ではありませんでした。紫の上の母は、正妻にうとまれ早死にしてしまい、祖母によって育てられました。

 (『源氏物語』『紫の物語』とこの物語を呼んで愛読した読者たちは、この少女を「若紫」と呼び、結婚後は「紫の上」と呼びました。
 物語の登場人物の名「夕霧」「夕顔」「末摘花」「朧月夜」などは、読者たちが文中の和歌などからあだ名としてつけたものであり、紫式部の命名ではありません。)

 育ての祖母までが亡くなり、幼くして光源氏にひきとられた若紫は、光源氏を父とも思って成長しました。

 最初の正妻葵の上が一子夕霧を生んで亡くなり、四十九日法要がすんだあとのある夜、突然「養父」であったはずの光源氏は、少女若紫を「妻のひとり」にしました。

 正妻葵の上が病死したあとも、あまたの女性が光源氏のまわりに存在していました。
 その中で、光源氏がだれよりも心奪われている女性は、父桐壺帝の妻、藤壺。
 紫の上の父は、藤壺の兄です。

 光源氏が自分を引き取ったのは、自分が藤壺の姪であったから、ということを、成長したのちの紫の上はわかってきました。
 しかも、女三宮も藤壺の姪。女三宮の母親は、藤壺の異母妹です。

 親の許しを得た正式な結婚ではなくとも、光源氏の愛情は確かなものと信じて長年、夫につくしてきました。
 昔、明石にわび住まいしていた光源氏が、現地妻「明石の上」を得て、娘「明石姫君」が生まれたときも、子をもてなかった紫の上は黙って耐え、その娘をひきとって大切に養育しました。

 その娘が成長し、東宮(皇太子)に入内しました。やっと子の成長を見届け、光源氏とのおだやかな二人の生活がはじまると思っていたら、突然「正妻」が降嫁してきたのです。

 光源氏は女三宮を丁重に遇し、礼をつくしました。が、すぐに幼いだけの女三宮に失望し、結婚したことを後悔しました。
 紫の上を妻にしたとき、さすが藤壺の姪だ、と思えるほど美しく賢い女性に育っていたものでした。しかし、当時の紫の上と同じ年頃であり同じ藤壺の姪なのに、女三宮は光源氏にとって物足りないと感じられる人でした。

 光源氏が女三宮を形式的にだけ大切に扱っていることは、しだいに周囲の人々にも察知されるところとなりました。
 女三宮との結婚を願っていた柏木(光源氏の最初の正妻である葵の上の兄の子)は、残念な思いをうち消すことができません。

 ある日、源氏の六条邸で蹴鞠が催されます。
 柏木は、女三宮の暮らしている部屋の近くで行われることに心躍らせながら、まりを蹴りあげました。
 御簾の奥は外からは見えないけれど、あの中に女三宮がおわすのだ、と思うと、柏木の胸はまり以上に高くはずみました。

 女三宮は御簾を垂らした家の中から蹴鞠を見物していました。
 かたわらには、唐猫が遊んでいます。小さくてかわいらしい子猫と、それより大きい中国渡来の猫です。

<つづく>
00:16 |

2006/10/23 月
子猫の紐

 御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人気近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひ続きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人びとおびえ騒ぎて、そよそよと身じろきさまよふけはひども、衣の音なひ、耳かしかましき心地す 
 
 猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付きたりけるを、物にひきかけまつはれにけるを、逃げむとひこしろふほどに、御簾の側いとあらはに引き開けられたるを、とみにひき直す人もなし。この柱のもとにありつる人びとも、心あわたたしげにて、もの懼ぢしたるけはひどもなり

 大きな唐猫が子猫を追いかけています。猫のおいかけっこに、部屋にいた人々は騒ぎだしました。猫の動きにつれ人々が体を動かすたびに、衣づれの音がサワサワと聞こえます。

 子猫はまだ人になれていないので、逃げ出さないように長い紐でゆわえてありました。子猫が走り回ると、紐の先が御簾(みす=スダレ)にひっかかりました。御簾は紐を引くことによって巻き上げ巻下げを行うようにしつらえてあります。

 子猫が逃げ回ると、たちまち御簾が巻き上げられてしまいました。
 御簾近くにいた女三宮の姿は、庭でまりを蹴上げていた貴公子たちから丸見え。
 貴族の女性が自分の姿を父や夫以外の男性の目にさらすなど、あってはならないことでした。

 おもいがけず、見つめることができた女三宮の姿。宮への思いを消せないでいた柏木は、その姿をみて、恋いこがれるようになりました。

 柏木はこのときの子猫をもらい受け、飼うことにしました。しかし、猫をかわいがるにつけ思いはつのるばかり。ついに女三宮の寝所に忍び込み、、、、。
 女三宮は不倫の子、薫を生みます。

 御簾に巻き付いた子猫の紐のように、人の世の運命の紐も、もつれ絡まり、手足にからみつき、、、、。

 世知にうとい女三宮は、柏木から届けられた手紙を隠しておくこともせず、無防備なままでした。光源氏は部屋にあった手紙を読み、すべてを知ってしまいます。

 かって、若い光源氏は、父帝の妻である藤壷と道ならぬ恋におぼれ、秘密の子をなした。父桐壺帝は、藤壺の生んだ皇子を自分の子と信じて大切にしました。
 その報いが、光源氏自身にめぐってきたのです。

 光源氏は、あくまでも皇女が生んだ我が息子として薫を育てようと決意しました。出生の秘密を守り通すことにしたのです。

 柏木は、光源氏の咎めの視線に耐えられずに病気になり、ついに亡くなりました。
 自分なきあとの後事は、いとこであり親友の夕霧(光源氏の息子)にすべてを託して、、、、

 女三宮は、父の朱雀院に懇願し、出家を果たします。
 これまで人形のように運命に操られるままになっていた女三宮が、生まれてはじめて自分の人生を自分で考え、一人で決定したのが、「出家」でした。

 皇女降嫁以来、紫の上も、心のうちでは、出家したいという願いを強めていきました。
 表向きは、世間知らずの女三宮に細やかな心遣いをし、なにくれとなく世話を続けました。その配慮に光源氏も感嘆していたくらいです。

 しかし、心のなかで、しだいに光源氏にたよるしか生きる方法がなかった自分の人生を観照する時間が大きくなってきていました。

 平安の世で、女性が男の庇護を受けることなく、精神的に自立した生き方をしたいと思ったら、出家して尼になる以外の方法はありませんでした。

<つづく>
08:08 |

2006/10/24 火
運命に絡まる猫

 幼いころから光源氏と共に生きることこそが自分の人生だと疑いもせずに生きてきた紫の上。紫の上にとって、光源氏との結婚生活が人生のすべてでした。

 しかし、その人生とは、自分にとっていったい何だったのか。夫の庇護のもと男の陰で生きるしかない女の人生を観照した紫の上は、人生のはかなさを思い、心のうちは沈むばかりでした。

 紫の上は病いがちとなり、出家を望みました。しかし、正妻女三宮の出家を認めた光源氏なのに、最愛の人紫の上には出家を許そうとしません。紫の上は、望みがかなわぬまま病が重くなり、亡くなりました。

 一匹の子猫をめぐり、運命の紐が絡まり合った末、栄華を極めたはずの光源氏の晩年は、人生の悲哀と寂寥の色を帯びます。
 皇女との結婚によって紫の上に苦しみを与えた事への後悔と、最愛の人に先立たれた悲しみのなかに沈み、光源氏は物語のなかから退場します。

 『源氏物語』後半宇治十帖の主人公は、女三宮と柏木の間に生まれ光源氏の子として成長した薫です。
 「運命の小猫」が生み出したともいえる主人公の物語は、前半の主人公光源氏とは異なって、最初から苦悩と悲哀を帯びています。

 『枕草子』の猫「命婦のおとど」のくったくのなさに比べると、若菜の猫は、次世代までつづく宮廷の負の影のあいだを縫うかのように、人々の運命にからまりました。

 紫式部は、彰子中宮のかたわらにあって宮廷の生活をじっとみつめ、その光と影をすべて冷静に観察していました。
 華やかさのなかにおぼれず、明るい光のなかに己の身をさらさぬ用心をしながら、宮廷の猫にも、じっと静かな視線をむけていたでしょう。

 紫式部の猫は、宮廷の光と影を反転させながら、御簾のうちそとをかけぬけます。

 人々のあいだで、猫をペットとして愛玩することが流行りだして以来、猫は、「物語化」しやすい存在として身近な動物でした。

<つづく>
00:01 |


更級日記の猫
2006/10/25 水
文学の中の猫(3)『更級日記』の「秘密の猫」

 菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)は、1008年に生まれました。ちょうど、紫式部が宮仕えの日々を『紫式部日記』に書き、彰子中宮に皇子が生まれたことを記録していたころのことです。
 孝標女は、平安時代の女性が皆そうであったように、名前が伝わっていません。父親の名前から「菅原孝標女」と呼ばれてきました。

 清少納言は「清原氏の出身で、親族に少納言の身分の者がいる」という女官名で呼ばれていますが、本名はわかりません。両親家族と夫以外に本名を知る人はいませんでした。

 紫式部も本名はわかりません。「藤原氏の出身で、親族に式部の身分の者がいる」という女官名「藤式部」と呼ばれ、「藤壺にゆかりの紫の上をヒロインとする物語を書いた人=紫式部」という呼び名を得ました。

 菅原孝標は菅原道真の子孫。菅原家は代々、「学問の家」でありましたが、孝標女の母親の系統は「文学」に関わりが深い。孝標女の母親は藤原倫寧の娘で、母親の姉は、『蜻蛉日記』の作者である「藤原道綱の母」です。道綱は、藤原道長の異母兄。

 伯母の「道綱の母」が自分の一生を自伝『蜻蛉日記』に書き残したように、孝標女は自伝『更級日記』を書きました。

 『源氏物語』は、孝標女にとって、「あこがれの本」でした。
 読みたい読みたいと願っていた『源氏物語』を伯母のひとりから譲られた夜は、二日も寝ないで読みふけったこともありました。
 そんな「物語に熱中する少女」だったある日、猫にであいました。
  
 『更級日記』には、主人公と姉が、突然あらわれた猫を「亡くなった大納言の姫君」の生まれ変わりと信じて、大切に育てる話が書かれています。

 「大納言の姫君猫」の段の冒頭を引用します。

花の咲き散るをりごとに、「乳母なくなりしをりぞかし」とのみあはれなるに、同じをりなくなり給ひし侍従の大納言の御女の手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月ばかり、夜ふくるまで、物語を読みておきゐたれば、来つらむかたも見えぬに、猫のいとなごう鳴いたるを、おどろきて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。

 「いづくより来つる猫ぞ」と見るに、姉なる人、「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」とあるに、いみじう人なれつつ、かたはらにうち臥したり。「たづぬる人やある」とこれを隠して飼ふに、すべて下衆のあたりにもよらず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかざまに顔をむけて食はず。

(冒頭の部分、春庭の現代語訳)
 桜の花が咲き散っていくころが、また、めぐってきました。
 花が咲き散るおりごとに、「ああ、私たちのばあやが亡くなったのは、この時期でしたねえ」と、しみじみ思い出されます。

 ちょうど同じ頃にお亡くなりになった姫君、侍従職をしていた大納言様の娘御がお書きになったという筆跡をながめて、なんということもないまま物思いにしずんでいました。

 花も散りきった五月(陽暦では6月頃)のこと、夜ふけまで物語に読みふけって起きていました。
 どこから入り込んだのか、気づきもしなかったのに、猫が、とても長く鳴いている声がきこえました。おどろいて声の方をみると、とてもかわいくて心ひかれる猫がいたのです。

  「どこから来た猫なんでしょう」と思って見ていると、姉は「静かにして!他の人には知られないように。とってもかわいい猫ね、飼いましょうよ」と、言います。

 猫はたいへん人に慣れていて、そばに来て寝ころびました。「この猫を探している人もいるんじゃないかしら」と思い、隠して飼っていると、この猫は下働きの人のところには近寄りもせず、私たちのもとにだけいます。食べ物もきたなげなものは顔をそむけて食べようともしないのです。』
 
<つづく>
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2006/10/26 木
更級日記「大納言の姫君猫」

 更級日記、「大納言姫君の猫」の残り部分を、長いですが全文引用します。

 姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉のなやむことあるに、物さわがしくて、この猫を、北面にのみあらせて呼ばねば、かしがましく、鳴きののしれども、さきなほ、さるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて、「いづら、猫は。こちゐて来」とあるを、「など」と問へば、
「夢に、この猫の、かたはらに来て、『おのれは侍従の大納言殿の御女の、かくなりたるなりさるべき縁のいささかありて、この中の君の、すずろにあはれと思ひいで給へば、ただしばしここにあるを、このごろ、下衆のなかにありて、いみじうわびしきこと』といひて、いみじう鳴くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語り給ふを聞くに、いみじくあはれなり

 その後は、この猫を北面にもいださず、思ひかしづく。ただ一人ゐたるところに、この猫がむかひゐたれば、かいなでつつ、「侍従の大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせ奉らばや」といひかくれば、顔をうちまつりつつ、なごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞きしり顔にあはれなり。

(春庭現代語訳)
 姉と妹の私の間にいつもまとわりついている猫を、おもしろがりかわいがっていました。
 そんなおり、姉の体調が悪くなったことがありました。気ぜわしいので、この猫を北側の部屋において、姉と私の部屋には入れないようにしていたら、猫は騒ぎだし泣きまわりました。

 それでも、あら、また猫が騒いでいること、と思っていたら、わずらっている姉が驚いて「どこなの、猫は。こちらに連れてきて」と言いました。

 「どうしたの」とたずねると、
「夢の中で、わたしのかたわらに猫が来て、こう言うのです。
 「私は侍従の大納言殿の娘です。今はこのような姿になっております。
 こうなるべき縁が少しあったのでしょう。この家のお嬢さんたちが私の書いた筆跡を見て、私を思いだしてくださるので、ただしばらくの間と思ってここにおりますのに、このごろ下働きの人の間にばかりおかれて、とても侘びしいことです」

 と言って、ひどくないているようすは、上品でおもむきがある人に見えて、たいそう驚きました。
 姫君は、この猫の声でないていたんですよ。とても哀れ深い思いがしました。」

 それからというものは、この猫を北側の部屋になど出さないで、大納言の姫様と思って大切にしました。
 ただひとりきりでいたときなど、猫に向いあって「侍従の大納言の姫君でいらっしゃいますのね。大納言殿にお知らせ申しあげたいこと」と言いかけると、私の顔をじっと見つめて、長く長く鳴くのです。

 気のせいか、そういう目で見るからなのか、普通の猫とは思えず、私の言うことをみんなわかっているかのような顔をしているのが、いじらしくおもむき深く感じられました。
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 『源氏物語』を夢中になって読みふけっていた少女とその姉。
 春になると、花が咲くのをみても散るのをみても、自分たちをかわいがってくれた今は亡き乳母をなつかしく思い出します。また、乳母と同じ頃なくなった「大納言の姫君」に書いてもらったお習字の手本をくりかえしながめていました。

 どこからか迷い込んできた猫。とてもきれいな猫で上品なようすをしています。
 姉と「ふたりだけの秘密」と約束して、隠して飼うことにしました。病身の姉は、外出ることもなく、そっと猫をなでています。

 あるとき、猫が姉の夢のなかにあらわれました。
 夢のなかで、猫は「今はこのような姿になっていますが、わたくしは、大納言の娘です」と、言ったのです。
 夢のなかで身の上を語る姫君の声は、猫の声に重なっていました。

 少女たちは、あたりにだれもいないとき、猫をなでながら「おまえは、大納言の姫君なんでしょう、大納言殿にお知らせしましょうか」と言葉をかけます。猫はじっと少女の顔をみつめて、長く鳴きました。
 「やはり、そこらへんにいる普通の猫とはぜんぜんちがう猫みたい」と少女は思うのです。

 「猫の変身譚」が一般に知られていたからこそ、更級の少女も「きっとお姫様の生まれ変わりよ」と、信じたのでしょうね。

 「更級の少女と猫」は、大島弓子『綿の国星』の猫に至るまで続く「少女と猫」の物語や「猫耳少女」の原点に思えます。

 綿の国星のチビは、猫が成長すれば人間になれると信じています。チビの視線で人をみれば、元は大納言の姫君だった猫もいれば、やがては人の姿となる猫もいることでしょう。

 猫は少女にとって、自分自身の姿を反映したものであり、少女の夢と秘密を体現したものであり、だれにも知られてはならない秘密やウソを共有する、そんな存在です。

<つづく>